2022年3月29日火曜日

第9回 | 京都の映画文化と歴史 | 京都市メディア支援センター

第9回 | 京都の映画文化と歴史 | 京都市メディア支援センター

京都の映画文化と歴史

昭和の初期,"日本のハリウッド"と唄にまで唄われた処は?そう,京都の太秦です。そして,その太秦に初めて撮影所をつくった人といえば・・・。

かつてこの辺りは葛野郡太秦村と呼ばれ,一面が竹藪に覆われていました。その竹藪を切り開き大正15年(1926),この地に撮影所を建設したのは剣劇王と言われた阪東妻三郎でした。彼は前年に日本初となるスターの個人プロダクションを設立し,その拠点をこの地に求めました。
以来,幾変遷を経て現在の東映京都撮影所に至っています。その歴史を追うと・・・。


東1958年頃の東映京都撮影所 空撮写真

①阪妻プロ太秦撮影所(1926-1930)
②松竹太秦撮影所(1930)
③帝キネ太秦撮影所(1930-1931)
④新興キネマ太秦撮影所(1931-1942)
⑤大映京都第二撮影所(1942-1947)
⑥東横映画撮影所(1947-1951)
⑦東映京都撮影所(1951-現在)


東映京都撮影所となった当初,東映は膨大な負債を抱え込み,再起不能とまで言われていました。しかし,東急専務から東映社長に就任した大川博の徹底した予算主義と,マキノ光雄氏(マキノ雅弘監督の実弟)の陣頭指揮により息を吹き返します。
俳優では,片岡千恵蔵,市川右太衛門,中村錦之助(萬屋錦之助),大川橋蔵,大友柳太郎,東千代之助,美空ひばり,里見浩太郎,鶴田浩二,高倉健,若山富三郎,藤純子(富司純子),菅原文太,松方弘樹,北大路欣也,渡瀬恒彦,他。
監督では,松田定次,マキノ雅弘(雅広),内田吐夢,佐々木康,田坂具隆,今井正,加藤泰,沢島忠(正継),河野寿一,工藤栄一,山下耕作,五社英雄,深作欣二,中島貞夫,他。 この映画人たちが東映を,そして日本映画の黄金期から現在までを支えてきたのです。


現在の東映京都撮影所

東映京都撮影所の門をくぐるとまず正面に"俳優会館"という建物が見えます。こちらは俳優さんたちの待機・準備場所です。左手には制作部,右手には食堂と美術部の建物が見えますが,実はこの撮影所内には現像処理を除く映画製作の全ての機能が備わっています。

時代劇の撮影が多いため,鬘【かつら】や着物,江戸時代の道具類も多数あり,それらを扱う職人さんの会社が入っています。
刀は安全性を考えて竹光【たけみつ】を使用するため,傷みが激しく,高津商会の出張所が設けられ,別の作業場で,職人さんが特殊な銀箔(すずはく)を貼って修復します。 これらは牧野の時代から脈々と受け継がれてきた伝統技術であり,この技術に支えられて今も映画やTVドラマは製作されつづけているのです。

現在,東映京都撮影所内は原則非公開ですが,太秦シネマフェスティバルを始めとする各種イベントで,撮影所の全貌を見ることが出来ます。
(情報はhttp://www.uzumasacinema.net/にて)


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総敷地面積約20,000坪以上,日本最大の規模を誇る東映京都撮影所。昭和30年代の映画全盛期には,毎週邦画各社で2本立てを封切りという,すさまじい量産体制が敷かれていました。東映の主力はここ京都撮影所で,年間60本以上製作しないといけません。日曜も祭日も返上し,徹夜も当たり前。「東映京都撮影所では歩いている者はいない,皆走っている」と言われるほど忙しく,活気に満ちていました。


日本映画は黒澤明監督の『羅生門』(1950)を先頭に国際賞を次々と受賞し,戦後黄金期を迎えます。これら一連の名作群を生み出したのは,京都にある撮影所でした。日本映画が世界へ羽ばたく源となった記念すべき地を訪れてみませんか。


大映京都撮影所

嵐電・太秦広隆寺駅と帷子ノ辻駅の間にある太秦多藪町。この町の一角に「大映京都撮影所跡地」と刻まれた石碑があります。
この撮影所は,元々は昭和2年(1927)日活の太秦撮影所として建てられたものでしたが,戦時統制により昭和17年(1942),日活を含む3つの映画会社(新興キネマ,大都映画,日活製作部門)が合併して大映が誕生したのでした。
市川雷蔵,勝新太郎,京マチ子,山本富士子らがデビューしたのもこの撮影所からであり,1960年代には『眠狂四郎』『悪名』『座頭市』などのシリーズが世に送り出されました。
ところが映画産業の衰退とともに経営が悪化。大映は昭和46年(1971)に倒産し,栄光の歴史に幕を閉じることになります。しかし,日本映画史にこの撮影所の残した足跡は実に多大なものでした。



映画『羅生門』ヴェネチア国際映画祭受賞記念碑

その足跡をたどるには,石碑から歩いて2分,京都市立太秦中学校の校門へ歩みを進めてみてはいかがでしょう。校門横に「グランプリ広場」と銘打たれた一隅があり,金獅子像とオスカー像をモチーフにした記念碑が設置され,その由来が記されています。これらは大映京都撮影所で製作された『羅生門』(1950)が1951年のヴェネチア国際映画祭グランプリの受賞を記念したものです。
以降も,吉村公三郎監督の『源氏物語』(1951),衣笠貞之助監督の『地獄門』(1953),そして溝口健二監督の『雨月物語』(1953),『山椒大夫』(1954)と,この撮影所で製作した映画がヴェネチアやカンヌで次々と国際賞を受賞します。京都の映画人たちの技術が世界最高水準であると証明されたのです。


