2022年3月21日月曜日

泉鏡花 眉かくしの霊

泉鏡花 眉かくしの霊

眉かくしの霊



      一

 木曾街道きそかいどう奈良井ならいの駅は、中央線起点、飯田町いいだまちより一五八マイル二、海抜三二〇〇尺、と言い出すより、膝栗毛ひざくりげを思う方が手っ取り早く行旅の情を催させる。
 ここは弥次郎兵衛やじろべえ喜多八きだはちが、とぼとぼと鳥居峠とりいとうげを越すと、日も西の山のに傾きければ、両側の旅籠屋はたごやより、女ども立ちでて、もしもしお泊まりじゃござんしないか、お風呂ふろいていずに、お泊まりなお泊まりな――喜多八が、まだ少し早いけれど……弥次郎、もう泊まってもよかろう、のうねえさん――女、お泊まりなさんし、お夜食はおまんまでも、蕎麦そばでも、お蕎麦でよかあ、おはたご安くして上げませず。弥次郎、いかさま、安い方がいい、蕎麦でいくらだ。女、はい、お蕎麦なら百十六もんでござんさあ。二人は旅銀の乏しさに、そんならそうときめて泊まって、湯から上がると、その約束の蕎麦が出る。さっそくにくいかかって、喜多八、こっちの方では蕎麦はいいが、したじが悪いにはあやまる。弥次郎、そのかわりにお給仕がうつくしいからいい、のう姐さん、と洒落しゃれかかって、もう一杯くんねえ。女、もうお蕎麦はそれぎりでござんさあ。弥次郎、なに、もうねえのか、たった二ぜんずつ食ったものを、つまらねえ、これじゃあ食いたりねえ。喜多八、はたごが安いもすさまじい。二はいばかり食っていられるものか。弥次郎……馬鹿なつらな、銭は出すから飯をくんねえ。……無慙むざんや、なけなしの懐中ふところを、けっく蕎麦だけ余計につかわされて悄気しょげ返る。その夜、故郷の江戸お箪笥町たんすまち引出し横町、取手屋とってや鐶兵衛かんべえとて、工面のいい馴染なじみって、ふもとの山寺にもうでて鹿しかの鳴き声を聞いたところ……
 ……と思うと、ふとここで泊まりたくなった。停車場ステエションを、もう汽車が出ようとする間際まぎわだったと言うのである。
 この、筆者の友、境賛吉さかいさんきちは、実はつたかずら木曾きそ桟橋かけはし寝覚ねざめとこなどを見物のつもりで、上松あげまつまでの切符を持っていた。霜月の半ばであった。
「……しかも、その(蕎麦二ぜん)には不思議な縁がありましたよ……」
 と、境が話した。
 昨夜は松本で一泊した。御存じの通り、この線の汽車は塩尻しおじりから分岐点のりかえで、東京から上松へ行くものが松本で泊まったのは妙である。もっとも、松本へ用があって立ち寄ったのだと言えば、それまででざっと済む。が、それだと、しめくくりがゆるんでちと辻褄つじつまが合わない。何も穿鑿せんさくをするのではないけれど、実は日数の少ないのに、汽車の遊びをむさぼった旅行たびで、行途ゆきは上野から高崎、妙義山を見つつ、横川、くまたいら、浅間を眺め、軽井沢、追分をすぎ、しの線に乗り替えて、姨捨おばすて田毎たごとを窓からのぞいて、泊りはそこで松本が予定であった。その松本には「いい娘の居る旅館があります。懇意ですから御紹介をしましょう」と、名のきこえた画家が添え手紙をしてくれた。……よせばいいのに、昨夜その旅館につくと、なるほど、帳場にはそれらしい束髪の女が一人見えたが、座敷へ案内したのは無論女中で。……さてその紹介状を渡したけれども、娘なんぞ寄っても着かない、……ばかりでない。この霜夜に、出しがらの生温なまぬるい渋茶一杯んだきりで、お夜食ともおまんまとも言い出さぬ。座敷は立派で卓は紫檀したんだ。火鉢ひばちは大きい。が火の気はぽっちり。