邪馬壹(やまと)国は阿波から始まる : やまと研究会: 2019
https://note.com/qunqun0419/n/ne1808f0f9fb3
巨済島(旧名沙都島)=佐渡島?
https://freeassociations2020.blogspot.com/2023/05/blog-post_91.html
俀国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在り。山島に依りて居す。魏の時、中国に訳通するは三十余国。みな王を自称す。夷人は里数を知らず。ただ日を以って計る。その国境は東西五月行、南北三月行で、それぞれ海に至る。地勢は東高く、西は下。邪靡堆に都する。すなわち、魏志いうところの邪馬臺なる者なり。古くは云う、楽浪郡境及び帯方郡を去ること、並びて一万二千里。会稽の東に在りて、儋耳と相近しと。
「倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。山の多い島に居住している。魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。夷人(倭人)は里数を知らない。ただ日を以って計算している。その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。地勢は東が高く西が低い。邪靡堆(ヤビタイ)を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)である。古には、楽浪郡境(後漢書、この頃帯方郡は存在しない)及び帯方郡(魏志)から一万二千里離れていて、會稽(郡)の東にあり、儋耳に近いと言われていた。」
【契丹古伝】古代日本について書かれた満州の古文書【ヤマト記】
https://freeassociations2020.blogspot.com/2022/08/blog-post_88.html
邪馬壹(やまと)国は阿波から始まる : やまと研究会: 2019
九州王朝説の根拠となったのは阿蘇云々の記述がある以下の隋書倭国伝だが、これは7世紀はじめに九州全体が勢力圏に入ったことを示しているとも考えられる。
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/ryosho/ryosyo_wa.htm
http://nam-students.blogspot.jp/2014/11/blog-post_20.html
同書は、徳島県には神話の女神イザナミの名前を取った伊射奈美神社が美馬市にあるほか、天皇陛下がご即位後に初めて行う大嘗祭にあらたえを献上するなど、古くから朝廷にゆかりがある土地であるとして、まず、古事記が阿波国の別名としてオオゲツヒメと記していることに注目する。オオゲツヒメは農作物を産んだ女神の名でもある。そこからその昔の阿波国が穀霊の国であったということから論を進めていく。阿波国こそ記紀神話の高天原に他ならないと云う。更に、三国志の現存刊本にある「邪馬壹国」は「邪馬臺国」の誤写ではないという立場をとって邪馬壱国とする。
倭の女王・卑弥呼は記紀神話の天照大神と同一人物であり、その宮の跡は名西郡神山町神領の標高700mの山頂にある高根城址であり、ここが邪馬台国の中心地と主張した。今は悲願寺という寺になり、境内には古代中国の文字が刻まれた常夜塔が立っている。
御陵は名方郡国府町矢野の矢野神山山頂、天石門別八倉比売(やくらひめ)神社の奥の院にある石積み正五角形(高さ50cmほど、1辺が約2.5m)の祭壇だと云う。他の土地ではちょっと見られない形をしている。また、記紀神話の出雲とは、阿波国南部の勝浦川・那珂川方面であり、三国志倭人伝の狗奴国にあたるという。この「卑弥呼=天照大神の宮都・陵墓、出雲=狗奴国の所在に関する比定」は、山中、岩利、大杉各氏に引き継がれることになる。
「邪馬壱国は阿波だった」のユニークなところは、邪馬壱国の統治システムとして次のように述べている。
「卑弥呼が、瀬戸内海一帯にはりめぐらした山上の物見や通信台からの情報で、明日の天気を予見を予見すると、それは太陽光の銅鏡反射を利用し、ピカピカピカッという信号で中継通信基地、焼山寺山がうけ、それを四方に信号でおくるという一種の光通信が行われていたという主張がある(焼山寺山は標高930m、阿波の他の山々からの見晴らしがよい地点にある)。魏からもたらされた銅鏡百枚はこの反射信号に使われただけでなく、舟と陸上との連絡、舟と舟との連絡にも用いられた実用品だった。また、銅鏡ばかりでなく、自然の鏡石を利用した古代の灯台もあった」。 |
それが単なる空想でない証拠として、同書は阿波の中津峰山麓の古老の「むかしは、中津峰山で火がピカピカピカッと出たら、あくる日は雨になるといいますわ。そういや、このごろはでまへんな。昔は出よったといいますわ」という言葉を挙げ、「太古のことを、ついこの間のように語り伝えてきたものなのでしょう。(中略)古代をついこの間のように語りつたえる古老たち。その陰にどのような邪馬壱国の非運があったのでしょうか。抹殺と無視にたえて約二〇回の百年の節をこえてきた庶民の豊かな表情とゆとりに、いったい何があるのでしょか」と感極まった口調で説明している。
「邪馬壱国は阿波だった」では、阿波が高天原だったことがなぜ忘れられたのか、その理由を明記していない。ただ、明治の漢学者・岡本監輔が阿波麻植郡舞中島出身であるにも関わらず、「千葉県平民」を称していたことに「歴史のゆがみを思わざるをえない」
【俳優・フランキー堺の注目】 |
俳優の故フランキー堺はこの「邪馬壱国は阿波だった」[1976年、新人物往来社]を読んで驚き、日本テレビのプロデューサー・山中康男氏との共同で、「いま解きあかす古代史の謎!ついに発見!! 幻の国・皇祖の地高天原」(出演・フランキー堺)を製作した。1977年、山中氏が、その時の取材調査成果を「高天原は阿波だった」(講談社)という書籍にまとめた。 |
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https://www.amazon.co.jp/dp/4860380266/
大杉博氏の著作を先に読むべきだろう。そこから伊予二国の比定、出雲=伊津面、戸の解釈など改訂されている。
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史書の記述や史跡・遺跡と驚くほど整合
Reviewed in Japan on May 19, 2020
今まで邪馬台国九州説を信じていましたが、この本を読んで阿波説に転向しました。そもそも邪馬台(やまたい)国は誤りで邪馬壹(やまと)国が正しいのですね。魏志倭人伝の詳細な地理・風俗についての記述と、無理なこじつけなしに完全に一致しているし、古事記の神話や現存する神社・遺跡群とも驚くほど整合しています。出雲は島根県でなく吉野川下流の伊津面であるというのも、神武天皇が九州の日向でなく阿波の東岸から畿内に進出したという説も自然です。また令和の大嘗祭でも徳島県山中(高天原)の三木家から式服(?)が調達されている事実には驚きました。九州説や畿内説は史書の解釈に曲解・無視が多すぎます。こんなに重要かつ明快な説があるのに、専門の学界や文科省が無視しているのが不可解です。いわゆるセンメルヴェイス現象でしょうか。日本の古代史は「やまと朝廷は阿波発祥」説を尊重して書き換えられるべきであり、この本を読んで本当に良かったと思います。
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これが真実、だと思う
Reviewed in Japan on August 26, 2021
調査途中ではあるが、これ以上辻褄や事実関係との整合性が合致する説はないだろう、これが真実だと思う本である。論理に飛躍や、説明や文章、文字には目をつぶるなどの細かな指摘事項はあるものの本旨の邪馬台国は、古事記の舞台は徳島という本旨に賛同する気持ちは揺るがない。また地名や神社など実は目の前に答えがあるのに知れに気がついていないことに気付かされる。深く読めば古事記が実は政治や経営に関係していることもわかる。わかる人なら、古の方々の話がすとんと落ちることで不思議にも自分が日本人であることを実感するのではないだろうか。ただ注目を集めたいマスコミのコンテンツや嘘と分かって楽しむドラマや漫画に比べて、ただの空想と思っていたことが実は事実であったという驚きと楽しみ。マイノリティの勝利、権威よりも誠実さへの信頼など、真実を知る何とも言えないスッキリ感を疑わしいコロナ禍の今、自宅で味わって、本来の自分を確認するのははいかがだろうか。
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邪馬壹(やまと)国は阿波から始まる : やまと研究会: 2019
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2020.1.20-本当の邪馬台国 総集編34分 邪馬台国四国山上説解説
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國
次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國
次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國
次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
「女王国より以北は、その戸数、道里の略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次都支国有り。次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。次に邪馬国有り。次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。次に奴国有り。ここは女王の境界尽きる所なり。」
「女王国より以北は、その戸数や距離をおおよそ記載出来るが、その他の国は遠くて情報もなく、詳しく知ることは出来ない。次にシバ国が有る。次にシハクシ国が有る。次にイヤ国が有る。次にトシ国が有る。次にミドゥ国が有る。次にカウコト国が有る。次にフウコ国が有る。次にシャドゥ国が有る。次にタイソ国が有る。次にソドゥ国が有る。次にコイフ国が有る。次にカドゥソドゥ国が有る。次にキ国が有る。次にヰゴ国が有る。次にキドゥ国が有る。次にヤバ国が有る。次にキュウシン国が有る。次にハリ国が有る。次にシユイ国が有る。次にヲドゥ国が有る。次にドゥ国が有る。ここは女王の境界の尽きる所である。」
翰苑の解読と分析
「魏志曰く、倭人は帯方東南にある。倭地を参問すれば、孤立して海中の島々の山(魏志は上)にあり、あるいは離れ、あるいは連なり、巡り巡って五千余里ほどである。四面はともに海に極まる。営州より東南、新羅を経てその国に至る。」
翰苑
翰苑(かんえん)とは、唐の時代に張楚金によって書かれた類書。後に雍公叡が注を付けた。現在は日本の太宰府天満宮に第30巻及び叙文のみが残る。
概要
660年以前に対句練習用の幼学書として書かれたとされている。注にはその出典が細かく載せられている。現存の第30巻は蕃夷部であり、匈奴・烏桓・鮮卑・倭国・西域などの15の子目に分けられている。ほとんどが失われてしまったために巻数については諸説あり、『旧唐書』張道源(著者の祖先)伝には30巻、『新唐書』芸文志には7巻と20巻の2説が併記され、『宋史』芸文志には11巻とされているが、内藤湖南によって30巻であることが明らかにされた。
日本では『日本国見在書目録』に30巻とし、また滋野貞主『秘府略』(9世紀)、『香薬抄』(平安末期)などに『翰苑』からの引用が見える。その後は失われていたが、1917年の太宰府天満宮宝物調査の際に黒板勝美によって再発見された[1]。
太宰府天満宮所蔵写本は、内藤湖南の解説をつけて1922年に京都大学から影印出版された[2]。1954年に国宝に指定された。1977年に、菅原道真の1075年忌事業として、竹内理三による釈文・訓読文が付けられて刊行された。
現存の写本は誤字や脱文が非常に多く読みにくいものだが、現存しない文献を多数引用し、また現存する文献であっても本文が異なっていることが多いために貴重である。日本関係では特に魚豢『魏略』を多く引くことで知られる。
構成
刊本
白鳳地震
- [16]。
天武天皇十三年冬十月
壬辰。逮于人定、大地震。挙国男女叺唱、不知東西。則山崩河涌。諸国郡官舍及百姓倉屋。寺塔。神社。破壌之類、不可勝数。由是人民及六畜多死傷之。時伊予湯泉没而不出。土左国田苑五十余万頃。没為海。古老曰。若是地動未曾有也。是夕。有鳴声。如鼓聞于東方。有人曰。伊豆嶋西北二面。自然増益三百余丈。更為一嶋。則如鼓音者。神造是嶋響也。
エッ! 邪馬台国は四国にあった?(その5) | 株式会社ハレックス
さらに、白鳳大地震が起きたのが西暦684年で、持統天皇が藤原京の造営を始めたとされるのが西暦690年、藤原京に遷都したのが西暦694年、さらに、平城京に遷都されたのが西暦710年。もうここまで来ると疑いようがないですね。
https://www.halex.co.jp/blog/ochi/20170906-12625.html
エッ! 邪馬台国は四国にあった?(その5)
これまでは、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国までの行程から、理系のアプローチにより、邪馬台国が四国にあったのではないか…とする私の大胆すぎるくらいに大胆な仮説をご紹介しました。今回は引き続き「魏志倭人伝」に書かれた行程以外の文章から、邪馬台国が四国にあったとするさらに決定的な証拠をご紹介します。最初にお断りしておきますが、以下はあくまでも私の立てた大胆な仮説に過ぎません。
魏志倭人伝の第2章「倭國の風俗」にあたる部分の一番最後に、次のような文章があります。
【現代訳5】
女王の国の東には、海を渡って1,000里ばかりいくとまた国がある。これも皆、倭と同一の種族である。また侏儒国がその南にあり、人々の身長は3、4尺である。女王の国から4,000里ばかり離れたところである。また裸国・黒歯国があり、船で1年行くと到着できる。倭の地を詳細にみると、大海の中の離れた島の中にあり、離れたり連なったりしている。一周まわると5,000里くらいである。
まず、一番最後の「倭の地を詳細にみると、大海の中の離れた島の中にあり、離れたり連なったりしている。一周まわると5,000里(約400km~500km)くらいである」。これって、倭国が四国ってことを意味していると読み取れませんか? 北部九州や畿内(近畿地方)ではそもそもこの表現はあてはまりません。
(その1)でご紹介しましたが、魏志倭人伝の第1章「倭國を形成する国々」の部分では百支國、伊邪國をはじめとした女王卑弥呼を中心として都市国家連合を形成している国々の名称が出てきます。この国々の推定位置ですが、徳島県在住の郷土史家・大杉博氏の説でプロットしたものを以下に示します。
これを見ると、愛媛県にも卑弥呼に所縁の国が幾つかあって、今の松山市周辺には華奴蘇奴国や鬼国、爲吾国が、また、私の本籍地である今治市朝倉周辺には呼邑国が、生まれ故郷の四国中央市あたりには不呼国があったようです。高知県の東部にあったと推定される狗奴国は邪馬台国と対立関係にあった国のようで、倭国連合には含まれておりませんので、一周まわると5,000里(約400km~500km)という表現はかなり正確ということができます。
そう言えば、今治市朝倉に「今治市朝倉ふるさと美術古墳館」があり、そこには旧朝倉村の遺跡と古墳から出土した韓式土器や漢式獣帯鏡、さらには平型銅剣といった朝鮮半島や大陸との結びつきを示す貴重な資料が展示されています。
写真は今治市朝倉ふるさと美術古墳館に展示されている漢式獣帯鏡です。中国から持ち込まれたと考えられる青銅鏡です。展示されているのはレプリカで、本物は東京の国立博物館に収蔵されています。(写真は愛媛新聞社様からご提供いただいたものです)
今治市朝倉ふるさと美術古墳館公式HP
一番最初の「女王の国の東には、海を渡って1,000里ばかりいくとまた国がある。これも皆、倭と同一の種族である」の表現、これも邪馬台国が四国にあったという有力な証拠になります。徳島から東へ海(紀伊水道)を渡って1,000里(約80km)も行くと、紀伊半島、近畿地方です。まさにピッタリです。北部九州説や畿内説(近畿地方説)だとこうはいきません。北部九州説ですと東に海を渡って1,000里も行くと中国地方や四国地方がありますがちょっと無理があり、畿内説(近畿地方説)だと海を渡って東に1,000里(約80km)行ってもこの表現に合致する適当な陸地はありません。
魏志倭人伝には、魏の皇帝・曹叡から邪馬台国の女王・卑弥呼に対して「親魏倭王」という称号が与えられたという記述があり、少なくとも魏の皇帝は倭国を同盟国として認めていたということですから、当時の倭国は魏が認めるほどのかなりの国力を持った国であるということは容易に想像ができます。実際、それから約400年後の西暦663年には、倭国は朝鮮半島にまで出兵し、新羅・唐の連合軍と戦う(白村江の戦い)までの大戦力を保持するまでになるわけですから。
この国力は単に阿波(現在の徳島県)の国一国だけでは構築・維持することは到底できないため、阿波を中心にしてかなり広い面積の勢力圏を保有していたと思われます。少なくとも近畿地方は直接的・間接的に支配していたと思われます。その国力の源泉は稲作。
この頃には秦の始皇帝の一族である徐福の一団が伝えたであろう水稲耕作による稲作の技術により、麦作から水稲耕作による稲作へと産業の形態が大きく変わっていたと考えられます。ちょうどその頃から日本では古墳時代に入ります。古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間のことです。例えば、世界最大の巨大古墳である大阪府堺市にある仁徳天皇稜(5世紀前期~中期)に祀られているとされる第16代天皇・仁徳天皇は西暦399年に没されています。
古墳は王家の墓ではなくて、巨大な土木工事(水田構築)の残土処理目的で作られたものではないかという説があります(私もエンジニアとして同意見です)。もしそうだとすると、倭国による近畿地方開発は水田開発の一大プロジェクトだったのではないでしょうか。徳島県の吉野川流域は毎年のように大規模な河川氾濫が起き、もともと大規模な稲作には不向きな土地です。実際、農林水産省調査の「平成27年耕地及び作付面積統計」によると、徳島県の水陸稲作付面積は11,900haで、全国的に見ても(都府を除く)道県では最低レベルです。ちなみに、隣県の香川県は13,600ha、愛媛県は14,600ha、高知県は12,000ha。香川県の面積は約1,883平方kmで、徳島県の面積は約4,146平方km。徳島県は香川県の2倍以上の広さでありながら、水陸稲の作付面積は香川県以下ということですから、いかに徳島県が稲作に不向きな土地柄であるかお分かりいただけると思います。今のように吉野川の洪水対策がある程度行われた現在でさえこういう数字なのですから、その昔はもっと稲作に不向きの土地柄だったのではないでしょうか。リスク回避のために紀伊水道を挟んだ対岸の近畿地方において広大な農地開拓を実施したのではないかと思われます。
"倭國"の"倭"は音の"ワ"の中国における漢字での当て字で、紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域、及びそこの住人を指す際に用いた呼称です。紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国と自称したようです。その後、表意文字としての漢字が持つ意味を知るようになって、日本では同じ音の"ワ"でも、漢字の"和"を当て字として使うようになりました。"和"には調和、平和、均衡、争わないことといった意味があり、推古天皇12年(西暦604年)に聖徳太子が作ったとされる『十七条憲法』の第一条に「以和為貴(和を以って貴しと為す)」と書かれているように、"日本国"を意味する文化的概念が込められた一字です("和風"って言いますものね)。"和"は、まさに都市国家の連合体からスタートした我が国を一字で表すのに最も相応しい漢字ではないか‥‥と私は思います。全くの余談ですが、十七条憲法はこれまで一度も憲法改正されたとか、無効になったということを歴史の教科書で習っておりませんので、今の時代も日本国の国の基本的なあり方の基盤として、そのままの形で活き続けているものだ…と私は思っています。十七条憲法に関しても、ネットで検索すると原文と現代語訳が幾つも紹介されているので、是非、一度お読みになることをお薦めします。
