2.邪馬台国と狗奴国 安本美典先生
2.1 狗奴国について
『魏志倭人伝』に
「倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素(もと)より和せず。」
とある。この「卑弥呼」の読み方にいろいろ議論がある。
■「卑弥呼」の読み方
「卑弥呼」についての説は、いくつかにわかれる。おもなものを、三つあげてみよう。
(1)日御子(ひみこ)説
新井白石は、『古史通或問(こしつうわくもん)』のなかで、「卑弥呼」を、「日御子(ひみこ)」であるとする。「日御子」 にあたることばとしては、『古事記』に、「多迦比迦流(たかひかる)、比能美古(ひのみこ)」(高光る、日の御子)という使用例が四例、「本牟多能(ほむだの)、比能御子(ひのみこ)」(品陀の、日の御子)という使用例が一例ある。
「日の御子」は、「ひ(甲)(の)み(甲)こ(甲)」であって、「卑弥呼」の音と一致する。ただ、「日(ひ)の御子(みこ)」は、つねに、この形で用いられており、「の」を省略して、「日御呼(ひみこ)」という形で用いられている例がない。また、「日(ひ)の御子(みこ)」は、直接的に、名前の一部として用いられているわけではなく、いわば、形容詞的に用いられている。ただ、「卑弥呼」が、天照大御神、つまり、「日の神」にあたるとすれば、「日(ひ)の御子(みこ)」という形容は、ほぼあてはまる。
(2)姫児(ひめご)説
本居宣長は、「卑弥呼」を、『古事記伝』や『馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)』のなかで、「火之戸幡姫児千千姫(ほのとはたひめごちぢひめ)の命」「万幡姫児玉依姫(よろづはたひめごたまよりひめ)の命」などとある「姫児(ひめこ)」であるとした。ただし、これらは、本居宣長の読み方である。現在の、たとえば、岩波書店刊の日本古典文学大系の『日本書紀』では、「火之戸幡姫(ほのとはたひめ)の児千千姫千姫(こちぢひめ)の命」「万幡姫(よろづはたひめ)の児玉依姫(こたまよりひめ)」のように、「姫(ひめ)の児(こ)」と読まれている。
『肥前国風土記』の松浦郡の条に、「弟日姫子(おとひひめこ)」の名がある。この名は、「弟日姫子(おとひひめこ)」(五回)、「弟日女子(おとひひめこ)」(一回)、「意登比売能古(おとひひめこ)」(一回)の、三通りの書き方で、七回あらわれる。
『旧事本紀』の「天孫本紀」に「市師(いちし)の宿禰(すくね)の祖(おや)穴太(あなほ)の足尼(すくね)の女(むすめ)、比咩古(ひめこ)の命(みこと)」とある「比咩古(ひめこ)も、「姫児」の意味であろう。
『播磨(はりま)国風土記』では、「蚕(かいこ)のことを、「蚕子(ひめこ)」といっている。「蚕(かいこ)」のことを、古語で、たんに、「蚕子(ひめこ)」ともいうが、養蚕や機織(はたおり)には女性がたずさわることが多いので、「蚕子(姫子)といったのであろう。
「姫子」「比咩古」の音は、いずれも、「ひ(甲)め(甲)こ(甲)」であって、「卑弥呼」の音に一致する。「姫子(ひめこ)」は、古典にあらわれるひとつの熟語として、「卑弥呼」と完全に一致する。「卑弥呼」が、「姫子」であるとすれば、「姫」という語に、愛称または尊敬の「子」がついたものであろう。
「卑弥呼」を、「ヒメコ」と読む説は、坂本太郎が、論文「『魏志』『倭人伝』雑考」(古代史談話会編『邪馬台国』 1954年9月刊)のなかで説いている。
「卑弥呼」の「弥」の字は、
①等已弥居加斯夜比弥乃弥己等(とよみけかしやひめのみこと)(元興寺塔露盤銘、元興寺縁起)
②止与弥挙奇斯岐移比弥(とよみけかしきやひめ)天皇(元興寺丈六光銘、元興寺縁起)
③吉多斯比弥乃弥己等(きたしひめのみこと)(法隆寺蔵「天寿国繍帳記」『上宮聖徳法王帝説』)
④等已弥居加斯支移比弥乃弥己等(とよみけかしきやひめのみこと)(「天寿国繍帳」)
⑤践坂大中比弥(ほむさかおおなかつひめ)王「上宮記」『釈日本紀』十三述義九)
⑥田宮中比弥(たみやなかひめ)(「上宮記」)
⑦阿那爾比弥(あなにひめ)(「上宮記」)
⑧布利比弥命(ふりひめのみこと)(「上宮記」)
⑨阿波国美馬郡波爾移麻比弥(はにやまひめ)神社(『延喜式』神名帳)
などのように、『古事記』以前の表記法を伝えるとみられるもののなかに、「甲類のメ」をあらわすために用いられている例がある(文例は、坂本太郎の列挙による)。このような事例をみると、「姫」は、むかしは、「ひ(甲)み(甲)」といっていたのではないかと疑われるが、そうではないことは、「上宮記」において、「布利比弥命(ふりひめのみこと)」を「布利比売命(ふりひめのみこと)」とも記していることからわかる。「弥」は、あきらかに、「甲類のメ」に読まれているのである。
ただ、ふしぎなことに、「弥」を「甲類のメ」と読むのは、わが国の古文献においては、「比弥[ひ(甲)め(甲)](姫)」という熟語にかぎられている。さきの①の「比弥乃弥己等(ひめのみこと)」のように、「弥己等(みこと)」(命)のばあいは、「弥」を「甲類のミ」に読んでいる。そして、「卑弥呼」の「弥」は、まさに、「卑[ひ(甲)]=比[ひ(甲)]」の字のあとに用いられており、「卑弥[ひ(甲)め(甲)]」と読みうるケースである。
『万葉集』の167番の歌で、「天照(あまて)らす日女(ひるめ)の尊(みこと)(天照日女之命)」という語のすぐあとに、「高照(たかて)らす日(ひ)の皇子(みこ)(高照日之皇子)」という語がでてくる。「日女」は、「ひめ」とも読める。「卑弥呼」は「日女皇子(ひめこ)」のような語をうつしたものであろうか。
(3)姫(ひめ)の命(みこと)説
江戸中期の国学者、松下見林は、『異称日本伝』のなかで、「卑弥呼」を、「姫(ひめ)の命(みこと)」の省略形とする。東大教授であった東洋史学者、白鳥庫吉も、論文「倭女王卑弥呼考」のなかで、「姫の命説」をとる。しかし、「み(甲)こ(乙)と(乙)」の「こ(乙)」は、「卑弥呼(ひみこ)」の(甲)」とやや異なる。この説は、おそらくあたらないであろう。
■「卑弥呼」の意味
以上から、「卑弥呼」は、坂本太郎の説くように、「姫子(ひめこ)」の意昧にとるのが、もっとも穏当である。
『日本書紀』では、「女王」は、
「飯豊女王(いいどよのひめみこ)」(「顕宗天皇即位前紀」)
「忍海部女王(おしぬみべのひめみこ)」(「顕宗天皇即位前紀」)
「栗下女王(くるもとのひめみこ)」((舒明天皇即位前紀)」
などのように、「女王(ひめみこ)」(姫御子の意味)と読まれている。
『続日本紀(しょくにほんぎ)』では「女王」は単独で用いられるばあいは、「女王(じょうおう)」と読み「伊福部女王(いほきべのひめみこ)」のように人名として用いられるばあいは「女王(ひめみこ)」と読んでいる(岩波書店刊、新日本古典文学大系『続日本紀』など)。
「卑弥呼」は、「ひめこ」と読み、「姫子」あるいは「姫御子」の意昧とみられる。
『古事記』の「孝霊天皇紀」に、「男王五、女王三」という記事があり、これは、ふつう、「男王五(ひこみこいつはしら)、女王三(ひめみこみはしら)」
のように読まれている。
また、『日本書紀』では、「七(ななはしら)の男(ひこみこ)と六(むはしら)の女(ひめみこ)とを生めり。」(「景行天皇紀」)
のように、「男」の字を、「ひこみこ(彦御子の意味)」と読んでいる例がある。
狗奴(くな)国の男王「卑弥弓呼(ひみここ)」は、「卑弓弥呼」の書き誤りと考えて、「彦御子(ひこみこ)」のこととする説がある。「卑弓弥呼」と記すべきところを、すぐ上に、「卑弥呼」の名があらわれるので、それにひかれて、「卑弥弓呼」と記したのであると考える。
もし、そうであるとすれば、『魏志倭人伝』の、
「倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。」
は、『日本書紀』流に読めば、つぎのようになる。
「倭(やまと)の女王(ひめみこ)、卑弥呼(ひめこ)、狗奴国(くなこく)の男王(ひこみこ)、卑弓弥呼(ひこみこ)と素(もと)より和(あまな)はず。」
すなわち、「卑弥呼(ひめこ)」「卑弓弥呼(ひこみこ)」は、そのまえの、「女王」「男王」という漢語の「大和(やまと)ことば」を、万葉仮名風に表記しただけのこととなる。
のちの時代の話であるが、次のような例がある。
733年(天平5年)に、唐にわたった遣唐副使の中臣名代(なかとみのなしろ)に、唐の玄宗皇帝が授けた勅書が、『文苑英華(ぶんえんえいか)』に収められている。
そこには、「日本国王主明楽美御徳(すめらみこと)[天皇]に勅す。」とある。
この場合、「主明楽美御徳」は、天皇の実名ではない。「天皇」の日本でのよび方を示している。
「卑弥呼」も実名ではなく、たんに「女王」ということばの、日本でのよび方を示している可能性がある。
この可能性は、かなり大きいように思える。
魏の人から、「女王」「男王」のことを、なんと言うかとたずねられて、倭人は、「ひめみこ」「ひこみこ」と答え、それを魏人が漢字の音で、表記したものであろうか。
あるいは、邪馬台国朝廷がわの官人が記したことも考えられる。
『魏志倭人伝』には、「文書、賜遺(しい)の物[賜(たまわり)り物]を伝送して女王(のもと)に詣(いた)らしめ」「倭王使いによりて上表す」などとある。
「上表」という句は、『日本書紀』にしばしば用いられており、そこでは、「上表(ふみたてまつ)る[文たてまつる]」と読まれている。
これらから、邪馬台国の卑弥呼の朝廷には、文字を読み書きできる人のいたことがわかる。
卑弥呼が、上表したとすれば、そこには、署名もあったであろう。署名では、ひめみこ(姫御子)」の「御」は、尊敬語なのでいれず、「ひめこ(姫子)」のように記した可能性もある。
「卑」の字は、「小韻の首字(同音字グループの代表字)」である。「彌(弥)」「呼」も、「小韻の首字」である。「卑弥呼」は、文字としては、ありふれたものばかりが用いられている。「小韻の首字」ばかりを用いたのは、誤読をさけるためであろうか。
なお、「卑弓弥呼(ひこみこ)」の「弓」の字の中国での中古音は、「kIuŋ」である。埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣銘文では、「大彦(おほひこ)」にあたる人名を、「意富比垝」と記している。この「垝」の字の中古音は、「kɪuĕ」で、「弓」の音に、かなり近い。
また、『日本書紀』の「神功皇后紀」の、四十七年の条に、「千熊長彦(ちくまながひこ)」という名があらわれ、『日本書紀』の編者は、これを、『百済記』にいう「職麻那那加比跪(ちくまなながひこ)」のことかと、疑っている。
さらに、「神功皇后紀」の六十二年の条にも、『百済記』が引用されており、そこに、「沙至比跪(さちひこ)」という名が見える。『日本書紀』は、この「沙至比跪」が、「葛城襲津彦(かつらぎのそつびこ)」をさすとする書き方をしている。「沙至比跪」が「襲津彦」をさすと見てよいことについては、井上光貞が、「帝紀からみた葛城氏」(『日本古代国家の研究』岩波書店刊所収)のなかで、考証しているところである。
「跪」の中古音は、「gɪuĕ」である。やはり、「弓」の音に、かなり近い。
「彦(ひこ)」の「こ」の音については、『魏志倭人伝』の「卑狗」が「狗」(音は、上古音が、「kug」、中古音が「kəu」)の字で書かれている。
以上から、「彦」は、「ひく」「ひきゅ」に近い音で発音されたこともあったようである。(乙類の「こ」の音のばあいは、「ひきょ」に近い。)
いずれにせよ、「卑弓弥呼」は、「彦御子」「男王」を表記しているとみられる。
卑弥呼は、狗奴国男王、卑弥弓呼との争いの中で没するが、天照大御神は、弟の須佐之男(すさのお)の命(みこと)との争いにより、天(あめ)の石屋(いはや)にかくれる。狗奴国は、熊本県、つまり、「肥(ひ)の国」と考えられるが、須佐之男の命が追放された出雲の国には、「肥の河」が流れている。熊本県にも、「火川(ひのかわ)」がある。「狗奴(くま)」と関係のありそうな出雲の「熊野神社」に、須佐之男(すさのお)の命(みこと)はまつられている。あるいは、「須佐之男の命」が、狗奴国男王の「卑弥弓呼」で、出雲に追放されたさい、ふるさとの九州の狗奴(熊)地方の地名をもっていったのであろうか。
■狗奴国の官、「狗古智卑狗」
『魏志倭人伝』は記す。
「其の南には狗奴国(くなこく)[熊襲か球磨か]有り。男子を王と為(な)す。其の官には狗古智卑狗(くこちひこ)[菊池彦か]有り、女王に属せず。」
[その南には狗奴国(くなこく)がある。男を王としている。その官には狗古智卑狗(くこちひこ)がおり、女王には従属していない。]
「狗古智卑狗」は、内藤湖南をはじめ、すでに多くの人の説いているように、肥後の国に「菊池郡」があるので、「菊池彦」とみるのが、もっとも妥当である。
「菊池郡」は『和名抄』に、「久久知」と註がある。『延喜式』も、「くくち」と読んでいる。後世になまって、「きくち」となった(吉田東伍著『大日本地名辞書』)。
「狗古知卑狗」は、「万葉仮名の読み方」で、「くくちひ(甲)こ(甲)」と読め、「菊池彦[くくちひ(甲)こ(甲)]」と、正確に合致する。
百済の肖古王のことを、中国の史書『晋書』は、「余句」と記している。
肖古王の「古(ko)」の音を、「句(音はkɪuまたはkəu)」で写しているとみられる。音が、すこし違っているが、このていどなら通用の範囲とみられる。
藤堂明保編『学研漢和大字典』(学習研究社刊)
【狗】ク呉音、コウ漢音
【句】①ク呉音漢音、②ク呉音、コウ漢音
『古代地名大辞典』(角川書店刊)にのっている「くくち」(「きくち」を含む)の地名は、熊本県の「菊池(くくち)郡」と「菊池城(くくちのき)」の二つだけ。古代において、ありふれた地名とはいえない。ただし吉田東伍著の『大日本地名辞書』(冨山房刊)には、熊本県の「菊池郡」「菊池城」以外に、摂津の国河辺郡(兵庫県)の地名として、「久久知(くくち)」をのせている。熊本県の地名の方が、大地名である。
井上光貞著『日本の歴史1神話から歴史へ』(中央公論社1965年刊)
(井上光貞氏)「この狗奴(くな)国について白鳥氏に、『熊本、球磨(くま)川にその名を残す球磨地方であろう』とした。なぜならウミハラ(海原)がウナバラとなるように、マ行とナ行とは転訛しやすいからである。球磨地方はさらに南方の地方と合して『熊襲(くまそ)』の名で知られているが、この地方は筑後山門(やまと)郡のちょうど南にあたる。だから倭人伝をそのままにうけとって、博多方面から南に邪馬台国があり、その南に狗奴国があると読んでもよく筋が通るのである。」
注:辞書より
①菊池郡(くくちぐん)<熊本県>
肥後国の郡名。肥後国北部。東は阿蘇郡,西は山鹿郡、南は合志(かわし)郡、北は豊後国に接していた。この郡域は現在の菊池市と七城町の範囲で、現在の菊池郡は大部分がかつての合志郡の地域にあたる。熊本平野の北東端、菊池川・白川流域の平坦地から、北は合志台地、東は阿蘇外輪山の西麓に至る。「和名抄」の訓は「久々知」。
②菊池(くくちのき)城<熊本県菊鹿町>
平安期に見える城名。肥後国菊池郡のうち。当地は古く「くくち」と呼ばれていたと推定され、「魏志」倭人伝に見える「狗古智卑狗」と関連させて「狗奴国」を当地に比定する説もある。「続日本紀」文武2年5月25日条に「令大宰府繕治大野・基肄・鞠智三城」と城名として見え、「くくちのき」と訓んだものと推定される。
■「たま」「にき」「みみ」「とよ」について
『古事記』における「たま」「にき」「みみ」「とよ」の出現例数の過半の66回は、『古事記』上巻(神話の巻)にあらわれる。
また、中巻にあらわれる「たま」「にき」「みみ」「とよ」はのべ40回のうち、18回は、最初の、「神武記」にあらわれる。
したがって、「神武記」以前(上巻と「神武記」とを加えたもの)に、「たま」「にき」「みみ」「とよ」は、のべ、84回あらわれることになる。
じつに、「たま」「にき」「みみ」「とよ」の、三分の二以上、69パーセントは、「神武記」以前にあらわれる。
『古事記』の、上巻と中巻と下巻とでは、分量が異なる。このことを考慮しても、結論はかわらない。いな、「たま」「にき」「みみ」「とよ」は、他の巻よりも、上巻に頻出するという傾向は、さらにはっきりとうかびあがってくる。
右下の表には、各巻の総文字数も示しておいた。ここから、文字数一万字あたりの、「たま」「にき」「みみ」「とよ」の、出現率を計算する。
字数一万字あたりの出現率は、上巻で、41.9例、中巻で、21.7例、下巻で、14.3例である。上巻の出現率は、中巻の出現率の約二倍である。
そして、上巻から中巻へ、中巻から下巻へと、時代の下るにつれ、出現率は、減少してゆく。
・島谷良吉(しまやりょうきち)氏の見解
1956年に『魏志倭人伝』の現代語訳を出した島谷良吉(1899~1980。高千穂商科大学教授などであった)氏は、その『国訳魏志倭人伝』の「前がき」の中でのべている。
「陳寿編纂『魏志巻三十』所載の東夷の一たる『倭人』の記述を見ると、まったく記紀神代の巻の謎を解くかのように思える。」
・金子武雄氏の見解
国文学者であった東大の金子武雄氏は、その著『古事記神話の構成』(桜楓杜刊)のなかでのべている。
「古事記神話は一つの体系を持った神話である」