で、灰の白いのにしがみついて、何しろ暖かいものでお銚子ちょうしをとうと、板前で火を引いてしまいました、なんにも出来ませんと、女中ねえさん素気そっけなさ。寒さは寒し、なるほど、火を引いたような、家中寂寞ひっそりとはしていたが、まだ十一時前である……酒だけなりと、頼むと、おあいにく。酒はないのか、ござりません。――じゃ、麦酒ビイルでも。それもお気の毒様だと言う。ねえさん……、境は少々居直って、どこか近所から取り寄せてもらえまいか。へいもう遅うござりますで、飲食店は寝ましたでな……飲食店だと言やあがる。はてな、停車場ステエションから、震えながらくるまでくる途中、ついこの近まわりに、冷たい音して、川が流れて、橋がかかって、両側に遊廓ゆうかくらしい家が並んで、茶めしの赤い行燈あんどんもふわりと目の前にちらつくのに――ああ、こうと知ったら軽井沢で買った二合びんを、次郎どののいぬではないが、皆なめてしまうのではなかったものを。大歎息おおためいきとともにばらをぐうと鳴らして可哀あわれな声で、姐さん、そうすると、酒もなし、麦酒もなし、さかなもなし……おまんまは。いえさ、今晩の旅籠はたごの飯は。へい、それが間に合いませんので……火を引いたあとなもんでなあ――何のうらみか知らないが、こうなると冷遇を通り越して奇怪きっかいである。なまじ紹介状があるだけに、喧嘩面けんかづらで、宿を替えるとも言われない。前世ぜんせごう断念あきらめて、せめて近所で、蕎麦そば饂飩うどんの御都合はなるまいか、と恐る恐る申し出ると、饂飩なら聞いてみましょう。ああ、それを二ぜん頼みます。女中はごしのもったてじりで、敷居へ半分だけ突き込んでいたひざを、ぬいと引っこ抜いて不精ぶしょうに出て行く。
 待つことしばらくして、盆で突き出したやつを見ると、どんぶりがたった一つ。腹のいた悲しさに、姐さん二ぜんと頼んだのだが。となじるように言うと、へい、二ぜん分、り込んでございますで。いや、相わかりました。どうぞおかまいなく、お引き取りを、と言うまでもなし……ついと尻を見せて、すたすたと廊下を行くのを、継児ままっこのような目つきで見ながら、抱き込むばかりにふたを取ると、なるほど、二ぜんもり込みだけにしたじがぽっちり、饂飩は白く乾いていた。
 この旅館が、秋葉山あきばさん三尺坊が、飯綱いいづな権現へ、客を、たちものにしたところへ打撞ぶつかったのであろう、泣くより笑いだ。
 その……饂飩二ぜんの昨夜ゆうべを、むかし弥次郎、喜多八が、夕旅籠ゆうはたごの蕎麦二ぜんに思いくらべた。いささか仰山だが、不思議の縁というのはこれで――急に奈良井へ泊まってみたくなったのである。
 日あしも木曾の山のに傾いた。宿しゅくには一時雨ひとしぐれさっとかかった。
 雨ぐらいの用意はしている。駅前の俥は便たよらないで、洋傘かさで寂しくしのいで、鴨居かもいの暗いのきづたいに、石ころみち辿たどりながら、度胸はえたぞ。――持って来い、蕎麦二ぜん。で、昨夜の饂飩は暗討やみうちだ――今宵こよいの蕎麦は望むところだ。――旅のあわれを味わおうと、硝子ガラス張りの旅館一二軒を、わざと避けて、軒に山駕籠やまかご干菜ひばるし、土間のかまどで、割木わりぎの火をく、わびしそうな旅籠屋をからすのようにのぞき込み、黒き外套がいとうで、御免と、入ると、頬冠ほおかぶりをした親父おやじがその竈の下を焚いている。かまちがだだ広く、炉が大きく、すすけた天井に八間行燈はちけんの掛かったのは、山駕籠とつい註文ちゅうもん通り。階子下はしごしたの暗い帳場に、坊主頭の番頭は面白い。
