2021年9月16日木曜日

縄文時代の数の概念 素朴なギモン⑩ 足し算も引き算も割り算もしていた!?


大湯環状列石 – 北海道・北東北の縄文遺跡群
報告書2017










パンフ



___

素朴なギモン⑩ 足し算も引き算も割り算もしていた!? 
 縄文人の数の概念  縄文時代にもすでに「数」の概念は存在していた。狩りで獲った獲物を分配したり、量を計ったり、あるいは順番をつけるなど、さまざまな場面で縄文人たちは数を使いこなしていたと考えられている。  
 その証拠のひとつとしてあげられるのが、秋田県の大湯環状列石から出土した土版である。高さ6センチ程度の小さな土版であるが、この土版には、刺突によって1~6までの数を示す孔があけられている。





 それだけではなく、2は小さな孔2つで、6は小さな孔3つの固まりが並ぶ形で示されており、これは1+1=2や3+3=6という足し算の概念を、縄文人が理解していことを表わしている。その逆である引き算、さらに割り算も理解していた可能性が高い。  
 ちなみに、縄文人は3と5と7という数字を特別視していたとされる。3本指の土偶や突起が5つある土器などが数多く発見されているのだ。  
 また、縄文時代には35センチが長さの基準となる単位だったという説がある。青森県の三内丸山遺跡をはじめ、東北地方の縄文遺跡のいくつかの構造物で、柱と柱が、きっちり35センチの倍数の間隔で並んでいたことが判明しているのだ。この単位を「縄文尺」という研究者もいる。  
 なぜ、35センチが基準の単位になったかについては諸説ある。ひとつは、縄文人の体の一部、たとえば肘から手首までの長さを単位にしたというものだ。  
 古代西洋では、「キュビット」と呼ばれる、人間の肘から中指の先までの間の長さに由来する単位が使われていた。このようなものを「身体尺」と呼ぶが、大型の建物を建てるなど高度な建築技術をもった縄文人が身体尺を使用していたとしても、まったく不思議ではないだろう。


じっぴコンパクト新書
縄文時代の不思議と謎 電子書籍版 2019年2月8日発行
監修者 山田康弘
編著者 造事務所
発行人 岩野裕一
発行所 株式会社実業之日本社     









大湯ストーンサークル館

https://www.city.kazuno.akita.jp/kanko_bunka_sports/bunkazai/7/5593.html






トークン??











https://scoop-scoop.jp/scoop/oyu_stone_circle



1985年出土


https://youtu.be/x0I82hnxeug



縄文人の衣食住 ストーンサークル(環状列石)はなんのためにつくられたのか?  
 縄文人が残した大型の遺構の一例として、ストーンサークル(環状列石)がある。ストーンサークルとは、文字どおり大型の石を環状に並べたものであり、これまでに大小さまざまなストーンサークルが、北海道から東北で数多く見つかっている。  代表的な事例をあげれば、秋田県鹿角市からは、古くから有名なストーンサークルである「大湯環状列石」が発見されている。大湯の環状列石は、野中堂環状列石と万座環状列石のふたつからなる。北側にある野中堂環状列石は、直径40メートル~42メートルあり、万座環状列石は、直径45メートル~46メートルの規模がある。ほぼ同時期につくられたもので、当初からふたつでワンセットの関係にあったと思われる。  使用された石のなかにはとてもひとりでは持ちきれないようなものもあり、ひとつの集落の人びとだけでなく、周辺の集落を含めた多くの人びとが建設に関わったと思われる。ストーンサークルをつくることじたいが、共同の土木作業であり、このような協業を通じて、集落間の結びつきを強くしたのであろう。





ストーンサークルはカレンダー代わりだった!?  
 これらのストーンサークルをよく見ると、石がただ環状に並べられているのではなく、ところどころに石が集中して置かれている場所があることがわかる。これは「配石墓」といって、墓の上に石を意図的に並べたものである。したがって、ストーンサークルは配石墓が環状に集まってできたものと考えられている。ストーンサークルは、共同墓地であったのだ。  また、ストーンサークルの周辺には、掘立柱建物跡や土坑群、遺物の廃棄域が配置され、そこから土器などのほか、土偶や石棒などの呪術具が出土することもある。このことから、ストーンサークルは、単なる共同墓地ではなく、そこにおいてさまざまな祭祀が行なわれた大型の祭祀場でもあったことがわかっている。  大湯のストーンサークルの場合、環状に石が置かれた場所が、二重の同心円状になっており、これをそれぞれ内帯と外帯と呼んでいる。同じ共同墓地のなかでも、ストーンサークルの、より中心に近い位置に埋葬された人びとと、外側に埋葬された人びとがいたことになる。そして大型の共同墓地といっても、周辺の集落に居住したであろう人びと全員がそこに埋葬されたと考えるには、規模が小さい。したがって、ストーンサークルに埋葬されなかった人びともいたわけで、研究者のなかには生前の格差や階層差が、埋葬された場所に反映されていると考える者もいる。  野中堂環状列石の内帯と外帯の間には、「日時計状組石」と呼ばれる特殊な形の配石墓が配置されていて、サークル中心部から見て日時計状組石の方角が、夏至の太陽が沈む方角になる。そして、その反対の方角が、冬至の日の出の方角となる。このことから、縄文人は太陽の日の出と日の入りを観測して、ストーンサークルや日時計状組石をカレンダー代わりにしていたのではないかともいわれている。  ストーンサークルのなかには石の下に配石墓がないものも確認されており、すべてのストーンサークルが共同墓地であったのではなさそうだ。しかし、このようなストーンサークルからも呪術具が出土するため、祭祀場であったことには間違いない。ストーンサークルの規模からみて、おそらくはひと家族の祭祀の場ではなく、ひとつの集落、あるいは付近にあるすべての集落全体の祭祀を行なうためにつくられたものであろう。  秋田県の伊勢堂岱遺跡からは、このようなストーンサークルが4つもかたまって発見されており、縄文人たちが祭祀を多く行なっていたことがわかる。自然の恵みや災害など気象に左右されることの多かった縄文人の生活は、祈るということによって支えられていたということもできるだろう。