<『仁義なき戦い 完結編』(1974年/深作欣二監督/菅原文太出演)>

グランプリ広場から北へ向かうと,東西の通りに商店街が広がります。その名も「大映通り商店街」。大映京都撮影所の名が残る商店街です。今も昔も撮影所が近くにあり,映画人御用達のお店が並びます。
商店街の皆さんは撮影に協力的で,これまで『仁義なき戦い』シリーズなど,派手なドンパチのシーンも幾度となく撮影されました。また,山田洋次監督が立命館大学の学生さんたちと製作した『京都太秦物語』(2010年/松竹)では,商店街そのものが舞台となっています。
(大映通り商店街
HP:http://www.kinemastreet.com/


三吉稲荷

この商店街沿いには,通称「三吉稲荷」【さんきちいなり】と呼ばれる,小さな映画ゆかりの神社があります。
正式には「三吉稲荷大明神・中里八幡大菩薩」と言い,この地に日活の撮影所が建設された昭和初期,藪の中からみつかった二つの御神体を,当時の映画人たちが一つに集めて祀ったのだそうです。よく見ると,周囲の玉垣には大河内傳次郎,入江たか子,伴淳三郎など,往年の大スターや名俳優の名前が並びます。
境内には「牧野省三先生顕彰之碑」もあります。設立に関わった映画人たちの名前が刻まれていますが,その中の長門裕之,津川雅彦兄弟は,実は牧野省三氏の孫に当たります。
撮影所と共に歩み栄えてきた町"太秦"。この地には,様々な映画の痕跡が残り,今も映画が生み出されています。


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映画は総合芸術です。監督や俳優ばかりでなく,映画を作り上げるには様々な分野の人々の力が必要です。
中でも宮川一夫キャメラマンに代表される撮影技術,西岡善信さんに代表される美術の力・・・。それが京都の映画を支えてきた大きな原動力でした。豊かな知識と経験,確かな技術力に裏打ちされた鋭い感性。それが京都の映画人に脈々と受け継がれた伝統でした。
しかし,伝統の力とは常にそれを越えようとする挑戦があってこそ,エネルギーとなります。こんなお話を宮川一夫さん,西岡善信さんのお二人から聞いたことがあります。作品は市川崑監督,市川雷蔵さん主役の『炎上』(1958)。そのラスト,主人公が美の極致と信ずる金閣寺の炎上シーン。儚くも美しい炎をどう表現するか。そこで生まれたのが夜空に金粉を炎として舞わせることでした。圧巻とも言うべきこのシーン。そこに,伝統の力と鋭い感性が生み出す白黒画面の見事な映像美をご記憶の方も多いことでしょう。


かつて"日本のハリウッド"と呼ばれた映画の都"太秦"にも,新しい映画の息吹が芽生え始めています。

東映京都撮影所と並ぶ,京都のもう一つの撮影所,それが「松竹撮影所」です。平成21年(2009)春にリニューアルし,人材育成と研究開発を目的に,松竹・立命館・京都府による,産学公連携の試みが行われています。



マキノトーキー製作所

この撮影所の歴史も古く,始まりは昭和10(1935),マキノ雅弘によって設立された「マキノトーキー製作所」まで遡ります。時代は無声映画から音付きの映画へ移り変わりつつある頃。この撮影所も東映京都撮影所同様,幾度かの変遷の歴史をたどって現在に至りました。

生み出された作品群は,我々のよく知るものばかり。TV時代劇『必殺シリーズ』『鬼平犯科帳』,劇映画『226』(1989),『利休』(1989),『たそがれ清兵衛』(2002),『鴨川ホルモー』(2009)等々。そして2010年の『京都太秦物語』は,立命館大学の学生さんたちが取材から撮影まで関わった,産学公連携による初の作品となりました。
これから京都映画はどのような未来を歩んでいくのでしょう。その答えが,この撮影所で一つ一つ形になりつつあるのです。
なお撮影所内は原則非公開となっていますが,様々なイベントで公開される時期もあります。
松竹撮影所を出て東へ向かうと,嵐電・帷子ノ辻駅があります。ここから西の終点・嵐山駅までの間にも,映画ゆかりの場所がつづきます。


「車折神社」【くるまざきじんじゃ】

「車折神社」【くるまざきじんじゃ】。
車折神社駅を降りるとそこが神社の境内。この神社は,芸能社のある珍しい神社です。様々な映画人,俳優,タレントが参拝する社で,境内には名前入りの玉垣がたくさん奉納されています。

「鹿王院」【ろくおういん】。
鹿王院駅下車すぐにあるこのお寺も,度々映画のロケ地となってきました。長い参道には椿が咲き,秋には嵐山を借景として紅葉と苔の覆う枯山水庭園が美しい,風情あふれる寺院です。