で、四国の徳島を中心に暮らしていたその「倭(和)國」の人達が大量に新天地である近畿地方に移住して新しくできた国が「大倭(大和)國」。「大倭(和)」の"大"には"新しい"という意味が込められて冠されているように私は思います。喩えるならば、New Yorkの"New"と同じようなものです。すなわち、大倭(大和)国は倭(和)国により計画的に建設された新たな国という具合に受け取るのが妥当なのではないでしょうか。そこに都市国家連合体「倭(和)國」の中心だった邪馬臺国の呼び名である「ヤマトィ(たぶん)」を訓読みとして当てるようにどなたか高貴な方が取り決めたことで、「大和=ヤマト」になったのではないか‥‥と私は推察しています。でないと、漢字古来の音読みでは"大和"と"ヤマト"とは絶対に読めません。
ちなみに、古墳が偉い人の墓ではないというなによりの証拠は、農地(水田)がある程度整備された7世紀末以降、巨大な古墳はほとんど作られていないという事実です。もし最初から墓として建造されたものだったのなら、その後も幾つも作られて然るべきだと私は思うのですが…。この7世紀末以降、突然古墳が全く作られなくなった事実を調査した歴史学者さんは、私が調べた限りいらっしゃいません。
経済の中心は徐々に近畿地方(大倭国)に移っていったものの、首都機能はその後しばらく倭国(阿波)に残っていました。しかし、あるきっかけで倭国(阿波)は近畿地方(大倭国)に首都機能を移すどころか、集団で移住せざるを得ない事態に陥ったのではないかと私は推察します。そのきっかけとなったのが、西暦684年に発生した『白鳳大地震』。この超巨大地震による壊滅的な被害を受けたことで、倭国はそれまで首都であった阿波の地を完全に放棄。大倭国へ完全移転することとなったのではないかと推測しています。以降、藤原京→平城京→長岡京→平安京と遷都します。
藤原京造営以前にも、主に飛鳥時代を中心に、この地域に多くの天皇の宮と思しき建物や関連施設遺跡も周囲に発見されていることから、当時の倭国の首都としての機能もあったと考えられ、一部の歴史学者や観光業者から「飛鳥京」と呼ばれることもありますが、これまでの発掘調査などでは藤原京以降でみられるような宮殿の周囲を取り囲むように建設された臣民の住居や施設などが見つかっておらず、全体像を明らかするような考古学的成果はほとんどあがっていません。また遺跡の集まる範囲は地政的に「飛鳥京」と呼べるほどの規模を持たず、実態は不明確であり、歴史学や考古学の文脈での「飛鳥京」は学術的ではないとされています。(この時点で、実は邪馬台国畿内説は完全に破綻します。)
飛鳥に遺る天皇の宮と思しき建物や関連施設の遺跡は、単なる出先機関の建物の跡なのではないかと考えられています。奈良地方(近畿地方)における本格的な首都機能を持った都市は藤原京が最初。藤原京に遷都される以前は、どこか別のところに首都機能はあったと考えるのが妥当です。それが阿波の国。阿波の国から奈良地方だと、途中に淡路島という天然の本州四国連絡橋もあり、昔から「撫養(淡路)街道」という旧街道がありましたので、大人数の民の移動を伴う首都機能の大移動も、距離的に決して不可能なことではありません。(この首都機能の移転という点で、邪馬台国九州説も完全に破綻します。九州だとあまりにも遠過ぎます。)
白鳳大地震は南海トラフが動いたことで、中央構造線までもが動いたと推定される超巨大地震で、吉野川北岸を中央構造線が東西に通る阿波の国が無事だったとは到底考えられません。直下型の大きな揺れを受けて壊滅的ともいうべき甚大な被害を受けたことは容易に想像できます(最近の熊本地震における益城町や南阿蘇村を見れば明らかでしょ)。また、海岸線は津波による甚大な被害も受けたのではないかと推察されます。これはそれまで暮らした倭国(阿波)の地を捨て、首都機能を移すという大英断を下すうえで、十分に大きな決定要因になり得ると私は考えています。
ちなみに、日本書紀には藤原京以前の7世紀に「飛鳥板蓋宮(西暦643年)」「難波長柄豊崎宮(西暦645年)」「飛鳥宮(西暦655年)」(いずれも皇極天皇、斉明天皇期。皇極天皇と斉明天皇は重祚)、「朝倉宮(西暦662年)」「近江大津宮(西暦667年)」(天智天皇期)、「飛鳥浄御原宮(西暦672年)」(天武天皇期)といった都(?)の名称が記述されており、頻繁に遷都が繰り返されていたようになっていますが、それらの都がどこにあったのかは、いまだ解明されておりません。前述のように、おそらく都というより行宮(あんぐう:天皇の行幸時の一時的な宮殿)、すなわち出先機関の建物のようなものだったのではないでしょうか。
さらに、白鳳大地震が起きたのが西暦684年で、持統天皇が藤原京の造営を始めたとされるのが西暦690年、藤原京に遷都したのが西暦694年、さらに、平城京に遷都されたのが西暦710年。もうここまで来ると疑いようがないですね。
以前旅行で奈良を訪れて平城京跡を観た時に、なんで突然こんな大規模な都がこの国に現れたのか?…という素朴な疑問を感じたことがあります。この都に住んでいた人達は、ここに住む以前はいったいどこで暮らしていたのだろうか?…って。
数学者で日本史学者の沢田吾一氏が1927年に刊行された「奈良朝時代民政経済の数的研究」に書かれた記述によると、奈良時代における日本の総人口はおおよそ560万人。沢田吾一氏は数学者らしく「和妙抄」に書かれた郷の数、一郷の戸数に戸数の平均人口をかけた人数からこの人口を推定されています。その沢田吾一氏が推定した平城京の当時の人口は約20万人。これには諸説ありますが、都市の規模から推定される藤原京との比較から言っても、そこまではいかず約10万人くらいではないでしょうか。平城京に遷都される前まで都が置かれていた藤原京の当時の推定人口は、奈良県橿原市のHPによると約3万人。
奈良県橿原市公式HP
藤原京は日本で初めて建設された本格的な首都、それも計画都市なわけで、その約3万人もの人々がいったいどこからやって来たのかという疑問が残ります。さらに、藤原京から遷都された平城京の人口が約10万人。急に人が湧いてくるわけでもないので、この差の約7万人がいったいどこからやって来たのかという疑問も残ります。これに都の周辺人口が加わります。おそらくその2倍から3倍の人達が都の周辺に住んでいたと考えられます。当時の日本の総人口が約560万人と推定されることを考えると、この藤原京→平城京の人口の急増は極めて違和感を覚えます。前述のように、藤原京ができたのが西暦694年で、平城京に遷都されたのが西暦710年。僅か16年でここまでの人口の自然増はふつう考えられません。
また、藤原京や平城京へ遷都するにあたっては、広大な敷地の整地からはじまって大規模な土木工事や建設工事を同時並行して進める必要があったため、作業をする多くの人々が必要でした。実際にどのくらいの人々がこの工事に参加していたのか正確な人数は解かりませんが、現在のようにブルドーザーやダンプカー、パワーショベル、クレーンのような重機もなくて、ほとんど人力だけで工事を進めざるを得ない時代のことですから、毎日約1万人近い人々がほぼ専従で動員されていたのではないでしょうか。近隣の近畿地方にお住いの人達は建設期間中も稲作をはじめとする日々の暮らしがあることでしょうから、これだけの人員の継続的な大量動員は無理というもので、この大量の作業員をどこから連れて来ていたのかという疑問も残ります。それと建設資材。これだけ大規模な都を続けざまに2つも造営するわけです。材木や瓦などの建設資材をどこから調達したのか…という大きな疑問も残ります。
この大量の作業員や建設資材をどこから調達していたのかという疑問も、白鳳大地震というキーワードと結び付けてみると、おぼろげながらですが、その答えが見えてくるような気がします。すなわち、それって四国からだったのではないでしょうか。白鳳大地震により壊滅的な被害を受け、安全に住むところのなくなった四国の"被災地の"人達が大量に近畿地方に移住し、藤原京、そして平城京の建設に携わり、その後、一族郎党をあげて移住してきたのではないか…ということです。建設資材も白鳳大地震で崩れた建物からまだまだ使えそうな柱や瓦を大量に持ってきて、移築したのだと考えると、納得できる部分があります。おそらく、藤原京は仮設住宅。平城京が本格的な復興住宅ってことなのでしょう。持統天皇が藤原京の造営を始めたとされるのが西暦690年で、藤原京に遷都したのが西暦694年。そうでないと、僅か4年という短期間でここまで大きな都が建設できるわけがありません。これは阪神淡路大震災や東日本大震災の復興の進捗具合を考えると、明らかなことです。当時は重機もなく、技術力は今より数段劣るわけですから。
ちなみに、藤原京は平城京への遷都後、建物等はほとんど残っておらず、長らく一面の農地(水田)になっていました。現在調査が進んでいるのも礎石等の遺構の発掘がほとんどです。いっぽう、平城京の発掘調査では、藤原京から移設され再利用されたと思われるものが幾つも発見されています。このことから、藤原京の建物のほとんどは、平城京に移設されて建設資材として再利用されたのではないかと推察されています。それで、藤原京の跡地はいったん更地となり、農地へと変貌したわけです。これと同じことが藤原京遷都でも起こり、四国にあったであろう宮殿等の建物の大部分は藤原京の建築資材として移設され再利用されたので、今ではほとんど何も残っていないのだと推察されます。
奈良文化財研究所公式HP
この白鳳大地震に関しては、日本書紀では「現在の高知県の一部が地盤沈下で海に沈んだ」とか、「伊予の道後温泉の湯も湧出が止まった」とか現在の愛媛県や高知県の被害の状況に関しては書き残されているのですが、何故か阿波の国(現在の徳島県)の被害に関する記述は残されておりません。中央構造線は吉野川沿いを東西に走っているわけで、中央構造線が動いたとするならば、徳島県一帯が無事だったことは到底考えられません。甚大な被害を遥かに通り越して、ほぼ壊滅に近い状態だったのではないでしょうか。阿波の国(現在の徳島県)の被害に関する記述がいっさい残されていない点が、かえって何かが意図的に隠されている感じさえしてきます。
そうそう、松山市東部の東温市との境に位置する松山市来住(きし)町から南久米町にかけての来住台地に「久米官衙遺跡群(くめかんがいせきぐん)」と呼ばれる古代の官衙(かんが)関連遺跡と古代寺院跡があります。(写真は愛媛新聞社様からご提供いただいたものです:1978年1月31日付「久米官画衙遺跡群」 G20180501-04213)
松山市公式HP
松山市考古館公式HP
"官衙"とは古代の役所のことです。「久米官衙遺跡群」とよばれるこの場所は、「来住廃寺跡」や古代の官衙やその関連遺構である「久米官衙遺跡」で構成されていて、東西約500メートル、南北約400メートルに渡って広がる広大な敷地を有しています。7世紀前半(西暦600年代前半)に遺跡群の北部に官衙(役所)が建設されたと推定されています。これは現在わかっている中で、"日本最古"の本格的な役所の跡なのだそうです。7世紀中頃までに古代の官庁街として整えられていったようで、基盤の目状に土地を区画して、道路も整備され、様々な役所の建物がどうもこの地割とよばれる土地の区画に従って整然と配置されていたのだそうです。その中の一つが「回廊状遺構」と呼ばれる大規模な施設の遺構です。これは南側に八脚門をもち、内部の建物を2重の柱列によって取り囲んだ1辺が100メートルを超える四方形をした極めて大規模な施設だったと推定されています。またここには、当時の税である米を蓄えるためのものだったのではないかと推定される倉庫群が並んだ「正倉院」 が造られていたようです。
7世紀 の終わり頃、その官庁街の一角に寺院が建設されました。この寺院の一部は現在もその跡が遺っていて、これが来住廃寺跡です。この来住廃寺跡ですが、法隆寺式伽藍配置を持つ白鳳期(7世紀後期)の古代寺院の跡として国の史跡の指定を受けています。これまでの調査によると、この寺院は官衙が廃絶した7世紀後半以降に建立された古代寺院であることが分かっているようです。現在、調査によって確認されている主な遺構には、一辺が約9.75メートルにもなる塔の基壇、及び、その上面に遺された柱の礎石、大型の石製露盤、東西19メートル、南北6メートル、内部が四つの部屋に区切られた僧坊と考えられる掘立柱建物跡、講堂に伴うと考えられる玉石組雨落溝などがあり、現在も継続して調査が続けられています。
7世紀後半というと、前述のように、白鳳大地震(西暦684年)が想起されます。時期的に考えると、白鳳大地震によってこの大規模な官衙が壊滅的な被害を受けたことによって、寺院に建て替えられたのではないか…と推察されます。上記に、この白鳳大地震によって四国に住んでいた人々の大移動が起き、倭國の中心が四国(現在の徳島県)から近畿地方(現在の奈良県)に移され、"大和(大倭)"と呼ばれるようになったのではないかという私の仮説をご紹介させていただきましたが、もしそれが当たっているなら、それとも一致します。おそらく、久米官衙遺跡にあったであろう官衙の建物の大部分は、前述のように、建築資材として藤原京に移設されたのではないかと推察されます。また、関係するかどうかは分かりませんが、聖徳太子は蘇我馬子とともに松山市の久米官衙遺跡のあった地で倭国(日本国)を統治していたとする俄かには信じ難いような説もあるようです。
いずれにせよ、来住廃寺を含む久米官衙遺跡群は、歴史上失われた(隠された?)400年とも言われる3世紀から大和朝廷が成立した7世紀後半にかけての日本の古代史の謎を解き明かす極めて重要な鍵を握っているところのようです。なぜ四国の愛媛県松山市に"日本最古"の本格的な役所の跡が遺されているのか?…、そこにはきっと明確な意味が隠されていると思われます。もしかしたら、それはこれまでの日本の古代史の常識が根底から覆されるような凄いことなのかもしれません。調査の結果が待たれます。
……(その6)に続きます。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/yamataikokuco/shikokusetuco/shikokusetusyosetuco.htm
「邪馬台国=四国説(阿波説、伊予説、土佐説、山上説)考」 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).6.28日
(目下、全く不十分です。引用、転載元は改めて確認する予定です)
(れんだいこのショートメッセージ) |
大杉博・氏の「邪馬台国四国山上説」は面白い。れんだいこは、盲目の詩人宮崎康平氏の「まぼろしの邪馬台国」以来の傑作ではないかと思っている。「邪馬台国四国山上説」そのものよりも、九州説、畿内説を批判する論拠が参考になる。今暫くこの「邪馬台国四国山上説」を検証してみたいと思う。 徳島について、古くから地元の神山研究会などにより、卑弥呼や神話の神々が徳島にいて、神武東征後に栄える畿内の倭を築くまでは徳島に朝廷があったとする説が唱え続けられている。大杉博・氏の邪馬台国四国山上説や、ユダヤの研究者として著明な宇野正美氏の古代ユダヤが剣山にモーゼ契約の箱を隠匿したという説まで種々ある。地図を見ると、神山町神領など神々しい地名があったりして、楽しめる。以下、この説を確認する。 2003.9.12日、2007.1.10日再編集 れんだいこ拝 |
【れんだいこの古代史上における四国(讃岐、阿波、土佐、伊予)論】 |
れんだいこは、古代日本史上に於いて、四国(讃岐、阿波、土佐、伊予)が枢要の地位にあることについて「論をまたない」(異論はない、言うまでもない、論じるまでもなく明らかである)、と云う観点から四国論を究めようとしている。その点で、四国=日本の臍(へそ)論者と認識が共通している。問題は、その四国論研究が最近になって、日ユ同祖論的見地と融合し、この見地からの四国論が奏でられていることにある。れんだいこの四国論はこれに異を唱えている。一刻も早く日ユ同祖論的に組み立てられている四国論から日ユ同祖論的見地を剥離させ、本来の古代日本史上に於ける枢要の地位にある筑紫、出雲、吉備、大和等々と共立する四国論の論陣を張ろうとしている。 れんだいこの四国論の骨格は次の通りである。四国(讃岐、阿波、土佐、伊予)の枢軸を阿波に見立て次のように推理する。第一に、古事記、日本書紀、ホツマツタエ(その他の古史古伝の確認はできていない)が、イザナギ雄神とイザナミ雌神の交合により日本神話上の国生みを、四国の讃岐、阿波の前衛的位置にある淡路島の地で営為していることが象徴的である。これは寓意であろうが、「国生みの地=淡路島の地」とされたのには相当深い意味があると解すべきだろう。次に、邪馬台国所在地としての四国論も注目されて然るべきである。れんだいこ論は、邪馬台国を四国に求めず、奈良県桜井市の大輪山一帯としている。但し、卑弥呼は日弥子であって阿波の剣山山麓で出自し、その霊能が認められ、奈良県桜井市の大輪山の邪馬台国の司祭主として招聘され、長寿だった為にその地位を長らく保持したのではないかと推理している。そういう意味での邪馬台国と相当深く関わっている阿波の特殊的地位に注目している。補言すれば、阿波踊りは卑弥呼時代以来の日本踊りを継承しているものであり、日本踊りの祖型であると看做している。 既存の阿波説にはもう一つ欠点がある。それは、四国=日本の臍(へそ)論の定向進化として阿波国を古代日本の宗主国とする余りに、出雲国の地位を不当に落とし込める対抗理論として持て囃されようとしている感がある。記紀神話の世界がそうであるから記紀神話に従う限りそういう阿波説が登場するのも止むを得ないが、阿波説は出雲国の地位を不当に落とし込める対抗理論として存立すべきではない。古代日本史上に於ける枢要の地位にある筑紫、出雲、吉備、大和等々と共立する阿波説が打ち立てられるべきだろう。その他云々。誰かこの見地からの共同戦線を試みんか。取り急ぎ、このことを発信しておく。 2020.7.5日 れんだいこ拝 |
【邪馬台国=四国(讃岐、阿波、土佐、伊予)説の根拠考】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「四国山上説」は次のような事由から根拠づけられている。「日本史のブラックホール・四国」 (1998年、原田実)、「足摺岬縄文灯台騒動・最後のまとめ」、「古代史ファンクラブ通信◎ 邪馬台国四国説」、「阿波古代史の研究界」その他を参照する。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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【大嘗祭に於ける「麁服(あらたえ)」調進】 | ||
2019.1.16日、日本経済新聞徳島支局/長谷川岳志「大嘗祭の麁服(あらたえ)調進準備 三木信夫さん (語る ひと・まち・産業)阿波忌部直系 徳島の麻文化再興訴え」転載。
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【大麻比古神社】 |
大麻比古神社は、忌部氏の祖先神である大麻比古大神と、猿田彦大神とを合わせ祀る神社。(御祭神は大麻比古大神、猿田彦大神) 由緒は次の通り。 阿波一宮。神武天皇の御代、天太玉命の御孫天富命勅命を奉じて洽く肥沃の地を求め、阿波国に到りまして、麻楮の種を播殖し、麻布木綿を製して殖産興業 の基を開き、国利民福を進め給い、その守護神として太祖天太玉命を此の地 に斎き祀る。大麻比古神社は、太祖天太玉命と猿田彦大神の御神徳を 称えて奉った御社名と伝えられる。猿田彦大神は、昔大麻山の峯に鎮まり坐しが後世に至り、本社に合せ祀ると 伝えられる。延喜の制名神大社に列し、阿波国一宮と称え、阿波、淡路両国の総産土神として崇め奉る。清和天皇貞観元年従五位上を授け奉り、 順次進階して中御門天皇享保四年正一位に進み給う。斯く朝廷の崇敬厚く、又代々の国司領主の尊崇深く、神田山林を寄進、藩費を以って社殿の造営 を行い、年々祭費を奉らる。明治6年、国幣中社に列す。明治13年、国費をもって本殿以下の造営が行われた。現在の祝詞殿、内拝殿、 外拝殿は昭和45年、氏子崇敬者の寄進によって造営された。大麻比古神社は、古来方除、厄除、交通安全の神として霊験を授け給い 県内外の氏子崇敬者から「大麻さま」「大麻さん」「大麻はん」と親しみを こめた御名で崇められ、厚い信仰が寄せられている。 |
【赤色顔料「水銀朱」生産】 | |
「中国史書 其山有丹 。縄文時代の土を踏みしめる。加茂宮ノ前遺跡現地」。
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【記紀、万葉集を四国の地名から読む考】 | |||||||||
記紀、万葉集を四国の地名から読むと正確に符合するとの指摘が為されている。その一端を確認しておく。「難波宮は難波になかった」を参照する。 天平6年(734)3月、聖武天皇の難波宮行幸にお供した舟王(ふねのおおきみ、第47代淳仁(じゅんにん)天皇の兄)が詠んだ万葉集巻6-998「幸于難波宮之時歌六首」歌は次の通り。
