ケネディ大統領ベルリン演説(全文+和訳)
“Ich bin ein Berliner (I am a Berliner)” Speech by John F. Kennedy, at
I am proud to come to this city as the guest of your distinguished Mayor, who has symbolized throughout the world the fighting spirit of
私は、世界中に西ベルリンの闘争心の象徴として扱われてきた皆さんの素晴らしい市長の来賓として、この街に来ていることを誇らしく思っています。
And I am proud -- And I am proud to visit the Federal Republic with your distinguished Chancellor who for so many years has committed Germany to democracy and freedom and progress, and to come here in the company of my fellow American, General Clay, who -- who has been in this city during its great moments of crisis and will come again if ever needed.
そして、私は--私は、誠に多年に亘ってドイツの民主主義と、そして自由、さらに発展へと献身されてきた皆さんの優れた首相と、更に--最大の危機の時間にこの街に駐留し続けてこられ、更に今後求められれば再びこの地に駐留するであろう、クレー将軍と一緒に、我がアメリカ国民からの友人としてこの街を訪れるていることを誇りに思います。
Two thousand years ago -- Two thousand years ago, the proudest boast was "civis Romanus sum." Today, in the world of freedom, the proudest boast is "Ich bin ein Berliner."
2000年前、--2000年前には、「ローマ市民」であることが最高の栄誉でした。今日、自由世界において、最高の栄誉は「私はベルリン市民です。」ということです。
Freedom has many difficulties and democracy is not perfect.
自由主義は多くの難題を抱えており、そして民主主義は完全ではありません。
But we have never had to put a wall up to keep our people in -- to prevent them from leaving us.
しかし私たちは、自分たちの人民を閉じ込めたり、--人民が私たちの下から去ることを防ぐために--壁を構築したりしたことは決してありませんでした。
I want to say on behalf of my countrymen who live many miles away on the other side of the
私は、何マイルも離れた大西洋の対岸に住み、皆さんから離れた場所にいるわが国の国民を代表して申し上げたいのです。私たちは過去18年間の物語を最大の誇りを持って、皆さんと分ち合うことができているということをです。
I know of no town, no city, that has been besieged for 18 years that still lives with the vitality and the force, and the hope, and the determination of the city of West Berlin.
私は、18年もの間包囲され続け、にもかかわらず、なお活気と力と希望と決意を抱いて存続し続ける街や都市を、西ベルリンをおいて知りません。
While the wall is the most obvious and vivid demonstration of the failures of the Communist system -- for all the world to see -- we take no satisfaction in it; for it is, as your Mayor has said, an offense not only against history but an offense against humanity, separating families, dividing husbands and wives and brothers and sisters, and dividing a people who wish to be joined together.
皆さんの市長が述べられてきたように、壁は最も明白な、そして強烈な共産主義制度の失敗の証明であり--全世界が見ているにも関わらず、--私たちがそこから何らの満足を得ることがないにもかかわらず、;にもかかわらず、そこに存在しています。これは歴史に対する犯罪であるのみならず、人間性に対する犯罪であり、家族を分断し、夫婦や兄弟姉妹を分かち、そして共に会いたいと望んでいる人々を分断しています。
What is -- What is true of this city is true of Germany: Real, lasting peace in Europe can never be assured as long as one German out of four is denied the elementary right of free men, and that is to make a free choice.
この街の事実はドイツの実情であり、ドイツの4分の1の国民が基礎的な人権である自由を否定されている限り、ヨーロッパの永続的な平和は決して確保されることはなく、そして、このことは自由な選択に委ねられるべきなのです。
In 18 years of peace and good faith, this generation of Germans has earned the right to be free, including the right to unite their families and their nation in lasting peace, with good will to all people.
過去18年間における平和と良心の歴史の中で、今の世代のドイツ人は、全ての国民への良心と共に、継続的な平和の下で自分たちの家族や自分たちの国と団結する権利を含めた、自由となる権利を獲得してきたのです。
You live in a defended island of freedom, but your life is part of the main.