<『勢ぞろいの喧嘩若衆』(1955年/佐伯清監督/中村錦之助出演)>

「渡月橋」【とげつきょう】。
電車は終着の嵐山駅へ。大堰【おおい】川(桂川)に堂々とかかる渡月橋は,山々を背景として四季折々に美しい情景を生み出しています。この際立った景観から,現代劇,時代劇を問わず渡月橋そのものとしてしばしば場面に登場します。(『悪名』(1961年/大映/田中徳三監督),『美しさと哀しみと』(1965年/松竹/篠田正浩監督),『華の乱』(1988年/東映/深作欣二監督)等)
そしてここ嵐山周辺は,京都の一大観光地であると同時に,絶好のロケ地でもあります。


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時代劇の第一期黄金時代とも言える昭和の初期,ご紹介した撮影所の周辺にも,太秦には沢山の撮影所がありました。片岡千恵蔵さんの千恵プロ撮影所,嵐寛寿郎【あらしかんじゅうろう】さんの寛プロが使用した双ヶ丘【ならびがおか】撮影所等々,まさにそれが太秦が日本のハリウッドと呼ばれた由縁です。では何故,太秦に撮影所が集結したのか。それにはいくつかの理由が考えられます。まずは,洛外だった太秦は土地代が安かったこと。そして,材木屋さんが多数この地にあったことです。撮影所にとって材木はセット作りの為欠かすことが出来ません。
そう,時代劇によく出てくる江戸の材木問屋や木場の風景。そのロケ地は,撮影所から歩いて行けるこうした材木屋さんで行われておりました。


京都の一大観光地"嵐山"。そして嵐山から少し足を伸ばすと,日常の喧騒を離れた"奥嵯峨"へ。ここは,観光を楽しみながら同時に心の安らぎも得られる映画ゆかりの地です。

渡月橋を挟んで下流は桂川,上流は大堰川と呼ばれています。桂川の河原もさることながら,大堰川の両岸でも,間近に迫る小倉山と嵐山の景観を活かして度々撮影が行われてきました。(『序の舞』(1984年/東映/中島貞夫監督)等)



<『制覇』(1982年/東映/中島貞夫監督/三船敏郎・岡田茉莉子出演)>

臨済宗天龍寺派,大本山の名刹「天龍寺」。こちらも古くから映画のロケ地としてお馴染みの場所です。広大な寺領を有しており,本山の美しい庭園は三船敏郎・岡田茉莉子出演の『制覇』でも登場し,見事な紅葉で有名な塔頭の「宝厳院【ほうごんいん】」も江戸時代から名園と謳われ,数々の場面がフィルムに収められてきました。
さて,天龍寺より北西へ向うと,静けさの漂う"奥嵯峨"へ足を踏み入れます。


大河内山荘庭園

鬱蒼とした竹林を進んで行くと,小倉山の山麓にあるのは「大河内山荘庭園」。大正の無声映画時代から戦後まで活躍した時代劇の大スター,大河内傳次郎(1898-1962)の別荘だった所です。こちらは日本の伝統的な建築物や様々な植物,保津川等の景観が望める回遊式借景庭園となっています。
園内には「大河内傳次郎記念館」も併設されており,映像やパネル,貴重な遺品などの展示と共に彼の足跡を知ることができます。

大河内山荘からさらに奥へと足を進めると静かな趣きの寺社が点在しています。その風情は映画人にも愛されてきました。
小倉山の山腹斜面にある「常寂光寺」。境内奥まで行くと見晴らしもよく,塀のない境内は秋になると全体が紅葉に包まれ,正に常寂光土の観がある絶好のロケーションとなります。(『美しさと哀しみと』(1965年/松竹/篠田正浩監督),『時雨の記』(1998年/東映/澤井信一郎監督/渡哲也・吉永小百合出演)等)。
そして,剣戟【けんげき】王・阪東妻三郎の眠る「二尊院」は,山門からつづく石畳の参道,鬱蒼とした古木に覆われた裏手の墓地等が,幾度となくスクリーンに登場しました。(『炎上』(1958年/大映/市川崑監督),『薄桜記』(1959年/大映/森一生監督)等)
なお,阪東妻三郎の本名の姓は田村。そう,俳優の田村高廣,正和,亮は,彼の子息です。


化野念仏寺

清滝街道へ抜ける道の手前にあるのは「化野[あだしの]念仏寺」。約8,000体の無縁仏の石像が立ち並び,無常観を漂わせています。


吐夢地蔵

こちらの境内の木陰には「吐夢【とむ】地蔵」と名付けられたお地蔵様が安置されています。隣に立てられた駒札から,日本が誇る映画監督・内田吐夢(1898-1970)ゆかりのお地蔵様であることが分かります。実は,自身の監督作『大菩薩峠』の中に登場したお地蔵様で,その役割は盲目の剣士・机龍之助を涅槃の境地へと導いていくというものでした。
一人暮らしを好んだ吐夢監督は,切り出された部分が残るこの未完成のお地蔵様を終生愛し,自宅の庭に安置していたと言います。そのお地蔵様が彼の死後,映画人の手によりここ化野念仏寺へと移され,今も変わらぬ優しい表情で訪れる人を見守っているのです。


嵯峨鳥居本

化野念仏寺もあるこの地域一帯は嵯峨鳥居本といい,伝統的建造物群保存地区に指定されています。美しい自然のなか,愛宕神社の参道に沿って町家やかやぶきの民家が見られる風情ある街並みは,江戸と京を結ぶ街道として時代劇にしばしば登場します。


