2022年1月28日金曜日

祇園祭 1968


:殉教者錦之助







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たしますのは、京都の町のなかにいる土倉=高利貸業でありますが、町衆はその日常生活のなか
で土倉からの経済的影響をうける点がきわめて多いのでありますし、また土一揆が町内へ乱入し
放火などが行われた場合には直接に被害もうけるというぐあいであります。従つて最初は幕府か
ら「京中悪党」などとよばれるように、町のなかから土一揆に協力するものもありましたけれど
も、国一揆のころになるとしだいに両者は離反する形になつてきたのです。その上、土一揆のな
かに一向宗徒が多く、それが一向一揆という内容をもつてくるに従つて、町衆には法華宗徒が多
いものですから、信仰上の対抗開係をさえ生じてくるのであります。元来法華宗という宗派は、
仏教としては珍しく現実的で現世利益を主旨としていましたから、町の商人の階層に大へん受け
いれられたものと思われます。そとで町衆らは一向一揆が強い勢力になり、京都の周辺にまで及
んできますと、法華一揆という形態で対立するようになりました。とういう対立の仕方は、民衆
の共同戦線を分裂させるわけで、大へん困つたことでありまして、武家や土倉衆のために利用さ
れた形跡もあるのです。それで町衆らはしばしば隊を組んで、土一換の根拠地である西岡附近を
逆に攻撃に出かけたりいたしました。
 しかしながら、との法華一揆が単にそれだけであつたとしたら、きわめて反動的な役割しか果
さなかつたわけですが、そこはやはり町の民衆的勢力を基礎としているだけに、古代的乃至封
建的権力に対しての反発は土一揆と何ら変るところはありません。そこで法華一揆は教義上で対




:映画の前身となった紙芝居『祇園祭』1953年。林屋辰三郎の解説付き。マルクス的二項対立だが、河内2021よりわかりやすい。一枚だけカラー。


呉座勇一が『一揆の原理』などでマルクス主義派として否定するのは

林屋だろう

しかし林屋『町衆』1964(「町衆の成立」1950は未読)を読むとブローデル的なところがある

東西市の解説などだ

市場は刑場に使われる場合もあった

払いは祓いなのだ


強訴、契約などはプルードン的なのだがマルクス的として一掃されてしまう。




町衆: 京都における「市民」形成史 - 34 ページ

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林屋辰三郎 · 1964 · ‎スニペット表示
次の書籍のコンテンツと一致: – 34 ページ
京都における「市民」形成史 林屋辰三郎 ... 死刑囚があると刑部省より弾正·衛門に市は刑場しかし、けっきょくは、絹・雑菓・土器などは共通して売られることになったし、律令制の衰退によって東市も西市と同じ運命をたどることになるのである。


平安京 794~1192(1869)

    INRI=INaRI 

伏見稲荷大社の元宮(船岡山

        

┏━━━┳━┳━━━┳━┳━━━┓ 

   ┃ ┃ 大 ┃ ┃   ┃ 

   ┃ ┃ 内 ┃ ┃   ┃

   ┃ ┃ 裏 ┃ ┃   ┃ 

┣━┳━╋━┻━━━┻━╋━┳━┫ 

 ┃ ┃    神泉苑┃ ┃ ┃

┣━╋━┫       ┣━╋━┫ 

 ┃ ┃朱雀院    ┃ ┃ ┃

┣━╋━┫       ┣━╋━┫ 

 ┃ ┃   朱   ┃ ┃ ┃

┣━右━┫       ┣━左━┫ 

 ┃ ┃   雀   ┃ ┃ ┃

┣━京━┫┏┓   ┏┓┣━京━┫ 

 ┃ ┣┛┗┓大┏┛┗┫ ┃ ┃

┣━╋━╋┓┏┛ ┗┓┏╋━╋━┫ 

 ┃ ┃西市 路 東寺┃ ┃ ┃

┣━╋━┫       ┣━╋━┫ 

 ┃ ┃ 西寺 東寺 ┃ ┃ ┃

┗━┻━┻━━━ ━━━┻━┻━┛

東寺は今の西本願寺あたり

https://tomk.sakura.ne.jp/kyoto/kyoto2.html





延喜式

#42







:町衆新書34,文庫41頁↓参照。






関市令

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

関市令(げんしりょう)は、の篇目の1つ。養老令ではともに第27番目に位置しており、全19条からなる。

概要

唐令の関市令を継受したもので、関の管理、市の運営を定めている。軍事目的による交通の規制、対外交易の国家管理、官設市での交易の国家管理などを目的とし、過所による関の通過手続き(1条「欲度関条」)、外国との武器の交易の禁止(6条、「弓箭条」)、外国との交易における国家の優先権(8条「官司条」)、国外持ち出し禁止品の規定(9条、「禁物条」)、関門の開閉時間(10条「関門条」)、価格の決定法(13条「官私交関条」)、度量衡の管理(14条「官私権衡条」)などを定めている。

このうち、「欲度関条」については、写本が欠損しており、『令集解』「職員令」68条「摂津職」および「公式令」22条「過所式条」の逸文から復原されたものである。

参考文献


養老律令(ようろうりつりょう)は、古代日本で757年天平宝字元年)に施行された基本法令。構成は、10巻12編、令10巻30編。大宝律令に続く律令として施行され、古代日本の政治体制を規定する根本法令として機能した。しかし、平安時代に入ると現実の社会・経済状況と齟齬をきたし始め、平安時代には格式の制定などによってこれを補ってきたが、平安中期までにほとんど形骸化した。廃止法令は特に出されず、形式的には明治維新期まで存続した。制定内容の資料が未発見である大宝律令は、この養老律令から学者らが内容を推測して概要を捉えている。

関連項目


まず注目したいのは、平城京東西市における売買方法である。関市令 ... 平安京東西市においてよく取り上げられるのは、次の二つの. 官符である。

令義解(718)関市「市司准二貨物時価一。為二三等一。十日為二一簿一。在レ市案記」 ... 平城京の市司は早くすたれたが,平安京では東市司が鎌倉時代まで存続した。

大化改新後、律令(りつりょう)制時代に入ると、市は唐の制度に倣って関市令(かんしりょう)に基づいて平城京、平安京内にそれぞれ官営の東西市が設けられるようになった ...

平城京では東市は左京八条三坊に、西市は右京八条二 ... 延喜式によると、平安京東市に ... に、鼓を合図に閉じることが関市令にきめられている。

理統制にあたる官司として、東西市司が置かれたことはいうまでもない(職員令東市司条)。 延喜式の さらに平安京時代の史料となるが、『延喜式』(東市司式)には平安京の ...

従来の 市論で は 市の 起 源論 と東西市に かか わ る 法制が論議の 内容で あ っ ... 史的には平城京の 東西市な どを もっ ... 「関市令」は十 条に わた っ.