「古事記神話の資材となっている個別神話は、一部分が出雲地方で生育したものであるほか、他の大部分は九州、特に北九州で生育したものであろう。(大国主の命の)国家譲渡の神話は重要な史実に立脚しているものであろう。」
「私の得た結論を先に言うと、国家経営の神話-いわゆる出雲神話-を除いたほかのほとんどすべての神話は筑紫(九州)、特に北九州の地において生育したものであるということになる。」
「『天降った』というのは、高天原との関係によって神話化せられたものと考えることができる。この出雲と国譲りの交渉の神話は、おそらくなんらかの史実を基盤としているものと思うのであるが、建御雷神(たけみかずちかみ)が船に乗って出雲の海岸に着いていることが、この神話の基盤になっている史実を反映しているものとすれば、その史実は、当然、近畿と出雲との間の交渉ではなくて、筑紫と出雲との交渉であったとみなければならないであろう。近畿から出雲へは船で行くはずはないからである。こうしてこの国家譲渡の交渉の神話もまた、筑紫で生育したものであることを思わせるのである。」「古事記の諸神話のうち、国家経営の神話の生育地が出雲であるほかは、日向三代の神話はもとより、天地初発・万物創成・高天原の闘争・国家譲渡の交渉・天孫降臨などの諸神話のほとんど大部分の生育地が筑紫、特に北九州(狭義の筑紫に当たる)であると考えることの根拠を、できるだけ提出してみたつもりである。その論証はもちろん充全ではないが、逆にこれらの神話の生育地が大和あるいは近畿であると主張しようとするならば、その根拠は遥かに薄弱なものでしがないであろう。」
「やや比喩的に言えば、高天原(たかまのはら)はほかならぬ筑紫の上にあったのである。こうして、いわゆる高天原系神話も、いわゆる筑紫系神話と同じく筑紫の地に成育したものと思われる。」
「古事記の神話が史実に立脚しているかどうか、立脚しているとすればどの程度か、ということは、それぞれの神話について吟味してみなければならない。古事記は神話編である上巻をも含めて歴史の書として編纂せられているのだから、編者の姿勢から言っても、こういう吟味は無視せられてよいものではなかろう。特に、歴史的性質の色濃い国家経営の神話、国家譲渡の交渉の神話、それから日向三代の神話についてはなおさらである。
右の三つの神話のうち、日向三代の神話は、すでに先人たちによって説かれているように、九州南部の隼人族や九州北部の海人族の、いわゆる天孫族に対する屈服あるいは服従という史実に立脚しているところの多いものである。残る国家経営の神話と、これと密接な関係のある国家譲渡の交渉の神話ともまた、私にはかなり重大な史実に立脚しているものであろうと思われる。」
「この筑紫の中心勢力が近畿へ移動し、大和中心の大勢力となったのは、いつのころと考えたらよいか。大和朝廷の人々が近畿で生育した個別の神話を持っていなかったとしたら、それは近畿に移動したのが、原初的な神話を生むような時代をすでに過ぎていたためであろうと考えられる。そうすれば、そんなに古い時代のことではなかったであろう。
ところで、考古学の教えるところによれば、墓の中に剣・玉・鏡、および巴形銅器を副葬するのは、筑紫ではすでに弥生時代からのことであったが、近畿ではやっと古墳時代にはいってから始まったという。
その点から言えば、北九州の文化は大体、弥生時代の末ごろに近畿へはいったとも考えられよう。そうして、これらの副葬品の伴なう古墳は、もちろん支配階級のものである。
さらにまた、弥生時代の中期から末期にかけてさかんに用いられたものに、銅鐸・銅剣・銅鉾---これらは実用的な物ではなく、呪物あるいは祭器であるという---があるが、その分布の状態が、三河・遠江・加賀を境界にしてその西方において、かなり明確に二つに分かれているという。すなわち、大体、近畿・山陰・北陸、および四国の東部が銅鐸文化圏であり、九州および瀬戸内海沿岸が銅剣銅鉾文化圏である---私はこれらの銅器はそれぞれ出雲系の神と筑紫系の神とを信奉するしるしであり、同時にまた、それぞれの政治的支配権のしるしでもあったのではないかと思う---。しかもこの二つの文化圏の対立は次の古墳文化の成立と共に消滅しているという。
さらにまた、出雲文化は弥生時代までは相当の進展が見られるけれども、古墳時代にはいると、あまり進展が見られなくなっているという。
考古学の教える以上のような諸事実は、私か古事記の若干の神話の暗示するところを根拠として想定したところと大方合致する。このことは、これらの神話が多分に史実に立脚しているのであろうということを思わせるのである。そうして、筑紫の中心勢が近畿へ移動したとしたら、それは弥生時代の末期ごろではないかと推定せられるのである。」
「このように考えると、古事記上巻に収められている体系神話の中には、近畿で生育した神話は、猿田毘古神(さるたびこのかみ)に関するものなどのほかは、ほとんど、はいっていないということになる。それでは、どうして、大和朝廷の人々が国史の最初の位置に筑紫や出雲に生育したこれらの神話を据え置くことになったのか。
それは、このような位置に据えることのできるほどの神話を大和朝廷の人々は持っていなかったためであろうと思う。それでは、大和朝廷の人々は、近畿の地で生育した神話あるいは伝説を持っていなかったのか。私は古事記の中巻以下に見られる神話や伝説がこの人々の持っていたものであると思う。中巻のはじめには、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)[神武天皇]の東征のことが語られているが、大和朝廷の人々は、遠い昔、自分らの祖先が筑紫からはるばるとやって来たという伝承を持っていたのである。だから、自分らのこういう伝承の前に、筑紫で生育した神話を据えることには、ほとんど抵抗を感じなかったことであろう。古事記が神倭伊波礼毘古命の日向の高千穂宮からの出発を境として、上巻と中巻とを分けたのも、主としてこういう事情によるものであろうと思われるのである。」
■邪馬台国時代の墓制、箱式石棺の分布
宮崎公立大学の教授であった「邪馬台国=九州説」の考古学者の奥野正男氏は、つぎのようにのべている。(以下、傍線をほどこしたのは安本。)
「いわゆる『倭国の大乱』の終結を二世紀末とする通説にしたがうと、九州北部では、この大乱を転換期として、墓制が甕棺から箱式石棺に移行している。
つまり、この箱式石棺墓(これに土壙墓、石蓋土壙墓などがともなう)を主流とする墓制こそ、邪馬台国がもし畿内にあったとしても、確実にその支配下にあったとみられる九州北部の国々の墓制である。」(『邪馬台国発掘』PHP研究所刊)
「前代の甕棺墓が衰微し、箱式石棺と土壙墓を中心に特定首長の墓が次第に墳丘墓へと移行していく……。」(『邪馬台国の鏡』梓書院、2011年刊)
「邪馬台国=畿内説」の考古学者の白石太一郎氏(当時国立歴史民俗博物館。現、大阪府立近つ飛鳥博物館長)ものべている。
「二世紀後半から三世紀、すなわち弥生後期になると、支石墓はみられなくなり、北九州でもしだいに甕棺墓が姿を消し、かわって箱式石棺、土壙墓、石蓋土壙墓、木棺墓が普遍化する。ことに弥生前・中期には箱式石棺がほとんどみられなかった福岡、佐賀県の甕棺の盛行地域にも箱式石棺がみられるようになる。」
「九州地方でも弥生文化が最初に形成された北九州地方を中心にみると、(弥生時代の)前期には、土壙墓、木棺墓、箱式石棺墓が営まれていたのが、前期の後半から中期にかけて大型の甕棺墓が異常に発達し、さらに後期になるとふたたび土壙墓、木棺墓、箱式石棺墓が数多くいとなまれるようになるのである。」(以上、「墓と墓地」学生社刊『三世紀の遺跡と遺物』所収)
このように、邪馬台国の時代の墓制としては、箱式石棺などが考えられる。そして、この箱式石棺を用いるという墓制は、『魏志倭人伝』に記されている「棺あって槨なし」という墓制とも一致するものである。
(下図はクリックすると大きくなります)
2015年に、茨城大学名誉教授の考古学者、茂木雅博(もぎまさひろ)氏の著書『箱式石棺(付、全国箱式石棺集成表)』(同成社刊)が出版されている。
この本の「全国箱式石棺集成表」にもとづき、北九州の地図の上に、弥生時代後期の箱式石棺の分布をプロットすれば、前に示した弥生時代後期の箱式石棺分布の地図のようになる。
箱式石棺の分布は、福岡県の朝倉市を中心とし、小郡(おごうり)市のあたりから、佐賀県の三養基(みやき)郡のみやき町、神埼郡の吉野ヶ里町、神埼市にかけての筑後川の上、中流域に密集地帯がある。
井上光貞氏は、「邪馬台国の領域には、肥後北部の玉名郡、山鹿郡、菊池郡も含まれるであろう」と述べている。
この三つの郡は、ともに、鉄鏃がかなり出土している郡である(右の地図参照)。
井上光貞氏の見解
たとえば、弥生後期についていうと、北九州の甕棺文化を代表する須玖(すく)式土器は、福岡県のみでなく熊本平野に及んでいるが、緑川(みどりかわ)流域一帯より北に限られる。いっぽう球磨川上流の人吉(ひとよし)盆地では、弥生後期の免田(めんだ)式という重弧文(じゅうこもん)土器が発達し、それはおもに南方にひろがり、鹿児島県や宮崎県の山岳地にも及んでいる。そしてこの文化では、弥生後期になってもまだ石器も使っているのである。このような文化圏のありかたも、以上の推測を裏づけるものだが、わたくしは邪馬台国のひろがりを、たんに筑後北部にまで及ぼしたほうが現実的な見方だとおもうのである。
(右図はクリックすると大きくなります)
2.2 狗奴国は有明海から出雲に移ったのか?
・『古事記』から須佐之男命は有明海を治めた
『古事記』上巻に下記の記述がある。
此ノ時、伊耶那伎命(いざなぎのみこと)大(いた)く歓喜(よろこ)ビて詔(の)らさく、「吾(あ)者(は)子(こ)生(う)み生(う)み而(て)、生(う)みノ終於(はてに)三(み)はしらノ貴(たうと)き子(こ)得たり。」トノらす即(すなわ)ち、其(そ)ノ御頸珠之玉(みくびたまのたま)ノ緒(を)、母由良迩(もゆらに)、[此ノ四字 は音(こゑ)を以(もち)ゐる。下(しも)は此に效(なら)ふ。]取り由良迦志而(ゆらかして)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)に賜(たま)ひ而詔之(ての)らさく、「汝命者(いましみことは)、高天ノ原矣所知(たかまのはらをし)らせ。」卜、事依(ことよ)さし而賜(てたま)ひき。故(かれ)、其ノ御頸珠(みくびたま)ノ名は、御倉板挙之神(みくらたなのかみ)卜謂(い)ふ。[板挙を訓(よ)みて多那(たな)卜云(い)ふ。] 次に、月読命(つきよみのみこと)に詔(の)らさく、「汝命者(いましみことは)、夜之食国矣所知(よるのをすくにをし)らせ。」卜事依(ことよ)さしき。[食を訓(よ)みて袁須(をす)ト云(い)ふ。]次に、建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)に詔(の)らさく、「汝命者(いましみことは)、海原矣所知(うなはらをし)らせ。」卜事依(ことよ)さしき。
伊耶那伎命は下記のように言ったという。
天照大御神は高天原を治めよ。
須佐之男命は海原を治めよ。
つまり『古事記』に、天照大御神は高天原を治め、海原を有明海から島原湾方面とすると、須佐之男命は熊本県付近を治めていたと考えられ、熊本県に狗奴国があったとすれば須佐之男命は狗奴国を治めていたと考えたらどうだろうか。
九州には、有明海、島原湾がある(地図参照)。筑紫平野の血脈として流れる筑後川は、有明海へとそそいでいる。有明海は、干潮時と満潮時の水位の差が、わが国でもっとも大きいといわれている海である。筑後川の河口での有明海の水位の差は、干潮時と満潮時とで五メートルをこえる。干潮時には、筑後川の濁流ははるかな沖合で海に達する。
有明海では、このような干潟(ひがた)の幅が、最大六キロメートルに達するところもある。濁流は泥をふくみ、満ち潮は泥をさかさまにはこんで、海岸に堆積する。
筑後川の上流部は多雨地帯で、とくに梅雨(つゆ)と初秋のころに襲ってくる台風にともなう豪雨は、有明海の満潮とあいまって大氾濫をおこす。
有明海、島原湾の入口のところにある早崎瀬戸(はやさきせと)[早崎海岸]については、地名学者の吉田東伍が、その編著の『大日本地名辞書』(冨山房、1972年版)のなかで、「潮流強疾(きょうしつ)[強くてはやい]」「急速を以(もっ)て其名(そのな)高し」と記している。
・狗奴国の位置における『魏志倭人伝』と『後漢書』の記述の違い
『魏志倭人伝』
O此(こ)れ女王の〔治むる〕境界の尽(つ)くる所なり。
其(そ)の南には狗奴国(くなこく)[熊襲か球磨か]有り。男子を王と為す。其の官には狗古智卑狗(くこちひこ)[菊池彦か]有り
O女王国の東、海を渡りて千余里、復(ま)た国有り、皆(みな)、倭(わ)の種なり。
『後漢書』「倭伝」
O女王国自(よ)り東のかた海を度(わた)ること千余里にして、狗奴国(くなこく)に至る。[狗奴国の人は]皆倭種なりと雖(いえど)も、女王に属せず。
『魏志倭人伝』は狗奴国は女王国の南側であったのが、『後漢書』では東側となっている。これについて、森浩一氏は『後漢書』の書き間違いとしているが、
おそらくはその通りだと思うが、次のようにも考えたらどうだろうか。
『魏志倭人伝』の時代に狗奴国は女王国の南にあったが、『後漢書』が書かれたころには狗奴国は女王国の東に移った情報が入っていた。
熊本県の旧行政区である肥後と出雲は、肥伊郷(ひいのさと)と斐伊郷(ひいのさと)のように、地名などに共通性が多い。
・研ぎ分け文様をもった銅矛の分布からの有明海付近と出雲との共通性
藤瀬禎博(ふじせよしひろ)氏の『九州の銅鐸工房 安永田(やすながた)遺跡』(新泉社、2016年刊)[小澤毅先生も編集委員のひとり]がある。
綾杉状の研ぎ分け文様をもった銅矛
有明海沿岸地域の青銅器にかかわる文化的まとまりをさらにみていこう。
弥生時代の中広形銅矛のうち「綾杉状の研ぎ分け文様」(以下、研ぎ分け文様)をもつ特異な銅矛の存在が知られている。矢羽(やばね)を図案化した矢絣(やがすり)模様で、光のあたり具合で矢羽のかたちに光り、清々しく勇ましい印象を与え、魔をはらう意味もあるので古くからいろいろなものに使われる。
この研ぎ分け文様をもつ中広形銅矛の出土事例をみてみよう。筑紫平野では、佐賀県東部、吉野ヶ里町の目達原(めたばる)(下図参照、以下同)遺跡から出土した銅矛4本のうちの2本(下図参照)が。吉野ヶ里町の東隣り、みやき町の検見谷(けみたに)遺跡出土の12本のうち10本(下図参照)が、そして伝鳥栖市田代(たしろ)とされているもの、また、筑後川中流域の朝倉市の甘木下渕(あまぎしたふち)で3本のうちの1本、朝倉市の東隣り、うきは市の小塩(こじお)に1本、さらに東へ向かい東九州の大分県宇佐市の谷迫(たにさこ)の7本のうち3本の出土例がある。
玄界灘側では、唐津平野の唐津市千々賀庚申山(ちちかこうしんやま)の双耳(そうじ)銅矛1本、福岡平野の須玖岡本遺跡D地点1本の出土例がある。また遠く離れた島根県出雲市の荒神谷遺跡では、16本のうち7本が知られている。(上図参照)
以上、現在まで合計24本が研ぎ分け文様をもつ銅矛として知られている。地域ごとにまとめてみると、玄界灘側は2本、有明海側は15本(佐賀平野東部が13本、筑後川中流域が2本)、さらに筑後川を通り抜けた東九州に3本の出土が、研ぎ分け文様をもった銅矛の分布状態となる。
鋳型と製品の分布状態を重ね合わせると、研ぎ分け文様をもった鋼矛は佐賀平野東部から筑後川流域にかけて多く、その中心にある安永田遺跡で製作された可能性が大である。
この状態にさらに、文様を施さない中広形銅矛の分布状態も合わせてみてみると、玄界灘側は15本でこのタイプの銅矛の出土分布は少なく、逆に有明海側は48本と多いといえよう。
注:藤瀬禎博(ふじせよしひろ)
1947年、福岡県飯塚市生まれ。
明治大学文学部史学地理学科考古学専攻卒業。
1977年より鳥栖市教育委員会に所属し、生涯学習課参事(兼市誌編纂係長)等を務め退職。現在、鳥栖郷土研究会会長。
主な著作[安永田遺跡の青銅器鋳型について](松本清張編『銅鐸と女王国の時代』日本放送出版協会)、「環有明海と出雲-青銅器の生産と流通-」(『歴史読本』42-5、新人物往来社)、「環有明海の青銅器文化-青銅器生産はいつはじまったかー」(『地域と文化の考古学』六一書房)、「青銅器文化と技術の革新」『鳥栖市誌』第2巻ほか。
そして、考古学者の森浩一氏はのべている(以下、傍線をほどこしたのは安本。)
「後藤(守一)先生は「三種の神器の考古学的検討」という論文を雑誌『アントロポス』に発表し、翌年には『日本古代史の考古学的検討』(山岡書店)という冊子風の単行本にその論文を収めた。先生の知識の豊かなことや自由な発想に、当時十八歳の僕は驚嘆した。もちろん先生の勇気にも感心した。
僕は考古学だけでは歴史にせまれないことを、この本によってさらに痛感した。神話をも含め『古事記』や『日本書紀』からも信頼できる文献資料を見いだし、考古学資料と総合した時に初めて本当の歴史は描ける。」(『森浩一の考古交友録』朝日新聞社、2013年刊、137ページ)
文献と考古学の結果から、有明海沿岸と出雲方面との共通点から、上記のようにもっともらしくまとめるともっともらしくなる。
皆さんはどう考えますか?
