2022年8月15日月曜日

【契丹古伝】古代日本について書かれた満州の古文書【ヤマト記】

  


 【契丹古伝】古代日本について書かれた満州の古文書【ヤマト記】

https://freeassociations2020.blogspot.com/2022/08/blog-post_88.html @


邪馬壹(やまと)国は阿波から始まる : やまと研究会: 2019



 参考

浜田秀雄著書「契丹秘伝と瀬戸内の邪馬台国」

契丹古伝 (東族古伝) 全文と解説
http://koden.mywebcommunity.org/koden001.html リンク切れ




【契丹古伝】古代日本について書かれた満州の古文書【ヤマト記】



















以下の動画も契丹古伝を参照している。


全民族全宗教集合の日本史【まだ信じないの?】




※この文章はYouTube動画で視聴することも出来ます。

こんにちは今回は「契丹古伝」という古文書についてお話しさせて頂きます。よろしくお願い致します。

契丹古伝という古文書は、明治38年(1905年)、浜名寛祐という人物が満州奉天のラマ寺院に保管されていたものを書写し、研究発表した古文書です。
※奉天=現在の中国遼寧省

浜名は当時日露戦争に従軍していましたが、後に10年に及ぶ研究を続け漢文で書かれた契丹語を完全に解読し、大正15年に「日韓正宗溯源(せいそうさくげん)」と題して「契丹古伝」を発表しました。
古代の日韓関係、特に天皇家の出自やその系譜などを明らかにしていることから、このような表題になりましたが、
元々この古文書にはタイトルがなかったため、研究者によっては「契丹秘伝」や「神頌叙伝」、「東族古伝」などと呼ばれることもあります。どれも同じ古文書を指しているのですが、今回は「契丹古伝」で統一したいと思います。

日本列島は古代から現代まで民族の変動が緩やかですが、古代の中国大陸、朝鮮半島は民族がごっそり入れ替わっているので、古代日韓関係と言っても、現在の朝鮮人と日本人の関係と直結している訳ではありません。

作者は契丹という国の分国であった東丹国の役人で耶律羽之(うし)という人物です。世界史でお馴染みの「耶律阿保機(あぼき)」に仕えていた人物です。
※耶律阿保機=872年〜926年
契丹古伝の全文は約3,500字と少なく、一巻の巻物に収まる程度の書物です。書かれている文字は漢字ですが、これは契丹語の音を漢字で記録したもので、日本の万葉集と同一の様式をとっています。
漢字の持つ意味を捨て、音だけを当てはめる手法は倭韓では広く行われています。
単語の語順から、ハム族系の民族が書いたものだと言えます。

例えば契丹古伝に登場する「イカツチワケ」はホツマツタヱでは「ワケイカツチ」としています。副王を表す「ワケ」を語尾に持ってくるのはハム族系の特徴で、「ワケイカツチ」のように語頭に持ってくるのはセム族系の語法です。
内容は神話編20章、歴史編20章、古頌(こしょう)などが6章の合計46章から構成されています。
※頌=功績や人柄を褒め讃える言葉
原文には章が割り振られていませんが、便宜上、研究者の浜名寛祐氏によって付けられたものです。
「契丹古伝」の内容のほとんどが古史文献からの引用で、資料集のような古文書です。

引用に用いられた文献は
耶摩駘記(やまとき)
神統志(しんとうし)
氏質都札(ししつさつ)
賁弥国氏洲鑑(ひみこくししゅうかん)
汗美須銍(かみすち)
辰殷大記(しんいんたいき)
西征頌疏(せいせいしょうそ)
洲鮮記(しゅうせんき)
秘府録(ひふろく)などから引用しています。
これらの文献のほとんどは現在失われています。
これだけ多くの文献を引用しているので、同じ国、部族などの名称も引用文献ごとに表現文字が異なるので注意が必要です。

引用文献のうち、特に日本と関係があるのが耶摩駘記です。この文献の著者は[塢須弗(ウスボツ)]という人物だとありますが、彼は日本の「続日本紀」に烏須勃(うすぼつ)として登場しています。

「続日本紀」には773年能登に着いた渤海の国使烏須勃、とあり表詞違例で入京を許されず、路粮を与えられ放置されたとあります。
つまり挨拶の仕方が従来の例と違うため入国を許されず、旅費と食糧を与えられ追い返されたと記録されています。
契丹古伝の第7章を読むと
「塢須弗(ウスボツ)の耶摩駘記に曰く、その国今だかつて隤だいせざる所以の者は、職として深く上古を探り、明かに先代を見、審(つまび)らかに神理を設け、よく風猷(ふうゆう)をただすに由る。一に曰く、秋洲(あきす)、読んで阿其氏末(あきしま)となす。蓋(けだ)し亦阿其比(あきひ)に因るなり。」
とあります。
大体の意味は
「ウスボツの書いた耶摩駘記によると、この国(耶摩駘)が未だかつて衰えたことがない理由は、はるか古代を探り、先代の世を明らかにし、事細かな神理によって史書を正しく作ることを職業とした人がいるからである。ある史書によればこの国を秋洲と書きアキシマと読むという、思うにこれはアキ姫を祖霊とするからである。」
このような意味になります。

「深く上古を探り、明かに先代を見、」という一節と「よく風猷をただす」という表現は古事記の太安万侶が書いた序文に出てくるものと似ています。
古事記の序文は「古を稽(かむが)へて風猷を既にすたれたるにただし」とあります。
「秋洲、読んで阿其氏末となす。」という部分は日本の古名の一つに「秋津島」がありますので、ここに出てくる邪摩駘は日本の大和のことを指していることがわかります。
名前の由来を「阿其比に因るなり。」とありますが、比は「妣」や「毗」とも書かれ、日本では「媛・姫」のことです。阿其比はアキ姫となり秋津姫(速秋津姫)ということになります。
契丹古伝第20章には阿其比についてこのようにあります。

