2022年5月30日月曜日

邪馬台国と製鉄 - Shun Daichi

邪馬台国と製鉄 - Shun Daichi

邪馬台国と製鉄

プロローグ

日本最初の統一国家 大和朝廷は、どのように成立しただろうか?古墳時代や邪馬台国等との関係は?或いは記紀神話との関係は?実に多くの人々が、疑問を抱き研究を重ねてきているが、未だに定説と言える物は存在しない。
 この時代の資料は、わずかに中国の歴史書に記されているだけで、日本には、確かな資料は存在しない。大和朝廷成立後に編纂された記紀から、わずかに読み 取れるのみである。記紀とは、古事記と日本書紀の総称である。大和朝廷のために書かれた歴史書であるが、一般的に記紀神話として、現在では歴史書と言うよ りも神話書として捉えられている。
 ところが、記紀神話の内容を裏付けるような驚きの場所が存在した。今までの謎をいっきに解き明かすかもしれない、その驚愕の地とは九州の宮崎県の中心部 とも呼べる場所である。私は数年来、この場所に注目してきたが、一人の不屈の研究家の努力により、想像を絶する規模の幻の古代製鉄国家の姿が浮かび上がっ てきたのだ。
 宮崎県は、九州南部太平洋側に面した南国情緒あふれる観光地だ。神話の故郷としても有名なのだが、やはり多くの人々にとっては、暖かい観光地と言うイメージしかないだろう。ある程度の年代の人にとっては、新婚旅行のメッカとしても、記憶されている事だろう。
 しかし、宮崎は古代においては歴史の表舞台にたち、日本の国の形成に大きな役割を果たした。ご存知のように記紀神話では、日向の国は重要な舞台なのだ。 日向の国は、現在の宮崎県を中心にした九州南東部を指す。それにもかかわらず、古代史を語るとき常にでてくるのは、北九州、出雲、大和の御三家ばかりで、 宮崎が話題に上ることは現在ではあまり無い。何故なのだろう。
 実は、この裏には意外な歴史の暗部が隠されていた。一人の個人研究家に注目し、調査を進めていく中で、次第に明らかになってきた「幻の製鉄国家」を探る探検に出発しよう。

2. 知られざる古墳群

宮崎市の繁華街から車で15分ほど大淀川を遡った場所に、跡江と呼ばれる地区がある。この跡江地区には、国指定の巨大な生目(いきめ)古墳群が広がってい る。同じ宮崎県には西都原古墳群があるが、生目古墳群は、広大な宮崎平野の中心部の一角に位置していて、まさに宮崎市の中心に存在する。
 西都原古墳群は、有名である為、多くの人が知っているだろうし、実際訪れた事のある人も多くいるだろう。しかし、生目古墳群は、国指定の重要な古墳群で 宮崎の中心部にあるにもかかわらず、まったくといってよいほど知られていない。むしろ古墳群よりも、眼病に御利益があるとされる生目神社のほうが有名かも しれない。
 ところが、生目古墳群は、西都原よりも遥かに重要で、大きな謎を秘めた古墳群なのだ。生目古墳群は、西都原古墳群より時代が全体的に古いのである。それ どころか、いくつかの古墳は、日本最古と一般的に思われている箸墓古墳と同時代か、更に古い可能性もあるのだ。しかも、生目古墳群には、畿内にある古墳 の、ほとんどすべてのタイプがそろっている。
 生目古墳は、現在、宮崎県により整備が進められている。古墳パークとして西都原同様に観光地に整備して売り出す魂胆らしい(写真参照)。2003年の 12月、調査整備中の生目古墳群を見学する機会があった。この時、案内をしてくれた調査関係者の一人が、思わぬ事をつぶやいた。
 「ここの古墳は、まだ知られてないけど、異常に古いんですよ。」「しかも、畿内にある古墳が、大きさが縮小した形ですべてそろっている。」
 ここで思わず、私が聞き返した。「と言う事は、畿内の古墳は、ここをお手本に作ったと言う事ですか?」
 「そう考えるのが、自然ですよね。誰でもそう思うはずです」「でも、公には、畿内の巨大な勢力にあこがれた宮崎の勢力が、畿内に遠慮して、そっくり同じ物を少し小さく作った事になっています。」
 「でもそれでは、時代的に矛盾があるのではないですか?」「ウーン・・・・」
 ここで会話は終了した。
 さて、この会話を、どう思うだろうか?実は、この会話には、奥深い意味が隠されていた。この会話の意味する所は、後ほど説明するとして、とりあえず先に進もう。
 つまり、生目古墳群の示す所は、宮崎の平野部に、非常に古い時代に巨大古墳を作った大きな勢力が存在していたと言う事実だ。しかし、歴史教科書の何処にも、宮崎に付いて詳しくかかれた部分は出てこない。何故なのだろうか?

 生目古墳群のある跡江地区と大淀川を挟んで対岸には、瓜生野と呼ばれる地区がある。この瓜生野地区周辺部にも、信じられないほど多くの古墳が広がってい る。古墳として認定された場所以外にも数限りない古墳が存在する。あまりに古墳だらけのため開発が進むにつれて、その多くは発掘もされないまま壊されてい るのが実情である。
 瓜生野地区の古墳が、生目古墳群と違うのは、巨大な前方後円墳が、存在しない事だ。ほとんどが、横穴式古墳である。周辺には、上北方、下北方、池内町などがあるが、この付近にも数限りない横穴式古墳、地下式横穴墓、円墳、前方後円墳などが広がっている。
 この地区から、もう少し市中心部に下った所には、神武天皇を祭る宮崎神宮があり、その鎮守の森にも船塚古墳と呼ばれる立派な前方後円墳がある。近くの平 和台公園や蓮ヶ池にも古墳群が広がる。要するに、宮崎の平野部は、古墳だらけなのだ。図1に大規模な前方後円墳を含む主な古墳群を記したが、あくまで大規 模で主な古墳群のみを記してある。小さな古墳群を入れると市中心部から大淀川の流域にかけてほぼ全域が古墳群と言っても差し支えないだろう。宮崎市は、古 墳群の中にできた町なのである。
 九州古墳時代研究会発行の「宮崎平野の古墳と古墳群」によると、あくまでも概算としながらも宮崎平野部の前方後円墳150基、円墳1153基、方墳4 基、横穴墓965以上、地下式横穴墓224以上と言う数字が掲載されている。考古学者の鈴木重治氏による昭和60年発行の著作によると瓜生野地区だけで、 昭和30年代の調査で90基以上の横穴墓が確認されていると言う。ところが、瓜生野古墳群は、現在では主要な古墳群に掲載される事も無い。おそらく、ここ 50年の間に、その多くは破壊されたのだろう。
 これらの数字を見ただけでも、宮崎平野の古墳の数がいかに凄いかがわかるだろう。しかもこの数字は確認されているものだけなので、確認されないまま壊さ れたものは含まれていない。更に、横穴墓や地下式横穴墓に関しては、外から見えないだけに、いったい幾つあるのか検討もつかないのだ。それにもかかわら ず、西都原古墳群のみが整備され、宣伝されてきた為、宮崎平野にこれほどの数の古墳が存在する事を知る者は少ない。
 古墳と言えば、お墓である。墓がこれだけあるのだから、そこに暮らした人々が多くいた事は容易に想像できる。しかも、古くから多くの人々が暮らす宮崎平 野部の古墳は、そのほとんどがすでに、跡形も無く壊されているのだ。古代においては、古墳の数は、今の数倍は有ったことだろう。つまり、巨大な古代国家 が、宮崎に存在したと言う事だ。

3. 巨大墳丘墓の発見

宮崎市の平野部、瓜生野・上北方地区を中心として、長年考古学調査を行ってきた日高_という個人研究家がいる。調査と言っても本格的な発掘調査が一人で出 来るわけではないので、工事等で剥き出しになった遺跡を見つけては出向き、工事の傍らで出土物を拾い集めるというスタイルをとっている。長年このスタイル を続けているおかげで工事関係者も邪魔をしない限り、おおむね理解があり協力的なようである。
 この日高氏が、1996年、瓜生野地区柏田の変電所裏の小山が、人工的に作られた巨大墳丘墓である事に気づいた。実際、調べてみると、その場所は既に大 正時代に宮崎市によって史跡として認定されている場所だった。しかし、既に住民の記憶からは忘れ去られ、柏田に大きな古墳があるという噂だけが残っていた ようである。
 更にこの場所は、古来、笠置(かさご)山と呼ばれていたことも判った。この墳丘墓は、明らかに前方後円墳の形状をしていた。前方部と後円部をあわせると 145.5メートルにもなる巨大なものだった。とりあえず日高氏は、この場所を笠置山墳丘墓と名付け、宮崎市に調査を依頼した。
 しかし、調査は一向に行なわれ無かった。半年余りがすぎた頃、いきなり試掘が始まった。試掘の段階で、数々の遺物が出ていたので、本格的な発掘もまもな くだろうと期待していたのだが、期待とは裏腹に墳丘墓の一部は、整地作業などで壊され始めた。驚いた日高氏は、連日のように笠置山に赴き、整地作業で壊さ れていく墳丘墓からの出土物を集めた。そして、笠置山墳丘墓の一部及び周辺から出土したものを、考古学者と相談し時代考証を行った。
 その結果、笠置山墳丘墓周辺から数多く見つかった庄内式土器や瓶の破片から、出土物は2世紀後半から3世紀中ごろの物である可能性が出てきたのだ。一般 的に、前方後円墳が作られ始めたのは、4世紀だとされている。最新の研究では、畿内の箸墓古墳などは、3世紀の半ば頃まで遡れるかも知れないとされてい る。だとすると笠置山墳丘墓は、史上最古級・最大級の前方後円墳である可能性がでてきたのだ。 庄内式土器片(左)と壺