関市令 全20条_現代語訳「養老律令」|官制大観_律令官制下の官職に関するリファレンス

第二十七 関市令 全20条








[関市令]


付録:現代語訳「養老令」全三十編: (最終更新日:00.03.26)

 − 目次 −

  • 01 欲度関条
  • 02 行人出入条
  • 03 行人度関条
  • 04 齎過所条
  • 05 丁匠上役条
  • 06 弓箭条
  • 07 蕃客条
  • 08 官司条
  • 09 禁物条
  • 10 関門条
  • 11 市恒条
  • 12 毎肆立標条
  • 13 官私交関条
  • 14 官私権衡条
  • 15 用称条
  • 16 売奴婢条
  • 17 出売条
  • 18 在市条
  • 19 行濫条
  • 20 除官市買条



 

○01 欲度関条


関を越えたいと願ったならば、みな本部(=居住地の国郡)・本司(=所属官司、及び、京職)に告げて、過所(=通行許可証)を申請すること。官司は検討し、然る後に判給すること。帰りには(?)、来文〔らいもん〕(=往きの過所)に(帰り用の(?))申請書を添えて検討し給付すること。もし来文の他に付加事項があるならば、実情を検討して許可すること。(過所を発行した官司は)日別にまとめて案(控え)とすること。もしすでに過所を得ており、理由があって30日出かけない場合は、元の過所をもって申請し、あらためて給付すること。もし道中、何か事情があれば、最寄りの国司に報告すること。(国司は)詳しい事状を関に送ること。所部でない(=管轄外である)としても、来文があればまた給付すること。もし船・筏で関(ここでは長門と摂津)を経由するときは、また過所を申請すること。

 

○02 行人出入条


旅行者が、関・津を出入したとき、みな到着順をもって先後とすること。停滞してはならない。

 

○03 行人度関条


旅行者が関を越えたならば、みな過所に記載されている関名によって確認許可すること。もし行く(はずの)所でなく、別の異なる関に向かったならば、関司〔げんじ〕は便宜を図って(?)その入出を許可することはできない。

 

○04 齎過所条


旅行者が、過所を携え、及び、駅伝馬に乗って、関を出入したならば、関司は確認許可して、過所または官符を写して控えを作ること。実際の過所、及び、駅鈴・伝符は、いずれも旅行者に渡して、自ら携行させること。駅鈴・伝符は、年末に目録を作って、太政官に申し送って、総検査すること。

 

○05 丁匠上役条


丁匠が上役するとき、及び、庸調の脚〔よほろ〕(=運脚)が関を越えたならば、みな本国の歴名〔りゃくみょう〕(=名簿)に拠って、ともに送ったところの使(つまり丁匠や運脚)を確認して通過許可すること。役を務め終えて帰還するときには、はじめ来たときの姓名・年齢を調べて、同一人物であれば帰還を許可すること。

 

○06 弓箭条


弓箭兵器は、いずれも(本邦以外の)諸外国と交易してはならない。東辺北辺(つまり蝦夷と接する辺境)には鉄冶〔てつや〕(=鉄の精錬所)を置いてはならない。

 

○07 蕃客条


異国の使節が初めて関に入ったときには、所持している物があれば全て、関司が、使節の接待を担当する官人とともに、つぶさに記録して、所司(治部省)に報告すること。1つの関に入れて以後、それ以上検査してはならない。もし関のない処であれば、初めて国司に報告する場合も、またこれに準じること。

 

○08 官司条


官司が交易するよりも前に、私的に(本邦以外の)諸外国と交易してはならない。通報者があって品物を取り押さえたならば、その物を二分して、ひとつは通報者に賞すこと、ひとつは没官する(=没収して官物にする)こと。もし官司がその所轄内で摘発押収したならば、みな没官すること。

 

○09 禁物条


禁物〔きんもつ〕(=国外持出禁止品)は、国境から持ち出してはならない。もし異国の使節が入朝して、別勅で賜ったものは、国境から持ち出すのを許可すること。

 

○10 関門条


関門は、いずれも日の出に開くこと。日の入りに閉じること。

 

○11 市恒条


市は、恒に午の時(正午を挟んでの前後2時間)に集まること。日の入り前に、鼓〔つづみ〕を3度撃って解散すること。{毎度、各9回打つこと。}

 

○12 毎肆立標条


市は、肆〔いちぐら/し〕(=商品を陳列する場所=売場・店舗)ごとに標を立てて行名〔ぎょうみょう〕(=取扱商品名。絹肆、布肆など)を記すこと。市司は、商品の時価に準じて(上中下の)3等級を作ること。10日に1簿〔ふ〕(実売価格の記録)を作ること。市に在って案記すること。季ごとにそれぞれ本司(左右京職)に報告すること。

 

○13 官私交関条


官が私と交易するとき、(銭以外の)物をもって対価としたならば、(その物の値は)中等の価格に準じること。その場に存在しない贓物〔ぞうもつ〕(=盗品などの不法所有物)の価格を評定する場合も、またこのようにすること。

 

○14 官私権衡条


官私の権衡〔ごんこう〕(=さお秤)・度(=物差し)・量(=ます)は、毎年2月に、大蔵省に行って精度検査をすること。京でない場合は、所在の国司に行って精度検査をすること。然る後に使用を許可すること。

 

○15 用称条


〔しょう〕(=天秤)の使用にあたっては、みな格〔きゃく〕(=横木に物を掛け下げる道具)に掛けること。斛〔こく〕(=容量1斛のます)の使用にあたっては、概〔がい〕(=とかき/ますかき)を使うこと。粉麺〔ふんめん〕(=米紛・麦紛)は称にかけること。

 

○16 売奴婢条


奴婢を売る場合には、みな本部(=居住地)の官司に報告して、(売渡証文を書いて)保証を取り、立券して(=官司の判署した正式の証文を作って)、価格を付けること。{馬牛は、ただ保証だけを請求して、(官司の判署を要しない)私券を立てること。}

 

○17 出売条


販売するものについて、粗悪品(欠陥品や名目と異なる品質のまがい物)を売ってはならない。横刀・槍・鞍・漆器の類は、それぞれ製作者の姓名を記銘すること。

 

○18 在市条


市に在って商売するとき、男女は坐〔ざ〕を別にすること。

 

○19 行濫条


粗悪品(欠陥品や名目と異なる品質のまがい物)を交易したならば、没官(=官に没収)。寸法が公定規格に足りない物の場合は、持ち主に返すこと。

 

○20 除官市買条


官が購入する場合を除いては、みな市に於いて交易すること。(たとえ市の中であっても、他の肆(=売場・店舗)などに)居ながらにして、物主を呼びつけ、時価に違背した値段を付けてはならない。官私に拘わらず、互いに時価を付けること。時価とかけ離れた値段を付けてはならない。