「神統志曰く、神統てき諸として、おほいならざる処なし。義を阿祺毗に取って以て族称となす者、曰く阿靳(あき)、曰く泱委(わい)、曰く淮委(わい)、曰く潢耳(わに)、曰く潘耶(はんや)なり、

これをヤラヒにとる者は、姚(えう)なり、陶(えう)なり、句黎(くり)なり、陶(えう)にコウ、トウ、唐の三カラあり、黎(り)に八ヤラあり。これをニキヒに取る者は、
和義(にぎ)なり、シキなり、ユウカイなり。これをタキヒに取る者は嶽なり。云々」
とあります。
どういう意味かというと、民族の祖霊を「アキヒ」「ヤラヒ」「ニキヒ」「タキヒ」の4つに分類していることが書かれています。この4つの分類は旧約聖書にあるオリエント部族の4分類と似ており、対応していると鹿島曻氏はいいます。
「アキヒ」秋津姫を祖霊にする民族には阿靳、泱委、淮委、潢耳、潘耶という諸部族が含まれていたことが書かれています。
773年能登に到着した渤海の国使、烏須勃は当時の日本人のことを、「アキヒ」を祖霊に持つ民族だと認識していたということです。
「ワイ」いう民族は、殷帝国を構成していた大国「濊族」と同種であり、「ワニ」という民族も同じく殷帝国を構成していた黄国の一族だとしています。殷帝国は中国最古の王朝だとされていますが、現在の漢民族とは異系統の民族国家です。

ウスボツは殷帝国の民族「ワイ」「ワニ」と日本の秋津の民族を同種だとしていて、これらの民族は全て「シスナアキヒ」から出ていると書かれています。
※「氏質都札」という文献を引用

契丹古伝には殷帝国時代より前に日本列島に住んでいたのは濊貊(わいはく)と云われる人々だとあります。濊貊というのは濊族と貊族の2種族を連称した言葉で、現在の中国、黒龍江(アムール川)から北朝鮮、日本列島に存在したと云われる古代種族です。
濊貊は現在の中国人・朝鮮人とは関係がありません。

濊貊の後日本列島に上陸したのが、契丹族の祖だと書かれています。

契丹民族の主流であった耶律という部族は倭人の国を先祖としています。
第4章には古代の有力な民族に「シウカラ」という民族がいたこと、シウカラの民のことを称して[タカラ]と呼んでいたことが書かれています。

契丹古伝だけを読めば、中国の先住民は日本人と同じ倭人が住んでいたことになり、
中国の歴史はシウカラと漢民族の主導権争いと見ることもできます。漢民族という民族はありませんが、周を主体とするいくつかの民族が漢字文化のもとに統合され漢民族と称している集団です。
シウカラの勢力は次第に圧迫され現在の中国史が成立したということです。現在、中国人の人口の94%が漢民族ですが、チベットやウイグルの迫害によって今後さらに漢民族の割合が高くなります。
同じDの系統が迫害を受けていることは私たち日本人にとっても他人事ではありません。
このような大陸の対立抗争に日本列島の住民も同胞であるシウカラ支援のため、派兵したことなども契丹古伝に書かれています。

さらに邪馬壱国のヒミコもシウカラ出身であること、新羅本紀と照合するとヒミコの本名はイサハミ姫(イサハミコメ)だったことがわかります。
後継者「壱与」の消息についても言及していて、第40章にはこのようにあります。「ダたるかのイヨトメ、民を率いてミマナとなる、人なき山にケンが叫び、風は入江をよぎって星は冷たい、駕してここにかつての東大国を観るに、かつての大丘は今何人あるのか、云々」とあります。
イヨは邪馬台国と狗奴国(くぬこく)の抗争の末、民を率いてミマナにいることがわかります。

第15章には古代の沖縄についても書かれています。
「キリコエアケに教して、フムカに治せしむ、シラマヤという、神祖初めてここに降る、故にスサモリの京という(中略)是を離京となす。」とあり、契丹王家の先祖は「キリコエアケ」の教えにより、フムカを治めたとあります。
「キリコエアケ」は沖縄の聞得大君(きこえおおきみ)のことで、沖縄を離京としたことが書かれています。琉球の語源は様々な説がありますが離京だった可能性もあります。
ウエツフミという古文書には、ウガヤフキアエズ第43代彦天皇の時代に
日本人が沖縄を開拓し先住民に技術を教えフタナギの国として建国させたことが書かれています。

アメノ ハツチ イケツキノ尊という神様は中ツ国の最も先の島を発見します。その島には人がたくさんいて岩穴や平穴、木の下などに住み、着る物は山の草を干して叩き、柔らかくしたものを編んで肩からかけています。
食べる物は木ノ実と獣物で、男女の容姿はそっくりで区別がつかないが、歳を取った人は口髭があるので男女の区別がつくと云います。
食べ物が少なく奪い合いが絶えないので、第43代彦天皇にどうすれば良いか相談すると、アワナギクニアケノ尊とツラナギサイカヌシノ尊2神を派遣することに決めます。
大船10隻に大工、鍜冶屋、農夫、2神の妻子や親戚を乗せ、裁縫道具や機織道具、調理道具などを詰め込み、約200人と共に大隈から出発します。

到着すると島人は山に登り石を投げて抵抗しますが、穴人と話をすると次第に打ち解け、島の女子供は衣類を羨ましそうにしていたので、着物を与える手まねをして話したところ、島人は嬉しそうでした。

