二月大歌舞伎 「渡海屋」「大物浦」
「鎌倉殿の13人」面白いですね!
さすが、三谷さんの群像劇って感じです。
どのキャラクターも生き生きとしていて、まるで同時代に生きているような気がしてきますし、良い面も悪い面もバランスよく見せてくる脚本の見事さ。
そして「歴史オタク」をも満足させる時代考証の正確さにも脱帽。
眉間に皴を寄せて難しいセリフを繰り出すでもなく、英雄然として描くのでもなく、今に通じる「人」としての様々をリアルに演じていて、これほど分かりやすく面白い源平合戦記は初めてです!!
それにしても「菅田将暉 義経」は凄かったですね!!
たった数分のシーンで、今までの義経像とは全く違う強烈な印象を打ち出し、しっかり納得させちゃいましたから。
さて、歌舞伎の世界でも「源平合戦」はとても人気のテーマで、多くの作品がありますが、日本人の「判官贔屓」といいますか、登場するのはほぼ義経ばかり。頼朝が登場する作品ってあったっけ?ってぐらいです。
でも不思議なことに、義経が主役でバンバン活躍する芝居っていうのもないんですよね。
物語のキーパーソンにはなっているのですが、その周りの人間模様が描かれているのがほとんど。
また「頼朝に追われて逃げる義経」というシチュエーションが多いです。
最も有名なのは「勧進帳」かな。
九州へ逃れることができなくなって、最終的に奥州の藤原秀衡を頼って北上する際、石川県・安宅の関所が舞台で、富樫の以下のような台詞で始まります。
さても頼朝、義経おん仲不和とならせ給ふにより、判官殿主従、作り山伏となり、下向ある由
(頼朝と義経の仲が悪くなったため、義経は家来と共に偽山伏の一行となって都から地方に下っているとのこと)
義経の歴史はここから始まるのです。
さて、ちょっと長くなりますが、今回も分かりやすさを目指して解説してみますね!
今回の演目「渡海屋」「大物浦」も、「義経千本桜」という、とても有名で人気のお芝居の一部分です。
平家との戦で数々の手柄をたてた義経ですが、兄の源頼朝とは疑心暗鬼が高じて仲違いとなり、ついに命を狙われるに至り、都を離れることになります。
この芝居のタイトルには「義経」の名前がありますが、ストーリーの中心となるのは、義経の周囲の様々な人間模様、むしろ、負けた平家方と、その周辺の人々です
源平の戦の後日譚としてのオムニバスストーリーズのような作品で、以下の演目は二段目となります。
●「渡海屋(とかいや)」
頼朝に追われ、九州へ逃げようとしている義経一行ですが、海が荒れてなかなか船出できず「渡海屋」という船宿に逗留中です。
主人は出かけていて、店には女将さんのお柳さんと使用人しかいません。
お安ちゃんという可愛い女の子もいます。
そこに、頼朝に言われて(梶原景時の命令で)義経を探しに鎌倉からやってきた武士・相模五郎がやってきて、「義経を探すのに船を使うから、宿の空いている船を貸せ」と強引な申し出をします。
船宿は信用商売、先約は無視できないと断るお柳さん。
それならその客に談判するから会わせろと相模五郎は言い、「隠すとは怪しい!義経を匿っているのでは!?」と奥に踏み込もうとして騒ぎになりかけたところに、宿の亭主の銀平が颯爽と現れます!
