眉かくしの霊
一
木曾街道、
奈良井の駅は、中央線起点、
飯田町より一五八
哩二、海抜三二〇〇尺、と言い出すより、
膝栗毛を思う方が手っ取り早く行旅の情を催させる。
ここは
弥次郎兵衛、
喜多八が、とぼとぼと
鳥居峠を越すと、日も西の山の
端に傾きければ、両側の
旅籠屋より、女ども立ち
出でて、もしもしお泊まりじゃござんしないか、お
風呂も
湧いていずに、お泊まりなお泊まりな――喜多八が、まだ少し早いけれど……弥次郎、もう泊まってもよかろう、のう
姐さん――女、お泊まりなさんし、お夜食はお
飯でも、
蕎麦でも、お蕎麦でよかあ、おはたご安くして上げませず。弥次郎、いかさま、安い方がいい、蕎麦でいくらだ。女、はい、お蕎麦なら百十六
銭でござんさあ。二人は旅銀の乏しさに、そんならそうときめて泊まって、湯から上がると、その約束の蕎麦が出る。さっそくにくいかかって、喜多八、こっちの方では蕎麦はいいが、したじが悪いにはあやまる。弥次郎、そのかわりにお給仕がうつくしいからいい、のう姐さん、と
洒落かかって、もう一杯くんねえ。女、もうお蕎麦はそれぎりでござんさあ。弥次郎、なに、もうねえのか、たった二ぜんずつ食ったものを、つまらねえ、これじゃあ食いたりねえ。喜多八、はたごが安いも
凄まじい。二はいばかり食っていられるものか。弥次郎……馬鹿なつらな、銭は出すから飯をくんねえ。……
無慙や、なけなしの
懐中を、けっく蕎麦だけ余計につかわされて
悄気返る。その夜、故郷の江戸お
箪笥町引出し横町、
取手屋の
鐶兵衛とて、工面のいい
馴染に
逢って、ふもとの山寺に
詣でて
鹿の鳴き声を聞いた
処……
……と思うと、ふとここで泊まりたくなった。
停車場を、もう汽車が出ようとする
間際だったと言うのである。
この、筆者の友、
境賛吉は、実は
蔦かずら
木曾の
桟橋、
寝覚の
床などを見物のつもりで、
上松までの切符を持っていた。霜月の半ばであった。
「……しかも、その(蕎麦二
膳)には不思議な縁がありましたよ……」
と、境が話した。
昨夜は松本で一泊した。御存じの通り、この線の汽車は
塩尻から
分岐点で、東京から上松へ行くものが松本で泊まったのは妙である。もっとも、松本へ用があって立ち寄ったのだと言えば、それまででざっと済む。が、それだと、しめくくりが
緩んでちと
辻褄が合わない。何も
穿鑿をするのではないけれど、実は日数の少ないのに、汽車の遊びを
貪った
旅行で、
行途は上野から高崎、妙義山を見つつ、横川、
熊の
平、浅間を眺め、軽井沢、追分をすぎ、
篠の
井線に乗り替えて、
姨捨田毎を窓から
覗いて、泊りはそこで松本が予定であった。その松本には「いい娘の居る旅館があります。懇意ですから御紹介をしましょう」と、名のきこえた画家が添え手紙をしてくれた。……よせばいいのに、昨夜その旅館につくと、なるほど、帳場にはそれらしい束髪の女が一人見えたが、座敷へ案内したのは無論女中で。……さてその紹介状を渡したけれども、娘なんぞ寄っても着かない、……ばかりでない。この霜夜に、出しがらの
生温い渋茶一杯
汲んだきりで、お夜食ともお
飯とも言い出さぬ。座敷は立派で卓は
紫檀だ。
火鉢は大きい。が火の気はぽっちり。で、灰の白いのにしがみついて、何しろ暖かいものでお
銚子をと
云うと、板前で火を引いてしまいました、なんにも出来ませんと、
女中の
素気なさ。寒さは寒し、なるほど、火を引いたような、家中
寂寞とはしていたが、まだ十一時前である……酒だけなりと、頼むと、おあいにく。酒はないのか、ござりません。――じゃ、
麦酒でも。それもお気の毒様だと言う。
姐さん……、境は少々居直って、どこか近所から取り寄せてもらえまいか。へいもう遅うござりますで、飲食店は寝ましたでな……飲食店だと言やあがる。はてな、
停車場から、震えながら
俥でくる途中、ついこの近まわりに、冷たい音して、川が流れて、橋がかかって、両側に
遊廓らしい家が並んで、茶めしの赤い
行燈もふわりと目の前にちらつくのに――ああ、こうと知ったら軽井沢で買った二合
罎を、次郎どのの
狗ではないが、皆なめてしまうのではなかったものを。
大歎息とともに
空き
腹をぐうと鳴らして
可哀な声で、姐さん、そうすると、酒もなし、麦酒もなし、
肴もなし……お
飯は。いえさ、今晩の
旅籠の飯は。へい、それが間に合いませんので……火を引いたあとなもんでなあ――何の
怨みか知らないが、こうなると冷遇を通り越して
奇怪である。なまじ紹介状があるだけに、
喧嘩面で、宿を替えるとも言われない。
前世の
業と
断念めて、せめて近所で、
蕎麦か
饂飩の御都合はなるまいか、と恐る恐る申し出ると、饂飩なら聞いてみましょう。ああ、それを二ぜん頼みます。女中は
遁げ
腰のもったて
尻で、敷居へ半分だけ突き込んでいた
膝を、ぬいと引っこ抜いて
不精に出て行く。
待つことしばらくして、盆で突き出したやつを見ると、
丼がたった一つ。腹の
空いた悲しさに、姐さん二ぜんと頼んだのだが。と
詰るように言うと、へい、二ぜん分、
装り込んでございますで。いや、相わかりました。どうぞおかまいなく、お引き取りを、と言うまでもなし……ついと尻を見せて、すたすたと廊下を行くのを、
継児のような目つきで見ながら、抱き込むばかりに
蓋を取ると、なるほど、二ぜんもり込みだけに
汁がぽっちり、饂飩は白く乾いていた。
この旅館が、
秋葉山三尺坊が、
飯綱権現へ、客を、
たちものにしたところへ
打撞ったのであろう、泣くより笑いだ。
その……饂飩二ぜんの
昨夜を、むかし弥次郎、喜多八が、
夕旅籠の蕎麦二ぜんに思い
較べた。いささか仰山だが、不思議の縁というのはこれで――急に奈良井へ泊まってみたくなったのである。
日あしも木曾の山の
端に傾いた。
宿には
一時雨さっとかかった。
雨ぐらいの用意はしている。駅前の俥は
便らないで、
洋傘で寂しく
凌いで、
鴨居の暗い
檐づたいに、石ころ
路を
辿りながら、度胸は
据えたぞ。――持って来い、蕎麦二
膳。で、昨夜の饂飩は
暗討ちだ――
今宵の蕎麦は望むところだ。――旅のあわれを味わおうと、
硝子張りの旅館一二軒を、わざと避けて、軒に
山駕籠と
干菜を
釣るし、土間の
竈で、
割木の火を
焚く、
侘しそうな旅籠屋を
烏のように
覗き込み、黒き
外套で、御免と、入ると、
頬冠りをした
親父がその竈の下を焚いている。
框がだだ広く、炉が大きく、
煤けた天井に
八間行燈の掛かったのは、山駕籠と
対の
註文通り。
階子下の暗い帳場に、坊主頭の番頭は面白い。
「いらっせえ。」
蕎麦二膳、蕎麦二膳と、境が覚悟の目の前へ、身軽にひょいと出て、
慇懃に
会釈をされたのは、
焼麸だと思う(しっぽく)の
加料が
蒲鉾だったような気がした。
「お客様だよ――
鶴の三番。」
女中も、
服装は
木綿だが、
前垂がけのさっぱりした、
年紀の
少い色白なのが、窓、欄干を覗く、松の中を、
攀じ上るように三階へ案内した。――十畳敷。……柱も天井も丈夫造りで、床の間の
誂えにもいささかの
厭味がない、玄関つきとは似もつかない、しっかりした屋台である。
敷蒲団の綿も暖かに、
熊の皮の見事なのが敷いてあるは。ははあ、膝栗毛時代に、
峠路で売っていた、
猿の腹ごもり、
大蛇の肝、獣の皮というのはこれだ、と
滑稽た殿様になって
件の熊の皮に着座に及ぶと、すぐに
台十能へ火を入れて
女中さんが上がって来て、惜し気もなく
銅の
大火鉢へ
打ちまけたが、またおびただしい。青い火さきが、堅炭を
搦んで、真赤に
って、窓に
沁み入る
山颪はさっと
冴える。三階にこの火の勢いは、大地震のあとでは、ちと申すのも
憚りあるばかりである。
湯にも入った。
さて膳だが、――
蝶脚の上を見ると、蕎麦扱いにしたは気恥ずかしい。
わらさの照焼はとにかくとして、ふっと煙の立つ厚焼の玉子に、
椀が真白な半ぺんの
葛かけ。
皿についたのは、このあたりで
佳品と聞く、
鶫を、何と、
頭を
猪口に、
股をふっくり、胸を開いて、五羽、ほとんど丸焼にして
芳しくつけてあった。
「ありがたい、……実にありがたい。」
境は、その女中に
馴れない手つきの、それも
嬉しい……