「いらっせえ。」
 蕎麦二膳、蕎麦二膳と、境が覚悟の目の前へ、身軽にひょいと出て、慇懃いんぎん会釈えしゃくをされたのは、焼麸やきふだと思う(しっぽく)の加料かやく蒲鉾かまぼこだったような気がした。
「お客様だよ――つるの三番。」
 女中も、服装みなり木綿もめんだが、前垂まえだれがけのさっぱりした、年紀としわかい色白なのが、窓、欄干を覗く、松の中を、じ上るように三階へ案内した。――十畳敷。……柱も天井も丈夫造りで、床の間のあつらえにもいささかの厭味いやみがない、玄関つきとは似もつかない、しっかりした屋台である。
 敷蒲団しきぶとんの綿も暖かに、くまの皮の見事なのが敷いてあるは。ははあ、膝栗毛時代に、峠路とうげじで売っていた、さるの腹ごもり、大蛇おろちの肝、獣の皮というのはこれだ、と滑稽おどけた殿様になってくだんの熊の皮に着座に及ぶと、すぐに台十能だいじゅうへ火を入れて女中ねえさんが上がって来て、惜し気もなくあか大火鉢おおひばちちまけたが、またおびただしい。青い火さきが、堅炭をからんで、真赤に※(「火+共」、第3水準1-87-42)おこって、窓にみ入る山颪やまおろしはさっとえる。三階にこの火の勢いは、大地震のあとでは、ちと申すのもはばかりあるばかりである。
 湯にも入った。
 さて膳だが、――蝶脚ちょうあしの上を見ると、蕎麦扱いにしたは気恥ずかしい。わらさの照焼はとにかくとして、ふっと煙の立つ厚焼の玉子に、わんが真白な半ぺんのくずかけ。さらについたのは、このあたりで佳品かひんと聞く、つぐみを、何と、かしら猪口ちょくに、またをふっくり、胸を開いて、五羽、ほとんど丸焼にしてかんばしくつけてあった。
「ありがたい、……実にありがたい。」
 境は、その女中にれない手つきの、それもうれしい……しゃくをしてもらいながら、熊に乗って、仙人せんにん御馳走ごちそうになるように、慇懃いんぎんに礼を言った。
「これは大した御馳走ですな。……実にありがたい……全く礼を言いたいなあ。」
 心底しんそこのことである。はぐらかすとは様子にも見えないから、若い女中もかけ引きなしに、
旦那だんなさん、お気に入りまして嬉しゅうございますわ。さあ、もうお一つ。」
頂戴ちょうだいしよう。なお重ねて頂戴しよう。――時にねえさん、この上のお願いだがね、……どうだろう、このつぐみを別にもらって、ここへなべに掛けて、煮ながら食べるというわけには行くまいか。――鶫はまだいくらもあるかい。」
「ええ、ざるに三杯もございます。まだ台所の柱にも束にしてかかっております。」
「そいつは豪気ごうぎだ。――少し余分に貰いたい、ここで煮るように……いいかい。」
「はい、そう申します。」
「ついでにお銚子ちょうしを。火がいいからそばへ置くだけでも冷めはしない。……通いが遠くって気の毒だ。三本ばかり一時いちどきに持っておいで。……どうだい。岩見重太郎が註文ちゅうもんをするようだろう。」
「おほほ。」
 今朝、松本で、顔を洗った水瓶みずがめの水とともに、胸が氷にとざされたから、何の考えもつかなかった。ここで暖かに心が解けると、……分かった、饂飩うどんで虐待した理由わけというのが――紹介状をつけた画伯は、近頃でこそ一家をなしたが、若くて放浪した時代に信州路しんしゅうじ経歴へめぐって、その旅館には五月いつつきあまりも閉じもった。とどこお旅籠代はたごだいの催促もせず、帰途かえりには草鞋銭わらじせんまで心着けた深切なうちだと言った。が、ああ、それだ。……おなじ人の紹介だから旅籠代を滞らして、草鞋銭を貰うのだと思ったに違いない。……