大船渡




大湯環状列石

大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)は、秋田県鹿角市十和田大湯にある縄文時代後期の大型の配石遺跡。国の特別史跡に指定されている。環状石籬(かんじょうせきり)やストーンサークルとも呼ばれる。

座標北緯40度16分18.0秒 東経140度48分14.0秒

大湯環状 列石の位置(秋田県内)
大湯環状
列石

目次

  • 1 概要
    • 1.1 出土遺物
  • 2 環状列石に類似する遺構
  • 3 アクセス
  • 4 脚注
  • 5 関連項目
  • 6 外部リンク

概要

遺跡は1931年昭和6年)に発見され、約130メートルの距離をおいて東西に対峙する野中堂と万座の環状列石で構成されている。この遺跡を全国的に有名にしたのは、太平洋戦争終戦直後の1946年(昭和21年)の発掘を、『科学朝日』が紹介したことである。そして、1951年(昭和26年)と1952年(昭和27年)には、文化財保護委員会秋田県教育委員会が主体となって、本格的な学術調査が実施されている。

この遺跡は、山岳丘陵の末端にのびる舌状台地の先端部に造られており、河原石を菱形や円形に並べた組石の集合体が外帯と内帯の二重の同心円状(環状)に配置されている配石遺構である。その外輪と内輪の中間帯には、一本の立石を中心に細長い石を放射状に並べ、その外側を川原石で三重四重に囲んでいる。その形から「日時計」といわれており、万座と野中の両方の遺跡にある。

大きい方の万座遺跡の環状直径は46メートルもあり現在発見されている中で日本で最大のストーンサークルである。組石は大きいほうの万座では48基、野中堂のほうは44基ある。中央の立石は大湯の東方約7 - 8キロメートルにある安久谷(あくや)川から運んだと推定されており、労働力の集中が見られる。

遺跡の使用目的に関しては諸説あるが、近くには構造が似ている一本木後ロ遺跡があり、これは墓であることが調査によって明らかになっており、またそれぞれの配石遺構の下から副葬品をともなう土坑が検出されたため大規模な共同墓地と考えられている[1]。さらに1948年(昭和23年)から始まった万座の周辺調査から掘立柱建物跡群が巡らされていたことが明らかになり、これらは墓地に附属した葬送儀礼に関する施設ではないかと推測されている。

大湯環状列石には日時計状組石があり、この環状列石中心部から日時計中心部を見た方向が夏至の日に太陽が沈む方向になっている。このような組石は北秋田市伊勢堂岱遺跡にもある。

大湯環状列石の北東には黒又山があり、大湯環状列石からはきれいな三角形に見える。黒又山にも何らかの人工的配石遺構などがあるのではないかとする推測もあり、大湯環状列石との関連の可能性が一部より指摘されている。

2021年(令和3年)7月27日に大湯環状列石を含む「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界遺産登録される。

出土遺物

周囲には掘立柱建物[2]跡が巡らされており、その外側にもいろいろな配石遺構、竪穴式住居跡、貯蔵穴、捨て場などがある。

土器・石器、その他土偶・鐸形(たくがた)土製品・石製品、動物形付土器、三角形岩板など祭祀的遺物が出土している。

環状列石に類似する遺構

縄文時代後期の集団墓に、石・木・土を環状に並べた遺跡が確認されている。

環状土籬

北海道知床半島の基部にある斜里郡斜里町朱円遺跡(しゅえんいせき)や千歳市郊外のキウス遺跡は、巨大な土堤を巡らした周堤墓であり、環状土籬(かんじょうどり)と呼ばれている。キウス遺跡には、周堤墓が14カ所あり、周堤の外径が74メートル、高さが5メートルに達するところもある。周堤の内部には土壙だけでなく立石の伴う遺跡もある。

環状木柱列

巨木柱を環状に配置した遺構も確認されている。金沢市新保本町のチカモリ遺跡では直径50 - 85 cmのクリ材による直径7メートルの遺構、富山県小矢部市桜町遺跡では縄文晩期の直径30 - 60 cmのクリ材10本を用いた直径6メートルの遺構など全国で十数例が見つかっている。これらは環状木柱列(かんじょうもくちゅうれつ、ウッドサークル)と呼ばれている。これらは墓地遺跡ではなく祭祀遺跡の可能性の方が強い。

いずれも縄文時代の葬送や祭祀にかかわる遺構とみられ、世界的に広がるストーンサークルやウッドサークルとともに人類に普遍的な円環の思想をそこに看取し、注目する立場がある。

他にも、大湯の環状列石と鹿児島県指宿市山川成川(旧山川町)の成川遺跡立石土壙墓とは、中央に円柱状の石を立てている点で共通性がある。ただし、成川遺跡などの薩摩半島南端部に分布する立石土壙墓は、弥生時代中期後半~終末期に位置付けられるもので、年代が大きく異なっている。

