2022年5月25日水曜日

投馬國 考察 ② | コラクのブログ

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投馬國 考察 ②

 つぎに太平洋へ進路をとった場合ですが、

 B:太平洋ルートを選択した場合

 黒潮(くろしお、Kuroshio Current)は、東シナ海を北上してトカラ海峡から太平洋に入り、日本列島の南岸に沿って流れ、房総半島沖を東に流れる海流である。日本近海を流れる代表的な暖流で、日本では日本海流(にほんかいりゅう)とも呼ぶ。(wikipedia 黒潮より)

 そして世界一速い海流なのがこの黒潮海流であり、1日185km、最も早いところで200km以上も珍しくないようですが、平均すると人間の歩く速度とほぼ同じぐらいだそうです。(黒潮の流れの速さは、ほぼ人間の歩く速度に相当する

 なお、ごく平均的な人の歩く速度は時速4kmといわれています。

 帆船の無い時代に、1日の漕ぐ時間を計算するのは難しいのですが、現在の労働時間を基準に、24時間中平均して、8時間漕いで、8時間睡眠し、8時間その他の時間に費やしたと仮定します。

 そして、黒潮の影響域に入れば、1日平均17km+32km(黒潮海流ボーナス)=49km/日進むことになります。

 前回ご紹介させて頂きました、四国山上説の大杉博氏の投馬國の比定地を高知県宿毛市であったとする考察をもう一度見直して、黒潮海流に乗るまでと乗った後でどのような距離の変化が出るか再計算してみます。

 高知県の幡多郡大月町辺りから黒潮に乗ったと仮定した場合、

 不彌國からこの地点に至るまでがおよそ275km。

 海上から邪馬臺国に至るとされる場所が徳島市吉野川河口域だっと仮定すれば、その総距離は614km程となり、大月町からは残り339kmとなります。

 また、高知県と徳島県との県境付近で黒潮から外れ、海流による影響が減少するということも加味しなければなりません。

 瀬戸内海ルートでの平均航行速度の限界値である17km/日を基準速度として、不彌國を出発してから黒潮の影響が発生する大月町まではおよそ16日目となり、残りの4日間を黒潮に乗って移動し、投馬國へ至ったと仮定します。

 この場合、黒潮海流の速度の利点を生かし、一気に進んだ可能性も考慮します。

 そうすると、足摺岬辺りから一気に室戸岬を目指した場合に、

 (16日×17km=272km)+(4日×49km=196km)=468km=投馬國の場所となり、徳島県海部郡海陽町宍喰周辺がほぼ470kmとなり、つまり上記の平均速度であれば、この周辺までが投馬國のあった場所となります。(※黒潮の速度や実際に漕いだ時間により多少距離は前後すると思われる)

 ただし計算ですと、大杉氏の比定する投馬國が仮に高知県宿毛市にあったとした場合、大月町から4日間で室戸岬を越え、その後徳島市河口域に到達するのが残り6日を通常航行速度で移動すると(17km/日×6日=102km)となり、この地からでも日数的には丁度ギリギリ水行10日で徳島市河口付近に到達できることも可能となります。

 つまり邪馬臺国が徳島の中心地であった場合(邪馬台国徳島説)、宿毛市周辺が投馬國であっても、距離的観点からは比定地と考えることは理論上可能になります。

 次に、4日間を無難に陸地に寄り添って航行した、いわゆる立ち寄り航行をした場合、こちらの方がより現実的な航路なのですが、

 この場合、468km地点(投馬國)は、高知県安芸郡奈半利町周辺となります。

 この辺りは丁度、銅矛文化と銅鐸文化との境になっている地点です。

 このことにより、太平洋ルートにおいての投馬國の比定範囲は、高知県宿毛市~徳島県海陽町までの間に在る可能性が高いということになります。

 この範囲の中で投馬國に比定できそうなところをザックリ抜き出してみますと、

 ・高知県宿毛市~四万十市周辺:九州との交易が確認できる遺跡がある

 ・高知県四万十町周辺:銅矛の大量出土地

 ・高知県高知市周辺:この範囲内で最も人口が望める

 ・高知県安芸郡奈半利町周辺:東側の範囲内で一番人口が望める

 ・徳島県海部郡海陽町鞆浦周辺:名前の類似性

 まず、四万十市周辺の弥生遺跡として、西ノ谷遺跡、岩崎山遺跡、久山遺跡、吹越山遺跡、観音寺遺跡、佐岡遺跡、八宗田遺跡、後川橋西遺跡、走川端遺跡、山路遺跡など多数あります。