これは「眉のように雲間に見える阿波の山 その山々をめざし漕いでいく船は、どこに泊まるのだろうか」と解釈され、難波宮(大阪市中央区法円坂)から大阪湾の沖の船とその向こうの風景を見て詠んだものと解釈されている。 これに対し、岩利大閑氏は、この歌を「武庫浦を出港し、四国の難波宮へ向かう船上で詠んだ歌」であると解釈する。他の五首のうち二首に次の地名がでてくる。
ともに住吉(すみのえ)が出てくる。ところが、万葉集に出てくるこの住吉(すみのえ)は場所が不明で、現在の地名とは関係がないとする。その理由として万葉集巻3-283の歌がある。これを確認する。
この歌で「武庫の港」と「住吉」が隣接していたことが分かる。つまり、上の舟王の歌が船上で詠まれたものならば、岩利氏の言うように「武庫浦」の港を出港した可能性が高い。この「武庫浦の港」の場所も特定されていないが現在の神戸市灘区の付近と考えられている。難波宮が讃岐にあり、この歌が四国へ向かう船上で詠まれたものだとすれば、何の矛盾もなく歌の通りに解釈できる云々。この確認は追々充実させることにする。 |
【徳川光圀の阿波及び淡路両国にある古代天皇の墳墓の調査命令】 |
四国の阿波に何か古代の秘密があるということに徳川光圀も気が付いていたようで、江戸に修史局を開き、大日本史の編纂に乗り出した後、元禄10年(1697)、突然、徳島藩や老中土屋相模守政直を呼びつけ、阿波及び淡路両国にある古代天皇の墳墓の調査を命じている。古代阿波国の重要性を嗅ぎつけていることになる。(山口敏太郎「急浮上、幻の古文書『阿波風土記』が裏付ける"邪馬台国四国説"、邪馬台国は阿波だった!?」参照) |
【池辺真榛が阿波国が日本のルーツとする所信を披瀝】 |
阿波出身の国学者である池辺真榛は、延喜式の研究を行い、故郷である阿波国が日本のルーツだと確信し所信を発表し始めた。 1863(文久3)年、池辺は阿波藩政を非議したという罪を被せられて身柄を拘束され阿波藩邸に監禁され、不審な死を遂げている。一説には毒殺されたとも云われている。 |
【国学者・小杉榲邨が「阿波古風土記考証」を出版】 |
幕末から明治にかけて活躍した阿波出身の国学者・小杉榲邨(こすぎすぎむら)が阿波関係の古書、古文を網羅する「阿波国徴古雑抄」を発刊している。 1872(明治5)年、「阿波古風土記考証」を出版する。この時、邪馬台国阿波説においてキーとなる騒動を起こしている。何故か回収騒動に発展している。しかも、当時、蜂須賀家と徳川家にあったはずの阿波風土記の原本さえも所在が不明になっている。この回収騒動の理由は不明である。一説には天皇家のルーツに関わる記述があったため、明治政府が問題視して回収に踏み切ったとも云われている。阿波風土記の存在は妄想ではない。幕末の頃までは様々な文書に部分的に引用されている。例えば、阿波風土記逸文に「天より降りおりたる山の、大きなるは阿波国に降り下りたるを、あめのもと山といい、その山の砕けて大和国に降り着きたるを、あめのかぐ山という」とある。即ち、空から大きな山が阿波国に落ちてきた。その山が砕け散り大和国に落ちて、天香久山になったとされている。 今、この阿波風土記の所在が不明である。噂では宮内庁で厳重に保管されていると云われている。阿波藩では、幕末から明治初期にかけて、邪馬台国阿波説のメイン資料やキーマンが消されている。(山口敏太郎「急浮上、幻の古文書『阿波風土記』が裏付ける"邪馬台国四国説"、邪馬台国は阿波だった!?」参照) |
【木村鷹太郎が「人種学上宇和島の提供する無類の材料」を発表】 |
1911年、古くは愛媛県宇和島出身の明治の哲学者、木村鷹太郎が「人種学上宇和島の提供する無類の材料」(「世界的研究に基づける日本太古史・上」、1911年、所収)を現し、その方言、祭祀、民謡、伝説などから「宇和島人はアリアン人たり、ヤペテ人たり、キンメリ人たり、希臘、ホエニシア、埃及人たり、神話時代の神裔人種たるを証明」したが、むろん学界の容れるところとはならなかった。 |
【高根正教(まさのり)氏が「四国剣山千古の謎」】 |
1952年、高根正教(まさのり)氏「四国剣山千古の謎-世界平和の鍵ここにあり」(四国剣山顕彰学会)を発表。その後、御子息の高根三教氏が、「ソロモンの秘宝」(大陸書房、1979年)、「アレキサンダー大王は日本に来た」(システムレイアウト、1990年)を発表する。 |
【保田兵治郎氏が邪馬台国阿波説を最初に発表】 |
1961(昭和36)年、上板町の保田兵治郎氏が邪馬台国阿波説を最初に発表した。これより前、地元の神社の古記録に「粟散土国王在日弥子」の記事を発見し邪馬台国研究に入っていた。 |
【阿波歴史研究会が「邪馬台国阿波在国説」を発表】 |
1964(昭和39)年、阿波歴史研究会で 「邪馬台国阿波在国説」 を発表。 |
【保田兵治郎氏が「建国日本秘匿史の解折と魏志倭人伝の新解訳」を自費出版】 |
1966(昭和41)年、保田兵治郎氏が「建国日本秘匿史の解折と魏志倭人伝の新解訳」を自費出版した。この保田氏をモデルとして「邪馬台国は阿波だった」という小説を書いたのが堤高数氏。 |
【郷土史家・郡昇・氏の「邪馬台国阿波説」の登場】 |
1975年、郷土史家の郡昇・氏が「邪馬台国阿波説」を唱える「阿波高天原考」(自費出版)を自費出版。 |
【古代阿波研究会の「邪馬台国=阿波説」】 | |
1976(昭和51).6.10日、徳島県の郷土史家グループ古代阿波研究会が「邪馬壱国は阿波だった-魏志倭人伝と古事記との一致-」(新人物往来社)を世に問い、阿波説が全国に知らしめられることになった。同書の奥付によると、古代阿波研究会の当時の事務局長は堀川豊平氏とあり、編集委員として多田至、板東一男、椎野英二、上田順啓、岩利大閑、磯野正識各氏の名が記されている。岩利大閑が原稿を堀川豊平から預かって東京の出版社へ持ち込んだ。堀川によれば、その時に(おそらく出版社の判断で) 相当の部分が削除され、内容としては不本意なものになってしまったとのこと。それでもこの本のインパクトは相当だった。「阿波古事記研究会」 の三村隆範もはじめは堀川に学んでいる。この頃を "第一期阿波説ブーム"。 同書は、徳島県には神話の女神イザナミの名前を取った伊射奈美神社が美馬市にあるほか、天皇陛下がご即位後に初めて行う大嘗祭にあらたえを献上するなど、古くから朝廷にゆかりがある土地であるとして、まず、古事記が阿波国の別名としてオオゲツヒメと記していることに注目する。オオゲツヒメは農作物を産んだ女神の名でもある。そこからその昔の阿波国が穀霊の国であったということから論を進めていく。阿波国こそ記紀神話の高天原に他ならないと云う。更に、三国志の現存刊本にある「邪馬壹国」は「邪馬臺国」の誤写ではないという立場をとって邪馬壱国とする。 倭の女王・卑弥呼は記紀神話の天照大神と同一人物であり、その宮の跡は名西郡神山町神領の標高700mの山頂にある高根城址であり、ここが邪馬台国の中心地と主張した。今は悲願寺という寺になり、境内には古代中国の文字が刻まれた常夜塔が立っている。 御陵は名方郡国府町矢野の矢野神山山頂、天石門別八倉比売(やくらひめ)神社の奥の院にある石積み正五角形(高さ50cmほど、1辺が約2.5m)の祭壇だと云う。他の土地ではちょっと見られない形をしている。また、記紀神話の出雲とは、阿波国南部の勝浦川・那珂川方面であり、三国志倭人伝の狗奴国にあたるという。この「卑弥呼=天照大神の宮都・陵墓、出雲=狗奴国の所在に関する比定」は、山中、岩利、大杉各氏に引き継がれることになる。 「邪馬壱国は阿波だった」のユニークなところは、邪馬壱国の統治システムとして次のように述べている。
それが単なる空想でない証拠として、同書は阿波の中津峰山麓の古老の「むかしは、中津峰山で火がピカピカピカッと出たら、あくる日は雨になるといいますわ。そういや、このごろはでまへんな。昔は出よったといいますわ」という言葉を挙げ、「太古のことを、ついこの間のように語り伝えてきたものなのでしょう。(中略)古代をついこの間のように語りつたえる古老たち。その陰にどのような邪馬壱国の非運があったのでしょうか。抹殺と無視にたえて約二〇回の百年の節をこえてきた庶民の豊かな表情とゆとりに、いったい何があるのでしょか」と感極まった口調で説明している。 「邪馬壱国は阿波だった」では、阿波が高天原だったことがなぜ忘れられたのか、その理由を明記していない。ただ、明治の漢学者・岡本監輔が阿波麻植郡舞中島出身であるにも関わらず、「千葉県平民」を称していたことに「歴史のゆがみを思わざるをえない」と暗示するにとどめている。 |
【北岡南・氏の「邪馬台国土佐説」】 |
1976(昭和51)年、北岡南・氏が「記紀、万葉と邪馬台国」(自費出版)を著し、「邪馬台国土佐説」を世に問うている。 |
【俳優・フランキー堺の注目】 |
俳優の故フランキー堺はこの「邪馬壱国は阿波だった」を読んで驚き、日本テレビのプロデューサー・山中康男氏との共同で、「いま解きあかす古代史の謎!ついに発見!! 幻の国・皇祖の地高天原」(出演・フランキー堺)を製作した。1977年、山中氏が、その時の取材調査成果を「高天原は阿波だった」(講談社)という書籍にまとめた。 |
【浜田秀雄氏の「契丹秘史と瀬戸内の邪馬台国」】 | |
1977年、浜田 秀雄氏が、古代阿波研究会の活動に触発されて「契丹秘史と瀬戸内の邪馬台国」(新国民社、1977年)を著し邪馬台国四国説を唱えた。邪馬台国を四国北岸、卑弥呼の居城を、松山市大峰台西南の台地斉院に求め た。浜田氏は同書において「四国説は四国の郷土氏家グループが主張していますが、学界では無視されています」として暗に古代阿波研究会のことに触れている。浜田氏は自説を裏付けるものとして契丹秘史、上記、宮下文書などのいわゆる 古史古伝を用いている。 同書カバーに出版社がつけたコピーは次の通り。
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【大杉博氏の「日本の歴史は阿波より初まる-天孫降臨の地を発見す-」】 |
1977年、「倭国(いのくに)研究会」を主宰し、邪馬台国四国説の論客でもっとも精力的に活動している阿波池田在住の郷土史家/大杉博・氏が、「日本の歴史は阿波より初まる-天孫降臨の地を発見す-」を自費出版した。 1929年、岡山県生まれ。法政大学法学部中退。宗教家。1976年から古代史の研究に着手。81年に倭国(いのくに)研究所を設立。現在は倭国研究所所長を務めるかたわら日本史の謎の解明にとりくむ」とある。宇野正美の日ユ同祖論。 |
【大杉博氏の「ついに解けた古代史の謎」】 |
1979年、「ついに解けた古代史の謎」で「大和朝廷の秘密政策説」を発表。その後も自費出版で自説の発表を続ける。 |
【大杉博氏の「邪馬台国論争」】 | ||||
1980年、大杉氏が、榎一雄・安本美典・奥野正男・古田武彦らの邪馬台国研究で高名な研究者たちに対して私信による論争を挑んだ。相手は61名の研究者と3団体に及び、その経過は「邪馬台国の結論は四国山上説だ-ドキュメント・邪馬台国論争」(たま出版、1993年)という本で公開されている。「たちまち沈黙してしまわれる」とある。 著書「天皇家の大秘密政策」(徳間書店、1995年)の序には次のように書かれている。
これに対して、論争を挑まれた側の安本美典氏は、「虚妄の九州王朝」(梓書院、1995年)で、その際の気持ちを次のように慨嘆している。
この経緯について、原田実氏の「日本史のブラックホール・四国」は次のように述べている。
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大杉氏の「写真の公理法」に対して、結果としてもっとも辛辣な批判となっているのは前田豊氏の「倭国の真相」(彩流社、1997年)であろう。前田氏はその前著「古代神都東三河」(彩流社、1996年)で、高天原=邪馬台国が東三河にあると主張したが、「倭国の真相」ではその説の傍証として二箇所、大杉博氏の著書からの引用をしている。大杉博著「天皇家の大秘密政策」で、万葉集の柿本人麻呂の歌に基づき、古代の大和国には海があったはずだと論じている箇所を引いて、「大杉氏は四国に "倭の国"を想定されているのであるが、この状況はまさに、東三河やまと説について当てはまるのである」とする。 また、同書の別のところでは「邪馬台国は間違いなく四国にあった」から、釈日本紀に、畿内を北倭、女王国を南倭とするくだりがあるという記述を引用し、「四国邪馬台国説の大杉氏には悪いが、その文献はまさに東三河のことを表している(中略)。南倭は古代中国の地理観では、東に相当するから、東倭でもある。まさに日本の東海に地方にある倭、東三河の大和であったのだ」と述べている(ちなみに、釈日本紀の「北倭」「南倭」の説はもともと山海経の誤った訓読から生じたものである)。 原田実氏の「日本史のブラックホール・四国」は次のように述べている。
なお、古代阿波研究会が卑弥呼の陵墓とみなし、大杉氏もそれに従っている矢野神山の石壇について、原田大六氏は「卑弥呼の墓」(六興出版、1977年)の中で次のように批判している。
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【土佐文雄氏の「古神・巨石群の謎」】 |
1983年、土佐文雄氏が「古神・巨石群の謎」(リヨン社、一九八三年)を著し、「邪馬壱国は阿波だった」を「意外にしっかりしたきまじめな研究書」として好意的に紹介する。同書は邪馬台国土佐説をとり、卑弥呼の居城を高知県香美郡土佐 山田町の古神にある巨石群に求める。ただし、同書は土佐氏のオリジナルな説を記したものではなく、地元の郷土史家、北山南・樫谷義広両氏の研究に基づいて制作されたテレビ 番組「古神・巨石群の謎」(NHK高知放送局)の取材過程を記したノンフィクションで ある。土佐氏はその番組でリポーター役を務めた。 なお、NHKの取材が契機となり、今や古神巨石群は「甦った・なる邪馬壹」、「平和日本お誕生ご所」、「倭華宮」、「日本のルーツ・ヤマトの国センター」「とさ若宮日本蓬莱山 邪馬台国センター」としてテーマパーク化されているという。根本敬「イジメもやまる日本発祥の地」別冊宝島『全 国お宝スポット魔境めぐり』一九九八年四月所収)は、それを守っている樫谷義広氏を紹介している。 |
【岩利大閑氏の「道は阿波より始まる」】 | |
1985(昭和60).12.30日、「道は阿波より始まるその1」、1986 (昭和61) 年、「道は阿波より始まるその2」、1989 (平成元) 年、「道は阿波より始まるその3」の三部作が出版された。同書は岩利大閑氏が自ら主催する阿波国史研究会の成果として発表していた自家版を、(財)京屋社会福祉事業団が、"好きとくしま大好き"運動の一貫として増補・再販したものである。岩利氏は「邪馬壱国は阿波だった」奥付に古代阿波研究会の編集委員として名を連ね、また山中氏の番組制作に際しては、その取材現場を案内した人物である。 | |
岩利大閑氏(1925-1989、本名 岩佐利吉)は徳島市伊賀町生まれ。父祖三代にわたって古代史の研究を続け、ついに皇祖の地・高天原が阿波であり、かつ、記紀時代の歴代天皇の皇都が阿波に存在したことを確信。その成果を「道は阿波より始まる」三部作で世に問うた。 | |
大閑氏は、阿波国が「倭」であり、その遷都先が「大倭」=「大和」国であるという阿波倭説をとっている。岩利氏の主張のユニークなところは、高天原だけではなく、記紀にいう「大倭」とは阿波国のことであるとし、大和朝廷は天武もしくは持統の時代にようやく畿内に入ったとするところである。岩利氏は語る。
岩利氏によると、聖徳太子(厩戸皇子)は引田町の厩戸川の川口で生まれた生粋の阿波っ子であり(その一)、一般には滋賀県にあったとされる天智天皇の大津京も伊太乃郡山下郷の大津に置かれていたということになる(その二)。 |
【笹田孝至氏の「記紀は阿波一国の物語である」】 |
1986 (昭和61) 年、映画「道は阿波より始まる」 のシナリオと解説として、岩利氏の弟子という笹田孝至氏の「記紀は阿波一国の物語である」という冊子が出版された。 著者は、1944年、徳島生まれ。徳島大の工業短期大学部を卒業。1967年に徳島市役所に就職。1979年、徳島市役所観光課在職中、「おい、これを観光のネタに使えないか」と上司から1冊の本を手渡された。それは、郷土史家による古代阿波研究会が当時発刊した「邪馬壱国は阿波だった」。魏志倭人伝に登場する邪馬台(壱)国の舞台は阿波で、女王・卑弥呼の墓は、徳島市国府町の八倉比売(やくらひめ)神社の奥の院、居城は神山町神領、などとする新説にのめり込んだ。翌年、さっそく市の観光キャンペーンに取り入れた。モデルに卑弥呼の衣装を着せてパンフレットを作成。八倉比売神社などをめぐる観光コースも設け、観光課に席を置いた4年間で、約600人を案内して回った。「みんな半分疑っていたかも知れないが、『そうであってほしい』という期待のようなものを肌で感じた」と振り返る。邪馬台国阿波説をもとに阿波邪馬台国観光を推進する。1983年、「道は阿波より始まる」の著者岩利大閑氏に頼み込んで師事、研究にのめり込む。2004年3月に退職すると、「先人の研究成果を受け継ぎ、記録に残したい」との思いから、仲間15人でNPO設立。2006~2009年 阿波古代史講座(全11回)を主宰。塾長として7度講師をつとめる。徳島歴史研究会主催。2008年、古代史のコペルニクス的転回を企図し、NPO法人阿波国古代研究所を設立。「みんな半信半疑かも知れないが、阿波を抜きに日本の古代は語れない。『これは研究に値する説だぞ』と、いつか学者や専門家たちを振り向かせたい」と意気込む。調査報告講演会、古代史探訪バスツアー、大嘗祭御膳復活催事ほか活動を継続。現在、NPO法人阿波国古代研究所代表、徳島歴史研究会会長。 笹田説によると、日本書紀や古事記の神話に登場する主要な神々はすべて県内の神社にまつられている上、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国までの行程も論理的に合致。そして最近の考古学の成果も阿波説を有力にしているという。「九州は邪馬台国の時代にはすでに衰退している。奈良には箸墓古墳など巨大古墳があるが、それを支えるだけの集落跡がない」と九州説や近畿説をばっさり。その上で、邪馬台国の所在地は鮎喰川下流の 徳島市国府町と主張する。一帯の矢野遺跡や名東遺跡など弥生時代の集落遺跡を合わせると全国有数の約400ヘクタールにもおよぶ。また、魏志倭人伝が「その山に丹あり」と記載する赤い顔料の材料は、阿南市の 若杉山遺跡 から出土した水銀朱。列島各地の市場を監督する役職「大倭(おおやまと)」は、鳴門などに本拠を持つ海人(あま)族が担っていた――などと考える。最近の県教委の調査で、鳴門市の 萩原2号墳 が奈良・ホケノ山古墳の起源とされたことから、阿波の海人族が列島全体を監督するために奈良に拠点を移し、阿波の技術を受け継いで奈良で巨大古墳を築いていったと推測する。 |
【大杉博・氏の「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1992年、「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」(たま出版)を発表して、その成果を世に問うた。大杉氏は邪馬台国を阿波国内にとどまらず、四国の中央山地全体に広がる国だったとする。但し、卑弥呼の都城や陵墓、出雲国(狗奴国)などの位置については、古代阿波研究会の結論と共通しており、その意味では阿波説の一変種とみることができる。 大杉氏は自説の証明として「写真の公理法」を提起している。「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」(たま出版)の中で次のように述べている。
大杉氏はこの方法で阿波の風土・産物と記紀神話の舞台を比較したところ、百項目以上の共通点をみつけたという。これだけの共通点がある以上、阿波は高天原で邪馬台国に間違いない、他の説をとなえる論者は自分を論破できない限り、すべて邪馬台国から手をひかなければならないと主張している。 大杉氏は、四国山上邪馬台国が史実から消された理由について、大和朝廷の大秘密政策の存在を主張する。それは、白村江の敗戦と壬申の乱の後、大和朝廷が一時、信望を失い「大君の先祖は、南海の小さな島の上で、山猿のような暮らしをしていたのだそうな」という噂が流れたため、天皇家の本当の出自を隠すための政策が行われたというのである。その政策は平安時代まで続き、空海が四国八十八箇所を定めたのも、四国の霊地を訪ねる巡礼を本当の聖域に近づけないための方策であったという。大杉氏は、この大秘密政策によって「四国は死国にされてしまった」と主張する。 「邪馬台国」の漢字の象形を解析し、「おかしな馬を台にしたような国」という意味で字が当てられているとする。これは、当時の中国人が倭国(女王国)を見てイメージしたもので、四国の山上は山焼きの風習によって山上に樹木がなく、高地性集落を結ぶ幹線道路が山並みの頂上を縦走するように付けられていた。その道路を歩くと、変な馬の背中を歩いているような感じになり、「邪馬台国」という文字に符合すると述べている。 「魏志倭人伝」には「此れ女王の境界の尽きた所なり」とあり、「広輿図」には「皆、倭国の境に附いている」とある。この21の国々の場所を比定すると次のようになるが、こうした場所が比定できるのは四国だけであり、九州説、大和説ではこれができていないとして次のように比定している。