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大河内傳次郎さんと言えば『丹下左膳』。大河内傳次郎記念館には,あの異形の剣士の等身大の写真が飾られています。まさに日本映画史を彩る偉大なスターで,伊藤大輔監督とコンビで作られた『忠治旅日記』や『丹下左膳』は,不朽の名作として今に残されています。
大河内山荘は,禅に深く傾倒していた大河内さんが30年の歳月をかけて創り上げた山荘で,設計から建築素材の選定まで全てを自身の手で行いました。特に晩年は,撮影の仕事以外は,その殆どの時間と財産をつぎ込んだ,いわば大河内傳次郎の生の証,生を賭しての作品だと言えるでしょう。


嵯峨野の周辺には,悠久の時間が生み出した名刹,そして昔ながらの日本の風景が存在しています。この歴史的景観は,撮影所のある太秦に近いという地の利もあり,ロケ地として重宝されてきました。

国宝の木造釈迦如来立像を有し,融通念仏の道場としても知られる「清凉寺」。通称,嵯峨釈迦堂とも呼ばれるこの寺院は,ロケ地として本堂,狂言舞台などの境内各所はもちろんのこと,山門においては大胆にも大きな赤ちょうちんを吊るし江戸の浅草寺に見立てられることがしばしばありました。映画では本物の浅草寺に見えるから不思議です。(『月から来た男』(1951年/大映/佐伯幸三監督/長谷川一夫出演),『白馬城の花嫁』(1961年/東映/沢島正監督/美空ひばり出演),『梟の城』(1999年/東宝/篠田正浩監督/中井貴一出演)等)
清凉寺から徒歩10分の距離にある,真言宗大覚寺派の本山「旧嵯峨御所大覚寺門跡」は,昔も今も数え切れないほどの撮影が行われています。運がよければ撮影の現場に遭遇するかもしれません。
重厚な造りの明智門,塀沿いの松と清流,風格ある寺内など,どこを切り取っても絵になる風景ばかり(『女帝 春日局』(1990年/東映/中島貞夫監督/十朱幸代出演)等)。


大覚寺 明智陣屋



<『一心太助 男の中の男一匹』(1959年/東映/沢島忠監督/中村錦之助・月形龍之介出演)>

東に広がる「大沢池」【おおさわのいけ】とその周辺も時代劇には絶好のロケ地になっています(『炎上』(1958年/大映/市川崑監督),『豪姫』(1992年/松竹/勅使河原宏監督)等)。この寺院だけで様々なシーンを撮る事ができる。それもロケ地として重宝される所以なのです。


嵯峨野(歴史的風土特別保存地区)

大覚寺から東へ山沿いの道を進むと,一帯は田畑が広がり,まるで昔の日本にタイムスリップしたかのようです。ここは京都市の「歴史的風土特別保存地区」に指定された区域。


<『富士に立つ影』(1957年/東映/佐々木康監督/市川右太衛門出演)>

その道が一条通に交差する処に「広沢池」【ひろさわのいけ】があります。こちらも時代劇撮影御用達となっています。船着き場になったり,川の土手になったり・・・皆さんも映画・TVの時代劇で一度ならぬ二度,三度必ずや目にしていることでしょう(『座頭市喧嘩太鼓』(1968年/大映/三隅研次監督),『どら平太』(2000年/東宝/市川崑監督)等)。


<『木枯し紋次郎』(1972年/中島貞夫監督/菅原文太出演)>

この辺りはかつての嵯峨野の自然が色濃く残っており,池での撮影もさることながら,山際の竹林と雑木に覆われた山中でも,自然を活かした時代劇の撮影が行われてきました。


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京都の映画づくりの特長の一つは"見立て"の上手さだと言われています。時代劇の多くは江戸時代,江戸が舞台の作品ですが,その大半は京都の撮影所でつくられており,ロケ地もその殆どが京都です。如何に京都の風景を江戸に見せるか。一例を挙げれば大沢池は,時に上野の不忍池になり,時には江戸の大川端にもなっています。大覚寺の一部が江戸城・大奥になり,その明智門が西国雄藩の江戸下屋敷になる。更に,それで事足りぬ場合にはその地形を活かしロケセットを建てる。『豪姫』の館や『炎上』のお寺も,大沢池の畔に建てられたものでした。ですから「あの映画のあのシーン,どこのお寺で撮ったのですか」と訊ねられても,それは撮影終了と共に消え去っている,そんな事例もしばしばです。


京都市内から少し離れると,そこには雄大な渓谷美が広がっています。大自然に囲まれた絶好のロケ地を巡りながら保養をされてはいかがでしょうか。

まずは観光を楽しみながら巡ってみましょう。
嵐山から「嵯峨野トロッコ列車」に乗り,保津峡の見事な自然景観を眺めながらお隣の亀岡市へ。帰りは保津川を舟で下って嵐山に戻ります。この「保津川下り」は観光の目玉であり,映画にもしばしば登場してきました。(『この胸のときめきを』(1988年/東映/和泉聖治監督)等)
(嵯峨野トロッコ列車HP:http://www.sagano-kanko.co.jp/
(保津川下りHP:http://www.hozugawakudari.jp/


<『蒲田行進曲』(1982年/松竹/深作欣二監督/松坂慶子出演)>

「JR保津峡駅」はその保津峡の渓谷を見下ろす位置にあり,山中の無人駅として独特の雰囲気があります。人気がなく緑に囲まれた環境を活かして様々な撮影が行われてきました。(『姉妹坂』(1985年/東宝/大林宣彦監督)等)