-饒速日(にぎはやひ)の命伝承をさぐる-
■饒速日の命の東遷と関連文献
考古学者の森浩一は、その著『敗者の古代史』(中経出版、2013年刊)のなかでのべる。
「饒速日命(にぎはやひのみこと)と長髄彦(ながすねひこ)は、記紀の「神武東遷」の説話に河内平野や奈良県盆地の先住の支配者として登場する。神武軍に対して防戦の末、饒速日が舅(しゅうと)の長髄彦を殺して帰順するのが『日本書紀(にほんしょき)』の筋書きだが、金鵄(きんし)が神武軍に加勢するような戦いの記述は鵜呑(うの)みにしがたい。饒速日は物部(もののべ)氏の祖とされる。『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』の記事やゆかりの古社の存在からみて、饒速日こそ北部九州から東遷を実行した人物であり、その伝承を取り込んで神武東遷の逸話が成立したことがうかがえる。」
また、谷川健一(たにがわけんいち)氏は、その著『隠された物部王国「日本(ひのもと)」』(情報センター出版局、2008年刊)のなかでのべる。
「『日本書紀』によりますと、神武が東征した先には、『饒速日(にぎはやひ)』と『長髄彦(ながすねひこ)』に率いられた強力な連合軍が待ち受けていました。彼らは河内・大和の先住豪族でした。」
「私は、東遷と降臨は大いに関係があると考えています。それが『日本書紀』や『旧事本紀』の神武東征説話のなかに反映されている。すなわち、神武帝の東征に先立ってニギハヤヒが『天磐船(あまのいわふね)』に乗って国の中央に降臨したことを認めている。このニギハヤヒの東遷は、物部氏の東遷という史実を指しているものと私は受け取っております。物部氏の出身は、現在の福岡県直方市(のおがたし)、もしくは鞍手郡(くらてぐん)あたりのようです。」
「物部氏の(九州での)勢力の基盤と『邪馬台国』の領域とがほぼ重なりあっていることが、確認されるのです。」
[谷川健一氏について人名辞典などから、(1921-2013)昭和後期-平成時代の民俗学者、評論家。大正lO年7月28日生まれ。谷川雁の兄。平凡社で雑誌「太陽」の初代編集長をつとめたのち退職。柳田国男、折口信夫らの影響をうけ、日本人の意識の古層の解明にとりくむ。昭和56年日本地名研究所初代所長、63年近畿大教授。平成4年「南島文学発生論」で芸術選奨。熊本県出身。東大卒。谷川健一全集 全24巻(冨山房インターナショナル)、『日本の神々』全13巻(白水社刊)]
古代史家の鳥越憲三郎氏(1914~2007、大阪教育大学教授など)も、その著『弥生の王国』(中公新書、中央公論社、1994年刊)のなかでのべる。
「物部一族はもと(福岡県の)鞍手郡を中心とした地域に居住し、そこから主力が河内・大和へ向けて移動したことが確かである。」
精緻な文献考証によって知られた東大の故坂本太郎教授(1901~1987、日本史学者、東京帝大教授、東大資料編纂所長)は、『古事記』『日本書紀』の「帝紀」は古来の伝承を筆録したものとする。
坂本太郎教授は、その根拠を明確に示したうえでのべている。
「古代の歴代の天皇の都の所在地は、後世の人が、頭の中で考えて定めたとしては、不自然である。古伝を伝えたものとみられる。第五代(の天皇)から見える外戚としての豪族が、尾張連(おわりのむらじ)、穂積臣(ほづみのおみ)[注:いづれも饒速日の命の子孫]など、天武朝以後、とくに有力になった氏でもないことは、それらが後世的な作為によるものではないことを証する。天皇の姪とか庶母(ままはは)とかの近親を(天皇の)妃と記して平気なのは、近親との婚姻を不倫とする中国の習俗に無関心であることを示す。これも古伝に忠実であることを証する。帝紀の所伝が、古伝であることは動かない。」
「疑いは学問を進歩させるきっかけにはなるが、いつまでもそれにとりつかれているのは、救いがたい迷いだということも忘れてはなるまい。」(『季刊邪馬台国』26号、1985年)
■神武天皇は、実在したとすれば、いつごろの人か
400年ごとに天皇と中国の王の在位年数をまとめると右表のようになる。
400年ごとにまとめると統計のデータが安定するから、一定の傾向が見つけやすくなる。
古代に遡るほど天皇の在位年数は短くなる。
この傾向は中国の王についても言える。
邪馬台国と同じころの魏や晋の時代の各王について調べて見る。
魏の時代について言えば、曹操は皇帝にならなかったが、息子の曹丕から5代の年代を見ると右表である。
晋の皇帝については、西晋と東晋を合わせて20代、200年である。
それを表にすると右下の表のようになる。
478年に倭王武が宋に上表を送った。
倭王武が第21代雄略天皇と考えられる
20代200年で遡れば、第1代神武天皇は278年となる。
このことから、大和朝廷の成立は邪馬台国の卑弥呼の存在より後の時代となることになる。
その結果、邪馬台国東遷説が考えられるのである。
邪馬台国東遷説は東大の和辻哲郎氏が述べたが、年代からも証明できる。
そのような王1代10年説は統計から、世界の王でもいえる。
下記グラフ参照
また、これは奈良時代でもいえる。
(a)「奈良七代七十年」奈良時代は第四十三代元明天皇から、第四十九代の光仁天皇までの七代、すなわち、元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の七代で、74年(710~784)。この間、一代平均10.57年。桓武天皇は、はじめ784年に長岡京[京都府向日市(むこうし)のあたりが中心]に都をうつしている。
(b)「君、十帝を経(へ)て、年(とし)ほとほと(ほとんど)百」 この文は、奈良時代史の基本文献である『続日本紀(しょくにほんぎ)』の、淳仁天皇の天平宝字二年(758)八月二十五日の条に記されている。これは、第三十六代の孝徳天皇から、第四十六代の孝謙天皇までが、十代で、104年ほどであることをのべているのである。
すなわち、天皇一代の平均在位年数が、およそ10年ていどであることは、奈良時代の人たちが大略認識していたことであった。
■天皇の代と没年または退位年
天皇一代十年説から歴代の天皇の没年または退位年をプロットすると下記のグラフとなる。
天皇の没年についてのくわしいデータは、『倭王卑弥呼と天照大御神伝承』(2003年刊、勉誠出版 安本美典著)参照
■白鳥庫吉の高天(たかま)の原は邪馬台国の反映
白鳥庫吉(1865~1942、東洋史学者、東京帝大教授)は、すでに『古事記』『日本書紀』の神話を伝える天照大神は、『魏志倭人伝』の記す卑弥呼の反映なのではないか、天照大御神がいたと伝えられる高天(たかま)の原は、邪馬台国の反映なのではないかとする考えを示している。
原文は、文語体であるが、口語体になおして、白鳥庫吉ののべているところを紹介する。
「すべて、神話伝説は、国民の理想をのべたものであって、当時の社会の精神風俗などは、ことごとくそのなかに包含されるものである。したがって、皇祖発祥の地である九州において、上古、卑弥呼をはじめとして、女子で君長であったものが多数いたとすれば、天照大御神が女王として天上に照覧するのも、また、なんの怪しむべきことがあろうか。」
「つらつら神典(『古事記』『日本書紀』)の文を考えると、天照大御神は、素戔嗚(すさのお)の尊(みこと)の乱暴な振るまいを怒って、天の岩戸に隠れた。このとき、天地は、暗黒となって、万神の声は狭蝿(さばえ)のごとく鳴りさやぎ、万妖がことごとく発した。ここにおいて、八百万(やおよろず)の神たちは、天の安の河原に神集(かんつど)って、大御神を岩戸から引きだし、ついで素戔嗚(すさのお)の尊(みこと)を逐(お)いやったので、天地はふたたび明るくなった。ひるがって『魏志』の文を考えると、倭女王卑弥呼は狗奴国男王の無体を怒って、長くこれと争ったが、その暴力に堪えず、ついに戦中に死んだ。ここにおいて、国中大乱となり、一時男子を立てて王としたが、国中これに服せず、たがいに争闘して数千人を殺した。しかるに、その後、女王の宗女壱(台)与を奉戴するにおよんで。国中の混乱は一時に治った。これは地上に起きた歴史上の事実で、かれは、天上に起きた神典上の事跡である。けれども、その状態の酷似すること、何人もこれを否認することはできないであろう。もしも神話が太古の事実を伝えたものとすれば、神典の中に記された天の安の河の物語は、卑弥呼時代におけるような社会状態の反映とみることができようか。」
■和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」
和辻哲郎は、そのなかで『古事記』『日本書紀』の伝えの天照大御神の事績は、『魏志倭人伝』の記す卑弥呼の事績と一致するとし、『古事記』『日本書紀』の神話の伝える高天の原時代は、『魏志倭人伝』の伝える邪馬台国の記憶ではないかとする。それは、白鳥庫吉の論旨にほぼ近い。
「君主の性質については、記紀の伝説は、完全に『魏志』の記述と一致する。たとえば、天照大御神は、高天の原において、みずから神に祈った。天上の君主が、神を祈る地位にあって、万神を統治するありさまは、あたかも、地上の倭女王が、神につかえる地位にあって人民を統治するありさまのごとくである。また天照大御神の岩戸隠れのさいには天地暗黒となり、万神の声さばえのごとく鳴りさやいだ。倭女王が没した後にも国内は大乱となった。天照大御神が岩戸より出ると、天下はもとの平和に帰った。
倭王壱(台)与の出現も、また国内の大乱をしずめた。天の安河原においては八百万神が集合して、大御神の出現のために努力し、大御神を怒らせたスサノオの放逐に力をつくした。倭女王もまた武力をもって衆を服したのではなく、神秘の力を有するゆえに衆におされて王とせられた。この一致は、暗示の多いものである。」
「我々は国民の大きい統一が三世紀以後の機運であることを知っている。また、女王卑弥呼が、倭人の間においても、新しい現象として起ったという形跡を、『魏志』の記述から発見する。明らかに国家統一後の所産である神代史が、右のごとき一致を示すとすれば、たとえ伝説化せられていたにもしろ、邪馬台国時代の記憶が、全然国民の心から、消失していたとは思えない。」
「さらにまた、神代史の諸伝説が、筑紫を背景とするという見解も、ここには暗示深いものとして役立つであろう。潮満瓊(しおみつたま)潮涸瓊(しおひるたま)の伝説が九州西海岸の潮の干満と関係し、天照大御神の天の安河原の諸伝説が、(白鳥庫吉ののべるように)『卑弥呼時代におけるが如き社会状態』を反映するとすれば、これらの諸伝説の原形がいかなるものであったにしろ、筑紫の生活のほのかなる記憶が、統治者の階級に残っていたとみることは許されねばならぬ。」
■島谷良吉(しまやりょうきち)の『魏志倭人伝』と記紀の神代の時代との共通性指摘
1956年に『魏志倭人伝』の現代語訳を出した島谷良吉(1899~1980、高千穂商科大学教授などであった)は、その『国訳魏志倭人伝』の「前がき」の中でのべている。
「陳寿編纂『魏志巻三十』所載の東夷の一たる『倭人』の記述を見ると、まったく記紀神代の巻の謎を解くかのように思える。」
・記紀の神話から神武天皇、綏靖天皇まで系図は下記
・『魏志倭人伝』と記紀の記述
『魏志倭人伝』
「台与(とよ)」(卑弥呼の宗女[一族の娘])
『古事記』『日本書紀』
「万幡豊秋津師比売(よろづはたとよあきづひめ)」
「豊吾田津姫(とよあたつひめ)」
「豊玉姫(とよたまひめ)」「豊御毛沼の命(とよけぬまのみこと)」
『魏志倭人伝』
「弥弥(みみ)」(官名)
『古事記』『日本書紀』
「忍穂耳の尊(おしほみみのみこと)」
「八箇耳(やつみみ)」「溝橛耳の神(みぞくひみみのかみ)」
「手研耳の命(たぎしみみのみこと)」「神八井耳の命(かむやゐみみのみこと)」
「神渟名川耳の尊(かむぬなかはみみのみこと)」
『魏志倭人伝』
「爾支(にき)」(官名)
『古事記』『日本書紀』
「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸の命(あめにきしくににきしあまつひこひこほのににぎのみこと)[『古事記』]
「天津彦彦火の瓊瓊杵の尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)」[『日本書紀』]
「櫛玉饒速日の命(くしたまにぎはやひのみこと)」
『魏志倭人伝』
「多模(たま)」(官名)
注:「多模」は中国語上古音では「tar-mag」
『古事記』『日本書紀』
「豊玉彦(とよたまびこ)」「豊玉姫(とよたまびめ)」
これらは尊称あるいは原始的な姓(かばね)か。
・『古事記』の「とよ」「みみ」「にき」「たま」の記述
「とよ」「みみ」「にき」「たま」は『古事記』の上巻に多い。古い時代の方が多く使っている。邪馬台国時代を引き継いでいるのではないか。(右上の表参照)
■鳥越憲三郎の考察
鐃速日の命は、北九州から天降ったとみられる。
このことについては、大阪教育大学の名誉教授の日本史家・鳥越憲三郎(とりごえけんざぶろう)氏が、『弥生の王国』(中公新書、1994年刊)、『女王卑弥呼の国』(中公叢書、2002年刊)などのなかで、すでに、くわしく考察し、つぎのようにのべている。
「物部氏の降臨伝承には、重要なことが秘められている。それは降臨に供奉した多くの氏族のことである。後に船長など船を操る六氏族を紹介するが、実はその記事の前に左のごとく三十四氏族の名が列記されている。それら各氏族名の下に彼らの住地を付記しておくが、計らずも九州との関係が濃く認められるのである。
・五部人(いつのともびと)を副(そ)え従(とも)として天降り供奉(ぐぶ)す。
物部造(もののべのみやつこ)らの祖、天津麻良(あまつまら)
笠縫部(かさぬいべ)らの祖、天勇蘇(曾)[(摂津)東生(ひがしなり)郡笠縫・(大和)城下(しきのしも)郡笠縫・(大和)十市部郡飯富郷笠縫村]
為奈部(いなべ)らの祖、天津赤占(あかうら)[(摂津)河辺(かわべ)郡為奈郷・(伊勢)員弁(いなべ)郡]
十市部首(とおちべのおびと)らの祖、富富侶(ほほろ)[(筑前)鞍手郡十市郷・(筑後)三宅郡十市郷・(大和)十市郡]
筑後弦田(つるた)物部らの祖、天津赤星[筑前)鞍手郡鶴田郷・(大和)平群郡鶴田]
・五部造は伴領として、天物部を率いて天降り供奉す。
二田(ふただ)造[(筑前)鞍手郡二田郷・(和泉)和泉郡上泉郷二田]
勇蘇(曾)造
大庭(おおば)造[(筑前)上座郡把伎郷大庭村・(和泉)大島郡大庭]
坂戸(さかと)造[(大和)平群郡坂門郷・(河内)古市郡尺度郷]
舎人(とねり)造
・天物部ら二十五人、同じく兵杖を帯びて天降り供奉す。
二田物部[(筑前)鞍手郡二田郷・(筑後)竹野郡二田郷・(和泉)和泉郡上泉郷二田]
疋田(ひきた)物部[(筑前)鞍手郡疋田・(讃岐)大内郡引田郷・(大和)城山郡曳田]
当麻(たいま)物部[(肥後)益城郡当麻郷・(大和)葛下郡当麻郷]
酒人(さかと)物部[(摂津)東生郡酒人郷]
芹田(せりた)物部[(筑前)鞍手郡生見郷芹田村・(大和)城上・城下・平群各郡芹田]
田尻物部[(筑前)上座郡田尻村・(大和)葛下郡田尻村・(和泉)和泉郡田尻]
馬見(うまみ)物部[(筑前)嘉麻郡馬見郷・(大和)葛下郡馬見]
赤間物部[(筑前)宗像郡赤間]
横田物部[(筑前)嘉麻郡横田村・(大和)添上郡横田村]
久米物部[(伊予)久米郡、喜田郡久米郷・(摂津)住吉郡榎津郷来目村]
狭竹(さたけ)物部[(筑前)鞍手郡粥田(かつた)郷小竹・(大和)城下郡狹竹村]
布都留(ふつる)物部
大豆(まめ)物部[(筑前)穂波郡大豆村・(大和)広瀬郡大豆村]
住道(すんじ)物部[(摂津)住吉郡住道郷]
肩野物部[(河内)交野郡]
讃岐三野物部[(讃岐)三野郡・(河内)若江郡三野] 羽束(はつかし)物部[(山城)乙訓郡羽束郷・(摂津)有馬郡羽束郷]
相槻(なみつき)物部[(大和)十市郡両槻村]
尋津(ひろきつ)物部[(大和)城上郡尋津・(河内)丹比郡広来津村]
筑紫聞(きく)物部[(豊前)企救郡]
嶋戸物部[(筑前)遠賀郡島戸]
播磨物部[(播磨)明石郡]
浮田物部[(大和)葛下郡浮田村]
筑紫贄田(にえた)物部[(筑前)鞍手郡新分郷]
菴宜(あんぎ)物部[(伊勢)奄芸郡奄芸郷]
なお、上に注記した郡・郷は『和名抄』の地名で示したが、そのほか文献などで補った。」
・神武天皇の宮殿の場所と物部一族の分布