酌をしてもらいながら、熊に乗って、
仙人の
御馳走になるように、
慇懃に礼を言った。
「これは大した御馳走ですな。……実にありがたい……全く礼を言いたいなあ。」
心底のことである。はぐらかすとは様子にも見えないから、若い女中もかけ引きなしに、
「
旦那さん、お気に入りまして嬉しゅうございますわ。さあ、もうお一つ。」
「
頂戴しよう。なお重ねて頂戴しよう。――時に
姐さん、この上のお願いだがね、……どうだろう、この
鶫を別に
貰って、ここへ
鍋に掛けて、煮ながら食べるというわけには行くまいか。――鶫はまだいくらもあるかい。」
「ええ、
笊に三杯もございます。まだ台所の柱にも束にしてかかっております。」
「そいつは
豪気だ。――少し余分に貰いたい、ここで煮るように……いいかい。」
「はい、そう申します。」
「ついでにお
銚子を。火がいいから
傍へ置くだけでも冷めはしない。……通いが遠くって気の毒だ。三本ばかり
一時に持っておいで。……どうだい。岩見重太郎が
註文をするようだろう。」
「おほほ。」
今朝、松本で、顔を洗った
水瓶の水とともに、胸が氷に
鎖されたから、何の考えもつかなかった。ここで暖かに心が解けると、……分かった、
饂飩で虐待した
理由というのが――紹介状をつけた画伯は、近頃でこそ一家をなしたが、若くて放浪した時代に
信州路を
経歴って、その旅館には
五月あまりも閉じ
籠もった。
滞る
旅籠代の催促もせず、
帰途には
草鞋銭まで心着けた深切な
家だと言った。が、ああ、それだ。……おなじ人の紹介だから旅籠代を滞らして、草鞋銭を貰うのだと思ったに違いない。……
「ええ、これは、お客様、お
麁末なことでして。」
と紺の
鯉口に、おなじ幅広の前掛けした、
痩せた、色のやや青黒い、陰気だが
律儀らしい、まだ三十六七ぐらいな、五分刈りの男が丁寧に
襖際に
畏まった。
「どういたして、……まことに御馳走様。……番頭さんですか。」
「いえ、当家の料理人にございますが、至って
不束でございまして。……それに、かような
山家辺鄙で、一向お口に合いますものもございませんで。」
「とんでもないこと。」
「つきまして、……ただいま、女どもまでおっしゃりつけでございましたが、鶫を、
貴方様、何か鍋でめしあがりたいというお
言で、いかようにいたして差し上げましょうやら、右、女どももやっぱり
田舎もののことでございますで、よくお言がのみ込めかねます。ゆえに失礼ではございますが、ちょいとお伺いに出ましてございますが。」
境は少なからず面くらった。
「そいつはどうも恐縮です。――遠方のところを。」
とうっかり言った。……
「
串戯のようですが、全く三階まで。」
「どう
仕りまして。」
「まあ、こちらへ――お忙しいんですか。」
「いえ、お
膳は、もう差し上げました。それが、お客様も、貴方様のほか、お二組ぐらいよりございません。」
「では、まあこちらへ。――さあ、ずっと。」
「はッ、どうも。」
「失礼をするかも知れないが、まあ、
一杯。ああ、――ちょうどお銚子が来た。
女中さん、お酌をしてあげて下さい。」
「は、いえ、手前不調法で。」
「まあまあ
一杯。――弱ったな、どうも、
鶫を鍋でと言って、……その何ですよ。」
「旦那様、帳場でも、あの、そう申しておりますの。鶫は焼いてめしあがるのが一番おいしいんでございますって。」
「お膳にもつけて差し上げましたが、これを頭から、その
脳味噌をするりとな、ひと
噛りにめしあがりますのが、おいしいんでございまして、ええとんだ田舎流儀ではございますがな。」
「お料理番さん……私は決して、料理をとやこう言うたのではないのですよ。……弱ったな、どうも。実はね、あるその宴会の席で、その席に居た
芸妓が、木曾の鶫の話をしたんです――大分酒が乱れて来て、何とか節というのが、あっちこっちではじまると、木曾節というのがこの時
顕われて、――きいても
可懐しい土地だから、うろ覚えに覚えているが、(木曾へ木曾へと積み出す米は)何とかっていうのでね……」
「さようで。」
と真四角に
猪口をおくと、二つ
提げの
煙草入れから、吸いかけた
煙管を、
金の
火鉢だ、遠慮なくコッツンと
敲いて、
「……(
伊那や
高遠の余り米)……と言うでございます、米、この女中の名でございます、お
米。」
「あら、何だよ、
伊作さん。」
と女中が横にらみに笑って
睨んで、
「旦那さん、――この人は、
家が伊那だもんでございますから。」
「はあ、
勝頼様と同国ですな。」
「まあ、勝頼様は、こんな男ぶりじゃありませんが。」
「当り前よ。」
とむッつりした料理番は、苦笑いもせず、またコッツンと煙管を
払く。
「それだもんですから、伊那の
贔屓をしますの――木曾で
唄うのは違いますが。――(伊那や高遠へ積み出す米は、みんな
木曾路の余り米)――と言いますの。」
「さあ……それはどっちにしろ……その木曾へ、木曾へのきっかけに出た話なんですから、私たちも酔ってはいるし、それがあとの
贄川だか、峠を越した先の
藪原、福島、
上松のあたりだか、よくは
訊かなかったけれども、その
芸妓が、客と一所に、鶫あみを掛けに木曾へ行ったという話をしたんです。……まだ
夜の暗いうちに山道をずんずん上って、案内者の
指揮の場所で、かすみを張って
囮を揚げると、夜明け前、霧のしらじらに、向うの
尾上を、ぱっとこちらの山の
端へ渡る鶫の群れが、むらむらと来て、羽ばたきをして、かすみに掛かる。じわじわととって占めて、すぐに
焚火で附け焼きにして、
膏の熱いところを、ちゅッと吸って食べるんだが、そのおいしいこと、……と言って、話をしてね……」
「はあ、まったくで。」
「……ぶるぶる寒いから、
煮燗で、一杯のみながら、息もつかずに、幾口か鶫を
噛って、ああ、おいしいと一息して、焚火にしがみついたのが、すっと立つと、案内についた土地の猟師が二人、きゃッと言った――その何なんですよ、芸妓の口が血だらけになっていたんだとさ。
生々とした半熟の小鳥の血です。……とこの話をしながら、うっかりしたようにその芸妓は
手巾で口を
圧えたんですがね……たらたらと赤いやつが
沁みそうで、私は顔を見ましたよ。
触ると
撓いそうな
痩せぎすな、すらりとした、若い女で。……聞いてもうまそうだが、これは
凄かったろう、その時、東京で想像しても、
嶮しいとも、高いとも、深いとも、峰谷の重なり合った木曾山中のしらしらあけです……暗い
裾に焚火を
搦めて、すっくりと立ち上がったという、自然、目の下の峰よりも高い
処で、霧の中から
綺麗な首が。」
「いや、
旦那さん。」
「話は
拙くっても、何となく不気味だね。その口が血だらけなんだ。」
「いや、いかにも。」
「ああ、よく無事だったな、と私が言うと、どうして? と訊くから、そういうのが、
慌てる銃猟家だの、魔のさした猟師に、峰越しの
笹原から
狙い撃ちに二つ
弾丸を食らうんです。……場所と言い……時刻と言い……昔から、夜待ち、あけ方の鳥あみには、魔がさして、怪しいことがあると言うが、まったくそれは魔がさしたんだ。だって、
覿面に綺麗な鬼になったじゃあないか。……どうせそうよ、……私は鬼よ。――でも人に食われる方の……なぞと言いながら、でも
可恐いわね、ぞっとする。と、また口を手巾で圧えていたのさ。」
「ふーん。」と料理番は、我を忘れて沈んだ声して、
「ええ。旦那、へい、どうも、いや、全く。――実際、危のうございますな。――そういう場合には、きっと
怪我があるんでして……よく、その
姐さんは御無事でした。この贄川の川上、
御嶽口。
美濃寄りの
峡は、よけいに取れますが、その
方の場所はどこでございますか存じません――
芸妓衆は東京のどちらの
方で。」
「なに、下町の方ですがね。」
「柳橋……」
と言って、
覗くように、じっと見た。
「……あるいはその新橋とか申します……」
「いや、その真中ほどです……日本橋の方だけれど、宴会の席ばかりでの話ですよ。」
「お処が分かって
差支えがございませんければ、参考のために、その場所を伺っておきたいくらいでございまして。……この、深山幽谷のことは、人間の
智慧には及びません――」
女中も
俯向いて暗い顔した。
