投馬國 考察 ①
不彌國から南に水行で二十日で至るとされる投馬國。
しかし現在もその場所が分からないために、その後の行程にある邪馬臺国の場所も結局のところ分かっておらず、双方の比定地も様々です。
しかし、魏志倭人伝にある行程・気候・地理や後漢書東夷伝に記載されている内容などの検証の結果、邪馬臺国が存在した場所が徳島県であった可能性が最も高いということになり、それでは航路を逆算すれば投馬國も見つかるのでは…と思い再考察を開始しました。
不彌國を出発し、徳島県までの航路を探ります。
まず魏志倭人伝に書かれている投馬國の部分をおさらい。
「南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。」
「南に投馬国に至るには水行二十日、官は彌彌、副は彌彌那利といい、五万余戸ほどか。」
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。」
「南に邪馬壹国の女王の都に至るには、水行十日、陸行一ト月。官には伊支馬があり、次を彌馬升といい、その次が彌馬獲支、その次が奴佳鞮という。七万余戸ほどか。」
参考までに、四国山上説を提唱されておられる大杉博氏の場合ですが、投馬國の比定地を高知県宿毛市周辺に充てておられます。
宿毛市までの距離は、不彌國があったとされる場所から海路で約275km程の距離なのですが、この辺りに到着すれば邪馬臺国まで、陸行なら1ヶ月、水行をすれば10日で至ることができるという解釈です。
しかしこの行程ですと、海路における総行程30日間の2/3を費やして275kmな訳ですから、逆算すると単純計算で残り1/3はおよそ137.5km先が邪馬臺国の比定場所となり、この場合ですと、到着地が高知県須崎市周辺が海路進入からの邪馬臺国のあった場所となります。
これでは徳島県までは届きません。
足摺岬から直線で室戸岬を目指した最短ルートを辿ったとしても、徳島県の最南端に位置する海部郡海陽町宍喰周辺までの総距離は約490kmになり、また無難に海岸沿いを着岸しながら移動したとするならばその宍喰までは約520km程にもなります。
この場合、宿毛までの275km+215km(or245km)となってしまい、これまでの航行速度(275km÷20日=13.75km/日)で残りの行程での徳島県到達が非現実的なものとなってしまいます。
※ただし大杉氏の見解は邪馬臺国の場所が徳島県であると断定している訳ではなく、四国の山上であるとのことですので陸行1ヶ月すれば問題ないとの見解です。
そこで、畿内説の航路(大阪府の難波周辺までだったとする説)を参考にし、不彌國から大阪湾までが考え得る距離的な最高到達地点であったと仮定した場合、瀬戸内海を通過した最短ルートで総距離が約512kmとなり、これを水行30日分で割ると、1日平均約17kmの航行が瀬戸内海ルートにおける当時の船の出せる平均航行速度であったことになります。
このことにより、瀬戸内海を通過する場合は、17km/日が計算の基準となります。
この場合、大阪府の難波までが最大距離だったと仮定するので、計算上はこの17km/日未満でなくてはなりません。
A:瀬戸内海ルートを選択した場合
考察ポイントとして、投馬國の人口である、「可五萬餘戸」つまり、少なくとも現在でも5万戸が住める範囲はどこかをまず探します。
現在の上空写真で見て緑色でない場所、つまり、現在でも人の多く住んでいる灰色っぽい部分のところです。
海沿いで且つ現在でも人口が多い場所を中心に上記地図の赤丸部分を付けました。
赤丸の付いていない大きな都市もいくつかありますが、理由は後に述べるとして、とりあえず、九州から近い順に、以下の通りピックアップ。
・愛媛県松山市南部
・愛媛県松山市北部
・愛媛県今治市野間
・愛媛県西条市
・愛媛県新居浜市
・愛媛県四国中央市
・広島県福山市鞆の浦
・香川県東かがわ市
選んだ理由は以下の通り。
・愛媛県松山市南部:九州から最も近く上陸しやすい上、現在でも大きな都市が存在する
・愛媛県松山市北部:旧の難波郷がある(後の遣唐使出発港、難波津の可能性)
・愛媛県今治市野間:名神大社野間(のま)神社(旧怒麻(ぬま)国)がある。地名の類似性
・愛媛県西条市:渡来系氏族「秦」姓密集地+大きな都市
・愛媛県新居浜市:渡来系氏族「秦」姓密集地+大きな都市
・愛媛県四国中央市:阿讃山脈の境で徳島県に最短距離で通過が可能+大きな都市
・広島県福山市鞆の浦:備後国一宮素戔嗚神社や沼名前神社など素戔嗚の縁がある。地名の類似性
・香川県東かがわ市:ここにも旧の難波郷がある(後の遣唐使出発港、難波津の可能性)