「遠賀川流域の物部一族の分布」は、鳥越憲三郎著『大いなる邪馬台国』[講談社、1975年刊]による。岡田宮・岡水門・岡県は、吉田東伍著『大日本読史地図』[冨山房、1992年刊]による。(右上図参照)
・饒速日の尊とともに天降った氏族の比較
(下図はクリックすると大きくなります)
■饒速日の命(にぎはやひのみこと)の降臨
金子武雄(国文学者、東大教授)は、その著『古事記神話の構成』(桜楓社刊)の中で、『古事記』の内容をくわしく分析した上で述べる。
「やや比喩的に言えば、高天原(たかまのはら)はほかならぬ筑紫の上にあったのである。こうして、いわゆる高天原系神話も、いわゆる筑紫系神話と同じく筑紫の地に成育したものと思われる。」
第三回目の使者、建御雷(たけみかずち)の神をつかわしたときの状況を、『古事記』は、つぎのように記す。
「建御雷(たけみかずち)の神と天(あめ)の鳥船(とりふね)の神の二はしらの神は、出雲(いずも)の国の伊那佐(いなさ)の小浜(おはま)にくだり到着して、十掬(とつか)の剣を抜いて、さかさまに浪(なみ)のさきに剌(さ)したて、その剣のまえに足をくんですわって、大国主の神にたずねてのべた……。[此(こ)の二(ふた)はしらの神、出雲の国の伊那の小浜に降り到りて、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜きて、逆(さかしま)に浪の穂に刺し立て、その剣(つるぎ)の前(さき)に趺(あぐ)み坐(ま)して、その大国主神(おおくにぬしのかみ)に問(と)ひて言(の)りたまひしく……。]」
『古事記』のほかの個所に、「天(あめ)の鳥船(とりふね)の神」は、別の名を、「鳥の石楠船(いわくすぶべ)の神(鳥のようにはやい楠製の丈夫な船の神)」ともいうと記されている。したがって、この記事は、建御雷の神が、海路を船によって、高天の原から出雲の海岸へ下ったことをしめしている。
ここから、「高天の原」は、出雲の国へ、陸路によって使または兵を派遣するよりも、海路によって使または兵を派遣したほうがよい場所ということになる。
「高天の原」は、畿内大和をモデルにしているという説がある。しかし、大和から出雲へ船で行くはずがない。「高天の原」は、北九州方面と考えたほうが自然である。
皇學館大學長だった田中卓(たかし)氏[1923~2018][著書・『住吉大社神代記』『出雲国風土記の研究』・『神宮の創祀と発展』『愛国心の目覚め』『住吉大社史』(上巻)『概説日本史』『祖国を見直そう』『祖国は呼びかける』『日本古典の研究』『日本国家成立の研究』『海に書かれた邪馬台国』『古代天皇の秘密』『皇国史観の対決』ほか]は田中卓著作集1『神話と史学』(国書刊行会、1987年刊)で次のように述べている。
「題して"第一次天孫降臨"といふを見れば、読者、恐らくは奇異の感を抱かれるであらう。すなわち、先づ、"天孫降臨"などといふ神話は、今日の学界および一般において黙殺せられてゐる筈であるのに、それを史学の立場より、問題にしようとすることの非常識さである。次に、"天孫降臨"は造作せられた神話として、一応、之を認めるにしても、"第一次"といふのは、少くとも"第二次"を予想しての表現であるのに対し、日本紀・古事記では、天孫降臨はニニギの尊の一回限りであるから、"第一次"の語の不穏当と思へる点である。
しかし、私は、これまで幾つかの論文で述べてきたやうに、日本の神話の主流を、むしろ史実を投映した"史的神話"とみるのであって、"天孫降臨"も、単に神話学で取り扱ふやうな"神々の天降り"といふものでなく、一つの"史実"を背景とした神話化であらうと推定してゐる。従って、"天孫降臨"といふ形で物語られてゐる。"神話"の中より、"史実"としての"何物か"を復原せしめることが、今後に残された古代史解明の重要な鍵であらうと考へるのであって、小論もその一つの試みに他ならない。また"第一次"といふのは、紀・記に見えるニニギの尊の天孫降臨を"第二次"と考へ、それ以前といふ意味であって、実は、他ならぬニギハヤヒの命の天孫降臨を指してゐる。
ニギハヤヒの命が高天原の天神系であり、しかも神武天皇の御東征以前に畿内の河内・大和に降臨されてゐたことは、日本紀の明記するところである。そして、ニギハヤヒの命による畿内支配が、大己貴神系氏族を帰伏せしめることによって成功し、その結果、第一次の畿内勢力が成立するが、これが高天原(北九州と推定)勢力より離脱する傾向があったため〔新注〕、神武天皇による第二次の御東征が行はれたらしいこと、またヒルコ[蛯児、実は日子(ひるこ)]を船に乗せて流したといふ紀・記の所伝は、ニギハヤヒの命の第一次東征の神話化と推定しうること等については、別に拙論「神武天皇の御東征と大倭国造」(『瀧川博士還暦記念論文集』に所収。本著作集第二巻にも所収。)において詳しく述べたところである。これらの推考の上に立って、ニギハヤヒの命の東征を、更に、"第二次の天孫降臨″(ニニギの尊)に対する"第一次の天孫降臨"として把握し、その視点より、史実と神話との関連を更に追求しようとするのが、小論の目的である。
〔新注〕旧稿で高天原勢力よりの"離脱"といふ表現をしたのは、ヤマト朝廷の立場から、紀・記の所伝に従ったのであるが、実情は、離脱といふより、北九州から畿内への度重なる東進が、諸氏族によって自発的に繰返されたのであり、それらが統一的な計画でなされたものではあるまい。本著作集第二巻所収「日本国家の成立」、第三巻所収「邪馬台国新論」を参照されたい。尚、近年、谷川健一氏は、「物部氏族と邪馬台国の東遷」(『東アジアの古代文化』40号、昭和59年7月刊)の中で、「日本書紀に記された神武帝の東遷とそれに先行するニギハヤヒの東遷」を歴史的事実の反映とみとめる見解を発表されてゐる。」
谷川健一氏は「物部氏族と邪馬台国の東遷」(『東アジアの古代文化』40号1984年)で次のように述べている。
「私は日本書紀に記された神武帝の東遷とそれに先行するニギハヤヒの東遷という日本国内の大移動の伝承を物部氏と邪馬台国の東遷という歴史的事実の反映とみとめそれを朝鮮半島における中国の支配が緩んだ時期にあわせようとするものである。このような仮説がこれまで提唱されたという例を私は知らない。
田中卓著作集1『神話と史実』(図書刊行会 1987年刊)(『丹後国風土記』などを参照して)で田中卓氏は次のように述べていいる。
「天火明命をニギハヤヒの命の異名とする天孫本紀の説は、これを積極的に疑ふべき理由に乏しく、しかも逆に、消極的には之を支持するに足る論拠の存することが明らかにせられたであらう。」
『古事記』では天火明の命(あめのおほあかりのみこと)と邇邇芸の命(ににぎのみこと)は兄弟であるとしている。(下記系図参照)
そして、先代旧事本紀は天火明の命と饒速日の命(にぎはやひのみこと)[櫛玉饒速日の尊]は同一人物であるとしている。
このことは邇邇芸の命と饒速日の命が兄弟でとして、その名前の音に共通性がある。
『古事記』『日本書紀』で、系譜上、兄弟とされている天皇の和風謚号には、しばしば、類似性のあることに気づく。たとえば、つぎのとおりである。
第二三代 顕宗天皇 ヲケ
第二四代 仁賢天皇 オケ
第二七代 安閑天皇 ヒロクニオシタケカナヒ
第二八代 宣化天皇 タケオヒロクニオシタテ
第二九代 欽明天皇 アメクニオシハルキヒロニワ
第三五代 皇極天皇 アメトヨタカライカシヒタラシヒメ
第三六代 孝徳天皇 アメヨロズトヨヒ
第三八代 天智天皇 アメミコトヒラカスワケ
第四〇代 天武天皇 アマノヌナハラオキノマヒト
第四一代 持統天皇 オオヤマトネコアメノヒロノヒメ
第四三代 元明天皇 ヤマトネコアマツミシロトヨクニナリヒメ
第四二代 文武天皇 ヤマトネコトヨオオジ
第四四代 元正天皇 ヤマトネコタカミズキョタラシヒメ
他に、
沙本毘古 サホビコ
沙本毘売 サホビメ
大俣の王 おおまたのみこ
小俣の王 おまたのみこ
倭迹迹日百襲姫 やまとととひももそひめ
倭迹迹稚屋姫 やまとととわかやひめ
など
このことから、邪馬台国が北九州にあり、卑弥呼にあたる天照大御神の子供の子供である饒速日の命と邇邇芸の命は兄弟であった。饒速日の命は長男で、邇邇芸の命は弟であるが、邇邇芸の命は傍流で本家筋ではなかった。本家筋の饒速日の命が大和に天降っていたが、傍系であった邇邇芸の命が九州に天降ってその子孫の神武天皇が大和に攻め上り支配者となった。そのことを正当化するために、本家筋の饒速日の命の子孫から傍系の邇邇芸の命の子孫が主流となるように表現する必要があった。
そしてそのように『日本書紀』がまとめられたのではないか。
古代において、氏族がどのような神様の子孫であったを書いたもが『新撰姓氏録』である。
『新撰姓氏録』の「神別」を表にすると右表となる。
この中で、饒速日の命が多い、天火明命も加えれば、圧倒的に多くなる。
饒速日の命の子孫の物部守屋が蘇我馬子と争い負けて、587年に滅んだ。ところが、それから200年以上後の時代につくられた『新撰姓氏録』でも物部氏の祖先である饒速日の命を祖先としている氏族が多い。それに比べれば藤原氏の祖先の天の児屋の命の子孫は少ない。
更に、古代の大臣、大連の下の表がある。
これを見ても、饒速日の命の子孫の物部氏が多い。
歴代天皇の后妃の出自を見ても、9代までの古い天皇の后妃は饒速日の命系が多い。
(下図はクリックすると大きくなります)
まとめると右下の表となる。
なぜこのようになるかというと、両家相続パターン[女性中継(なかつ)ぎによる支配権の継承、貴種への帰属パターン]が考えられる。
身分の高い、ある貴種の人(皇子など)が、出身地以外の土地にはいる。そして、その土地の豪族・主権者の娘と結婚する。そのあいだに生まれた男子が、やがて、その土地と人民の主権者になる。
このパターンを通じて、その土地の勢力は、貴種がわの勢力に、くみいれられていく。 貴種の一族は、支配権のおよぶ範囲をひろげていく。古代においては、神話時代以来、このパターンが、じつにしばしばみえる。
たとえば、次のようなものである。
(1)『古事記』によるとき、九州出身らしい伊邪那岐(いざなぎ)の命(みこと)が、出雲出身らしい伊邪那美(いざなぎ)の命(みこと)と結婚する。[古代の女性は、しばしば出身地に墓がつくられる。伊邪那美の命は、出雲(いずも)の国と伯岐(ほうき)の国とのさかいの比婆の山にほうむられている。]
そして、伊邪那岐の命と伊邪那美の命とのあいだに生まれた須佐の男の命は、出雲方面の主権者となっている。
(2)大国主の神は、須佐の男の命の娘の須勢理毘売(すせりびめ)と結ばれる。そして、須佐の男の命の政治的支配権のシンボルである太刀(たち)と弓矢と琴とをうばって二人でかけおちをする。このようにして、大国主の神は、出雲の国の主権者となる。
大国主の神は、多くの地の女性と結ばれることによって、支配権をひろげていったとみられる節(ふし)がある。
(3)天皇家も、しばしばこの方法をとって支配権をひろげていった。
第9代開化天皇の皇子の日子坐(ひこいます)の王(おおきみ)は、天の御影(みかげ)の神の娘の息長(おきなが)の水依比売(みずよりひめ)と結婚する。そのあいだに生まれた水穂(みずほ)の真若(まわか)の王(おおきみ)が、近(ちか)つ淡海(おうみ)の安の国造の祖となっている。
なお、大正~昭和時代の女性史研究家の高群逸枝(たかむれいつえ)は、『母系制の研究』(全集第1巻、理論社、1966年刊など)をあらわした。高群逸枝は、一対の夫婦のあいだに生まれた子どもは、父方親族の一員であるとともに、母方親族の一員である資格をもっていたとのべる。この考え方によれば、ある人物や氏族の「祖先」は、ある特定の男性に収斂するのではなく、父系と母系の複数の祖先に拡散していくことになる。高群逸枝は、多くの事例をあげて論じている。
たとえば、『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』の「山城国神別(やましろのくにしんべつ)」に、次のような記事がある。
「秦忌寸(はたのいみき)は、神饒速日(かむにぎはやひ)の命(みこと)の後裔である。」
秦忌寸は、秦の始皇帝の子孫で、本来、渡来系の氏族とされている。その渡来系の氏族が、饒速日の命の子孫で、「神別」氏族(神々の子孫と称した氏族)とされているのは、一見矛盾である。
これは、父系相続のみを考えるから、奇異な印象を与えるのである。
たとえば、神饒速日の命の子孫の男性が、秦忌寸出身の女性と結ばれ、(当時は、一般に男性の通い婚であった)その子が、その女性のもとで育てられ、秦忌寸氏の土地、人民の支配権をうけついだような種類の、両系相続があったとすれば、説明がつく。饒速日の命の子孫でありながら、渡来系の氏族の長であるということがおきるのである。
『新撰姓氏録』をみれば、このような事例は、かなりあげることができる。
ふつう私たちは、ある祖先からはじまって、子孫の数がふえて行く図式を考える。
しかし、父系、母系の両方を考える両系相続では、むしろ、さかのぼるにつれて、先祖の数がふえて行く図式が考えられる。
小説家の陳舜臣の『中国の歴史』(平凡社刊)に、次のような文章がある。
「春秋時代もけっこう戦争は多かったのですが、完全亡国はあんがいすくなかったようです。完全に国をほろぼすと、祭祀をうけない祖神が祟(たた)るとおそれられました。だから、周は殷(いん)をほろぼしても、殷の後裔(こうえい)を宋(そう)に封じて、祭祀をつづけさせたのです。春秋時代、虢(かく)という国が晋にほろぼされましたが、これも完全亡国ではなく、小虢と呼ばれる小国が存在を許されています。」
『古事記』『日本書紀』によれば、崇神天皇の時代に、流行病がはやり、大国主の神の子孫の意富多多泥古(おおたたねこ)をさがしだして祖神を祭らせたという話がみえる。
これは、周が殷をほろぼしても、殷王朝の子孫に、祖神を祭らせたのと同じような考え方によるのであろう。
かつての大和の国の地もふくめた土地の支配者、大国主の神のたたりをおそれたものであろう。
大阪は古代に河内湖があった。その近くに日下(くさか)があり、神武天皇が上陸した。そしてその近くの哮峰(いかるがのたけ)に饒速日の命が天降り、饒速日の命の墓が哮峰(いかるがのたけ)の近くにある。
古天皇家の権威を高めるため、血筋を濃くする必要性があった。
継体天皇の例で、継体天皇は応神天皇の五世の孫で、天皇家から離れている。
そこで、継体天皇の地方での子の安閑天皇、宣化天皇は仁賢天皇の血筋の娘を妃としている。継体天皇も仁賢天皇の娘の手白香皇女(てしらかのひめみこ)を皇后として、欽明天皇にした。欽明天皇は血筋が良いとして、安閑天皇、宣化天皇より権威が高まった。
■台与の時代の都
邪馬台国の卑弥呼の時代は朝倉市付近ではないかと考えている。そして、次の台与(とよ)の時代は北九州市か行橋市あたりではないかと考えている。
北九州市から鉇(やりがんな)が多く出土する。船を造ったのではないか。
いわゆる西晋鏡(位至三公鏡、双頭竜鳳文鏡、夔鳳鏡など)の分布は、少し時代が下ると朝倉市から出てこなくなり、遠賀川流域から出てくる。そして、豊前から出てくる。豊前は遠賀川流域を含んでいた。
豊前の国は豊の国から分かれたもので、地図上に点線で示した。
豊前の国の昔の都は遠賀川流域にあった。
・豊前風土記日の逸文に下記がある。
『風土記』[日本古典文学大系2]岩波書店刊から
宮處(みやこ)郡
豊前(ぶぜん)風土記に曰(い)はく、宮處(みやこ)の郡(こほり)。古(いにしへ)、天孫(あめみま)、此(ここ)より發(た)ちて、日向(ひむか)の舊都(きうと)に天降(あまくだ)りましき。蓋(けだ)し、大照(あまてらす)大神の神京(みやこ)なり。云々
原文:豊前風土記曰 宮處郡 古 天孫發於此 天降日向之舊都 蓋天照大紳之神京 云々
注:福岡県京都(みやこ)郡及び行橋市の地。和名抄の郡名に京都(美夜古)とある。
天孫が天降る以前の都であるから天照大神の都と推論したものである。
宮處(みやこ)郡について武田祐吉採択で古代の風土記記事と認められないとしている
このように豊前風土記の逸文から、天照大神が天岩戸から出てきた後に、都は行橋市付近になったとしている。
中臣祓氣吹抄(なかとみのはらへいぶきしょう)の文献の中にこの逸文が出てくるが、これは多田義俊によるものである。