「ええ、これは、お客様、お麁末そまつなことでして。」
 と紺の鯉口こいぐちに、おなじ幅広の前掛けした、せた、色のやや青黒い、陰気だが律儀りちぎらしい、まだ三十六七ぐらいな、五分刈りの男が丁寧に襖際ふすまぎわかしこまった。
「どういたして、……まことに御馳走様。……番頭さんですか。」
「いえ、当家の料理人にございますが、至って不束ふつつかでございまして。……それに、かような山家辺鄙やまがへんぴで、一向お口に合いますものもございませんで。」
「とんでもないこと。」
「つきまして、……ただいま、女どもまでおっしゃりつけでございましたが、鶫を、貴方様あなたさま、何か鍋でめしあがりたいというおことばで、いかようにいたして差し上げましょうやら、右、女どももやっぱり田舎いなかもののことでございますで、よくお言がのみ込めかねます。ゆえに失礼ではございますが、ちょいとお伺いに出ましてございますが。」
 境は少なからず面くらった。
「そいつはどうも恐縮です。――遠方のところを。」
 とうっかり言った。……
串戯じょうだんのようですが、全く三階まで。」
「どうつかまつりまして。」
「まあ、こちらへ――お忙しいんですか。」
「いえ、おぜんは、もう差し上げました。それが、お客様も、貴方様のほか、お二組ぐらいよりございません。」
「では、まあこちらへ。――さあ、ずっと。」
「はッ、どうも。」
「失礼をするかも知れないが、まあ、一杯ひとつ。ああ、――ちょうどお銚子が来た。女中ねえさん、お酌をしてあげて下さい。」
「は、いえ、手前不調法で。」
「まあまあ一杯ひとつ。――弱ったな、どうも、つぐみを鍋でと言って、……その何ですよ。」
「旦那様、帳場でも、あの、そう申しておりますの。鶫は焼いてめしあがるのが一番おいしいんでございますって。」
「お膳にもつけて差し上げましたが、これを頭から、その脳味噌のうみそをするりとな、ひとかじりにめしあがりますのが、おいしいんでございまして、ええとんだ田舎流儀ではございますがな。」
「お料理番さん……私は決して、料理をとやこう言うたのではないのですよ。……弱ったな、どうも。実はね、あるその宴会の席で、その席に居た芸妓げいしゃが、木曾の鶫の話をしたんです――大分酒が乱れて来て、何とか節というのが、あっちこっちではじまると、木曾節というのがこの時あらわれて、――きいても可懐なつかしい土地だから、うろ覚えに覚えているが、(木曾へ木曾へと積み出す米は)何とかっていうのでね……」
「さようで。」
 と真四角に猪口ちょくをおくと、二つげの煙草たばこ入れから、吸いかけた煙管きせるを、かね火鉢ひばちだ、遠慮なくコッツンとたたいて、
「……(伊那いな高遠たかとの余り米)……と言うでございます、米、この女中の名でございます、およね。」
「あら、何だよ、伊作いさくさん。」
 と女中が横にらみに笑ってにらんで、
「旦那さん、――この人は、うちが伊那だもんでございますから。」
「はあ、勝頼かつより様と同国ですな。」
「まあ、勝頼様は、こんな男ぶりじゃありませんが。」
「当り前よ。」
 とむッつりした料理番は、苦笑いもせず、またコッツンと煙管をはたく。
「それだもんですから、伊那の贔屓ひいきをしますの――木曾でうたうのは違いますが。――(伊那や高遠へ積み出す米は、みんな木曾路きそじの余り米)――と言いますの。」