伊藤大輔は当初ドイツ農民戦争のゲッツを参考にしていた。
ゲッツはゲーテやサルトルが戯曲化している。
伊藤大輔錦之助の『幕末』は坂本龍馬の暗殺者が暗殺後史実通りに謡を舞う唯一の映画。
生産中心主義では町衆の意義を描き切れなかった。錦之介演じる新吉も藍染職人。

紙屋牧子 祇園祭論2021








参考:
京都はユダヤ人秦氏がつくった 田中英道 2021
https://freeassociations2020.blogspot.com/2022/01/2021.html 

日本とユダヤ



映画『祇園祭』と歴史学研究 --「祇園会じゃない祇園祭」の創出--Author(s)京樂, 真帆子Citation人文學報 (2020), 115: 157-191Issue Date2020-06-30
(『映画産業史の転換点』2020所収の京楽「制作社日誌からみる映画『祇園祭』」とは別論考)

168:

3  祇園会と神事・山鉾巡行‐歴史学研究の到達点 
 先述したように,山鉾巡行を神事と切り放して再興させるという映画のストーリーの背景には,『祇園執行日記』天文2年(1533)6月7日条(【史料2】)の解釈がある。この史料に関わって,現在の歴史学研究は以下の五つの点を明らかにしている。
 まず,応仁・文明の乱で停止していた祇園会が再興されたのは明応9年(1500)であり,映画が天文2年のこととするのは間違いである。
 この点については,すでに引用したように,林屋辰三郎の『町衆』でも明らかにされており(【史料4】),それを読んだ伊藤大輔も承知していたはずである。伊藤大輔文庫所収本『町衆』130 頁「明応九年(一五〇〇)六月」に復興されたとある部分に,赤鉛筆で印が付けられている。このことから,伊藤大輔が祇園会復興は天文2年ではなく,明応9年の出来事であると知っていたことは明らかである48)。
 2 点目は,明応9年に祇園会が再興された時,その再興に熱心だったのは室町幕府であった,ということである。これは,河内将芳が明確に論証したことで49),『祇園社記』明応5年(1496)閏2月13日条や『大乗院寺社雑事記』明応9年(1500)5月20日条などを論拠とする。祇園会再興に室町幕府が積極的に関わったことは,河内将芳の2007年の研究成果によってわかったことで,伊藤大輔をはじめ,映画制作者たちには知るよしもなかった。3 点目は,天文2年に神事停止によって祇園会を延引に追い込んだのは,幕府ではなく,延暦寺大衆(山門)であったことである。むしろ幕府は祇園会執行を望んでいたが,大衆の圧力に挫折したのであった。これは,林屋辰三郎『町衆』(【史料4】)ですでに言及されており,伊藤大輔も本書(表2-24)「山門の訴え」の部分に赤鉛筆で傍点を打っている。さらに,『祇園祭』(表2-22)90頁の「山門の訴を理由として」にも,赤鉛筆で傍点が打たれている。よって,伊藤大輔は知っていたのである。4 点目は,天文2年には,実際には山鉾巡行は行われなかったと考えられることである。河内将芳が2007年に指摘していることだが50),これは映画の構成の根幹を揺るがすことになる史実である。即ち,天文2年に時代設定をすると,映画『祇園祭』の内容は成立し得なくなる。5 点目として,そもそも天文2年より以前から,神輿渡御とは無関係に行われる山鉾巡行があったことを指摘しておきたい。これは,1999年に脇田晴子が指摘している51)。一例を挙げておこう。なお,当時の山鉾巡行の式日は,6月7日である。【史料5】『後愚昧記』永和4年(1378)6月7日条 雨下る。晩に及び聊か晴れる。今日,祇園の御輿迎えなり。しかして,山門神輿の造替未だ事終らざるの間,かの社〈祇園〉神輿同じく出来せず。よってこの間年々御輿迎えなく,(足利義満)今年また同前なり。しかるに鉾においては,これを結構す。大樹桟敷〈四条東洞院〉を構え,…

7)   河内将芳「天文二年の祇園祭」(同著『祇園祭と戦国京都』,角川学芸出版,2007年)。

49)   河内将芳,前掲註7)論文。

半世紀ぶりに「祇園祭」紙芝居発見

 作家、西口克己の名作「祇園祭」の元になった、同名の紙芝居の現物が、半世紀ぶりに京都大学で見つかり、7月13日には、京都市内で再演されます。
 発見されたのは、A2判のオリジナルを元に、各地で上演するため作られたB4判の小型版の紙芝居11枚と同紙芝居を撮影したスライド(35㍉ポジフィルム)、台本、同紙芝居の上演記録、故西口氏の手紙など。
 研究者、大学院生、学生らでつくる「戦後歴史学ワーキンググループ」(京都市、田中聡代表)が昨年、同紙芝居を制作したといわれている「民科京都支部歴史部会」の資料を調査中に京都大学の研究室にあったダンボール箱の中から見つけたました。
 紙芝居は1952年、当時立命館大学教授だった故林屋辰三郎氏の指導を受けた京大学生ら「民科」のメンバーが、民衆が歴史を動かすことを市民に訴えようと制作したもの。応仁の乱後の荒廃の中、幕府に抗して町衆が祇園祭を再興する物語で、西口克己の同名小説(1961年)の原型になったともいわれています。
 同グループは「上演当時の歴史を伝える一級の資料だ」と話しています。
    ◇
 同グループが復元した紙芝居は13日午後1時半から、京都市中京区の登録会館で京大生らのサークル「紙芝居研究会」が上演します。
 入場無料。


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祇園祭
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E7%A5%AD#%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BC%9A%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90


京都祇園祭(ぎおんまつり)は、京都市東山区八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは祇園御霊会(ぎおんごりょうえ、御霊会)と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く京都の夏の風物詩である。


概要

祭行事は八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものに大別される。

一般的には山鉾町が主催する行事が「祇園祭」と認識されることが多く、その中の山鉾行事だけが重要無形民俗文化財に指定されている。山鉾町が主催する諸行事の中でもハイライトとなる山鉾行事は、山鉾が設置される時期により前祭(さきのまつり)と後祭(あとのまつり[1]の2つに分けられる。山鉾行事は「宵山」(よいやま、前夜祭の意。前祭:7月14日 - 16日・後祭:7月21日 - 23日)、「山鉾巡行」(前祭:7月17日・後祭:7月24日)が著名である。八坂神社主催の神事は 「神輿渡御」(神幸:7月17日・還幸:7月24日)や「神輿洗」(7月10日・7月28日)などが著名で、「花傘連合会」が主催する花傘巡行(7月24日)も八坂神社側の行事といえる。

宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、「動く美術館」とも例えられる。

祇園祭は数々の三大祭の一つに挙げられる。京都三大祭(他は上賀茂神社下鴨神社葵祭平安神宮時代祭)、日本三大祭(他は大阪の天神祭、東京の山王祭神田祭)、日本三大曳山祭(他は岐阜県高山市高山祭埼玉県秩父市秩父夜祭)、日本三大美祭(他は前述の高山祭と秩父夜祭)のうちの一つであり、日本を代表する祭りである。

名称

祇園祭という名称は、八坂神社が神仏習合の時代に、比叡山に属して祇園社と呼ばれていたことに由来する。祇園社の祭神の牛頭天王仏教の聖地である祇園精舎の守護神であるとされていたので、祇園神とも呼ばれ、神社名や周辺の地名も祇園となり、祭礼の名も祇園御霊会となったのである。なお、祇園の語源については、祇園精舎の項目を参照。

その後明治維新による神仏分離令により神社名が八坂神社となった際に、祭礼名も仏教色を排除するため「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」から「祇園祭」に変更された(ただし「祇園」という名称自体は前述の通り仏教由来である)。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E7%B2%BE%E8%88%8E


牛頭天王との関係[編集]

出自不明の習合神「牛頭天王」は、祇園精舎の守護神とされる。そのため、牛頭天王は別名「祇園天神」と呼ばれ、祇園天神を祀る神社祇園神社という。八坂神社天王神社など別の名称の祇園信仰の神社も、「祇園神社」や「祇園様」と呼ばれる。八坂神社の祭礼を祇園祭という。総本社の京都八坂神社門前町祇園」は、花街として有名である。


歴史

狩野永徳筆『洛中洛外図屏風』(国宝米沢市上杉博物館)に描かれた祇園会の様子(右隻第三扇)。手前右は船鉾、左は岩戸山。以下手前から奥へ鶏鉾、白楽天山、函谷鉾。右上隅は蟷螂山(右)と四条傘鉾(左)[2]

祇園御霊会の起源

疫病の流行により朝廷は863年(貞観5年)、神泉苑で初の御霊会ごりょうえを行った。御霊会は疫神や死者の怨霊などを鎮めなだめるために行う祭で[3]、疫病も恨みを現世に残したまま亡くなった人々の怨霊の祟りであると考えられていた[4]。しかし、その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念した。

864年(貞観6年)から富士山の大噴火が起こって溶岩が大規模に流出して山麓に達し、869年(貞観11年)には陸奥で貞観地震が起こり、津波によって多数の犠牲者が出るなど、全国的に地殻変動が続き、社会不安が深刻化する中、全国のの数を表す66本のを卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行った。この869年(貞観11年)の御霊会が祇園祭の起源とされており、2019年(令和元年)には祭の1150周年を祝うほど、長い歴史を持っている。

御霊会が生まれた直接の背景は、平安京がもともとが内陸の湿地であったために高温多湿の地域であったこと、建都による人口の集中、上下水道の不備(汚水と飲料水の混合)などにより、瘧(わらわやみ=マラリア)、裳瘡(天然痘)、咳病(インフルエンザ)、赤痢、麻疹などが大流行したこと。その原因が、先に大水害により挫折した長岡京遷都工事中に起きた藤原種継暗殺事件で無実を訴えながら亡くなった早良親王ら6人の怨霊の仕業との陰陽師らによる権威ある卜占があったこと、などである。さらに、1世紀後の970年(安和3年)からは毎年行うようになったとされる。これらの祭式は神仏混淆であるばかりでなく、陰陽道修験道の儀式も含まれていた。真夏の祭となったのは、上水道も冷蔵庫もなかった時代は、真夏に多くの感染症が流行し多くの人々が脱水症状等で亡くなったことが原因の一つと考えられる。

876年(貞観18年)には、播磨国広峯から牛頭天王が京都に遷座し、現在の八坂神社の地に落ち着いた。そこに祇園社として祭られ、感神院と号して比叡山延暦寺に属した。中世を通じて、祇園社は比叡山延暦寺末寺とされ、山門(延暦寺)の洛中支配の拠点となった。比叡山の鎮守である日吉権現の山王祭が行われない時は、祇園御霊会も連動して中止・延期されることが多かった。

山鉾巡行の成立

祇園御霊会は、草創期から現代に至るまで、祇園社の神輿渡御を中心とするが、これに現在見られるような山鉾が伴うようになった時期は明確には分からない。鉾の古い形式は、現在も京都市東山区の粟田神社(感神院新宮・粟田天王宮)をはじめ、京都周辺から滋賀県にかけて分布する剣鉾に残っており、祇園御霊会の鉾もそれに類するものであったと推定される[5]

現在の山鉾巡行の原形は、鎌倉時代末期の『花園天皇宸記元亨元年7月24日(1321年8月18日)条の記述から窺える。それによれば、鉾を取り巻く「鉾衆」の回りで「鼓打」たちが風流の舞曲を演じたというものである[6]。南北朝時代には、富裕な町人層が競って風流拍子物をくり出し、さらに室町将軍家が調進した「久世舞車」や西陣の大舎人座が出した「鷺舞」など、さまざまな形の付祭の芸能が盛んになった[7]

室町時代に至り、四条室町を中心とする(旧)下京地区に商工業者(町衆)の自治組織両側町が成立すると、町ごとに趣向を凝らした山鉾を作って巡行させるようになった。それまで単独で巡行していた竿状の鉾と、羯鼓舞を演ずる稚児を乗せた屋台が合体して、現在見られるような鉾車が成立し、さらに主に猿楽能の演目を写した作り物の「山」が加わることによって、室町時代中期には洛中洛外図に見られるような、今日につながる山鉾巡行が成立したものと見られる[8]

応仁の乱の中断後の1533年(天文2年)には、先述の理由による延暦寺側の訴えにより、祇園社の祭礼が中止に追い込まれたが、町衆は「神事これ無くとも山鉾渡したし(神社の行事がなくても、山鉾巡行だけは行いたい)」という声明を出し、山鉾行事が既に町衆が主体の祭となっていたことを窺わせる[9]。天文二 (1533) 年、天文法華一揆のさなか、延暦寺と結託した幕府の祇園会停止の命令に対して町衆たちが「神事ナクトモ山鉾渡シタシ」と迫り、神事は中止されたものの山鉾巡行は行われたという。町衆の自治的性格を象徴する話として特に有名である。これに先立って1500年(明応9年)に応仁の乱による33年の中断を経て祇園祭を復興するにあたり、室町幕臣(奉行衆)の松田豊前守頼亮が過去の山鉾について「古老の者」より聞き取りを行い、応仁の乱以前の60基(前祭32基、後祭28基)[10]の山鉾を知る唯一の史料とされている「祇園会山鉾事」(八坂神社文書)として書きとめたほか[11]、初めてのくじ取り式を頼亮私宅で行い[12]、町人主体の祭りとなるよう祇園執行に申し聞かせるなど、祇園祭の再興に尽力し、現在に続く山鉾の数と名称が固定した[13]。頼亮も自身の在職中に祇園祭が再興されたことは冥加であると記している[14][15]