まず、不彌國から最短距離にある愛媛県松山市南部から検証します。
不彌國とされる場所から愛媛県松山市南部までの水行距離を測定するとおよそ233km。
魏志倭人伝によれば、投馬國まで水行で20日間費やしたとされる距離ですので、11.65km/日での航行速度となります。
この場合、海路で残り10日分の距離を足すと、総距離で349.5km地点周辺が比定地なはずですが、残念ながらこの場合、邪馬臺国が香川県観音寺市周辺となり、徳島県まで到達できず比定地候補から外れてしまいます。
同様に全比定地候補を計算すると、
投馬國:水行20日の距離→水行10日の距離を足した総距離(1日平均水行距離)→邪馬臺国
・愛媛県松山市北部:240km→360km(1日12km)→香川県坂出市周辺 ×
・愛媛県今治市野間:275km→412.5km(1日13.75km)→香川県高松市~さぬき市周辺 ×
・愛媛県西条市:295km→442.5km(1日14.75km)→香川県東かがわ市松原周辺 ×
・愛媛県新居浜市:302km→453km(1日15.1km)→徳島県鳴門市大毛島周辺 〇
・愛媛県四国中央市:330km→495km(1日16.5km)→徳島県名西郡石井町周辺 〇
(もしくは、徳島県阿南市那賀川河口周辺 〇)
・広島県福山市鞆の浦:315km→472.5km(1日15.75km)徳島県阿波市吉野町周辺 〇
(もしくは、徳島県阿南市那賀川河口周辺 〇)
・香川県東かがわ市:410km→615km(1日20.5km)→高知県香南市から和歌山県新宮市周辺 ×
これまでに残ったのは3ヶ所。地図にすると、下図の通り。
次の考察に参りましょう。
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。」
この記述の仕方でお分かりだと思いますが、他国に至った時は必ず、「〇〇至〇〇國」と書かれたはずです。
この場合、移動した距離や日数の間に国名が出現しませんから、水行十日した場所と、陸行一月した場所が共に邪馬臺国に至らなければなりません。
ですから、ここでの読みは、
「南に邪馬壹国の女王の都に至るには、水行(すれば)十日、陸行(すれば)一ト月である。」
この一文での解釈については、私も大杉博氏と全く同じ見解です。
そうすると、残った3つの比定地の中から、広島県福山市鞆の浦からは、陸行で徳島県に向かうことができず、ここでアウトとなってしまいます。
残った2つは、いずれも愛媛県。
新居浜市と四国中央市ですが、どちらも1ヶ月かければ陸行で徳島県には十分到達が可能でしょう。
そこで、どちらが投馬國であるのか更に絞り込み検証致します。
まず、水位が分かるサイトFlood Mapsを利用致しまして、当時の水位を再現しますと、現在よりおおよそ2~3m水位が高かったといわれておりますので、下図のようになります。
吉野川河口が大きく広がっており、藍住町周辺まで海であったと推測ができます。
そして、四国中央市から水行した場合の到着地点がこちら
ほぼ当時の吉野川河口辺りとなり、恐らく港があったと思われる位置に丁度到着します。
ちなみに新居浜市の場合の到着地は右上にある鳴門市の大毛島辺り。
そしてその二市の旧国名が、
・新居浜市が新居郡(にい)
・四国中央市が宇摩郡(うま)
であり、上記までの一連の考察から、瀬戸内航路からは、距離、地名の類似性、人口確保などの全て観点を満たせると推測される四国中央市が投馬國の筆頭比定地候補となります。
陸行では、険しい山々を越えるので到達まで1ヶ月掛かり、水行すれば10日間で到達する場所です。
もう1つの考えとして、「可五萬餘戸」が確保できる場所の考察なのですが、都市型の密集集落ではなく、作物の生産性を現実的に考えると国土が広範囲に及ぶはずです。
この場合、投馬國はかなりの国土がなければなりません。
上記までの考察を踏まえますと、大きく2つのフィールドが考えられます。
※愛媛県瀬戸内側一体が投馬國
※瀬戸内海を中心とする周辺諸国を纏めて投馬國
いわゆる平形銅剣の出土する青丸の範囲が投馬國であったとも考えられます。
投馬國の範囲内で邪馬臺国に行くのに最も適した港(魏使が立ち寄ったところ)が四国中央市周辺だったとも十分考えられます。
道無き祖谷渓を越え、霊峰剣山の先に広がる徳島県神山町周辺に卑彌呼の住まう都、邪馬臺国があったのではないでしょうか?
この推論が正しければ、つくづく魏使の記した内容が非常に正確であるということをあらためて痛感致します。
つぎに、投馬國 考察②へと続きます。
0 件のコメント:
コメントを投稿