 更に、日高氏が笠置山周辺を綿密に調査した所、後円部の先に、もう一つ円形墳丘があった。当初独立した別の古墳と考えたが、笠置山を取り巻くV字溝が、 もう一つの円形墳丘墓も含めて取り囲んでいる事が判明した。又、周辺からは続々と笠置山に関係あると思われる遺跡が見つかってきた。
 日高氏は、笠置山周辺を徹底的に調べ上げ、周囲から見つかった物を、地図上に描いていった。その結果、意外な事実が次第に明らかになってきた。当初、単 体の前方後円墳と思っていた笠置山墳丘墓は、周囲に様様な遺跡を従えた一つの複合体として構成されていたのだ。そして、その複合体は、全体として巨大な鳥 の形をしている事がわかった。
 残念ながら、羽の右側部分は開発が進んでいるため、まったく残されていないが、左羽部分は明らかに古墳と一体に構成されている事が判る。前方後円墳の形をした笠置山墳丘墓は、巨大な鳥の胴体部分に相当していたのだ。

笠置山墳丘墓見取り図(日高_氏作成の原図に基づく複製)

 日高氏の調査による笠置山墳丘墓複合体の詳細を見ていこう。日高氏は、発見される遺物の特徴から、複合体の羽の部分は、土壙墓区、王宮区、工業区に明確 に区分けする事ができると考えている。  羽の付け根に最も近い部分が土壙墓区で、土を掘っただけの土壙墓が整然と100基余り並んでいる。もちろん100基すべてを確認したわけではなく、土壙 墓の間隔と分布範囲から割り出した値である。更に、その土壙墓には、それぞれに祭祀土器や鉄剣、鉄鏃類などが収められていた。写真は、工事により破壊され 始めた土壙墓から、日高氏がかろうじて救い出した鉄剣である。

4号土壙墓出土の鉄剣と鉄鏃

 日高氏は、遺跡部分に工事が入るたびに、宮崎市や県に報告したが、結局たらい回しにされたあげく破壊を止めることは出来なかった。しかし、土壙墓部の一部は、現在も畑の下に埋まっていて、バイパス道路に面した畑の斜面には、土壙墓の断面が確認できる。
 次にくるのが、日高氏が王宮区と名づけた区画である。王宮区からは、柱を立てた後が発見されている。しかし、柱の形状からは王宮などの大規模な建物が 建っていたとは考えられないと言う。大きな柱を持つ小さな建物の周りを、頑丈な柵がとりまいているように見えるらしい。この事から日高氏は、この場所が被 葬者を墓が完成するまで一時的に安置した「もがりの宮」の跡ではないかと考えている。
 次に、日高氏が工業区と名づけた所が、羽の先端部分にあたる。この工業区内も見つかった遺物の種類で、いくつかに分類されている。この場所に特徴的なのは、驚くほど大量の石鏃(石の矢尻)が、出てきた事にある。更に、たたら製鉄の炉の跡やガラス球などが見つかっている。
 この場所の石鏃は有名で、すでに何十年も前に、雨が降るたびに大量に流れ出して散乱していたという。当時、日高氏を含む、近所の物珍しがり屋が多く集ま り、散乱した石鏃を拾い集めていた。勿論、日高氏も当時は、ただ珍しい物がたくさん出るというだけで、拾い集めていたのだ。何故、そこに大量の石鏃が出る かなど、考えても見なかったという。
 こうして、日高氏の努力により笠置山墳丘墓の全容が次第に明らかになってきた。この地に、巨大な権力を有する大王が君臨していた事は、間違いないだろ う。日高氏は、更に周辺も調査を進めていく中で、興味深い事実を発見した。笠置山とは、大淀川を挟んで対岸にある跡江地区の国指定生目古墳群の生目一号墳 も鳥形をしている事を発見したのだ。
 生目一号墳は、生目古墳群の中でも、最も古い古墳の一つと考えられている。生目一号墳は巨大な前方後円墳で、後円部の直ぐ横には、円墳である生目二号墳がある。この生目二号墳を鳥の頭と見立てると、なるほど、確かに全体として羽を広げた鳥のような形をしている事が判る。
 このことから、日高氏は前方後円墳はもともと鳥形古墳であったものが、後に簡略化されて鳥の胴体部分のみが作成されるようになり、前方後円墳となったの ではないか考えている。確かに、前方後円墳の一部には、日高氏が羽と称する部分に、小さな造出がついている事がある。これなどは、羽の名残と考えられなく も無い。

生目1号墳(左)と西都原の女狭穂塚模型

 鳥形古墳のアイデアは、実に面白い考えで可能性は否定できないだろう。しかし、残念ながら現状では証拠が少なすぎ、仮説と言うより単なる仮定の域を出ないだろう。
 1999年の夏、笠置山墳丘墓に、再び最大の危機が降りかかった。墳丘墓の一部は、新しく作られるバイパス道路工事予定地にかかっていたのだ。やがて、 鳥形墳丘墓の頭部分に工事車両が入ってきた。今回は、これまでの散発的な表面だけの土木工事と違い、墳丘墓の一部を地下深くまで完全に取り壊す大工事だ。 このままにしていては、笠置山墳丘墓の謎は永久に解けなくなってしまう。
 危機感を抱いた日高氏は、早速宮崎市へ遺跡保護の陳情を始めた。日高氏の必至の訴えが通じたのか工事は一時中断し、工事が始まっていた鳥形墳丘墓の頭に あたる円墳の試掘が始まった。その時点で、すぐに子供用の石棺など出土物が出たのだ。地元の人も見学に訪れ、日高氏の指摘した通り墳丘墓から遺物が出てき た事を確認している。

4. 宮崎で試掘確認

1999年当時、私はまだ日高氏と面識が無かった。しかし、知人からの情報により、日高氏が発見したとされる前方後円墳の事は聞いていた。しかも、その古 墳がバイパス道路工事でこわされかかっていると言う。こう聞かされては、いてもたってもいられない。こうして、夏休みは宮崎で過ごすことになった。
 福岡から、レッド・エクスプレスと言うおんぼろ特急で、約4時間、南国宮崎に到着した。かつての新婚旅行のメッカ宮崎は、すっかり寂れて今では昔の面影 さえない。とにかく、無地宮崎に到着し、日高氏の兄である日高強氏の案内で、墳丘墓に向かった。今、工事が行なわれているのは、鳥形の頭にあたる部分で、 最初独立した円墳と思われていた場所だ。
 ここに本当に遺跡があるのか?私の目には、単なる丘を切り開いた工事現場に過ぎない。しかし、その工事現場の丘に登っていったとき、目の前にトレンチと 呼ばれる試掘溝が、何本か広がっているのが見えてきた。そして、トレンチのど真ん中には、石室らしい小さな石組みが見える。その横には、石室の蓋が無造作 に置かれていた。
 間違いない!誰の目にも明らかな遺跡だ。更に、日高強氏に案内され、円墳中央部より、鳥の胴体にあたる前方後円墳の方を見渡してみた。この場所からは、 前方部は見えないが、確かに後円部と思える均整の取れた丸いふくらみが観察できる。後円部の上は、まるで髪の毛が生えたように、見事な竹林が生い茂ってい た。 鳥形の頭部に当たる墳丘墓の試掘で出てきた遺跡