アクセス

脚注

  1.  その他に共同祭祀施設、集落説、祭祀場を兼ねた複合的施設などの説が出されており、最近では拠点的集落説も出ている。
  2.  6本柱で、平面形が亀甲形をした棟持ち柱を持つ構造

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、大湯環状列石に関連するカテゴリがあります。

夏至冬至を環状列石に記し計数器を手にしていた縄文人(縄文時代後期の秋田県鹿角市・湯環状列石にみる数の概念の記録)

夏至冬至を環状列石に記し計数器を手にしていた縄文人(縄文時代後期の秋田県鹿角市・湯環状列石にみる数の概念の記録)

秋田県鹿角市の縄文後期、大湯環状列石遺跡の全景。

不ぞろいな分銅状の石製品ものの頭部に穴が
あけられて紐(ひも)が通されている。(中列)

数を表記する土版と数を示す土版。1から5までがある。

数を表記する土版と数を示す土版。1から5までがある。裏側には3が二つで6を示す。

土版には数字を表記する窪みが付けられている。

青森県教育庁参事・文化財保護課長岡田康博氏は縄文人が35㎝の
縄文尺を用いていたことを遺構がその倍数であることなどを根拠に説
明する。建物は35㎝を長さの単位として構築されていたことを示す図。

青森県教育庁参事・文化財保護課長岡田康博氏は縄を肘に巻いて
いくとおおよそ35㎝の長さになる。これを単位とした、と説明する。

青森県教育庁参事・文化財保護課長岡田康博氏は大湯環状列石から出土した
土版を三内丸山遺跡に写真展示し、縄文人が数の概念を備えていたことを説く。

(タイトル)
夏至冬至を環状列石に記し計数器を手にしていた縄文人
(縄文時代後期の秋田県鹿角市・湯環状列石にみる数の概念の記録)


(本文)

 秋田市の日の出が一番遅いのは1月2日で7:01、この日の日の入りは16:26。日の出が一番早いのは6月20日で4:11、この日の日の入りは19:11。2018年の場合である。冬至ころ、そして夏至のころの日の出日の入りである。縄文人は自然と深いかかわりをもって生きていた。青森市にある三内丸山遺跡では栗の栽培をしていた。秋田県にある縄文人の集落においても同じようなことであったろう。

 春になるとフキノトウが萌えワラビ、ゼンマイなど山菜が生える。粟やヒエなども栽培していた痕跡がある。日の長さや気温によって自然の動きを知ること神経をかたむけていたことを示すのが環状列石である。秋田県の縄文遺跡にこれがよくみられる。夏至の日に陽が沈む方向を確かめていた。24節季というがそれに似たようなことを縄文人は環状列石を暦代わりにしていた。

 日本において規模が大きく明瞭な形で発掘されたのが現在の秋田県鹿角市にある大湯環状列石である。大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)は、秋田県鹿角市十和田大湯にある縄文時代後期の大型の配石遺跡だ。遺跡は1931年(昭和6年)に発見された。130mほど隔てた野中堂環状列石、万座環状列石の二つの環状列石を主体とする縄文時代後期(4千年ほど前)の大規模な遺跡。

 1989年(昭和60年)には大湯環状列石から縄文人の文化あるいは文明を知る大きな手掛かりになる出土品があった。それが鹿角市の地元では「どばん君」と呼んでいるスマートホンほどの大きさの計数器である。縄文時代の計数器「どばん君」(どばんくん、土版君)は人の顔を形どった版面の表に1、2、3、4、5を示す窪みを付けている。裏には3に相当する窪みを2列つくって6を表記している。

 鹿角市の関係者が縄文時代の計数器「どばん君」(どばんくん、土版君)の窪みの解説をしている。また鹿角市と遠くはない青森市の三内丸山遺跡には縄文文明を象徴する発掘物として「どばん君」を遺跡館内に写真掲示している。三内丸山遺跡発掘調査が始まった1992年から遺跡に携わる青森県教育庁参事・文化財保護課長岡田康博氏(1957年青森県生まれ)は縄文人が35㎝の縄文尺を用いていたことを遺構がその倍数であることなどを根拠に説明するかたわら、鹿角市の大湯環状列石から出土した縄文時代の計数器「どばん君」によって、縄文人が確かな計数概念を備えていたことを説いている。

 野中堂環状列石の規模は径44m、万座環状列石は径52m。二つの環状列石に使われている石のほとんどは石英閃緑ヒン岩で、環状列石の東約7㎞にある安久谷川から運ばれてきた。発掘調査により、環状列石を構成する配石遺構は「配石墓」であり、その集合体である環状列石は「集団墓」であることが判明している。 

 野中堂環状列石、万座環状列石はいずれも100基以上の配石遺構の集合体で、外帯・内帯とよばれる二重の環状で構成されている。いわゆる「日時計状組石」はそれぞれの環状列石の中心からみて北西側にあり、外帯と内帯の間に位置している。

 環状列石隣接地の発掘調査のにより、それぞれの環状列石を取り囲むように掘立柱建物、土坑、貯蔵穴、遺物廃棄域(もの送りの場)が同心円状に広がっていることがわかった。また環状列石周辺や台地縁の発掘調査も進んでおり、万座環状列石の北東・北西側台地縁からは竪穴住居、北東50m地点からは環状配置の掘立柱建物群、野中堂環状列石南側30m地点からは配石遺構群が発見されている。