 中でも西ノ谷遺跡は、出土した弥生時代の土器に、「突帯」とよばれる刻みのついた縁取りがあるのが特徴で、同じような形の土器が大分県でも多く出土することから、当時、高知県西部と北部九州の間で交流があったことを示しています。

 この地に投馬國が存在した可能性もありそうですが、この辺は古来より幡多郡(はた)と呼ばれており(平城京木簡より「播多郡嶋田里」の存在が確認)、地名の類似性などの共通点は見られません。

 次に高知県四万十町周辺

 こちらも九州からの文化を色濃く受け継いだ文化が根付いている地域。

祭器としてみこし巡行に同行する弥生時代の銅矛 (四万十町仕出原)

 銅矛の大量出土地でもあり、その数は85点にも及びます。

 高知県高岡郡四万十町の高岡神社では、弥生の銅矛が江戸時代から現在まで祭器として使われており、社宝の銅矛5本は秋季大祭のみこし巡行に同行し、魔よけの役割を果たすと考えられています。

 この辺りは高岡郡~幡多郡にあたり、残念ながら旧地名を探るのは難しいと言えるでしょう。

 フィールド的には投馬國としてのキャパシティもありそうですが、須崎市~四万十市を含めても、現代ではあまり大きな町も無く、想像が難しい地域といえます。

 次に高知市周辺は土佐市、南国市もあり、かなり広範囲に及び人々が多く住んでいます。

 また、国分川、鏡川、物部川などもあり水系も豊富、弥生時代の遺跡も多数存在します。

 中でも有名なのが、高知平野中央部に広がる田村遺跡群(物部川右岸域)があり、弥生時代の集落跡では竪穴住居跡約400棟や掘立柱建物跡も約400棟が発見され、四国でも最大級の集落であることが確認されています。

 住居跡以外にも2,000基以上の土坑や溝跡、三重の環濠や大量の土器やガラス玉、環状石斧(せきふ)を始め、銅鏡片、神殿らしい建物が描かれた土器、人面獣身の土偶などが出土。

 北部九州より古い弥生土器もあるとされ、早くから発展したとの見解も出されているそうです。

 また、集落の北辺部では埋納された銅矛も出土しています。

 非常に面白いのは、調査により、紀元前1世紀にピークを迎え、紀元2世紀頃に急激に減少していること。

 すなわち、魏志倭人伝に書かれている倭国の大乱の時代(桓帝と霊帝の間(146-189年))と重なるように、集落は縮小に向かっているという事実です。

 ◆田村遺跡群(高知県南国市)

 倭国大乱後に急速に衰退した地であることが調査により確認されていますので、その後すぐに投馬國の人口を示す5万戸が存在したというのは考えにくく、この地を比定地として考えるのは難しいと言えるでしょう。

 次に、奈半利町周辺は、田野町、安田町、北川村からなり、水耕できる奈半利川と安田川もあるため、ある程度の人々が生活するのにはそれほど問題ではありませんが、5万戸となると厳しいといえるでしょう。

 ただし、西隣の安芸市や芸西村辺りまで国土の範囲を広げて考えますと、十分にフィールドをカバーできるといえます。

 この奈半利町には、コゴロク遺跡があり、弥生時代の土器、須恵器、土師器の他、石製品や掘立柱建物跡などが見つかっていますが、周辺に大きな遺構などがあった形跡等はなく、その点から考察するとやはり難しいと言わざるを得ません。

 ◆高知県内から出土した青銅器分布図

 ◆高知県内の古墳分布図

 最後の徳島県最南端の海陽町周辺ですが、水耕するのに海部川、母川、浅川、宍喰川等があり、その河口域は大きな平野部になっていて、発展できる条件を満たせます。

 この海陽町なのですが、徳島県では海神の陵とされる地で、旧海部町側にある芝遺跡には、円形周溝墓が発見されており、(県下では三好郡東みよし町昼間遺跡(吉野川流域県西部)、名東町名東遺跡(吉野川流域県東部)からも円形周溝墓が発見されている)弥生中期中頃~中期後半のものとされ、周辺遺跡からあまり見られない特異な存在とされています。

