秦氏
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秦氏 | |
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氏神とする木嶋坐天照御魂神社 (京都府京都市) | |
氏姓 | 秦公 秦造 秦忌寸 |
氏祖 | 称・弓月君 (称・秦の始皇帝後裔) |
種別 | 諸蕃 |
本貫 | 豊前国 出雲国 伊予国 阿波国 吉備国 針間国 山背国葛野郡 山背国紀伊郡 大和国 河内国讃良郡 丹波国桑田郡 美濃国加茂郡 相模国大住郡など |
著名な人物 | 秦河勝 |
後裔 | 惟宗朝臣 東儀家(地下家) 小畑家(地下家) 瀬尾家(地下家) 土山家(地下家) 三上家(地下家) 調子家(地下家) 藤木家(地下家) 松室家(地下家) 平田家(地下家) 石川家(地下家) 大石家(地下家) 松尾家(社家) 東家(社家) 南家(社家) 西大路家(社家) 大西家(社家) 羽倉家(社家) 荷田家(社家) 川勝氏(武家) 大蔵氏(武家) 松下氏(武家) 島津氏(武家)など |
凡例 / Category:氏 |
秦氏(はたうじ・はたし)は、「秦」を氏の名とする氏族。東漢氏などと並び有力な帰化氏族である[1]。
歴史
『日本書紀』で応神天皇14年(283年)に百済より百二十県の人を率いて帰化したと記される弓月君[2]を秦氏の祖とする[3]。平安時代初期の815年に編纂された『新撰姓氏録』によれば「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の記載があるが[4]、その真実性には疑問が呈せられており[5]、その出自は明らかではなく、これは秦氏自らが、権威を高めるために、王朝の名を借りたというのが定説になっている[6]。「弓月」の朝鮮語の音訓と訓読み(クンダル)が「百済」の和訓である「くだら」とほぼ同音であることから百済の系統とする説などがある[7]。
葛城襲津彦の支援によって日本へ渡ると、葛城氏の本拠地である葛城に住んだとされる[8]。ただし、豊前国に入り、その後は中央政権へ進出していったとする説も存在する[要出典]。大和国のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)、摂津国豊嶋郡、針間国(現在の兵庫県)、阿波国、伊予国など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。
丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)では湿地帯の開拓などを行った。雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が秦氏の伴造として各地の秦部・秦人の統率者となり、公の姓を与えられた[9]。欽明天皇の時代には紀郡深草里の秦大津父(おおつち)が伴造となって、大蔵掾(おおくらのふびと)に任ぜられたという。また、これ以降秦氏の氏人は造姓を称したが、一部は後世まで公姓を称した[10]。
秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦とされており、山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した。山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる[11]。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国では創建が最古の神社となっており、秦氏の末裔はこれらの社家となったとの説もある。推古天皇30年には当時の中心的人物であった秦河勝が広隆寺を建立している。
河内国讃良郡にも「太秦」の地名が存在する(上述した寝屋川市の町丁)。河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5世紀から6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土している(太秦古墳群)。秦氏が現在の淀川の治水工事として茨田堤を築堤する際に協力したとされ、現在の熱田神社(大阪府寝屋川市)が広隆寺に記録が残る河内秦寺(廃寺)の跡だったとした調査結果がある[要出典]。
雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が秦氏の伴造として各地の秦部・秦人の統率者となり、公の姓を与えられた[9]。欽明天皇の時代には紀郡深草里の秦大津父(おおつち)が伴造となって、大蔵掾(おおくらのふびと)に任ぜられたという。また、これ以降秦氏の氏人は造姓を称したが、一部は後世まで公姓を称した[10]。