 発掘調査がすすんで多くの遺構とともに多量の縄文土器、石器、土製品、石製品が出土した。土器は、後期前葉から中葉に作られたもので、一般的には「十腰内式土器」と呼ばれるが、花弁状の文様やS字を横に連続して施文したものなどは「大湯式土器」とも呼ばれている。

 縄文時代後期になると、用途に合わせたさまざまな形の土器が作られるようになった。大湯環状列石で多く出土した「片口土器」は、この遺跡を代表するひとつ。また環状列石が作られたこの時期は、土偶、キノコ形土製品、動物形土製品、足形付土版などの土製品や、石棒、石刀などの石製品といった祭祀に関係するとみられる道具がたくさん作られていた。土偶や足形付土版は子孫繁栄や子どもの成長を祈り、キノコ形土製品、動物形土製品は豊作を祈り、感謝する祭祀に使用されたものと考えられる。

 冒頭に秋田市の冬至と夏至のことを引き合いにした。大湯環状列石には、夏至の日の入りと冬至の日の出に合わせた石の配置がみられ、また墓や子供の成長を祈る遺物が存在する。このことから季節の変わり目や人生の節目には祭りや儀式が行われたと考えられている。出土品は縄文時代の祭りや儀式の一端を物語るものである。

 夏至の日の入りと冬至の日の出に合わせた石の配置による大湯環状列石によってこの地に暮らした縄文人は暦をもっていて、なおかつ計数器としての土版をこしらえていた。数の概念を備えていたことが明らかである。

 大湯環状列石出土品は325点であり、うち土器26点、石器1点、土製品196点、 石製品102点である。土版の計数器のことは上に示した。気がかりな石製品が大湯ストーンサークル館に5点展示されている。不ぞろいな分銅状の石製品ものの頭部に穴があけられて紐(ひも)が通されている。棒の一端に分銅状の石製品を掛けて、もう一方に何かを吊るせば棒ハカリになる。計量あるいは計測は比べることでもあるから質量の比較もまた行われていたものと想像をたくましくする。木製品は残りにくい。骨も残りにくい。石器と土器は残りやすい。

 「数を記録した土版と縄文人の数の概念の有り様」の記事のうち土版の出土した場所は秋田県鹿角市の場所はを大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)遺跡です。三内丸山遺跡から出土したという説明は誤りに付き訂正いたします。

取材先と参考資料
大湯ストーンサークル館
大湯環状列石とは
どばんくん(土版君)とは
かづの縄文の風協議会
鹿角市役所
三内丸山遺跡の概要
三内丸山遺跡


夏至冬至を環状列石に記し計数器を手にしていた縄文人
(縄文時代後期の秋田県鹿角市・湯環状列石にみる数の概念の記録)


数を記録した土版と縄文人の数の概念の有り様

三内丸山遺跡

数を記録した土版と縄文人の数の概念の有り様

数を記録した土器(土版)出土。「縄文時代の文明」(ユーチューブ・動画)

東京科学機器協会の新春大懇親会が2018年1月26日 (金) 午後、熱海後楽園ホテルで三百名ほどが参加して開かれた。

兵庫県計量協会の平成30年計量年賀交換会が 2018年1月12日(金 )開かれる

京都府計量協会の平成30年新年交歓会 2018年1月11日(木)開かれる

滋賀県計量協会の平成30年新春賀詞交歓会 2018年1月10日(水)開かれる

滋賀県計量協会の第6回定時総会は関連議事を原案どおり可決・承認、平成2017年6月23日(金)

http://syokota888.ec-net.jp/measurement-news-site%E3%83%BC2017-1-/measurement-news-sice-2017-c1-/2018-02-02-san-nai-maruyama-kazu-no-doban-to-kazu-no-gainen-measurement-news-.html

数を記録した土版と縄文人の数の概念の有り様

数を記録した土版と縄文人の数の概念の有り様

数を表記する土版と数を示す土版。1から5までがある。

 縄文人も弥生人も今の日本人と直接につながっているホモサピエンスである。中国渡来の人、韓国渡来の人、南方渡来のひとなどもあり、弥生人は朝鮮半島経由で渡来していて、その後に縄文人と融合した。古墳時代以降も朝鮮半島経由で人が渡来している。縄文人は今の日本人と変わらない。学校に行って学んで進むと最高学府で勉学と研究をすることができる。そのような人なのである。

 縄文遺跡である秋田県鹿角市の大湯環状列石遺跡から数を示す土版がみつかっている。タブレットとはメソポタミアで陶板を示すものであり、大湯環状列石遺跡から出土の数を示す土版は現在のタブレット端末より一回り小さいスマートフォンほどの大きさである。壊れにくくするために厚みはある。

 大湯環状列石遺跡から出土の数を示す土版には1、2、3、4、5を示す穴があけてある。その配置は見事といってよい。形状は人の顔と身体に似せている。1が口で2が目と思われる。

 数を数えるのに土に線を引いてもよい。数にあわせて石をならべてもよい。紐(ひも)に結び目をつけてもよい。腐るものは残りにくい。刻んだ月日の移行を示す骨が残されている。夏至と冬至などを知っていることを示すのが英国におけるストーンヘッジである。

 大湯環状列石遺跡から出土のタブレット状の土版には1、2、3、4、5を示す穴があけてある。この数字を示す穴を使って足し算や掛け算をしたことであろう。頭の中に思い描くよりも土版の数字を使えば計算がしやすい。

