2022年5月30日月曜日

邪馬台国宮崎説 日高祥氏リポート「笠置山墳丘墓」(前) - 改めて魏志倭人伝を読み解く ー 有象無象の珍説奇説を木っ端微塵に蹴散らす(幸田 蒼之助) - カクヨム

日高祥氏リポート「笠置山墳丘墓」(前) - 改めて魏志倭人伝を読み解く ー 有象無象の珍説奇説を木っ端微塵に蹴散らす(幸田 蒼之助) - カクヨム


邪馬台国宮崎説と言えば以下を検証していただきたい。
【ゆっくり解説】卑弥呼の墓と神武東征の地 古代都市伝説


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【ゆっくり解説】邪馬台国シリーズついに完結!? 邪馬台国の場所はズバリここだっ!


日高祥氏リポート「笠置山墳丘墓」

日高祥氏リポート「笠置山墳丘墓」(前) - 改めて魏志倭人伝を読み解く ー 有象無象の珍説奇説を木っ端微塵に蹴散らす(幸田 蒼之助) - カクヨム

 というわけで、いよいよ本丸の「笠置山墳丘墓」を紹介致します。これは学術的な名称ではなく、これまで何度か触れましたアマチュア研究家・日高祥氏が便宜上名付けたものです。

 以下、既に版の絶えている氏の貴重な著書「史上最大級の遺跡 ー 日向神話再発見の目録」を紐解きます。

 宮崎市は、その真ん中を九州第2位の一級河川・大淀川が西から東へと流れ、日向灘に注ぎます。大淀川によって、市が南北に分断されています。

 生目古墳群は大淀川南岸にありますが、笠置山墳丘墓は概ねその対岸……大淀川北岸にあります。

 氏曰く、笠置山墳丘墓周辺では(打製)石鏃が大量に見つかっているそうです。一方南岸の生目古墳群付近ではそれがほぼ見当たらないのだとか。なので氏は、

「まず大淀川北岸の方が栄え、その後都市の中心が南岸の方へ移ったのだろう」

 と述べています。北岸は石鏃の時代、及び鉄族に切り替わる頃まで栄えた。その後に南岸が栄えたため、南岸では石鏃が見つからない……ということでしょう。

 確かに氏の著書を読む限りでは、笠置山墳丘墓周辺で出土する土器は弥生時代の物ばかりで、埴輪等は見つかっていないようです。これもまた、氏の推測を裏付けていると思います。

 ちなみに墳丘墓から東に800m足らずの位置に、磐戸神社があります。非常に歴史の長い神社です。その御神体(原文ママ)は前漢鏡だとか。

 卑弥呼が魏朝から貰ったのは前漢鏡だという説もあり、卑弥呼との関連を匂わせます。かつ、その境域にはウガヤフキアエズの吾平山陵があるそうです。

 また墳丘墓の北1km強の位置には、その父・ホオリ(山幸彦)を祀る高屋山上陵があります。墳丘墓から大淀川下流方向に沿って古墳だらけで、中には100m超の前方後円墳(下北方13号墳)も存在します。

 その延長線上にあるのが、神武天皇が即位前に造宮した地と言われている、宮崎神宮です。なお宮崎神宮の本殿背後にも、墳墓長80m近い前方後円墳があります。

 ついでに言えば、そこから大淀川河口方面に向かうと、九州初の木槨発見ということで知られる檍古墳(1号墳)が存在します。これは全長52mの前方後円墳(バチ型)です。前節で述べたように、木槨のサイズから生目1号墳との関連が伺われます。

 調査を行った宮崎大学名誉教授・柳沢一男氏は、木槨から三世紀後半築造と推定し報告しています。ですが現在、この檍1号墳は何故か「4世紀前葉築造」とされています。

 これはどういうことでしょうか。前節にて述べたような、ある人々によるある種の思惑が働いているのではないでしょうか。

 ネット上には詳細な報告書も見当たらず、そもそもそれ以前に調査説明会も開催されないまま埋め戻された……という点も、少々気になるところです。

 話を戻します。日高氏によると、当地には記紀神話に登場する数々の伝承と同じものが、多数存在するそうです。

 例えば前述の磐戸神社はアマテラスが御祭神で、磐戸隠れの伝説がそのまま残っているのだとか。また墳丘墓南側の八坂神社……別名八竜神社には、正にヤマタノオロチ伝説そのものがあるそうです。