秦大津父は夢の中で狼を助け、それにより伴造となったが、この夢は、間接的に、狼=神が欽明天皇の即位を望んでいた(欽明の天皇即位の正統性を強調している)こと、欽明天皇の即位に秦氏の影があったことを表してると考えられる[12]。
「深草秦氏」と「葛野秦氏」は、ほぼ同時期の6世紀に葛城から移住しており、まず肥沃な深草を拠点とした秦大津父が秦氏の族長となり、葛野の開発によって葛野秦氏が台頭し、族長の座が秦河勝の手に移ったと考えられる[12]。そして、秦氏の族長は、『日本書紀』に「秦大津父が欽明天皇に『秦伴造』に任命された」という記事があるように、王権によって決められており、秦河勝や、太秦公の姓を賜った秦島麻呂も同じであった[12]。
秦氏は上宮王家が親密であったが、それはあくまで職務上のことであり、私的に臣従していたわけではなく、非政治的な一族であった。そのため、上宮王家が滅んだ後も秦氏が没落することはなく、蘇我氏と結びついて天武天皇に直接批判された東漢氏とは対象的である[12]。
天智天皇は秦氏による山背国(山城国)への開拓(遷都)を進めていたが未開のままとなる。天応元年の桓武天皇即位により再び開拓がなされ、延暦3年(784年)に長岡京を造営する。延暦13年(794年)には和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの提言もあり、平安京への遷都となった。
後に東国にも多く入ってきたとされ、秦氏は相模国(秦野市)周辺地域に居住したとされる。東京都内では現在の杉並区久我山が拠点であったとされており、井の頭池より現在の玉川上水流域の北沢分水上堀、江下山堀を通る用水路を開削したと記されている(久我山の下流水域には八幡山や幡ヶ谷などの地名が残されている)。
出自
『新撰姓氏録』によれば、応神14年(283年)に百済から日本に帰化した氏族であり、秦の始皇帝の末裔だと主張する百済人弓月君(融通王)が中心的人物とされる[13][14]。
- 新羅系渡来氏族。聖徳太子に仕えた秦河勝は新羅仏教系統を信奉していた[要出典]が、これは蘇我氏と漢氏が百済仏教を信奉していたのと対照的である。また、方位では東南東を意味する"辰"の辰韓は中国王朝からは秦韓と呼ばれたことから秦の末裔ではないかと思われたこと。平野邦雄よると秦国の徐福が海外に派遣されたことは当時の中国王朝の文献によく言及されるほど有名な物語であって、徐福は実際に海外にはたどり着けなかったものの、物語が誤伝され辰韓は発音が似た秦韓に間違えて呼ばわれていたという[15](平野邦雄・直木孝次郎・上田正昭)[16][17][18]。
- 百済系渡来氏族。「弓月」の朝鮮語の音訓が、百済の和訓である「くだら」と同音・同義であることから、「弓月君」=「百済君」と解釈できる。また『日本書紀』における弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの所伝もこの説を補強する。また、ハタ(古くはハダ)という読みについては朝鮮語のパダ(海)によるとする説のほか、機織や、新羅の波旦という地名と結び付ける説[19]。佐伯有清によると秦の始皇帝の苗字は秦氏ではなく、新羅系渡来氏族が渡来したが『新撰姓氏録』が書かれた815年、古書には辰韓が中国王朝から秦韓と呼ばれていたことから弓月君は秦の始皇帝の末裔と思われ出自が間違っている。(笠井倭人・佐伯有清)[20][21]。
- 中国の西に位置する天山山脈の麓にあった弓月国を源とした一族が建国した秦韓(辰韓)を構成した国王の子孫。新羅の台頭によりその国が滅亡した際に、王であった弓月君が日本に帰化した(太田亮)[22]。
- 五胡十六国時代の中国で羌族が興した後秦に由来する。また、羌族がチベット・ビルマ語派に属するチベット系民族であって、同言語においてハタは辺鄙の土地、ウズは第一、キは長官を意味することから、ハタのウズキとは「地方を統治する第一の長官」を意味するとの説がある。同様に、マは助詞「の」、サは都を意味することから、ウズマサは「第一の都市」を指す(田辺尚雄)[23][24]。
- 『隋書』には、風俗が華夏(中国)と同じである秦王国なる土地が日本にあったことが紹介されている[25]。
景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人が祖であるとする説(日ユ同祖論)が佐伯好郎によって提唱された[26]が、「秦氏=ユダヤ人景教徒」説は、殆どが語呂合わせであり[27]、説が発表された当時から現代まで一貫して否定され続けている上に、佐伯は晩年に、弟子の服部之総の「先生はどんな動機から景教碑文研究をはじめられたのでしょうか?」という質問に対し、「ユダヤ資本を日本に導入する志をたてて、そのために打った第一手が大秦氏=猶太(ユダヤ)人の着想であった」と語り、服部を仰天させている[28]。