境は、この場合
誰もしよう、乗り出しながら、
「何か、この辺に変わったことでも。」
「……別にその、と云ってございません。しかし、流れに瀬がございますように、山にも
淵がございますで、気をつけなければなりません。――ただいまさしあげました
鶫は、これは、つい一両日続きまして、珍しく上の
峠口で猟があったのでございます。」
「さあ、それなんですよ。」
境はあらためて
猪口をうけつつ、
「料理番さん。きみのお
手際で
膳につけておくんなすったのが、見てもうまそうに、
香しく、
脂の垂れそうなので、ふと思い出したのは、今の
芸妓の口が血の一件でね。しかし私は坊さんでも、精進でも、何でもありません。望んでも結構なんだけれど、見たまえ。――窓の外は雨と、もみじで、霧が山を織っている。峰の中には、雪を頂いて、雲を貫いて
聳えたのが見えるんです。――どんな拍子かで、ひょいと立ちでもした時口が血になって首が上へ出ると……野郎でこの
面だから、その芸妓のような、
凄く美しく、山の神の
化身のようには見えまいがね。落ち残った
柿だと思って、窓の外から
烏が突つかないとも限らない、……ふと変な気がしたものだから。」
「お米さん――
電燈がなぜか、遅いでないか。」
料理番が沈んだ声で言った。
時雨は晴れつつ、木曾の山々に暮が迫った。
奈良井川の瀬が響く。
二
「何だい、どうしたんです。」
「ああ、旦那。」と
暗夜の庭の雪の中で。
「
鷺が来て、
魚を
狙うんでございます。」
すぐ窓の外、間近だが、池の水を渡るような料理番――その伊作の声がする。
「
人間が落ちたか、
獺でも
駈け
廻るのかと思った、えらい音で驚いたよ。」
これは、その翌日の晩、おなじ
旅店の、
下座敷でのことであった。……
境は奈良井宿に
逗留した。ここに積もった雪が、朝から降り出したためではない。別にこのあたりを見物するためでもなかった。……昨夜は、あれから――鶫を
鍋でと
誂えたのは、しゃも、かしわをするように、
膳のわきで
火鉢へ掛けて煮るだけのこと、と言ったのを、料理番が心得て、そのぶつ切りを、皿に山もり。
目笊に一杯、
葱のざくざくを添えて、
醤油も砂糖も、むきだしに
担ぎあげた。お米が烈々と炭を継ぐ。
越の方だが、境の故郷いまわりでは、季節になると、この鶫を珍重すること一通りでない。料理屋が鶫
御料理、じぶ、おこのみなどという立看板を軒に掲げる。鶫うどん、鶫
蕎麦と蕎麦屋までが
貼紙を張る。ただし
安価くない。何の
椀、どの
鉢に使っても、おん
羮、おん
小蓋の見識で。ぽっちり
三臠、
五臠よりは附けないのに、葱と
一所に
打ち
覆けて、鍋からもりこぼれるような湯気を、天井へ立てたは
嬉しい。
あまっさえ
熱燗で、
熊の皮に
胡坐で居た。
芸妓の化けものが、山賊にかわったのである。
寝る時には、
厚衾に、この
熊の皮が上へ
被さって、
袖を包み、
蔽い、
裙を包んだのも面白い。あくる日、雪になろうとてか、
夜嵐の、じんと身に
浸むのも、木曾川の瀬の
凄いのも、ものの数ともせず、酒の血と、獣の皮とで、ほかほかして三階にぐっすり寝込んだ。
次第であるから、朝は朝飯から、ふっふっと吹いて
啜るような豆腐の
汁も気に入った。
一昨日の旅館の朝はどうだろう。……
溝の上澄みのような冷たい汁に、おん羮ほどに
蜆が泳いで、生煮えの臭さといったらなかった。……
山も、空も氷を
透すごとく澄みきって、松の葉、枯木の
閃くばかり、
晃々と
陽がさしつつ、それで、ちらちらと白いものが飛んで、奥山に、熊が
人立して、針を
噴くような雪であった。
朝飯が済んでしばらくすると、境はしくしくと腹が
疼みだした。――しばらくして、二三度はばかりへ通った。
あの、
饂飩の
祟りである。鶫を過食したためでは断じてない。二ぜん分を
籠みにした生がえりのうどん粉の
中毒らない法はない。お
腹を
圧えて、饂飩を思うと、思う下からチクチクと筋が動いて痛み出す。――もっとも、
戸外は日当りに針が飛んでいようが、少々腹が痛もうが、我慢して、汽車に乗れないという
容体ではなかったので。……ただ、誰も知らない。この宿の居心のいいのにつけて、どこかへのつらあてにと、
逗留する気になったのである。
ところで座敷だが――その二度めだったか、
厠のかえりに、わが座敷へ入ろうとして、三階の
欄干から、ふと二階を
覗くと、
階子段の下に、開けた障子に、
箒とはたきを立て掛けた、中の小座敷に
炬燵があって、床の間が見通される。……床に
行李と二つばかり重ねた、あせた
萌葱の
風呂敷づつみの、
真田紐で中結わえをしたのがあって、
旅商人と見える中年の男が、ずッぷり床を
背負って当たっていると、向い合いに、一人の、
中年増の女中がちょいと浮腰で、
膝をついて、手さきだけ炬燵に入れて、少し仰向くようにして、旅商人と話をしている。
なつかしい浮世の
状を、山の
崖から掘り出して、
旅宿に
嵌めたように見えた。
座敷は熊の皮である。境は、ふと奥山へ
棄てられたように、里心が着いた。
一昨日松本で城を見て、天守に上って、その
五層めの朝霜の高層に立って、ぞっとしたような、雲に連なる、山々のひしと再び窓に来て、身に迫るのを覚えもした。バスケットに、
等閑に
絡めたままの、城あとの
崩れ
堀の
苔むす
石垣を
這って枯れ残った小さな
蔦の
紅の、
鶫の血のしたたるごときのを見るにつけても。……急に寂しい。――「お米さん、
下階に座敷はあるまいか。――炬燵に入ってぐっすりと寝たいんだ。」
二階の部屋々々は、時ならず
商人衆の
出入りがあるからと、望むところの下座敷、おも屋から、土間を長々と板を渡って離れ座敷のような十畳へ導かれたのであった。
肱掛窓の外が、すぐ庭で、池がある。
白雪の飛ぶ中に、
緋鯉の背、真鯉の
鰭の紫は美しい。梅も松もあしらったが、大方は
樫槻の大木である。
朴の
樹の二
抱えばかりなのさえすっくと立つ。が、いずれも葉を振るって、
素裸の
山神のごとき装いだったことは言うまでもない。
午後三時ごろであったろう。枝に
梢に、雪の咲くのを、炬燵で
斜違いに、くの字になって――いい
婦だとお目に掛けたい。
肱掛窓を
覗くと、池の向うの
椿の下に料理番が立って、つくねんと腕組して、じっと水を
瞻るのが見えた。例の紺の
筒袖に、
尻からすぽんと巻いた
前垂で、雪の
凌ぎに鳥打帽を
被ったのは、いやしくも料理番が水中の鯉を覗くとは見えない。大きな
鷭が沼の
鰌を
狙っている形である。山も峰も、雲深くその空を取り囲む。
境は山間の旅情を解した。「料理番さん、晩の
御馳走に、その鯉を切るのかね。」「へへ。」と薄暗い顔を上げてニヤリと笑いながら、鳥打帽を取ってお時儀をして、また被り直すと、そのままごそごそと
樹を
潜って
廂に隠れる。
帳場は遠し、あとは雪がやや
繁くなった。
同時に、さらさらさらさらと水の音が響いて聞こえる。「――また誰か洗面所の口金を開け放したな。」これがまた二度めで。……今朝三階の座敷を、ここへ取り替えない前に、ちと遠いが、
手水を取るのに
清潔だからと女中が案内をするから、この
離座敷に近い洗面所に来ると、三カ所、
水道口があるのにそのどれを
捻っても水が出ない。さほどの寒さとは思えないが
凍てたのかと思って、
谺のように高く手を鳴らして女中に言うと、「あれ、
汲み
込みます。」と
駈け出して行くと、やがて、スッと水が出た。――座敷を取り替えたあとで、はばかりに行くと、ほかに
手水鉢がないから、洗面所の一つを
捻ったが、その時はほんのたらたらと
滴って、
辛うじて用が足りた。
しばらくすると、しきりに洗面所の方で水音がする。
炬燵から
潜り出て、土間へ下りて橋がかりからそこを
覗くと、三ツの
水道口、残らず
三条の水が
一齊にざっと
灌いで、
徒らに流れていた。たしない水らしいのに、と一つ一つ、丁寧にしめて座敷へ戻った。が、その時も料理番が池のへりの、同じ
処につくねんと
彳んでいたのである。くどいようだが、料理番の池に立ったのは、これで二度めだ。……朝のは十時ごろであったろう。トその時料理番が引っ込むと、やがて洗面所の水が、再び高く響いた。