 周辺の地名もまた興味深く、笠置(読みは「かさご」ですが)をはじめ、瓜生野や五十鈴(川)など関西とも共通する古地名が幾つもあるのだとか。氏の研究によると、昔は土地の人々が何らかの事情でゴッソリ他の地へ集団移住した際、新天地に旧地名を付ける慣わしがあったようです。

 それらの事実から、大淀川北岸には太古より強大な勢力が存在し、かつ伝説通り神武東征を果たした事が想像可能です。しかも記紀神話の数々の逸話は、宮崎がオリジナルなのかもしれません。

 また幸田がこれまで述べてきたように、東征の残存勢力がその後も当地にて栄え続け、笠置山墳丘墓を築造したのでしょう。さらには何らかの事情で、その後都市が大淀川南岸へと移転した。が、それも古墳時代中期以降、真北へ19km離れた西都原(西都市)の地へと再移転したのでしょう。

 幸田の主張する「本家ヤマト」「畿内ヤマト」という歴史観は、そういった考古学的成果に基づきます。

 紀元前1世紀の神武東征によって、日向国が空っぽになったわけではありません。それが本家ヤマトであり、卑弥呼邪馬台国なのです。それを裏付けるのが、他ならぬ笠置山墳丘墓であり、生目古墳群をはじめとするその周辺の遺跡群なのです。そして膨大なたたら製鉄炉なのです。

 卑弥呼後・・・・の本家ヤマトも、全盛期程ではないにしても、依然強大な勢力を保持していた。それを裏付けるのが生目古墳群の存在であり、西都原古墳群から出土した広域の産物なのです。

 さて、その笠置山墳丘墓。――

 実は日高氏の発見ではなく、大正時代に見つかっていたといいます。氏のお兄さん曰く、

「親父が学校の先生を案内したことがあるそうだ。既に大正時代の末に、文化財に指定されている」

 だとか。

 ですが、どういうわけかそれが保護されず、どんどん破壊されたわけです。1996年の事です。

 氏は慌てて、県や市の関係部署に連絡し、調査を依頼します。

 しかし待てど暮らせど調査に来ないため、やむなく工事関係者の同意を得つつ、工事の傍らでご自身が独力の調査を試みます。結果、後円部径72.1m、前方部長72.4m。墳墓長145.5mの堂々たるバチ型墳丘墓である事が判明するのです。正に魏志倭人伝の記述「径百余歩」ドンピシャです。


日高祥氏リポート「笠置山墳丘墓」(後) - 改めて魏志倭人伝を読み解く ー 有象無象の珍説奇説を木っ端微塵に蹴散らす(幸田 蒼之助) - カクヨム

 日高氏の調査によれば、笠置山墳丘墓は地山整形(元々存在する小山を削って整形)による築造で、著書記述から想像するに前方部より後円部の方が低いようです。これも前節にて述べた、生目1号墳他との類似性が気になります。

 さらには、生目1号墳の後円部径が74mですから、明らかに笠置山墳丘墓を意識して築造されています。氏曰く、両者は相似型だそうです。

 ちなみに、興味深いのはその周溝(V字溝)です。

 例えば応神陵や仁徳陵を見て下さい。古墳の外形をそのままなぞるように、周溝が巡っています。ですがこの笠置山墳丘墓は周溝が横に大きく張り出していて、墳丘墓のみを囲んでいるわけではないのです。

 後円部の上側(つまり北側)には、南北33.6m、東西42mの楕円形円墳があり、また左側(西側)の広大なエリアが墳丘墓と一体となって・・・・・・・・・・周溝に囲まれているらしいのです。

 その左側エリアにあるのが、建物、及び100を超える土壙墓。そして何と、膨大な数のたたら製鉄炉。つまりこの墳丘墓は、単なる墳丘墓ではなく、

 ――上空から見ると羽根を広げた鳥型をした、葬祭複合体コンプレックスだ。

 というのです。

 如何でしょうか。こんな墳丘墓や古墳が、他に存在するでしょうか。

 何故、前方後円墳はあんな形をしているのか。どんなコンセプトがあるのか。――

 つまりそもそも、太古より鳥信仰(鶏はアマテラスの神使)があるのです。だから鳥型をコンセプトに葬祭コンプレックスが築造された。前方後円墳のあの形状は、その名残りではないか……というのが日高氏の推察です。