  • ^ 近年、マスコミなどで「さきまつり」などと読むケースがあるが、「さきまつり」と「の」が入るのが伝統的で正式な呼称である。
  • ^ 画中の山鉾の特定は京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センターのサイトによる。
  • ^ 『大辞泉』
  • ^ 京のお宝祇園祭 立命館大学、2008年
  • ^ 京都の祭・剣鉾ブログ
  • ^ 植木行宣『山・鉾・屋台の祭り〜風流の開花』(白水社、2001年)第一編第二章
  • ^ 田井竜一編『祇園囃子の源流に関する研究』(京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター研究報告3、2008年)
  • ^ 狂言『鬮罪人』では、京都の町々が毎年趣向を凝らして山の作り物を考案する場面が描かれており、山鉾巡行の草創期には、人形ではなく扮装した人が乗り、山の題材は固定化されておらず、流動的であったことが窺える。
  • ^ 樋口博美「祇園祭の山鉾祭礼をめぐる祭縁としての社会関係 : 祭を支える人々 (柴田弘捷教授 退職記念号)」『専修人間科学論集. 社会学篇』第2号、専修大学人間科学学会、2012年3月、 113-125頁、 doi:10.34360/00004434、 ISSN 2186-3156、 NAID 120006784931
  • ^ 河内将芳、2017年10月4日付 中外日報(論)
  • ^ 鷹山の歴史 ―山の形態変化を中心に―(公益財団法人祇園祭山鉾連合会) (PDF)
  • a b 八坂神社文書「祇園会山鉾事」:今度御再興巳後、山鉾次第町人等諍論之間、鬮取次第也、前々日町人等来愚邸鬮取之、雑色等来入申付之(松田頼亮)
  • ^ 『祇園社記』第十五によれば、応仁の乱以前には58基の山鉾があり、「弓矢鉾」「甲鉾」「達磨鉾」「地蔵鉾」「韋駄天山」「弁慶衣川山」「鵜飼舟山」「大鋸引山」「那須与一山」「泉小二郎山」「自然居士山」「朝比奈門山」「天鼓山」などの廃絶した山鉾が列記されている。この中には今では山鉾を出さない町も含まれている。
  • ^ 京都の歴史 第3巻 近世の胎動 祇園会の再興(京都府立京都学・歴彩館)P603[リンク切れ]
  • ^ 中世京都と祇園祭 脇田春子、吉川弘文館、NAID 20001284636
  • ^ 祇園祭を学ぶ KBS京都(2017年8月13日閲覧)
  • ^ 小野芳朗『水の環境史「京の名水」はなぜ失われたか』PHP研究所〈PHP新書〉、2001年 p89-99 ISBN 9784569616186
  • ^ 『祇園祭 鯉山』(財団法人鯉山保存会、2006年)
  • ^ 阪急電鉄株式会社 編集 『75年のあゆみ 記述編』、1982年、58頁。
  • ^ 本能寺の変で延期した例も…祇園祭に台風迫る - 読売新聞、2015年7月16日
  • ^ 京都祇園祭:山鉾巡行、風雨の中に「エンヤラヤー」響き - 毎日新聞、2015年7月17日
  • ^ 祇園祭・山鉾巡行は予定通り実施…風雨対策施す - 読売新聞、2015年7月17日
  • ^ 2020年京都祇園祭のサポーター募集|Makuake(マクアケ)” (日本語). Makuake(マクアケ)2021年2月8日閲覧。
  • ^ 京都市:門川市長記者会見(2011年1月4日)
  • ^ 前祭と後祭、分離決定 祇園祭・49年ぶり 京都新聞(2013年8月30日)
  • ^ 日曜以外・祇園祭の公式な行事ではない。
  • ^ 慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス 小熊英二研究会:小野有理(卒業論文)、京都における文化変容の可能性-祇園祭の事例から-
  • ^ 『京都祇園祭のすべて』(あるすぶっくす)、婦人画報社、1993年、pp.32-33
  • ^ 祇園祭-鯉山(こいやま)の名宝- | 京都府京都文化博物館
  • ^ 宵山の童歌は「○○のお守りはこれより出ます。常は出ません今晩限り。ご信心のおん方様は、受けてお帰りなされませ。蝋燭一丁献じられましょう」(○○(神様)のお守りはここで発売しています。いつも売っているものではありません。宵山期間だけです。信心の皆さんは買って行って下さいな。蝋燭も一本どうぞ)というような、お守り・蝋燭・縁起物等の販売促進を目的としてた内容である。少女たちの可愛らしさで見物客の財布の紐を緩め、子供には商売の真似事を教えるという、優れた社会教育の機会となっている。昼間は少女たちが小学校に行っているため大人しかおらず、童歌はエンドレステープを流しているだけのことが多いが、夕方以降には少女たちが待機しており、随時歌い出す。土・日曜日は昼から待機することが多い。山によっては少年も歌に加わることがある。童歌の元祖は霰天神山といわれている。
  • ^ 猛暑で花傘巡行中止 「参加者が熱中症の危険」 京都・祇園祭”.  産経新聞社 (2018年7月21日). 2018年7月22日閲覧。
  • ^ [京都三条会商店街](2014年3月6日閲覧)
    「三条台若中について」を参照。
  • ^ 河内将芳『絵画史料が語る祇園祭』、淡交社、2015年、pp.42
  • ^ 2008年7月17日 京都新聞夕刊1面。なお、山鉾ごとのデータは次の通り(単位はトン。『函谷鉾』28号(あすの函谷鉾をつくる会、2009年)より)。
    • 【前祭鉾・曳山】長刀鉾(11.1)・函谷鉾(11.39)・月鉾(11.88)・菊水鉾(10.31)・鶏鉾(9.42)・放下鉾(10.32)・船鉾(8.41)・岩戸山(8.25)【傘鉾】綾傘鉾(0.36)・四条傘鉾(0.4)【前祭舁山】郭巨山(0.69)・霰天神山(0.65)・占出山(0.51)・伯牙山(0.52)・芦刈山(0.64)・木賊山(0.67)・油天神山(0.55)・太子山(0.59)・蟷螂山(1.22)・山伏山(0.6)・白楽天山(0.71)・孟宗山(0.54)・保昌山(0.67)
    • 【後祭曳山】北観音山(9.27)・南観音山(9.54)【後祭舁山】・橋弁慶山(0.8)・浄妙山(0.78)・鈴鹿山(0.7)・役行者山(0.84)・黒主山(0.67)・鯉山(0.81)・八幡山(0.75)
  • ^ 江戸時代後期に綾傘鉾が鉾車形式に改造されたとき、網代葺の唐破風屋根の形式であった。
  • ^ 各山鉾の紹介 占出山 祇園祭 - 京都新聞、2017年12月6日閲覧。
  • ^ 菊水鉾の音頭取は侍烏帽子に袴を着用し菊の葉型の団扇を持つが、江戸時代には大阪天神祭の催太鼓の「願人」がかぶる「投げ頭巾」のようなものつけたこともあったらしい。
  • ^ 鷹山、2022年巡行復帰目指す 祇園祭、14年の大船鉾以来」 京都新聞 2018年6月21日
  • ^ 四条町大船鉾保存会
  • ^ 谷直樹他編『まち 祇園祭 すまい』思文閣出版 1994年
  • ^ 『菊水鉾』(財団法人菊水鉾保存会、2003年)
  • ^ 祇園祭「大船鉾」、町家改修し稽古などの拠点に - 読売新聞、2016年2月14日
  • ^ 松田元『祇園祭細見〈山鉾編〉』郷土行事の会 1977年。本書には、詳細な寄町の記述とともに、寄町の分布図が掲載されている。
  • ^ 富井康夫「祇園祭の経済基礎」、秋山國三(編)『京都社会史研究』法律文化社、pp.189-246。1971年
  • ^ 祇園祭・長刀鉾稚児に中西望海君 7月17日山鉾巡行 - 京都新聞
  • 参考文献[編集]