またしても三条の水道が、残らず開け放しに流れている。おなじこと、たしない水である。あとで手を洗おうとする時は、きっと
涸れるのだからと、またしても口金をしめておいたが。――
いま、午後の三時ごろ、この時も、さらにその水の音が聞こえ出したのである。庭の外には小川も流れる。奈良井川の瀬も響く。木曾へ来て、水の音を気にするのは、船に乗って波を見まいとするようなものである。望みこそすれ、
嫌いも避けもしないのだけれど、不思議に洗面所の開け放しばかり気になった。
境はまた廊下へ出た。果して、三条とも
揃って――しょろしょろと流れている。「
旦那さん、お
風呂ですか。」
手拭を持っていたのを見て、ここへ火を直しに、台
十能を持って来かかった、お米が声を掛けた。「いや――しかし、もう入れるかい。」「じきでございます。……今日はこの新館のが
湧きますから。」なるほど、雪の降りしきるなかに、ほんのりと湯の香が通う。洗面所の
傍の
西洋扉が湯殿らしい。この窓からも見える。新しく建て増した柱立てのまま、
筵がこいにしたのもあり、足場を組んだ
処があり、材木を積んだ
納屋もある。が、荒れた
厩のようになって、落葉に
埋もれた、一帯、
脇本陣とでも言いそうな旧家が、いつか世が成金とか言った時代の景気につれて、
桑も
蚕も当たったであろう、このあたりも火の燃えるような勢いに乗じて、
贄川はその昔は、煮え川にして、
温泉の湧いた処だなぞと、ここが温泉にでもなりそうな意気込みで、新館建増しにかかったのを、この一座敷と、湯殿ばかりで、そのまま
沙汰やみになったことなど、あとで
分かった。「
女中さんかい、その水を流すのは。」閉めたばかりの水道の
栓を、女中が立ちながら一つずつ開けるのを
視て、たまらず
詰るように言ったが、ついでにこの
仔細も分かった。……池は、
樹の根に
樋を伏せて裏の川から引くのだが、一年に一二度ずつ
水涸れがあって、池の水が
干ようとする。
鯉も
鮒も、
一処へ固まって、
泡を立てて弱るので、台所の
大桶へ
汲み込んだ井戸の水を、はるばるとこの洗面所へ送って、橋がかりの下を
潜らして、池へ流し込むのだそうであった。
木曾道中の新版を二三種ばかり、
枕もとに散らした炬燵へ、ずぶずぶと
潜って、「お米さん、……折り入って、お前さんに頼みがある。」と言いかけて、
初々しくちょっと
俯向くのを見ると、猛然として、喜多八を思い起こして、わが境は一人で笑った。「ははは、心配なことではないよ。――おかげで腹あんばいも至ってよくなったし、……
午飯を抜いたから、晩には入り合せにかつ食い、大いに飲むとするんだが、いまね、伊作さんが渋苦い顔をして池を
睨んで行きました。どうも、鯉のふとり
工合を
鑑定したものらしい……きっと今晩の
御馳走だと思うんだ。――
昨夜の
鶫じゃないけれど、どうも縁あって池の前に越して来て、鯉と隣附き合いになってみると、目の前から引き上げられて、
俎で輪切りは
酷い。……板前の都合もあろうし、またわがままを言うのではない。……
活づくりはお断わりだが、実は
鯉汁大歓迎なんだ。しかし、魚屋か、何か、都合して、ほかの鯉を使ってもらうわけには行くまいか。――差し出たことだが、一
尾か二
尾で足りるものなら、お客は幾人だか、今夜の
入用だけは私がその原料を買ってもいいから。」女中の返事が、「いえ、この池のは、いつもお料理にはつかいませんのでございます。うちの旦那も、おかみさんも、お志の仏の日には、鮒だの、鯉だの、……この池へ放しなさるんでございます。料理番さんもやっぱり。……そして
料理番は、この池のを大事にして、
可愛がって、そのせいですか、
隙さえあれば、黙ってああやって庭へ出て、池を覗いていますんです。」「それはお
誂えだ。ありがたい。」境は礼を言ったくらいであった。
雪の頂から星が一つ下がったように、
入相の座敷に電燈の
点いた時、女中が風呂を知らせに来た。
「すぐに
膳を。」と声を掛けておいて、待ち構えた湯どのへ、一散――例の洗面所の向うの
扉を開けると、上がり場らしいが、ハテ真暗である。いやいや、
提灯が一燈ぼうと薄白く点いている。そこにもう一枚
扉があって閉まっていた。その
裡が湯どのらしい。
「
半作事だと言うから、まだ
電燈が点かないのだろう。おお、
二つ
巴の紋だな。大星だか
由良之助だかで、鼻を
衝く、
鬱陶しい巴の紋も、ここへ来ると、木曾殿の
寵愛を思い出させるから奥床しい。」
と帯を解きかけると、ちゃぶり――という――人が居て湯を使う
気勢がする。この時、洗面所の水の音がハタとやんだ。
境はためらった。
が、いつでもかまわぬ。……
他が済んで、湯のあいた時を知らせてもらいたいと言っておいたのである。誰も入ってはいまい。とにかくと、解きかけた帯を
挟んで、ずッと寄って、その提灯の上から、
扉にひったりと
頬をつけて伺うと、
袖のあたりに、すうーと暗くなる、
蝋燭が、またぽうと
明くなる。影が
痣になって、巴が一つ
片頬に映るように陰気に
沁み込む、と思うと、ばちゃり……
内端に湯が動いた。何の
隙間からか、ぷんと梅の香を、ぬくもりで溶かしたような
白粉の香がする。
「
婦人だ」
何しろ、この明りでは、男客にしろ、一所に入ると、暗くて肩も手も
跨ぎかねまい。乳に
打着かりかねまい。で、ばたばたと
草履を突っ掛けたまま引き返した。
「もう、お上がりになりまして?」と言う。
通いが遠い。ここで
燗をするつもりで、お米がさきへ
銚子だけ持って来ていたのである。
「いや、あとにする。」
「まあ、そんなにお
腹がすいたんですの。」
「腹もすいたが、誰かお客が入っているから。」
「へい、……こっちの湯どのは、久しく使わなかったのですが、あの、そう言っては悪うございますけど、しばらくぶりで、お
掃除かたがた
旦那様に立てましたのでございますから、……あとで頂きますまでも、……あの、まだどなたも。」
「かまやしない。私はゆっくりでいいんだが、婦人の客のようだったぜ。」
「へい。」
と、おかしなベソをかいた顔をすると、手に持つ銚子が湯沸しにカチカチカチと震えたっけ、あとじさりに、ふいと立って、廊下に出た。一度ひっそり
跫音を消すや否や、けたたましい音を、すたんと立てて、土間の板をはたはたと鳴らして
駈け出した。
境はきょとんとして、
「何だい、あれは……」
やがて
膳を持って
顕われたのが……お米でない、
年増のに替わっていた。
「やあ、中二階のおかみさん。」
行商人と、
炬燵で
睦まじかったのはこれである。
「
御亭主はどうしたい。」
「知りませんよ。」
「ぜひ、承りたいんだがね。」
半ば
串戯に、ぐッと声を低くして、
「出るのかい……何か……あの、湯殿へ……まったく?」
「それがね、旦那、大笑いなんでございますよ。……どなたもいらっしゃらないと思って、申し上げましたのに、御婦人の方が入っておいでだって、旦那がおっしゃったと言うので、米ちゃん、大変な
臆病なんですから。……久しくつかいません湯殿ですから、内のお上さんが、念のために、――」
「ああそうか、……私はまた、ちょっと出るのかと思ったよ。」
「大丈夫、湯どのへは出ませんけれど、そのかわりお座敷へはこんなのが、ね、
貴方。」
「いや、結構。」
お
酌はこの方が、けっく飲める。
夜は長い、雪はしんしんと降り出した。床を取ってから、酒をもう一度、その勢いでぐっすり寝よう。
晩飯はいい加減で膳を下げた。
跫音が入り乱れる。ばたばたと廊下へ続くと、洗面所の方へ落ち合ったらしい。ちょろちょろと水の音がまた響き出した。男の声も交じって聞こえる。それが
止むと、お米が
襖から
円い顔を出して、
「どうぞ、お風呂へ。」
「大丈夫か。」
「ほほほほ。」
とちとてれたように笑うと、身を廊下へ引くのに、押し続いて境は
手拭を
提げて出た。
橋がかりの下り口に、昨夜帳場に居た坊主頭の番頭と、女中
頭か、それとも女房かと思う老けた
婦と、もう一人の女中とが、といった形に顔を並べて、
一団になってこなたを見た。そこへお米の姿が、
足袋まで見えてちょこちょこと橋がかりを越えて渡ると、三人の
懐へ飛び込むように
一団。
「御苦労様。」
わがために、見とどけ役のこの人数で、風呂を