 長さの基準となるモノサシを使って倍数を刻むことが三内丸山遺跡の遺構から確認されている。モノサシは35㎝であった。目盛りを刻んであったかどうかは別だが目盛りを刻むことはたやすい。巨大建築物の柱の間隔は4.2mになっている。柱を埋めるための穴は幅と深さが2mである。統一したようにそのようになっている。

 数を示す土版は大人の計算機であったろうが、子どもに数と計算を教える道具であり教科書であったことが想定される。

 人の脳の働きは円や三角形を描くものらしい。エジプトのピラミッドと南米大陸の神殿がにているのはここからきていると説く人がいる。この説は有力である。大湯環状列石遺跡ちかくの三角形の山は信仰の対象にされた痕跡がある。

 現代の人と何ら変わらない縄文人は大湯環状列石遺跡や三内丸山遺跡で1500年もの長期にわたり定住していた。数を示す土版は大湯環状列石遺跡に暮らす人々の数値への認識を示し縄文人が数の概念を持っていたことが明確に示すた。(この項目の執筆は日本計量新報編集部)

取材先と参考資料

大湯ストーンサークル館
大湯環状列石とは
どばんくん(土版君)とは
かづの縄文の風協議会
鹿角市役所
三内丸山遺跡の概要
三内丸山遺跡

夏至冬至を環状列石に記し計数器を手にしていた縄文人
(縄文時代後期の秋田県鹿角市・湯環状列石にみる数の概念の記録)


青森市にある三内丸山遺跡の全景。

青森市にある三内丸山遺跡にある大きな建物のなかの様子。

建物は35㎝を長さの単位として構築されていたことを示す図。

縄を肘に巻いていくとおおよそ35㎝の長さになる。これを単位とした。

大湯環状列石遺跡から出土の土版の二つ穴が2を示す。
足したり掛けたりの算数ができていたのではないか。

大湯環状列石遺跡から出土した数を示す土版。

数を示す土版。石を並べても数になる。ここでは穴を掘っている。

 三内丸山遺跡の概要

 三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。平成4年からの発掘調査で、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡などが見つかり、集落全体の様子や当時の自然環境などが具体的にわかりました。また、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)、骨角器、他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土しています。ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物が出土し、DNA分析によりクリの栽培が明らかになるなど、数多くの発見が縄文文化のイメージを大きく変えました。平成12年11月には国特別史跡に指定されました。

 三内丸山遺跡
(以下は2018年2月2日時点におけるウッキベディアによる三内丸山遺跡の説明です。)

 三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、青森県青森市大字三内字丸山にある、縄文時代前期中頃から中期末葉の大規模集落跡。沖館川右岸の河岸段丘上に立地する。2000年に国の特別史跡に指定。遺跡跡には住居群、倉庫群のほか、シンボル的な3層の掘立柱建物が再現されており、資料館もある。青森県教育庁文化財保護課三内丸山遺跡保存活用推進室が発掘調査を行っている。

 遺跡保存の経緯[編集]

 この地に遺跡が存在することは江戸時代からすでに知られており、山崎立朴が弘前藩の諸事情を記した『永禄日記』(えいろくにっき、館野越本)の元和九年(1623年)正月二日条に多量の土偶が出土したことが記録されているほか、菅江真澄の紀行文『栖家の山』(すみかのやま)の寛政八年(1796年)四月十四日条に、三内の村の古い堰が崩れた場所から、瓦や甕、土偶のような破片が見つかったことが記録されている。

 本格的な調査は新しい県営野球場を建設する事前調査として1992年から行われた。その結果、この遺跡が大規模な集落跡とみられることが分かり、1994年には直径約1メートルの栗の柱が6本検出され、大型建物の跡とも考えられた。これを受け同年、県では既に着工していた野球場建設を中止し、遺跡の保存を決定した。

 その後、資料館を作って整備を行い、六本柱建物跡においては湿度を一定に保った保存ドームを作り、柱の現物は他の場所に保存しレプリカを代わりに元の場所に置くなどの措置を行った。また、墓の道の遺構が非常に長く延びていることが分かったため都市計画道路も建設を中止した。

 遺跡の概要[編集]

 八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20メートルで、遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっている。集落は住居・墓・捨て場・大型掘立柱建物・掘立柱建物・貯蔵穴・土坑墓・粘土採掘穴・盛り土・道路などが、計画的に配置されている。

 この遺跡は現在の敷地から、広場を囲むように住居が造られた環状集落であると見られることもあるが、住居が非同心円状に機能別に配置されているところから見て、それとは異なる形式であると考えられる。現在の遺跡の環状構造はかつて野球場建設の際、その敷地が円形であった跡であり、遺跡とは関係ないものである。

 遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、約780軒にもおよぶ住居跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。また、他の遺跡に比べて土偶の出土が多く、板のように薄く造られていて板状土偶と呼ばれる。次の縄文後期や晩期の立体的に体の各部を表現した土偶とは大きく異なっている。

 遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることなども分かり、多数の堅果類(クリ・クルミ・トチなど)の殻、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土した。三内丸山の人たちは、自然の恵みのみに依存した採取活動ではなく集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していた可能性も考えられる。このことを通してこの遺跡の居住者数は数百人と考える事ができる。

