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狗邪韓国について(番外編)
狗邪韓国の位置について考えた話(番外編)です
- 狗邪韓国も倭の国だった
- 「国生み」神話で気になるところ
- ポイントは「大八島」
狗邪韓国も倭の国だった
前回の記事で、狗邪韓国は現在の巨済島にあったのではないかという結論になりました。
となると、対馬、壱岐と同様の、倭の勢力圏にある島が一つ増えたことになります。
ここで思い出したのが、「国生み」の神話です。
イザナギとイザナミの2柱の神により、日本を構成する8つの島「大八島」が生み出されたというのが、「国生み」の神話です。
その「大八島」に対馬と壱岐は有りますが、巨済島は入っていません。
この違いについて考えて見ようというのが、今回の話(番外編)です。
「国生み」神話で気になるところ
さて、「国生み」の神話ですが、その内容は『古事記』と『日本書紀』で少し異なります。
さらに『日本書紀』の中では、いわゆる「一書」の形でいくつかの異なる話が出て来ますが、ここでは最もポピュラーと思われる『古事記』のもので考えたいと思います。
その『古事記』の話では、「大八島」は、淡路、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州の順に作られたという事になっています
以前から、この中で気になっている箇所が有りました。
それは、佐渡です。
「大八島」のメンバーを見ると、明らかに西日本に偏っているように思えるのですが。
その中で、どうも佐渡だけは、異質な感じがするのです。
本州が有るじゃないかと言われそうですが、これも原文に本州と書いてあるわけでは無く、大倭豐秋津島(おおやまととよあきつしま)とあるのを、本州だと解釈しているもので、山口から近畿までの部分を指していると考える方が、残りの場所と比べると、しっくりくると思うのです。
「国生み」神話は、壱岐、対馬というところが含まれていることからも、元々九州で形作られた西日本を対象とした原型の神話が、大和政権が畿内を中心に成立する過程で、次第に東の部分も含まれる形に変化していったのだと思われます。
その中で、大倭豐秋津島を畿内以東も含めた本州だとしたのだとしても、やはり佐渡が気になります。
東に広げるにしても、佐渡をわざわざ入れる理由がよく分かりません。
ポイントは「大八島」
ここまで来れば、何を言わんとしているかもうお分かりでしょう。
この佐渡は、もともと巨済島だったのではないでしょうか。
勿論、巨済島という名称ではなく、当時倭人が呼んでいた名前だったはずですが。
しかし、前回の記事で考えたように倭人が朝鮮半島本土に進出することで、その勢力範囲が島では無くなってしまった事も有って、年月が経る中でどこを指しているのか分からなくなってしまったのではないでしょうか。
その分からない部分に、代わりに佐渡を充てたという訳です。
その時にポイントとなったのが、「大八島」なのでは無いでしょうか。
「大八島」という表現が、最初からあったのではないかと思うのです。
8つの島なので、分からなくなってしまった巨済島に代わって選ぶにも島でなければならないので、佐渡島を充てたのです。
それにしても、つい目と鼻の先とも言える朝鮮半島とその背後の大陸を全く顧みない創世神話というのは、やはり島国だからなんでしょうか。
ではでは
やはり佐渡島は巨済島だった
佐渡島と巨済島の関係について考えた話です。
- 佐渡島は巨済島
- 巨済島は沙都島
- 読みから佐渡島とした
- 日本書紀にも在った
佐渡島は巨済島
少し前の記事で、国生み神話について書きました。
『魏志倭人伝』に最初の寄港地として出て来る狗邪韓国が倭人の国であり、現在の巨済島にあったと考えられることから、「古事記」の国生み神話に出て来る大八島の内の佐渡はもともと巨済島の事だったのではないかという話でした。
巨済島は沙都島
という事なのですが、別の件で色々なページを巡っている途中で、次のような地図を見付けました。