食べ物を与えると大変喜んで食べ、食べ終わると朝臣を拝みました。
着物を与えると着方を知らなかったので、帯の結び方などを教え身なりをつくろうと、皆嬉しそうだったとあります。
そこから3年間、衣食住の道を教え、次々に島を開拓します。この島は立派な国となり、食べ物の争いも止みました。
2神や朝臣たちは13年目に帰国、復命することになりましたが、アワナギクニアケノ尊とツラナギサイカヌシノ尊の子供はこの国に駐まり、安寧(サキワイ)を守るカミとしてフタナギの国守(タケル)となったと、ウエツフミには書かれています。

中国の伝説に登場する仙人が創り出した神秘の道具[宝貝]の産地が琉球だったこともあり、契丹古伝が示しているように殷帝国と琉球を含む日本列島の民族は同族だった可能性が高いです。

契丹古伝第9章10章には日本神話のスサノオのヤマタノオロチ退治が書かれています。

短い章なので全文を読みます、

第9章「ただ浥婁(ゆうろう)族は異種、元ヤオロチ族と云い、元オソの地なり。神祖スサナミコ(スサノオ)が討って族長を懲らしめて化育した。」
第10章「
命じて身を清めさせ、その後に河洛(臣民)になることを許し、族名をオフロ族とした。即ち浥婁族である。一説にオフロとはミソギによる受け霊であると云う。故に今日まで同胞となっているのは大水でミソギをしたからである。」とあります。
オフロと言えばお風呂しか思い浮かばないと思いますが、お風呂とミソギが同義であることは面白い発見です。

(風呂の語源は室だとあります)
契丹族から見て異民族である浥婁は、=ヤオロチ族=オフロ族だということが書かれています。神祖はスサノオで禊による受け霊の儀式をすれば同胞となるそうです。

浥婁は北満州や樺太のオロチョン族だと言われていますが、いずれにしてもヤマタノオロチに似た部族名の民族がスサナミコ(スサノオ)によって討伐される、というくだりは日本神話を彷彿させます。
受け霊のルーツはシュメールまで辿ることができます。
河洛は人民のことで、アケメネス朝ペルシャでは人民をカーラ[k āra ]と表記し、同時に軍隊の意味もありました。川崎真治氏はカーラはセム語で[鳥]という意味もあると言います。
契丹よりさらに西へ行くと
ヒッタイト国の「イルルヤンカシュの神話」がオロチ退治の神話によく似ています。ヒッタイト神話は以前動画で要点をまとめていますので、宜しければそちらもご覧ください。
出雲国風土記、出雲口伝にはオロチ退治の神話は出てこないので、出雲地方の出来事ではありません。

古事記やウエツフミでは黄泉の国を死界としていて、そこへ行ったイザナギは穢れたとあります。黄泉は音読みにすると「オセ」なので第9章の「元オソの地なり」のオソと語源が同じなのかもしれません。

この他にも、契丹古伝には「トコヨミカド」「タカアメ」「クマソ」などが登場し、日本人に馴染みのある言葉がたくさん記述されています。

殷帝国と日本列島に住む民族は元々同族であること、さらに契丹民族の先祖も日本列島にいたことが示唆されています。

日本人と朝鮮人の遺伝的繋がりについては、どの時代の朝鮮人のことを言っているのかが重要です。

このような古文書が日本列島ではなく、中国遼寧省から発見されたということに意味があるのだと思います。

朝鮮半島には紀元前12世紀頃から紀元前194年の間、箕子という国が存在しています。
箕子国は周の武王によって追い出された殷の紂王(ちゅうおう)が建てた国です。
箕子国が存在していた時代に朝鮮半島に住んでいた人々と、当時の日本列島にいた人々は同族だということになります。

今回は元満州奉天のラマ寺院に保管されていた「契丹古伝」についてお話しさせて頂きました。
現在朝鮮半島に住む人々と日本人の遺伝的関係が薄いことは核ゲノム解析でも明らかです。

これに対し紀元前4000年頃の韓国ヤンハン遺跡から出土した2体のゲノムからは縄文人の遺伝的要素が確認されています。

沖縄の領土問題に関して、中国の人民日報は「琉球は中国の属国だ」として沖縄の帰属を主張していますが、
元々沖縄はキリコエアケの教えによって倭族が治めたことが、中国で発見された契丹古伝に書かれていますし、聞得大君のことは沖縄の神話にも残っています。
沖縄の先住民と開拓に関してはウエツフミに詳細が記録されています。
外交官が歴史を勉強することは当たり前ですが、国民一人一人の歴史認識も大切です。

今回の動画は以上です、参考書籍もぜひ読んでみて下さい。最後までご覧いただきありがとうございました。

📖この動画の参考書籍📖
浜名寛祐著書「契丹古伝」
鹿島曻著書「倭人興亡史」
浜田秀雄著書「契丹秘伝と瀬戸内の邪馬台国」
吾郷清彦「古史精伝ウエツフミ原文併記全訳」
吾郷清彦著書「日本建国史 全訳ホツマツタヱ」
東洋文庫「三国史記1新羅本紀」
中村啓信著書「古事記 現代語訳付き」
国立図書館コレクション「続日本紀」



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第15章

原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの) 
敎耆麟馭叡阿解治巫軻牟。

曰芝辣漫耶。神祖初降于此故稱曰秦率母理之京。
をしてに治せしむ。

と曰ふ。神祖、初め此に降る。故に称して之京と曰ふ。
で治めさせた。

(その京を)と曰う。神祖は初め此に降った。故に称して之京と曰うのである。
阿解又宮於然矩丹而居。
曰叙圖耶。是爲離京。

阿解生而異相。頭有刄角。好捉鬼[鬼+居]。乃頒蘇命遮厲立桿禁呪二十四般之法。于今有驗也。
阿解又に宮して居る。
と曰ふ。是を離京と為す。

阿解、生まれながらにして異相。頭に刄角有り。好んで鬼[鬼+居]を捉ふ。乃ち蘇命・遮厲・立桿・禁呪二十四般の法をわかつ。今に于いてしるし有り。
阿解はまたに宮して居た。
(その京を)と曰う。これは離京である。