 平成6年(1994年)9月に青森市で開催された「北のまほろばシンポジュウム」では最盛期の縄文時代中期後半には500人の居住者がいたのではないかとの発言があったが、異論も出た。

 それらは縄文時代の文化が従来考えられていたものよりも進んだものであることを示すものであった。遺跡は他の近くの遺跡に繋がっている可能性が高く、未だに全容は把握しきれていない。

 三内丸山遺跡と一連のものであると考えられる遺跡[編集]

熊沢遺跡
三内遺跡
三内沢部遺跡
三内霊園遺跡
近野遺跡
安田水天宮遺跡

遺跡の終焉の謎[編集]

 これほどの集落がなぜ終焉を迎えたのかは謎である。一因としては、気候の寒冷化などが挙げられるが、それだけで集落全土を手放すとは考えづらく、栗の栽培を停止しなければならない何か特別な理由があったという見解も示されてはいるが、それが何であるかは分かっていない。

 出土遺物[編集]

 出土遺物は段ボールで数万箱に及んだと言われる。土器、石器が中心であるが、日本最大の板状土偶などの土製品や石製品も多く出土している。この他にも日本各地域を中心とした交易で得たと推測される黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大珠などが出土している。出土遺物1,958点が2003年(平成15年)5月29日に国の重要文化財に指定された。翡翠は糸魚川でしか産出されないので、翡翠の出土は上越地域との交易が証明される。また平底の円筒土器やけつ状耳飾りなどは遼河文明(興隆窪文化)との類似性が指摘されている。

 三内丸山遺跡から出土した動物遺体は、縄文集落で一般的なシカ・イノシシが少なく、7割弱がノウサギとムササビであり、三内丸山遺跡においてはノウサギやムササビの肉を食料としていたと推察でき、彼らの食生活の一端を伺い知ることができる。背景には巨大集落を支えるシカ・イノシシ資源が枯渇していた可能性が考えられている。

 遺構[編集]

 六本柱建物跡[編集]

 現在まで三内丸山遺跡で検出された遺構の中で最も重要視されているものである。その柱の大きさで評価されることも多いが、それとともに注目すべきは、柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2メートル、2メートル、2メートルで全て統一されていることである。これはその当時すでに測量の技術が存在していたことを示すものであり、ここに住んでいた人々が当時としては高度な技術を持っていたことを示すものである。

 特に4.2メートルというのは35センチメートルの倍数であり、35センチメートルの単位は他の遺跡でも確認されているので、「縄文尺」ともいうべき長さの単位が広範囲にわたって共通規格として共有されていた可能性が考えられる。

 さらに、これほど大規模な建造物を建てるには多くの労働力を必要としたはずであり、集落居住者の団結力と彼らを的確に指導できる指導者がいたことも推測できる。

 また、柱本体にも腐食を防ぐため周囲を焦がすという技術が施されており、長い間腐食を防ぐことのできた一因となっている。

 復元建物[編集]

 六本柱建物跡の復元に当たっては様々な意見が出された。建設する場所は六本柱建物のあったと推測される場所のすぐ脇に決まったものの、ただ柱が立っていただけなのではないかと言う意見や、逆に装飾具などもある非常に凝ったものだったのではないかと言う意見も出された。

 考証と施工は小山修三の監修の下、大林組のプロジェクトチームが行ったが、結局、中間を取って屋根のない3層構造の建物になった。しかし床があるのに屋根がない、もしくは床がないのに屋根があるというのは中途半端な感が否めず、後々までこれでよかったのかと疑問の声が上がる要因となっている。[要出典]なお、普段はここに登ることはできない。

 大型竪穴式住居跡[編集]

 三内丸山では幅10メートル以上の大型竪穴式住居跡がいくつも検出されているが、その中でも最大なものは長さ32メートル、幅10メートルのもので、これが復元されている。内部の見学がでじる。

 竪穴式住居跡[編集]

 三内丸山遺跡では、一般の住民が暮らしていたと思われる竪穴式住居跡も多数検出されている。屋根に関しては茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類の屋根を持った住居をそれぞれ想定・復元した。これも内部見学が可能である。

 掘立柱建物跡(高床式倉庫跡)[編集]

 東西約75メートル、南北約18メートルの範囲に掘立柱建物のものであると推測される柱穴群が検出されている。この掘立柱建物の柱穴の周辺及び内側には、生活の痕跡が確認できなかったため、この掘立柱建物は高床式建物であった可能性が高いと判断され、現在高床式建物として復元されている。階段があり、かつては内部を見学できたが、2001年9月27日に放火事件があった影響で、現在は立ち入りはできず、外部からのみとなっている。

 環状配石墓[編集]

 道の跡周辺からは環状配石墓(ストーンサークル)も検出されている。この墓はムラ長の墓とも考えられている。石の並べ方が、南方のやや離れた所にある小牧野遺跡と共通しているとして注目されている。また、1999年10月6日にこの墓の一つから炭化材が出土したが、これは最古の「木棺墓」の跡であるとも言われる。

 遺跡整備の方針[編集]

 1998年に遺跡整備の基本計画が取りまとめられ、遺跡整備の基本方針として以下の点が掲げられた。

保存を検討しながら実物遺構を公開展示する。
建物の復元だけでなく、植生も復元する。
縄文時代を体験・体感できるような企画性に富んだ遺跡の活用をする。
見学者が憩い楽しめるような環境作りと、充実した各種サービスを提供できる場とする。
継続的な調査・研究を行い、縄文文化研究の拠点となる施設と体制を整備する。
保存・活用の計画を段階的に推進する。