「さあ……それはどっちにしろ……その木曾へ、木曾へのきっかけに出た話なんですから、私たちも酔ってはいるし、それがあとの贄川にえがわだか、峠を越した先の藪原やぶはら、福島、上松あげまつのあたりだか、よくはかなかったけれども、その芸妓げいしゃが、客と一所に、鶫あみを掛けに木曾へ行ったという話をしたんです。……まだの暗いうちに山道をずんずん上って、案内者の指揮さしずの場所で、かすみを張っておとりを揚げると、夜明け前、霧のしらじらに、向うの尾上おのえを、ぱっとこちらの山のへ渡る鶫の群れが、むらむらと来て、羽ばたきをして、かすみに掛かる。じわじわととって占めて、すぐに焚火たきびで附け焼きにして、あぶらの熱いところを、ちゅッと吸って食べるんだが、そのおいしいこと、……と言って、話をしてね……」
「はあ、まったくで。」
「……ぶるぶる寒いから、煮燗にえかんで、一杯のみながら、息もつかずに、幾口か鶫をかじって、ああ、おいしいと一息して、焚火にしがみついたのが、すっと立つと、案内についた土地の猟師が二人、きゃッと言った――その何なんですよ、芸妓の口が血だらけになっていたんだとさ。生々なまなまとした半熟の小鳥の血です。……とこの話をしながら、うっかりしたようにその芸妓は手巾ハンケチで口をおさえたんですがね……たらたらと赤いやつがみそうで、私は顔を見ましたよ。さわるとしないそうなせぎすな、すらりとした、若い女で。……聞いてもうまそうだが、これはすごかったろう、その時、東京で想像しても、けわしいとも、高いとも、深いとも、峰谷の重なり合った木曾山中のしらしらあけです……暗いすそに焚火をからめて、すっくりと立ち上がったという、自然、目の下の峰よりも高いところで、霧の中から綺麗きれいな首が。」
「いや、旦那だんなさん。」
「話はまずくっても、何となく不気味だね。その口が血だらけなんだ。」
「いや、いかにも。」
「ああ、よく無事だったな、と私が言うと、どうして? と訊くから、そういうのが、あわてる銃猟家だの、魔のさした猟師に、峰越しの笹原ささはらからねらい撃ちに二つ弾丸だまを食らうんです。……場所と言い……時刻と言い……昔から、夜待ち、あけ方の鳥あみには、魔がさして、怪しいことがあると言うが、まったくそれは魔がさしたんだ。だって、覿面てきめんに綺麗な鬼になったじゃあないか。……どうせそうよ、……私は鬼よ。――でも人に食われる方の……なぞと言いながら、でも可恐こわいわね、ぞっとする。と、また口を手巾で圧えていたのさ。」
「ふーん。」と料理番は、我を忘れて沈んだ声して、
「ええ。旦那、へい、どうも、いや、全く。――実際、危のうございますな。――そういう場合には、きっと怪我けががあるんでして……よく、そのねえさんは御無事でした。この贄川の川上、御嶽口おんたけぐち美濃みの寄りのかいは、よけいに取れますが、そのかたの場所はどこでございますか存じません――芸妓衆げいしゃしゅうは東京のどちらのかたで。」
「なに、下町の方ですがね。」
「柳橋……」
 と言って、のぞくように、じっと見た。
「……あるいはその新橋とか申します……」
「いや、その真中ほどです……日本橋の方だけれど、宴会の席ばかりでの話ですよ。」
「お処が分かって差支さしつかえがございませんければ、参考のために、その場所を伺っておきたいくらいでございまして。……この、深山幽谷のことは、人間の智慧ちえには及びません――」
 女中も俯向うつむいて暗い顔した。
 境は、この場合だれもしよう、乗り出しながら、
「何か、この辺に変わったことでも。」
「……別にその、と云ってございません。しかし、流れに瀬がございますように、山にもふちがございますで、気をつけなければなりません。――ただいまさしあげましたつぐみは、これは、つい一両日続きまして、珍しく上の峠口とうげぐちで猟があったのでございます。」