阿解は生まれながらにして異相で、頭に刄角が有り、好んで鬼[鬼+居]を捉えた。そして蘇命・遮厲・立桿・禁呪二十四種の法を頒布した。今においても効験が有る。

※「鬼[鬼+居]」について。 2文字目の「[鬼+居]」は、「䰨(魅の異体字)」の誤写か。とすると、鬼[鬼+居]⇒鬼䰨=鬼魅(鬼とばけもの、妖怪変化)。


(解説)ここでは、という人物が治めていた京が二ヶ所あることが記されている。
このという人物は、この11章から15章(『汗美須銍』からの引用部分)における登場人物の中では重要人物である (この後の章でもその名が複数回登場し、「神子」という肩書きが付く場合もある)。
また、11章から15章の中で、大半の人物には単に「居らせた」という表現が使われているのに 対し、と11章の人物には「治めさせた」「宮して」といった表現が使われており、特別な扱いであることが察せられる。 

このは、神祖の子であると解するのが自然である(異説がないわけではないが、私の研究でもその結論は維持されている。) 

が治める二つめの京であるは、これを「『そと』の『みや(こ)』」と解すると、それが「離京」であるという説明と よく符合する。

また、一つ目の京である之京については、日本書紀の一書で素尊が降臨した場所とされるソシモリと類似していることが注目される。 本伝では、京の名の由来が神祖が初めて降臨した場所であることによると明記されているから、は神祖の名に由来することになる。 ソシモリは、ソシ(牛の)+モリ(頭)と解されることが多いが、本伝からすればそれは誤りということになりそうである(浜名 遡源p.32-p.33も同旨)。 
(スサナミコの2番目の音「サ」は、「シ」と発音されることも多いらしいと考えられるので、それを考慮すればスサ≒ソシといえる。) 

また、に角のようなものがあり、不思議な術を使う存在とされているのは特異な記述であり注目されるが、 詳細は別に譲る。 

檀君伝承との関連について

この11章から15章(『汗美須銍』からの引用部分)については、しばしば檀君伝承との関連性が指摘される。 
まず、11章のは、檀君が都を開いたアシタ(その場所は現在の平壌であるとされる)と同一であると指摘される。 また、15章のとは、不咸山ともよばれる長白山(白頭山)(檀君の父の降臨地で檀君の出生地とされる)のことであり、 
さらに、15章のは檀君が中国の周王朝成立のころ遷都した先である「蔵唐京」であるという。 
これについては、前にも少し触れた11章から15章における作為について説明しないと理解しにくいが、これは 長くなるので別に述べることにして、その結論に基づいて検討すると、もともと檀君伝承より当古伝の内容の方が 古い形を伝えている面があるのであり※、時代が下って各民族が独自の伝説を作り上げた際に、内容がアレンジされて、 アシタ、フカムなどについて各民族独自の比定地が設定されたというように考えたほうがよいということになる。 
だから、アシタ、フカムなどの位置を檀君伝承のそれと同様に考える必然性はないことになる。 (この点、浜名氏、原田氏は地名の比定については檀君伝承のそれとほぼ同様に考えるようである。浜名氏は一方で、檀君自体は本章の登場人物ではなく次章の登場人物に該当するものの 、本章の内容の片鱗が檀君伝承に入りこんだとする。) 

※もし檀君伝承に整合させて当古伝を作ったのなら、アシタの京で神祖本人が治めるのはおかしいはずである。



第9章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの) 
止浥婁異種。原稱羊鄂羅墜。本浥且之地也。神祖伐懲元兇。化育久之。ただあふろうは異種。原称は。もとの地なり。神祖伐って元兇を懲らし。化育之を久しうす。ただおうろうは異種である。原称は。もとの地である。神祖は(浥婁を)伐って元兇を懲らし、久しくこれを化育した。
浥婁は、中国の史書に出るいわゆる○婁で、日本では通常ゆうろうと読むが、東北アジアのオロチョン族のことであることは一般に認められており、その名が本書の羊鄂羅墜と似ていることは興味深い。
なお、ヤオロチの名が何となくヤマタノオロチと似ていることから、本章の征伐と素○烏尊のヤマタノオロチ退治との関係が指摘されるが、意外と問題がある。 




第10章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの) 
命令作澡。然後容爲河洛。賜名閼覆祿。卽浥婁也。

或曰閼覆祿禊誓之謂也。故至今爲成者。指其不渝於閼覆祿大水焉。
命じて澡をさしめ。然る後容れてと為す。名をと賜ふ。即ちあふろうなり。
或は曰く。
閼覆禄は禊誓を之れ謂ふなり。故に今に至るまで成を為す者。其のはらざるを閼覆禄大水にす。
(神祖は浥婁に)命じて澡を行わせ、その後で(受け)容れてと為した。(その際)の名を与えた。即ちおうろうである。
或は曰う。
閼覆禄は禊誓を意味する語である。故に今に至るまで、「成(盟約)」を為す者は、其の(約束)の変わらないことを示すために閼覆禄大水を指さす。
(注)河洛とは、第4章の、辰沄固朗・韃珂洛の「から」と同じで、東族の一族ということであろう。
澡は、第章の澡と同じで、沐浴の意。 

本章は、前章と併せて、本来は東族に属しない浥婁を神祖が征伐したあと東族の一員に加えたことを述べる。 その際に神祖が「閼覆禄」という名を与えたことがおうろうの名の由来であるという説話風の内容が続く。
それに従えば、もともと閼覆禄という何らかの東族古語があり、それが浥婁の名の期限にもなったということであるが、 その古語に関して、それは禊誓を意味する語であるという説が本章の最後で示されている。(詳細は別に述べる)