    • 近藤豊『祇園祭〜鉾立と細部意匠〜』(大河出版 1970年)
    • 松田元『祇園祭細見〈山鉾編〉』(郷土行事の会 1977年)
    • 『写真記録 祇園祭』(祇園祭山鉾連合会 1978年)
    • 『祇園祭〜町衆としきたり〜』(祇園祭山鉾連合会 1979年)
    • 月刊誌「太陽」1985年7月号「特集・祇園祭」(平凡社)
    • 『京名所図絵と祇園山鉾』(岩崎美術社 1990年) - 1757年(宝暦7年)版「祇園御霊会細記」に基づく田中緑紅編『京都祇園会古代山鉾図譜』の図版を収録
    • 「山町鉾町」(やまちょう ほこまち)特別記念号(祇園祭山鉾連合会 1991年)
    • 『京都 祇園祭のすべて』(婦人画報[あるすぶっくす] 1993年)
    • 『祇園祭大展〜山鉾名宝を中心に〜』(祇園祭山鉾連合会〈京都府京都文化博物館〉 1994年)
    • 植木行宣・中田昭『祇園祭』(保育社[カラーブックス] 1996年)
    • 『祇園祭の美〜祭を支えた人と技〜』(京都市自治百周年記念特別展〈京都市美術館〉 1998年)
    • 島田崇志『写真で見る祇園祭のすべて』(光村推古書院 2006年)
    • 『京都祇園祭手帳』(河原書店[手帳ブック] 2007年)
    • 『祇園祭のひみつ』(白川書院[月刊京都うんちくシリーズ] 2008年)
    • 『(写真でたどる)祇園祭山鉾行事の近代』(京都市文化財ブックス第25集、京都市文化財保護課 2011年)
      草創以来の祇園祭に関する最も詳しい年表が収録されている。
    • 下間正隆『イラスト祇園祭』(京都新聞出版センター 2014年)
    • 『京の夏、祇園祭!』(らくたび文庫 別冊、コトコト 2008年、2014年改訂版)
    • 祇園祭山鉾連合会編『凱旋―祇園祭大船鉾復原の歩み 基本設計図完成報告書』(祇園祭山鉾連合会、2013年)
    • 福持昌之「「京都祇園祭の山鉾行事」のユネスコ無形文化遺産の登録とその後」(『文化遺産の世界』Vol.28、2017年)
    • 祇園祭山鉾連合会編『放鷹―祇園祭鷹山復興のための基本設計』(祇園祭山鉾連合会、2018年)
    • アリカ、 新潮社編『祇園祭―その魅力のすべて』( 新潮社[とんぼの本]2018年)
    • 京都市文化市民局文化財保護課監修『祇園祭 温故知新―神輿と山鉾を支える人と技』(淡交社、2020年)
    • 福原敏男 [他] 編『山・鉾・屋台の祭り研究事典』(思文閣出版、2021年)

    関連文献[編集]

    • 米山俊直『祇園祭』(中公新書 1974年)
    • 米山俊直『ドキュメント祇園祭』(NHKブックス・カラー版 1986年)
    • 脇田晴子『中世京都と祇園祭 疫神と都市の生活』(中公新書 1999年)
    • 河内将芳『祇園祭と戦国京都』(角川叢書 2007年)
    • 川嶋將生『祇園祭 祝祭の京都』(吉川弘文館 [歴史文化ライブラリー] 2010年)
    • 河内将芳『祇園祭の中世-室町・戦国期を中心に-』(思文閣出版 2012年)
    • 河内将芳『絵画史料が語る祇園祭』(淡交社 2015年)
    • 河内将芳『室町時代の祇園祭』(法蔵館 2020年)
    • 河内将芳『改訂 祇園祭と戦国京都』(法蔵館文庫 2021年)




    平安京 794~1869 
        INRI=INaRI 
    伏見稲荷大社の元宮(船岡山) 
            ■
    ┏━━━┳━┳━━━┳━┳━━━┓ 
    ┃   ┃ ┃ 大 ┃ ┃   ┃ 
    ┃   ┃ ┃ 内 ┃ ┃   ┃
    ┃   ┃ ┃ 裏 ┃ ┃   ┃ 
    ┣━┳━╋━┻━━━┻━╋━┳━┫ 
    ┃ ┃ ┃    神泉苑┃ ┃ ┃
    ┣━╋━┫       ┣━╋━┫ 
    ┃ ┃ ┃朱雀院    ┃ ┃ ┃
    ┣━╋━┫       ┣━╋━┫ 
    ┃ ┃ ┃   朱   ┃ ┃ ┃
    ┣━右━┫       ┣━左━┫ 
    ┃ ┃ ┃   雀   ┃ ┃ ┃
    ┣━京━┫       ┣━京━┫ 
    ┃ ┃ ┃   大   ┃ ┃ ┃
    ┣━╋━┫西市   東市┣━╋━┫ 
    ┃ ┃ ┃   路   ┃ ┃ ┃
    ┣━╋━┫       ┣━╋━┫ 
    ┃ ┃ ┃ 西寺 東寺 ┃ ┃ ┃
    ┗━┻━┻━━━ ━━━┻━┻━┛ 