<『宮本武蔵 巌流島の決斗』(1965年/東映/内田吐夢監督/萬屋錦之助出演)>

ここからはハイキングコースです。
保津川と清滝川の合流地点「落合」は,急流に岩肌が荒々しくそそり立ち,これまで時代劇やサスペンスの事件現場などで舞台となってきました。(『柳生武芸帳 片目の忍者』(1963年/東映/松村昌治監督)等)
清流「清滝川」には小道が整備されており,上流へ歩いて行くことが可能です。そこは深山幽谷の世界。川の流れも急流から清流,地形も岩場から河原まで様々な表情を見せ,合戦シーンから情緒的なシーンまで幅広く撮影されました。(『新諸国物語 笛吹童子』3部作(1954年/東映/荻原遼監督)等)
清滝川上流へ向うと集落「清滝」があり,ここからは嵐山方面へバスが出ています。また,愛宕山の方面にある「空也滝【くうやのたき】」も,霊験あらたかな雰囲気のロケ地となっています。
清滝からさらに北には,紅葉の名所,高雄があります。この地域周辺には歴史的な名刹がいくつも存在しており,映画でも重要なロケ地となってきました。


高雄山・神護寺

そのうちの一つ「高雄山・神護寺【じんごじ】」は,空海や最澄ゆかりの山岳寺院で,山門へつづく石段や,境内の金堂,多宝塔,大師堂などは,『銭形平次』『水戸黄門』『鬼平犯科帳』などのTV時代劇,そして数多くの劇映画で撮影されています。
(神護寺公式HP:http://www.jingoji.or.jp/)


鳥獣人物戯画

さらには「槙尾山・西明寺【さいみょうじ】」,国宝の鳥獣人物戯画で有名な世界文化遺産「栂尾山・高山寺【こうざんじ】」へと,映画の舞台は続きます。
神護寺を含めたこれら三尾の名刹は,美しい自然景観とともに今後もスクリーンに登場し続けることでしょう。


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昨今,全国各地にロケを支援するための"フィルム・コミッション"が設立され,映画・TVのロケ誘致が盛んです。多くの都市では特定の場所をロケ地として発信していますが,大量の作品を百年に渡って作り続けて来た京都では,京都のまち全体がロケ地であり,同じ場所が様々なシチュエーションで使用され続けてきました。
落合という場所も,恐らくこれまで何百本という作品のロケ地として画面に登場して来た筈です。しかし多くの観客には,その頻度は決して判らないでしょう。実はそこが映像の魔術。作品のテーマに沿いカメラのアングルを変え,構図を変え,落合は伊賀の山中になり,信州伊那谷に変貌します。
さて,貴方なら,どこのポジションから落合の景観を捉えるでしょう。それにチャレンジしてみるのも一興ではないでしょうか。


日本に於ける映画製作の歴史も一世紀を超えました。その創世記を築いた映画人たち。京都はそうした多くの映画人が永眠する地でもあるのです。


キネマ殿

JR円町駅からほど近い,紙屋川にかかる下立売通の橋の東側に,だるま寺(法輪寺)があります。臨済宗妙心寺派の禅刹であり,七転八起の起き上がり達磨で有名な寺院です。その境内の一隅にある衆聖堂に「キネマ殿」があります。そこには映画人600有余名もの霊が宗派を越えて合祀されており,それぞれの名前が書かれた位牌が並べられています。幾人か挙げてみますと,横田永之助,牧野省三,尾上松之助,阪東妻三郎,小津安二郎,田中絹代,市川雷蔵,石原裕次郎,美空ひばりと,映画草創期の巨人から時代を彩った大スターまで,みなさんがよく知る映画人ばかりです。

このキネマ殿は,昭和15年(1940),その人情の厚さで知られた日活京都撮影所長だった池永浩久氏の手により祀られたものです。最初は上京区の自宅に祭壇と集会所が設けられていたものが,戦況の悪化と共に自宅は危険と考え,このだるま寺に奉祀されたのだそうです。その後亡くなった映画人も祀られ,数は増えていきました。
池永氏亡き後も,その遺志は「うずまさ会」(東映OBの集まり)に引き継がれ,現在に至っています。
だるま寺から少し足を延ばせば,京都が生んだ一人の偉大なる映画監督の眠るお寺があります。


大雄寺

下立売通を東へ,七本松通を北へ上がった通り沿いの西側。連なる寺院の中に「大雄寺【だいおじ】」があります。ここは天才監督と言われながら,28歳と10ヶ月の若さで戦病死した山中貞雄(1909-1938)の菩提寺です。


山中貞雄の碑

庭の一角には映画監督・小津安二郎の書による立派な「山中貞雄の碑」があり,彼の業績が称えられています。この石碑は昭和16年(1941)に彼を慕う映画関係者らによる山中会により建立されました。


山中貞雄監督

多くの映画人から愛された山中貞雄。彼の現存するフィルムは,20本を超える監督作品のうち『丹下左膳余話 百萬両の壷』『河内山宗俊』『人情紙風船』(遺作)の3作品だけですが,そのいずれもが鋭い人間洞察とヒューマニズムに溢れる傑作です。山中が生きていれば戦後の映画史も書き換えられたと言われています。