見てもらえば分かりますが,右下辺りに沙都島(巨済島)とあります。
ルビは振られていませんが、「さととう」と読めそうです。
6世紀前半には、巨済島は沙都島と呼ばれていたようです。
読みから佐渡島とした
上記の記事では、国生み神話に出て来る佐渡島は、元々は巨済島が当時呼ばれていた名称で入っていたのではないかとしました。
そして、元々巨済島(狗邪韓国)にいた倭人が、朝鮮半島本土に進出することで、その勢力範囲が島では無くなってしまった事から、年月が経る中でどこを指しているのか分からなくなってしまったのではないかとしました。
その上で、「大八島」なので、島である佐渡を充てたのではないかという話でした。
しかし上図に在ったように、事はもっと単純で、巨済島は沙都島と呼ばれていたわけで、その読みに合わせて佐渡島を充てたという事になりそうです。
やはり、国生み神話は、元来の倭人の勢力範囲がどのように作られたのかを説明した神話だったという事になりそうです。
日本書紀にも在った
ところが、この沙都島について調べて見ると、『日本書紀』第17巻継体天皇に、百済の使者の文貴將軍という人物が沙都島経由で帰国したという記述がある事が分かりました。
これを見ると、沙都島の存在は、かなり後の時代まで知られていたとも考えられます。
そうだとすると、この当時には沙都島は朝鮮の勢力下だと考えられますから、それを国生み神話から外すために読みの似た佐渡島に変わっていったとも考えられそうです。
いずれにしても、国生み神話に出て来る佐渡島は、沙都島(巨済島)と考えてよさそうです。
どうも、やはり文献はチャンと確認しておきましょうということですね。
ではでは
返信削除巨済島(旧名沙都島)=佐渡島?
高知の沖ノ島説もありる
返信削除巨済島(旧名沙都島)=佐渡島?
沙都島について調べて見ると、『日本書紀』第17巻継体天皇に、百済の使者の文貴將軍という人物が沙都島経由で帰国したという記述がある事が分かりました。
隠岐も高知の沖ノ島説がある
返信削除http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/awa/awa_01.html#Anchor-10
第10回
隠岐島と佐渡島
古事記の国生みで気にかかる所は,隠岐島と佐渡島である。国生みは,下記の順番で造られたと書かれている。
1.淡道(あわじ)の穂(ほ)の狭別島(さわけしま) (淡路島)
2.伊予二名島 (四国)
3.隠伎の三子島 天之忍許呂別(あめのおしころわけ)
4.筑紫島 (九州)
5.伊伎島 天比登都柱(あめのひとつばしら) (壱岐島)
6.津 島 天之狭手依比賣(あめのさでよりひめ) (対馬島)
7.佐渡島
8.大倭豊秋津島 天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ) (畿内)
江戸時代の本居宣長は,その著「古事記伝」に,1.淡路島から,2.四国と来て,3.隠伎の三子島を日本海にある隠岐島にあてはめると,その順序もおかしく(その後は,時計回りに進んでいる)又,隠伎の三子島と書かれているにもかかわらず,日本海にある隠岐島は,島前・島後の四島からなる島であるから数が合わないと書きながら,島前の三島を古事記の隠伎の三子島にあてている。
ということで,やはり,隠伎の三子島は,四国周辺を探さなければならない。
そこで,四国の東にある三島からなる伊島がそれであろうと推測され,古事記の記述にも適合する。
次に,佐渡島であるが,古事記には佐渡島のみ又の名が付いていないことや,その当時の勢力範囲から見ても離れすぎているので,佐渡島は古事記が書かれた時点で書き加えられたものと推測する。
ちなみに現在韓国の巨済島[コジェド](旧名沙都島)が古事記の佐渡島では?という説があります。
返信削除(沙都島について調べて見ると、『日本書紀』第17巻継体天皇に、百済の使者の文貴將軍という人物が沙都島経由で帰国したという記述がある事が分かりました。)