「さあ、それなんですよ。」
 境はあらためて猪口ちょくをうけつつ、
「料理番さん。きみのお手際てぎわぜんにつけておくんなすったのが、見てもうまそうに、かんばしく、あぶらの垂れそうなので、ふと思い出したのは、今の芸妓げいしゃの口が血の一件でね。しかし私は坊さんでも、精進でも、何でもありません。望んでも結構なんだけれど、見たまえ。――窓の外は雨と、もみじで、霧が山を織っている。峰の中には、雪を頂いて、雲を貫いてそびえたのが見えるんです。――どんな拍子かで、ひょいと立ちでもした時口が血になって首が上へ出ると……野郎でこのつらだから、その芸妓のような、すごく美しく、山の神の化身けしんのようには見えまいがね。落ち残ったかきだと思って、窓の外からからすが突つかないとも限らない、……ふと変な気がしたものだから。」
「お米さん――電燈でんきがなぜか、遅いでないか。」
 料理番が沈んだ声で言った。
 時雨しぐれは晴れつつ、木曾の山々に暮が迫った。奈良井川ならいがわの瀬が響く。

      二

「何だい、どうしたんです。」
「ああ、旦那。」と暗夜やみよの庭の雪の中で。
さぎが来て、うおねらうんでございます。」
 すぐ窓の外、間近だが、池の水を渡るような料理番――その伊作の声がする。
人間ひとが落ちたか、かわうそでもまわるのかと思った、えらい音で驚いたよ。」
 これは、その翌日の晩、おなじ旅店はたごやの、した座敷でのことであった。……

 境は奈良井宿に逗留とうりゅうした。ここに積もった雪が、朝から降り出したためではない。別にこのあたりを見物するためでもなかった。……昨夜は、あれから――鶫をなべでとあつらえたのは、しゃも、かしわをするように、ぜんのわきで火鉢ひばちへ掛けて煮るだけのこと、と言ったのを、料理番が心得て、そのぶつ切りを、皿に山もり。目笊めざるに一杯、ねぎのざくざくを添えて、醤油しょうゆも砂糖も、むきだしにかつぎあげた。お米が烈々と炭を継ぐ。
 こしの方だが、境の故郷いまわりでは、季節になると、この鶫を珍重すること一通りでない。料理屋が鶫御料理おんりょうり、じぶ、おこのみなどという立看板を軒に掲げる。鶫うどん、鶫蕎麦そばと蕎麦屋までが貼紙びらを張る。ただし安価やすくない。何のわん、どのはちに使っても、おんあつもの、おん小蓋こぶたの見識で。ぽっちり三臠みきれ五臠いつきれよりは附けないのに、葱と一所ひとつけて、鍋からもりこぼれるような湯気を、天井へ立てたはうれしい。
 あまっさえ熱燗あつかんで、くまの皮に胡坐あぐらで居た。
 芸妓げいしゃの化けものが、山賊にかわったのである。
 寝る時には、厚衾あつぶすまに、このくまの皮が上へかぶさって、そでを包み、おおい、すそを包んだのも面白い。あくる日、雪になろうとてか、夜嵐よあらしの、じんと身にむのも、木曾川の瀬のすごいのも、ものの数ともせず、酒の血と、獣の皮とで、ほかほかして三階にぐっすり寝込んだ。
 次第であるから、朝は朝飯から、ふっふっと吹いてすするような豆腐のしるも気に入った。
 一昨日いっさくじつの旅館の朝はどうだろう。……どぶの上澄みのような冷たい汁に、おん羮ほどにしじみが泳いで、生煮えの臭さといったらなかった。……
 山も、空も氷をとおすごとく澄みきって、松の葉、枯木のきらめくばかり、晃々きらきらがさしつつ、それで、ちらちらと白いものが飛んで、奥山に、熊が人立じんりつして、針をくような雪であった。