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京都には映画のお化けがいる。ある中堅映画監督の弁です。お化けとはいい得て妙。まさに京都の地には100有余年の歴史を経て,映画づくりの酵母菌がそこここに生きています。その源を辿ればまさに草創期以来この京都の地で悪戦苦闘を繰り返しながら,映画に生命をかけて来た先人=活動屋たちの生き様。
そう映画は20世紀の新しい芸術,新しい産業であり,その夢を求めて全国から有能の士,熱い心の士が,この地に集いました。そして流れ去った100有余年・・・その多くの人々が青山としてこの京都を選びこの地に眠っています。


かつての"日本のハリウッド"太秦には,現在,子供から大人まで「映画」を遊んで観て体験でき,貴重な映画資料も所有・展示している一大テーマパークがあります。


吉原通り

「東映城大手門」がそびえ立つ映画村の正面。その隣に立つ大型エンタテイメント施設「パディオス」の1階では,映画やテレビ,アニメなどの様々なコンテンツに関する特別展示イベントが開催されています。そこから外のオープンセットへ抜けるとまず広がるのは「明治通り」。チンチン電車のレトロな雰囲気で明治へタイムスリップ。映画でも大正時代の浅草として撮影されました。
映画村のオープンセットでは実際の映画やTV撮影が行われています。村内を歩いていると撮影の現場に遭遇するかもしれません(撮影予定は撮影日前日の夕方以降にHP上で発表)。足を進めると現れる「江戸の町」。宿場町,吉原,日本橋などは,最近話題のコスプレイヤーにも人気の撮影スポットとなっています。
他に水中に恐竜(!?)がひそむ「港町」,忍者ショーなどが行われる芝居小屋「中村座」,村内を歩けるお姫様や武士などに変身できる「時代劇扮装の館」など,楽しい趣向でいっぱい。また,江戸の生活様式を時代劇俳優さんに学ぶ「おもしろ学習館寺子屋」,「ちゃんばら辻指南」などの体験ものや,からくり忍者屋敷,お化け屋敷,トリックアートなどのアトラクション,ヒーローショーなどのイベントも充実しており,まさに「映画三昧」の内容となっています。
(公式HP: http://www.toei-eigamura.com/)


映画の泉と映画文化館(1階は京都太秦美空ひばり座)

そして,江戸の町並みを抜けると姿を現すのは,泉の前にそびえ立つ明治風の建物・・・映画の歴史や文化のすべてが詰まった「映画文化館」へとつづきます。
さて,映画村の目玉の一つである「映画文化館(1階は京都太秦美空ひばり座)」を訪れてみましょう。こちらでは貴重な映画資料により,映画の歴史や文化について知ることが出来ます。


京都太秦美空ひばり座

1階には,歌,映画,舞台,あらゆるジャンルにわたって日本人を魅了した永遠のスター美空ひばりの全てがここに!映画ポスターや貴重な衣装,小道具などを展示。


映画文化館2階

2階には「映画の殿堂」コーナーがあり,尾上松之助を始め,マキノ雅弘,溝口建二,小津安二郎,黒澤明,宮川一夫,田中絹代,萬屋錦之介,美空ひばりなど,日本映画に貢献した映画人の遺影と貴重な遺品が展示されています。そして,昭和33年(1958)以来,日本映画に多大な功績を残した映画人に送られてきた「牧野省三賞」のコーナーもあります。歴代の受賞者の顔写真が飾られた一面は壮観です。
ここに来ればきっとあなたも映画通。何度でも足を運んでいただきたい場所です。


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「東映太秦映画村」は昭和50年(1975)11月1日に誕生しました。折しも日本映画界の斜陽が取り沙汰される中で,撮影所の存続を賭けての新事業でした。当初は大きな資本投入もなく,撮影所に所属する既存のオープンセットと,そこで行われる実際の撮影現場を公開するという形でしたので,一部俳優や時代劇番組を抱えるテレビ局等の強い反発もありました。それを乗り越えて開村を迎えられたのは,「時代劇の火を消すな」との撮影所スタッフの強い思いがあったからです。蓋を開けてみると大盛況。開村3年間足らずで入場者数が500万人を突破。
さて,その稼いだお金の投入先ですが,施設の充実を図ったことは勿論ですが,時代劇復権を掲げて『柳生一族の陰謀』(1978)に始まり,『真田幸村の謀略』(1979)等々,大型時代劇の製作費にそれが充てられたあたり,如何にも京都の活動屋らしい発想だったと言えるでしょう。


東映太秦映画村の映画文化館とともに,京都ゆかりの映画を含む様々な映画資料を保有し,公開している施設があります。

三条高倉の辺り,明治の名残を残す赤レンガ造りの大きな建物が姿を現します。日本銀行京都支店だったこの別館(重要文化財)と,それにつづく近代的な本館が「京都府京都文化博物館」です。
京都の歴史と文化を紹介する文化施設として昭和63年(1988)10月にオープン。本館では,京都ゆかりの美術・工芸作品・歴史を紹介する常設展と,その時々の企画による特別展が常時行われています。中でも映画を京都の重要な文化と位置づけ,フィルムライブラリーとしての機能を活かした上映・展示活動は,研究者のみならず多くの映画ファンのよく知るところです。