 また、近年の調査により、鍛冶を行っていたとされる炉跡からは、小破片を含む鉄製品、サヌカイト片、朱付着石杵も発見されており、県南では最も古い鉄器を出土した遺構であり、張り出し部を有する竪穴住居の形から、鮎喰川流域との交流による技術伝播があったと確認されています。  

 更に県外産土器の出土数は、徳島県で最多であり、発見された吉野川下流域土器は、東阿波型土器、(明赤褐色系胎土に結晶片岩粗粒を含む鮎喰川下流域に製作拠点を持つ)畿内型土器は、甕を中心に出土、庄内形甕は少量で主体は布留形甕であり、器壁が非常に薄く焼成がよい。
 更に讃岐の土器(下川津B類土器)・吉備型甕・土佐の土器(ヒビノキ式土器)が共伴しており、各地の土器が搬入される弥生時代終末期~古墳時代初め頃には四国南部から東四国、更に海を渡り岡山県~畿内域との交流があったことを示します。

 このことからも、この地が物資が集まる地であり、また他の地へと経由する港の国であった特性を示しているとしています。  

 そして芝遺跡から約200m程しか離れていない寺山古墳群1号墳出土の破鏡(内行花文鏡)や3号墳出土土器片を総合的に考察した結果、従来の古墳時代前期前半より弥生時代終末期~古墳時代初め頃に築造された墳丘墓であるとしています。(菅原康夫氏)

 現時点で、寺山の首長は、鮎喰川下流域(吉野川河口近くの県東部)の集団と密接に関わる海人の長の可能性があり、徳島県最南の海部の地には、弥生時代にすでに東四国と瀬戸内、畿内とを結ぶ一大港国であったと考えられ、最新の優れた技術を有する先進集団が居たことを意味すると同時に、同海域の航路を確保していたことを意味しています。  

 そしてこの地の港が、徳島県海部郡海陽町鞆浦(ともうら)にあり、合併前の旧海部町から旧宍喰町に跨ぐように那佐湾が存在します。

 『阿波国風土記』

  奈佐浦 (萬葉集註釋 卷第三)

 「阿波の國の風土記に云はく、奈佐の浦。奈佐と云ふ由は、其の浦の波の音、止む時なし。依りて奈佐と云ふ。海部(あま)は波をば奈と云ふ。」

 同卷第三 アマノモト山 もそうですが、そのまま読んで意味するのではなく、これは暗示であり、その意味は、奈佐には絶え間なく人々が海を渡って交易で往来する様を波音に例えて記しているようにも見えます。

 この地には、式内社 和奈佐意富曽神社(わなさおおそ)があり、日本三祇園に数える宍喰八坂神社も鎮座します。

 また、更に、 

 『播磨国風土記』

 美囊(みなぎ)の郡・志深(しじみ)の里の条

 「美嚢郡 所以号美嚢者 昔大兄伊射報和気命堺国之時 到志深里許曾社勅云此土水流甚美哉故号美嚢郡 志深里(土中中)所以号志深者伊射報和気命御食於此井之時 信深貝遊上於御飯筥縁爾時勅云、此貝者於阿波国和那散我所食之時貝哉故号志深里 於奚袁奚天皇等所以坐於土者」

 「伊射報和気命(履中天皇)が、「この土地は水流(みながれ)が大変美しいなあ」とおっしゃいました。そこで、ミナギの郡という名がつきました。履中天皇が、ここの井戸のそばで食事をなさったとき、シジミ貝が弁当の箱のふちに遊び上がりました。そのとき、天皇が「この貝は、阿波の国の和那散で私が食べた貝だなあ」とおっしゃいました。そこで、シジミの里と名づけました。」

 この地が往古より和那散と呼ばれていたことが他国の風土記からも確認されます。

 この第17代履中天皇がしじみを食べた地が、宍喰(ししくい)であり、旧宍喰町大那佐であったと推定されます。

 話を元に戻しまして、この那佐湾のある鞆浦周辺から徳島市吉野川河口域まではおよそ94kmとなり、これまでの航行速度からすれば約6日間程で到着できる距離となります。

 確かにここからであれば、陸行もでき、ひと月もあれば徳島県の中心部への移動も可能です。

 魏使の記載に「其山有丹」や「桃支」、などの記載もあり、弥生時代に丹を産した唯一確認ができる場所が阿南市水井町にある若杉山遺跡(太龍寺山北部)であり、また、桃支がミヤマクマザサ(剣山周辺に分布)であったとするならば、この地からは水行と陸行の二手に分かれて、一方は山系へ向かって、記載にある地を巡った可能性も浮上するでしょう。