 少なくとも、日高氏の指摘した通り、鳥形墳丘墓の頭部の地下には、遺物が眠っていた事は、間違いようの無い事実である。日高氏の指摘した通り、頭部の盛 り上がりは、単なる自然の盛り上がりではなく、人が加工した円墳なのだろう。そうすると、やはり胴体部は自然の地形ではなく、人工の前方後円墳と言う事に なる。
 全体として本当に、鳥形を形成しているのかどうかは別として、少なくともこの場所に遺跡があること自体は、間違いのないことのようである。しかし、それにしても巨大だ。近くからでは到底全体を見渡す事など不可能だ。
 遺跡を実際に確認したところで、今度は、離れた場所から全体を確認することにした。頭の部分はすでに崩されているので、確認できないが、確かに胴体部分 の前方後円墳は、それらしい形をしているのが見て取れる。実際に登ってみれば、人工的な盛り上がりが、はっきり確認できるらしい。しかし、夏の盛りと言う 事もあり、マムシの危険があるので、断念した。
 その夜は、名物の地鶏のタタキと焼き鳥を肴に、焼酎に舌鼓を打った事はいうまでも無い。
 同じ頃、日高兄弟の案内で、地元の人や考古学者も見学したらしい。「実際に墳丘墓と確認されたわけだから、発掘しないわけにはいかないので安心して大丈 夫だ」と地元の考古学者も太鼓判を押したそうだ。これで一先ず安心と、本格的な発掘が始まるのを関係者一同固唾を飲んで待っていた。

左から工業区出土のガラスさい、王宮区出土の玉、工業区出土の壺

 ところが、期待は見事に裏切られ、工事は突然何事も無かったように再開された。日高氏の再三に渡る訴えにも誰一人調査に来る事も無く、墳丘墓は見るも無 残に破壊されてしまったのだ。日高氏の研究ノートには、腹立たしい役人の遺跡破壊の実態が、克明に記録されている。ここで詳しく交渉のやり取りを紹介でき ないのは、残念である。
 しかし、逆に考えれば、この道路工事によって日高氏が指摘していた通り墳丘墓が存在した事は確認できた。それに破壊された部分は、巨大鳥形墳丘墓の頭部 分のみで、胴体の前方後円部は、それ以前の工事で一部を壊されているものの、かなりの部分が残されている。これ以上の破壊を食い止める為の、尊い犠牲と考 えるしかないだろ。

5. 笠置山製鉄ツアー

2003年9月、私は再び宮崎へ向かっていた。今回は空路宮崎入りである。おりしも台風が宮崎に接近中のため、天候調査中との事でなかなか搭乗が始まらな い。散々待たされたあげく、着陸できなければ鹿児島空港に向かうと言う条件で、何とか、飛行機は飛び立った。しかし、宮崎上空に差し掛かった飛行機は旋回 を始めてしまった。着陸できるか再び天候調査中だという。
 あきらめかけた頃、強風吹き荒れる中を宮崎空港に着陸した。台風は、ちょうど宮崎に最接近中で、どうやら私の乗った飛行機が宮崎空港に着陸できた最後の 飛行機だったらしい。電光掲示場を見ると、後の飛行機は着陸がキャンセルされていた。とりあえず、運があったというわけだ。
 今回の宮崎訪問の目的の一つは、ずばり笠置山墳丘墓である。前述の日高_氏が、笠置山墳丘墓の発見の経緯をまとめた本を出版したのだ。日高氏の本による と、笠置山墳丘墓を中心とする宮崎平野中心部から数々の製鉄にまつわる痕跡が発見されたらしいのだ。膨大な製鉄にまつわる遺物のほかに、周辺には明らかに 製鉄にまつわる伝承が数多く残されていた。本で、笠置山墳丘墓とその周辺に関する詳しい状況を知った私は、日高氏の主張する古代製鉄国家なるものが、本当 に存在したのか確かめるべく、この地にやってきた。
 実は、一月前の8月にも宮崎を訪れ、日高氏から説明を受けていた。しかし、日高氏に直接説明を受け、再び本を読み返す内に、次から次へと疑問点や確認したい点が浮かび上がり、本格的な調査をする為に舞い戻ってきたのだ。今回は、日高氏案内による笠置山ツアー付きである。

 翌日、日高氏が資料を抱えてやってきた。とりあえず、日高氏の講義が始まった。笠置山墳丘墓の話から始まり、周辺に大量に残されている製鉄の痕跡、それにまつわる伝説等々、講義は、延々と続いた。一通り、説明を聞き終えた所で、いよいよツアーに出発だ。
 まず最初に向かったのは、大規模な製鉄が行なわれていた事を示す「タタラ溶鉱炉」の炉片が数多く見つけられる場所である。日高氏によると、笠置山墳丘墓 のある付近には、3箇所に、ヤマタノオロチ伝説があると言う。伝説の詳細は、後ほど説明するとして、ヤマタノオロチ伝説と言えば、記紀神話に登場する須佐 之男命による大蛇退治の神話である。
 記紀神話の舞台は、高天原、日向、出雲、伊勢等と分かれていが、ヤマタノオロチ退治は、須佐之男命が高天原を追放され出雲の国にやってきた時に、おこっ た出来事とされている。現在では、この神話は、製鉄と深い関係があるとされている。出雲と言えば、古代世界において大規模な製鉄が行なわれていた事で有名 なので、なるほどヤマタノオロチ退治の伝説の舞台としては当然である。
 しかし、宮崎平野の同じ地域に3箇所もヤマタノオロチ退治の伝説があるということは、いったいどういう事だろうか。神話では、出雲の国の出来事として描かれているヤマタノオロチ退治が、伝説上は宮崎平野つまり日向の国にも残されていたのだ。
 笠置山墳丘墓の前方部の先に、八坂神社がある。この神社は、別名「八龍神社」とも呼ばれ、祭神はスサノオノ命で神社の奥に棲んでいたというヤマタノオロ チを祭っている。瓜生野に残されたヤマタノオロチ伝説の内容は、基本的に誰もが知っている出雲の物語と同じで、八つの頭と八つの尾を持つヤマタノオロチ に、毎年、生贄の娘をささげていた村人を哀れんだスサノウノ命が、この怪物を酒に酔わせ退治するというものである。
 瓜生野のヤマタノオロチが棲んでいたのは、柏田の奥の伊屋ヶ谷で、現在でも薄気味悪い場所である。伊屋ヶ谷の少し下流には、子捨てが平(コジエヒラ)と呼ばれる場所がありここに、毎年いけにえの娘を捧げたと言う。
 八龍神社の裏には、八つの池があり、そこがヤマタノオロチに飲ませる酒を入れた八つの瓶に対応する。近くには、酒のモロミを発酵させたというもろが谷もある。この付近では、雨乞いのときに八つの池を掃除し、藁で竜の形を作り大淀川に流す習慣もあった。
 ヤマタノオロチ退治が製鉄と深い関係があるというのなら、やはり、この地の伝説も製鉄と関係があると考えられる。日高氏は、笠置山墳丘墓の工業区と名付 けた場所で、古代の規格どおりのサイズのタタラ溶鉱炉の痕を発見したと言う。この工業区のある場所は、かなり以前に宮崎県も発掘調査を行なっており、やは りタタラの痕が発見されて公式に発表されていた所でもあった。
 タタラ、たたら、多々良、踏鞴など色々な書き方が在るが、すべて、近代製鉄が始まる以前の日本における製鉄技術の総称である。一説によると、この言葉の語源は西アジアの先進的な青銅器・鉄器文化を持った強大な民族タタールに由来すると言う。
 タタラの痕は、笠置山墳丘墓周辺にとどまらず広い範囲で大量に見つかっていると言う。更に周辺からは、大量の鉄さいも見つかっている。鉄さいは、言わば、製鉄の際に出来た鉄塵である。鉄さいが発見されたと言う事は、確実に製鉄が行なわれていたと言う事を表す。



鉄さい

 しかし、工業区や王宮区のある笠置山墳丘墓の羽の部分は、すでにほとんどが、壊されている上に、人家や畑の下になっているので、今では近づく事さえ出来ない。代わりにということで、日高氏に連れられて、竹篠という高台になった場所にやってきた。
 この付近は、段丘になっていて、平野から一段上がった広大な高台が広がっている。高台に広がった畑の真ん中の交差点で、車が止まった。車を降りた日高氏 は、しきりになにやら白い石ころのような粒を地面から拾い集め始めている。「ちょうど、雨の降った翌日は、湿気を含んだ地面の上に、白く浮き出るので、見 つけやすいとですよ。いい時に来なすったわ」そう良いながら、両手一杯に拾い集めてきた。大きさは、大豆ぐらいからビー玉ぐらいで、石のようにも土の塊の ようにも見える。
 日高氏が、指で砕いたので、まねをしてみた。びくともしない。もう一度、今度は、思いっきり力を入れてみた。今度は指の中で砕け散った。石ではない。か といって、単なる土の固まった物にしては堅すぎる。よく見ると、軽石のようにスカスカの構造をしている。所々に金属光沢のあるものも混じっている。
 なんと、これがタタラ溶鉱炉の炉片だと言うのだ。確かに、高温で変質した土くれのように見える。実際、日高氏が工業高校の教師である兄を通して調査に出 した結果、高温で焼かれた土だということが判明している。後に、持ち帰った炉片を考古学の権威 小田静夫博士に見せた所―「確かに高温で焼かれた土で、タ タラ溶鉱炉の破片と考えられる」と言う事であった。
 しかし、その量は尋常ではない。広大な畑一面に同じような物が広がっている。竹篠の高台では、全域にこの炉片が散らばっているらしい。何故、この高台 で、これほど大量の炉片が見つかるのか。それは、非常に古い露天タタラ(製鉄に必要な風を得るため、風当たりの強い丘の斜面に、「火窪」或いは「ほと」と 呼ばれる窪みを掘って、そこに砂鉄と木炭を投入し、竹管で送風して溶解還元させ、鉄を得る最も原始的な方法)の時代から、長期間にわたりタタラ製鉄が行な われてきた証拠だと言う。タタラ溶鉱炉は、毎回壊される為、膨大な量の炉片が、蓄積されていったのだ。