皆さんは防衛された自由の孤島に住んでいますが、皆さんの生命は全体の中の一部ではないのです。
So let me ask you, as I close, to lift your eyes beyond the dangers of today, to the hopes of tomorrow, beyond the freedom merely of this city of
ですから、このスピーチを終えるにあたって、私から皆さんにお願いがあります。皆さんの目線を、危険な現状を越えて、明日への希望へ、単なるベルリンのこの街における自由、あるいは皆さんの祖国ドイツを越えてあらゆる場所における自由の前進へ、ベルリンの壁を越えて公正さを伴った平和が実現する日へ、皆さんや私たち自身を越えて、全人類へと向けて頂きたいのです。
Freedom is indivisible, and when one man is enslaved, all are not free.
自由主義は分かち難いものであり、ですから一人でも奴隷的な拘束を受けている状態では、完全な自由とは言えません。
When all are free, then we look -- can look forward to that day when this city will be joined as one and this country and this great Continent of Europe in a peaceful and hopeful globe.
全ての人々が自由になった時、その時、私たちは--この街が一つに合併し、そしてこの国とこの偉大なヨーロッパ大陸が、平和で希望に満ちた地球で一つになる日の訪れを期待することができるのです。
When that day finally comes, as it will, the people of
そして、その日が遂に訪れた時、西ベルリンの人々は20年間にわたって自分たちが最前線に立っていたという事実の下で厳粛な満足感を得ることができるようになるでしょう。
All -- All free men, wherever they may live, are citizens of
全ての--全ての自由を追求する人々は、どこに暮らしていようとも、皆ベルリン市民なのです。
And, therefore, as a free man, I take pride in the words "Ich bin ein Berliner."
そして、だからこそ、一人の自由主義者として、私は“Ich bin ein Berliner.”(「私はベルリン市民である」)という言葉に誇りを覚えます。
ベルリン演説から50年、ケネディ大統領は「私はドーナツ」と言ったのか 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News
【6月26日 AFP】50年前の6月26日、ジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)米大統領は大変な文法間違いをおかし、「私はジャムドーナツ」と宣言したという伝説がある。 それによると、ドイツ語で「Ich bin ein Berliner」と演説したケネディ大統領は、不定冠詞「ein」の使い方を間違えており、冷戦下のベルリンへの連帯を示すためには「Ich bin Berliner(私はベルリン市民である)」と言うべきだったとされているのだ。 だが、ベルリンの言語学教授アナトール・ステファノヴィチ(Anatol Stefanowitsch)氏は、ケネディ氏は間違っていなかったと、1963年6月26日の演説を記念する式典の前にAFPに説明した。「『Ich bin ein Berliner』という文は完全に文法的に許容できるものだ」 ■「ベルリン市民」の意味には冠詞「ein」が不要 このフレーズは演説の中に2度現れた。ケネディ大統領が考案し、通訳たちに翻訳させたという。 ベルリーナ(Berliner)は確かにドーナツを意味するが、この発言の文脈を考えれば意味は観衆にはっきりと伝わったとステファノヴィチ氏は言う。 「混乱が生じるのは(ドイツ語では)通常、あらかじめ定義されている集団への自らの所属は、冠詞抜きで表現することに由来している。たとえば『Ich bin Student』、あるいは『Ich bin Berliner』のように」 「『Ich bin Berliner』という文は明確であり、これをドーナツと関連づけることは出来ない。