相模五郎をさっさとやっつけて放り出すかっこいいシーンです。
当時の海運は、陸路運ぶより安く大量に運べるので、人間ではなく荷物の運搬が主でした。
なので「船宿の亭主」というより「運送会社の社長」という感じです。
海の仕事ですから、ベンチコートような長い羽織モノを着ていて、見た目もメッチャカッコいいんですよ。
荒くれた部分とともに、世の中の裏事情も分かっている器の大きさが必要な役だと思います。
この調子じゃここにいるのも危ない。
そろそろ風もよくなるから船出しよう。
お客人に出発の杯を、と銀平はお柳さんに指示して一度退場します。
義経とその家来たちが登場します。
銀平たちには正体がバレていますが、正体を知った上でかくまってくれていたお礼を言う義経。
盃と肴が置かれ、無事を祈って盃を取り交わします。
義経一行、雨よけの簑や傘まで貸してもらって感謝しながら退場、九州行きの船に向かいます。
「そろそろ出発ですよ」と声をかけるお柳さんですが、横の障子の部屋にいるはずなのに返事をしない銀平。
とつぜん謡(うたい)がはいります。
そもそもこれは 桓武天皇九代の後胤
平知盛幽霊なり
謡と同時に障子ががらりと開き、銀平が白い狩衣に銀の鎧、銀の兜で登場します。
腕にはキレイな衣装に着替えたお安ちゃんを抱えています。
この全身銀色の衣装が本当に素敵でカッコよくて、いつも惚れ惚れします。このデザイン考えた人、天才だわ。
渡海屋の銀平、実は壇ノ浦で死んだはずの平知盛だったのです。
娘のお安ちゃんは安徳天皇、奥さんのお柳さんは安徳帝の乳母の「典侍の局(すけのつぼね)」。
下女のみなさんもお付きの女房の面々で、人足たちは知盛の家来の武将たち。
全員、身分を隠して生活しながら義経に仕返しする機会を伺っていたのです。
はじめから知っていてわざと義経一行を泊めたこと。
自分たちは今から死んだ平家の亡霊に化けて船に乗り、海上で義経を襲って、死んだ平家一族の敵を討つつもりなこと。
源氏方でもっとも恐ろしいのは義経である。
義経を殺せばあとはどうにでもなる。
その勢いで再び鎌倉方に戦をしかけ、平家復興をもくろむぞ!と宣言し、花道を駆けていきます。
場面が変わって、女房のみなさんも、まだ子供の安徳帝を抱いた典侍の局も、前の幕の江戸時代の普段着っぽい衣装から十二単に着替えて、座敷にずらりとならんでいます。
ここまでの経過を語り、みんなで戦の様子を案じていると、御注進の侍がやってきます。
前の幕で悪役だった相模五郎です。
さっきの揉め事は、奥に居る義経一行を油断させるためのヤラセだったのです。
夜闇に紛れて義経の舟を襲う計画でしたが「この船宿の主人はタダモノではない」と感づいていた義経。
戦の準備も万端で、一気に大勢の兵が平家の舟に乗り移って攻めてきたため、知盛は劣勢です。
知盛は出陣前、このように言い置きました。
万が一、作戦が失敗した場合、味方の舟のたいまつがいっせいに消えたら負けの合図。そのときは、お覚悟召され。
女房たちが見守るなか、たいまつが消えてしまいます。
驚きさわぐ女房たち。
こうなったらもう仕方ありません。
お覚悟を、と言い、帝を連れて浜辺に出ます。
典侍の局は幼くて事情がわからない安徳帝に
この地上は源氏がはびこって恐ろしい場所だからここにはいられないのです。海の底には極楽浄土があって、父上も母上も死んだ平家のみんなもいる。そこに行くのですよ、
と諭します。
「海の底に一人で行くのは怖い」と言う安徳帝ですが、乳母の典侍の局が一緒に行くと聞いて安心します。
「乳母が一緒なら怖くない。何処なりともいくわいのう」と言い、一句詠みます。
今ぞ知る 御裳裾川(みもすそがわ)の流れには
波の底にも 都あるとは
「先に行って道案内いたします」と次々海に飛び込む女房たち。
華やかな十二単が渦巻く波間にひるがえる絵面を想像すると、心が痛みます。
典侍の局も安徳天皇を抱いていざ飛び込もうとしたところ、義経四天王の武者たちが現われて典侍の局を止め、安徳帝と一緒に保護します。
●「大物浦(だいもつうら)」
後ろに断崖絶壁のある浜辺です。
花道から白装束で血まみれの知盛が出てきて雑兵相手に戦います。
満身創痍の姿で戦い、自身に刺さった矢を抜いて血をなめて喉の渇きを癒す。まさに修羅道に迷う亡者。
帝と典侍の局が心配で、その身の安全を確保するために戻ってきたのですが、もはや力尽きようとしており、知盛は義経を我が手で討つという一念だけで立っています。
義経は知盛に声を掛けます。
帝をずっと守ってきた心は立派だが、私を討ち取る計画はバレていたし、もうあきらめなさい
帝は自分が確実に守るから安心しろ。
しかし知盛は納得しません。
帝を守るのは平家も源氏も関係なく当たり前の事だ。恩に着せられるいわれはない。
とにかく平家一門の恨みを晴らしてやる。
「生き変わり死に変わり、恨みはらさでおきべきか!」
このセリフのおどろおどろしさよ!