炉片の顕微鏡写真

 そもそも日本において、製鉄が始まったのは、何時のことか。実は、正確な事はわかっていない。弥生時代にも、鉄が存在した事は確実なのだが、それが国内 において製造された物かどうかは、意見が分かれる。しかし、「古代の鉄と神々」の著者真弓常忠博士の説によると、製鉄の始まりは、弥生時代にさかのぼると 言う
 製鉄と言えば、一般的にはフイゴを用いた溶鉱炉が必要である。土器製造などとは異なり、フイゴを用いて酸素を強制的に供給しない限り、鉄原料が溶ける温 度には、達しないと考えられるからだ。ところが、真弓博士によると鉄は溶解しなくとも7~800度の温度で可鍛鉄を得る事で鍛造できるらしい。更に砂鉄で はなく「ある種の鉄原料」を用いると、フイゴを用いない露天の炉での製鉄は、更に簡単になると言うのだ。ある種の原料とは、鈴と呼ばれる褐鉄鉱石である。
 古来より、鉄分の多い場所で育った葦の根元の茎周りには、渇鉄鉱石がしだいに蓄積して筒状に育っていく事が知られている。これは、鈴或いはその形状から 筒と呼ばれていて、鉄の原料となりえると言うのだ。しかも、チタン分の多い砂鉄などよりもはるかに低い温度(900~1000度)で還元でき、品質はとも かく、露天タタラでも十分に鉄を作る事が可能である。
 つまり、風通しの良い高台にある竹篠では、露天タタラの時代から、褐鉄鉱石を原料に製鉄が行なわれていたと考えられるのだ。特に、この付近の高台には、霧島降しと呼ばれる強風が吹き荒れるので、露天タタラを行なうには打って付けだった。
 この付近の湧き水には、金気が多いと言う事は、知人から聞いていた。ならば、葦の根元に筒が大きく育った事は、容易に想像できる。更に驚く事に、笠置山墳丘墓の東側を流れる大淀川の支流で、瓜生野のヤマタノオロチ伝説の残る川の名前は五十鈴川と言う。
 五十鈴川の名前が示す通り、この付近一帯では、実際に鈴が産出する。写真は、日高氏とともに拾った筒だが、この付近のいたる所で見つけることができる。宮崎平野は、隆起を続けており、高台にも太古に湿地で形成された鈴が、まさに鈴なり状態で散らばっている。
 無数の炉辺に、大量の製鉄原料があるのだ。日高氏が、この場所こそ真弓博士の説を実証する場所と考えている所以である。

6. 鍛冶道具発見

タタラ炉片を、一通り拾い終えると、今度は日高氏のとっておきの場所に案内してくれると言う。案内された場所は、やはり竹篠の一角にある王楽寺から、山の中に入った畑であった。あぜ道を歩きながら、日高氏が、地面を指差した。「これぜんぶ弥生式土器のかけらですよ」 散乱する弥生土器のかけら

 拾い上げてみると、確かに誰の目にも明らかな土器の破片である。あぜ道に所狭しと落ちている。先ほどの、タタラ溶鉱炉の炉片も一杯散らばっている。
 「竹篠は、水の湧きにくい高台にあるので、縄文土器は、まったく無いとですよ。弥生式土器ばっかりですわ」・・・そう呟きながら、畑の一番奥までやって きた。この場所は、竹篠の中でも特別の場所だと言う。何が特別な場所かと言うと、ここからは鍛冶道具が、見つかっていると言う。炉片は、竹篠全域で見つか るものの、鍛冶道具が見つかる場所は、限られている。つまりこの場所は、溶鉱炉から出てきた鉄を持ち寄り、鍛えた場所なのだ。
 しばらく、炉片や土器片を拾い集めていた所、日高氏が突然、あぜ道に半分埋もれていた石を堀出し始めた。水洗いした石を片手に、なにやら興奮しているよ うだ。日高氏が見つけた石は、手のひらぐらいの丸餅のような石で、両面の真中部分がくぼんでいた。よく見ると明らかな、打撃痕が残っている。
 この石は、鉄を打つ時の台に使った「金床石」だと言う。間違いなく、古代人が鉄を打つ時に使用した鍛冶道具を見つけたのだ。・・・しかし、それにしては、いささか小さすぎやしないだろうか?ちょうど縄文人が、ドングリを砕く時に使った土台の石のように見える。
 日高氏も、今回見つけた金床石が、見つかっている中でも最小の部類に入る事は認めた。しかし、金床石には用途に合わせて大きな物から小さな物まで使い分 けられていたので、これは、矢尻の先のような、小さな物を加工するときに使われた物で、小さすぎると言う事は無いらしい。
 この場所では、水が湧かないので、縄文人の遺跡も遺物も一切見つからない。よって、縄文人の遺物である可能性は無い。とすれば、鍛冶道具であると言う理屈である。
 ところで、先ほどからの会話でもわかるように、日高氏は、この付近一帯の遺跡や遺物の出る場所を知り尽くしている。もともと、旧石器や化石を集める事 が、趣味であった為、周辺の遺物の分布状態には、どんな考古学者もかなわないほど知り尽くしているのだ。その日高氏が、ここには縄文の遺物は無いと言うの だから、間違いはないだろう。
 確かに、この付近の平野部には、縄文草創期から早期にかけての、縄文貝塚が多く見つかっており、縄文人の大きな集落が長期間にわたって維持されていた形跡はある。しかし、高台で、古い遺物が見つかる場所は、垂水と呼ばれる湧き水が豊富な場所に限られると言う。
 そうこうしている内に、今度は、私自身が同じような石を見つけてしまった。先ほど見つけた石のように均整の取れた形ではないが、明らかに両面に打撃によ る窪みがある。これも金床石なのだろうか。それにしても、こんなに重要な遺物が、突然やってきて、こうも簡単に見つかる物だろうか。
 しかし、この様な遺物は意外に簡単にあぜ道で見つかる物らしい。なぜならば、畑を耕した時にでてきた邪魔な物は、すべてあぜ道に捨てられるからだ。だが、今回は日高氏も驚いている。この場所は、徹底的に調査し尽くした為、もう遺物は出てこないと思っていたらしい。

発見した鍛冶道具:金床石

 この時に見つけた金床石と称される物も、後に小田静夫博士に見てもらった。すると即座に縄文人の物だという答えが返ってきた。縄文遺跡を、発掘でもしな い限り、めったに見つかる事の無い珍しい物だと言う事だった。つまり、物を見ただけでは、金床石とは断定のしようが無いと言う事である。しかし、周りには 弥生式土器ばかりで、縄文の遺物が一切見つからない場所に、縄文人の石が2点だけ転がっていると言うのもおかしな話だ。
 この金床石には、所々に打撃痕に混じって、鉄錆が付着していた。これこそ、この石が、縄文人の物ではなく、鍛冶道具の証拠なのではと思ったのだが、これも証拠にはならないと言う。何故なら、石が畑にあれば農機具で叩かれ鉄が付着した可能性があるからだ。
 日高氏案内によるツアーは、駆け足で進んだ。次に案内されたのは、笠置山墳丘墓に付属する羽の部分である。無残にも、新しく出来たバイパス道路で寸断さ れている。バイパス道路に面した畑の土手部分に、土壙墓の断面が見えているらしいが、草が生い茂っており確認は出来なかった。畑の下には、まだかなりの数 の土壙墓が眠っていると言う。
 次に、そのまま大淀川を渡り、対岸の跡江地区に向かった。着いた先は、跡江神社と言う小さな神社である。この場所が、何故重要なのか?跡江神社のある場所は、古来、伊勢と呼ばれる地名で、跡江神社は「伊勢の神明宮」と呼ばれていた。
 なんと、宮崎平野に伊勢と言う場所があり神明宮が存在したのだ。つまり、三重県の伊勢市にある伊勢神宮の縮小版である。三重県の伊勢と言えば、記紀神話 にも出てくる場所で、中央を有名な五十鈴川が流れる。驚く事に、宮崎平野の「伊勢の神明宮」も、大淀川を挟んで対岸には、五十鈴川があるのだ。日高氏によ ると、跡江神社は、元は大淀川の反対側、つまり、五十鈴川のある側にあったらしい。川の流れの変化に伴って移転されたと言う事である