 朝飯あさが済んでしばらくすると、境はしくしくと腹がいたみだした。――しばらくして、二三度はばかりへ通った。
 あの、饂飩うどんたたりである。鶫を過食したためでは断じてない。二ぜん分をみにした生がえりのうどん粉の中毒あたらない法はない。おなかおさえて、饂飩を思うと、思う下からチクチクと筋が動いて痛み出す。――もっとも、戸外そとは日当りに針が飛んでいようが、少々腹が痛もうが、我慢して、汽車に乗れないという容体ようだいではなかったので。……ただ、誰も知らない。この宿の居心のいいのにつけて、どこかへのつらあてにと、逗留とうりゅうする気になったのである。
 ところで座敷だが――その二度めだったか、かわやのかえりに、わが座敷へ入ろうとして、三階の欄干てすりから、ふと二階をのぞくと、階子段はしごだんの下に、開けた障子に、ほうきとはたきを立て掛けた、中の小座敷に炬燵こたつがあって、床の間が見通される。……床に行李こうりと二つばかり重ねた、あせた萌葱もえぎ風呂敷ふろしきづつみの、真田紐さなだひもで中結わえをしたのがあって、旅商人たびあきんどと見える中年の男が、ずッぷり床を背負しよって当たっていると、向い合いに、一人の、中年増ちゅうどしまの女中がちょいと浮腰で、ひざをついて、手さきだけ炬燵に入れて、少し仰向くようにして、旅商人と話をしている。
 なつかしい浮世のさまを、山のがけから掘り出して、旅宿やどめたように見えた。
 座敷は熊の皮である。境は、ふと奥山へてられたように、里心が着いた。
 一昨日おととい松本で城を見て、天守に上って、その五層いつつめの朝霜の高層に立って、ぞっとしたような、雲に連なる、山々のひしと再び窓に来て、身に迫るのを覚えもした。バスケットに、等閑なおざりからめたままの、城あとのくずぼりこけむす石垣いしがきって枯れ残った小さなつたくれないの、つぐみの血のしたたるごときのを見るにつけても。……急に寂しい。――「お米さん、下階したに座敷はあるまいか。――炬燵に入ってぐっすりと寝たいんだ。」
 二階の部屋々々は、時ならず商人衆あきんどしゅう出入ではいりがあるからと、望むところの下座敷、おも屋から、土間を長々と板を渡って離れ座敷のような十畳へ導かれたのであった。
 肱掛窓ひじかけまどの外が、すぐ庭で、池がある。
 白雪の飛ぶ中に、緋鯉ひごいの背、真鯉のひれの紫は美しい。梅も松もあしらったが、大方は樫槻かしけやきの大木である。ほおの二かかえばかりなのさえすっくと立つ。が、いずれも葉を振るって、素裸すはだか山神さんじんのごとき装いだったことは言うまでもない。
 午後三時ごろであったろう。枝にこずえに、雪の咲くのを、炬燵で斜違はすかいに、くの字になって――いいおんなだとお目に掛けたい。
 肱掛窓をのぞくと、池の向うの椿つばきの下に料理番が立って、つくねんと腕組して、じっと水をみまもるのが見えた。例の紺の筒袖つつッぽに、しりからすぽんと巻いた前垂まえだれで、雪のしのぎに鳥打帽をかぶったのは、いやしくも料理番が水中の鯉を覗くとは見えない。大きなばんが沼のどじょうねらっている形である。山も峰も、雲深くその空を取り囲む。
 境は山間の旅情を解した。「料理番さん、晩の御馳走ごちそうに、その鯉を切るのかね。」「へへ。」と薄暗い顔を上げてニヤリと笑いながら、鳥打帽を取ってお時儀をして、また被り直すと、そのままごそごそとくぐってひさしに隠れる。
 帳場は遠し、あとは雪がややしげくなった。