なお、閼覆禄大水とは鴨緑江のこととされる。浥婁はこの河の北方にいたと考えられる。浥婁に禊誓を行わせたのがこの河ということかもしれない。



第11章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの) 
汗美須銍曰。
神祖都于鞅綏韃。
曰畢識耶。神京也。
敎漾緻遣翅雲兢阿解治焉。
に曰く。
神祖、に みやこす。
と曰ふ。神京なり。
をして治めしむ。
』に曰う。
神祖は、(の地)に みやこした。 
(その都を)と曰う。神京である。
に治めさせた。
汗美須銍は書名である。本章から第15章まではこの書の引用からなっており、神祖が複数個設置した都について、 その名称や各京の統治担当者名などが語られる。
○○耶の「耶」は「みやこ」または「みや」の意味と解される。

なお、これらの章(特に本章と第15章)には若干の問題があるが、この点について詳しくは別に述べる。




第12章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの) 
又敎耑礫濆兮阿解。居戞牟駕。
曰高虛耶。是爲仲京。
またをしてらしむ。
と曰ふ。是を仲京とす。
またを、(の地)にらせた。
(その京を)という。これが仲京である。




第13章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの) 
敎曷旦鸛濟扈枚。居覺穀啄剌。
曰節覇耶。是爲海京。
をしてに居らしむ。
と曰ふ。是を海京と為す。
を、に居らせた。
(その京を)と曰う。これが海京である。
本章の京の名がであるが、これを「『しお』の『みや(こ)』」と解すれば、 それが「海京」であるという説明とよく符合する。
このことから、第11~15章における「これが○京である」というのはその直前に記された「○○耶」という言葉の意味をとって意訳したものである ことが推定される。

なお、浜名氏は曷旦鸛済扈枚をアタカシツヒメ(ニニギの尊の后)と同一人物としてこの海京が鹿児島あたりにあったとするが、 誤りであろう。ただ、この人名を含め、日本神話的な響きがすることは注目される。




第14章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの) 
敎尉颯潑美扈枚。居撫期範紀。
曰濆洌耶。齊京也。
をしてに居らしむ。
と曰ふ。齊京なり。
に居らせた。
(その京を)と曰う。斉京である。
」の「」は和語「ひら」と関係がありそうである。
なぜなら、そう解すると濆洌耶は「ひらたい京、たいらかな京」という意味になるが、斉京の斉の字も「土地が均斉である」という意味に解せるからである。

こういった対応関係は、本章や前章では比較的明快だが、第11章・12章ではやや不分明である。(浜名氏は11章のひじりであるなどと説明を試みている。)




第15章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの) 
敎耆麟馭叡阿解治巫軻牟。

曰芝辣漫耶。神祖初降于此故稱曰秦率母理之京。
をしてに治せしむ。

と曰ふ。神祖、初め此に降る。故に称して之京と曰ふ。
で治めさせた。

(その京を)と曰う。神祖は初め此に降った。故に称して之京と曰うのである。
阿解又宮於然矩丹而居。
曰叙圖耶。是爲離京。

阿解生而異相。頭有刄角。好捉鬼[鬼+居]。乃頒蘇命遮厲立桿禁呪二十四般之法。于今有驗也。
阿解又に宮して居る。
と曰ふ。是を離京と為す。

阿解、生まれながらにして異相。頭に刄角有り。好んで鬼[鬼+居]を捉ふ。乃ち蘇命・遮厲・立桿・禁呪二十四般の法をわかつ。今に于いてしるし有り。
阿解はまたに宮して居た。
(その京を)と曰う。これは離京である。

阿解は生まれながらにして異相で、頭に刄角が有り、好んで鬼[鬼+居]を捉えた。そして蘇命・遮厲・立桿・禁呪二十四種の法を頒布した。今においても効験が有る。
※「鬼[鬼+居]」について。 2文字目の「[鬼+居]」は、「䰨(魅の異体字)」の誤写か。とすると、鬼[鬼+居]⇒鬼䰨=鬼魅(鬼とばけもの、妖怪変化)。


(解説)ここでは、という人物が治めていた京が二ヶ所あることが記されている。
このという人物は、この11章から15章(『汗美須銍』からの引用部分)における登場人物の中では重要人物である (この後の章でもその名が複数回登場し、「神子」という肩書きが付く場合もある)。
また、11章から15章の中で、大半の人物には単に「居らせた」という表現が使われているのに 対し、と11章の人物には「治めさせた」「宮して」といった表現が使われており、特別な扱いであることが察せられる。 

このは、神祖の子であると解するのが自然である(異説がないわけではないが、私の研究でもその結論は維持されている。) 

が治める二つめの京であるは、これを「『そと』の『みや(こ)』」と解すると、それが「離京」であるという説明と よく符合する。

また、一つ目の京である之京については、日本書紀の一書で素尊が降臨した場所とされるソシモリと類似していることが注目される。 本伝では、京の名の由来が神祖が初めて降臨した場所であることによると明記されているから、は神祖の名に由来することになる。 ソシモリは、ソシ(牛の)+モリ(頭)と解されることが多いが、本伝からすればそれは誤りということになりそうである(浜名 遡源p.32-p.33も同旨)。 
(スサナミコの2番目の音「サ」は、「シ」と発音されることも多いらしいと考えられるので、それを考慮すればスサ≒ソシといえる。) 