 この地を皮切りに高知県安芸郡~徳島県小松島市(もしくは鳴門市辺りまで)一帯が投馬國と呼ばれていたとすれば、5万戸も十分にフォローができます。

 徳島県海岸沿いの縦長になる東部地域一帯はいわゆる旧国でいう「長國」にあたる場所になります。

 長國についてはここでは詳しく書きませんが、少しだけ書きますと、長の国造の祖神は観松比古命で、延喜式神名帳にある名方郡佐那河内村に御間都比古神社が鎮座します。

 御祭神の御間都比古色止命とは、和風諡号が「観松彦香殖稲尊」とあるように欠史八代とされる第五代孝昭天皇(こうしょうてんのう)のことです。

 『先代旧事本紀』(国造本紀)には、「長国造志賀高穴穂朝御世以観松彦伊呂止命九世孫諱背足尼定賜国造」とあり、観松彦伊呂止命つまり「孝昭天皇」の九世孫にあたる「韓背足尼」(からせのすくね)が長国の国造(くにのみやつこ)になったとあります。

 話をまた戻しまして、(笑)

 先日、徳島新聞に掲載された「阿波の民話」の中で面白い記事を目にしました。

 美波町の「三岐田町郷土読本」より

 「三合山」

 東由岐東地にそびえとる山を三合山っていう。

 昔、大津波があってこの山の七合目まで水に浸かった。残ったんが三合分しかなかったんで、この山を三合山って言うようになったそうな。

 木岐のトマ越えは大昔、大津波があった時、船のトマ(トモ)がここへ掛かっとったんでトマ越えって言うようになった。西由岐の舟木谷は大津波で船がここまで流されてきて引っ掛かったそうな。

 これは阿波の方言で、(とも)のことを(とま)と発音するということ。

 海陽町では鞆浦のことを今も通称である鞆(とも)と呼んでいます。

 ちなみに「木岐のトマ越え」に出てくる東由岐、木岐も海陽町と同じ海部郡です。

 この鞆がいにしえの投馬國(の港)であった可能性も十分に考えられます。

 先に記した通りに、この国は縦に長い國であったので、その中で魏使が立ち寄った港町が"鞆"(とま)だったのかも知れません。

 ここまでは航行速度と日数を併せて、様々な考察を致しましたが、そもそも紀貫之の土佐日記などにも書かれているように、実際は、天候不良等により航行不能で港に留まった日もたくさんあったはずです。

 魏志倭人伝に書かれている「水行二十日、水行十日」などの日数は、不彌國~邪馬臺国までに実際に水行で航行できた日数を記したと考える方が妥当です。

 なぜならば、荒天時航行不能であった日が数日もあったとするなら、魏志倭人伝が示している場所を後世の者が読解しても全く指し示す場所が分からなくなってしまうからです。

 現に土佐日記では、高知県南国市周辺から大阪府大阪市難波まで47日間も要しているのに対し、実際に航海できた日数はそのうちの10日程度です。

 ちなみに随時陸地に寄り添って立ち寄り航行した場合の総距離と進行距離

 ・瀬戸内海ルート:不彌國→大阪府難波 約547km 18.2km/日

 ・瀬戸内海ルート:不彌國→徳島県吉野川河口 約512km 17km/日

 ・太平洋ルート:不彌國→徳島県吉野川河口 約640km 21.3km/日(※黒潮未考)

 ・参考例:紀貫之による土佐日記での航行速度 28.2km/日(※帆船利用&冬の航行)

 邪馬臺国徳島説においても他にも様々な見解があると思われますが、私の考察した2つのルートで挙げた比定場所以外にもまだまだ有力な候補地が存在するかもしれません。

 今回は徳島県に邪馬臺国があったとした場合の投馬國の比定場所考察でしたが、みなさんは投馬國へ至るルートは瀬戸内側、太平洋側のどちらを選択されますか?



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