魏志倭人伝には邪馬台国の生活の様子が実に生き生きと描写されているが、それらを四国山上に当てはめるとまことに符合するとして逐一検証している。「こんなに一致する場所は他にはない」として四国山上説を解いている。特に「山に丹有り」の記述が徳島県阿南市の若杉山遺跡のみに見られるものであること、「禾稲(かとう)をうえる」というのは「粟(あわ)・稗(ひえ)・稲などを植える」という意味であり、四国が粟と稗の産地であることと符合する。「棺有るも槨無く」は阿波に多く出土する箱式石棺を指すこと、「真珠を出す」は徳島の海で真珠が採れていたのを指すとして、邪馬台国四国山上説を裏付ける重要な記述であるとしている。 古事記の伊邪那岐命(イザナギのみこと)と伊邪那美命(イザナミのみこと)による島産みの記述に注目して、淡路島→四国→隠岐島→九州→壱岐島→対馬→佐渡島→本州という順に日本の島が誕生したとある理由を問うている。一番が淡路島、二番が四国と最初に登場するのは、四国がよほど重要な地位を占めていたと窺うよりほかはないとしている。
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【大杉博・氏の「古代ユダヤは日本で復活する―剣山の封印が解かれ日本の時代が始まる」】 | ||
1994年、「古代ユダヤは日本で復活する―剣山の封印が解かれ日本の時代が始まる」 (日本文芸社;1994年)。剣山の夏祭りで神輿が頂上に担ぎ上げられる渡御は祇園祭の山鉾巡幸の日、それがノアの方舟がアララト山に漂着したという7月17日なのだ、という。(剣山の渡御はたぶん担ぎ手の減少から2012年より例大祭後の最初の日曜日にされるようになっている)
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【大杉博・氏の日ユ同祖論者への転身】 |
大杉博・氏の「邪馬台国=四国山上説」はその後、日ユ同祖論へと「発展」しているようである。「北イスラエル十部族の大移動」、「聖櫃ア―クと日本民族を守った大和朝廷」を著し、日ユ同祖論の根拠を書きつけている。 |
(私論.私見) 大杉博氏のその後の日ユ同祖論考 |
大杉博・氏が日ユ同祖論を唱えることは勝手だが、れんだいこ史観に照らすと軽挙妄動の感がある。氏の日本古代史の解明がそういうところに辿り着いたことは、四国山上説の価値をも毀損することになるだろう。奇説は奇説を呼ぶの悪循環に入っていると思われる。この見地から、「邪馬台国四国山上説」を読み直してみたいと思う。但し、いつのことになるか分からない。 即興で確認しておくべきは、「大杉博・氏の邪馬台国=四国山上説」は、他の論者の邪馬台国論諸説を叩くには鋭い弁であるが、自身の邪馬台国論の陥穽に気づいて居ないところであろう。何より、全体の構図が皇国史観の枠内にあり、邪馬台国論で最も肝心肝要の出雲王朝系邪馬台国論の見地に立つべきところ、その反対側で持論を展開していることである。その挙げ句が、皇国史観の代わりに日ユ同祖論を据えていると云う構図である。全ては、出雲王朝系邪馬台国論に辿り着いていない故の咎である。 2013.5.12日 れんだいこ拝 |
【大杉博・氏の「古代ユダヤと日本建国の秘密」】 |
2001.10.20日、「古代ユダヤと日本建国の秘密」(日本文芸社)に、"阿波説"陣営の大物、孤高の境地におられる大杉博。高天原=邪馬台国は四国山中ということに加えて、ユダヤ起源を説いている。弘法大師・空海も深く関わっていた、弘法大師は修業時代に"阿波の秘密"を知ったに違いない云々。 |
【高木隆弘氏の「古代ユダヤと日本建国の秘密」】 |
2006 (平成18).9.11日、高木隆弘の 「記・紀の説話は阿波に実在した」(たま出版)から発行された。 プロフィールは:1937年生まれ。徳島県出身。郷土史家。1970年代の邪馬台国ブームをきっかけに、古代史を研究する。そして中国の正史倭伝、古事記、日本書紀の記述が阿波であると確信して、郷土の歴史を本格的に研究しはじめ、その研究成果を本書にまとめる。 |
【やまし氏の「邪馬台国=東四国説」】 |
2007年度現在、ハンドルネーム「やまし」氏が、「邪馬台国=東四国説」を主張している。同氏は、「邪馬台国東四国説」で、「記紀の神代の舞台は鳴門市大麻山周辺」、「卑弥呼の墓は、徳島県鳴門市大麻比古神社の丸山」としている。 |
【浜田秀雄氏の「邪馬台国=四国北岸説」】 | |
浜田秀雄氏は、古代阿波研究会の活動に触発されて「邪馬台国=四国北岸説」を唱えた。同氏は、著書「契丹秘史と瀬戸内の邪馬台国」(新国民社、1977年)において、邪馬台国を四国北岸、卑弥呼の居城を、松山市大峰台西南の台地斉院に求めた。 浜田氏は同書で、「四国説は四国の郷土氏家グループが主張していますが、学界では無視されています」と状況を述べ、契丹秘史、上記、宮下文書などのいわゆる古史古伝を用いて持説を裏付けている。同書カバーに出版社がつけたコピーは次のように述べている。
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【三島明・氏の「邪馬台国=北四国説」】 |
1992年、愛媛県伊予松山市在住の三島明氏は自費出版で、「新説古代史・神話と宇摩(天・邪馬台・日)」、1993年、「謎の女性像は卑弥呼!?-宇摩の不思議と古代史の解明-」、1994年、「邪馬台国は北四国,伊勢神宮となった」を著し、愛媛県宇摩郡を中心とする北四国に邪馬台国=高天原を求めている。三島氏によると「古代史の混迷は、九州や近畿との思い込み、また、統一の時期の思い込みなど、多くの思い込みに阻まれて、史実の扉が残されているのに、気付かないところから始まっている」という。三島氏は、西暦紀元前後の日本にはすでに伊予王朝による統一国家が存在し、記紀が伝える初期の大和朝廷の天皇は伊都国王と同様に邪馬台国の下位にあったとする(「邪馬台国は北四国,伊勢神宮となった」)。 |
【土佐文雄氏の「邪馬台国=土佐説」】 |
土佐文雄氏は、著書「古神・巨石群の謎」(リヨン社、1983年)の中で、概要「『邪馬壱国は阿波だった』を意外にしっかりしたきまじめな研究書」として好意的に紹介し、「邪馬台国土佐説」を採り、卑弥呼の居城を高知県香美郡土佐山田町の古神にある巨石群に求めた。ただし、同書は土佐氏のオリジナルな説を記したものではなく、地元の郷土史家、北山南・樫谷義広両氏の研究に基づいて制作されたテレビ番組「古神・巨石群の謎」(NHK高知放送局)の取材過程を記したノンフィクションである。土佐氏はその番組でリポーター役を務めた。 邪馬台国四国説では三国志倭人伝の方位で「南」とある箇所を「東」の誤りとするのが通例である。倭人伝に北部九州から先の行路に「南、邪馬台国に至る。女王の都する所、水行十日、陸行一月」と明記されている以上、方位の訂正なしで、九州の東にある四国に邪馬台国を持っていくことはできないからなのだが、土佐説だけは例外的に「南」のままで正しいとする。つまり、北部九州から九州東岸をそのまま南下して土佐を目指すことになる。 なお、NHKの取材が契機となり、今や古神巨石群は、「甦った・なる邪馬壹」、「平和日本お誕生ご所」、「倭華宮」、「日本のルーツ・ヤマトの国センター」、「とさ若宮日本蓬莱山邪馬台国センター」としてテーマパーク化されているという。もっとも、それを守っているのは樫谷義広ただ一人だそうだ(根本敬「イジメもやまる日本発祥の地」別冊宝島「全国お宝スポット魔境めぐり」、1998.4月所収)。 |
【新人物往来社の栄枯盛衰】 |
2008(平成20)年、"阿波説" を応援してきた新人物往来社が中経出版の子会社になる。翌年、中経出版が角川グループの子会社となる。2013(平成25)年)4月1日、中経出版に吸収合併されて社名が消滅。創業の1885年は明治18年で、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就いた年。 『淡路の神話と海人族』 (岡本稔/武田信一 著)。 |
【笹田孝至氏の「邪馬台国=阿波説」】 |
2011年、笹田氏が、地図と解説を一体化したユニークな"宮都阿波復元古代地図書" 『阿波から奈良へ、いつ遷都したのか』出版。吉野川両岸にずらりと並ぶ古墳の印。本書は株式会社アワード(阿波+道?)さんで購入できる。℡:088-625-3840 古代研究所の事務局は:awa-kodai*mf.pikara.ne.jp (*を@に替えてください) |
笹田孝至「阿波から奈良へ、いつ遷都したのか」。地図上の吉野川をはさんでずらりと並ぶ古墳群の赤い印に誰もが驚嘆する。 |
【三村隆徳氏の「邪馬台国=阿波説」】 |
阿波古事記研究会副会長/三村隆範「天照大御神は阿南で生まれた」。 |
【どなり古事記研究会発会】 | |
2012/11/1(「発会のごあいさつ 」。
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2012/12/20(「当ブログ・コンテンツのご利用について」。
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【林 博章(阿波歴史民族研究会・会長)の「倭国創生と阿波忌部」】 |
高校教諭で歴史研究家の林博章(阿波歴史民族研究会・会長)氏が「倭国創生と阿波忌部」、「日本の建国と阿忌部~麻植郡の足跡と共に~』」、最新刊「オオゲツヒメと倭国創生~日本の穀物起源神の原像~ 」は、いずれも"阿波説"の広がりと奥の深さを実感させられる力作。 2008/7/27「邪馬台国は四国にあった!?」。 阿波歴史民族研究会 http://www3.tcn.ne.jp/~aska/ 1965年生まれ。青山学院大学法学部卒。2005年3月鳴門教育大学大学院修士課程修了(地理学)。専門は、日本古代史・地理学・神話学・民俗学。阿波歴史民族研究会会長、徳島剣山世界農業遺産支援協議会副会長、鳴門渦潮高校教諭。日本農業史学会、地域農林経済学会、日本農業経済学会所属。文部科学省の奨励研究に「徳島県の先史時代遺跡に関する総合調査」、「古代環太平洋の海民文化の移動と展開」、「日本の盃状穴祭祀に関する総合調査」 。地球環境問題啓発のため、1995年に徳島アースフォーラム実行委員会を結成。1996年~1999年は、徳島市企画調整課の「ふれ愛まちづくり楽会」の塾長として、環境問題や歴史を生かした町づくり研究を実施し徳島市に提言。1997年は、国際オゾン層保護シンポジウムin徳島の開催。1998年は、全国ストップフロンリレーイベント講演会を主催、COP3京都会議へメッセージテントを送る。1999年に徳島市市民環境会議の副議長。 1996年より日本古代史の歴史研究に着手。2004年に阿波歴史民族研究会を発足、阿波再興と地域再生に向けて各産業界・市民・行政と連携して啓発・提案活動を行う。2006年より吉野川市の歴史講座の講師。2008年より徳島県の農業遺産調査を農業専門者と開始。県内外で数多くの講演依頼をこなす。 |
阿波古代史の研究界
『歴史読本』 (新人物往来社) の特集を文庫本にまとめなおした 『ここわでわかった! 邪馬台国』 という本を買いました(2011年・刊)。
まあ、阿波はスルーされているのだろうな、とは思いつつ。
ところが、ちゃんと"阿波地方説" が紹介されているではないですか。
さすが歴史読本!
そのラインナップは~
① 畿内大和説
② 九州地方説
③ 出雲地方説
④ 吉備地方説
⑤ 阿波地方説
⑥ 越後地方説
⑦ 東日本{千葉県/福井県/長野県/石川県/静岡県}/沖縄説
主役級の畿内説や九州説に対しては、"慎重に"とか"まだ証明されていない"という表現が多いのに対して、阿波説の紹介では若杉山出土の朱など、有利な要素の紹介が中心で、否定的なコメントはありません。
まあ、招待選手扱いなのでしょうかね。
ここで、私の手元にある"阿波説"関連の本を追いながら、先人・諸先輩の歩みに敬意を表したいと思います。
内容には(私にはまだまだ)触れられません。興味をお持ちの方はぜひ入手して研究してみてください。
1976 (昭和51) 年 6月10日に その新人物往来社から発行された 『邪馬壱国は阿波だった』 が嚆矢、阿波説の一の矢だったようです。
巻末に古代阿波研究会の面々の、錚々たるお名前が載っています:
事務局長 堀川豊平
編集委員 多田 至
板東一男
椎野英二
上田順啓
岩利大閑
磯野正識
なかでも岩利大閑氏は、上の本の原稿を堀川豊平先生から預かって東京の出版社へ持ち込まれたそうです。
(以下、阿波説関係の先生方のうち、ご存命の方は 先生、お亡くなりになった方は 氏 と呼ばせていただきます。)
先日お目にかかることのできた堀川先生によれば、その時に(おそらく出版社の判断で) 相当の部分が削除され、内容としては不本意なものになってしまったとのこと。
それでもこの本のインパクトは相当だったようです。
「阿波古事記研究会」 の三村隆範先生もはじめは堀川先生に学ばれたそうで、堀川先生もとても懐かしがっておられました。
この頃を "第一期 阿波説ブーム" とでも呼べるのかもしれませんね。
「邪馬台国」ではなく「邪馬壱国」としているのは、古田武彦氏が『史学雑誌』(昭和44年)に発表した説にもとづいているそうです。
5つの部族連合のことをヤマの五(イ)の国と称して、漢字で表せば「邪馬壹国」となる、というわけで「台(臺)」は「壹」の誤記だそうです。
なお、その5つの部族とは[海部(あまべ)]、[長(なが)]、[大粟(おおあわ)]、[忌部(いんべ)]、[物部(もののべ)]で、政治的意図で [忌部] の国が消されたと主張されています。
その後に岩利氏がキョーエイの社長の応援を得て出版されたのが、ご存じ 『道は阿波より始まる』 。
1985 (昭和60) 年 12月30日に発行されています。
あとがきによれば、「昭和57年8月、阿波国国史研究会 の会員や専門家用に、非売品限定本として出版された」とあります。
阿波国国史研究会 という独自の会を作られたのでしょうね。
1986 (昭和61) 年に続編の 『その二』、1989 (平成元) 年に 『その三』 が発行されています。
特に 『その三』 には阿波神代文字 が載っていて興味深いです。
歴史的な本 『大嘗祭』 もこちらでお願いできます。
発行当初は非売品、買うなら10万円ともいわれた写真満載のこの本も、在庫を早く一層したいという現経営陣のご意向でわずか1万円(+送料1,000円;2013年10月現在)。
残りが少なくなってきているそうです。
阿波古代史のみならず日本の歴史を研究されている方なら垂涎の大著、お見逃しなく。
1986 (昭和61) 年には、映画 『道は阿波より始まる』 のシナリオと解説として 『記紀は阿波一国の物語である』 という冊子が出版されたようです。
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/search?ndlaNaId=00167097
私が送っていただいたのは2011 (平成23) 年の版。
著者は岩利氏の弟子という 笹田孝至先生です。
この本のまえがきで笹田先生が岩利大閑氏の略歴を紹介されています:
岩利大閑氏(1925-1989、本名 岩佐利吉)は徳島市伊賀町生まれ。
父祖三代にわたって古代史の研究を続け、ついに皇祖の地・高天原が阿波であり、かつ、記紀時代の歴代天皇の皇都が阿波に存在したことを確信。その成果を昭和57~64年(平成元年)までの間に、『道は阿波より始まる(その一~その三)』 として著してきました。
著者は、昭和58年以来岩利大閑氏に師事し、そのご縁で映画の製作と当初の著作に携わる栄にあずかりました。
とのことです。
この笹田先生ご自身のことは巻末に年表式に:
1944年 徳島生まれ。
1979年 徳島市役所観光課在職中、邪馬台国阿波説をもとに阿波邪馬台国観光を推進する。
1983年 『道は阿波より始まる』 の著者岩利大閑氏に師事、古代史に引き込まれる。
2006~2009年 阿波古代史講座(全11回)を主宰。塾長として7度講師をつとめる。徳島歴史研究会主催。
2008年 古代史のコペルニクス的転回を企図し、NPO法人阿波国古代研究所を設立。調査報告講演会、古代史探訪バスツアー、大嘗祭御膳復活催事ほか活動を継続。
現在 NPO法人阿波国古代研究所代表、徳島歴史研究会会長。
その笹田先生が2011年に出版されたのが、地図と解説を一体化したユニークな"宮都阿波復元古代地図書" 『阿波から奈良へ、いつ遷都したのか』。
吉野川両岸にずらりと並ぶ(これでもごく一部だとか)古墳の印に感動します。
こちらは株式会社アワード(阿波+道?)さんで購入できます。
古代研究所の事務局は:
awa-kodai*mf.pikara.ne.jp (*を@に替えてください)
2006 (平成18) 年 9月11日にたま出版から発行されたのが、高木隆弘先生の 『記・紀の説話は阿波に実在した』。
プロフィールは:
1937年生まれ。
徳島県出身。郷土史家。
1970年代の邪馬台国ブームをきっかけに、古代史を研究する。そして中国の正史倭伝、古事記、日本書紀の記述が阿波であると確信して、郷土の歴史を本格的に研究しはじめ、その研究成果を本書にまとめる。
きっと上記の先生方の影響も受けつつ、独学で探究を続けてこられたのでしょう。
現在のご動静は分かりません。
そして"阿波説"陣営の大物、孤高の境地におられる 大杉 博 先生を忘れてはいけません。
高天原=邪馬台国は四国山中ということに加えて、ユダヤ起源を説いておられます。
そして弘法大師・空海も深く関わっていたというものです。
2001 (平成13) 年10月20日に日本文芸社から出版された、この本 『古代ユダヤと日本建国の秘密』 で私が初めて"阿波説"に出会ったような気がします。
1929年岡山県生まれ。法政大学法学部中退。宗教家。
1976年から古代史の研究に着手。
81年に倭国(いのくに)研究所を設立。
現在は倭国研究所所長を務めるかたわら日本史の謎の解明にとりくむ。
とあります。
とすると現在84歳でしょうか。お元気かな。
そういえば私は "阿波説" の前に、宇野正美先生のご本などの 日ユ同祖論 から入って徳島が気になったのでした。
『古代ユダヤは日本で復活する―剣山の封印が解かれ日本の時代が始まる』 (日本文芸社;1994年)という"その筋"のご本があることだけ、ご紹介しておきます。
剣山の夏祭りで神輿が頂上に担ぎ上げられる渡御は祇園祭の山鉾巡幸の日、それがノアの方舟がアララト山に漂着したという7月17日なのだ、というようなお話がどっさり出てきます。
(剣山の渡御はたぶん担ぎ手の減少から2012年より例大祭後の最初の日曜日にされるようになりましたが。)
奥祖谷の温泉旅館に泊まったとき、売店に大杉先生のご本がズラリと並んでいたのに感動しました。
その時に買った一冊。
弘法大師は修業時代に"阿波の秘密"を知ったに違いない、というもので、なかなかおもしろいです。
「次は、剣山へ登り、鍾乳洞の中に置かれている秘宝を見たはずである」というように、"はずである"から"なのである"へと続く論調で、学術書というよりも推理小説の面白さに近いかもしれません。
もちろん真偽はこれからの歴史が証明することであって、大杉先生、ズボシです!ということになるかもしれません。
のらねこ先輩も2009年のブログのコメントに 「…半信半疑でしたが、その後いろいろな本を読んだり、自分で調べたりすると「おいおい!」(本当に何度も、そう声をあげました)と衝撃を受ける事実と出合い、信偽の比率が変化してきました」 と書いておられます。
冒頭の新人物往来社の本で阿波地方説を担当した人は、大杉先生に会っています。
「いやあ、まいったなあ」という感じだったのを懐かしがっているようなのが楽しいです。きっとそのスケールの大きさに圧倒されたのでしょう。
以上の諸先輩がたとは一線を画して"阿波説"を追っておられる 林 博章 先生 (阿波歴史民族研究会・会長) は、今は忌部を手掛かりにしておられますが、日本から世界全体を視野に収めた新しい文化人類学を確立されそうです。
『倭国創生と阿波忌部』、『日本の建国と阿波忌部~麻植郡の足跡と共に~』、そして最新刊の 『オオゲツヒメと倭国創生~日本の穀物起源神の原像~』 は、いずれも"阿波説"の広がりと奥の深さを実感させられる力作。
年齢もこのお歴々のなかで最年少ですから、今後のご活躍が楽しみです。
なかなか壮観でした、でしょう?