そこに、帝が言葉をかけます。
自分を守って、めんどうをみてくれたのは知盛の情け、今自分を助けるのは、義経の情け。
どちらも自分にとってはありがたい大切な存在だから、知盛も義経を恨みに思うでない。
典侍の局も「平家方の自分がそばにいては帝まで疑われるから」と、義経に後を託して自害してしまいます。
知盛も心を改め、今までの苦難の戦いなどを回想しつつも、ここまでのこの地獄のような苦難は、父である平清盛の悪行の報いであると悔やみます。
自分はもう傷も深いし死ぬけれど、死んだと見せかけて2年も生きていたのは恥ずかしいので、「義経を襲ったのは知盛の亡霊だ」と人には言ってくれと義経に頼みます。
今はもう恨みも消えた知盛。
「昨日の仇は今日の味方、あら心安や、喜ばしやな」
帝を義経に託すと、自分は大岩に登って、そこにある大きい錨の綱を体に巻き付け、
錨とともに海に沈みます。
この入水シーンが壮絶で、「大物浦」は別名「碇知盛(いかりとももり)」とも呼ばれ、知盛が崖の上から碇と共に仰向けに飛びこむ場面がこのお芝居の最も見どころとなっています。
そして、この碇知盛を演じる片岡仁左衛門様。
今回が「一世一代」つまりファイナル公演と銘打っての熱演。
私は二度、2017年の三月大歌舞伎と今回の二度、仁左衛門様の知盛を拝見することができましたが、本当に感動的な舞台でした。
姿形の美しさはもちろんのこと、仁左衛門様は本当に台詞が素晴らしくて、もうグイグイ心に迫ってくるんですよ。
涙なしでは見られません。
体力的にもキツイお役だったと思いますが、もうこの雄姿が見られなくなるのはとても寂しいです。
1分ぐらいの動画ですが、2016年の仁左衛門様。
現在77歳で、このシーンを毎日演じるなんて凄いですよね。
普段のお姿もとてもダンディ。
史実では、1185年11月6日に、義経一行は摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻されてしまった。
これにより義経の九州落ちは不可能となった。とあります。
平 知盛(たいら の とももり)は、平清盛の四男。
1185年3月24日、壇ノ浦の戦いで鎌倉軍と最後の戦闘に及びますが、田口成良ら四国・九州在地武士の寝返りにあい、追い詰められた一門は入水による滅びの道を選びます。
安徳天皇、二位尼らが入水し、平氏滅亡の様を見届けた知盛は、乳兄弟の平家長と手を取り合って海へ身を投げ自害。享年34歳。
平家物語では「我が身に鎧二領着て 壇ノ浦の 水底深く 沈みけり」と書かれていて、生きたまま浮かび上がって晒し物にならないよう鎧を二枚着てそれを錘にし、「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残して入水したとなっています。
芝居の中で入水前に安徳天皇が詠んだとされる句
今ぞ知る 御裳裾川(みもすそがわ)の流れには
波の底にも 都あるとは
実際は壇ノ浦の戦いで、安徳天皇を抱いて入水した二位の尼(平清盛の妻である平時子)の辞世の句とされています。
今こそ知りましょうぞ。この身も御裳濯川のある伊勢平氏の御嫡流であることを。
この波の下にも、あなたがお治めになる都があるのですよ。
意味としてはこうなるので、安徳天皇が詠むのはちょっと違うのですが、まぁ幼い天皇が立派な辞世の句を詠んだという涙を誘う演出ですね。
このように、一連の史実をベースに、壇ノ浦の戦いでひそかに生き残った平知盛と安徳天皇、というシチュエーションの芝居なのです。
瀬戸内海は、源平の戦の主戦場でした。
ひとり、またひとりと義経を恨みながら死んでいった平家一門の魂が、まだまだ生々しく海の中をさまよっていて、嵐を巻き起こしたり平家の亡霊の祟りがストーリーに絡んでも納得できる時代だったのでしょう。
1180年、22歳で兄・頼朝のもとに馳せ参じた義経。
様々な戦で功績をあげながらも、1189年、奥州・衣川館にて自害。
享年31歳でした。
「鎌倉殿の13人」でも、この後「平知盛」「大物浦」「安宅」などのキーワードが出てくると思うので、その時は思い出してくださいね。
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