跡江神社の由来

 日向の中に出雲の神話があるかと思えば、次は、伊勢と言うわけだ。・・とくれば、残りは高天原だ。ここで、日高氏案内による本日のツアーは、終了と言う事で、高天原には、夕方、一人で出かけることにした。
 笠置山墳丘墓から五十鈴川を挟んだ、上北方地区の一角に、高天原はあった。天照大神を祭る磐戸神社である。通称、お伊勢様とも呼ばれるこの神社は、天照 大神が隠れた磐戸の前に建てられていると言う伝承があるのだ。地元の伝承では、此処こそが、天照大神の磐戸隠れの舞台なのである。
 神社は、小高い丘の中腹に立てられており、急な階段が平地から伸びている。突然激しく降り始めた雨の中を、急な階段を上っていくと、途中に横穴式古墳が並んでいた。更にその脇には、意味ありげな石塔が並んでいる。
 余談ではあるが、デジカメで写真をとると、数多くの「光の玉」が写った。この「光の玉」はいわゆる「オーブ」と呼ばれ心霊現象とよく結びつけられる。し かし、「光の玉」は、湿気のあるところで写真をとると、必ずと言って良いほど現れる。どうもデジカメにつき物の、技術的な問題のようだ。だが時折、神社や 遺跡などで写真をとった時に明らかに普通の「光の玉」とは異なる明るい光が写りこむ事がある。磐戸神社の境内でも写った事がある。いったい何故なのだろ う?
 デジカメの液晶画面でたくさんの「光の玉」が写り込んでいるのを確認して、気味が悪くなったが、取り敢えず社殿まで上っていった。何処にでもある小さな 神社だ。社殿の裏側に回ってみると、崖になっていて、洞窟らしき物が見える。建物は、洞窟の中に続いているようだ。ここが、天照大神が隠れたと言う洞窟な のだろう。
 今でこそ、寂れた感じの神社であるが、日高氏によると、戦前まではかなりの力を持った神社で、多くの参拝者を集めていたらしい。笠置山墳丘墓を破壊したバイパス道路が、神社をかすめるように、貫いている。神社の前の工事でも、大量の遺物が出てきたと言う。
 高天原にまつわる伝説の舞台を確認したところで、この日の調査は終了する事にした。雨は、いよいよ激しさを増し、すっかり日も暮れてしまい、辺りは神気みなぎる闇に包まれようとしていた。

7. 笠置山周辺の神話と伝承

翌日も、日高氏の案内で周辺を探索した。日高氏が、鳥型だと称する生目一号墳は、整備もされないまま、畑と人家の間に横たわっていた。確かに巨大な前方後 円墳である事は明らかに分かるが、鳥形をしていたかどうかは、分からない。たて看板を読むと箸墓古墳と相似形だということだった。この看板の絵でも確かに 羽のような突き出しが一号墳にある事が認められる。(写真は生目一号墳全景と説明看板)

 こうして2日間にわたって周辺いったいを見て回ったわけだが、とにかく古墳や遺跡、遺物の出るポイントが多いのには驚いた。タタラ溶鉱炉の炉片も竹篠だ けにとどまらず小原山、阿部ノ木池内丘陵と膨大な面積に及ぶと言う。更に記紀神話にまつわる伝説もいたるところに残されていた。
 前日に、訪れた磐戸神社のある上北方地区では、古くから鶏を天照大神の使い鳥として信仰する習慣が残されていた。驚く事に、昔地元の住民は、鶏をまった く食べなかったのだ。それどころか、鶏を食べる事自体が、昭和2年まで、禁じられていたらしい。これは、地鶏が特産で、鶏肉を良く食べる宮崎では大変異例 な事である。昭和3年以降この禁は解かれたが、現在でも鶏を神の使いと崇め、鶏肉を食さない家が存在している。
 近くには、天照大神の使い鳥が飛び回り時を告げたと言う「鶏足原」と呼ばれる地名もある。笠置山墳丘墓が鳥形をしていると言う事も、このあたりと関係し ているのかもしれない。そういえば、笠置山墳丘墓がある場所の住所は、瓜生野柏田である。柏は、言うまでも無く黄鶏(カシワ)から転化した物と考えていい だろう。すると柏田と言う地名は、天照大神の田んぼから派生したとも考えられる。その田んぼの真ん中を、五十鈴川が流れているのだ。
 更に、近くには伊勢の神明宮があり、天の磐戸開きの伝説の残る磐戸神社がある。まるで記紀神話に出てくる伊勢とは、現在の伊勢ではなく本当は日向の中に 在ったのではないだろうかとさえ思えるのだ。実は記紀神話の中には、日向の話の中に唐突に伊勢の話が出てくる場面があリ、長い間、疑問となってきた。
 ニニギノ命を先導し、アメノウズメノ命と共に天孫降臨したサルタヒコ神の死ぬ場面である。それまで、日向の話だったのにサルタヒコ神は、伊勢の五十鈴川 で溺れ死んだ事になっているのだ。サルタヒコが溺れ死んだ伊勢の五十鈴川とは、三重県の伊勢ではなく、実際、この付近で起こったエピソードに基づいて書か れていると考える事も、決して荒唐無稽な話ではないだろう。
 いずれにしろ日高氏の研究からハッキリした事は、笠置山墳丘墓を中心とした瓜生野・上北方周辺は、3世紀頃既に国と呼べる規模で繁栄しており、もっとも古い日向の国の中心地であったと言う事だ。

8. 上北は神話の発祥地だった

 日本最古級、最大級の鳥形墳丘墓は、何を意味するのだろうか?簡単に今まで調べてきた事を整理してみよう。
  1. 笠置山墳丘墓に隣接する上北方地区は鶏を天照大神の使い鳥として信仰していた。上北方地区には天照大神の岩屋戸隠れの伝説も残されていた。
  2. 瓜生野柏田地区には、ヤマタノオロチ退治の伝説が存在する。笠置山墳丘墓の前方部の先には、八坂神社(別名八竜神社)があり、スサノウ ノ尊が祭られている。そして周辺には、ヤマタノオロチが住んでいた谷、退治の時に飲ませた酒を造った場所、瓶を置いた場所など、ヤマタノオロチ伝説にまつ わる場所が、全てそろっている。更に、ヤマタノオロチ伝説は、周辺の地区に別に、2ヶ所残されている。
  3. 弥生時代にさかのぼる製鉄国家の存在が明らかになった。
  4. 伝説に彩られた地で、記紀神話の舞台が数多くそろっている。
 ざっとこんな感じだろうか。しかし何故、この狭い地区にこれだけ多くの記紀神話にまつわる伝説が存在するのか。
 日高氏によると、この地方には、伝説だけでなく畿内地方の有名な地名が数多く残されていると言う。地名と言えば、北九州地方と畿内地方に共通する地名が多いと言う事は有名だが、ここ宮崎平野にも多くの共通地名が存在するのだ。
 そもそも、笠置山墳丘墓と名付ける事になった笠置及び笠置山は、京都の有名な観光名所と同じ名前である。読み方は、京都が「かさぎ」と読むのに対して、ここでは「かさご」と呼ばれている。
 上北方地区と大淀川を挟み反対側の跡江地区には、伊勢という地名も残されている。そして、笠置山古墳のすぐ脇を流れ、笠置・柏田と上北を区切っている川は、五十鈴川である。五十鈴川は伊勢神宮の参拝者が、禊を行う川として現在でも有名である。
 更に柏田、笠置、上北方を含む広い地域は瓜生野と呼ばれているが、同じ呼び名で呼ばれていた地域が、大阪南部、大和川河口北岸に存在した。
大和川をはさみ南岸には、応神稜、仁徳稜など日本を代表する巨大古墳群がある機内地方の神話の里である。宮崎の瓜生野も、大淀川をはさみ南岸には、巨大な前方後円墳が幾つもある生目古墳群が位置している。  数多くのたたら精鉄の痕跡、古墳、有名な地名に記紀神話の伝説、これらが意味するものは?宮崎平野こそ、畿内地方へ進出した古墳時代人の中心的国だったの だ。こう考えると、全てのつじつまが合ってくる。この地に畿内地方の有名な地名が見受けられるのは、移住した人々が、地名ごと持っていったからに他ならな い。
 最近では、神話はまったくのフィクションではなく、古くから伝わる故事を何らかの形で繁栄しているとする考え方も、再び一般化してきている。日本の記紀 神話がまとめられたのは、大和朝廷成立後である。記紀神話の語る伝説は、高天原、筑紫(日向)、出雲、大和、四つの舞台に分かれているが、それは編纂をし たものが、それぞれの神話にふさわしい地として、割り振ったのではないだろうか。一方、瓜生野地区周辺には、高天原、筑紫、出雲、大和の伝説がごちゃ混ぜ にそろっている。この事は、この地が神話を編纂した人々の故郷であり、神話の基になった故事の一部は、実際に、この地で起きたエピソードにちなんでいると 考えられるのだ。