いま間違いなく "第二期 阿波説ブーム" が起こっていますね。
本を出版していなくともそれぞれ探究を続けておられる諸先輩のブログの内容も濃厚ですし。
うわさではここ数年、何人もの著名な霊能者が "阿波入り" しているとか。
阿波の神社のどれかが、かつての "天河"や幣立""のようなパワースポットになるのも時間の問題かな。
いつ "全国区" のマスコミで継続的にとり上げられるか…。
林先生は今年3月25日、産経新聞 朝刊の一面 にオオゲツヒメが登場したのがきっかけになるぞ、と話しておられます。
確かに、近い予感・・・。
そのときに備えて、まずは徳島県内で諸説をぶつけ合って磨きをかけましょう。
その段階を経てこそ、今はローカルな ⑤ 阿波地方説 が国民周知の ② にも ① にもなる可能性が開けるのですから。
私もはこのブログを書きながら勉強を続けて、そんな議論に生きているうちに加われるようになりたいものです。
じっくり、でも急がなくては。
ご紹介した諸先生がお元気なうちに。
そして過疎化が進む阿波の山々(高地集落)に、人々の暮らしの明かりが灯っているうちに。
"阿波説" を温かく(たぶん)応援してきてくれた 新人物往来社 だって、2008(平成20)年に 中経出版 の子会社になり、その翌年には中経出版が 角川グループ の子会社となったことにより、2013(平成25)年)4月1日に中経出版に吸収合併されて 社名が消滅。
そう、時代はいつも流れ続けているのです。
お~い、急いでくれよ。
山間部でよく見かけるようになった人形たちが、期待してこっちを見つめている気がします。
***
P.S. 2014.4.2
洲本の書店 「成錦堂(せいきんどう)」さんへ行きました。
あの謎の本 「淡路の神秘~エル、エロヘ.イスラエル」 を出版された、淡路島の古代史研究の大本営のようなお店です。
洲本商店街にある一見普通の書店ですが、店主の湊さんとお話すると、まあオドロキ桃の木…。楽しいお話が尽きることはありません。
このブログを見てくださる方なら、ぜひ一度(時間に余裕をもって)お会いになってみられることをお勧めします。
地元密着に加えて(多くの人が"入りびたっておられるようでした")ネット通販に力を入れておられます。
そのページに右:注目のコンテンツの3つ目が "在庫世界一~淡路島の本"。
創業の1885年とは明治18年で、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就いた年。
洲本の"民度"の高さがうかがわれます。
「ちょうど倉庫から出てきたんだ、ラッキーだよ」とおっしゃる 『淡路の神話と海人族』 (岡本稔/武田信一 著)が平積みされていて、一冊頂きました。
さらに書架に 「一冊だけ残っていたのを飾ってある」 というのが・・・
おお・・・。
堀川先生の 『邪馬壱国は阿波だった』 の改定版?と思ったら、短編小説集で、表題作は昭和49年の徳島新聞社が募集した懸賞小説の入賞作だそうです。
『邪馬壱国は阿波だった』 の2年前じゃないですか。
もちろんいただいて帰りました。
調べてみると、この本のことは、さすがのらねこ先輩のブログに6年も前に紹介されていました:
そこで大杉 博さんの本を紹介されています。そのまま孫引きで:
邪馬台国阿波説を最初に発表したのは上板町の故・保田兵治郎 氏で、昭和36年地元の神社の古記録に 「粟散土国王在日弥子」 の記事を発見し、邪馬台国研究に入った。
そして阿波歴史研究会で 「邪馬台国阿波在国説」 を発表したのが昭和39年。
保田氏は昭和41年には 「建国日本秘匿史の解折と魏志倭人伝の新解訳」 を自費出版した。
この保田氏をモデルとして 「邪馬台国は阿波だった」 という小説を書いたのが 堤 高数氏。
(中略)
これらの足跡を受けて昭和51年に、古代阿波研究会というグループが「邪馬壱国は阿波だった」を出版したのである。
なるほど。
保田兵治郎さんは小説では猪田健治郎と名前を変えてあります。
本のあとがきに 「この小説にはモデルもあり、当時徳島新聞の夕刊に掲載されるなど、私にはいろいろな想い出がある。またこの小説は、その善悪は別として、現在徳島市が、邪馬台国阿波説を 『邪馬台国は阿波だった』 として、強力に観光宣伝を押しすすめている、そのひとつの淵源になったかもしれない」とあります。
そんな時代が実際にあったのですか・・・。
この小説との出会いで、私はまた一歩遡ったようです。
「粟散土 国王 在 日弥子」 ・・・。
その時代に生きた人たちが記録に残したものから受け継がれるこの大きな流れ。
ひと時のブームに終わらせず、わずかずつでも発展させていきたいものです。
△
1697
【徳川光圀の阿波及び淡路両国にある古代天皇の墳墓の調査命令】
四国の阿波に何か古代の秘密があるということに徳川光圀も気が付いていたようで、江戸に修史局を開き、大日本史の編纂に乗り出した後、元禄10年(1697)、突然、徳島藩や老中土屋相模守政直を呼びつけ、阿波及び淡路両国にある古代天皇の墳墓の調査を命じている。古代阿波国の重要性を嗅ぎつけていることになる。(山口敏太郎「急浮上、幻の古文書『阿波風土記』が裏付ける"邪馬台国四国説"、邪馬台国は阿波だった!?」参照)
1863
【池辺真榛が阿波国が日本のルーツとする所信を披瀝】
阿波出身の国学者である池辺真榛は、延喜式の研究を行い、故郷である阿波国が日本のルーツだと確信し所信を発表し始めた。
1863(文久3)年、池辺は阿波藩政を非議したという罪を被せられて身柄を拘束され阿波藩邸に監禁され、不審な死を遂げている。一説には毒殺されたとも云われている。
1872
【国学者・小杉榲邨が「阿波古風土記考証」を出版】
幕末から明治にかけて活躍した阿波出身の国学者・小杉榲邨(こすぎすぎむら)が阿波関係の古書、古文を網羅する「阿波国徴古雑抄」を発刊している。
1872(明治5)年、「阿波古風土記考証」を出版する。この時、邪馬台国阿波説においてキーとなる騒動を起こしている。何故か回収騒動に発展している。しかも、当時、蜂須賀家と徳川家にあったはずの阿波風土記の原本さえも所在が不明になっている。この回収騒動の理由は不明である。一説には天皇家のルーツに関わる記述があったため、明治政府が問題視して回収に踏み切ったとも云われている。阿波風土記の存在は妄想ではない。幕末の頃までは様々な文書に部分的に引用されている。例えば、阿波風土記逸文に「天より降りおりたる山の、大きなるは阿波国に降り下りたるを、あめのもと山といい、その山の砕けて大和国に降り着きたるを、あめのかぐ山という」とある。即ち、空から大きな山が阿波国に落ちてきた。その山が砕け散り大和国に落ちて、天香久山になったとされている。
今、この阿波風土記の所在が不明である。噂では宮内庁で厳重に保管されていると云われている。阿波藩では、幕末から明治初期にかけて、邪馬台国阿波説のメイン資料やキーマンが消されている。(山口敏太郎「急浮上、幻の古文書『阿波風土記』が裏付ける"邪馬台国四国説"、邪馬台国は阿波だった!?」参照)
1961
【保田兵治郎氏が邪馬台国阿波説を最初に発表】
1961(昭和36)年、上板町の保田兵治郎氏が邪馬台国阿波説を最初に発表した。これより前、地元の神社の古記録に「粟散土国王在日弥子」の記事を発見し邪馬台国研究に入っていた。
1966
【保田兵治郎氏が「建国日本秘匿史の解折と魏志倭人伝の新解訳」を自費出版】
1966(昭和41)年、保田兵治郎氏が「建国日本秘匿史の解折と魏志倭人伝の新解訳」を自費出版した。この保田氏をモデルとして「邪馬台国は阿波だった」という小説を書いたのが堤高数氏。
1975
【郷土史家・郡昇・氏の「邪馬台国阿波説」の登場】
1975年、郷土史家の郡昇・氏が「邪馬台国阿波説」を唱える「阿波高天原考」(自費出版)を自費出版。
1976
【古代阿波研究会の「邪馬台国=阿波説」】
1976(昭和51).6.10日、徳島県の郷土史家グループ古代阿波研究会が「邪馬壱国は阿波だった-魏志倭人伝と古事記との一致-」(新人物往来社)を世に問い、阿波説が全国に知らしめられることになった。
1977
【俳優・フランキー堺の注目】
俳優の故フランキー堺はこの「邪馬壱国は阿波だった」を読んで驚き、日本テレビのプロデューサー・山中康男氏との共同で、「いま解きあかす古代史の謎!ついに発見!! 幻の国・皇祖の地高天原」(出演・フランキー堺)を製作した。1977年、山中氏が、その時の取材調査成果を「高天原は阿波だった」(講談社)という書籍にまとめた。
1977
【浜田秀雄氏の「契丹秘史と瀬戸内の邪馬台国」】
1977年、浜田 秀雄氏が、古代阿波研究会の活動に触発されて「契丹秘史と瀬戸内の邪馬台国」(新国民社、1977年)を著し邪馬台国四国説を唱えた。邪馬台国を四国北岸、卑弥呼の居城を、松山市大峰台西南の台地斉院に求め た。浜田氏は同書において「四国説は四国の郷土氏家グループが主張していますが、学界では無視されています」として暗に古代阿波研究会のことに触れている。浜田氏は自説を裏付けるものとして契丹秘史、上記、宮下文書などのいわゆる 古史古伝を用いている。
同書カバーに出版社がつけたコピーは次の通り。
「山東省のラマ寺から発見された謎の契丹 秘史三千字(中略)。著者は二十年の研究によって遂に解読し、日本民族のルーツと邪馬台国のルーツについて重要な手がかりを得、倭人の実体を解明するとともに邪馬台国は四国松山に比定できるという驚くべき結論に到達した。更に魏志倭人伝と古事記と、上記・宮 下・竹内など従来統一できなかった各史書の綜合的な解明に成功し、これらの史書がすべて同一結論即ち邪馬台国松山説を示すことを考証し日本古代史のミッシングリングを埋めた」。
1979
【大杉博氏の「日本の歴史は阿波より初まる-天孫降臨の地を発見す-」】
1977年、「倭国(いのくに)研究会」を主宰し、邪馬台国四国説の論客でもっとも精力的に活動している阿波池田在住の郷土史家/大杉博・氏が、「日本の歴史は阿波より初まる-天孫降臨の地を発見す-」を自費出版した。
1929年、岡山県生まれ。法政大学法学部中退。宗教家。1976年から古代史の研究に着手。81年に倭国(いのくに)研究所を設立。現在は倭国研究所所長を務めるかたわら日本史の謎の解明にとりくむ」とある。宇野正美の日ユ同祖論。
1979
【大杉博氏の「ついに解けた古代史の謎」】
1979年、「ついに解けた古代史の謎」で「大和朝廷の秘密政策説」を発表。その後も自費出版で自説の発表を続ける。
1980,1993
【大杉博氏の「邪馬台国論争」】
1980年、大杉氏が、榎一雄・安本美典・奥野正男・古田武彦らの邪馬台国研究で高名な研究者たちに対して私信による論争を挑んだ。相手は61名の研究者と3団体に及び、その経過は「邪馬台国の結論は四国山上説だ-ドキュメント・邪馬台国論争」(たま出版、1993年)という本で公開されている。「たちまち沈黙してしまわれる」とある。
急浮上、幻の古文書『阿波風土記』が裏付ける“邪馬台国四国説”、邪馬台国は阿波だった!?
いつの時代も人の心を捉えて離さないのが邪馬台国論争である。主な仮説には九州説や畿内説があり、変わった比定地では愛知説、沖縄説、台湾説などがある。近年、邪馬台国ファンの間で熱く語られているのが、邪馬台国四国説である。かつて筆者の子供時代、『邪馬台国は阿波だった』という本が発売されて話題となったが、最近また、インターネットで邪馬台国四国説が注目を集めている。本稿ではその可能性を探ってみよう。方角的には九州説が有力だが、時間や距離があまりにも合わない。畿内説ならば距離的には申し分ないが、方角が全く違う。長らく九州説と畿内説が対立してきた理由はそこにある。それが畿内に近い四国東部に設定すると、方角と距離の矛盾が一気に解消されてしまうのだ。まず、末廬国などほぼ確定している地域は良しとして、九州北部から出航してみよう。九州と四国の間の洋上を南下したあと四国の南の沖合に回りこむ。さらに、四国の南の地域(室戸あたりか)に上陸、そのまま徳島まで陸路で行ったとしたら、畿内説や九州北部説より、方角と距離にまだ説得力はないだろうか。
四国の阿波に何か古代の秘密があるというのは、徳川光圀も気が付いていたようで、江戸に修史局を開き大日本史の編纂に乗り出した後、元禄10年(1697)、突然、徳島藩や老中土屋相模守政直を呼びつけている。そして、阿波及び淡路両国にある古代天皇の墳墓の調査を命じた。つまり、水戸黄門は古代の天皇の墓は淡路と徳島にあると睨んでいたのだ。
学者たちもきな臭い動きをしている。阿波出身の国学者・小杉榲邨は、邪馬台国阿波説においてキーとなる騒動を起こしている。明治5年、小杉が『阿波古風土記考証』を出版した時、何故か回収騒動に発展している。しかも、当時蜂須賀家と徳川家にあったはずの『阿波風土記』の原本さえも所在が不明になってしまったのだ。
この回収騒動の理由は不明である。一説には天皇家のルーツに関わる記述があったため、明治政府が問題視して回収に踏み切ったとも言われている。もちろん、『阿波風土記』の存在は妄想ではない。幕末の頃までは様々な文書に部分的に引用されているのだ。
ちなみに、幾つか残る『阿波風土記』の断片のうち、興味深いものを紹介しよう。だが、ここから先は次回に譲ろう。
(山口敏太郎)
https://www.excite.co.jp/news/article/Real_Live_47211/?p=2
“邪馬台国四国説”…卑弥呼を連想させる徳島県の特徴、後継者とも関連が?
それから、邪馬台国の条件の一つに、“柑橘類のある土地であった”というものがある。特別に記述したということは、ただ単に柑橘類が採れたという程度ではないだろう。かなり、柑橘類が豊富な土地であったという意味にとれる。この条件は様々な種類の蜜柑が育つ柑橘王国である徳島は申し分ない。さらに、魏志倭人伝の記述によると、邪馬台国の山には丹があるとされている。この丹とは水銀のことを指しており、徳島は水銀の産地である。つまり、邪馬台国の候補地には水銀丹(朱)の出る山がないといけないのだ。水銀産出跡地に関しては、徳島以外でも三重や和歌山でも確認できる。だが、どれも小規模なものであり、鉱山と呼ぶには程遠い。だが、我が徳島には、邪馬台国時代から続く水銀鉱山と呼ぶべき大きめの遺跡が阿南市にある。それが若杉山遺跡である。これこそが証拠の一つではないだろうか。
しかも、不気味なことに、この遺跡の周辺には、ヒルコ神社が二十数箇所鎮座しているのだ。ヒルコ(蛭子)という異形の神が守護するこの遺跡には、何か深い意味があるように思えてならない。このように蜜柑、水銀など、状況証拠は十分にある。
そして、邪馬台国の時代から続く「阿波忌部一族」も徳島の特殊性を裏付けている。1800年続くこの一族は、一時期中断してきたが、古代から現在まで天皇家が大嘗祭で着用する麻の衣服を献上してきた。阿波こそが天皇家のルーツ。邪馬台国である証拠ではないだろうか。
(山口敏太郎)
【邪馬台国四国説】新説!女王卑弥呼は阿波にいた?魏国への献上品は徳島産辰砂だった
1: 名無し 2020/01/02(木) 09:58:24.48
女王卑弥呼は阿波女だった?! 「畿内説」と「九州説」が対立する邪馬台国の所在地論争に、新たに徳島が名乗りを上げた。「新説」を唱える徳島商工会議所の若手経営者らが22、23の両日に徳島市内でイベント「第1回卑弥呼フェス!」を開き、「ひょっとしたら……」の町おこしに乗り出す。
きっかけは、卑弥呼が中国王朝に献上したとされる鉱物の採掘場所だった「若杉山辰砂(しんしゃ)採掘遺跡」(徳島県阿南市)が、国の史跡に指定される見通しになったことだ。辰砂とは朱色の原料となる鉱物で、この遺跡は辰砂の採掘場所として調査が進む全国唯一の遺跡。朱は古代、権力の象徴とされ、中国の三国時代の歴史書「魏志倭人伝」には、倭(日本列島)の山で採れた丹(辰砂)を、卑弥呼が中国王朝に献上したと記されている。
阿南市と県教委の2018年度の調査で、遺跡の坑道跡から弥生時代後期(1~3世紀)の特徴を持つ土器片が複数見つかり、卑弥呼の時代にも辰砂が採掘されていた可能性が高まった。国の文化審議会は6月、遺跡を国史跡に指定するよう文部科学相に答申した。
徳島商工会議所青年部はこうした動きに注目。歴史ロマンあふれる町おこしをしようと考えた。大阪の百舌鳥(もず)・古市古墳群が世界文化遺産に登録されたこともあってか、県内の古墳を巡るバスツアーも盛況といい、「古代史ブーム」に乗る狙いだ。歴史好きで今回のフェスを担当する同部事業委員会の山本高弘委員長(45)は「歴史を通して徳島を再発見したい」。
朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASM952QVHM95PUTB001.html
4: 名無し 2020/01/02(木) 10:01:19.10
水銀とか今の常識ではむしろ忌避したいものなのに
34: 名無し 2020/01/02(木) 10:33:24.79
>>4
辰砂は硫化水銀だから水には溶けにくいので
それほど有害でもない。まあ飲みたくはないけど
7: 名無し 2020/01/02(木) 10:03:04.06
丹とか丹生とかの地名の所は水銀が採れて、大和朝廷と関わりが有るらしいが辰砂も同じ水銀か
9: 名無し 2020/01/02(木) 10:04:14.77
地中海沿岸から領土を広げていった古代ローマみたいに、
瀬戸内沿岸を海伝いに支配していたんだろう
11: 名無し 2020/01/02(木) 10:05:03.47
阿波も勢力圏内だっただけじゃないか・・・
20: 名無し 2020/01/02(木) 10:18:47.25
>>11
だよな
12: 名無し 2020/01/02(木) 10:05:15.99
鳥居が赤いのは水銀を塗っていたから、武具の朱備えも同じだろう、権力の象徴、伊勢神宮付近も水銀が採れたらしい
31: 名無し 2020/01/02(木) 10:31:54.33
>>12
赤備えは
「目立つしカッコイイ」が正解
それ以上でもそれ以下でもないw
54: 名無し 2020/01/02(木) 11:28:49.94
毒…
>>12
赤は魔払い
30: 名無し 2020/01/02(木) 10:31:01.25
古代でも価値のあるものは、黒曜石とか翡翠とかいろんな産地のものが流通してなかったっけ?