多田義俊[(多田南嶺1698~1750)江戸中期の神道家]は、同時代にはやく亡失していた『神別本紀(しんべつほんぎ)』という本を、偽作した疑いをかけられた人である。また、江戸期の文献にはじめて見える風土記記事が、古代の官撰風土記の逸文としては、一般に、信用しがたいものであることは、考慮する必要がある[秋本吉郎氏は、日本古典文学体系2『風土記』(岩波書店刊)の解説で、「現伝風土記において、現伝本に存しない逸文記事の引用が永仁五年(1297)以前に限られている」ことや「風土記原典よりの直接引用とすべき ものが南北朝以前に限る」ことをのべられ、『中臣祓気吹鈔』の『豊前風土記』逸文を、「古代の風土記記事とは認められない」としておられる。]
伊勢貞丈(安斎、1717~1784)は、その著『安斎随筆』で、多田義俊を評して、「彼は勝れし豪傑なれど、偽りを好む癖あれば、彼の著書に引用する古書の名には、信じがたきものあり。とのべている。伊勢貞丈『旧事本紀剥偽』「とりわけ秋斎(義俊の号)の著す諸書は妄説を加える癖があるがゆえ。むやみに信ずることはできない。」
つまり多田義俊は信用しがたいとしている。
しかし、行橋市の「宮処(みやこ)」について、『日本書紀』には景行天皇の時代に「宮処」とされたが、昔から「宮処」と言いっていたようにも思われる。
多田義俊の話はつくり話としても、もっともらしい話である。
『日本書紀』は記す。
第1代の神武天皇は、南九州の日向(ひゅうが)[宮崎県]の地から出発し、東征して、現在の奈良県の地に入り、西暦紀元前の六六〇年二月十一日(現在の建国記念の日)にあたる日に、畝傍山(うねびやま)の東南の橿原の宮で即位した、と。
『古事記』は東征伝承は記すが、西暦紀元前六六〇年などの年月日は記さない。
たとえば、この西暦紀元前六六〇年という年は、どのようにして定められたのか。
神武東征伝承に関係しては、いくつもの謎がある。
神武天皇の東征経路は下図のように、現在の宮崎市付近の高千穂宮から出発して、北部九州の岡田宮、現在の広島市付近の多祁理宮(たけりのみや)、現在の岡山市付近の高島宮(たかしまのみや)を経て、大阪市付近の浪波(なみはや)で撃退され、紀伊半島を迂回して熊野の方から入って、そこから北上して奈良入って東征を完了させた。
(下図はクリックすると大きくなります)北九州の銅剣・銅矛(どうほこ)は近畿式・三遠式銅鐸(どうたく)と鉛同位体比が同じである。
これは大まかにいえば、銅剣・銅矛の文化圏から、銅鐸文化圏に入っていったと言える。
このことは、神武天皇の前に東遷したという伝承がある饒速日(にぎはやひ)の命がいて、饒速日の命が北部九州の出身で、北九州の銅剣・銅矛の材料を持ち込んで、畿内の銅鐸文化を受け入れ、近畿式銅鐸などを造ったことと思われる。
■第1の謎:使用暦法の逆転現象
最初にとりあげる奇妙な謎は、暦の「逆転現象」の問題である。
これは、『日本書紀』の年月日を記す「暦法」についての問題である。
『日本書紀』では、古い時代の諸天皇のところで、中国の新しい「暦法」[儀鳳暦(ぎほうれき)]が用いられている。そして、それより新しい時代の天皇のところで、中国の古い「暦法」[元嘉暦(げんかれき)]が用いられている。
つまり、儀鳳暦→元嘉暦→儀鳳暦の順で使われている。
この奇妙な「逆転現象」は、なぜ起きたのか。
辛酉(しんゆう)革命の説
『日本書紀』の「神武天皇紀」には、神武天皇は、「辛酉(かのとのとり)の年の正月一日」に、大和の橿原(かしはら)の宮で、第一代の天皇に即位したと記されている。ここで用いられている暦は、儀鳳暦で太陰太陽暦なので、これを現行のグレゴリオ暦に換算すれば、「西暦紀元前六六〇年の二月十一日」となる。
この二月十一日が、第二次世界大戦以前は「紀元節」とされた日である。大戦後は、「建国記念の日」となっている。
「辛酉革命説」は、明治の東洋史学者、那珂通世(なかみちよ)が論文「上世年紀考」(1897年)のなかで、整理した形でのべた。
那珂通世は、およそ次のようにいう。
「中国の古代には、「讖緯説(しんいせつ)」というのがあった。陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)[陰と陽、木・火・土・金・水の働きの強さによって、天地の変異、人事の吉凶を説明する説]にもとづき、天変地異や運命を予言する説である。
讖緯家が、「辛酉革命の説」をとなえている。
辛酉(しんゆう)の年、なかでも二十一度目(1260年。60の21倍)の辛酉の年ごとに、大革命[天の命が、革(あらた)まる]があるというのである。
日本の古伝は、『古事記』本文などに記されているような形のもので、元来、起きた事件の「年代」を伝えていなかったとみられる。
『日本書紀』の編纂者たちは、年代を伝えていなかった古伝を、中国の史書にならって、暦年月日などをいれ、形をととのえようとした。そのさい、日本史上の大変革といえる神武天皇の即位を、推古天皇の九年(辛酉の年。601)から逆にさかのぼって、1260年前の
辛酉の年においたのである。」
・第二次世界大戦前においては、今日の「建国記念の日」、二月十一日は、「紀元節」の日と呼ばれていた。
神武天皇即位の日を、『日本書紀』にもとづいて定め、祝日としたものである。
この祝日は、1872年に定められ、第二次世界大戦後に廃止されたが1966年に、「建国記念の日」として復活し、翌年から実施された。
第二次世界大戦前には、小学校などで、この日に式典が行なわれ、「紀元節の歌」が歌われた。
■第2の謎:古代の諸天皇の寿命は、なぜ長い
神武伝承をめぐる第二の謎は、古代の諸天皇の寿命[享年(きょうねん)]が、しばしば、百歳以上になっていて、異常に長いことである。
なぜ、このようなことになっているのであろうか。
一年二歳説
現在の一年を、二年に数える風習は、きわめて古く、中国の殷などにも、あったのかも知れない。殷の国をひらいた湯王(とうおう)は、在位十二年であったが、百歳で崩じたという。
昭和時代の中国文学者、貝塚茂樹(かいづかしげき)編集の『古代殷帝国』(みすず書房刊)には、次のように記されている。
「陳夢家氏は『季』に関しておもしろい仮説を提出した。結論だけいうと、卜辞では、われわれの『今年』や『来年』と同じ使い方で、『今歳』『来歳』ということがある。この『歳』を、陳氏は年のこととせず、半年の『季』をさしていると考えるのだ。一年は、陳氏によれば、禾(か)季(上半年、すなわち後世の春夏)と麦季(下半年)とにわかれる。禾季は禾類[黍(きび)・秬(くろき)等]のできるとき、麦季は麦類(麦・来等)のできるときだ。卜辞の『春』『秋』はそれぞれ禾季と麦季にあたる。そして『今歳』や『来歳』は今季、来季のことで『歳』は半年単位のシーズンをさしているのだと。この説の良否をここでゆっくり検討するひまはないが、たしかに一考を要する新説である。」
「一年二歳説」を、わが国の古代史について、はじめてとなえたのは、デンマーク人で日本にきていたウィリアム・ブラムセン(William Bramsen)である。ブラムセンは、1880年(明治13年)に、「日本年代表(Japanese Chronological Table)」をあらわし、その序説において、次のようにのべている。
(1)神武天皇から仁徳天皇にいたる十七代の天皇の寿命は、いちじるしく長くなっている。この十七代の平均寿命は、一〇九歳である。
(2)履中天皇以後は、にわかに、寿命が短くなり、普通の人の年齢になっている。履中天皇以後十七代の平均寿命は、六十一歳である。
(3)以上のようなことがおきたのは、はじめの十七代においては、後世に普通に用いられたものと異なる暦が用いられていたためでもあろう。すなわち、冬至と夏至の間、または、春分秋分をもって、一年と数えるような暦によったのではなかろうか。
当時日本は、デンマークと修好通商航海条約(日本に不利な不平等条約)を結んでおり、明治初年には、相当数のデンマーク人が、技術指導などのために、日本にきていた。その一人が、ブラムセンであった。
このブラムセンの見解は、イギリス公使館の、ウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston)(1841~1911)の「日本上古史」(『文』第一巻、第十四号、第十五号。1888年〔明治二十一〕十月十三日、二十日)の中でも紹介されている。
この「一年二歳説」をとなえた人・・・民族学者、岡正雄。歴史研究家、大倉粂馬(くめま)。宮崎県総合博物館の沢武人。などの諸氏。
朝鮮半島の古代の王たちの寿命も長くなっている。
那珂通世は、「上世年紀考」のなかで、次のようにのべている。
「韓史も、上代にさかのぼるにしたがい、年暦が延長されていると思われるところのあることは、ほとんどわが国の古史書と異ならない。」
「百済(くだら)の古爾王(こじおう)は、その父、蓋婁王(がいろおう)の没後六十八年に立ち、在位五十三年に及んだので、古爾の年は、少なくとも百二十余歳となる。比流王(ひるおう)は、その父、仇首王の没後七十一年に立ち、在位四十一年に及んだので、比流の寿命も、すくなくとも百十余歳となる。
新羅の上代にも、寿命が九十九歳の脱解尼師今(だつかいにしきん)がいる。また逸聖尼師今(いつせいにしきん)は、儒理尼師今(じゅりにしきん)の長子であって、儒理の没後七十七年に立ち、在位二十一年に及んだので、寿命は百歳を過ぎるであろう。訖解尼師今(きつかいにしきん)は、その父、干老角干の没後五十七年にあたって、『群臣議して曰(い)う。訖解は幼くして老成の徳がある。すなわち、奉じてこれを立てた。』とあるのは、すでに不都合である。さらに、その後在位四十七年となっているのは、また異常の長寿である。
高句麗王、巨連は寿命九十八歳で、長寿王の名をほしいままにした。その上代をみると、太祖大王は在位九十四年、寿命一一九歳、その弟、次大王は、七十六歳で立ち、九十五歳で無道をもって弑(しい)せられ、またその弟、新大王は、七十七歳で立ち、寿命九十一歳、新大王の国相、明臨答夫は、寿命一一三歳とある。また慕本王が弑殺(しさつ)されたとき、群臣は、王の叔父、再思を立てようとしたのを、再思は、年老いているとの理由で、その子、宮(すなわち太祖大王)に譲ったと見えるので、このとき再思は、すくなくともすでに五十をこえた人であるはずなのに、そのすえの子、新大王は、これより三十六年の後に生れている。
また駕洛国(からこく)の始祖首露王の寿命一五八歳のほかに、首露の后、許黄王の寿命一五七歳というのがある。
アストン(イギリスの外交官、日本学者。1841~1911)は、韓史の長寿者は、長寿王のみであるかのように言うが、粗雑な議論である。」
那珂通世が、ここでとりあげている人物のうち、高句麗の第6代の王の太祖大王などは、中国の歴史書の『後漢書』の「高句麗伝」に、「長ずるに及んで勇壮にして、しばしば辺境をおかした。」とあるから、実在の人物である。しかし、『三国史記』の記す太祖大王の記述は、なんらかの理由で、年代がひき伸ばされているようにみえる。
わが国のばあいでも『古事記』は、第21代雄略天皇の享年を、一二四歳とするが雄略天皇は、まず実在の人物と考えられている。
もし、まったくの神話であったり、語りついでいるうちに長くなったり、後世になって作られたりしたものであるならば、二百歳はおろか。三百歳、五百歳などのお年がでてきてもよいはずではないだろうか。じじつ、たとえば『旧約聖書』の「創世記」などでは、アダムは九三〇歳、アダムの子セツは九一二歳、セツの子エノスは九〇五歳まで生きたことになっている。
■第3の謎:神武天皇は、実在したのか
そもそも、第1代の神武天皇をはじめとする初期の諸天皇は、実在したのか。
これについては、長い論争の歴史がある。
実在しないのであれば、神武天皇などの寿命(享年)や、在位年数や、西暦何年ごろの人か、などをたずねるのは、意昧のないことになる。
古文献の読み方についての、三つの立場
第二次大戦後、具体的な史料分析の立場から、日本古代史の実証的研究をおしすすめた東京大学教授の坂本太郎(1901~1987)東京大学史料編纂所長は『季刊邪馬台国』26号(1985年)に寄せた論文「古代の帝紀は後世の造作ではない」のなかで、およそ、次のようにのべている。
「古代の歴代の天皇の都の所在地は、後世の人が頭のなかで考えて定めたとしては、不自然である。古伝を伝えたものとみられる。第五代から見える外戚としての豪族が、尾張の連(おわりのむらじ)、穂積臣(ほずみのおみ)など、天武朝以後、とくに有力になった氏でもないことは、それらが後世的な作為によるものでないことを証する。
天皇の姪(めい)とか庶母(ままはは)とかの近親を妃(みめ)と記して平気なのは、近親との婚姻を不倫とする中国の習俗に無関心であることを示す。これも、古伝に忠実であることを証する。婚姻関係から見て、帝紀の所伝はいろいろ問題はあるにしても、古伝であることは動かしがたく、後世の七世紀あたりの造作だという疑いはまったく斥(しりぞ)けることができる。」
「疑いは学問を進歩させるきっかけにはなるが、いつまでもそれにとりつかれているのは、救いがたい迷いだということも忘れてはなるまい。」
文献によって、古代をたずねようとするばあい、『古事記』『日本書紀』などの文献の記述を、どう考えるかという基本的な姿勢を、まずたずねておかなければならない。
この基本的な姿勢は、大きく、次の三つを、三極の典型とする形でまとめることができるであろう。
(1)古典信奉主義
年代をふくめ、『古事記』『日本書紀』に記されていることは、なるべくそのままうけとろうとする立場。
(2)半実半虚主義
『古事記』『日本書紀』などに記されていることは、実と虚とがあいまじったものと考える立場。
(3)抹殺博士主義
『古事記』『日本書紀』に書かれていることで、すこしでも疑わしい記述は、否定し、史料としてみとめない立場。
私は、(2)の「半実半虚主義」あたりが妥当であると思う。
あることがらを「実」とするのも一つの仮説、「虚」とするのも一つの仮説と考えて、どちらの仮説がより妥当かを、文献やデータにもとづいて検討していくべきであると考える。
文献の個々の記述などについて検討し、実である根拠や、虚である根拠などを、具体的にあげていくべきであると考える。
ただ、第二次世界大戦以前は、(1)の「古典信奉主義」が盛んで、教科書なども(1)の立場から書かれることが多かった。
第二次世界大戦後は、(1)の立場への反動で、(3)の立場が、かなり盛んである。
第二次大戦以前は、(1)の立場を、頭から信ずる人が多く、第二次大戦後は、(3)の立場を、頭から信ずる人が少なくない。
しかし、(1)の立場も、(3)の立場も、ある立場を前提として、その立場から、古典や史料を解釈、理解しようとする傾向が強い。
一つ一つのことがらを、史料にもとづいて具体的に、分析、検討するという姿勢が、がなり欠けている。その意味で、合理性、あるいは科学性に欠けていると思う。
古典信奉主義
[古典信奉主義]は、年代記述をふくめ、『古事記』『日本書紀』などに記されていることは、できるだけそのままうけとろうとする立場である。第二次世界大戦以前の学校教育は、この立場に近い。
わが国の紀元を『日本書紀』に記す神武天皇即位の年(西暦紀元前660年にあたる年)を元年として数える「皇紀」が用いられた。
昭和十五年(西暦1940年、皇紀2600年)には、皇紀2600年をいわう記念行事が行なわれた。
すでにのべたように、二月十一日は、紀元節の日で、国民の祝日であった。
江尸時代の本居宣長の立場は、基本的に、古典信奉主義の立場といえる。
ただ、この立場にたつばあい、たとえば、以下のような問題がおきる。
(1)『古事記』には、古代の十五人の天皇について、没年を記している。そのうち、十二人の天皇については、『日本書紀』の記す没年と異なっている。次のページの表に示すように、そのくいちがいは、天皇の代をさかのぼるにつれ、大きくなる傾向がみとめられる。
崇神天皇の没年は、『古事記』と『日本書紀』とで、およそ三百年ちがう。このばあい、『古事記』と『日本書紀』とのどちらの記載を信用すべきか。
(2)神話伝承の時代をのぞき、確実な歴史時代にはいってからのちのわが国の諸天皇のうち、もっとも在位期間の長かった天皇は、昭和天皇である。昭和天皇は、1926年に即位し、1989年に死去した。足かけ六十四年間在位した。