9. 皇国思想

 記紀神話によれば、天皇のふるさとは日向の国である。神武天皇が、日向の国美々津浜より船出して、畿内地方を平定した事になっている。有名な、神武東征 である。最近では、東征ではなく東遷と言う言葉が好まれているようだが、いずれにしろ天皇は、宮崎から畿内地方に移った事になっているのだ。戦前の皇国思 想では、宮崎は天皇家のふるさとで、記紀神話は紛れも無い歴史として扱われていた。そして皇国思想の下、植民地支配、第二次世界大戦へと突き進んでいった のだ。
 現在でも、当時の思想を色濃く残している建物が宮崎にはある。平和台公園として整備されている場所に立つ巨大な石塔だ。平和台公園も、前方後円墳や横穴式古墳の密集する丘にあって、園内には数多くの埴輪が飾ってある。
  巨大な石塔は、日本の植民地支配下のアジア各地から集めた石材で作られている。石には、寄贈した駐屯地と軍隊の名前がそれぞれ刻まれていて、生々しい物が ある。そして、石塔の中央には、大きく「八紘一宇」と書かれている。「八紘一宇」とは、地の果てまでを、一つの家のように統一して支配する事を意味し、日 本の植民地支配のスローガンでもあった。
 この様に、宮崎は皇国思想の中心的聖地として祭り上げられていたのだ。そして、敗戦と共にこの考え方は一変した。神話は、歴史の世界からフィクションの 世界へと180度変わってしまった。神話と歴史の関連は、戦前の皇国思想に結びつくとして一切否定されてしまったのだ。それどころか、神話と歴史が結びつ くような発見や研究は、アカデミックの世界では、タブー視されるようになっていった。
 つまり、日本の統一国家としての歴史は、畿内地方に始まり、畿内勢力の下にそれまでばらばらだった国々が統一され、ついには大和朝廷が成立したと言う事 だ。記紀神話の「神武東征」は、天皇を権威付け、大和朝廷を正当化する為に作られた完全なフィクションと言うわけである。
 ここで、冒頭に出てきた生目古墳群での会話を思い起こしてほしい。  「ここの古墳は、まだ知られてないけど、異常に古いんですよ。」「しかも、畿内にある古墳が、大きさが縮小した形ですべてそろっている。」 ・・・「と言う事は、畿内の古墳は、ここをお手本に作ったと言う事ですか?」
 「そう考えるのが、自然ですよね。誰でもそう思うはずです」「でも、公には、畿内の巨大な勢力にあこがれた宮崎の勢力が、畿内に遠慮して、そっくり同じ物を少し小さく作った事になっています。」
 ・・・「でもそれでは、時代的に矛盾があるではないですか?」「ウーン・・・・」

 つまり、こういう事だったのだ。宮崎の古墳が、畿内地方の古墳より古くなっては困るのだ。宮崎が先となると神武東征が立証されてしまうのだ。宮崎では、 研究者も疑問を投げかけざるを得ない不思議な物が、数多く確認されつつある。しかし、神武東征や神話と結びつきそうな発見は、口を封じざるを得ないのが実 情らしい。
 ちなみに、上記の会話を交わした研究者に、笠置山墳丘墓の事を尋ねてみた。答えは「向こうは、生目より更に古い。確実に3世紀にさかのぼる。もし日高氏 が何か見つけたのなら、それは弥生の遺跡だから古墳ではなく、ただの山だ。」と言い切った。古墳ではない理由は、時代だけなのである。逆手に取れば、日高 氏の主張する年代は、確認されたわけである。
 通常、古墳が作られ始めたのは、4世紀以降の事とされる。一般には、奈良県の箸墓をはじめほんの数箇所のみが、3世紀後半までさかのぼれると認められている。この中でも箸墓古墳は、日本最古級の定型化された前方後円墳として、卑弥呼の墓の第一候補に上げられている。
 ところが、実際、宮崎の古墳を尋ねてみて驚いたのは、3世紀後半まで遡れる可能性のある古墳がごろごろあるのだ。中には、3世紀半ばまで遡れるのではな いかと解説されている古墳まである。しかし、あくまで可能性の段階でとどめておき、大きくアナウンスするつもりはまったく無いらしい。
 しかし、つい最近流れを変えるかもしれない出来事が大きく報道された。宮崎大学の柳沢教授が、西都原古墳群の中の81号墳は、3世紀半ばまで遡れると言 う調査結果を発表したのだ。実際、2005年の調査では、この古墳から瓶棺が出土している。瓶棺は、典型的な弥生時代の遺物なのだ。
 実は、以前間接的にではあるが、柳沢教授にも笠置山墳丘墓に対する意見を伺っていた。柳沢教授もまた、笠置は古いので、古墳ではないとコメントしていた のだ。その本人が、弥生時代に遡る古墳があるかもしれないと言い出したのだ。もう笠置山墳丘墓を、古墳と言い切っても何も矛盾しないだろう。
 こうなってくると、やはり機内の勢力は、宮崎を出発点としていた可能性が断然高くなってきた事になる。勿論、神話に書かれている事が、そのまま現実だとは思わない。しかし、大筋は現実の出来事を参考に、書かれていると考える方がより自然だろう。神武東征はあったのだ。

10. 古代国家宮崎

それでは、神武天皇を生み出し、強力な製鉄国家を築き上げた勢力はどのように誕生したのだろうか。
 おそらく、この地方に自然派生的に起こった勢力ではないだろう。日高氏も、この地に移り住み国を作ったのは、北九州地方の優れた技術を持った渡来人だと考えている。
 畿内に起こった大和朝廷の基は、渡来系である事は、多くの研究者が認めている事である。地名の多くが、北九州と機内地方で共通している事も、良く知られ ている。しかし、宮崎にも多くの機内と共通する地名が存在している事はあまり知られていない。つまり、北九州から畿内に勢力が移る仲立ちとして宮崎の存在 も十分考えられるのだ。宮崎がタブー視された為に、その事実が葬り去られたのである。

 それでは、笠置山古墳の被葬者は誰なのだろうか?3世紀にまで遡る史上最大級の古墳である。埋葬されているのは、神話に登場する神々のモデルとなった有 名人と考えられるのではないだろうか。鳥形の巨大墳丘墓、天照大神を信仰し鶏を食べない風習、伊勢の神明宮や磐戸神社の存在、これらを総合すると、自ずと 答えは導かれてくる。天照大神こそ、この古墳の被葬者と考えられるのだ。
 笠置の笠は、一般的には傘や傘状の物を示すが、別の意味に太陽や月が薄雲にさえぎられた時にできるリング状の輝き(暈)をさす事もある。太陽神である天 照が死んで光が陰った状態を指していると考えることもできるのではないだろうか。そして、その笠を置いた場所だから笠置山と考える事もできる。
 鶏は太陽を表す神聖な動物で、太陽神天照大神の使いとされている。岩屋戸に隠れた天照大神を、誘い出すときにも「常世のナガナキ鶏」に時を告げさせてい る。つまり、鶏に関わりが深いのは、天照大神をおいて他にないのである。勿論本当の神様の事ではない。天照大神のモデルとなった実在の人物である。
 3世紀前半と言えば、まさに邪馬台国の時代、記紀神話の原型が作られた時代と考えていいだろう。神話の原型となったエピソードは、人里はなれた場所ではなく、人々の生活する場所で作られたはずである。日向を代表する国のあったこの地方は、まさにそんな場所にふさわしい。
 天照大神のモデルとなった人物、それは邪馬台国の女王・卑弥呼であった可能性が考えられる。上北方地区は、地元では単に上北と呼ばれているが、その呼び名の通り「神来た地区」だったのだ!
 実際、日高氏がたびたび引用している「瓜生野郷土史」によると、上北方は天孫降臨の時、上官が降りてきた場所だとされている。それに対して、「日向地誌」によると下北方は、下級官が降りてきた所だとされている。
 知られざる古代国家、宮崎は実在したのだ。     