55: 名無し 2020/01/02(木) 11:32:42.12
>>30
驚いたことに北の方からも流通があったとか読んだような
あと大陸とも
53: 名無し 2020/01/02(木) 11:28:02.74
日本は淡路島から生まれたんだし阿波説は古代史の連なるロマンがある
利権欲望で主張される九州畿内よりよほど楽しい
68: 名無し 2020/01/02(木) 12:28:25.99
>>53
そいや淡路島説ってないの?
四国だと、四国中央市説を唱えてる人もいたな
83: 名無し 2020/01/02(木) 14:36:59.96
畿内説や九州説も決定的な確証を持つ物証や発見があるわけでもなく
ボクが推測する邪馬台国の場所はココですでしかない。
86: 名無し 2020/01/02(木) 15:20:17.84
水銀と大和朝廷の関連性は深い、水銀鉱脈が尽きたら遷都してたのではなかろうか
87: 名無し 2020/01/02(木) 15:58:05.67
産地まではわからんやろ
熊本の阿蘇山産かもしれんし
奈良宇陀の大和水銀鉱山産かもしれん中央構造線
113: 名無し 2020/01/05(日) 20:45:22.83
阿波産か・・・・。であれば、邪馬台国はやはり畿内なのかな。
その後も歴史の中心は畿内だし。九州とかありえん。
115: 名無し 2020/01/05(日) 20:55:37.47
卑弥呼を共立した30ヶ国の中に阿波があったんやろなぁ
アワサク御魂
126: 名無し 2020/01/06(月) 19:32:11.28
無双の卑弥呼も阿波弁に訛らせないとな
https://note.com/qunqun0419/n/ne1808f0f9fb3
297.邪馬台国は四国にあった!「魏志倭人伝」から邪馬台国四国山上説を追う!
邪馬台国は四国にあった。
大和朝廷の大秘密政策によって、四国は死国にされていた。
邪馬台国四国山上説をご紹介しましょう。故・大杉博氏の次の著書を参考にしました。
・『邪馬台国はまちがいなく四国にあった』大杉博 1992/11/1
・『天皇家の大秘密政策―日本史転覆のシナリオ 大和朝廷の出自隠し1300年の密謀』大杉博 1995/7/1
・『古代ユダヤと日本建国の秘密―消えた「ユダヤの秘宝」と四国・剣山の謎』大杉博 2000/6/1
また、剣山TVのサイトも参考にしました。
大杉氏は、「魏志倭人伝」などの中国史書と記紀(『古事記』『日本書紀』)によって、邪馬台国四国山上説を証明しています。今回は「魏志倭人伝」に焦点を当てて話を進めていきます。
「魏志倭人伝」(正しくは『三国志』魏書東夷伝倭人の条)に、邪馬台国への行程と邪馬台国の特徴・様子を記したくだりがあることは、人口に膾炙するところです。この(1)邪馬台国への行程、(2)邪馬台国の特徴という、この2つをクリアしないと、当然「邪馬台国が○○にあった」などとは言えないことになります。
■邪馬台国への行程
「魏志倭人伝」は、邪馬台国への行程を次のように記しています。
帯方郡―(南→東)水行7000余里→狗邪韓国―渡海1000余里→対馬国―南・渡海1000余里→一大国―渡海1000余里→末廬国―東南・陸行500里→伊都国―東南・100里→奴国―東・100里→不弥国―南・水行20日→投馬国―南・水行10日陸行1月→邪馬台国
まず、方位についてです。明代に朝鮮で作成された「混一疆理歴代国都之図」などに見られるように、当時の中国では日本列島を右下がりに認識していたことを踏まえなければなりません。つまり、東とあるのは実際には「北」、西は「南」、南は「東」、北は「西」と、そのように「魏志倭人伝」では認識していたということです。そこで、九州地方に当たる末廬国以降の方位を現在の方位へ直すと次のようになります。
末廬国―北東・陸行500里→伊都国―北東・100里→奴国―北・100里→不弥国―東・水行20日→投馬国―東・水行10日陸行1月→邪馬台国
ここにおいて、方角も距離も全く合わない邪馬台国九州説は間違いということになります。
次に、投馬国から邪馬台国に至るところに「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」という記述があります。この「水行十日陸行一月」は、中国人学者・謝銘仁氏によれば、『「水行十日陸行一月」のところは文脈的にはすらりと「OR式」で読めますよ。ぜんぜん無理がないですよ』(『歴史と旅・臨時増刊号』昭和59年8月20日)とのこと。つまり「水行十日あるいは陸行一月(水行すれば十日だが、陸行すれば一月かかる)」という読み方です。
ここにおいて、邪馬台国畿内説は間違いということになります。
邪馬台国畿内説は「水行十日と陸行一月」と、ANDで読まなければ成り立たないからです。大体において、この「魏志倭人伝」は途中立ち寄る場所が明記されているのですが、「水行十日と陸行一月」とした場合、水行十日したあとに立ち寄った場所が書かれていないことは大いなる矛盾です。
以上、「魏志倭人伝」の邪馬台国への行程を素直に読めば、畿内説も九州説も当てはまらないことがよくわかります。そこで四国山上説の登場となるわけですが、「魏志倭人伝」の途中国の描写も踏まえれば、途中国は次の場所に比定できます。
・狗邪韓国=釜山あたり
・対馬国=対馬
・一大国(一支国)=壱岐
・末廬国=佐賀県唐津市あたり
・伊都国=福岡県糸島市前原あたり
・奴国=福岡県福岡市あたり
・不弥国=福岡県宗像市あたり
・投馬国=高知県宿毛市あたり
・邪馬台国=玄関港は徳島県徳島市あたり
■邪馬台国の特徴
1.「邪馬台国」という名称
「邪馬台国」は「おかしな馬を台にしたような国」という意味で字が当てられています。これは、当時の中国人が倭国(女王国)を見てイメージしたものですが、四国の山上は山焼きの風習によって山上に樹木がなく、高地性集落を結ぶ幹線道路が山並みの頂上を縦走するように付けられていました。その道路を歩くと、変な馬の背中を歩いているような感じになり、「邪馬台国」という文字に符合します。
2.女王国の周辺国
邪馬台国には、斯馬国以下21の国々が外側からくっついたように存在していました。「魏志倭人伝」には「此女王境界所盡(此れ女王の境界の尽きた所なり)」とあり、『広輿図』には「皆附倭境(皆、倭国の境に附いている)」とあります。この21の国々の場所を比定すると次のようになりますが、こうした場所が比定できるのは四国だけです。
3.邪馬台国の風俗・習慣・物産はみな四国山上に収斂する
「魏志倭人伝」には、邪馬台国の生活の様子が実に生き生きと描写されていますが、それらを四国山上に当てはめると次のようになります。
(⭕=証拠能力が特に大きいと思われるもの、◎=証拠能力がかなり大きいもの、○=符合するもの、△=矛盾しないと思われるもの、×=矛盾するもの)
△黥面文身(いれずみ)す/△断髪文身/◎木綿(ゆう)を以て頭にかけ/◎禾(か)や稲をうえる/◎紵麻(ちょま)をうえる/◎蚕桑緝績(さんそうしゅうせき)する/⭕牛なし/⭕馬なし/○虎なし/○豹なし/○羊なし/◎鵲(かささぎ)なし/◎矛(ほこ)を用う/△楯(たて)を用う/△木弓を用う/○温暖/◎朱丹を以て其の身体に塗る/○籩豆(たかつき)を用う/◎棺有るも槨無く/○真珠を出す/⭕青玉を出す/⭕其の山には丹有り/○柟(くす)あり/○杼(とち)あり/○豫樟(くすのき)あり/○楺(ぼけ)あり/○櫪(くぬぎ)あり/△投(かや)あり/○橿(かし)あり/○烏号(やまぐわ)あり/○楓香(おかつら)あり/○篠(しの)あり/○簳(やだけ)あり/△桃支(かずらだけ)あり/○薑(しょうが)あり/⭕橘(たちばな)あり/○椒(さんしょう)あり/○蘘荷(みょうが)あり/○彌猿(おおざる)あり/○黒雉(くろきじ)あり/○骨を灼きて卜す/○酒を嗜む/○手を摶(う)ち以て跪拝(きはい)に当つ/○両手は地に拠り、之が恭敬を為す/○対応の声を噫(あい)と曰う。
邪馬台国の特定に関係ないものを除いたこの45項目において、⭕と◎と○が39項目と、こんなに一致する場所は他にはありません。
特に、(1)「無牛馬(牛馬なし)」とありますが、四国山上には飲用の池が多数存在し、それが糞尿で汚されないように牛馬を上げなかったこと(九州や奈良からは牛馬の骨や化石が出土)、(2)「其山有丹(その山に丹有り)」と邪馬台国に辰砂(水銀朱)が出る山があるとの記述は、徳島県阿南市の若杉山遺跡のみに見られるものであることは、邪馬台国四国山上説を裏付ける重要な記述です。
また、(3)「種禾稻(禾稲(かとう)を種(う)える)」というのは「粟(あわ)・稗(ひえ)・稲などを植える」という意味で、四国が粟と稗の産地であり、七万余戸の邪馬台国の食糧自給を満たすに足る地域であること(奈良盆地や九州では食糧を満たせない)、(4)「有棺無槨(棺有るも槨無く)」は阿波に多く出土する箱式石棺を指すこと、(5)「出真珠(真珠を出す)」は徳島の海で真珠が採れていたのを指すことなども、邪馬台国四国山上説を裏付けます。
そもそも、邪馬台国は「七万余戸ばかり」とあるように大きな国です。そして、斯馬国などの21の国々がその境界にくっついて存在していました。こうした邪馬台国の特徴を子細に眺めれば、畿内説や九州説は当てはまらず、四国山上説が真実であることがわかります。
■「魏志倭人伝」の重要な記述のまとめ
ここで「魏志倭人伝」の中の重要な記述についてまとめておきましょう。
・邪馬台国への行程(前述)
・邪馬台国には斯馬国以下21の国々が外側からくっついて存在していた
・邪馬台国は七万余戸ばかりの大きな国である
・牛馬がいなかった
・辰砂が出る山がある
これらの記述、つまり邪馬台国への行程と邪馬台国の特徴をすべて満たしている所が、すなわち邪馬台国となるわけです。さて、九州や畿内はそれらを満たしているのでしょうか。答えは明らかです。
「魏志倭人伝」を子細に分析すれば、邪馬台国は四国でしかあり得ないことがよくわかります。
■四国は死国にされていた
四国はまだまだ謎が多い所です。宮廷の祭祀を司る阿波忌部一族、天皇陛下の即位大嘗祭のときに昔から麁服(あらたえ)を貢進している徳島県木屋平村の三木家(四国がなければ天皇陛下はご即位できません)、徳島県国府町の八倉比売神社にある卑弥呼の墓、四国八十八札所などで空海が隠そうとした剣山・・・。
ここで『古事記』の島産みを取り上げましょう。伊邪那岐命(イザナギのみこと)と伊邪那美命(イザナミのみこと)のくだりです。
ここでは、淡路島→四国→隠岐島→九州→壱岐島→対馬→佐渡島→本州という順に日本の島が誕生したとあります。ではどうして、一番が淡路島で、二番が四国なのでしょうか? ここには大きな謎が隠されていると思えてなりません。
途中になってしまいますが、今回はこの辺で。最後に動画をどうぞ。
エッ! 邪馬台国は四国にあった? (その6)
【現代語訳6】
その行程を計測すると、倭国は会稽の東にあることになる。
その風俗は淫らではない。男子は皆かぶりものをせず、木綿を頭に巻いている。衣服は横幅衣でただ結んで束ねてつなげ、ほとんど縫っていない。女性は束ねた髪を結っていて、衣服は中央に穴をあけ、そこから頭を出して着ている。
稲や苧麻を植え、桑で蚕を飼い、紡いで細い麻糸、綿、絹織物を作っている。
その土地には、牛、馬、虎、豹、羊、鵲(セキ)はいない。
武器は矛、盾、木の弓を用い、弓の下部を短くして上部を長めにしている。竹の矢に鉄の矢じりや骨の矢じりを用いる。産物の有無はタンジ(地名?)や朱崖(地名?)と同じである。
倭の地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べる。みな裸足である。家屋には居室があり、父母兄弟は寝るところは別々である。中国で粉を用いているように、朱丹を体に塗っている。飲食(の食器)には高杯を用いて、手掴みで食べる。
上記は魏志倭人伝の第2章「倭國の風俗」にあたる部分の抜粋です。この文の冒頭に登場する会稽とは中国の秦代から唐代にかけて存在した郡の名称で、揚州東部の長江下流域、現在の中華人民共和国浙江省紹興市付近がその中心とされています。「倭国は会稽の東にあることになる」と書かれていますが、倭國の中心(邪馬台国)が四国にあったとすると、まさにその通りの位置関係です。
上記の文中に「その土地には、牛、馬、虎、豹、羊、鵲(セキ)はいない」という一文があります。そこに出てくる鵲(セキ)とは"カササギ"のことです。カササギは、スズメ目カラス科に属する翼を広げると幅が60cmほどになる比較的大型の留鳥で、別名をカチガラス、もしくはコウライガラス(高麗烏)といいます。標高100m 以上の山地には生息せず、人里を棲家(すみか)とし、人里の大きな樹の樹上に球状の巣を作り繁殖します。コウライガラス(高麗烏)の名のとおり朝鮮半島では極々身近な鳥で、吉兆の鳥とされ、韓国では"国鳥"とされています。なので、朝鮮半島にある帯方郡からやって来た役人は、牛、馬、虎、豹、羊という獣に混じってわざわざ鵲(セキ)、すなわち"カササギ"という鳥のことを取り上げて、「鵲はいない」と報告したのだと思います。
Wikipediaによると、このカササギ、日本では北海道、新潟県、長野県、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県で繁殖が記録されていて、秋田県、山形県、神奈川県、福井県、兵庫県、鳥取県、島根県、宮崎県、鹿児島県の各県、島嶼部では佐渡島と対馬で生息が確認されているとされています。主に九州北部をはじめとする日本海側にしか生息していない鳥で、日本では生息地ごと天然記念物に指定されています。ちなみに、"カササギ"は佐賀県の"県鳥"で、佐賀県にあるサッカーJ1のチーム「サガン鳥栖」のエンブレムやマスコットにも使用されています。生息分布が現在とは微妙に異なるかもしれませんが、昔いた鳥が絶滅していなくなることはあっても、昔いなかった鳥がその後いるようになって、おまけに生息地を定めた国の天然記念物、さらには県という自治体を代表する"県鳥"に指定されるというのはよっぽどのことです。このことは、大変に申し訳ないことですが、北部九州に邪馬台国はなかった…ってことを意味するのではないかと私は思うのですが…。で、このカササギ、標高100m 以上の山地が多い四国ではこれまで生息が確認されておりません。もちろん、四国には野生の牛や馬、虎、豹、羊も生息していません。
佐賀県公式HP
また、倭の土地は一年中裸足で過ごせるほど温暖であること。稲や貯麻(カラムシ)を植え、桑で蚕を飼って紡績をおこない、麻糸・絹・綿を産出すること。冬でも夏でも生野菜を食べること…等が書かれています。この文章を読む限り、邪馬台国が四国にあったことを否定するものは何一つ見つからないのですが、反対に、この魏志倭人伝の第2章「倭國の風俗」にあたる部分の続きには、邪馬台国が四国にあったことを裏付ける極めて決定的な一文があるのを見つけました。それがこれです。
【現代語訳6´】……原文は【原文6】後半参照
真珠、青玉を産出する。山には丹を産出する。樹木には、トチノキ、クスノキ、?、クヌギ、?、カシ、?、カエデ等があり、竹類には、ササ、ヤタケ、カヅラダケ等がある。生姜、橘、山椒、茗荷もあるが、滋味ある食物として利用することを知らない。猿や黒雉もいる。
トチノキ、クスノキ、クヌギ、カシ、カエデ…といった温暖な地に自生する落葉広葉樹や常緑広葉樹の名称が並んでいることから、邪馬台国は本当に温暖なところにあったということなのでしょうね。生姜や橘、山椒、茗荷も自生しているということですから、なおのことです。
で、ここで注目すべきは、この段落の先頭の「"真珠"、"青玉"を産出する。山には"丹"を産出する」という一文です。
"真珠"はここで私が申し上げるまでもありません。愛媛県の宇和海は日本最大の真珠の生産地です。現在、宇和海の真珠は養殖がほとんどですが、量・質ともに日本一の真珠が採れるということは、温暖な海水とリアス式海岸の小さな入り江が連なる穏やかな宇和海が、もともとアコヤガイをはじめとする貝類が真珠を生成するのに適した極めて恵まれた自然環境にあるということです。日本は古くから真珠の産地として有名だったのですが、現在真珠の養殖で知られている宇和海や英虞湾(三重県)では古くから天然の真珠が豊富に採れていたところだったのではないか…と容易に推定されます。その宇和海(投馬国)で採れた真珠は、おそらく現在の国道439号線(高知県の四万十市から四国山地の山中を東西に横断するように徳島県徳島市まで延びる道路)を使って邪馬台国の卑弥呼のもとに届けられたのでしょう。(写真は愛媛新聞社様からご提供いただいたものです:2013年8月22日付「宇和 真珠」 G20180501-04214)
注目すべきは次の"青玉"です。皆さんは「伊予の青石」、「石鎚の青石」という石があるのをご存知でしょうか。青々とした色と変化に富んだ模様が美しい全国的にも珍しい石で、古都京都をはじめ日本全国の数々の名庭園に景石として使用されています。「伊予の青石」、「石鎚の青石」の名前の通り、主に愛媛県の中部で採れる岩石で、西日本の中央構造線に沿った三波川変成帯に分布し、三波川結晶変岩と言われています。特に、西条市、西日本最高峰の石鎚山から流れ出る加茂川流域が一番の産地で、賀茂川流域の河川で採れる川砂利や川石の中から容易に見つけることができます。西条市を流れる賀茂川や中山川の上流あたりに行くと、なぁ~んとなく岩が暗い緑色をしていることに気がつかれると思います。それがこの「伊予の青石」、「石鎚の青石」です。私は母の実家が西条市(旧周桑郡丹原町)にあった関係で、子供の頃、よく中山川の河原で遊んだことがあるのですが、そこで宝石のように鮮やかな青緑色をした「伊予の青石」、「石鎚の青石」を拾って、大事に家に持ち帰った記憶があります。(写真は愛媛新聞社様からご提供いただいたものです:2007年8月11日付「加茂川」 G20180501-04215)
この青石、正式名称を緑泥片岩(クロライト)と言います。アルミニウムや鉄、マグネシウムを含むケイ酸塩鉱物である"緑泥石"を主成分とする結晶片岩で、何億年も前に海底に堆積した土砂が大陸プレートの沈み込みによって地下20km~30kmの深さに潜り込み、温度約200℃~300℃、約600~700気圧と言う比較的低温高圧の変成作用を受けてゆっくりと形成された岩石です。その地中深くにおいて形成された岩石が日本列島の背骨とも言える中央構造線の隆起によって、さらに何億年という長い年月をかけて再び地表に現れたものです。北西方向に進んできた密度の高い海洋プレートであるフィリピン海プレートが、密度の低い大陸プレートであるユーラシアプレートと衝突してその下に沈み込む南海トラフが四国のすぐ南の太平洋の水深約4,000mの深い海底にあり、さらには、そのすぐ近くに今も何億年もかけてゆっくりと隆起活動を続ける中央構造線が東西に走る四国、それも愛媛県の西条市付近でしか採れない美しい石なのです。
(その5)に示す大杉博氏の考察によると、現在の西条市あたりには都市国家連合として邪馬台国を支える国々であった姐奴国、對蘇国、蘇奴国があり、そのあたりでたくさん採れた青玉はおそらく陸路(香川県の坂出市から剣山の8合目付近に延び、そこで国道439号線と合流する現在の国道438号線)を使って邪馬台国の卑弥呼のもとに届けられたのではないか…と考えられます。