 なお、そのせいなのかは不明ですが、当地の旧名は「瓜生野かしわ田」です。地名にまで鳥信仰の痕跡らしきものが見え隠れします。

 また「径百余歩」のみならず、土壙墓100強というのも、魏志倭人伝の記述「徇葬者は奴婢百余人」に合致します。

 それらを以って拙速に、

「卑弥呼の墓だ」

 と断定する気はありませんが、ただし記述通りの墳丘墓が存在するのはまぎれもない事実なのです。即ちこれこそが、邪馬台国宮崎説の極めて有力な物的根拠だと言えるでしょう。

 幸田が氏の著書に目を通した限りでは、笠置山墳丘墓に槨構造が存在したかどうかは書かれていません。氏も確認出来ないうちに、破壊されてしまったのでしょうか。

 ですが前述の通り、膨大な出土品の記録は弥生時代の遺物ばかりで、古墳時代の遺物の記録がありません。ですのでやはり、古墳ではなく墳丘墓ではないかと考えられます。実際、専門家の出土品鑑定によれば2世紀後半から3世紀中頃の物だそうですから、正に卑弥呼邪馬台国の時代に合致します。

 この笠置山墳丘墓こそが、新たな古墳時代の幕開けを促し、前方後円墳全盛へと誘ったではないでしょうか。

 ついでにもう一つ興味深いのは、弥生期既に、宮崎で大々的に製鉄が行われていた事です。

 氏が膨大な数の、たたら製鉄炉跡や炉片を発見しています。膨大な数の鉄滓や、金床石等も採集しています。土壙墓からは副葬品らしき鉄剣も多数見つかっているそうです。

 葬祭コンプレックスの建物跡の柱穴から、庄内式土器片と鉄滓が出土したり、周辺の複数の弥生遺跡でも大量の鉄滓が出土していることから、古代宮崎においては極めて早くから製鉄が行われていた事は明白です。

 北部九州の学者先生方は、

「3世紀にはまだ、国内に製鉄技術は存在しない。出土した3世紀の鉄器類は全て、大陸や半島からの輸入品だ」

 とおっしゃっていますが、宮崎には既に製鉄技術が存在したのです。宮崎の製鉄は北部九州から伝わった、という説もまた、疑わしいのです。

 幸田の邪馬台国宮崎説では、北部九州は2世紀終盤、宮崎を出た崇神天皇により平定されたと考えます。実際北部九州では、2世紀末頃に多くの集落の環濠が埋め立てられています。これはそれらの地が、他勢力により征服された事実を裏付けます。

 これぞ魏志倭人伝の、

「倭国は乱れ、相攻伐すること歴年」

 です。つまり卑弥呼の指示で崇神天皇が北部九州平定に乗り出し、製鉄技術もその際北部九州に伝わったのかもしれません。

 話を戻します。

 日高氏が再三にわたって、県や市へ調査を訴えたにもかかわらず、結局笠置山墳丘墓は破壊されました。

 何故かまともに取り合って貰えなかった事が、著書記述から読み取れます。氏が著書中で「先生(専門家)」と呼ぶ方にも助けを求めたり、はては藁にもすがる思いで(吉野ヶ里遺跡のある)佐賀県教委にまで窮状を訴えたそうですが、全くダメ。

 不可解な事に、一度は調査が実施され(後円部上側にある、楕円形の円墳の方か)、試掘の結果、石棺が発見されたそうです。

「これで本格調査が始まる筈」

 と先生(専門家)に教えられてホッとしていたところ、数日後に工事が再開され全て破壊されたのだとか。

 他にも、日高氏は郡司分古墳群について触れています。うち1つは110mもある柄鏡式――つまり墳丘墓もしくは前期型前方後円墳――らしいのですが、これまた氏の目の前で破壊されたそうです。県の前方後円墳一覧にも載っていないため、おそらく未調査でしょう。

 また、同じく柄鏡式120mの小松谷古墳も未調査のまま破壊されているそうで、宮崎県は一体何を考えているのかと悲しくなります。

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