検べたのだと思うから声を掛けると、一度に
揃ってお時儀をして、屋根が
萱ぶきの長土間に敷いた、そのあゆみ板を渡って行く。土間のなかばで、そのおじやのかたまりのような四人の形が暗くなったのは、トタンに、一つ二つ電燈がスッと息を引くように赤くなって、橋がかりのも洗面所のも
一齊にパッと消えたのである。
と胸を
吐くと、さらさらさらさらと三筋に……こう順に流れて、洗面所を打つ水の下に、さっきの
提灯が
朦朧と、半ば暗く、
巴を一つ照らして、墨でかいた炎か、
鯰の
跳ねたか、と思う形に
点れていた。
いまにも電燈が
点くだろう。湯殿口へ、これを持って入る気で、境がこごみざまに手を掛けようとすると、提灯がフッと消えて見えなくなった。
消えたのではない。やっぱりこれが以前のごとく、湯殿の戸口に点いていた。これはおのずから
雫して、下の板敷の
濡れたのに、目の加減で、向うから影が
映したものであろう。はじめから、提灯がここにあった
次第ではない。境は、斜めに影の宿った水中の月を手に取ろうとしたと同じである。
爪さぐりに、例の上がり場へ……で、念のために戸口に寄ると、息が絶えそうに
寂寞しながら、ばちゃんと音がした。ぞッと寒い。湯気が天井から雫になって
点滴るのではなしに、屋根の雪が溶けて落ちるような
気勢である。
ばちゃん、……ちゃぶりと
微かに湯が動く。とまた得ならず
艶な、しかし冷たい、そして、におやかな、霧に
白粉を包んだような、
人膚の気がすッと肩に
絡わって、
頸を
撫でた。
脱ぐはずの
衣紋をかつしめて、
「お米さんか。」
「いいえ。」
と
一呼吸間を置いて、湯どのの
裡から聞こえたのは、もちろんわが心がわが耳に響いたのであろう。――お米でないのは言うまでもなかったのである。
洗面所の水の音がぴったりやんだ。
思わず立ち
竦んで
四辺を見た。思い切って、
「入りますよ、御免。」
「いけません。」
と澄みつつ、湯気に
濡れ
濡れとした声が、はっきり聞こえた。
「勝手にしろ!」
我を忘れて言った時は、もう座敷へ引き返していた。
電燈は明るかった。巴の提灯はこの光に消された。が、水は三筋、さらにさらさらと走っていた。
「馬鹿にしやがる。」
不気味より、
凄いより、なぶられたような、反感が起こって、
炬燵へ仰向けにひっくり返った。
しばらくして、境が、飛び上がるように起き直ったのは、すぐ窓の外に、ざぶり、ばちゃばちゃばちゃ、ばちゃ、ちゃッと、けたたましく池の水の
掻き
攪さるる音を聞いたからであった。
「何だろう。」
ばちゃばちゃばちゃ、ちゃッ。
そこへ、ごそごそと池を廻って響いて来た。人の来るのは、なぜか料理番だろうと思ったのは、この池の
魚を愛惜すると、聞いて知ったためである。……
「何だい、どうしたんです。」
雨戸を開けて、一面の雪の色のやや薄い
処に声を掛けた。その池も白いまで水は少ないのであった。
三
「どっちです、
白鷺かね、
五位鷺かね。」
「ええ――どっちもでございますな。両方だろうと思うんでございますが。」
料理番の伊作は来て、窓下の
戸際に、がッしり腕組をして、うしろ向きに立って言った。
「むこうの山口の大林から下りて来るんでございます。」
言の中にも
顕われる、雪の降りやんだ、その雲の一方は
漆のごとく森が黒い。
「不断のことではありませんが、……この、
旦那、池の水の
涸れるところを
狙うんでございます。
鯉も
鮒も半分
鰭を出して、あがきがつかないのでございますから。」
「
怜悧な
奴だね。」
「馬鹿な人間は困っちまいます――
魚が
可哀相でございますので……そうかと言って、
夜一夜、立番をしてもおられません。旦那、お寒うございます。おしめなさいまし。……そちこち
御註文の時刻でございますから、何か、
不手際なものでも見繕って差し上げます。」
「都合がついたら、君が来て一杯、ゆっくりつき合ってくれないか。――私は夜ふかしは平気だから。一所に……ここで飲んでいたら、いくらか
案山子になるだろう。……」
「――結構でございます。……もう台所は片附きました、追ッつけ伺います。――いたずらな餓鬼どもめ。」
と、あとを口こごとで、空を
睨みながら、枝をざらざらと
潜って行く。
境は、しかし、あとの窓を閉めなかった。もちろん、ごく細目には引いたが。――実は、雪の池のここへ来て幾羽の鷺の、
魚を狩る
状を、さながら、炬燵で見るお
伽話の絵のように思ったのである。すわと言えば、追い立つるとも、驚かすとも、その場合のこととして……第一、気もそぞろなことは、二度まで湯殿の湯の音は、いずれの
隙間からか雪とともに、鷺が
起ち込んで
浴みしたろう、とそうさえ思ったほどであった。
そのままじっと
覗いていると、薄黒く、ごそごそと雪を踏んで行く、伊作の
袖の
傍を、ふわりと巴の提灯が
点いて行く。おお今、窓下では提灯を持ってはいなかったようだ。――それに、もうやがて、庭を横ぎって、
濡縁か、戸口に入りそうだ、と思うまで
距たった。遠いまで小さく見える、としばらくして、ふとあとへ戻るような、やや大きくなって、あの土間廊下の外の、
萱屋根のつま下をすれずれに、だんだんこなたへ引き返す、引き返すのが、気のせいだか、いつの間にか、中へはいって、土間の暗がりを
点れて来る。……橋がかり、一方が洗面所、突当りが湯殿……ハテナとぎょッとするまで気がついたのは、その点れて来る提灯を、座敷へ振り返らずに、逆に窓から庭の方に乗り出しつつ見ていることであった。
トタンに消えた。――頭からゾッとして、首筋を
硬く振り向くと、座敷に、白鷺かと思う女の後ろ姿の
頸脚がスッと白い。
違い
棚の
傍に、十畳のその
辰巳に
据えた、姿見に向かった、うしろ姿である。……湯気に
山茶花の
悄れたかと思う、
濡れたように、しっとりと身についた
藍鼠の
縞小紋に、
朱鷺色と白のいち松のくっきりした
伊達巻で乳の下の
縊れるばかり、消えそうな弱腰に、
裾模様が
軽く
靡いて、
片膝をやや浮かした、
褄を
友染がほんのり
溢れる。露の
垂りそうな
円髷に、
桔梗色の
手絡が青白い。
浅葱の
長襦袢の裏が
媚かしく
搦んだ白い手で、
刷毛を優しく使いながら、姿見を少しこごみなりに覗くようにして、化粧をしていた。
境は
起つも
坐るも知らず息を詰めたのである。
あわれ、着た
衣は雪の下なる薄もみじで、
膚の雪が、かえって薄もみじを包んだかと思う、深く脱いだ
襟脚を、すらりと引いて
掻き合わすと、ぼっとりとして膝近だった
懐紙を取って、くるくると丸げて、
掌を
拭いて落としたのが、畳へ
白粉のこぼれるようであった。
衣摺れが、さらりとした時、湯どのできいた
人膚に
紛うとめきが
薫って、少し斜めに
居返ると、
煙草を含んだ。吸い口が白く、
艶々と
煙管が黒い。
トーンと、灰吹の音が響いた。
きっと向いて、境を見た
瓜核顔は、
目ぶちがふっくりと、鼻筋通って、色の白さは
凄いよう。――気の
籠もった優しい
眉の両方を、
懐紙でひたと隠して、大きな
瞳でじっと
視て、
「……似合いますか。」
と、
莞爾した歯が黒い。と、莞爾しながら、
褄を合わせざまにすっくりと立った。顔が
鴨居に、すらすらと
丈が伸びた。
境は胸が飛んで、腰が浮いて、肩が宙へ上がった。ふわりと、その
婦の
袖で抱き上げられたと思ったのは、そうでない、横に口に引き
銜えられて、畳を
空に
釣り上げられたのである。
山が真黒になった。いや、庭が白いと、目に
遮った時は、スッと窓を出たので、手足はいつか、
尾鰭になり、我はぴちぴちと
跳ねて、
婦の姿は
廂を横に、ふわふわと欄間の天人のように見えた。
白い森も、白い家も、目の下に、たちまちさっと……空高く、松本城の天守をすれすれに飛んだように思うと、水の音がして、もんどり打って池の中へ落ちると、同時に
炬燵でハッと我に返った。
池におびただしい羽音が聞こえた。
この
案山子になど追えるものか。
バスケットの、
蔦の血を見るにつけても、青い
呼吸をついてぐったりした。
廊下へ、しとしとと人の音がする。ハッと息を引いて立つと、料理番が
膳に
銚子を添えて来た。
「やあ、伊作さん。」
「おお、
旦那。」
四