なぜならドーナツは『あらかじめ定義されている集団』ではないからだ」 ■ケネディ氏の「ein」はこれ以上なく的確、言語学者が太鼓判 一方、冠詞「ein」を使うのは、ステファノヴィチ氏によれば、発話者がその集団(この場合はベルリン市民)に文字通り所属していないものの、その集団と何かを共有していることを表明したい場合だという。 「ケネディ氏が表現したかったことはまさにこれだ──彼は自分がベルリン住民であると主張したかったのではなく、ベルリン市民と何かを共有している、つまり自由への愛を共有しているということを言いたかったのだ」とステファノヴィチ氏は説明した。 10分間の演説の最後に、ケネディ大統領はこの不朽の名言を残した。「全ての自由な人びとはどこに暮らしていようがベルリン市民であり、それ故に自由な人間として私はこの言葉に誇りを持つ。『Ich bin ein Berliner』」 ということは、その夏の日、45万のドイツ人の群衆があぜんとした顔をしたり、笑い声が漏れたりすることはなかったということだろうか。 「ケネディ大統領は文法的に正しい文を演説しただけでなく、その場で意味をなす唯一の文を演説したのだ」とステファノヴィチ氏は述べた。(c)AFP
Ich bin ein Berliner
日付 | 1963年6月26日 |
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会場 | シェーネベルク庁舎 |
場所 | 西ベルリン |
関係者 | ジョン・F・ケネディ |
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ウィキソースにIch bin ein Berlinerの原文があります。 |
Ich bin ein Berliner(イッヒ・ビン・アイン・ベルリーナー、ドイツ語発音: [ˈʔɪç ˈbɪn ʔaɪn bɛɐ̯ˈliːnɐ]、ドイツ語で「私は一人のベルリン市民である(I am a Berliner)」の意)は、第35代アメリカ合衆国大統領、ジョン・F・ケネディが1963年6月26日に西ベルリンで行った演説、およびその演説の一節である。
概要
冷戦渦中の有名な演説の一つであり、最も有名な反共演説の一つとして広く知られている。ソビエト連邦が支配するワルシャワ条約機構加盟国である東ドイツが、西ベルリンへの大量移住を防ぐため、1961年8月から西ベルリンに壁(ベルリンの壁)の建設を始めた。壁の建設から22ヶ月後、ケネディは西ドイツに対するアメリカの支援を強調することを目的とし、西ベルリンの地を訪れ市民の前で演説を行った。この演説は、ソ連だけでなくベルリン市民にも向けられたもので、ベルリンの壁建設後のアメリカの政策を明確に示したものだった。また、この演説の中には「Lasst sie nach Berlin kommen」(「彼らをベルリンに来させなさい」)というドイツ語のフレーズがあり、これは「共産主義者と一緒に仕事ができる」と主張する人々に向けられたもので、それを聞いたソ連中央委員会第一書記のニキータ・フルシチョフは嘲笑したという。
この演説はケネディの最高傑作の一つとされており、冷戦時代の特筆すべき瞬間であると同時に、ニューフロンティアの最高点でもある。東ドイツ内の飛び地となり、占領されてしまうことを恐れていた西ベルリンの人々にとって、ケネディの演説は士気を向上させる大きな転機となった。ケネディはシェーネベルク庁舎(ドイツ語版)前に設置されたステージ上から、12万人の聴衆を前に演説を行った[1]。
Two thousand years ago, the proudest boast was civis romanus sum. Today, in the world of freedom, the proudest boast is "Ich bin ein Berliner!"... All free men, wherever they may live, are citizens of Berlin, and therefore, as a free man, I take pride in the words "Ich bin ein Berliner!"
(日本語訳)2000年前、人々が最も誇りに思ったのは「civis romanus sum」(私はローマ市民である)であることでした。いま、自由の世界で、最も誇りに思うことは「Ich bin ein Berliner!」(私はベルリン市民である)ということなのです。(中略)どこに住んでいようと、すべての自由人はベルリンの市民であり、したがって、私は一人の自由人としてこの言葉に誇りを持っています、「Ich bin ein Berliner!」。[2]