概要
日本人のルーツとしての多くは大陸と朝鮮から渡って来たとされ、ヤマト王権成立後に同化が進んだ。渡来系氏族は歴史用語として、3世紀から7世紀にかけて大陸より帰化した秦氏などの有力氏族を指すものだとされる。(現在の日本政府ではアイヌのみを日本の先住民族としている)。
秦氏一族は八幡神社や稲荷神社などを創祀したことでも知られており、蚕や絹などによる織物、土木技術、砂鉄や銅等の採鉱及び精錬、薬草なども広めた。
奈良時代の戸籍・半布里戸籍に秦氏の記述が残されてある(富加町)。
天武天皇14年(685年)の八色の姓では忌寸の姓を賜与されるが、忌寸のほかに公・宿禰などを称する家系があった。
平安仏教を代表する最澄と空海も、八幡神や秦氏とは縁が深かったとされている。
平安遷都に際しては、葛野郡の秦氏の財力・技術力が重要だったとある。平安時代には多くが惟宗氏を称するようになったが、秦氏を名乗る家系(楽家の東儀家など)も多く残った。東家、南家などは松尾大社の社家に、荷田家、西大路家、大西家、森家などは伏見稲荷大社の社家となった。なお、中世になり社家を継いだ羽倉家については、南北朝の混乱時に荷田氏を仮冒したことが疑われている[29]。
秦氏の系統(一覧)
- 豊前秦氏 - 正倉院文書によると豊前国の戸籍には加自久也里、塔里(共に上三毛郡=現在の築上群)、丁里(仲津郡=現在の福岡県行橋市・京都群みやこ町付近)[30]の秦部[31][32]や氏名が横溢している。
- 葛野秦氏 - 拠点は山城国葛野郡太秦。長岡京、平安京の遷都にも深く携わったとされる。弓月君一族の秦酒公、秦河勝、秦忌寸足長(長岡京造営長官)、太秦公忌寸宅守など。
- 深草秦氏 - 拠点は山城国紀伊郡深草。秦大津父(おおつち)など。大蔵の財政官人を務める。
- 播磨秦氏 - 拠点は播磨国赤穂郡。平城宮出土木簡に書き残されている。風姿花伝によると秦河勝はこの地域に移住したとされる。
- 近江依知秦氏 - 依知や近江など琵琶湖周辺が拠点。楽師なども多く輩出。太秦嶋麿、楽家として栄えた東儀、林、岡、薗家など。現在の宮内庁楽部にもその子孫が在籍する。
- 若狭秦氏 - 若狭国は現在の福井県。塩や海産物を朝廷に多く献上した地。
- 越前秦氏 - 坂井、丹生、足羽の越前北部を基盤とした。
- 東国秦氏 - 駿河国、甲斐国、相模国秦野など東日本の秦氏をまとめた名称。(東海秦氏と記述されている場合もある。)
- 信濃秦氏 - 信濃国の国司などを務め、更級郡を拠点としたとされる[注釈 1]。
(主なものを掲載。年代や書物などにより名称が異なる場合がある。)
秦人と秦人部、秦部
秦氏には秦人、秦人部、秦部という部民が存在したが、その分類方法は以下の通りであったとされる[33]。
- 秦人 - 弓月君と共に朝鮮からやってきて、既に養蚕機織技術などを身につけていた渡来人集団
- 秦人部 - 秦人の後に秦氏の傘下に降った倭人
- 秦部 - 秦人部の中でも、元々畿内や西国の豪族に支配されていたものの、国造制やミヤケ制の進展によって秦氏に管轄されるようになった集団
そして、彼らを在地で管理したのが勝姓や秦氏であった。
構図としては、まずミツキを作る秦人、農作をする秦人部や秦部がおり、在地の勝姓が彼らを統率していたとされる。そして、勝姓は在地の秦氏によって管理され、在地の秦氏は都までミツキを送り、中央の豪族であった秦氏がクラに納めていたと考えられる[34]。
秦氏が創建に関係した主な神社・寺院
- 八幡神
- 松尾大社
- 伏見稲荷大社
- 木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)
- 大酒神社 - 京都府京都市右京区にあり、秦始皇帝、弓月君、秦酒公を祀る。
- 大避神社 - 兵庫県赤穂市坂越にあり、秦河勝を祀る。対岸の生島には秦河勝の墓がある。
- 敢国神社
- 旗宮
秦氏に関する人物
- 弓月君
- 秦大津父 - 欽明天皇に仕えた。大蔵の司。
- 秦酒公 - 秦氏の再編に貢献。廷臣として朝廷に仕えた。
- 秦河勝 - 聖徳太子のブレーンとしても知られ、太秦に蜂岡寺(広隆寺)を創建したことで知られる。村上天皇の日記には「大内裏は秦河勝の宅地跡に建っている」と記されており、平安京への遷都や造成に深く関わっていたと記紀にある。葛野秦氏の中心的人物と称される。
- 椋部秦久麻 - 天寿国繡帳(中宮寺)の製作者。