いっぽう、『日本書紀』を読むと、第16代仁徳天皇は、八十七年間在位したことになっている。第11代垂仁天皇は九十九年間在位したことになっている。このうち、仁徳天皇などは、中国の宋に使を出した倭の五王の一人の讃か珍にあてられている天皇である。実在の可能性が、かなり高いとみられている天皇である。年代が信用できるかどうかということと、その天皇の実在が信用できるかどうかということとは、問題として、わけて考えなければならない。この仁徳天皇の在位年数などは信用できるのか。
以上あげたような理由などがあるため、古代について合理的に考えようとするばあい、「古典信奉主義」は、そのままの形では、なかなかうけいれがたい。
半実半虚主義
江尸時代に、故実家の伊勢貞丈(いせさだたけ)[1717~1784]はのべている。 「語り違へもあり、聞き違へもあり、忘れて漏(も)れたる事もあり、事を副(そ)へたる事もあるべし。百年五十年以前の事だにも、語り違へ聞き違へて、相違一決せざる事あり。・・・・・・和漢ともに、太古の事は太古の書籍はなし。古(いにし)への語り伝へを後に記したるものなれば、半実半虚なりと思ふべし。」(『安斎随筆』)
1932年に、日本古文書学を確立した東京大学の黒板勝美(くろいたかつみ)[1874~1946]の大著『国史の研究各説』の上巻が、岩波書店から刊行されている。これは、当時の官学アカデミーの中心に位置した黒板の代表的著作といってよい。
『国史の研究』が刊行された当時、岩波書店は、この本を、「学界の権威として、洛陽の紙価を高からしめたる名著」とし、「最近まで各方面にわたりて学界に提出されし諸問題」を「一一懇切詳密に提示論評し」、「その拠否を説明取捨し以て学界の指針たらしめ」「宛然(さながら)最近に於(お)ける国史学界進展の総決算たる観を呈して居る」、そして、「わが国史に就(つ)きての中正なる概念を教示する」もので、一般人士はもちろんのこと、「専門研究者も座右(ざゆう)に備ふるべき好伴侶(はんりょ)たるを失はない」とのべている。
黒板勝美は、『国史大系』などの編集者であり、他の説の批判や自説の主張においては、つねにその根拠を、くわしくのべている。岩波書店がのべていることは、当時にあっては、けっして誇大な宣伝ではなかったのである。その説は、学問的考究の上にたつ、穏健中正な見解とみられていたのである。
黒板は、あとで紹介する津田左右吉の日本神話作為説を「天胆な前提」から出発した研究とし、それを「余りに独断過ぎる嫌(きらい)がある」と批判する。そして、黒板は、神話伝説は、むしろ長い年月の間にだんだん作られてきたとする方が妥当であり、はじめは一つのけし粒であっても、ついに金平糖になるようなものであり、しだいに立派な神話となり伝説となるところにやはり歴史が存在するのではあるまいか、とする。
黒板は、『国史の研究各説』上巻の冒頭で、およそ次のようにのべて、「国史の出発点を所謂(いわゆる)神代まで、遡(さかのぼ)らしめ得る」と説く。
「史前時代と有史時代との境目を明瞭に区別しにくいことは、世界の古い国々みなそうである。その太古における物語は、霊異神怪や荒唐無稽(こうとうむけい)の話に富んでいて、神話や伝説などのなかに歴史がつつまれているといえる。
わが国の神話伝説のなかから、もしわが国のはじまりについての事がらを、おぼろげながらでも知ることができるのであれば、私たちは、国史の出発点を、所謂(いわゆる)神代まで、遡らしめ得るのであり、神代史の研究が、また重要な意義を占めることになるであろう。
もっとも、神武天皇が始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)という尊称をもち、大和に都をひらいた第一代の天皇であるという古伝説にしたがって、あるいは、わが国の歴史の発展を、神武天皇から説明するにとどめようという人があるかも知れない。しかし、わが国のはじまりが、どのようであったかを、いくぶんでも知ることができるとするならば、従来神代といわれている時代に研究を進めることは、また緊要なことといわなければならない。」
ついで、黒板は、天照大御神よりもまえの神々は、皇室の祖先として奉斎(ほうさい)されていないことなどから、実在性はみとめがたいが、天照大御神は、「半ば神話の神、半ば実在の御方」と説く。
「天照大御神は、最初から皇祖として仰がれた方であったからこそ、三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を霊代(たましろ)として、やがて伊勢に奉斎され、今日まで引きつづき皇室の太廟として、とくに厚く崇祀(すうし)されているのである。
元来史話なるものは、截然(せつぜん)と神話に代るものではなく、その境界は、たがいにいりまじって、両者をはっきりと区別することがむずかしい。これが、天照大御神の半ば神話の神、半ば実在の方として古典に現れる理由である。神話がほどよく史的事象を包んでおり、史的事象がほどよく神格化されている。したがって、須佐の男命(すさのうのみこと)に関する古典の記載なども同様であるが、天照大御神の御代に皇室の基礎が定まり、わが国は天照大御神の徳によってはじまったことは、おぼろげながらみとめられなければならない。」
抹殺博士主義
幕末から明治時代にかけて活躍した歴史学者に、重野安繹(しげのやすつぐ)[1827~1910]という人がいた。帝国大学(のちの東京大学)の教授となり、国史料を設置した人である。
重野安繹は、『太平記』の史料価値を検討し、児島高徳(こじまたかのり)の実在を否認し、「抹殺博士」の異名をとった。
この児島高徳について、現代の『国史大辞典』(吉川弘文館、1985年刊)は、次のように記す。
「高徳(たかのり)の事跡は『太平記』にみえるのみで、他の確実な史料にその名が伝わらないため、高徳を架空の人物とする論が、かつて行われたが、その後、田中義成(たなかよしなり)・八代国治(やしろくにじ)らによって『太平記』の記事の傍証となる史料なども指摘され、また児島氏が今木・大富・和田らの一族とともに備前邑久郡(おおくぐん)地方を中心に繁衍(はんえん)した土豪であることもほぼ確かとされ、今では高徳の実在を疑う人は少ない。」
存在の確証のえられない人物・事績を否定することは、啓蒙期の史学に、よくみられる傾向である。イエス・キリストの実在否定説もあった。親鸞(しんらん)の実在否定もあった。現在でも、聖徳太子の非実在説を説く人がいる。
ドイツのニーブール(1776~1831)は、ローマ史の研究者であった。史料の文献学的批判を行ない、ローマ太古史をおおう神話・伝説の雲をとりのぞこうとした。
文献批判学(テキストクリティーク)は、史料が、史実をさぐる材料として役立つかどうか、もし役立つとすれば、どのていど役立つのか、などを吟味(ぎんみ)する。文献を、本文にしたがって、分析究明し、それを現代の理性にしたがって判断し、さらに、異本、伝説などを参照して、史料の価値をさぐろうとする。
ここで、「批判(クリティーク)」ということばは、内容的には、「考証」ということばと、ほぼ同じであると考えられる。しかし、イメージとしては、より鋭く、近代的であるように思われる。
ニーブールの影響を受けたドイツのランケ(1795~1886)は、文献批判にもとづいて、歴史研究を行なう。これらの人々の研究により、歴史学は、ようやく近代的なものとなった。そして、ドイツのドロイゼン(1808~1884)、ベルンハイム(1850~1942)、フランスのラングロア(1863~1926)、セーニョボス(1854~1942)は十九世紀に、歴史学研究法、あるいは、史料批判の方法を、概論的にまとめた。
十九世紀の後半から、このような文献批判学は、わが国にも、紹介された。
ラングロアおよびセーニョボスは、史料のあつかい方についてのべる。
歴史家は、著書のすべての先験的記事を信用してはならない。それが虚偽でも、過誤でもないと信頼できないからである。
「史料のなかで一致しない記事に出会うまで、懐疑を延ばしてはならない。疑うことから開始しなければならない」(以上、高橋巳寿衛訳『歴史学入門』人文閣、1942年刊より)このような文献批判の方法を、ひとくちでまとめるならば、次のようなテーゼとなるであろう。
「確実に信用できるテキスト以外は、史料として、用いてはならない」
十九世紀文献批判学は、それなりの功績もあった。しかし、やがて、いきすぎを生ずるようになる。十九世紀的文献批判学の、大きな問題点は、その方法が、西欧や中国において、しばしば、失敗を重ねてきたことである。
十九世紀的文献批判学は、文献の記述内容にたいして、批判的、懐疑的、否定的な傾向かつよい。このような傾向のため、十九世紀的文献批判学は、史的事実の把握において、大きな失敗を、くりかえすこととなった。
おもな例を、三つほどあげよう。
(1)十九世紀の文献批判学者たちは、『イリアス』や『オデュッセイア』などを、ホメロスの空想の所産であり、おとぎばなしにすぎないとした。しかし、この結論は、学者としてはアマチュアのドイツのシュリーマンの発掘によって崩壊した(ホメロスの叙事詩は、ゼウス、ポセイドーン、ヘルメス、アポロン、アフロディテなど、オリンポスの神々が登場し、二つにわかれて、ギリシア側とトロヤ側とを助けるなど、十九世紀的な文献批判の方法によるとき、とうてい確実に信用できる文献とはいえない。和辻哲郎は、その著『ホメロス批判』のなかで、「神々のとりあつかい方が、全然神話的である」とのべている)。『イリアス』や『オデュッセイア』の物語は、神話的であるにもかかわらず、シュリーマンの発掘のための重要な手がかりを提供した。
『イリアス』および『オデュッセイア』は西紀前700年~800年ごろのホメロスの手になるとされている。いっぽう、トロヤ戦争により、トロヤが火につつまれて落城したのは、西紀前千二、三百年ごろのことである。
ホメロスの詩のテキストは、紀元前三~四世紀には、なお固定していなかった。今日まで流布本として伝えられているテキトは紀元前215年に生まれたアクサンドリアの文献学者、アリスタルコスが、それまでの多くの研究を集成して、校訂し、定めたものである。
史的な事実があってから、ホメロスまででさえ、およそ、五百年の歳月が流れている。ここで、千年以上あとのテキストが千年以上まえの史実を語っているのである。
ホメロスは、盲目であったと伝えられる。また、ホメロスの詩は、竪琴(たてごと)をたずさえた吟遊詩人たちによって伝えられたともいわれる。史実は、口から口へという形でも、後世に伝わりうるもののようである。
(2)中国においても、かつて、十九世紀的な文献批判がさかんで、学者、政治家として著名な康有為(こうゆうい)[1858~1927]が、『孔子改制考(こうしかいせいこう)』をあらわし、夏(か)・殷(いん)・周(しゅう)の盛世は、孔子が、古(いにしえ)にことよせて説きだした理想の世界にすぎないとのべた。殷王統は、星体神話にすぎないともいわれた。
しかし、甲骨(こうこつ)文字の解読、殷墟の発掘は、『史記』の「殷本記(いんほんき)」に記されていることが、王名にいたるまで、作為でも、創作でもないことをあきらかにした。
司馬遷が『史記』を書いたのは、西暦紀元前100年前後のことである。いっぽう、殷の国が存在したのは、西暦紀元前1600年~紀元前1060年ごろとみられている。司馬遷が「殷本記」を書くまでに、およそ、一千年の歳月が流れている。「殷本記」が、史実を伝えているとは、なかなか信じがたいことである。だが、康有為の知性よりも、『史記』の「殷本記」の記述のほうが、はるかに信頼できるものであった。古人は、私たちが考える以上に誠実だったのである。最近の中国考古学界では、夏王朝の実在説も、さかんに主張されている。現在、殷王統の存在を、否定する学者はいない。
(3)『聖書』のうち、『旧約聖書』編纂の事業は、西紀二世紀の中ごろ、一代の碩学(せきがく)といわれるラビ・アキバによっておこなわれた。ラビ・アキバは、厖大な材料を収集、整理し、今日の『旧約聖書』を確定した。
『聖書』はひとつの伝説集にすぎないとされていた十九世紀に、『旧約聖書』の記述を信じて、メソポタミアのティグリス、ユーフラテスの二つの河の流域で発掘をおこなった人がいた。フランスのエミール・ボッタやレアードである。そして、多くの遺跡や楔形文字のきざまれた粘土板が見いだされた。楔形文字で記された文書の解読や、その後の考古学的あるいは文献学的な研究の結果、『旧約聖書』も多くの史実をふくむことがあきらかにされている。
たとえば、『旧約聖書』は、エジプトに移住したイスラエルの民が、エジプト人によって迫害をうけ、モーセにひきいられて、「出エジプト」を敢行したと記している。このイスラエル人が、出エジプトをおこなった年代は、紀元前1250年ごろと考えて、間違いないようである。
『旧約聖書』のばあいも、史的な事実があってから、テキストが定まるまでのあいだに、長い歳月が、すぎさっているようである。千年をこえる人間のいとなみが、神と人間との物語りのなかに、織りこまれているようである。
以上のべたもののほかにも、神話や伝説がかなりの史実をふくんでいた事例は、きわめて多い。ツェーラム著『神・墓・学者』(村田数之亮訳、中央公論社刊)などは、そのような事例の氾濫であるといえる。
世界的にみたばあい、『古事記』『日本書紀』の神話ていどの質と量とをもつテキストが、史的事実を、まったくふくんでいなかった例は、むしろ、めすらしいといえるようである。
東洋史学者、植村清二の見解
新潟大学などの教授であった植村清二(1901~1987)は、すぐれた東洋史学者であった。また、植村は、直木賞でよく知られている作家、直木三十五の弟でもあった。(「直木」は、本名のなかの「植」の字を分解したもの)。
植村は、その著『神武天皇』(中公文庫、1990年刊)において、『古事記』『日本書紀』のなかの神武天皇についての記述を、くわしく分析したうえで以下のようにのべている(以下、カッコ( )内は、安本がおぎなった)。
「初期の(天皇)の系譜的記事の一切が、机上で制作されたという(抹殺博幸王義的な)説は、古人の構想力をあまりに高く評価し過ぎるものである。」
「帝紀は本来系譜的記載だけであって、これに旧辞の物語がそれぞれ付加されて、記紀の原型ができ上がったのであるから、綏靖天皇から開化天皇までの八代に何の物語も伝えていないのは旧辞にそれが欠けていただけに過ぎないのであって、そのために帝紀の記事を疑う理由とはなり得ないのである。」
「もし更に十数代の世代を増せば、年紀との矛盾はよほど避け易くなったに違いない。然(しか)るに書紀の編者がこれを試みず、智恵もなく八代の天皇の事蹟をブランクのまゝに放置したと共(とも)に、百数十歳の長寿を記して後人を怪しませるに至ったのは、全く彼等が帝紀そのものの所伝を尊重したからに外ならないからであろう。そしてこの点からも帝紀の記事が少なくとも権威あるものと信ぜられたことがわかる。
著者は素朴に崇神天皇以前の天皇は、最初から帝紀に記載されていたことを認め、しかもそれは古い伝承であったと考えるものである。」
七人の東大教授(津田左右吉氏の説に批判的、邪馬台国東遷説支持的)
白鳥庫吉氏は、明治期の東京大学を代表する史家であった。東洋史学の開拓者であり、かずかずの新研究を発表するとともに、多くの研究者を育成した。白鳥庫吉氏は、また、邪馬台国北九州説を説き、畿内大和説を主張する京都大学の内藤湖南氏と、白熱の論争を戦わせた。邪馬台国の位置をめぐる諸説は、それまでにも出されてはいた。しかし、現代まで長く尾をひく、いわゆる邪馬台国論争は、このときはじめて、はげしい沸騰をみせたといってよい。
白鳥庫吉氏は、「邪馬台国東遷説」を示唆し、のちの和辻哲郎氏、の「邪馬台国東遷説」に、直接つながりうるような内容をもつ論文を、いまからおよそ七十年まえに、すでに発表している。
すなわち白鳥氏は、 明治四十三年(1910)に発表した論文「倭女王卑弥呼考」の中で、「魏志倭人伝」の「卑弥呼」に関する記事内容と、『古事記』『日本書紀』の「天照大御神」に関する記事内容とを比較している。そして、その二つの記事内容について、「その状態の酷似すること、何人も之(これ)を否認する能(あた)わざるべし。」と述べている。この指摘は、のちの「邪馬台国東遷説」の核心部と関係する。
(2)和辻哲郎氏(わつじてつろう)(1889~1960)