当該箇所は、"Two thousand years ago, the proudest boast was 'civis romanus sum '. Today, in the world of freedom, the proudest boast is 'Ich bin ein Berliner '."「2000年前は、最も誇り高き言葉は『私はローマ市民だ』であった。今日、この自由な世界において、最も誇り高き言葉は『私はベルリン市民だ』である。」と、キケロに由来するとされる”civis romanus sum”との対比で用いられた。
なお、元の”civis romanus sum”には冠詞に相当する語がないが、これはラテン語自体に冠詞がないためである。
背景
第二次世界大戦後、ドイツの首都ベルリンを含む一帯はソビエト連邦によって支配されるようになっていた。当初は連合国4か国(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連)によって4つのセクターに分かれて統治されていたが、冷戦の緊張が高まったことを受け、ソ連軍が西側連合国(アメリカ、イギリス、フランス)が大規模な空輸により解放した西側セクターにベルリン封鎖を実施した。その後、NATO連合軍が支配する地域(西ベルリン)は、東ドイツに四方を囲まれた西ドイツの実質的な飛地となった。1952年以降、東西の国境はベルリンを除き、閉鎖された。その影響で何十万人もの東ドイツ人が西ベルリンを経由して西ドイツに亡命したため、東ドイツは労働力が流出して経済的に破綻する恐れがあった。
1961年、ヴァルター・ウルブリヒト率いる東ドイツ政府は、西ベルリンの周囲に「反ファシストの防護壁(antifaschistischer Schutzwall)」と呼ばれる有刺鉄線の「壁」を設置した。のちに「ベルリンの壁」としてなるその壁は、東ドイツ政府の主張では、西ドイツのスパイや工作員が東側に侵入するのを防ぐ目的としていたが、本当は東ドイツの市民が西側に逃げないようにするためだった。その後、壁は数カ月かけてコンクリートで補強し、壁周辺の建物は取り壊され、機関銃で武装した東ドイツの警備員が見守る中、「デスゾーン」が作られた。壁は鉄のカーテンの最も大きな抜け道を塞ぎ、ベルリンは東欧から西欧へ渡る際に最も困難な場所のひとつとなった。
アメリカをはじめとする西側諸国は、壁の建設に力強く対応できなかったと非難された。公式には、ベルリンは連合国4か国が共同で占領し、それぞれが一定の区域を担当していることになっていた。ケネディが行った演説は、東ベルリンが東ドイツとともにソ連圏に属していることを初めて認めたものとなった。1961年7月25日、ケネディは大統領演説の中で、4か国の権利を主張してアメリカが西ベルリンを防衛すると主張する一方で、ドイツにおけるソ連の存在に異議を唱えることは不可能であると明言した。
演説
シェーネベルク庁舎の階段に設置されたステージの後方には、ディーン・ラスク(アメリカ国務長官)、ルシウス・D・クレイ(アメリカのドイツ担当行政官)、コンラート・アデナウアー(西ドイツ首相)、ヴィリー・ブラント(西ベルリン市長)、オットー・バッハ(ベルリン市議会会長)などのアメリカとドイツの要人が並んでいた。演説では、まずバッハが壁建設に関するベルリンの近況について報告し、続いてアデナウアーが短いスピーチを行った後、ケネディの紹介をした。
演説による影響
西ドイツの人々の反応は概ね好意的であったが、ソ連当局は戦闘的とも取れる「Lass sie nach Berlin kommen」(「彼らをベルリンに来させなさい」)に不快感を示していたと言われている。この2週間前の6月10日にワシントンD.C.のアメリカン大学で行っていた演説(題名:平和の戦略(A Strategy of Peace))では、ケネディは「ソ連との関係改善」を謳い、より融和的なトーンで話していた。ケネディのベルリン演説を受け、ソ連中央委員会第一書記のニキータ・フルシチョフは「この演説は異なる2人の大統領が行ったと思うだろう」と発言している。
ロナルド・レーガンは、24年後の1987年6月12日、ベルリンで行われたベルリン750周年記念式典内で「この壁を壊しなさい!」と演説を行い、ケネディのレガシーを思い出させた。
この演説の影響を受け、ベルリンにはドイツ系アメリカ人学校のジョン・F・ケネディ学校や、ベルリン自由大学のジョン・F・ケネディ北米研究機関など、ケネディに関する記念施設がある。また、演説後には開催地となったシェーネベルク庁舎前の広場が「ジョン・F・ケネディ広場」と改称された。建物の入口にはこの演説に関する巨大なプレートが取り付けられている。
現在、スピーチのオリジナル原稿はアメリカ国立公文書記録管理局に保管されている。
都市伝説