- 朴市秦造田来津 - 秦河勝の子。白村江の戦いで戦死。
- 秦吾寺 - 蘇我倉山田石川麻呂の謀反計画に連座し処刑。
- 秦伊侶具 - 伏見稲荷大社を建立。
- 上仙菩薩 - 一宮神社の社家実遠の第二子として生まれ萬願寺、善成寺などを開基した高僧。
- 弁正 - 秦牛万呂の子で、次男が秦朝元。秦朝元の娘は藤原清成の室(妻)となり、藤原種継を生んだ[36]。
- 慧達 - 法相宗の僧侶。美濃国出身で俗姓は秦氏[37]。
- 藤原葛野麻呂 - 母方の祖父が秦嶋麻呂で、秦氏は藤原北家と婚姻関係を持った[38]。
- 道昌 - 俗姓は秦氏。法輪寺を再興した僧侶で、恒貞親王に密教を教えた[39]。
- 秦造内麻呂 - 三野山にある空海の一伽藍を修復。求福教寺を建立。
- 法然 - 母が秦氏。
- 藤原為憲 - 妻が秦氏。
- 二階堂行政 - 妻が秦氏(熱田神宮の巫女)。
- 秦公春
- 秦助正
正倉院文書に記述されている秦氏[40]
- 秦秋庭(秦常秋庭)
- 秦乳主(秦忌寸乳主)
- 秦東人(秦前東人 - 「少初位上 秦前東人」)
- 秦家主(秦部家主 - 「大初位下 秦部家主[31][32]」) - 秦家主(はたのやかぬし)は、746年(天平18年)から771年(宝亀2年)まで、造東大寺司写経所で活動したことが正倉院文書から確認されている。また、2011年から4年をかけて行われた校倉造りの宝庫「正倉」の屋根修理工事の際、正倉内に積んであった空の古櫃(こき:宝物を納めていた古い木製の箱)168合を一時移動させる必要があった。このとき「八月廿一日借用紙四枚 給秦家主」という墨書が新たに見つかっている(古櫃第二十号のふたの裏)[41]。
前賢故実に記述されている秦氏
- 秦酒公(はた の さけのきみ)-【巻第一】
- 秦河勝(はた の かわかつ)-【巻第一】
- 秦部総成女[31][32](はたべ の ふさなりのむすめ)-【巻第四】
- 秦豊永(はた の とよなが)-【巻第四】
- 秦武文(はだ の たけぶん)-【巻第九】
末裔とされる氏族
末裔・枝氏は60ほどあるとされる[42]。
- 秦首、秦公、秦人、秦子、秦冠、秦姓[43]。
- 勝氏、忌寸氏、部氏[44]。
- 朴市秦氏(えちはた) - 近江国愛知(えち)郡。
- 内蔵氏、大蔵朝臣[42](漢氏と共通)[45]。
- 朝原氏、太秦氏、長蔵氏、長田氏[42]
- 惟宗氏[42]
- 長宗我部氏 - 信濃秦氏の秦能俊が土佐国長岡郡宗部郷の地頭となったため改姓。
- 川勝氏[46][47]
- 赤松氏[48]
- 東儀家
- 松下氏 - 松下氏自体は宇多源氏(近江源氏)六角氏の末裔を自称。庶家に花井氏がある。
- 松尾氏 - 秦氏の末裔。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国でももっとも創建年代の古い神社となっている。秦氏の末裔はこれらの社家となった。
- 藤原北家 - 秦氏と藤原氏は婚姻関係を持つ[38]。
末裔を称する人物
- 長宗我部元親 - 戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。
- 島津義久 - 戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の戦国大名。島津氏第16代当主。
- 赤穂浪士 - 大石内蔵助など元赤穂藩士47人の中に播磨秦氏の末裔。
- 荷田春満
- 東儀俊美 - 雅楽師で元宮内庁首席楽長。日本芸術院会員。
- 羽田貞義 - 羽田武嗣郎 - 羽田孜 - 羽田雄一郎・羽田次郎 - 羽田家は秦氏の末裔と伝えられる[49]。
- つのだじろう - 秦氏の末裔と自称して漫画『うしろの始皇帝』を発表。
- 麻生太郎 - 第92代内閣総理大臣、自由民主党幹事長
- 安田朗 - イラストレーター、デザイナー、漫画家
参考文献
- 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年
- 平野邦雄「秦氏の研究」(『史学雑誌』第70編第3・4号、1961年、『大化前代社会組織の研究』吉川弘文館、1969年所収)
- 上田正昭『帰化人』中公新書、1965年
- 関晃『帰化人』至文堂、1966年
- 豊田武『苗字の歴史』中央公論社、1971年
- 太田亮著、丹羽基二編『新編 姓氏家系辞書』秋田書店、1974年
- 司馬遼太郎、上田正昭、金達寿編『日本の渡来文化』中央公論社〈中公文庫〉、1975年
- 直木孝次郎『古代日本と朝鮮・中国』講談社学術文庫、1988年
- 大和岩雄『秦氏の研究』大和書房、1993年
- 佐伯有清編『日本古代氏族事典』雄山閣出版、1994年