また、に角のようなものがあり、不思議な術を使う存在とされているのは特異な記述であり注目されるが、 詳細は別に譲る。 

檀君伝承との関連について

この11章から15章(『汗美須銍』からの引用部分)については、しばしば檀君伝承との関連性が指摘される。 
まず、11章のは、檀君が都を開いたアシタ(その場所は現在の平壌であるとされる)と同一であると指摘される。 また、15章のとは、不咸山ともよばれる長白山(白頭山)(檀君の父の降臨地で檀君の出生地とされる)のことであり、 
さらに、15章のは檀君が中国の周王朝成立のころ遷都した先である「蔵唐京」であるという。 
これについては、前にも少し触れた11章から15章における作為について説明しないと理解しにくいが、これは 長くなるので別に述べることにして、その結論に基づいて検討すると、もともと檀君伝承より当古伝の内容の方が 古い形を伝えている面があるのであり※、時代が下って各民族が独自の伝説を作り上げた際に、内容がアレンジされて、 アシタ、フカムなどについて各民族独自の比定地が設定されたというように考えたほうがよいということになる。 
だから、アシタ、フカムなどの位置を檀君伝承のそれと同様に考える必然性はないことになる。 (この点、浜名氏、原田氏は地名の比定については檀君伝承のそれとほぼ同様に考えるようである。浜名氏は一方で、檀君自体は本章の登場人物ではなく次章の登場人物に該当するものの 、本章の内容の片鱗が檀君伝承に入りこんだとする。) 

※もし檀君伝承に整合させて当古伝を作ったのなら、アシタの京で神祖本人が治めるのはおかしいはずである。


第20章

原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの) 
神統志曰。神統志に曰く。『神統志』に曰う。
神統逖諸莫不恢處。神統てきしょとしておほいならざるところなし。神統は「てきしょとして(遠方へ伸び)」、おおいに広がらない処はなかった。
取義乎阿祺毗以爲族稱者。 曰阿靳曰泱委曰淮委曰潢耳曰潘耶也。義をに取って以て族称と為す者は、 曰く、曰く、曰く、曰く、曰くなり。を意味する語をもって族称とする者は、 と曰い、あるいはまたと曰い、と曰い、と曰い、と曰うのである。
取諸暘靈毗者。姚也陶也句黎也。 陶有皥陶唐三皐洛、黎有八養洛矣。これに取る者は、えうなり、えうなり、なり。 えうかうえう・唐の三あり。黎に八あり。を意味する語を族称とする者は、ようであり、ようであり、である。 ようこうよう・唐の三がある。(句)には八がある。
取諸寧祺毗者。和義也姒嬀也猶隗也。これに取る者は、和義なり、なり、猶隗なり。を意味する語を族称とする者は、和義であり、であり、猶隗である。
取諸太祺毗者、嶽也。 則號五族渾瀰爲句婁。初有四嶽、後爲九伯。蓋其音相同也。姜濮高畎諸委屬焉。これに取る者は、嶽なり。すなはち五族の渾瀰を号してと為す。初め四嶽あり。後九伯と為る。蓋し其の音あひ同じきなり。姜・濮・高・畎の諸委しょいこれに属す。を意味する語を族称とする者は、嶽である。 すなわち、五族の渾瀰をと号している。初め四嶽があり、後に九伯となった。思うにそれらの音はあい同じなのであろう。姜・濮・高・畎の諸委しょいこれに属する。
以上通稱諸夷因神之伊尼也。廟㫋爲汶率。以上通してこれと称するは神の伊尼にる也。これを廟して汶率と為す。以上を通してこれを「」と称するのは神の「伊尼」にちなむのである。これびょうして汶率という。

ここでは東族の各部族が という概念に基づいて族名を名づけていることが示され、かつ多数の族名が示されている。

最初に登場する「」は、第7章の阿其・第8章の阿棋と同じであると見られるから、7章の塢須弗に従えば日本は阿棋族の住む国ということになる。

ただ、族名の中には何を指すのか分かり難いものも多いので、詳細は別に検討する。 

ここでは、最後のほうに出てくる「夷」「伊尼」について触れておきたい。 
まず、本章の部族は「夷」と総称されることが述べられているが、常識ではこれは中国人が東方の異民族を蔑んでいう語であるとされる。 
ただ、本章からすれば、「夷」という言葉は、漢民族である西族(次章参照)が発明した言葉ではなく、もともと東族が自ら用いていた言葉であることばであるが、 それを西族は蔑称として用いたということになる。 
また、東族は中国の広い範囲に分布していたから、いわゆる「東夷」以外にも「夷」は存在するということになる。 
さらに、「夷」の語源が「伊尼」という東族語であると述べており、その意味は明示されていないが、神聖な言葉であることは窺える。 
伊尼は、「いに」「いち」等と読める(浜名氏は「いち」と読んでいる)。 
「夷」は、もともと「鉄」に近い音だったともされるから、昔は「ち」とか「に」のような音だったのかもしれず、それが伊尼の尼の音を表していたのかもしれない。 
さらに、本章に「諸委」という言葉があるが、これは「諸夷」と同義であろうから、「夷」のことを「委」とも書いたことが窺えるが、詳細はここでは略す。 
ところで、伊尼を浜名氏は「」((神霊の)威光、神聖さの意味)に解する。判断材料が乏しいのが難点だが、必ずしも的外れな見解とはいえないと考えている(詳細は別に述べる)。 

次に、これら民族名の由来となっている○○毗とは、何か神聖な概念ではあろうが、何を意味するかが問題となる。 第8章では、という語が使われており、それが神祖の名(すさなみこ)と似ていることから、 神祖と関連づけて浜名氏は考えているようである(毗は「」の意味とする)。これも的外れとはいえないが、この概念における4区分が何を意味するかという点と併せて 別途検討する。