西条市公式HP
また、新居浜市から西条市にかけての中央構造線に沿った三波川変成帯には、「えひめ翡翠(ヒスイ)」と呼ばれる大変美しい緑色をした岩石を産出する場所があります。翡翠(ヒスイ)と称していますが、正式な鉱物名としてはスメクタイト(ニッケル珪質岩)と呼ばれ、残念ながら宝石の翡翠(硬玉)とは全く異なる種類の鉱物なのですが、翡翠と非常によく似た美しい緑色を呈していることから「えひめ翡翠」と呼ばれ、翡翠に比べて硬度が低く(柔らかく)、勾玉(まがたま)等への加工が容易なことから、古代には翡翠の代用品としてむしろ重宝がられたようです。(余談:鉱物学的には「翡翠」と呼ばれる石は化学組成の違いから「硬玉(ジェダイト:ヒスイ輝石)」と「軟玉(ネフライト)」に分かれます。実は中国では軟玉しか採れず、古代中国では軟玉の翡翠が価値ある宝石とされ、"玉"と呼ばれてきました。「えひめ翡翠」はその「軟玉」に類するものと捉えればよろしいかと思います。)
翡翠の名称にふさわしく鮮やかな緑色を発色する素になっているのが金属のニッケル(Ni)。実は宝石の翡翠も化学的に純粋なヒスイ輝石の結晶は無色で、翡翠はこのヒスイ輝石の細かな結晶の集まりのため白色となります。翡翠が鮮やかな緑色等の様々な色を持つのは石に含まれる不純物である鉱物が発色する色のためです。日本では翡翠は鮮やかな深緑色の宝石という印象が強いのですが、鮮やかな緑色のものはクロム(Cr)やニッケル(Ni)、落ち着いた緑色は二価鉄(Fe)が発色の原因となっています。「えひめ翡翠」は宝石の翡翠とは鉱物としては別の種類のものですが、含まれる含有物は極めて似ています。前述の「伊予の青石」、「石鎚の青石」もおそらくニッケルやクロムを大量に含んだ結晶片岩だったということなのでしょう。
ニッケル(Ni)は耐食性、熱伝導性、電気伝導性に優れ、現在ではステンレス鋼の材料であるため需要は極めて多い金属です。光沢があり耐食性が高いため装飾用のメッキ(鍍金)に用いられることも多く、また武器製造に使用する特殊鋼や薬莢の材料である白銅の原料として極めて重要であるため、国家が備蓄し、平時は硬貨として流通させ、有事に際しては他の素材の硬貨や紙幣で代替して回収したりするほどの金属です。日本でも第二次世界大戦直前の昭和8年(1933年)から昭和12年(1937年)にかけて、5銭と10銭のニッケル硬貨が発行されているのですが、その目的は迫り来る戦争に備えるためでした。翡翠と見紛うほどの美しく輝くような緑色をした石が採掘されるということは、それだけ純度の高いニッケル鉱が採れるということで、西条市の加茂川流域には、かつてニッケルを採掘するための黒瀬鉱山という鉱山がありました。黒瀬鉱山は、当初、石筆や白墨などの原料となる滑石(かっせき:水酸化マグネシウムとケイ酸塩からなる鉱物)の採取を目的に大正時代に開坑した鉱山なのですが、採掘の途中で大規模なニッケル鉱床の露頭を発見してニッケルを対象にした鉱山に移行。第二次世界大戦終結までニッケルの採掘を継続したのですが、戦後は再び滑石の採取に戻りました。しかし、安価で良質な滑石やニッケルが海外から大量に輸入されるようになり、昭和26年(1951年)に操業を休止。閉山されたまま、現在は黒瀬ダムの湖底に眠っているようです。
余談になりますが、四国を東西に貫き、標高1,982メートルの西日本最高峰の石鎚山を含む四国山地という天険を形成する大断層帯である中央構造線。中央構造線は地中深くで生成された鉱物が激しい断層活動で地上付近にまで押し出されてきたようなところです。特に四国中央市(旧宇摩郡土居町)と新居浜市(旧宇摩郡別子山村)の境界に位置する標高1,706mの東赤石山周辺にはマントル物質と見られる橄欖(カンラン)岩、さらには橄欖岩が水を含んで変質した蛇紋(ジャモン)岩が広く分布しています。また、東赤石山から西には三波川変成帯のうち三縄層と呼ばれる地層にはキースラガーと呼ばれる含銅硫化鉄鉱の鉱床が地表付近に集中して発見されていて、別子銅山もその一つです。三波川変成帯は地下資源の宝庫とも呼べるところで、別子銅山(黄銅鉱・鉄)以外にも、佐々連(さざれ)鉱山(金・銀・銅・鉛・亜鉛・硫化鉄)、新宮鉱山(銅・鉄鉱石)、基安(もとやす)鉱山(銅)、愛媛鉱山(銅・亜鉛・磁鉄鉱)、市之川鉱山(アンチモン)、報国鉱山・鞍瀬鉱山(マンガン)、赤石鉱山(クロム)…など多くの鉱山があり、採掘される金属も銅や鉄だけでなく、実に様々なものがありました。
また、三波川変成帯とは外れますが、中央構造線沿いには伊予郡砥部町に古宮鉱山(銅・水銀・マンガン・アンチモン)、広田鉱山(銅・硫黄)、横道鉱山(輝安鉱)、銚子滝鉱山(金・銀・銅・アンチモン)、万年鉱山(アンチモン)といった小規模の鉱山がありましたし、伊予市中山町には中山鉱山、寺野鉱山、二川登鉱山、佐礼谷鉱山といった銅や硫化鉄が産出される小規模の鉱山が幾つかありました。喜多郡内子町には愛媛県第2位の銅の採掘量を誇った大久喜鉱山がありましたし、佐田岬半島周辺にも幾つかの小規模な銅鉱山がありました。中央構造線の南側にあたる南予地域にも、生山鉱山、蔵貫(くらぬき)鉱山、大平鉱山、明間(あかんま)鉱山といったマンガンが採掘できる鉱山がありました。ちょっと調べただけでも、ここに書ききれなかった小規模の鉱山が他にもいっぱいありますが、すべて掘り尽くしたのか、あるいは海外からの安価な輸入品に押されたのか、上記の鉱山はすべて既に閉山されています。愛媛県に限らず、徳島県にも多くの鉱山の跡が残っていて、四国の中央構造線に沿った一帯は、今では考えられませんが、かつては鉱物資源の宝庫のようなところでした。このことも四国の歴史を探求するうえで、極めて重要なキーワードになります。写真は良質なアンチモンが採掘されることで世界的に有名だった西条市の市之川鉱山跡に残る千荷坑です。現在はコンクリート壁で塞がれています。四国、特に愛媛県の中央構造線沿いにはこうしたかつての鉱山跡が多数残されています。(写真は愛媛新聞社様からご提供いただいたものです:1999年7月24日付「市之川鉱山跡」 G20180501-04216)
いずれにしても、「伊予の青石」、「石鎚の青石」、「えひめ翡翠」…と、愛媛県は古くから美しく輝く宝石のような青緑色をした石を産出するところとして有名で、魏志倭人伝に出てくる"青玉"とは、おそらくそれらの石を勾玉(まがたま)等に加工したもののことを指すと思われます。
そして、これも鉱物資源に関することですが、魏志倭人伝の中に書かれていることでさらに決定的なことが"丹"を産出するという一文です。"丹"とは辰砂(硫化水銀)のことです。希少金属である水銀(Hg)はこの丹(辰砂)を精錬することにより採れます。辰砂、すなわち硫化水銀(HgS)は地球の内部にあるマグマや水脈の中で約650℃~1000℃、2000気圧~4000気圧といった高温、高圧力の中で生成され、地殻変動(中央構造線の隆起)によって何億年もの年月をかけて地表に押し上げられることにより徐々に温度と圧力が低下し、長い時間をかけて少しずつ結晶体に成長してできたものです。中央構造線が東西に横切るように通る四国山地の一帯は、その昔、辰砂(硫化水銀)の一大産地でした。ちなみに、徳島県阿南市水井町にある若杉山遺跡からは辰砂から硫化水銀を取り出す際に用いたと思われる石臼や辰砂そのものの原石が発見されており、3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの古墳時代における水銀採取遺跡として知られています。3世紀半ば過ぎと言えば、まさに魏志倭人伝が書かれた時代、邪馬台国と卑弥呼の時代です。
魏志倭人伝の第2章「倭國の風俗」にあたる部分には「中国で粉を用いているように、朱丹を体に塗っている」という表現もありました。昔は水銀(塩化水銀)を用いた白色顔料(いわゆる白粉(おしろい)です)が化粧品として広く使われていましたが、ここでは朱丹、すなわち赤色をした丹を体に塗っているということです。辰砂(硫化水銀)はまさに不透明な赤褐色の塊状、あるいは透明感のある深紅色の菱面体結晶として産出されます。おそらくそれを粉末に粉砕して体に塗っていたということでしょう。それも一般庶民が普通に体に塗っていたということは、それだけ大量に丹が採れていたことを意味しています。
また、魏志倭人伝の文章を読むと「出真珠青玉、其山有丹」と、真珠と青玉は"出る"という表現なのに対して、丹は"山に有る"という表現をしています。ここに微妙な差を感じます。すなわち、真珠と青玉はたいして苦労をせずとも海や河原でいっぱい採れる、言ってみれば"拾える"という意味で、丹は山にあるのだけれど、手間をかけて掘り出し、精錬しないといけないという意味の微妙な違いなのではないでしょうか。もしそうだとすると、魏志倭人伝を含む三国志を西晋の初代皇帝・司馬炎(武帝)に命じられて編纂した陳寿は、メチャメチャ博識で文才がある相当実務能力の高い人物だということができます。おそらく現代に生きていてもトップクラスのビジネスマンになっていたのではないかと想像できます。
ちなみに、魏志倭人伝の一番最後の文章は次の通りです。
【現代語訳7】
倭の女王卑弥呼は、もとから狗奴国の男王卑弥弓呼と不和であった。倭の載斯烏越らを帯方郡に送って、狗奴国と攻撃しあっている様子を報告した。郡太守は塞曹掾史張政等を遣わし、詔書と黄幢を難升米に授け、激文をもって卑弥呼に告諭した。
卑弥呼が死んだ時、倭人は直径百余歩の塚を盛大に作った。奴稗百余人が殉葬された。
あらためて、男王を立てたが、国中が服さず、お互いに殺し合った。この時千余人が殺された。再び卑弥呼の宗女の壱与という十三歳を立てて王とし、国中はやっと治まった。
張政らは激文を発して、壱与に告諭した。壱与は、倭の大夫率善中郎将掖邪狗ら二十人を派遣し、張政等が帰国するのを送らせた。
このおり掖邪狗らは洛陽に行き、男女の奴隷三十人を献上し、白珠(真珠)を五千個、青く大きい勾玉(まがたま)二枚、異文雜錦二十匹を献上した。
その一番最後の部分に「白珠(真珠)を五千個、青く大きい勾玉(まがたま)二枚、異文雜錦二十匹を献上した」と書かれています。もちろんその勾玉は青玉(伊予の青石、あるいはえひめ翡翠)を加工したものでしょう。"異文雜錦二十匹"とは、様々な色糸を用いて織り出された異なる柄の絹織物20反という意味ではないかと想像します。魏志倭人伝には「稲や苧麻を植え、桑で蚕を飼い、紡いで細い麻糸、綿、絹織物を作っている」という一文もありますから、絹織物も当時の邪馬台国の特産品だったのでしょう。献上品は一目見ただけで自国の凄さを自慢できる、あるいは自国の魅力を誇示できるような特産品を贈るのがふつうだったでしょうから、大量の美しい真珠と、「伊予の青石」や「えひめ翡翠(軟玉)」といった青玉を加工した美しい勾玉、そして色鮮やかな絹織物は邪馬台国(及びその周辺の連合都市国家)を代表するような特産品だったってことがこの一文から読み取れると思います。
もうこれは論理的に否定しようもない決定的な証拠になりますね。"状況証拠"が恐ろしいくらいに揃いすぎています。この「真珠と青玉と丹を産出する」という一文の存在を持ってすれば、もうこれだけで邪馬台国は四国にあったと言わざるを得ません! むしろ、邪馬台国があった場所を特定するためには、まず「海に囲まれた島の中にある周囲が400~500kmのところで、海を挟んで東に約80km行ったところに比較的大きな陸地があり、温暖で、稲や貯麻(カラムシ)を植え、桑で蚕を飼って紡績を行い、麻糸・絹・綿を産出することができるところ。また、冬でも夏でも生野菜を食べることができ、裸足で過ごすことができるところ」の中から「カササギが生息していなくて、真珠と青玉と丹を産出する場所」ということで大まかな候補地を選び、その場所の中から第25回で述べた邪馬台国までの旅程を当てはめて、さらに詳細な場所の特定を行う…といったアプローチのほうが論理的で、より近道なのではないのか…と思えるほどです。
実は私はこの順番によるアプローチで、邪馬台国は四国にあったという大胆すぎるくらいに大胆な仮説を導き出しました。最初は、徳島県に邪馬台国は四国、それも徳島にあったという説があることを知り、それに興味を持ち、邪馬台国が四国にあったのだとしたら面白いだろうな…、四国も元気になるだろうし…くらいのほんの軽~い気持ちで始めた調査でした。始めた当初は正直半信半疑、と言うか、実はほとんど信じていませんでした。
邪馬台国や卑弥呼のことが書かれている文献と言えば魏志倭人伝ですから、面白そうだし、それなら取り敢えず魏志倭人伝を原本で全て読んでみようと思い、漢字だらけの原文にザッと目を通してみました。その時に目に止まったのが"真珠"と"青玉"、"丹"という3つのキーワードでした。それを目にした時、「エッ!?」っと強い衝撃を受け、最初に詳しく読んでみたのが、そのキーワードが載った第2章にあたる中盤の「倭國の風俗」が書かれた部分でした。私は「社会の最底辺のインフラは地形と気象」という基本的な考え方を持っていますから、まずはゴールとなる邪馬台国の風土を知るところから始めたわけです。そこを読んでいくうち、これまで述べてきたように「魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の地理的条件、気象的条件にこんなにピッタリ合致する場所は、日本中探しても四国しかない!」と確信に近いものを感じて、それでは次にそれを検証してみようと第1章にあたる部分に書かれている邪馬台国への道程の読み解きに取りかかったわけです。ゴールにある程度確信が持てていないと、いくら邪馬台国までの道程について長い時間をかけて真剣に考えてみたとしても、最後は無駄な徒労に終わるというものですから。
また、これまで邪馬台国のあった場所の特定に取り組んで来られたそれこそ何百人、何千人もの歴史学を専門となさっている歴史学者の先生方、さらにはその10倍、いや100倍はいらっしゃるであろう歴史マニアと呼ばれる人達とは根本的に異なるアプローチでこの日本の古代史最大の謎の解明に取り組んでみようと思いました。それで、言ってみれば、魏志倭人伝に書かれていることを後ろ(ゴール)から逆に辿ってみる…という"逆からのアプローチ"をとってみたわけです。これって、実はコンピュータシステムのトラブルシューティングにおいては常套手段のように用いられる極々基本的な手法です。まぁ~、今年(2016年)は閏年で、四国遍路も「逆打ち」のほうが功徳が大きいとされていますからね(笑)。
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(注: 本稿「その1」の冒頭に記載のとおり、この内容は2016年10月と11月に愛媛新聞社が運営する会員制Webサイト『愛媛新聞Online』のコラム『晴れ時々ちょっと横道』に連載されたものです。)
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邪馬台国への道程の読み解きに関しても、実は逆からのアプローチでした。最初に取り組んだのは、一番最後の投馬国から邪馬台国に到る「陸路1ヶ月」の謎の解明でした。なので、四国山地の深い山中を東西に横切る国道439号線の存在を知った時には、正直鳥肌が立ちました。最大の難問と思えた一番最後の投馬国から邪馬台国に到る「陸路1ヶ月」の謎が一気に解けた感じがして、邪馬台国は四国、それも徳島県の剣山の麓にあったという仮説に対する確信は、より強固なものになりました。朝鮮半島の帶方郡や狗邪韓国から投馬国までの道程も、実は魏志倭人伝に書かれている道程を逆に読み解いていきました。逆に道程を読み解いていくと、途中、末盧国から不彌国までの区間で一時的に陸路を使うという不思議な道程の意味、と言うか必要性(途中に関門海峡という海の難所が立ちはだかること)は、すぐに理解することができました。地形や気象が今と変わらない以上、昔の人も考えることは現代人とさほど変わりませんから。それで第25回でご紹介した大胆すぎるくらいに大胆な仮説が生まれたわけです。あとは、この仮説を裏付ける実証をネットで自治体などの公的な機関が出している信頼できるサイトの中から見つけて、その仮説に徐々に肉づけをしていくだけでした。
このように『魏志倭人伝』を素直に読んで、そこに書かれているとおり論理的に考えていくと、どう考えてみても邪馬台国は四国、それも徳島県の剣山の麓にあったとしか考えられないのです。いかがですか? 私のこの大胆すぎるくらいに大胆な仮説。後は決定的な"物的証拠"を見つけ出すだけです。これは地元にお住いの方々にお任せしたいと思います。邪馬台国があったのは間違いなく徳島県の剣山の麓。ですが、その解明のための重要な鍵は、実は愛媛県が握っているというわけです。特に邪馬台国への途中経路にあたると推定している南予地方の調査が重要な鍵を握ると私は考えています。これまでの邪馬台国論争ではノーマークで、誰も手を付けてこなかっただけです。その気になって探せば、いろいろと面白い物証が出てくるのではないか…と私は大いに期待しています。(反対に北部九州と畿内ではいくら探しても邪馬台国がそこにあったという決定的な証拠が見つからない筈です。もともとそこに邪馬台国はなかったわけですから。)
ところで、卑弥呼の跡を継いだ女帝の"壱与"って、"いよ"と読むのでしょうかねぇ~。だとすると、愛媛県にとって、もっと面白い展開になりそうな予感がするのですが…。
……(その7)に続きます。
考古学重視はわかりますが記紀をもう少し丁寧に読むべきです。
これでは昨今の土木工事の多少が古代史を左右してしまいます。
さて肝心の『魏志倭人伝』には特に、(1)「無牛馬(牛馬なし)」とありますが、四国山上には飲用の池が多数存在し、それが糞尿で汚されないように牛馬を上げなかったこと(九州や奈良からは牛馬の骨や化石が出土)、(2)「其山有丹(その山に丹有り)」と邪馬台国に辰砂(水銀朱)が出る山があるとの記述は、徳島県阿南市の若杉山遺跡のみに見られるものでないとしても、邪馬台国四国山上説を裏付ける有力な記述です。
また、(3)「種禾稻(禾稲(かとう)を種(う)える)」というのは「粟(あわ)・稗(ひえ)・稲などを植える」という意味で、四国が粟と稗の産地であり、七万余戸の邪馬台国の食糧自給を満たすに足る地域であること、(4)「有棺無槨(棺有るも槨無く)」は阿波に多く出土する箱式石棺を指すこと、(5)「出真珠(真珠を出す)」は徳島の海で真珠が採れていたのを指すことなども、邪馬台国四国山上説を裏付けます。
邪馬台国は「七万余戸ばかり」とあるように大きな国ですが、四国全体では不可能な数字ではありません。むしろ四国以外は適当な場所がない。さらに『翰苑』にある「四面倶[扌弖]海」という記述など、こうした邪馬台国の特徴を子細に眺めれば、畿内説や九州説は当てはまらず、四国山上説が真実であることがわかります。
684年の白鳳大地震をきっかけに本格的に奈良に拠点が移ったと推測され得ます。
威信財を重視しておられるようですが神道はそのような宗教ではありません。
翰苑の解読と分析 …邪は伊都に届き?