「Berliner」には、「ベルリン市民」と言う意味の他に、「ジャム入りの揚げパン」とも受け止められるため、「私はジャムドーナッツである」と通訳されたという都市伝説が英語圏では有名である。この都市伝説は、ドイツ語では職業や出身地を言うときには不定冠詞のeinをつけずに「Ich bin Berliner」ということから来ている。ケネディが英語の文法に引きずられて不定冠詞をつけてしまったために「ベルリン市民」の意味にならなかった、というわけである。しかし、ジャム入りの揚げパンはベルリンではBerlinerではなくPfannkuchenと呼ばれるのが一般的であるし、また、この文脈ではケネディは自分を実際のベルリン市民と言っているわけではなく、ベルリン市民と心を共有することを比喩的に言っているのであるから、einはむしろ必要であるという説もある[3]。
出典
- John F. Kennedy at American University and in Berlin C-SPAN
- 土田宏 『ケネディ―「神話」と実像』 中央公論新社、2007年11月25日。ISBN 4121019202。none
- ^ “Did JFK Say He Was A Jelly Doughnut?”. The Huffington Post(2013年6月26日). 2014年6月25日閲覧。(英語)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
座標: 北緯52度29分6秒 東経13度20分40秒 / 北緯52.48500度 東経13.34444度
https://news.yahoo.co.jp/articles/f22b7585e1d5fc59399901fda410aba691c06688?page=2
世界最強の諜報機関を率いた元長官が"プーチンの視点"から考える「ウクライナ侵攻の解決策」
キューバ危機を解決したケネディ大統領のやり方
今まさに漂う核衝突の気配は、多くの人々に1962年10月の核ミサイル危機を思い出させるだろう。キューバ危機において、ロシアは戦闘機の大隊をキューバへ送り、また核弾頭を搭載した戦艦を派遣してアメリカ東海岸を核ミサイルの射程に入れた。 身を切られるような13日間の後、ホワイトハウスの優秀な職員一同はなんとか危機を回避したのである。彼らの成功から、現在我々の身に迫りつつある核災害の危機を回避する方法を学ぶことができるかもしれない。 まったくの偶然だが、キューバ危機が最高潮に達していたとき、ラトビア出身のオックスフォード大学哲学教授アイザイア・バーリンが、個人的にアメリカを訪れていた。 筆者の近しい親戚でもあるバーリンは、第二次大戦中にウィンストン・チャーチルの個人使節としてワシントンとモスクワに派遣されており、その両方で高い評価を得ていた。 この緊迫した秋のある晩、バーリンはワシントンでのカクテルパーティーに出席していた。すると正面玄関からケネディ大統領が現れ、バーリンはいるかと尋ねた。大統領はバーリンに近づき、握手をして去った。 翌日、バーリンとその妻はホワイトハウスでの私的な晩餐会に招待される。大統領はある重要な問題への答えを求め、来賓たちに助言を乞うた。 「ロシア最高指導者(フルシチョフ)が自国の党員たちに対し、自身が『諦めて』アメリカ沿岸から核を撤退させる理由を説明できるようにしてやりたいんだが、そのために、私は何を提供してやれば良いだろう?」 この晩餐会からまもなくして、ロシア空軍とミサイル搭載戦艦は撤退した。その数ヵ月後、アメリカはトルコに配備されていたミサイル「ジュピター」を撤去する。ロシア側からすれば、脅威と不安の種であった戦力が撤廃された訳だ。
求められるのは「プーチンの威厳を損なわず、撤退できる道」
さて、現在に目を転じれば、今ホワイトハウスが抱える課題もやはりはっきりしている。血を流すウクライナの勇敢で罪なき市民たちを支援しつつ、同時にプーチンに対し、外聞の良い撤退の言い訳──彼が国内の支持層に体良く説明できるような言い訳──を与えてやるには、いったいどうすれば良いのか。 国際社会においてもロシア国内においても、すでにプーチンの威信は大きく損なわれており、この深い傷の克服には数年が必要となるだろう。 停戦は、然るべき方針への可能な第一歩ではあるが、しかしそれはアメリカとロシアの共同政策として、長期的な問題解決のアウトラインの一環としてなされなければならない。 プーチンが第二次チェチェン紛争と同じ解決手段(空爆を中心とした強硬な武力制圧)を今回の戦争で用いることは許されず、またバイデンも事態の収拾がつかなくなるまで手をこまねいているわけにはいかない。
Efraim Halevy
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