第40章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの) 
洲鮮記曰。洲鮮記に曰く。『洲鮮記』に曰う。
乃云訪于辰之墟。娜彼逸豫臺米與民率爲末合。空山鵑叫、風江星冷。すなはここに辰の墟をおとなふ。××××××[工事中]。くうざんに鵑叫んで、風江に星ひややかなり。そしてここに、辰の墟を訪れた。は、民率為末×合×[工事中]。くうざん(人のいない山)においては鵑が鳴き叫び、風の吹く河には星が冷たい光を照らす。
駕言覽乎其東藩。封焉彼丘不知是誰。行無弔人、秦城寂存。してここの東藩をる。おほいなり、の丘。知らず、これたれなるを。みちに弔人無く、しんじょうじゃくとして存す。してここの(=辰の)東藩をる。おおいなるかな、の墳丘。これが誰(の墓である)かを知らない。みちとむらう人も無く、しん(の)じょう(域)がじゃくとして存している。
嘻、辰沄氏殷今將安在。茫茫萬古訶綫之感。有坐俟眞人之興而己矣。ああいんいまはたいづくにかる。ばうばうたるばん訶綫之感。またそぞろしんじんの興るをつのみ。ああいん。今いまどこに存在するのだろうか。ぼうぼうたるばん訶綫の感慨(にふける)。またそぞろに(天命を受けた)しんじんが興るのをつだけである。
本章は、辰の廃墟の様子を描いて一連の歴史の叙述に区切りをつけるとともに、天命を受けた真人の出現を期待して、次章以降で語られる契丹王家の故事につなげるものである。 

しかし、本章は難解な点が多い。 
まず、辰の廃墟というのは何の廃墟なのかという点について、 それが辰王たる氏を指すという点はあまり争いがないが、 浜名氏はそれはあくまで馬韓系の王であるとする。しかし、37章解説で述べたように、氏とは辰沄殷の子孫であり、事実上辰沄殷 の再興であったと考えられる。だからこそ本章で「ああ辰沄氏殷」と嘆いているのであろう。従って、実質は辰沄殷の遺跡とみるべきだろう。 
また、本章で引用されている『洲鮮記』は、辰韓(前々章参照)諸国の一つである「洲鮮国」について記した訪問記と解するのが自然である。 すると洲鮮国に辰の廃墟があることになる。 
ただ、浜名氏は辰沄殷の後継と馬韓の賁弥辰沄氏は別という立場(37章解説参照)から、少し異様な解釈をしているのでやや細かくなるが紹介しておきたい。 
浜名説では、本章でいう辰の廃墟があるのは洲鮮国ではなく、賁弥辰沄氏のいる「月支国」であり、月支国から東方を見たはるか先にある洲鮮国が「東藩」で、その洲鮮国こそ辰沄殷の残党なのだという。 
『○○記』の○○が地名・地域を指す場合、『○○訪問記』『○○旅行記』の意味になるのが自然(第7章の『耶馬駘記』もその例といえる)であり、本章でも「訪う」とか車に乗るなどその雰囲気がよく出ているのに、訪問したのは洲鮮国でなく月支国で、洲鮮国は遠景を少し見ただけということになる。これでは不自然過ぎると考えざるを得ない。 
(いずれにしても浜名氏の解釈だと月支国も洲鮮国も朝鮮北部にあるということになるらしい。) 
私は、通説通り洲鮮国は半島南部にあり、魏志の卓淳国と同じと考える、もっともその位置には2説あるが、詳しくは別に検討する。そしてその地が辰沄殷の最後の拠点と考える。 

次に、「娜彼逸豫臺米与民率為末合」については、浜名氏は「たる、民とひきゐて末合とる」と読み、 「たる(=婀娜なる姿の[なよやかな風情の]) が、民とともに率いて靺鞨(旧満州の東部辺りの部族)となった」、と解する。 
これに対し、鹿島氏は、末合は未合の誤りで、未合とはみまのことであって、浜名氏は時代の制約から 止むをえず上のように解釈したにすぎないという。 

そもそも、「娜」には「なよやかな」という意味があり、「美しい」などの訳語もあるが「婀娜あだ」のニュアンスが拭えない。またたるなどというのはこの当時の漢文の語順としてはあまりに異様である。 そこで、娜を中国語の「那(あれ、あの)」のように捉え、娜彼全体で、「かの(人)」というような意味に解してみたが、指示語としての「那」は近世の俗語らしいから、この文献の成立時期自体が怪しくなりかねない。 また、与民率については、民を率いてではなく、民「と」率いてとしか読めず、その意味が不明瞭であるのも謎であった。 
思うに、娜彼は「たるの」でもなく「かの」でもないし、民率は、「民を率いて」でも「民と率いて」でもないと 解すべきだが、詳細は別に述べたい。(ちなみに、逸豫を固有名詞と解釈せず「逸楽」のような普通名詞に解して理想的牧歌郷の描写とする 説も隣国辺りにあるらしいが、娜彼を「かの」と解釈するのが無理なのと、「臺米」が「高床式倉庫の米」云々以下はもはや 洲鮮記作者がつじつまの合わない漢文を書いたということにしかならないので、当然ながらありえない解釈である。) 


また、浜名氏によれば、逸予台米の逸予とは邪馬台国の卑弥呼の宗女壱予(台予)のことであり、彼女が朝鮮北部から末合(満州方面)へ移動したことになるという。 
しかし、逸予台米は壱予でも卑弥呼でもなく、また彼女は満州にも任那にも移転していない点について詳細は別の機会述べたい。 