フィルムシアター

3階に位置する"フィルムシアター"では,月ごとにテーマを設けて,映像文化を紹介しています。基本的に毎週火曜~日曜までの6日間,昼と夜の2回,京都府が所蔵する日本の古典・名作映画が上映されており,最新の映写機・音響機器を導入した快適な環境で,作品を観賞いただけます。また,シアター前のロビーでは,上映作品に関連する資料や解説パネルの展示を行っており,作品と合わせてお楽しみいただけます。
所有するフィルムは約3000巻,800作品。その他,京都の映画に関する様々な資料があり,シナリオ約30,000冊,美術セットの図面等の製作関連資料,映画人の個人資料なども所蔵しています。


伊藤大輔監督の脚本

所蔵されている一番古い作品は,明治32(1899)年の『紅葉狩』。歌舞伎の演目を野外に特設されたステージで記録した映画で,現存する日本最古の作品です。
また,博物館には著名な映画人の資料も多く保存されています。特に,伊藤大輔監督は,個人資料をすべて京都文化博物館に寄贈されました。『長恨』『侍・ニッポン』『御誂次郎吉格子』などの脚本には本人の書き込みが見られ,『忠治旅日記』の脚本では,伊藤監督がタイトルのグラフィックデザインもしていることがわかり,貴重な資料となっています。


山中貞雄監督の遺稿「従軍記」

さらに,天才と言われながら戦地へと赴き夭折した,山中貞雄監督の遺品の数々も日本映画史にとって,大変重要な資料です。映画館のスクリーンを想定したような,横長画面のパラパラ漫画が書かれている学生時代の辞書。『「人情紙風船」が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。負け惜しみに非ず』と書かれた,戦地中国での「従軍記」。また,片岡千恵蔵,伊丹万作,小津安二郎,宮川一夫ら,大勢の映画人による,戦地の山中を激励する寄せ書きも残されています。


牧野省三監督デスマスク

そして,日本映画の父・牧野省三が亡くなった時の「デスマスク」。こちらはケースの中に大切に保管されています。
これら京都にゆかりのある多くの映画人の資料は,時を越えて我々に様々なメッセージを伝えてくれています。
(公式HP: http://www.bunpaku.or.jp/)


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祇園祭の季節がやってくると,決まってフィルムシアターで上映される映画があります。そのタイトルはずばり『祇園祭』。昭和43(1968)年に製作された作品で,中村錦之助,三船敏郎,岩下志麻など,豪華キャストによる大作ですが,そのフィルムはここ,京都文化博物館だけに保存されています。作品の製作過程では,大変な苦労があったということですが,祇園祭の歴史を知る上でも,興味深いフィルムです。
なお,"フィルムシアター"では,時に無声映画の上映や,活動弁士(無声映画の映像に合わせて台詞や解説をする人)付上映など,他所ではなかなか体験することの出来ないプログラムも,積極的に企画されています。


黒澤明,小津安二郎,成瀬巳喜男らとともに,世界的に有名な映画監督・溝口健二。フランスの映画監督ゴダールを始め,数々の映画人が訪れた溝口ゆかりの地があります。


溝口健二の碑

平安神宮南の道を東へ行くと,閑静な住宅地の中に「満願寺」があります。その本堂に寄り添うようにあるのが「溝口健二の碑」です。大映社長の永田雅一の名で「世界的映画監督」と刻まれ,裏には勲四等瑞宝章が授与されたことが記されています。また,傍らにある銭の形をしたもう一つの石碑には「大・阪・物・語」の文字。溝口が白血病で入院した時に次回作として準備中だったのが『大阪物語』で,この碑には施主として,出演予定だった二代目・中村鴈治郎の名前が刻まれています。
カメラの長回しの多用,人間を深く描ききった脚本と緻密な時代考証,何も言わずにひたすらやり直しを命じる演技指導など,徹底した妥協のない演出で,世界が認める作品群を生み出した溝口健二。その影響を公言する世界の映画監督は数多くいます。
彼の作品群を支えたのもまた京都の活動屋たちでした。この地に分骨されていた遺骨は生まれ故郷の東京に戻りましたが,京都を愛した溝口の思いはこうして満願寺に留められています。
満願寺から南へ下っていくと,そこは全国的にも有名な寺院が多数集まる格好のロケ地帯となっています。



<『一心太助 男の中の男一匹』(1959年/東映/沢島忠監督/萬屋錦之助出演)>

臨済宗南禅寺派の大本山「南禅寺」は,今も昔も撮影が行われつづけるロケ地の老舗。南禅僧堂前の坂道を馬が駆け,塔頭の建ち並ぶ北側の通りは都大路となりました。(『陰陽師』(2001年/東宝/滝田洋二郎監督)等)
また明治期に作られた赤レンガ造りの「琵琶湖疏水水路閣」が境内を通っており,こちらのレトロな風景もいかにも京都らしいロケ地となっています。(『球形の荒野』(1975年/松竹/貞永方久監督)等)


<『続・赤穂城』(1952年/東映/荻原遼監督/片岡千恵蔵出演)>

三条通を南へ越えると,そこは近年,青不動明王の御開帳で話題となった天台宗「青蓮院門跡【しょうれんいんもんぜき】」。京都市の天然記念物に指定された楠が植えられた長屋門など,門跡寺院らしい落ち着いたたたずまいが数々の時代劇に登場しています。(『維新の曲』(1942年/大映/牛原虚彦監督)等)