「昨年のちょうど今ごろでございました。」
料理番はひしと、身を寄せ、肩をしめて話し出した。
「今年は今朝から雪になりましたが、そのみぎりは、忘れもしません、前日雪が降りました。積もり方は、もっと多かったのでございます。――二時ごろに、目の
覚めますような御婦人客が、ただお
一方で、おいでになったのでございます。――目の覚めるようだと申しましても派手ではありません。
婀娜な中に、何となく寂しさのございます、二十六七のお年ごろで、高等な
円髷でおいででございました。――
御容子のいい、背のすらりとした、見立ての申し分のない、しかし奥様と申すには、どこか
媚めかしさが過ぎております。そこは、
田舎ものでも、大勢お客様をお見かけ申しておりますから、じきにくろうと
衆だと存じましたのでございまして、これが柳橋の
蓑吉さんという
姐さんだったことが、後に分かりました。宿帳の方はお
艶様でございます。
その御婦人を、旦那――帳場で、このお座敷へ御案内申したのでございます。
風呂がお好きで……もちろん、お
嫌な方もたんとございますまいが、あの湯へ二度、お着きになって、すぐと、それに夜分に一度、お入りなすったのでございます――都合で、新館の建出しは見合わせておりますが、温泉ごのみに石で
畳みました風呂は、自慢でございまして、旧の二階三階のお客様にも、ちと遠うございますけれども、お入りを願っておりましたところが――実はその、時々、不思議なことがありますので、このお座敷も同様にしばらく使わずにおきましたのを、旦那のような方に試みていただけば、おのずと変なこともなくなりましょうと、相談をいたしまして、申すもいかがでございますが、
今日久しぶりで、
湧かしも使いもいたしましたような
次第なのでございます。
ところで、お艶様、その御婦人でございますが、日のうち一風呂お浴びになりますと、(鎮守様のお宮は、)と聞いて、お
参詣なさいました。
贄川街道よりの丘の上にございます。――山王様のお
社で、むかし人身
御供があがったなどと申し伝えてございます。
森々と、もの寂しいお社で。……村社はほかにもございますが、鎮守と言う、お尋ねにつけて、その儀を帳場で申しますと……道を尋ねて、そこでお一人でおのぼりなさいました。目を少々お煩いのようで、雪がきらきらして
疼むからと言って、こんな土地でございます、ほんの出来あいの黒い目金を買わせて、掛けて、
洋傘を
杖のようにしてお出掛けで。――これは鎮守様へ
参詣は、奈良井宿一統への礼儀
挨拶というお心だったようでございます。
無事に、まずお帰りなすって、夕飯の時、お
膳で一口あがりました。――旦那の前でございますが、板前へと、御丁寧にお心づけを下すったものでございますから
私……ちょいと御挨拶に出ました時、こういうおたずねでございます――お社へお
供物にきざ
柿と
楊枝とを買いました、……石段下のそこの小店のお
媼さんの話ですが、山王様の奥が深い森で、その奥に
桔梗ヶ原という、原の中に、桔梗の池というのがあって、その池に、お
一方、お美しい奥様がいらっしゃると言うことですが、ほんとうですか。――
――まったくでございます、と皆まで承わらないで、
私が申したのでございます。
論より証拠、申して、よいか、悪いか存じませんが、現に
私が一度見ましたのでございます。」
「…………」
「桔梗ヶ原とは申しますが、それは、秋草は
綺麗に咲きます、けれども、桔梗ばかりというのではございません。ただその大池の水が
真桔梗の青い色でございます。桔梗はかえって、白い花のが見事に咲きますのでございまして。……
四年あとになりますが、
正午というのに、この峠向うの
藪原宿から火が出ました。
正午の
刻の火事は大きくなると、
何国でも申しますが、全く大焼けでございました。
山王様の丘へ上がりますと、一目に見えます。火の手は、
七条にも上がりまして、ぱちぱちぱんぱんと燃える音が手に取るように聞こえます。……あれは
山間の滝か、いや、ぽんぷの水の走るのだと申すくらい。この
大南風の勢いでは、山火事になって、やがて、ここもとまで押し寄せはしまいかと案じますほどの激しさで、
駈けつけるものは駈けつけます、騒ぐものは騒ぐ。
私なぞは見物の方で、お
社前は、おなじ
夥間で
充満でございました。
二百十日の荒れ前で、残暑の激しい時でございましたから、ついつい少しずつお社の森の中へ火を見ながら入りましたにつけて、不断は、しっかり行くまじきとしてある
処ではございますが、この火の陽気で、人の気の
湧いている場所から、深いといっても半町とはない。大丈夫と。ところで、
私陰気もので、あまり
若衆づきあいがございませんから、誰を誘うでもあるまいと、
杉檜の森々としました中を、それも、思ったほど奥が深くもございませんで、一面の草花。……白い
桔梗でへりを取った百畳敷ばかりの
真青な池が、と見ますと、その
汀、ものの二……三……十間とはない処に……お一人、何ともおうつくしい御婦人が、鏡台を置いて、斜めに向かって、お化粧をなさっていらっしゃいました。
お
髪がどうやら、お召ものが何やら、一目見ました、その時の
凄さ、
可恐しさと言ってはございません。ただいま思い出しましても
御酒が氷になって胸へ
沁みます。ぞっとします。……それでいてそのお美しさが忘れられません。
勿体ないようでございますけれども、家のないもののお仏壇に、うつしたお姿と存じまして、一日でも、この池の水を
視めまして、その
面影を思わずにはおられませんのでございます。――さあ、その時は、前後も存ぜず、
翼の折れた鳥が、ただ空から落ちるような思いで、森を飛び抜けて、一目散に、高い石段を駈け下りました。
私がその顔の色と、
怯えた様子とてはなかったそうでございましてな。……お社前の火事見物が、
一雪崩になって
遁げ
下りました。森の奥から火を消すばかり冷たい風で、
大蛇がさっと追ったようで、遁げた
私は、
野兎の飛んで落ちるように見えたということでございまして。
とこの趣を――お艶様、その御婦人に申しますと、――そうしたお方を、どうして、
女神様とも、お姫様とも言わないで、奥さまと言うんでしょう。さ、それでございます。
私はただ目が暗んでしまいましたが、
前々より、ふとお見上げ申したものの言うのでは、桔梗の池のお姿は、
眉をおとしていらっしゃりまするそうで……」
境はゾッとしながら、かえって
炬燵を
傍へ払った。
「どなたの奥方とも存ぜずに、いつとなくそう申すのでございまして……旦那。――お艶様に申しますと、じっとお聞きなすって――だと、その奥さまのお姿は、ほかにも見た方がありますか、とおっしゃいます――ええ、月の山の
端、花の
麓路、
螢の影、
時雨の
提灯、雪の川べりなど、随分村方でも、ちらりと拝んだものはございます。――お艶様はこれをきいて、
猪口を下に置いて、なぜか、しょんぼりとおうつむきなさいました。――
――ところで旦那……その御婦人が、わざわざ木曾のこの
山家へ一人旅をなされた、用事がでございまする。」
五
「ええ、その時、この、村方で、不思議千万な、色出入り、――変な
姦通事件がございました。
村入りの
雁股と申す
処に(代官
婆)という、
庄屋のお
婆さんと言えば、まだしおらしく聞こえますが、代官婆。……
渾名で分かりますくらいおそろしく
権柄な、家の系図を鼻に掛けて、
俺が家はむかし代官だぞよ、と二言めには、たつみ上がりになりますので。その
了簡でございますから、中年から後家になりながら、手一つで、まず……
伜どのを立派に育てて、これを東京で学士先生にまで仕立てました。……そこで
一頃は東京
住居をしておりましたが、何でも
一旦微禄した家を、
故郷に
打っ
開けて、村中の
面を見返すと申して、
估券潰れの古家を買いまして、両三年
前から、その伜の学士先生の嫁御、近頃で申す若夫人と、二人で引き籠もっておりますが。……菜大根、
茄子などは料理に
醤油が
費え、だという倹約で、
葱、
韮、
大蒜、
辣薤と申す五
薀の
類を、
空地中に、植え込んで、塩で弁ずるのでございまして。……もう遠くからぷんと、その家が
臭います。大蒜屋敷の代官婆。……