12. 邪馬台国への道

ここから、宮崎平野に邪馬台国があり、笠置山古墳が卑弥呼の墓である可能性を検証していこう。
 先ほど簡単に、魏志倭人伝に記載の邪馬台国までの旅程の問題を述べたが、実は、この部分は最も厄介で、論争の的になっている部分である。畿内派、九州 派、その他多くの人々が、それぞれの説に合わせて、いろいろな解釈をしているのだ。その中でも伊都国(現在の福岡県前原市を中心とした二丈町、志摩町、福 岡市西区の一部を含む糸島地方)から先の解釈方法が、一つではない事が事態をより複雑にしている。
 普通に考えれば伊都国から先の国への距離は、伊都国から奴国まで陸行100里、奴国から不弥国まで陸行100里というように、それぞれ加算される事になる。
 しかし、原文の書き方から、伊都国から先は、全て伊都国からの距離が示されているという解釈が可能な事が判っているのだ。この場合、伊都国から奴国まで 陸行100里、伊都国から不弥国までは陸行100里というように伊都国より先は、すべて伊都国が基点となる。当然邪馬台国までの距離も、伊都国が基点とな り水行10日、陸行1月となる。これなら距離は当然、九州内に収まる。

 実際、九州説の多くが、「並行読み」或いは「放射読み」と呼ばれるこの距離の読み方に基づいている。
 平行読みで、旅程問題は解決出来るにもかかわらず何故、邪馬台国九州説は廃れてしまったのだろうか?最大の理由は、やはり畿内地方で、卑弥呼が魏から送 られたと考えられる大量の三角縁神獣鏡がみつかったからだろう。更に畿内地方には、卑弥呼の墓と考えてもおかしくない古い古墳が存在するうえ、邪馬台国か ら大和朝廷につながったと考えると歴史上もスムーズに事が運ぶからである。
 だが、何故、畿内地方同様に古墳が数多く存在し、神話の地である宮崎が、有力候補地としてあがらないのだろうか。確かに、宮崎の西都原を邪馬台国の比定 地にあげる説は、存在する物の、九州説の多くは、邪馬台国は北部九州の域を出ないとする。北部九州説では、旅程の問題は更に厄介になってくる。いずれの説 も、かなり苦しい行程解釈をしている。逆にこの事が、畿内説の信憑性を高めているようにも見えるのだ。
 勿論、北部九州や畿内地方などに比べ鏡の出土が、宮崎では少ない事が理由の一つである事も間違いない。銅鐸に代表される青銅器文化も宮崎には無い。しかし、早い時期から製鉄が行なわれ、鉄文化をもっていたからこそ青銅器文化が発達しなかった事も十分考えられる。
 単に鉄は青銅器に比べ、遥かに錆びやすいので残っていないだけだろう。おまけに、当時の鉄は褐鉄鉱石である鈴を原料にしていて品質が悪かったのだ。
 逆に、宮崎に青銅器文化が無かった事は、宮崎の勢力が畿内に移って、古墳時代を築き大和朝廷を開いた事の重要な証拠と言えるだろう。何故なら銅矛や銅鐸 に代表される青銅器は、実は弥生時代のものである。畿内の弥生時代を象徴する青銅器文化は、古墳時代の始まりと共に、完全になくなっているのだ。つまり、 弥生時代から古墳時代に移る期間に文化的断絶があったことになる。青銅器文化をもたない宮崎の勢力が東遷してきたとすれば、辻褄が合うのだ。
 逆に、邪馬台国が畿内にあり、そのまま大和朝廷に移行したとするならば、青銅器文化は、なぜ弥生時代の終焉とともに突然無くなってしまったのか?と言う疑問が出てくる

13. 邪馬台国は宮崎だった!

もう一つ、政治思想的な背景も宮崎邪馬台国説が少ない理由と考えられる。戦前までは「神話は歴史であり天皇は神である」とする皇国思想が支配的だった。邪 馬台国の女王卑弥呼は、魏に使いを送り自ら魏に忠誠を誓い属国となっている。このような屈辱的な行為を行った国の女王が、天皇家と直接つながる神話の世界 と結びついては困るのだ。だから、卑弥呼は北部九州に存在した国の女酋長で、神話の国宮崎と結びつける発想はでてこなかったらしい。
 ところが、戦後は一変して皇国思想を否定する事になる。皇国思想を否定する考えでは「神話はフィクションであり、歴史とは何の関係も無い。或いは、あっ てはいけない」と捉えられた。つまり、この考えでは宮崎は、あくまでフィクションとしての神話の里であり歴史の里であってはいけないと言うことである。
 だから歴史的事実である邪馬台国を宮崎に持ってくると、何らかの形で神話と結びついてしまい、戦後のリベラルな学者は敬遠したと考えられる。ある意味、宮崎に邪馬台国はタブー視されてきたのかもしれない。勿論これが、偏見である事は言うまでもない。
 神話を100%フィクションとせず、再び歴史の世界と結びつけるとき、宮崎は邪馬台国の最有力候補地として急浮上してくるのだ。そして、その場所こそ笠置山古墳周辺、瓜生野、上北方地区を中心とする古代製鉄国家と考えられる。
 天照大神が、卑弥呼を連想させる事は、周知の事実である。ヤマタノオロチ伝説も、必ずしも出雲の伝説とは限らない。ヤマタノオロチ伝説=ヤマタイノオロチ伝説=邪馬台国のオロチ伝説と読み取る事が出来る。
 魏志倭人伝によると、邪馬台国の第一の官は、伊支馬(イキマ)であるとされているが、笠置山古墳と大淀川を挟んで対岸には、国指定の生目(イキメ)古墳群がある。
 そして、前述のように生目一号墳は、鶏型をしていた可能性がある。邪馬台国の第一の官の中心があったと考える事になんら矛盾しない。  魏志倭人伝によると邪馬台国の手前には投馬(ツマ)国があったとされるが、この国の官は、弥弥(ミミ)と弥弥那利(ミミナリ)である。現在の地図を見る と宮崎市の北方の日向市に美々津及び耳川の地名が残っている。投馬国とはこのあたりを指すのかもしれない。この場所は、神武天皇が東征に船出した場所とし て名高い。
 もう少し南に下った西都市には、延喜式記載の式内社 都萬(ツマ)神社があり、この場所は、妻と呼ばれている。西都原古墳群の存在といい、投馬国との関連を考えずにはいられない場所である。
 魏志倭人伝にでてくる邪馬台国の規模は、常識的に考えると大きすぎるので、誤りであるとする考え方が一般的である。だが邪馬台国が、広大な宮崎平野の強 力な製鉄国家だとしたら、想像以上に大きな規模で有ってもおかしくない。何しろ、宮崎平野では、二期作どころか三期作が可能なほど、温暖な気候に恵まれて いるのだ。そんなに米を作っても売れないのと、味が落ちると言う理由から、やらないだけである。宮崎平野は、大きな人口を支える事ができる十分な食糧生産 能力を持っているのだ。
 卑弥呼は、魏の王から100枚の鏡を含む様々な物品を送られているが、これらの物品は、卑弥呼が好んだものだと、記述されている。言い方を換えれば卑弥呼が欲したものである。
 ところが、これらの物品には鉄製品がほとんど含まれていないのだ。僅かに太刀2本だけが、鉄製品と考えられるのみだ。当時、鉄は最も重要な物だった事は 間違いない。それなのに、卑弥呼が望んだ物の中に鉄原料や鉄製品が含まれていないと言う事は、鉄は国内で生産できたので、必要なかったということにほかな らない。もし、鉄を輸入に頼っていたならば、卑弥呼が鉄を欲しないわけは無いだろう。明らかに、邪馬台国は製鉄国家だったのだ。
 こう述べると、歴史に詳しい人は、大和朝廷は朝鮮半島南部の鉄を求めて、何度も軍事介入しているではないかという反論も出てくるだろう。しかし、この時 代になると鉄はすでに一般化していて、品質が求められる時代になっていたのだ。高品位の鉄を求めて、朝鮮半島に進出したまでに過ぎない。
 更に、魏志倭人伝には、邪馬台国が温暖な気候に恵まれていた事が明確に示されている。一年中、草木が茂り、新鮮な野菜が食べられると書かれているのだ。 又、人々の習俗は、中国のハワイとして知られるリゾート地、海南島と似ているとも書かれている。邪馬台国が、温暖な地にあったことは、明らかなのである。
 魏志倭人伝には、邪馬台国の特産品として、絹が魏に送られたことが記されている。しかし、弥生時代の絹は、畿内地方では見つかっていない。絹は北部九州でのみ弥生時代から存在した事が確認されている。
 邪馬台国の先の諸国の更に南には、女王卑弥呼に服従しない狐奴国があったとされる。宮崎の南は鹿児島である。鹿児島と言えば、大和朝廷を苦しめた有名な先住部族「熊襲・隼人」の領域である。女王に服従しなかった国とは、熊襲・隼人の勢力をさしているに違いない。
 この様に、宮崎平野が邪馬台国であった可能性どころか、魏志倭人伝の記述を見ていくと宮崎平野以外の場所は考えられない。やはり、笠置山古墳は、卑弥呼の墓に違いない。