- 中村修也『秦氏とカモ氏』臨川書店、1994年
- 加藤謙吉『秦氏とその民』白水社、1998年
- 笠井倭人「朝鮮語より見た秦・漢両氏の始祖名」『古代の日朝関係と日本書紀』吉川弘文館、2000年
- 大江篤『日本古代の神と霊』臨川書店、2007年
脚注
注釈
出典
- 新撰姓氏録
- 『日本書紀』応神14年条
- 『新撰姓氏録』左京諸蕃。なお同書では弓月君を融通王とする
- 『新撰姓氏録』左京諸蕃
- 太田亮『姓氏家系大辞典』
- http://www.kyotokanko.co.jp/hata/hatashi7.html
- 笠井倭人「朝鮮語より見た秦・漢両氏の始祖名」(『考古学論考』所収)
- 加藤謙吉『秦氏とその民』(白水社、1998年)
- ^ a b 太田[1974: 1016]
- ^ a b 太田[1974: 1017]
- 稲荷神の由来となった秦伊侶具の出自について、『稲荷社神主家大西氏系図』に「秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂県主、久治良ノ末子和銅4年2月壬午、稲荷明神鎮座ノ時禰宜トナル、天平神護元年8月8日卒」とある。
- ^ a b c d 加藤謙吉 『秦氏とその民 渡来氏族の実像』(白水社 1998年)
- 『新撰姓氏録』左京諸蕃
- 上田[1965: 71]
- 上田[1965: 140]
- 平野邦雄「秦氏の研究」『史学雑誌』第70編第3・4号、1961年
- 直木[1988: 45,53]
- 上田[1965: 71-72]
- "秦氏都市史". 京都市歴史資料館情報提供システム. 2021年9月1日閲覧。none
- 笠井倭人「朝鮮語より見た秦・漢両氏の始祖名」『考古学論考』『古代の日朝関係と日本書紀』所収
- [佐伯:1994 369]
- 太田[1963: 4713-4716]
- 田辺尚雄『日本文化史体系』「奈良文化」章
- 関[1966: 96-97]
- 。 「又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也」(『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」)
- 佐伯好郎 (1908). "太秦(禹豆麻佐)を論ず". 地理歴史 百号.none
- ^ [1]
- ^ 『原敬百歳』中央公論社、1955年、25頁。
- ^ 西田長男『神道史の研究』第2巻、p86。雄山閣、1943年。
- ^ "重要文化財|豊前国仲津郡丁里大宝二年戸籍断簡|奈良国立博物館". www.narahaku.go.jp. 2020年5月2日閲覧。
- ^ a b c 「承和二年(八三五)十月丁酉《廿六》 賜讃岐国人 従六位上 秦部福依 弟福益等三烟 秦公姓 【現代語訳:讃岐国人従六位上秦部福依 弟福益ら3戸,秦公の姓を与えられる】」(『続日本後紀』巻四)
- ^ a b c 「太政官符 / 図書寮造紙手. 少初位下秦公室成 / 右検案内. 太政官 去大同三年十二月十五日 / 下 式部省 符偁. 右大臣宣. 奉勅. 造紙長上一員. 宜従 停止者. 今被右大臣宣偁. 奉勅. 前長上 秦部乙足 死去之替補 室成. 自今以後. 依旧定二員.【要約:秦公室成が、図書寮造紙長上であった秦部乙足に替わって、図書寮造紙長上に任命される】」 (『類聚三代格』:享禄本. 巻第4)
- ^ 加藤謙吉『秦氏とその民』(白水社、1998年)
- ^ 加藤謙吉『秦氏とその民』(白水社、1998年)
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- ^ 上田[1965: 20-21]
- ^ kotobank,デジタル版 日本人名大辞典+Plus。大江[2007: 222]
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- ^ 伊藤信博「桓武期の政策に関する一分析(1)」名古屋大学『言語文化論集』 v.26, n.2, 2005, 8頁
- ^ 『古語拾遺』。関[1966: 105]
- ^ 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』 続群書類従完成会、1981年、150頁
- ^ 『川勝家文書』 東京大学出版会、日本史籍協会叢書57、1984年、437 - 438頁
- ^ 太田[1963: 36]
- ^ "日前首相羽田爱穿中山装". 中国国際放送 (2007年11月20日). 2018年4月19日閲覧。
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