ところが若夫人、嫁御というのが、福島の商家の娘さんで学校をでた方だが、当世に似合わないおとなしい
優しい、ちと内輪すぎますぐらい。もっともこれでなくっては代官婆と二人住居はできません。……大蒜ばなれのした
方で、
鋤にも、
鍬にも、連尺にも、婆どのに追い使われて、いたわしいほどよく辛抱なさいます。
霜月の半ば過ぎに、不意に東京から大蒜屋敷へお客人がございました。学士先生のお友だちで、この方はどこへも勤めてはいなさらない、もっとも
画師だそうでございますから、きまった勤めとてはございますまい。学士先生の方は、東京のある中学校でれっきとした校長さんでございますが。――
で、その画師さんが、不意に、大蒜屋敷に飛び込んで参ったのは、ろくに旅費も持たずに、東京から
遁げ出して来たのだそうで。……と申しますのは――早い話が、細君がありながら、よそに深い
馴染が出来ました。……それがために、首尾も義理も世の中は、さんざんで、思い余って細君が意見をなすったのを、何を! と言って、一つ
横頬を
撲わしたはいいが、御先祖、お
両親の
位牌にも、くらわされてしかるべきは自分の方で、仏壇のあるわが家には居たたまらないために、その場から
門を駈け出したは出たとして、
知合にも友だちにも、女房に意見をされるほどの始末で見れば、行き
処がなかったので、
一夜しのぎに、この木曾谷まで遁げ込んだのだそうでございます、遁げましたなあ。……それに、その細君というのが、はじめ
画師さんには恋人で、晴れて夫婦になるのには、この学士先生が大層なお骨折りで、そのおかげで思いが
叶ったと申したようなわけだそうで。……遁げ込み場所には
屈竟なのでございました。
時に、弱りものの画師さんの、その深い馴染というのが、もし、何と……お艶様――手前どもへ一人でお泊まりになったその御婦人なんでございます。……ちょいと申し上げておきますが、これは画師さんのあとをたずねて、雪を分けておいでになったのではございません。その間がざっと半月ばかりございました。その間に、ただいま申しました、
姦通騒ぎが起こったのでございます。」
と料理番は一息した。
「そこで……また代官
婆に変な癖がございましてな。癖より病で――あるもの知りの方に承りましたのでは、訴訟狂とか申すんだそうで、
葱が枯れたと言っては村役場だ、
小児が
睨んだと言えば交番だ。……派出所だ裁判だと、何でも
上沙汰にさえ持ち出せば、我に理があると、それ
貴客、代官婆だけに思い込んでおりますのでございます。
その、
大蒜屋敷の
雁股へ掛かります、この
街道、
棒鼻の
辻に、
巌穴のような
窪地に引っ込んで、石松という猟師が、
小児だくさんで
籠もっております。四十
親仁で、これの小僧の時は、まだ
微禄をしません以前の……その婆のとこに下男奉公、
女房も女中奉公をしたものだそうで。……婆がえろう家来扱いにするのでございますが、石松猟師も、堅い親仁で、はなはだしく御主人に奉っておりますので。……
宵の雨が雪になりまして、その年の初雪が思いのほか、
夜半を掛けて積もりました。山の、
猪、
兎が
慌てます。猟はこういう時だと、
夜更けに、のそのそと起きて、鉄砲しらべをして、
炉端で
茶漬を
掻っ食らって、
手製の
猿の皮の
毛頭巾を
被った。
筵の戸口へ、
白髪を振り乱して、
蕎麦切色の
褌……いやな
奴で、とき色の
禿げたのを不断まきます、
尻端折りで、六十九歳の代官婆が、
跣足で雪の中に突っ立ちました。(内へ
怪けものが出た、来てくれせえ。)と
顔色、手ぶりで
喘いで言うので。……こんな時鉄砲は強うございますよ、ガチリ、
実弾をこめました。……旧主人の後室様がお跣足でございますから、石松も素跣足。街道を突っ切って
韮、
辣薤、
葱畑を、さっさっと、化けものを見届けるのじゃ、静かにということで、婆が出て来ました
納戸口から入って、中土間へ忍んで、指さされるなりに、板戸の節穴から
覗きますとな、――何と、六枚折の
屏風の
裡に、
枕を並べて、と申すのが、寝てはいなかったそうでございます。若夫人が
緋の
長襦袢で、
掻巻の
襟の肩から
辷った半身で、画師の
膝に白い手をかけて
俯向けになりました、背中を男が、
撫でさすっていたのだそうで。いつもは、もんぺを
穿いて、
木綿のちゃんちゃんこで居る嫁御が、その姿で、しかもそのありさまでございます。石松は化けもの以上に驚いたに相違ございません。(おのれ、不義もの……
人畜生。)と代官婆が
土蜘蛛のようにのさばり込んで、(やい、……動くな、その
状を一寸でも動いて
崩すと――
鉄砲だぞよ、
弾丸だぞよ。)と言う。にじり上がりの屏風の端から、鉄砲の
銃口をヌッと突き出して、毛の生えた
蟇のような石松が、目を光らして
狙っております。
人相と言い、場合と申し、ズドンとやりかねない勢いでごさいますから、画師さんは
面喰らったに相違ございますまい。(天罰は
立ち
処じゃ、足四本、手四つ、
顔二つのさらしものにしてやるべ。)で、代官婆は、近所の村方四軒というもの、その足でたたき起こして廻って、石松が鉄砲を向けたままの、そのありさまをさらしました。――夜のあけ方には、派出所の
巡査、
檀那寺の
和尚まで立ち会わせるという狂い方でございまして。学士先生の若夫人と色男の画師さんは、こうなると、
緋鹿子の
扱帯も
藁すべで、
彩色をした
海鼠のように、雪にしらけて、ぐったりとなったのでございます。
男はとにかく、嫁はほんとうに、うしろ手に
縛りあげると、細引を持ち出すのを、
巡査が
叱りましたが、叱られるとなお
吼り立って、たちまち、裁判所、村役場、派出所も村会も一所にして、
姦通の告訴をすると、のぼせ上がるので、どこへもやらぬ監禁同様という趣で、ひとまず檀那寺まで引き上げることになりましたが、
活き
証拠だと言い張って、嫁に
衣服を着せることを
肯きませんので、
巡査さんが、雪のかかった
外套を掛けまして、何と、しかし、ぞろぞろと村の女
小児まであとへついて、寺へ参ったのでございますが。」
境はききつつ、ただ
幾度も
歎息した。
「――
遁がしたのでございましょうな。画師さんはその夜のうちに、寺から影をかくしました。これはそうあるべきでございます。――さて、聞きますれば、――
伜の親友、兄弟同様の客じゃから、伜同様に心得る。……半年あまりも留守を守ってさみしく一人で居ることゆえ、嫁女や、そなたも、伜と思うて、つもる話もせいよ、と申して、身じまいをさせて、
衣ものまで着かえさせ、寝る時は、にこにこ笑いながら、床を並べさせたのだと申すことで。……嫁御はなるほど、わけしりの弟分の膝に
縋って泣きたいこともありましたろうし、
芸妓でしくじるほどの画師さんでございます、背中を
擦るぐらいはしかねますまい、……でございますな。
代官婆の憤り方をお察しなさりとう存じます。学士先生は電報で呼ばれました。何と
宥めても承知をしません。ぜひとも姦通の訴訟を起こせ。いや、恥も外聞もない、代官といえば帯刀じゃ。武士たるものは、不義ものを
成敗するはかえって名誉じゃ、とこうまで間違っては事面倒で。たって、裁判沙汰にしないとなら、生きておらぬ。
咽喉笛鉄砲じゃ、
鎌腹じゃ、奈良井川の
淵を知らぬか。……
桔梗ヶ池へ身を沈める……こ、こ、この
婆め、沙汰の限りな、桔梗ヶ池へ沈めますものか、身投げをしようとしたら、池が投げ出しましょう。」
と言って、料理番は苦笑した。
「また、今時に珍しい、学校でも、倫理、道徳、修身の方を御研究もなされば、お教えもなさいます、学士は至っての御孝心。かねて評判な方で、嫁御をいたわる
傍の目には、ちと弱すぎると思うほどなのでございますから、
困じ果てて、何とも申しわけも
面目もなけれども、とにかく一度、この土地へ来てもらいたい。万事はその上で。と言う――学士先生から
画師さんへのお頼みでございます。
さて、これは
決闘状より
可恐しい。……もちろん、村でも不義ものの
面へ、
唾と石とを、人間の道のためとか申して騒ぐ
方が多い
真中でございますから。……どの面さげて画師さんが奈良井へ二度面がさらされましょう、
旦那。」
「これは何と言われても来られまいなあ。」