本文
「邪は伊都に届き、傍ら斯馬に連なる。」 女王国(邪馬壱国)は伊都国に九州を統治する拠点を置き、その南には斯馬国があると考えられていました。伊都に届く国というなら隣の奴国と考えられます。しかし、邪が奴の間違いかというとそうではない。ここで「山に憑き、海を負い、馬臺を鎮め、以って都と為す。」という最初の文を呼び戻さねばなりません。どこかへ行ってしまった「邪」がこんなところにある。
奴国の位置に邪があり、大和と考えられる馬臺を鎮めて(押さえ込んで)都となし、斯馬に連なったのです。
これは神功皇后が筑紫の香椎宮(いにしえの奴国)から出て、瀬戸内を通り、畿内を武力鎮圧したという記、紀の伝承に対応しています。簡単に云えば、当時、皇統の分裂と再統合という事件があったのです。応神天皇を擁した神功皇后は九州で独立してしまった。当然、正統後継者は大和にいます。傍流が武力をもって国の支配者になったがゆえに、神功、応神と、諡号に神が入り、神武、崇神と並ぶ始祖王扱いになっています。神功皇后は新羅を馬飼いにしたと記されていますから、馬は新羅から入れている。古墳の副葬品ががらりと変わるのも、この神功・応神朝が異端であったことを示しています。騎馬民族の征服王朝というようなものではありません。
旧唐書はこういいます。「倭国は古の倭奴国なり。」、「日本国は倭国の別種なり。その国は日辺にあるを以って、故に日本を以って名となす。あるいは曰く、倭国は自らその名が雅でないのをにくみ、改めて日本となした。あるいは云う、日本はもと小国、倭国の地を併せた。その人で入朝した者、多くは自らおごりたかぶって実を以って答えない。故に中国はこれを疑う。」
当時の日本の支配者は神功皇后の後裔ですから、「倭国は昔の倭奴国である」というのは真実です。「日本はもと小国、倭国の地を併せた」というのも真実。すべて大和朝廷、神功皇后以降の出来事を語っています。魏志倭人伝の邪馬壹国ではありません。遣唐使は尋ねられてもすべてを明確に伝えず、ごまかそうと尊大にふるまったため、このような疑いの記述が生まれました。
翰苑は唐代の書ですから、当然、この情報は入っており、邪と馬臺を分割する結果になったようです。
注
「広志いわく、倭国東南陸行五百里、伊都国に到る。また南、邪馬嘉国に至る。女(王)国より(自)以北は、その戸数、道里を略載できる。次ぎは斯馬国、次は已百支国、次は伊邪国。案ずるに、倭西南海行一日に伊邪久国あり、布帛なし。革をもって衣となす。けだし伊耶国なり。」
「広志」は晋の郭義恭の著作。博物誌のようなものだったと思われます。伊都国の南に邪馬嘉国があります。これを邪馬臺の間違いとして良いものかどうか。実際、熊本県に山鹿という土地があるからです。唐代に新たな地理情報が加えられ、混同されたのかもしれません。伊邪久国は隋書流求国伝にあり、宮古島のことです。革を衣類にするというのは魏志韓伝の済州島に関する記述に見られます。翰苑の注者、雍公叡はこの二つを同一視しているようです。
http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-1805.html?sp
「倭人伝」中の倭語の読み方(74):番外編:「『翰苑』が描く倭国」(1)
「倭人伝」中の倭語の読み方(74)
番外編:「『翰苑』が描く倭国」(1)
前回問題にした『翰苑』の文を宮﨑氏は
「邪屈伊都傍連斯馬」
と書いていた。古田氏の「邪馬壹国の史料批判」では原文は上と同じなのに、読下し文は「屈」ではなく「届」となっている。ネットで出会った「翰苑の解読と分析」では「届」であった。一体どうしたことだろう。この謎を「古代史獺祭(だっさい)」さんが解いてくれた。このHPは古代史史料集としてとても役に立ちそうだ。このHPの『翰苑』ではくだんの原文は
「邪屆伊都 傍連斯馬」
となっている。「屆」なんて字、初めてお目にかかったが、これが本来の正しい原文のようだ。辞書を調べたら「届」は俗字で「屆」が正字だという。この字を宮﨑氏は「屈」と見誤ったのだ。古田氏の場合はネット資料化した方のミスだったのかもしれない。以下、原文は「古代史獺祭」さんのものを用いることにする。
まず、『翰苑』の「倭国」記事全文を読んでおこう。原文と古田氏による読下し文は次の通りである。
倭國
憑山負海 鎭馬臺以建都 分軄命官 統女王而列部 卑弥娥惑翻叶群情 臺與幼齒 方諧衆望 文身點面 猶稱太伯之苗 阿輩雞弥 自表天兒之稱 因禮義而標袟 即智信以命官 邪屆伊都 傍連斯馬 中元之際 紫綬之榮 景初之辰 恭文錦之獻
倭國
山に憑(よ)り海を負(お)うて馬臺に鎮(ちん)し、以て都を建つ。軄を分(わか)ち官を命じ女王に統ぜられて部に列せしむ。卑弥は妖惑(ようわく)して翻(かえ)って群情に叶(かな)う。臺與は幼歯にして方(まさ)に衆望に諧(かな)う。文身點面(かつめん)、猶(なお)太伯の苗(びょう)と称す。阿輩雞弥、自(みずから)ら天兒の称を表す。礼義に因(よ)りて標袟(ひょうちつ)し、智信に即して以て官を命ず。邪(ななめ)に伊都に届き、傍(かたわ)ら斯馬に連(つらな)る。中元の際、紫綬の栄を〈受け〉、景初の辰(とき)、文錦の献を恭(うやうや)しくす。
(〈受け〉は古田氏による補足語句。)
(「娥」は『邪馬壹国の史料批判』では原文も「妖」となっている。)
古田氏は本文冒頭の「邪」を副詞として読んでいる。このような訓み方が可能なのだろうか。念のため手元の『新漢和辞典』を調べたら、確かに「ななめ。ゆがむ。かたよる。」という意も載せている。
『翰苑』の倭國記事はたったこれだけなのだ。しかし、俾弥呼から阿輩雞弥(多利思北孤)まで倭国の歴史が連続していること、都のある「馬臺」の地理的位置を簡潔にまとめている。つまり『翰苑』は九州王朝(倭国)が7世紀まで続いたことを証言しているだ。ヤマト一元主義や倭国の東遷説などはここでも否定されている。「馬臺」については後ほど取り上げることになるだろう。
さて、上の張楚金が書いた文には一節ごとに雍公叡が付けた注(出典)があり、『翰苑』は本文と注とによって構成されている。例えば今問題にしている一節は次のようである。
邪屆伊都 傍連斯馬
廣志曰 [イ妾]國東南陸行五百里 到伊都國 又南至邪馬嘉國 百女國以北 其戸数道里 可得略載 次斯馬國 次巴百支國 次伊邪國 安[イ妾]西南海行一日 有伊邪分國 無布帛 以革爲衣 盖伊耶國也
ちなみに、『翰苑』が書かれたのは660年(顕慶5年)で、雍公叡の注は831(太和5年)以前に成立したとされている。
上の文を「古代史獺祭」さんは次のように読み下している。ただし、「自己流の勝手な判断でどこまで直してよいものやら、たいへん悩ましいが…」とためらいながら、「管理人の勝手な判断により校正(?)した部分」を明示している。こういう姿勢にはとても好感が持てる。「古代史獺祭」さんの校正部分を赤字で示しておこう。
邪は伊都に屆(とど)き 傍ら斯馬に連なる
廣志に曰く。 倭國、東南陸行五百里にして伊都國に到る。また南に邪馬臺國に至る。 女王國より以北はその戸数道里を略載するを得るべし。 次に斯馬國、次に巴百支國、次に伊邪國。 案ずるに倭の西南海行一日に伊邪分國有り。 布帛無く、革を以って衣と爲す。 盖(けだ)し伊耶國なり。
「古代史獺祭」さんは本文の「邪」を「邪馬臺国」と考えたようだ。そこで「邪馬嘉国」の「嘉」を「臺」と校正した。「百女国」の「百女」を「女王」と手直ししたのは「百女国」では説明の仕様がないからだろう。しかし、「邪」一字だけで「邪馬臺国」と結び付けるのは乱暴な論理だし、安易な原文改定はすべきではないだろう。次ぎは古田氏の読下し文だが、原文改訂は行っていない。「倭人伝」解読のときと同様、全文脈の中での手堅い解読を行っている。
。邪(ななめ)に伊都に届き、傍(かたわ)ら斯馬に連(つらな)る。
広志に曰く「[イ妾](=倭)国。東南陸行、五百里にして伊都国に到る。又南、邪馬嘉国に至る。百女国以北、其の戸数道里は、略載するを得可(うべ)し。次に斯馬国、次に巴百支国、次に伊邪国。安(=案)ずるに、[イ妾]の西南海行一日にして伊邪分国有り。布帛(ふはく)無し。草(革か)を以て衣と為す。盖(けだ)し伊耶国也
それでは「邪屆伊都 傍連斯馬」に対する古田氏の読解を読んでみよう。
まず「邪」の字。この字は副詞に読むときは「ナナメ」です。
「伊都に届き傍ら斯馬に連る。」の「連なる」とか「届く」といった用法は『翰苑』の非常に好きな表現方法で、この用法はたくさん出てきます。
それから見ると、「届く」という場合は、接している場合の一つです。“すぐそば”というよりも“少しはなれたあたり”で接している形ですが、とにかく“接して”いて、“中に別の国が入っていない”場合に「届く」という言葉を使います。
つぎに「連なる」という場合は、その接している国のもう一つ向こうにある国がはじめの国から見て「連なる」となるわけです。
つまりいいかえますと、「A→B→C」と並んでいまして、Aから見てBは「届く」、Cは「連なる」なのですね。そういう表現法が守られています。そうしますとこの文は“伊都とは接している。そしてその向こうに斯馬がある”という意味です。
「邪」を「ななめ」と訓むことにはいささか違和を感じるが、「邪屆伊都 傍連斯馬」が対句であることを考えると、納得がいく。
邪 屆 伊都
↓ ↓ ↓
傍 連 斯馬
では、Aはどこなのだろうか。
『魏志倭人伝』には特に、(1)「無牛馬(牛馬なし)」とありますが、四国山上には飲用の池が多数存在し、それが糞尿で汚されないように牛馬を上げなかったこと(九州や奈良からは牛馬の骨や化石が出土)、(2)「其山有丹(その山に丹有り)」と邪馬台国に辰砂(水銀朱)が出る山があるとの記述は、徳島県阿南市の若杉山遺跡のみに見られるものでないとしても、邪馬台国四国山上説を裏付ける有力な記述であることは変わりません。
返信削除また、(3)「種禾稻(禾稲(かとう)を種(う)える)」というのは「粟(あわ)・稗(ひえ)・稲などを植える」という意味で、四国が粟と稗の産地であり、七万余戸の邪馬台国の食糧自給を満たすに足る地域であること、(4)「有棺無槨(棺有るも槨無く)」は阿波に多く出土する箱式石棺を指すこと、(5)「出真珠(真珠を出す)」は徳島の海で真珠が採れていたのを指すことなども、邪馬台国四国山上説を裏付けます。
邪馬台国は「七万余戸ばかり」とあるように大きな国ですが、漁業、柑橘類を考慮すれば四国全体では不可能な数字ではありません。さらに『翰苑』にある「四面倶[扌弖]海」という記述など、こうした邪馬台国の特徴を子細に眺めれば、畿内説や九州説は当てはまらず、四国山上説が真実であることがわかります。
684年の白鳳大地震をきっかけに本格的に奈良に拠点が移ったと推測され得ます。
威信財を重視しないのが神道という宗教の特徴です。
返信削除『魏志倭人伝』には特に、(1)「無牛馬(牛馬なし)」とありますが、四国山上には飲用の池が多数存在し、それが糞尿で汚されないように牛馬を上げなかったこと(九州や奈良からは牛馬の骨や化石が出土)、(2)「其山有丹(その山に丹有り)」と邪馬台国に辰砂(水銀朱)が出る山があるとの記述は、徳島県阿南市の若杉山遺跡のみに見られるものでないとしても、邪馬台国四国山上説を裏付ける有力なものであることは変わりません。
また、(3)「種禾稻(禾稲(かとう)を種(う)える)」というのは「粟(あわ)・稗(ひえ)・稲などを植える」という意味で、四国が粟と稗の産地であり、七万余戸の邪馬台国の食糧自給を満たすに足る地域であること、(4)「有棺無槨(棺有るも槨無く)」は阿波に多く出土する箱式石棺を指すこと、(5)「出真珠(真珠を出す)」は徳島の海で真珠が採れていたのを指すことなども、邪馬台国四国山上説を裏付けます。
邪馬台国は「七万余戸ばかり」とあるように大きな国ですが、漁業、柑橘類を考慮すれば四国全体では不可能な数字ではありません。さらに『翰苑』にある「四面倶[扌弖]海」という記述など、こうした邪馬台国の特徴を子細に眺めれば、畿内説や九州説は当てはまらず、四国山上説が真実であることがわかります。
684年の白鳳大地震をきっかけに本格的に奈良に拠点が移ったと推測され得ます。
さらに威信財を重視しないのが神道という宗教の特徴です。
丹、橘産出、牛馬なし、
返信削除魏志倭人伝と記紀、さらに『翰苑』(四面倶海)を普通に読めば
連合説をとるにせよとらないにせよ
四国山上説しかない。
邪馬台国論争は当時各地域が
どれだけ栄えていたかを競っているのではない、
鬼道と書かれてはいるが邪馬台国では
呪術から宗教への転換がいち早く進行したということだろう。
そこには古代ユダヤの影響が見られる。
(入墨を理由に同祖論者は邪馬台国へのユダヤの影響を認めない場合が多いが)
684年の白鳳大地震が奈良への遷都の理由だろう。
ただし年代的な問題、地名比定の問題は残る。
特に投馬、斯馬、狗奴国は最重要なのに四国山上説内でも比定地の意見が分かれる。
日本政府が消し去った真実の歴史書が実在した。絶対知られてはいけない日本誕生の真実がヤバすぎる…【 都市伝説 古代史 日本史 日ユ同祖論 】
返信削除https://youtu.be/huKXLK5deJ4
2022/07/26
コメントがみなさん好意的で逆に驚きました。
日本の夜明けは近いかも知れない笑。
自分も阿波邪馬台国説はかなり有力だと思います。
卑弥呼は中国系(殷の末裔)だと考えますが、ユダヤ系との連携はかなり早かったでしょう。
それが忌部氏によるアラタエ調進にまで繋がっていると考えます。
淡路島にも古代ユダヤの痕跡(「ホテル淡路夢泉景」敷地内)がありますが、これは物部氏系で、
卑弥呼の死後に秦氏系が神道を今の形にしたと考えます。
とにかく池辺真榛(まはり)や小杉榲邨(すぎむら)の名前がテロップに出るのは驚異的です。
ちなみに榊正志 『アマテラス・サーガ』というkindleで読める推理小説が彼らの説を紹介しています。
(かつて志茂田 景樹も推理小説『邪馬台国の神符』で阿波邪馬台国説を採りましたが後に北九州説に転向しています。)
自分も九州→四国→近畿と権力の中心が移行したという説なので、他の邪馬台国専門家を敵に回すつもりはないのですが、古代史における阿波は間違いなく無視できません。
返信削除九州説だった自分が四国説へ転向したのは『翰苑』の「四面ともに海に極まる」と、
隋書倭国伝の「その国境は東西五月行、南北三月行で各海に至る。」という記述です。
これも九州説ではあり得ない。
以下の魏志倭人伝の記述も四国説を念頭におけば理解できます。
参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
(訳)倭の地を訪ね歩くと、遠く離れた海の中の洲島の上にあり、あるいは海で隔てられたり、あるいは陸続きであった。「周旋(しゅうせん)」すれば、五千余里ばかりであった。
297.邪馬台国は四国にあった!「魏志倭人伝」から邪馬台国四国山上説を追う!|丸武群@峮峮(チュンチュン)応援note
返信削除https://note.com/qunqun0419/n/ne1808f0f9fb3
魏志倭人伝』には特に、(1)「無牛馬(牛馬なし)」とありますが、四国山上には飲用の池が多数存在し、それが糞尿で汚されないように牛馬を上げなかったこと(九州や奈良からは牛馬の骨や化石が出土)、(2)「其山有丹(その山に丹有り)」と邪馬台国に辰砂(水銀朱)が出る山があるとの記述は、徳島県阿南市の若杉山遺跡のみに見られるものでないとしても、邪馬台国四国山上説を裏付け
返信削除第二回古代史開封 - 山上智の「古代史開封」末盧=マツラ=マツウラ=万津浦・・・・
「この神社の由来書か古文書などがあれば、見せていただきたいのですが」
その言葉を聞いた永島宮司はおもむろに立ち上がり、奥から一冊の古文書を持ってきてくださった。それはA4サイズほどの大きさで、中央に大きく『永島文書』と書かれている。
さっそく拝見させていただくことにした。全体的に古文で書かれていたが、意外と読みやすい。ページをめくっていくと、筆者の目が、ある一点に釘づけになった。何度も、何度もその行を読み返す。不覚にも、熱いものがこみ上げてきた。
ついに発見したのである、捜し求めていた物的証拠を。そこにはこう書かれていたのだ。「古来、このあたりは万津浦と呼ばれていた」
末盧=マツラ=マツウラ=万津浦・・・・。こんな大発見がどこにあろうか。
これで邪馬台国を見つけることができる。あとは「魏志倭人伝」を素直に読みながら行程をたどっていけば、邪馬台国にたどり着くことになるのだ。
筆者ははやる気持ちを抑え、永島宮司に礼をいい、年毛神社を辞した。
https://blog.goo.ne.jp/logos3/e/a408508d39f1514204830a9b245d7669
邪馬台国の玄関末蘆国は宗像(宗像と魏志倭人伝その5 2018年3月シンポジウム) - 鳥島チャンネル
返信削除松浦党の勢力範囲に宗像を祭る神社が多いこと、
福津市勝浦の年毛神社に伝わる永嶋文書より宗像に
万津浦と
呼ばれていた地域があった。
ということからもマツラ族(後の松浦党)と宗像が同族であったとも考えられないだろうか?
他には江戸時代の地図ではありますが、青生東谿の「国郡全図」の筑前国に宗像沖と言うよりは新宮沖といった場所ですが「松浦潟」と記載されています。(神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ 國郡全圖 上・下)
https://blog.goo.ne.jp/seiya0130/e/293b0e223c55c6cbedbdff49dae02b68
返信削除ヽ-´~ ゙̄'~ヽ,_
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陳 ノ ヽ -~ ' ´T~ ̄ 邪馬台国 〈
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倭人伝に、「その山には丹あり」とある。その原料である「辰砂」(しんしゃ)
の 鉱山跡が徳島県阿南市の若杉山遺跡で確認されている。卑弥呼の時代、
水銀朱を産出したのは徳島県阿南市の若杉山遺跡★だけである。
https://aahub.org/mlt/ebafef160af9ea9841bdc9616cfe3abc
陳寿のルート
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陳 ノ ヽ -~ ' ´T~ ̄ 邪馬台国 〈
寿 丿 , -─' ̄`ヽ_ ★ <
のルート/ ノ 四国 └, _/~
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倭人伝に、「その山には丹あり」とある。卑弥呼の時代、
水銀朱を産出したのは徳島県阿南市の若杉山遺跡★だけ。
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陳 ノ ヽ -~ ' ´T~ ̄ 邪馬台国 〈
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倭人伝に、「その山には丹あり」とある。卑弥呼の時代、
水銀朱を産出したのは徳島県阿南市の若杉山遺跡★だけ。
返信削除倭人伝に、「その山には丹あり」とある。卑弥呼の時代、 水銀朱を産出したのは徳島県阿南市の若杉山遺跡★だけ。
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返信削除倭人伝に、「その山には丹あり」とある。卑弥呼の時代、
水銀朱を産出したのは徳島県阿南市の若杉山遺跡★だけ。
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