白鳥庫吉氏の見解は、観察眼の広さと、明晰な思考によって知られる東京大学の哲学者、和辻哲郎氏によってうけつがれ、発展させられた。
和辻哲郎氏は、ニーチェやキェルケゴールの研究から、さらに、日本文化の研究にすすみ、『日本古代文化』、『古寺巡礼』、『風土』などの、数々の名著をあらわした。
和辻氏の「邪馬台国東遷説」は、『日本古代文化』のなかにみえる。『日本古代文化』は、大正九年(1920)に初版が刊行された。そして、大正十四年(1925)と、昭和十四年(1939)とに改稿版が、昭和二十六年(1951)には『新版本古代文化』がだされている。改稿のたびに、内容は、かなり大きく書きあらためられている。
初版の『日本古代文化』は、和辻氏が、若冠二十六歳のときの著作である。和辻氏の「邪馬台国東遷説」は、初版において、もっともくわしい。
和辻氏は、改稿版においては、初版におけるほど明確には、「邪馬台国東遷説」をうちだしていない。 戦時色が濃くなるにつれ、『古事記』『日本書紀』の記す皇室の祖、天照大御神と、中国の史書『魏志』「倭人伝」の記す東夷の女酋卑弥呼とを結びつけることは、多少とも、はばかるところがあったのであろうか。
初版の『日本古代文化』について、和辻氏は、のちに、つぎのように述べている。
「その後、二十年のあいだに、自分は、幾冊かの著書を書いたが、この書(初版『日本古代文化』)を書きあげた時ほど、うれしかったことは一度もない。」(昭和十四年改稿版『日本古代文化』序文)初版の『日本古代文化』は、和辻氏にとって、記念の一冊であった。
和辻氏は、その「邪馬台国東遷説」を展開するにあたって、まず、『古事記』『日本書紀』の神話と「魏志倭人伝」の記述との一致とを、ややくわしく指摘する。
『古事記』『日本書紀』の伝える天照大御神の事跡は、「魏志倭人伝」の記す卑弥呼の事跡と一致するとし、『古事記』『日本書紀』の神話の伝える高天(たかま)の原時代は、「魏志倭人伝」の伝える邪馬台国時代の記憶ではないかとする。それは、白鳥庫吉氏の論旨にほぼ近い。
「君主の性質については、記紀の伝説は、完全に魏人の記述と一致する。たとえば、天照大御神は、高天の原において、みずから神に祈った。天上の君主が、神を祈る地位にあって、万神を統治するありさまは、あたかも、地上の倭女王が、神につかえる地位にあって人民を統治するありさまのごとくである。また天照大御神の岩戸隠れのさいには天地暗黒となり、万神の声さばえのごとく鳴りさやいだ。倭女王が没した後にも国内は大乱となった。天照大御神が岩戸より出ると、天下はもとの平和に帰った。倭王壱(台)与の出現も、また国内の大乱をしずめた。天の安河原においては八百万神が集合して、大御神の出現のために努力し、大御神を怒らせたスサノオの放逐に力をつくした。倭女王もまた武力をもって衆を服したのではなく、神秘の力を有するゆえに衆におされて王とせられた。この一致は、暗示の多いものである。」
「我々は国民の大きい統一が三世紀以後の機運であることを知っている。また、女王卑弥呼が、倭人の間においても、新しい現象としで起ったという形跡を、魏志の記述から発見する。明らかに国家統一後の所産である神代史が、右のごとき一致を示すとすれば、たとえ伝説化せられていたにもしろ、邪馬台国時代の記憶が、全然国民の心から、消失していたとは思えない。」
和辻氏は、ついで、大和朝廷の国家統一が、どのように行なわれたと考えられるかについて述べる。大和朝廷は、邪馬台国の後継者であり、『古事記』『日本書紀』の伝える神武東征の物語の、「国家を統一する力が九州から来た。」という中核は、否定しがたい伝説にもとづくものであろうとする。
「邪馬台国東遷説」の骨格が、かなり明確な形で提示されている。
和辻氏はいう。
「大和朝廷の国家統一がいかにして行なわれたかは、記紀の古い伝説のうちに、ほのかながらも、痕跡が認められると思う。」
「なんらの伝説もないところに、全然頭のなかから、都合のよい物語をつくりだすというような力は、とてもあったらしく思えない。だから、全体の構想や、一つ一つの物語の連関のつけ方など、後代の創意を認めるとしても、おのおのの物語りには、それぞれ古い民間説話が秘められていると見なければならない。国家統一の事情も、そういう意味で、神代史や上代史から見いだせるであろう。」
「大和朝廷の国家統一については、まず、神武東征の物語が関係をもつ。・・・神代と人代とを結びつける物語が、とくに作者のいちじるしい潤色をうけたのは当然である。しかし、人名や地名や個個の事件などを別として、『国家を統一する力が九州から来た』という物語の中核は、はたして作為であろうか。大八州を生んだイザナギの命の降臨地が大和に近く、また天孫が大八州を治めるために天より降るとすれば、皇室の発祥地を最初より大八州の中央と定める方が、物語の構造としてははるかに自然である。人間のことでない天よりの降臨が、しかも、悠久な古(いにしえ)の出来事が、大和であると九州であるとによって、どれほど神秘的な意味を変えるだろう。ことに、大和に都する皇室のためには、皇祖が、大和に降臨したとする方が、はるかに意味深い。物語りとしても、かえって、その方が、出雲国譲りの事件を活かせることになる。これらの好都合をすべて無視して、天孫を九州に降臨せられたと、国家統一のために神武東征を必要とするのは、作者の作為とは思われない。
統一の力が九州から動いた。このことは、恐らく否定しがたい伝説であったろう。」
「神武東征の物語に、筑紫の勢力がほとんど問題とせられていないのは、筑紫の状況を知るわれわれにとって、力強い暗示である。もし、筑紫以外の九州の勢力が、国家を統一したとすれば、筑紫の勢力との争闘は、なんらかの伝説を残さずにはいまい。しかし、『かつて盛大であった邪馬台(やまと)』の征服を思わせる伝説は、どこにも存しない。邪馬台(やまと)の国は突如として消えた。がそこにはもう全国を統一する大和(やまと)の勢力があらわれている。」
和辻氏は、また、考古学的な事実について、つぎのような点を指摘する。
(a)『古事記』『日本書紀』の神話では鉾と剣とがしばしば語られてぃる。それは筑紫中心の銅鉾銅剣の文化と照応している。
(b)『古事記』『日本書紀』の神話は、銅鐸についての、なんらの記憶も、記していない。これは、『古事記』『日本書紀』の神話が、近畿中心の銅鐸文化圏において発生したものではないことを示している。
(c)大和朝廷および古墳時代の文化は、銅鉾銅剣文化の系統をひく。すなわち、筑紫の銅鉾銅剣文化が、近畿銅鐸文化を征服した。
和辻氏は述べる。
「しかるにわれわれは、銅鐸についての記憶を、伝説のいずこにも発見することができない。銅鐸の用途は、梅原(末治)氏が推測するごとく、祭器であろう。これほどに、顕著な、そうして宗教的意義をもったに相違ない製作品が、古伝説になんらの痕跡を残さないとすれば、古伝説が、銅鐸中心の文化圏内において発生したのではないことはあきらかであろう。」
「ここにおいて、われわれは、われわれの古伝説を生みだした文化圏、すなわち三世紀以後の大和朝廷を中心とする文化圏が、銅鉾銅剣の文化の系統を引くものではないかとの推測に達するのである。すなわち、筑紫地方において急激に発展した勢力---銅鉾銅剣を徴証とすれば、その勢力範囲は朝鮮南部、四国、中国西部を含んでいる---が、・・・東方の大和に移り、そこを中心として関東平野以西全部を統一したのではなかろうかという推測である。」
「古墳からもっとも多量にでる漢鏡(和辻氏は『漢鏡』を、『漢代の鏡』の意味ではなく、『中国の鏡』の意味で用いておられるようである。)勾玉、刀剣の類も、この問題については、暗示するところが多い。
・・・漢人と直接に接触してもっとも多くその影響をうけたのは、筑紫人である。・・・この種の技術の、もっとも古くもっともよく発達していたのは、筑紫の地でなければならない。だから、鏡、玉、剣のごとき物品およびそれを製作する技術は、漢人と直接交通した筑紫人の手を経て、東方に広がったか、もしくは、筑紫人がみずから東方に運んだかでなくてはならぬ。すなわち、古墳時代の文化は、九州起源だということかできるのである。」
「このような考古学的事実を、前述の『東征』という事実に連関せしめてみる。弥生式文化は、筑紫地方を中心として東方へ広がったのであって、これを『東征』と考えて、なんらさしつかえはない。また、武器尊崇は、筑紫地方から起って、東方へ広がったのであって、銅鐸尊崇がそのために消滅したことを、『東征』と考えても、おなじくさしつかえはない。・・・古伝説のなかに、もっとも強力なモチーフとして、東征が語られるのも、ゆえなきことではないであろう。」
(3)黒板勝美(くろいたかつみ)(1874~1946)[右の写真]
「天照大御神の御代に。皇室の基礎が定まり、わが国は天照大御神の徳によってはじまったことは、おぼろげながらみとめられなければならない。」
「(津田左右吉の説について)余りに独断過ぎる嫌(きらい)がある。」
(4)坂本太郎(さかもとたろう)(1901~1987)
「疑いは学問を進歩させるきっかけにはなるが、いつまでもそれにとりつかれているのは、救いがたい迷いだということも忘れてはなるまい。」
(5)金子武雄(かねこたけお)(1906~1983) 『古事記神話の構成』桜楓社刊、1963年
「国譲りの神話の舞台は高天の原と出雲とであるが、出雲方の人々の立場からではなく、高天の原方の人々の立場で語られていることは明らかである。しかし高天の原方の立場に立つ人々というのは、近畿の人々なのか、それとも筑紫の人々なのか。『古事記』では、建御雷の神(たけみかづちのかみ)とこれに添えられた天の鳥船の神(あめのとりふねのかみ)とが、「出雲(いづも)の国の伊那佐(いなさ)の小浜(をばま)に降(くだ)り到(いた)りて、十掬剣(とつかつるぎ)を抜きて、逆(さかさま)に浪の穂に刺し立て、その剣の前(さき)に趺(あぐ)み坐(ま)して」、とあり、その上で大国主神と談判したとある。
「降(くだ)り到(いた)り」とあるから高天原から降ったという意である。しかし、本来そうだったのか。高天の原から降るというのなら、なぜ、わざわざ岸近くの海に降ったのか。おそらくは海路から出雲に行ったという事実が反映しているのであろう。「天の鳥船の神(あめのとりふねのかみ)」は船そのものか、あるいは船の操縦者か区別しがたいが、とにかくこの神が添えられたということがそれを思わせる。そして「天降った」というのは、高天の原との関係によって神話化せられたものと考えることができる。
この出雲との国譲りの交渉の神話は、おそらくなんらかの史実を基盤としていると思われる。建御雷の神が船に乗って出雲の海岸に着いていることが、この神話の基盤になっている史実を反映しているものとすれば、その史実は、当然、近畿と出雲との間の交渉ではなくて、筑紫と出雲との交渉であったとみなければならない。近畿から出雲へは船で行くはずはないからである。こうしてこの国家譲渡の交渉の神話もまた、筑紫で生育したものであることを思わせる。」
「やや比喩的に言えば、高天の原はほかならぬ筑紫の上にあったのである。・・・いわゆる高天の原系神話も、いわゆる筑紫系神話と同じく筑紫の地に生育したものと思われる。」
(6)和田清(わだせい)(1890~1963)
まず、和田氏は、つぎのような理由から、邪馬台国北九州説をとる。
(a)末盧国、伊都国、奴国、不弥国など、今日でいえば、一郡にもあたらぬ小さな国である。他の三十国近くの国だけが、後の一国にあたるような大国でありうるはずがない。一国が、一郡にもあたらぬ小さな国であるとすれば、三十国は、北九州一帯にすぎない。
(b)当時、日本は、まだ統一していなかったと考えられる。隣の朝鮮半島でも、馬韓は五十余国にわかれ、辰韓は十二国にわかれ、弁韓もまた十二国で、統一していなかった。海をへだてた日本だけが統一していたとは、考えられない。もし、女王国が大和だとすると、大和にいて、壱岐、対馬までしたがえていたとすれば、それは、西日本の統一を意味する、女王国を北九州だとすると、北九州なればこそ、壱岐、対馬を統属していたことになる。しかも、南に、狗奴国、すなわち、熊襲の国が独立してありえたことになる。
(c)「倭人伝」に、「女王国の東、海を渡ること千余里、また国あり、みな倭種である。」とある。女王国が、もし大和であれば、この一句は、まったく意味をなさない。
和田清氏の「邪馬台国東遷説」
和田清氏は、その「邪馬台国東遷論」を、つぎのように展開する。
「端的に申しあげますと、私は、卑弥呼の国が東征して、大和朝廷の基を開いたかと思うのであります。もちろん、卑弥呼は、とうに死んでおりますし、その子孫はありませんが、その勢力をついだものが東征したろうというのであります。」
和田清氏は、「邪馬台国東遷論」をとる理由として、つぎの三つをあげている。
(a)卑弥呼の国は、邪馬台、すなわちヤマトといった。そして、大和朝廷もヤマ卜といった。畿内にはあとにつけた大和国を除いて、ヤマトという固有の地名はない。これは、北九州に、山門という古地名が残っているのと、大きな違いである。邪馬台の勢力をつがなければ、ヤマトを名乗るわけがない。
(b)北九州は、銅剣銅鉾の文化を持っていた。これに対し、畿内は、銅鐸文化をもっていた。しか も、大和朝廷は、銅鐸のことを、まったく知らない。『日本書紀』をみても、『古事記』をみても、天の叢雲(むらくも)の剣や、玉や、鏡のことはよくでているが、さしも盛んであった銅鐸のことは、まったくでてこない。『扶桑略紀』によると、天智天皇の時(天智七年〔668〕に、近江の国、滋賀郡〔今の大津市の北方〕で)、銅鐸(宝鐸)の発見があったが、だれも知るものがない。『続日本紀』によっても、元明天皇の時、(和銅六年〔713〕七月、大和の宇太郡長岡で)銅鐸がでてきたが、だれもわからなかったという。銅鐸は、おそらく祭器で、その部族にとっては、神聖なものであったに相違ない。しかるに、大和朝廷では、当局も、まったくこれを知らない。これは、大和朝廷が、畿内の文化の代表者でなかった証拠である。銅鐸は、多く隠匿したような形ででてくるというが、これは、この文化の代表者が、銅剣文化の保持者の圧迫に対して、これをかくしたものかと思われる。
(c)大和朝廷の伝説には、北九州の勢力を平げた話だけがない。もちろん、歴史時代に、筑紫の磐井の乱を平げた話などがあるが、それは歴史時代のことで、それとこれとは別である。卑弥呼の国は、さしも盛んであったのに、有史以前に、これを平げた話はない。イズモ、クマソすべてを平げた話はくり返してあるのに、北九州を平げた話だけがない。かえって、その代りに、神武東征の話があって、九州から大和を従えたことになっている。
天照大御神は卑弥呼の伝説
和田清氏は、つぎのような理由から、三世紀には、大和朝廷は、成立していなかったと考える。そして、日本の統一を四世紀の上半初期とされる。
「邪馬台国は、三世紀の半ごろに、日本でもっとも有力な国家でありました。もし、当時畿内に、もっと強力な国家があれば、卑弥呼が、いかに邪魔をしても、直接支那に通じないという法はありません。しかも、倭人伝によるかぎり、そういう形跡は、すこしもないのであります。」
和田清氏は、さらに述べられる。
「神武天皇東征の話が、どれだけ歴史事実を伝えたものか解かりませんが、すくなくとも、その話の筋の中には、北九州の勢力が、大和にうち入った記憶だけは、とどめているのではないでしょうか。」
「卑弥呼の時代は、三世紀であって、日本の記録の成ったのは、八世紀であります。その四五百年のあいだには、記録のない未開人の間には、すべてのことが忘れられて、卑弥呼のことも、天照大神の伝説ぐらいになってしまったと考えても、よくはないでしょうか。」
(7)井上光貞(いのうえみつさだ)(1917~1983)
「・・・もっと自然なのは、邪馬台国東遷なのである。もちろん邪馬台国東遷説も、可能性のある一つの仮説にすぎないが、『北九州の弥生式文化と大和の古墳文化の連続性』、また『大和の弥生式文化を代表する銅鐸と古墳文化の非連続性』という中山氏や和辻氏の提起した問題は、依然として説得力をもつと考えられる。また、邪馬台国は、その女王壱与(いよ)が266年に晋に適使した後、歴史の上から姿を消してしまった。