「と言って、学士先生との義理合いでは来ないわけにはまいりますまい。ところで、その画師さんは、その時、どこに居たと
思し
召します。……いろのことから、
怪しからん、
横頬を
撲ったという細君の、
袖のかげに、申しわけのない親御たちのお
位牌から頭をかくして、
尻も足もわなわなと震えていましたので、弱った方でございます。……必ず、連れて参ります――と代官
婆に、誓って約束をなさいまして、学士先生は東京へ立たれました。
その上京中。その間のことなのでございます、――柳橋の
蓑吉姉さん……お艶様が……ここへお泊まりになりましたのは。……」
六
「――どんな用事の御都合にいたせ、
夜中、近所が静まりましてから、お艶様が、おたずねになろうというのが、代官婆の
処と承っては、一人ではお出し申されません。ただ道だけ聞けば、とのことでございましたけれども、おともが
直接について悪ければ、
垣根、裏口にでもひそみまして、内々守って進じようで……帳場が相談をしまして、その人選に当たりましたのが、この、ふつつかな
私なんでございました。……
お
支度がよろしくばと、
私、これへ……このお座敷へ
提灯を持って伺いますと……」
「ああ、二つ
巴の紋のだね。」と、つい誘われるように境が言った。
「へい。」
と暗く、含むような、
頤で返事を吸って、
「よく御存じで。」
「二度まで、湯殿に
点いていて、知っていますよ。」
「へい、湯殿に……湯殿に提灯を
点けますようなことはございませんが、――それとも、へーい。」
この様子では、今しがた庭を行く時、この料理番とともに提灯が通ったなどとは言い出せまい。境は話を促した。
「それから。」
「ちと変な気がいたしますが。――ええ、ざっとお支度済みで、二度めの湯上がりに薄化粧をなすった、めしものの
藍鼠がお顔の影に
藤色になって見えますまで、お色の白さったらありません、姿見の前で……」
境が思わず振り返ったことは言うまでもない。
「金の
吸口で、
烏金で張った
煙管で、ちょっと歯を染めなさったように見えます。
懐紙をな、
眉にあてて
私を、おも長に御覧なすって、
――似合いますか。――」
「むむ、む。」と言う境の声は、氷を
頬張ったように
咽喉に
支えた。
「畳のへりが、
桔梗で白いように見えました。
(ええ、勿体ないほどお似合いで。)と言うのを聞いて、懐紙をおのけになると、眉のあとがいま
剃立ての
真青で。……(桔梗ヶ池の奥様とは?)――(お
姉妹……いや一倍お
綺麗で)と
罰もあたれ、そう申さずにはおられなかったのでございます。
ここをお聞きなさいまし。」……
(お艶さん、どうしましょう。)
「雪がちらちら雨まじりで降る中を、破れた
蛇目傘で、見すぼらしい
半纏で、意気にやつれた画師さんの細君が、男を寝取った
情婦とも言わず、お艶様――本妻が、その
体では、
情婦だって
工面は悪うございます。目を
煩らって、しばらく
親許へ、
納屋同然な二階借りで引き
籠もって、内職に、娘子供に
長唄なんか、さらって暮らしていなさるところへ、思い余って、細君が訪ねたのでございます。」
(お艶さん、
私はそう存じます。私が、
貴女ほどお美しければ、「こんな女房がついています。何の
夫が、
木曾街道の女なんぞに。」と
姦通呼ばわりをするその
婆に、そう言ってやるのが一番早分りがすると思います。)(ええ、何よりですともさ。それよりか、なおその上に、「お
妾でさえこのくらいだ。」と言って
私を見せてやります方が、上になお奥さんという、奥行があってようございます。――「奥さんのほかに、私ほどのいろがついています。
田舎で意地ぎたなをするもんですか。」
婆にそう言ってやりましょうよ。そのお嫁さんのためにも。)――
「――あとで、お艶様の、したためもの、かきおきなどに、この様子が見えることに、何ともどうも、つい立ち至ったのでございまして。……これでございますから、何の木曾の
山猿なんか。しかし、念のために土地の女の風俗を見ようと、山王様
御参詣は、その下心だったかとも存じられます。……ところを、桔梗ヶ池の、
凄い、美しいお方のことをおききなすって、これが時々人目にも触れるというので、自然、代官婆の目にもとまっていて、自分の
容色の見劣りがする
段には、美しさで勝つことはできない、という覚悟だったと思われます。――もっとも西洋
剃刀をお持ちだったほどで。――それでいけなければ、世の中に
煩い
婆、人だすけに切っちまう――それも、かきおきにございました。
雪道を
雁股まで、
棒端をさして、奈良井川の枝流れの、青白いつつみを参りました。氷のような月が
皎々と
冴えながら、山気が霧に凝って包みます。
巌石、がらがらの
細谿川が、寒さに
水涸れして、さらさらさらさら、……ああ、ちょうど、あの音、……洗面所の、あの音でございます。」
「ちょっと、あの水口を留めて来ないか、
身体の筋々へ
沁み渡るようだ。」
「御同然でございまして……ええ、しかし、どうも。」
「一人じゃいけないかね。」
「
貴方様は?」
「いや、なに、どうしたんだい、それから。」
「岩と岩に、土橋が
架かりまして、向うに
槐の大きいのが枯れて立ちます。それが危なかしく、水で揺れるように月影に見えました時、ジイと、
私の持ちました
提灯の
蝋燭が煮えまして、ぼんやり
灯を引きます。(暗くなると、
巴が一つになって、
人魂の黒いのが
歩行くようね。)お艶様の言葉に――
私、はッとして
覗きますと、不注意にも、何にも、お
綺麗さに、そわつきましたか、ともしかけが乏しくなって、かえの蝋燭が入れてございません。――おつき申してはおります、月夜だし、
足許に
差支えはございませんようなものの、当館の紋の提灯は、ちょっと土地では幅が利きます。あなたのおためにと思いまして、道はまだ半町足らず、つい一っ走りで、
駈け戻りました。これが間違いでございました。」
声も、
言も、しばらく途絶えた。
「
裏土塀から台所口へ、……まだ入りませんさきに、ドーンと
天狗星の落ちたような音がしました。ドーンと
谺を返しました。鉄砲でございます。」
「…………」
「びっくりして土手へ出ますと、川べりに、薄い銀のようでございましたお姿が見えません。提灯も何も
押っ
放り出して、自分でわッと言って
駈けつけますと、
居処が少しずれて、バッタリと土手っ腹の雪を
枕に、帯腰が谿川の石に倒れておいででした。(寒いわ。)と
現のように、(ああ、冷たい。)とおっしゃると、その
唇から糸のように、
三条に分かれた血が垂れました。
――何とも、かとも、おいたわしいことに――
裾をつつもうといたします、乱れ
褄の
友染が、色をそのままに岩に凍りついて、霜の秋草に
触るようだったのでございます。――人も立ち会い、抱き起こし申す
縮緬が、氷でバリバリと音がしまして、
古襖から
錦絵を
剥がすようで、この方が、お
身体を裂く思いがしました。胸に
溜まった血は暖かく流れましたのに。――
撃ちましたのは石松で。――
親仁が、
生計の苦しさから、今夜こそは、どうでも
獲ものをと、
しとぎ餅で山の神を祈って出ました。
玉味噌を
塗って、
串にさして焼いて持ちます、その握飯には、魔が寄ると申します。がりがり橋という、その土橋にかかりますと、お艶様の方では人が来るのを、よけようと、水が少ないから、つい川の岩に片足おかけなすった。
桔梗ヶ池の怪しい奥様が、水の上を横に伝うと見て、パッと
臥打ちに狙いをつけた。
俺は魔を退治たのだ、村方のために。と言って、いまもって狂っております。――
旦那、旦那、旦那、提灯が、あれへ、あ、あの、湯どのの橋から、……あ、あ、ああ、旦那、向うから、
私が来ます、
私とおなじ男が参ります。や、並んで、お艶様が。」
境も歯の根をくいしめて、
「しっかりしろ、
可恐しくはない、可恐しくはない。……
怨まれるわけはない。」
電燈の
球が巴になって、黒くふわりと浮くと、
炬燵の上に提灯がぼうと掛かった。
「似合いますか。」
座敷は一面の水に見えて、雪の気はいが、白い桔梗の
汀に咲いたように畳に乱れ敷いた。
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