いずれにしても、直後の物寂しい情景描写からすると、ここにあった氏(実質は辰沄殷)の拠点が廃墟となった経緯に関する重要な何かが語られていることは確かであろう。 

次に、「くうざんに鵑叫んで、風江に星つめたし」が、何か物寂しい描写であることは争いがない。(と思っていたが、 これを牧歌的理想郷の描写とするひどい解釈もあるらしい。それは空山の部分を「空に山鳥が~」と解したり「冷」を「涼しげ」と解して漢文の対句表現を滅茶苦茶にしてみたり、本サイト開設後それを撤回修正するもその直前の部分が牧歌的理想郷描写説のままなのでちぐはぐだったりする) 
この描写と、「大いなるの丘」以下の描写との関係も案外難しい。 
これは、「の(=辰の)東藩」というのが辰の廃墟とは別に存するものなのか、そうではないのか、という問題にもかかわる。 
・全体として、辰の廃墟の描写であるという考えに立つと、この訪問は星の出る夕刻か何かに行われたことになるようにも思える。 
・浜名氏は、「くうざんに鵑叫んで、風江に星つめたし」は、移動後の逸予台米の運命を描いたものとするようである。 したがって、「大いなるの丘」以下とは分けて考えるということになる。 しかし、浜名氏は、「の(=辰の)東藩」というのは辰の廃墟そのものではなく、廃墟の東方の秦氏の城というように解するので、 本章が辰の廃墟訪問記というより秦城観察記になってしまうという難点がある。また、本章では「ああ辰沄氏殷」という嘆きの部分が、次章以降の詩文の話につながる巧妙な(浜名氏も指摘する)構成と関係している重要な箇所である。しかし浜名説では その嘆きと直接関連するのは車上観察部分以降に過ぎず、それ以前、つまり逸予台米についての部分は辰沄殷とは別の場所(月支国)の馬韓の一王統の話に過ぎないということになり、本章の洲鮮記の記載自体が何かアンバランスで脈絡のない不自然なものとなってしまう。やはり無理な解釈ではなかろうか。本章で取り上げられているのは、一つの国で、逸予台米の話と辰沄殷の話は関連していると見るべきである。 
その詳細は後日を期したい。 

「ああ、 辰沄氏殷」以降は、ああという感嘆詞がいみじくも示すように、洲鮮記の著者が特別な感慨を表している 箇所として注目すべき記述である。 
この部分を細かく分けると 
①ああ、辰沄氏殷はどこにいってしまったのか・・と辰沄氏殷に想いを致す部分 
②茫茫たる・・之感、と感慨にふける部分 
③またそぞろに・・と真人出現を待望する微妙な心境をのべる部分とに分かれる。 

②「茫茫たる」は、「広大な」と「覆われてよく見えない」の2つの意味がある。また、 「訶綫」の意味は未詳とされるが、浜田秀雄氏は訶を詞の誤りと解し訶綫を「シセン」と訓じている。 
(浜田秀雄『契丹秘史と瀬戸内の邪馬台国』新国民社 1977年 p.228) 
確かにそのように解すれば、詞は嗣(子孫)と同義の字で、綫は糸であることから、詞綫とは子孫に連なる糸すなわち 家系、王統といった意味と考えられる。 
そこで、ここは「茫茫」を「覆われてよく見えない」の意味に解すれば、「悠久を誇る(辰沄殷の)系統がいまや埋もれて どこにいるかわからなくなってしまった。」と解釈できる。 

③の真人の興るをまつとは、聖なる偉人が天命をうけて東族を統括し 威光を輝かせる日が再び到来するのを待つという趣旨であろう。それと同時に、もはや現状はそのような存在が おらず、将来に期待するしかないという悲しみの気持ちも充分読み取ることができる。 

この真人とは、老荘思想における道の極地に達した人とか、真理を悟った人とされている存在で、「三国志」で著者陳寿が魏の初代皇帝曹操を真人になぞらえる記述を していることは有名である。浜名も当然そのような常識的な意味で解釈していることは、特別の説明を付していない ことから明らかであるし正しい解釈である。そして、契丹古伝の編者(耶律羽之)の編集意図は、契丹(遼)の 2代皇帝太宗こそその「真人」なのだと示唆することにあるという点も、浜名氏の述べる通りであろう (遡源p.644, 詳解p.358参照)。 

さて上記①②③の関係についてみると、いずれも極めて心情・感情の溢れる表現であって、これらの感情が 
相互に無関係とはまず考えられまい。 

23章末尾の嘻、朱申の宗、賄に毒せられ、兵を倒にして、東委尽く頽る・・がああという感嘆詞で始まっていること、及び、 その内容が、本宗家殷朝の敗北による東族衰退を深い悲しみの感慨をもって嘆く表現であること、を想い起こすと、 本章の洲鮮記の著者も、嘻という感嘆詞から始めて、辰沄氏殷の不存在に関する万感の想いをたぎらせているのだと いうことが自然に読み解けるだろう。 
②の原文、「訶綫」がそのままでは残念ながら意味不明とされるが「~之感・・」とある以上 なんらかの感慨にひたっている表現であることは明白、浜名氏も 「其の辰沄しう殷いづくにありやと問・・あたり、感慨無量察しやられる(遡源p.649, 詳解p.363参照)」 と述べて、②が①に関する感慨であることを示唆していると考えられる。 

③真人に関して浜名氏は「余韻に弔古の幽愁を響かして眞人の興るを促し」  (浜名 遡源p.685 詳解p399[「神頌叙伝後序」の中]。太字強調は引用者) と記しているがこの弔古とは 
「辰の墟を訪ひ其の東藩に覧て辰沄殷を弔せるは、古を懐ふ もの誰も皆しかあるべき」(浜名 遡源p.682, 詳解p396)との浜名氏の言にあるように、辰沄殷をとむらいにしえおもうことを指すから、浜名氏も ③は辰沄殷に関するものと見ている。よって①②③すべて辰沄殷についての感情表現と浜名氏もみていることは 疑いない。 
殷を本宗家から外した浜名氏ではあるが、契丹古伝がその物語を辰沄殷についての記述で締めくくっていることは 氏でさえ否定できなかったのである(浜名氏なりのつじつまのあわせ方としては 新論考「太公望の意外な最期(夏莫且の正体)」 内の附属ページ本宗家論の注2-6参照)。 
それはまさに古を懐う心ある者であるならば、自ずとそう読めるしそう読むべきものとしかいえまい。

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