 「観光施設」としての遺跡[編集]

 近年、三内丸山遺跡は「縄文時遊館」などの建設などで設備が整った。しかしその一方、遺跡の整備は進んだが、公園化されてしまって、遺跡としての感じが薄れてしまったという意見もある。有料化構想が出た際は「六本柱の横に白いドームがある状態など、とても縄文のたたずまいとは言えない」として反対論が噴出したりもした。結局有料化は断念となった。

 東北新幹線の「三内丸山高架橋」が敷地に隣接しており、2010年12月4日の開業後は車内から遺跡を見渡せるようになった。橋の設計に当たっては景観を損なわないよう配慮された。

 2018年を目標に縄文センターが建設される予定。

年間イベント[編集](すでに終わっており参考として掲載)

縄文春祭り:平成26年5月3日~5月6日 三内丸山遺跡/縄文時遊館
縄文夏祭り:平成26年8月9日・10日、8月16日・17日 三内丸山遺跡/縄文時遊館
縄文秋祭り:平成26年10月25日・26日 三内丸山遺跡/縄文時遊館
縄文冬祭り:平成29年2月11日・12日 三内丸山遺跡/縄文時遊館

 アクセス[編集]

 東北自動車道青森ICもしくは青森自動車道青森中央ICから国道7号青森環状道路経由で青森市道都市計画道路3・4・15号里見丸山線に入ってすぐ。

 東日本旅客鉄道(JR東日本)・北海道旅客鉄道(JR北海道)新青森駅からあおもりシャトルdeルートバス「ねぶたん号」で終点「三内丸山遺跡前」バス停下車。

 JR東日本・青い森鉄道青森駅から青森市営バス三内丸山遺跡線で「三内丸山遺跡」バス停下車。

 参考文献[編集]

赤田光男 『ウサギの日本文化史』 世界思想社〈SEKAISHISO SEMINAR〉、1997年3月20日 発行、初版。ISBN 978-4790706458。
脚注[編集]
齋藤隆一「三内丸山遺跡と「和田家文書」」 安本美典・三上喜孝編集『季刊 邪馬台国』第56号 梓書院 1995年 P.196~205
村越潔「青森県の黎明」16-17ページ(長谷川成一・村越潔・小口雅史・斎藤利男・小岩信竹『青森県の歴史』山川出版社 2002年3月)
自壊する考古学・成長しない集落論 佐々木藤雄
中国北方新石器文化研究の新展開【詳細報告】「東北アジアにおける先史文化の交流」 王 巍(中国社会科学院考古研究所・副所長)
『ウサギの日本文化史』(p298)より。
村越潔「青森県の黎明」16ページ(長谷川成一・村越潔・小口雅史・斎藤利男・小岩信竹『青森県の歴史』山川出版社 2002年3月
三内丸山遺跡 県が有料化構想/賛成、反対…検討懇話会で議論百出 東奥日報
完成工事レポート:東北新幹線 三内丸山架道橋 錢高組
懸案の「縄文センター」誕生へ
《新幹線開業対策事業》 平成22年度当初予算(案)の概要 (PDF) - 青森市ホームページ(3ページ目の「新青森駅周辺の道路網の整備」に路線名の記載あり)
関連項目[編集]
縄文時代の遺跡一覧
日本の特別史跡一覧
北海道・東北の史跡一覧
北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群
小牧野遺跡
亀ヶ岡石器時代遺跡
青森県立美術館
青森県の観光地
美しい日本の歩きたくなるみち500選
梵珠山 - 青森県の県民の森、西方向、約10km


夏至冬至を環状列石に記し計数器を手にしていた縄文人
(縄文時代後期の秋田県鹿角市・湯環状列石にみる数の概念の記録)


数を記録した土版と縄文人の数の概念の有り様

三内丸山遺跡

数を記録した土版と縄文人の数の概念の有り様

数を記録した土器(土版)出土。「縄文時代の文明」(ユーチューブ・動画)

東京科学機器協会の新春大懇親会が2018年1月26日 (金) 午後、熱海後楽園ホテルで三百名ほどが参加して開かれた。

兵庫県計量協会の平成30年計量年賀交換会が 2018年1月12日(金 )開かれる

京都府計量協会の平成30年新年交歓会 2018年1月11日(木)開かれる

滋賀県計量協会の平成30年新春賀詞交歓会 2018年1月10日(水)開かれる

滋賀県計量協会の第6回定時総会は関連議事を原案どおり可決・承認、平成2017年6月23日(金)



大湯ストーンサークル館の可愛い遺物たち!大湯環状列石は秋田が誇る国宝レベルの縄文遺跡!|鹿角求人&ローカルメディア『スコップ』
https://scoop-scoop.jp/scoop/oyu_stone_circle

大湯ストーンサークル館の可愛い遺物たち!大湯環状列石は秋田が誇る国宝レベルの縄文遺跡!

みなさーん、鹿角市には、秋田そして全国に誇れる遺跡があるんですよ!
それは…

大湯環状列石、通称『ストーンサークル』です!!

パッと見、ただただ石が並んでる、
地味な(失礼しました!)遺跡ですが、
実はスゴイ場所なんです。

大湯環状列石は、
今から4000年前~3500年前の、
縄文時代後期の遺跡。

『特別史跡』という立派な肩書を持っています。

どんな意味合いがあるかというと、

『その時代を研究する上で欠かすことのできない重要な遺跡』
というもの!