    平安京 794~1869
        INRI=INaRI
    伏見稲荷大社の元宮(船岡山)
          ■
    ┏━┳━┳━━━┳━┳━┓
    ┃ ┃ ┃大内裏┃ ┃ ┃
    ┃ ┃ ┃ 内裏┃ ┃ ┃
    ┣┳╋━┻━━━┻━╋┳┫
    ┣╋┫朱雀院 神仙苑┣╋┫
    ┣╋┫   朱   ┣╋┫
    ┣右┫   雀   ┣左┫
    ┣京┫   大   ┣京┫
    ┣╋┫西市 路 東市┣╋┫
    ┣╋┫ 西寺 東寺 ┣╋┫
    ┗┻┻━━━ ━━━┻┻┛


    平安京 794~1869
        INRI=INaRI
    伏見稲荷大社の元宮(船岡山)
         ◼
    ┏━┳┳━━━┳┳━┓
    ┃ ┃┃大内裏┃┃ ┃
    ┃ ┃┃ 内裏┃┃ ┃
    ┣┳╋┻━━━┻╋┳┫
    ┣╋朱雀院 神仙苑╋┫
    ┣╋┫  朱  ┣╋┫
    ┣右┫  雀  ┣左┫
    ┣京┫  大  ┣京┫
    ┣╋西市 路 東市╋┫
    ┣╋┫西寺 東寺┣╋┫
    ┗┻┻━━ ━━┻┻┛
         
    以下、久保有政、飛鳥昭雄対談本#6より:

    飛鳥 …平安京というのは正方形に近い区画と、明らかに長方形の 区画とに分かれているんです。
     それで、正方形の区画だけを意図的に外してみると、内裏を含めた長方形の区画に巨大な
    T字形が浮かびあがるんですね。
    久保 しかも頭の部分の上、船岡山*の位置には元「稲荷」、つまり伏見稲荷大社の「元宮」が
    ありますね。稲荷命婦元宮というのですが、それがまさにイエスが磔になったときの「INRI」
    (INaRI)の罪状板の位置と同じだという……。
    飛鳥 本当、できすぎですよね(笑)。

    https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhf0hZ8PUnE7fG3pU7p-XDPecCi-yPHLHuWrK6T0LyOOhE_6L0-sdYqYK6SbKGdvw-_6zoSWW4kymB5G3klnKLCddPqgUvbkDX8uA9U1_aA1xY5PxU36Np4pmxKK23CLK7v6zQCT92E3zw/s1600/image0-782950.jpeg


    *藤原京では耳成(みみなし)山、平城京では天皇陵が対応。(飛鳥昭雄『「平安京」の謎』2008も参照。INRI=稲荷発見者古澤三千夫の名は337頁)


    久保 しかも平安京をつくって、すぐに始まったのが祇園祭でしょう?
       祇園祭というのは、つまりシオン祭ですよね。  
     いうまでもありませんが、シオンというのはエルサレムにある丘の名前で、ダビデ王の城や墓があったところです。もちろん、シオニズム運動の象徴でもあるわけで、その祭りが京都でいまもなお行われているという……。 
      それにね、この祭りは7月17日に盛大に行われますけど、それはアララト山にノアの箱舟が漂着した日と同じ日なんですよね。  
    飛鳥 そもそも祭りで登場するあの鉾、山車からして、キリスト教のメルカバー(神の戦車)なんですよ。  
     方向転換するときもあれ、車輪の下で竹板を上手に突くんですね。方向転換する仕組みがないんです。ですからこれ、メルカバーと構造がまったく一緒なんですね。それでも彼ら、うまいこと回すんです。  
    久保 祇園祭は平安時代、疫病退散を目的に始まったとされています。
       昔、ソロモン王が疫病が起こらないように祈願するための祭りを7月にやりましたが、それとまったく一緒ですよね。やはりそういう『聖書』の記述を知っている人たちが始めたとしか思えない。何度もいいますが、実際に『聖書』が出てくれば……。  

    ~~~

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    #4
    ◉ヒンドゥー教の大祭と祇園祭との類似  
     インドではヒンドゥー教の寺院の夏の大祭で、大きな山車を繰り出す風習があります。ラタ・ヤートラという祇園精舎一帯のお祭りです。そうしたインドの風習が、ユダヤ人によって日本までもち込まれて日本のお祭りとなったと考えられます。
      インド・マハトマ・カンディー大学などで教鞭を執り、インドに長期滞在した前田行貴氏が『蓮と桜─日本文化の源流・インド』(蓮河社)で、日本に生きるインドの神々について書いています。それによるとインドの祭りと祇園祭とでは類似点が多く、夏の大祭であること、山車の形状、民衆が山車を引いて巡行すること、さらには御旅所に一週間とどまるなど、瓜二つであると述べています。日本の祇園祭の原型を、インドの祭りに見られるわけです。これは昔からある、イスラエルに向かう巡礼者の祭りを模したものだといえるでしょう。
      イスラエルからインド、インドから日本という秦氏の足跡を考えると、祇園祭は必ずしもインドの真似ではなく、イスラエルのユダヤ人のイスラエル巡礼が反映しているといえます。
      しかし秦氏は日本化し、ユダヤ人という意識が消え、祇園祭や神社が残った。一方インドの場合、基本的にイスラエルのままの様式で今日に至るわけです。
      いずれにせよ、アジアにおける祭りの形式化、華麗な演出はユダヤ人がお金を出していたため、豊かさを基本に豪華な祭りになったと考えられるのです。

    ◉ノアの方舟と祇園祭との関係  
     また、祇園祭は『旧約聖書』の「創世記」に出てくるノアの方舟と関わりがあるという説もあります。 
     日本は四方を海に囲まれていることもあり、船は重要です。日本では移動や巡行も常に船で行われていましたが、それがノアの方舟と結び付くわけです。 「記紀」では、葦船、天鳥船、天磐船など、船が非常に重要視されていますが、その理由は、鹿島から鹿児島への天孫降臨が船団で行われたからだと私は考えています(詳しくは勉誠出版の拙著『高天原は関東にあった』を参照ください)。つまり、神は天から降りてきたのではなく、人だったということを示しています。これは関東・東北の高天原にいた東の勢力・天津神から西の勢力・国津神へと権力が移ったということです。
      そしてスサノオは高天原から追放され出雲という外界に移りますが、その移動も船で行われた可能性があります。さらに鹿島から鹿児島へ、あるいは伊勢などに行くにも船で東海を伝って、名古屋伊勢に渡っているわけです。
      ではノアの方舟はどうでしょう?「創世記」によると、神との契約を守って暮らしていたノアの一族だけが方舟に乗ることによって大洪水から救われます。さらにイスラエル人は「三種の神器」の入っている「契約の箱(アーク)」のことを「舟」と呼んでいます。したがって方舟に乗るということは、三種の神器を運ぶことでもあるわけです。
      このような洪水伝説は、イスラエルに特有なもので、日本にはありません。ですから、「船」という特徴だけが模倣され、日本の山車となっていると考えられます。神聖な祇園祭の箱状につくられた山車も、船を想定しています。
      インドやイスラエルの人たちの文化や思想をダブらせながらも、日本ではその意味がすっかり消えてしまい、形式だけが「祭り」として残ったわけです。インド経由で入ってきたイスラエルの祭りの形式である、ということを認識することで、はじめてその類似性が理解できるのです。しかし現実には、そうした背景を意識しないまま祭り(=八坂神社・祇園社に向かっての巡礼)を行っているわけです。