いっぽう畿内の銅鐸も、二、三世紀の弥生後期にもっとも盛大となり、しかも突如としてその伝統を絶った。そして三世紀末、おそくとも四世紀はじめごろから古墳文化が畿内に発達して全国をおおっていくのである。邪馬台国東遷説は、この時間的な関係からみても、きわめて有力であるといってよいであろう。」
■第4の謎:神武天皇は、実在したとすれば、いつごろの人か
神武天皇が実在したとすれば、いつごろの人であろうか。
また、初期の諸天皇の活躍年代や没年などは、いつごろと考えられるのであろうか。これについては、1965年以降、数理統計学的手法による推定が、数多く行なわれているようになってきた。
そして、その結果は、おおむね一致している。
(a)「奈良七代七十年」奈良時代は第四十三代元明天皇から、第四十九代の光仁天皇までの七代、すなわち、元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の七代で、74年(710~784)。この間、一代平均10.57年。桓武天皇は、はじめ784年に長岡京(京都府向日市のあたりが中心)に都をうつしている。
(b)「君、十帝を経(へ)て、年(とし)ほとほと(ほとんど)百」 この文は、奈良時代史の基本文献である『続日本紀(しょくにほんぎ)』の、淳仁天皇の天平宝字二年(758)八月二十五日の条に記されている。これは、第三十六代の孝徳天皇から、第四十六代の孝謙天皇までが、十代で、104年ほどであることをのべているのである。
すなわち、天皇一代の平均在位年数が、およそ10年ていどであることは、奈良時代の人たちが大略認識していたことであった。
結論:神武天皇は278年前後と考えられる。
■第5の謎:神武天皇は、なぜ、東征したのか
『古事記』『日本書紀』によれば、第1代の神武天皇は、南九州の日向(ひゅうが)[宮崎県]の地から出発し、東に向かい、大和(奈良県)にはいったことになっている。
神武天皇が、日向の地にいたとしても、なぜ、東に向かう必要があったのだろう。また、東征神話が、のちに大和朝廷の役人たちによって、机上で作られたものとすれば、皇室の発祥地を、伊勢(三重県)あたりにでもしたほうが、話はずっと簡明になるはずであるが、・・・。
神武天皇が東に向かったおもな理由として、次の三つをあげることができる。
(1)東に、南九州よりも、生産力の豊かな地のあったこと。
(2)神武天皇に、英雄性のあったこと。
(3)長年月にわたる邪馬台国後継勢力の日本列島植民地化革命運動は、東へ東へという方向性をもっていたこと。この革命運動は、天皇家を貴種と定め、貴種による支配を「正義」とし、租税制度を普及させ、その税収により、軍隊や役人を養い、政治を組織化する構造をもっていたこと。組織的な国家の樹立を、目指しているところがあるため、日本列島内の敵対勢力は、結局は抵抗できなかった。
『魏志倭人伝』に、倭人は、「租賦(そふ)を収(おさ)む」と記されている。米など、収穫物の一部を、官に納める「租税制度」があったのである。「租税をとる」というアイデアは、中国からきたものであろう。「租税をとる」ことによって、「国家」は、はじめて、部族国家の域を脱する。強力な「国家」といえるものとなる。「租税」によって、戦争にとくに適した屈強の若者たちを「兵士」として雇(やと)いうる。それらの「兵士」は、戦争だけに専念することができる。組織的な訓練を受けることとなる。「租税」によって、最新鋭の武器を購入することができる。最新鋭の武器をもち、組織的な訓練をうけた兵士によって、王朝を守らせることができる。支配地域を拡大させうる。
武力によって、支配地域の人民から、「租税」を収奪することができる。
また、一方、「租税」によって、人をやとい、治水や灌漑などの土木工事をより大規模に行なうことができる。外国の新技術も導入し、農業生産力をあげることができる。
「租税」制度をもつ国家は、人々の生活を安定させ、より豊かにする。人口の自然増も大きくなる。支配地域そのものも、ひろげうる。
「租税」収入をより大きくし、武力を、すなわち、国家権力を、さらに大きくすることができる。
このようにして、国家権力の拡大再生産が可能となる。
アイヌは、最後まで、部族国家の域を脱しなかった。組織的な徴税システムをもたなかった。
このような部族国家では、鮭が川にのぼってくれば、戦争を放棄して、魚をとらなければならない。兵士は、日ごろは、生産に従事しており、戦争のプロではない。戦争のための組織的な訓練を、十分にうけているわけではない。
徴税システムをもつ「国家」と「部族国家」とが戦ったばあい、長い目でみると、「部族国家」に勝ち目はない。
大和朝廷は、徴税を行なうという、新機軸の国家システムによって、比較的短い期間で、日本列島を席巻していったとみられる。
『魏志倭人伝』は記している。
「其(そ)の(倭人の)俗、国の大人(たいじん)[身分の高い人]は、皆四、五(人)の婦(よめ)あり。下戸(げこ)[しもじもの家]は、あるいは、二、三(人)の婦あり。」
三世紀の倭人の伝統を引くのであろう。『古事記』『日本書紀』によれば、天皇は、多く妻(みめ)をもっている。そして、天皇家の子弟は、各地に派遣されている。
皇子たちは、中央からの武力をともなって各地におもむき、その地に権威者としてのぞみ、その地で徴税システムをつくり、大和朝廷のさらなる発展に、寄与することとなるのである。
中国の漢および後漢では、王子が、しばしば、各地の王に封じられている。大和朝廷がとった方法も、それに近い。
そして、各地におもむいた皇子たちは、各地で組織された兵をひきいて、中央の政府にも参画し、新たな征服戦にものぞむのである。
徴税システムという新文化をうけいれたのは、九州のほうが、畿内よりも早かったはずである。朝鮮半島や中国に近く、また、南方原産の稲がはいったのも、九州のほうが早かったとみられるからである。
そして、徴税システムを、さきに受けいれたがわのほうが、国を統一して行く権力になりやすかったはずである。
・帝国主義的植民地獲得運動
簡単にいえば、古代の邪馬台国-大和朝廷は、天皇家を中心として、帝国主義的な植民地獲得運動(戦争)を、長期にわたり展開していったのである。 帝国主義といえばふつう、十九世紀末以後の、西欧列強による領土獲得主義、他国または後進の民族を征服して、大国家を建設しようとする運動をさす。
邪馬台国-大和朝廷の起した運動も、かなりそれに近い。とくに、コサックの騎兵を先にたて、地つづきで、広大なシベリアを征服し、植民地化していったロシアの動きに近い。
いま、西欧列強などの、植民地獲得運動の状況を、「言語」という面からみてみよう。
世界には、およそ五千種の言語があるとも、七千種の言語があるともいわれている。そして、日本語は、現在、中国語、英語、ロシア語、ヒンディー語、スペイン語につぎ、世界で、第六番目に使用人口の多い言語である。
表にみられるように、1950年の統計で、英語の使用人口は、約二億五千万人。これに対し、日本語の使用人口は、約八千三百万人。約三分の一である。
しかし、ついその五百年ほどまえの西暦1500年ごろには、英語の使用人口は、約五百万人、日本語の使用人口は、約千八百万人と推定されている(表やグラフ参照。角川小辞典『図説日本語』による)。
日本語の使用人口は、英語の使用人口の三倍強であった。英語は、五百年ほどのあいだに、使用人口が、およそ五十倍になった。英語の使用人口は、とくに、十九世紀以後に爆発的に多くなった。
ロシア語も、スペイン語も、五百年ほどまえには、日本語よりも使用人口がすくなかった。
五百年ほどのあいだに、ロシア語は、十五倍以上、スペイン語は、十四倍以上に使用人口が膨張した。日本人は決して少数民族ではなく、大河と呼ぶにふさわしい。
英語やロシア語、スペイン語が、ここ五百年ほどのあいだに、急激に膨張したのは、政治的な事情による。植民地獲得運動を、積極的に行なったためといえる。
八世紀の奈良時代の日本の人口は、すでに、六百万~七百万人に達していたと推定されている。これは、数百年のちの、西暦1500年ごろの英語の使用人口よりも多い。
邪馬台国-大和朝廷は、西欧列強よりもずっと早い時期に、わが国内で、植民地獲得運動を展開していたといえる。
第二次世界大戦のあと、わが国の侵略主義は、大いに批判をうけた。反省するべきではあるが、西欧列強や中国は、あまり強くは、他を批判できない過去を持っているといえる。「勝てば官軍」的な勝者の論理を、すなおに受けとりすぎるのも、どんなものであろうか。
邪馬台国の後継勢力による国土統一戦争は、「血統」の正しい支配者を上にいただいているという、「正義はわれにあり」とする理念と、新しい組織的国家をつくろうとする意欲と、徴税システムという新文化と、さらに武力とによって、国土を席巻して行く運動であった。
以上のべたような構造による国家権力の拡大再生産システムは、つねに、あらたな植民地となる土地と人民とを必要とする。
植民地時代に、ロシアは、地つづきでシベリアを植民地にしていった。それと同じように、大和朝廷は、長年月をかけて、日本列島全体を植民地化していった。それは、北海道を、和人化するまで続いたともいえる。
このように、北九州の地に成立した邪馬台国は、その後「血統」と「租税制度」とを基軸として、各地に勢力をひろげていったのである。
そして、わが国古代の、天皇家を中心とする帝国主義的植民地獲得運動は、独特の特色をもつものであった。
それは、武力一辺到の征服主義ではなく、すでに紹介したように、しばしば、「両系相続」の婚姻制度などにより、「言向(ことむ)け和(やわ)す」という方法により、平和裡に、地元勢力を、貴種がわの勢力に組みいれて行くという方法をとる、というものであった。
最後に、古代史を研究する上で重要な問題を考える。
■新(ネオ)・神話史実主義(エウヘメリズム)の提唱
紀元前300年ごろに、シチリア島に生まれたとみられる神話学者、エウヘメロス(Euhēmeros)は、神話は、史実にもとづくとする説をたてた。
すなわち、ギリシア神話の神々は、人間の男女の神話化したものと説いた。神々は、元来、地方の王または征服者、英雄などであったが、これらの人々に対する人々の尊崇、感謝の念が、これらの人々を神にしたとする説(エウヘメリズム euhemerism)である。
エウヘメリズムは、新井白石の、「神は人なり」説に近いといえよう。
第二次大戦後のわが国では、津田左右吉流の立場から、神話と歴史とは峻別すべしということで、エウヘメリズムは、批判の対象とされることが多かった。しかし、エウヘメロスの考えは、シュリーマンの発掘によって、実証された部分があるともいいうる。
ヘレニズム(ギリシア精神)のなかから、もろもろの科学が芽ばえた。
エウヘメリズムは、神話についての合理的説明をこころみたものとして、もう一度みなおされる必要がある。
たとえば、日本神話にでてくる地名の統計をとれば、畿内の地名は、ごくわずかしかでてこない。九州と出雲の地名が圧倒的に多くでてくる。これは、大和朝廷の役人たちが、奈良県の地で、神話を創作したとする説とは、矛盾する。神話が生育したのは、おもに、九州と出雲であることを思わせる。そのような統計調査の結果は、神話に、史実の核があるとする仮説を支持する材料になりうる。このような統計調査は、だれが行なっても、同じ結果がえられるという「再現性」をもつ。
これまでに得られている多くの成果は、エウヘメロスやシュリーマンのような、粗朴な神話理解こそ、実りが豊かであることを示している。津田左右吉流の十九世紀的文献批判学は、あまりにもしばしば事実によって裏切られている。
ギリシア、ローマの考古学や、聖書の考古学は、すべての考古学のはじまりであり、母胎であった。
そして、その考古学は、神話、伝承といったものに、みちびかれたものであった。
ホメロスの詩が、吟遊詩人の口承伝承であったことは、たとえば、矢島文夫氏の、『失われた古代文字99の謎』(産報刊)などにくわしい。そして、『古事記』『日本書紀』の神話には、口承伝承の名ごりと考えて、はじめて理解できる表現形式が、きわめて多いことについては、別の機会に詳論したことがある(『邪馬台国論争批判』)。
シュリーマンの時代にもどってみよう。
ホメロスの『イリアス』は、ゼウスの子アポロンが「遠矢をいて」アカイア人の戦列に、致命的な疾病をあたえることからはじまっている。ゼウスみずから戦いに干渉する。ゼウス、ポセイドーン、ヘルメス、アポロン、アプロディテなど、オリンポスの神々は、ギリシア側とトロヤ側にわかれて助ける。それは、『古事記』『日本書紀』の神話よりも、はるかに神話性の強いものである。
しかも、年代のととのった歴史時代以後のギリシア人は、一小民族にすぎなかった。壮麗な宮殿も、王の権力も、千艘の船も、そこにはみられない。
どうして、ホメロスの詩が、信じられるであろうか。当時の学問的思弁が、『イリアス』は、ホメロスの詩的霊感の産物としたのも、自然な状況ではあった。
が、シュリーマンは、当時の学問的思弁よりも、古人の書いた文献のほうが、いっそう権威もあり、信頼もおけることを示した。
各用語は『ギリシア・ローマ神話辞典』(岩波書店1960年刊)、参考書 村田数之亮著『エーゲ文明の研究』(弘文堂1949年刊)などから下記参照。
シュリーマン[Heinrich Schliemann](1822-1990)は「ミュケナイ文明と トロイア文明との発見者。北ドイツに貧しい牧師の子として生まれる。少年の時トロイア物語の実在を信じてそれの発掘を決心。刻苦して大商人となり巨富をつむと業界を退いて1871年以来その生涯をホメロス世界の発見と実現に努めた。すなわち古えのトロイアを当時の定説に反してヒッサリークの丘に求めて、ここに7層の都市(実は城塞で後に9層と改める)の城壁と財宝とを発見してトロイア文明を実証して世界を驚かした。また、ミュケナイ、ティリュンス、オルコメノスを発掘してミュケナイ文明を発見して設定した。
クレタ島のクノッソスにも着目したが、発掘せずに終わった。彼はエーゲ文明の、少なくともその前半の発見者であり、その数奇な生涯と語学の天才は多くの発掘報告とともに彼の偉大さを示す。
ホメロスの世界は虚構ではなく、実在したことを明らかにした。彼の研究が契機となって、それまで別々の学問とされていた先史学と古典考古学とは、考古学という一つの学問体系に統一される機運が生じた。」とある。
エヴァンズ[Evans Sir Arthur](1851~1941)は「イギリスの考古学者。考古学者ジョンJohn ・エヴァンズ(1823~1908)の子、著述家ジョアンJoan・エヴァンズの兄。オックスフォード大学およびゲッティンゲン大学に学び、オックスフォードのアシュモール博物館の学芸員となった。1900年クレタ島の、クノッソス遺跡を発掘して壮麗なミノス王の宮殿の遺跡を発見、第二次世界大戦が勃発するまで40年近く宮殿の丹念な発掘と復原に専念し、ミノス文明の解明にはかり知れない業績を残した。」とある。
クノッソス[Knossos]は「ギリシア南部のクレタ島の中央部、ヘラクリオン Heraclionの郊外にあるミノス時代の宮殿を中心とした遺跡。1900年イギリス人A.エヴァンズにより発掘が始められた。それによりそれまで知られなかった文明が明らかにされ、エヴァンズはそれにクノッソスの伝説の王ミノスの名をとってミノス文明と名付けた。ミノス文明またはクレタ文明またはミノア文明と呼ばれる。」とある。
ミノス[Minos]は「ギリシア神話によるクレタ王。ゼウスとエウロパの子。パシファエを妃とし2男2女をえた。神が送った美牛をポセイドンに捧げなかったので、ポセイドンは妃に美牛を愛せしめ牛頭人身のミノタウロスを生ませた。彼はこれをラピュリントス(迷宮)に幽閉し、アテナイから毎年、青年男女をえらんで、犠牲とし食わせたので、アテナイの英雄テセウスがミノタウロスを征伐した。ミノスはラビリュントスの作者ダイダロスを追い、シチリアにゆき殺された。
ラビュリントス[Labyrinthos]は「ギリシア神話の迷宮。クレタ王ミノスがその子で怪物のミノタウロスを閉じ込めるためにダイタウロスに建てさせた建物で、入れば出られない。なお伝説によるとテセウスがここに入ってミノタウロスを殺す。発掘されたクノッソス宮殿の複雑な建物はラビュリントスの名にふさわしい。」とある。
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