14. 宮崎までの距離問題

それでは、宮崎平野を邪馬台国と比定すると、距離の問題はどのように解釈できるのだろうか。まず平行読みが正しいと仮定してみよう。すでに述べたように伊 都国は、現在の福岡県糸島地方と言う事で比定されている。ここから、船で南水行10日、陸を1月で、宮崎まで行き着くだろうか。
 この行程を船又は陸と読むと、宮崎まで届かないだろう。よって、船で10日進んで、更に陸を1月進むと言う事になる。船で10日で何処まで進むだろう か。おそらく北九州の岸沿いに進み、関門海峡を越え豊後水道を南下する事になる。しかし、豊後水道は、黒潮から分かれた海流が、北向きに流れている。たっ た10日間では、せいぜい、福岡県内か大分県の入り口付近まで進むのが精一杯だろう。ここでは、取り敢えず大分県の宇佐あたりまで進んだと仮定しよう。
 そこから先が陸路である。強い海流に逆らって南下する事が困難だから、途中から陸路に切り替えたのかもしれない。それでは、一月で何処まで進めるのか。 現在なら、一月もあれば十分に宮崎まで着く事だろう。古代においては、どうだろうか。十分に道が整備されていれば、到達可能である。しかし、かなり厳しい 行程だったかもしれない。
 では、従来どおりの読み方で、すべてを加算してみるとどうだろうか。まず、伊都国から南東に向かって、100里で奴国に到達する。奴国は現在の博多付近 と比定されている。更に、奴国から東に100里で不弥国に付く。不弥国は同定されていないが、博多の東の宇美町あたりではないかと推測される。
 更に、不弥国から先の投馬国までは、南に水行20日となっている。水行と言うからには、船で行くわけだから、一旦博多湾に出てからの距離を示していると 考えられる。当然博多湾から真南に船で下る事は出来ないので、目的地を南に見て岸沿いに進み、関門海峡を通過して周防灘を南下したのだろう。さて、船で二 十日間でどの付近までいけたのだろうか?潮の流れに逆らう形になるので、せいぜい進んだとしても大分県の別府あたりから、宮崎県北部であろう。少し南に は、投馬国の可能性のある日向市の美々津がある。
 そこから水行10日、陸行1月となる。両方足したのでは、宮崎を行き過ぎてしまう。しかし、船で行くなら10日、陸路なら1月と解釈すると如何だろうか?これでも、現代の感覚で考えると宮崎を遥かにすぎてしまうだろう。
 しかし、宮崎沿岸は黒潮から分かれた強い海流が、進行を阻むように流れている。船で南行するのは、意外に時間がかかったはずである。陸路も、想像以上に 時間がかかった可能性がある。温暖な宮崎では、照葉樹林が鬱蒼と茂っている上に、北部から宮崎平野に至る道のりは、かなり険しい。陸路移動するとすれば、 現在の国道沿いが古くからのルートであった可能性が高いが、延岡市の手前の宗太郎峠は、現在でも交通の難所となっている。   しかし、これらの、条件を 考慮しても、宮崎を行き過ぎてしまうかも知れない。やはり平行読みが正しいのだろうか?

15. 筑後川

実は、これまで述べた加算読みは、魏志倭人伝の記述に正確には沿っていない。魏志倭人伝では不弥国から先の投馬国までは、南に水行20日となっているが、 不弥国は、博多の東の宇美町あたりと推測されるので、南に水行することができない。したがって先ほどは一旦博多湾に出て、関門海峡を越えて南水行したと考 えた。
 果たしてこの考えは正しいのだろうか。投馬国を大分以南に見立てると、確かに相対的には、南水行になるが、関門海峡までは、南水行どころか北東に進むこ とになる。さらに博多湾に出るためには、奴国の方向に向かって、100里ほど陸行で戻らなくてはいけない。これを無視して良いのだろうか?
 そこで、改めて地図を見直しているうちに、川の存在に気づいた。なんと、九州北部を流れる大河・筑後川の支流、宝満川が北の方向に伸びているのだ。更に、豊満川につながる細い水路が、宇美町のすぐ南側、大宰府辺りまで確認できるではないか。
 魏志倭人伝には、水行と書かれているが、海とは書かれていない。もし、水行を川を船で下ると仮定すると、筑後川の支流を南に下って、筑後川の本流に出ることができる。さらに、筑後川本流を南西にくだり、有明海に出たのではないだろうか。
 こう考えると、魏志倭人伝の記述に矛盾は生じなくなる。すると、投馬国は有明海に面した場所にあることになる。更に地図を探して見ると筑後川の下流域 に、下妻と言う地名がある事に気づいた。現在の地図では、見当たらないが下妻があると言う事は、妻と言う地名もあったのだろう。そうすると筑後川下流域が 投馬国であったのでは無いだろうか。
 確かに、筑後川下流域まで川を下るのに20日を要するだろうかと言う疑問もあるが、不弥国から直接水行するためには、このルート以外に考えられない。狭く曲がりくねった水路を航行するのには、意外と時間がかかったのかもしれない。
 では投馬国から先は如何だろうか。まず、南水行10日で、鹿児島県南部まで行き、そこから、九州を横断したのでは無いだろうか。九州を横断する必要が あったので、陸行1月が、有ったのだ。そうすると、その九州横断経路には、霧島連峰、高千穂の峰が存在するではないか。これこそ天孫降臨のルートそのもの では無いだろうか。北部九州から宮崎平野に至る九州横断ルートが確立していたのだ。
 つまり、魏志倭人伝の記述を、素直に記述通りシンプルに読み解くと、宮崎平野に到達可能なのだ。

エピローグ

邪馬台国が、宮崎平野にあったとしたら、笠置山古墳こそ卑弥呼の墓と考えて間違い無いだろう。まず、場所的には申し分の無い事はわかっている。次は、年代だが、卑弥呼が死んだのは3世紀半ば、247年前後である。
 笠置山古墳は、正式な発掘が行なわれていない為、年代を特定する事は難しい。しかし、日高氏は、笠置山古墳周辺で庄内式土器を見つけている。この土器の 作られ始めた年代は研究者により大きく見解が異なるが、最も古い推定で2世紀後半であるらしい。つまり、庄内式土器が卑弥呼の時代3世紀半ばに作成されて いた可能性は高い。決して笠置山古墳の年代を特定したとは言いがたいが、年代的に矛盾しない事も事実である。
 実際、考古学者も笠置山周辺の遺跡は、弥生時代の遺跡と考えている事からも、3世紀代の古墳である可能性は非常に高いといえるだろう。
 次に大きさを見てみよう。魏志倭人伝に記載の卑弥呼の大いなる塚の径は、100歩余りである。これを、現在の大きさに換算すると、おおよそ120m前後 になると言う。残念ながら、魏志倭人伝には大塚の形は記されていない為、何処を図るかと言う事が問題だが、塚というぐらいなのだから、盛り上がっている部 分の長径つまり前方部と後円部をあわせた値が、一番可能性が高いだろう。
 笠置山古墳は、前方部と後円部を合わせた長径が、145.5mである。多少、魏志倭人伝の記述する卑弥呼の大塚より大きい値では有るが、これぐらいのずれは、誤差範囲に含まれるだろう。



  箸 墓 古 墳

 一方、古墳の規模から言っても卑弥呼の墓である可能性が高いとされる箸墓古墳の全長は、276mもある。明らかに大きすぎるのだ。どうやら、箸墓古墳の 大きさが卑弥呼の墓と一致すると主張しているのは、後円部の直径のみをとっての話らしい。つまり、前方部は完全に無視しているのだ。いくらなんでも都合良 すぎはしないだろうか。
 卑弥呼が死んだ時、卑弥呼と共に100人余りが殉死したとされる。・・とすると当然、卑弥呼の墓の周辺には、100人の殉死者の墓がなければおかしい。 笠置山古墳には、これがあるのだ!鳥型の羽の部分には、穴を掘っただけの土壙墓が、整然と並んでおり、推定でその数は100基ほどなのだ。
 今まで、卑弥呼の墓ではないかと言われている古墳は数多く有るが、殉死者の墓を伴っていたと言う話は聞いた事が無い。しかし、死後の卑弥呼を守り、お世 話をする為の殉死者が、墓も無く粗末に扱われる事は考えられない。卑弥呼の墓の周辺には、必ず彼等の墓があるはずなのだ。そういう意味では、笠置山古墳 は、他の候補地と比べ大きく一歩リードしている事になる。
 結局、この謎に決着をつけるためには、笠置山の発掘が行なわれる以外に方法は無いだろう。だが、現状では、実現の可能性はほとんど無い。せめて、将来の調査のためにこれ以上の破壊が進まない事を祈るばかりだ。

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