    ~~~~


    歴史家・林屋辰三郎は『町衆』(1964中公新書)を発表し、それが1968年の錦之助による

    巨大自主映画『祇園祭』の理論的バックボーンになった。

    マルクス主義的と言われることが多いがそれは伊藤大輔が主導した映画の方で、

    『町衆』自体はあえて言えばブローデル的なものだ。『延喜式』から東西市の主要品目を

    書き写していたりする。ここら辺の目配せが『新平家物語』冒頭を市場の俯瞰長回しから

    入らせた溝口健二と親和的だったと思う。

    (林屋の溝口健二映画参加は『山椒大夫』だけだし、そもそも公式参加ではないが

    さてここからが本題なのだが、

    前出の映画史家の京樂真帆子氏が論じているかもわからないが『もののけ姫』に『祇園祭』の

    影響が見られるというのが大方の感想になっている。

    『祇園祭』は『ホルスの大冒険』と同じ1968年に公開されており、同じ左翼的映画

    として宮崎駿が観ていないはずはないのだが誰かインタビューで聞いて欲しい。


    56 この子の名無しのお祝いに[] 2022/02/15(火) 14:16:07.16  ID:qxrRVI+f 

     映画と歴史学 ‐『山椒大夫』から『もののけ姫』へ‐ 京樂真帆子

    http://www.shc.usp.ac.jp/kyouraku/profile/thesis/movie.html

      林屋[辰三郎]の散所論は映画にどのような影響を与えたのであろうか。…

      まず、林屋論文でも指摘されているが、説経節では曖昧であった時代設定を明確にしたこと。

    安寿と厨子王の父が左遷される年を永保元年(1081)に設定した。映画においても明示はされないが、

    踏襲されているようである(3)。

      また、説経節では弟を逃がした後の安寿は山椒大夫に折檻の末殺されている。鴎外は安寿を自殺さ

    せることで、山椒大夫の搾取の強烈さをぼやかしている。この点も、映画において踏襲されている。

      そして、結末。説経節では大夫は鋸引きの刑にあった。鴎外は先述したとおり、大夫に改心をさせ

    ている。こうした変更点こそ、鴎外の「近代的・人間的立場」(4)を示すものであろう。

      さて、溝口組は鴎外の小説をもとにしながら、林屋説の影響を強く受け、数々の改変を行っている。

    注目されるのは以下の三点である。

      まず、山椒大夫が京からやってきた荘園領主の使者を迎えるシーンの挿入である(5)。右大臣家の

    使者は「御領地見回り」のためにやってきた。このように、中間搾取主体としての「山椒大夫」の在り

    方も描かれている。説経節、小説ともにこのような供応する山椒大夫の様子は描いていない。より中世

    社会の実像に迫るシーンであろう。

      次に、散所を閉鎖空間と描いたこと。説経節、鴎外の小説ともに厨子王が外部の樵と接触する部分を

    描く。厨子王は彼らから柴の刈り方を習うのであるが(6)、映画では散所は周りを柵で囲まれた閉鎖

    空間で、外部との接触は不可能である。林屋説は、その空間に入ることで隷属が始まるとするのである

    から、おそらくは閉鎖空間であることを想定しているであろう。溝口は、それを映像化したのである。

      さらに、山椒大夫の末路を破滅と描いたこと。鴎外は山椒大夫は改心し、家はますます栄えた、とし

    た。この点は、溝口が最も違和感を感じた点である。映画において、大夫は国外追放となり、さらに屋敷

    は解放された散所民たちによって略奪され、火が付けられている(7)。

      散所論ではないが、林屋は厨子王の父の設定にも言及している。当時の陸奥の状況を鑑みると、「国司

    の違格の罪にとわれたという父正氏は、律令的官人の実務者であり在地豪族の有力者ではあるが、古代

    国家の東北政策に対して反抗したことは明らかで、その点で彼は東北に於ける民衆的立場に立った人物と

    な」り、その背景に、平将門のイメージが重ねられていた、とする(8)。この点は映画において重要な

    プロットとして採用されている。「奴隷解放」の思想は(9)、父から子へと受け継がれねばならない。…

    溝口は、明らかに林屋のいうイメージを重ね合わせている。 


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    平安京 794~1869 
        INRI=INaRI 
    伏見稲荷大社の元宮(船岡山) 
            ■
    ┏━━━┳━┳━━━┳━┳━━━┓ 
    ┃   ┃ ┃ 大 ┃ ┃   ┃ 
    ┃   ┃ ┃ 内 ┃ ┃   ┃
    ┃   ┃ ┃ 裏 ┃ ┃   ┃ 
    ┣━┳━╋━┻━━━┻━╋━┳━┫ 
    ┃ ┃ ┃     神 ┃ ┃ ┃
    ┣━╋━┫  朱  泉 ┣━╋━┫ 
    ┃ ┃ ┃  雀  苑 ┃ ┃ ┃
    ┣━╋━┫  院    ┣☆╋━┫ 
    ┃ ┃ ┃   朱   ┃ ┃ ┃
    ┣━╋右┫       ┣左╋━┫ 
    ┃ ┃ ┃   雀   ┃ ┃ ┃
    ┣━╋京┫       ┣京╋━┫ 
    ┃ ┃ ┃   大   ┃ ┃ ┃
    ┣━╋━┫西市   東市┣━╋━┫ 
    ┃ ┃ ┃   路   ┃ ┃ ┃
    ┣━╋━┫       ┣━╋━┫ 
    ┃ ┃ ┃ 西寺 東寺 ┃ ┃ ┃
    ┗━┻━┻━━━ ━━━┻━┻━┛  

    2007年の書籍が2021年に文庫化

    改訂 祇園祭と戦国京都 (法蔵館文庫) 文庫 – 2021/7/9 


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      なんと稲荷=INRI説の紹介である。
      (これはネタバレだがわかる人にしかわからないので問題ないだろう。)
      著者は邪馬台国九州説なので○○○同祖論と親和性のある邪馬台国四国説についてどう思うか一度伺ってみたい。
      出雲を島根に比定しないと立場的にまずいのかもしれないが。

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