知恩院

青蓮院門跡の南に隣接して,浄土宗総本山の「知恩院【ちおんいん】」。日本最大の三門(国宝)とそれにつづく長い階段(男坂)は,ハリウッド映画『ラストサムライ』(2003年/ワーナー・ブラザーズ)でも撮影され,石積みに囲まれた北門は江戸の大名屋敷や城内のシーンなどでもしばしば撮影されてきました。


<『古都憂愁姉いもうと』(1967年/三隅研次監督/藤村志保出演)>

さらには様々な映画やTVのロケ地となった「八坂神社」と「円山【まるやま】公園」。そして京都の象徴として,「八坂の塔」(法観寺),起伏に富んだ「産寧坂【さんねいざか】」,世界文化遺産の「清水寺【きよみずでら】」と,東山山麓はロケ地が密集する一大撮影地帯となっています。


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脚本完成後,撮影準備の中で最も時間を要する作業がロケ地探し=ロケーション・ハンティング(以下,ロケハン)です。
脚本に指定されたシーンを何処で撮影するのか。大別して,このシーンはロケーション,このシーンはステージ内のセットあるいはオープン・セット,と仕分けされた後にロケハンが開始されるのですが,時代劇・現代劇を問わずこの作業に1ヶ月を要することもしばしばです。しかしそれでも適当なロケ地が見つからない場合,条件の整った場所にロケ・セットを建てることになります。
"あのロケは何処でやったのですか"。作品を見てそう問い合わせを受けてもロケ・セットは撮影終了と共に撤去されていて,痕跡すら残されていないという場合もあるのです。


京都市から南へ足を伸ばすとそこは洛南。この地域周辺には,他に類を見ない,独特の情緒が醸し出されたロケ地が点在しています。


<『緋牡丹博徒鉄火場列伝』(1969年/山下耕作監督/富司純子出演)>

代表的な洛南のロケ地は「木津川流れ橋」。全国でも数少ない"流れ橋"の風景が見られます。正式名を「上津屋橋【こうづやばし】」と言い,全長356.5m,幅3.3mの日本で最も長い木造橋です。


<『新蛇姫様 お島千太郎』(1965年/東映/沢島忠監督/美空ひばり出演)>

その呼び名の通り,この流れ橋は木津川が増水して水に浸かると,橋桁が自然に外れて筏のように流れる仕組みになっています。
長大で欄干のない橋の景観も一種独特で,今では時代劇のロケ地としても有名な場所となりました。周囲には高い建物もなく恵まれたロケーションです。時には富士山を背景に合成して東海道を始めとする,旅のシーン,出会いのシーンなど様々な場面で撮影されています。(『あしやからの飛行』(1964年/アメリカ/M・アンダースン監督),『眠狂四郎 女妖剣』(1964年/大映/池広一夫監督/市川雷蔵出演)等)
また下流へ向うと宇治川と合流し,さらには桂川と合流して淀川になります。近代的な建物の少ないこの地を歩くと,京都で撮影された"川のある風景"の多くがここにあると判るでしょう。
洛南には「流れ橋」と並び,特徴的なロケ地がまだまだあります。


<『夜汽車』(1987年/山下耕作監督/十朱幸代出演)>

まずは「伏見の酒蔵群」。大阪と京都を舟で行き来する交通の要所として発展してきたのが"伏見"です。坂本龍馬の寺田屋事件などでも有名ですが,かつては「伏水(ふしみ)」と言われたほど,昔から清らかな水に恵まれて酒処としても栄えてきました。
現在も建ち並ぶ酒蔵群は,一種独特の景観としてこれまで幾度となく撮影されています。(『越後つついし親不知』(1964年/東映/今井正監督)等)


<『危うし!快傑黒頭巾』(1960年/東映/松村昌治監督/大友柳太朗出演)>

また伏見には,観月橋付近の川原や「御香宮【ごこうのみや】神社」などのロケ地がありますが,中でも特徴的なのが伏見区に隣接する宇治市にある黄檗宗【おうばくしゅう】の大本山「萬福寺【まんぷくじ】」。
広大な寺領には中国風の歴史的景観として様々な建築物を有し,時代劇ロケでは重宝されてきました。
「伏見の酒蔵群」の最寄駅は,近鉄・桃山御陵前駅もしくは京阪・伏見桃山駅。「萬福寺」の最寄駅は,京阪もしくはJR黄檗駅となっています。休日にちょっと足を伸ばして訪れてみてはいかがでしょうか。


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京都には100年に渡る映画製作の歴史があります。その間に製作された作品数(TV作品も含めて)を数えれば万余にもなります。そしてその大半が京都市内及びその近郊をロケ地として使用してきたことを考えれば,まさに京都は,その至る処がロケ地です。二条城や京都五山,下鴨神社とその神域といった世界文化遺産から,嵯峨野,東山,西山に点在する寺院・神社といった歴史的景観,鴨川や桂川に代表される風光明媚な水のある風景,花街や町家,更には入り組んだ裏通り迄人々の暮らしが息づく生活空間等々,カメラは100年に渡ってその全域をロケ地として捉えて来たのでした。
しかし少し視点を変えるならば,まだまだ京都には魅力的なロケ地はふんだんにあります。歴史的景観や風光明媚な景観はそのままに,変貌する生活空間としての都市の景観は,新しいドラマの背景に・・・。ロケ地としての京都の魅力は尽きることがありません。


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