縄文時代の特別史跡は、全国に4ヶ所しかなく、
物で言うところの国宝レベルなのだそう!

秋田では大湯環状列石が唯一の特別史跡!

スゴイです!

でも、
ただ単に遺跡を道路から眺めているだけでは、
その凄さは実感できません。

おすすめは、大湯ストーンサークル館の中に入って、
実際に遺物を見ること!

昔に生きていた人たちの生活の道具を
実際に自分の目で見ると、
空想の世界じゃなく、ホントにそんな時代があったんだな、

という壮大なロマンを感じることができるはず。

今回は、大湯ストーンサークル館の遺物の中でも、
女子目線で見た

『カワイイ!』

遺物をご紹介します。

『どばんくん』こと土版のとぼけた顔がカワイイ!

見て下さい、この愛らしい表情とフォルム!

なにかのアニメに出てきそうな、可愛いキャラクター!

ホントに遺物なの?と疑うほどです。
今の時代の誰かが遊びで作って、
こっそり埋めたのでは?と思うほどキレイな出土品。

どばんくんの秘密

どばんくんの姿をよく見ると、数が隠されているんです。
穴の数にご注目!

口が1
目が2
右胸に3
左胸に4
真ん中に5
さらに、
裏の背中に6

そうです!
1から6までの数が隠されているんですよ!
サイコロと同じ6までの数です。

使用用途は全く分かりませんが、
計算機だったのではないかという推測もされています。

実は、子供が遊びでつくった
当時のおもちゃだったりして。
可能性はなきにしもあらず。

下の底部分にも一つ穴が空いているので、
女性を模したものではないか?とも言われているそうですよ。

キノコがカワイイ!当時の標本代わりなのか?

きのこ!きのこ!
たくさんのキノコの形の遺物です。

何のためのものか、
理由は分かっていませんが、
とにかくフォルムが可愛いのです。

縄文遺跡の遺物って聞くと、
土偶とか槍の先に付けていた石とかを想像しませんか?

でも、こんな遺物もあるんですねーーー!?

研究者の間では、
親から子へ、食べられるキノコを教える時の標本代わりとして使っていたのでは?
など勝手な(笑)憶測が飛び交っているそう。

このキノコのように、
使用用途が分からない遺物のことを
『第二の道具』
と呼ぶそう。

土器などの用途が容易に推測できるものが
『第一の道具』
です。

考古学を研究しているひとの悪い(?)クセで、
使い方の分からない第二の道具が出土されると、
『祭祀に使った道具』
にしてしまう、という”あるある”もあるらしいですよ(笑)

ほんとのところは縄文に生きた彼らしか知りません。

縄文ならではの縄模様がカワイイ!

縄文時代の『縄文』とは、土器の表面に縄を転がしてつけた模様のこと。

大湯環状列石で発掘されたたくさんの土器にも、
いろいろな縄文模様が描かれています。

展示してある土器は、
出土されたうちのわずか数パーセントだというのだから驚きです。
そんなにたくさんの土器が発掘されていたなんて!

その土器のひとつひとつ、
個性的な縄文ばかりで、見ているのが面白いですよ!

出土された場所によって土器の模様に特徴があるのか伺ったところ、
大湯独自の特徴をもっているものもあるとのこと。

大湯環状列石独自の模様はこちら。

”入組紋”と呼ばれているそうです。

北のアイヌの模様やアラスカのトーテムポールを連想させるような、
ダイナミックな曲線です。

向かい側の壁には、
模様を付けるための、縄のねじり方、編み方が豊富に案内されています!

工夫次第で色々な模様を作ることができるんです。
どれも素敵な縄文!

実際に自分で縄文を粘土に作ってみるコーナーも。

縄文人もオシャレでカワイイ!
首飾りや耳飾りもありますよ

縄文人のオシャレといえば、
アニメなどでは首飾りをよく見ますよね!

首飾りに使っていたのでは、と思われる
ビーズ状に通し穴が開けられたものも発掘されています。

縄文人もオシャレですね。

耳飾りもたくさんありました。

当時の耳飾りは、今のピアスとは違って、
耳たぶにはめ込むタイプだったようです。

テレビでお皿を唇にはめている民族をたまに見ますが、
あの要領で耳たぶにはめ込んでいたそう。
耳飾りの縁には、穴にはめるための溝が付いています。

縄文遺跡は新しいイマジネーションを呼び起こす
最高の場所

「縄文遺跡って、見るところ何もないでしょ?」
そんなこと言ってたらもったいないです!

ぜひ、遺物を見に来て欲しい!

1万年も続いた縄文時代。

そこには、名前は分からないけど、
色んな人が住んでいて、家族がいたんですよね。

私自身、大湯ストーンサークル館で、
大昔の家族が使っていた道具を
実際に自分の目で見て確かめて、

そこに住んでいたであろう、
普通の縄文家族のなんでもない暮らしを
じっくりと想像することができました。

電化製品に囲まれた現代生活ですが、
たまには大昔の人々の土色の暮らしに思いを馳せてみるのも面白いですよ!

大湯ストーンサークル館

秋田県鹿角市十和田大湯字万座45番地
TEL:0186-37-3822

≪開館時間≫
4/1~10/31 9:00~18:00(休館日なし)
11/1~3/31 9:00~16:00(月曜・祝日や振替休日と重なったときは翌日休館)






0 件のコメント:

コメントを投稿