 同時に、さらさらさらさらと水の音が響いて聞こえる。「――また誰か洗面所の口金を開け放したな。」これがまた二度めで。……今朝三階の座敷を、ここへ取り替えない前に、ちと遠いが、手水ちょうずを取るのに清潔きれいだからと女中が案内をするから、この離座敷はなれに近い洗面所に来ると、三カ所、水道口みずぐちがあるのにそのどれをひねっても水が出ない。さほどの寒さとは思えないがてたのかと思って、こだまのように高く手を鳴らして女中に言うと、「あれ、みます。」とけ出して行くと、やがて、スッと水が出た。――座敷を取り替えたあとで、はばかりに行くと、ほかに手水鉢ちょうずばちがないから、洗面所の一つをひねったが、その時はほんのたらたらとしたたって、かろうじて用が足りた。
 しばらくすると、しきりに洗面所の方で水音がする。炬燵こたつからもぐり出て、土間へ下りて橋がかりからそこをのぞくと、三ツの水道口みずぐち、残らず三条みすじの水が一齊いちどきにざっとそそいで、いたずらに流れていた。たしない水らしいのに、と一つ一つ、丁寧にしめて座敷へ戻った。が、その時も料理番が池のへりの、同じところにつくねんとたたずんでいたのである。くどいようだが、料理番の池に立ったのは、これで二度めだ。……朝のは十時ごろであったろう。トその時料理番が引っ込むと、やがて洗面所の水が、再び高く響いた。
 またしても三条の水道が、残らず開け放しに流れている。おなじこと、たしない水である。あとで手を洗おうとする時は、きっとれるのだからと、またしても口金をしめておいたが。――
 いま、午後の三時ごろ、この時も、さらにその水の音が聞こえ出したのである。庭の外には小川も流れる。奈良井川の瀬も響く。木曾へ来て、水の音を気にするのは、船に乗って波を見まいとするようなものである。望みこそすれ、きらいも避けもしないのだけれど、不思議に洗面所の開け放しばかり気になった。
 境はまた廊下へ出た。果して、三条ともそろって――しょろしょろと流れている。「旦那だんなさん、お風呂ふろですか。」手拭てぬぐいを持っていたのを見て、ここへ火を直しに、台十能じゅうのうを持って来かかった、お米が声を掛けた。「いや――しかし、もう入れるかい。」「じきでございます。……今日はこの新館のがきますから。」なるほど、雪の降りしきるなかに、ほんのりと湯の香が通う。洗面所のわき西洋扉せいようどが湯殿らしい。この窓からも見える。新しく建て増した柱立てのまま、むしろがこいにしたのもあり、足場を組んだところがあり、材木を積んだ納屋なやもある。が、荒れたうまやのようになって、落葉にもれた、一帯、脇本陣わきほんじんとでも言いそうな旧家が、いつか世が成金とか言った時代の景気につれて、くわかいこも当たったであろう、このあたりも火の燃えるような勢いに乗じて、贄川にえがわはその昔は、煮え川にして、温泉いでゆの湧いた処だなぞと、ここが温泉にでもなりそうな意気込みで、新館建増しにかかったのを、この一座敷と、湯殿ばかりで、そのまま沙汰さたやみになったことなど、あとでかった。「女中ねえさんかい、その水を流すのは。」閉めたばかりの水道のせんを、女中が立ちながら一つずつ開けるのをて、たまらずなじるように言ったが、ついでにこの仔細しさいも分かった。……池は、の根にといを伏せて裏の川から引くのだが、一年に一二度ずつ水涸みずがれがあって、池の水がようとする。こいふなも、一処ひとところへ固まって、あわを立てて弱るので、台所の大桶おおおけみ込んだ井戸の水を、はるばるとこの洗面所へ送って、橋がかりの下をくぐらして、池へ流し込むのだそうであった。
 木曾道中の新版を二三種ばかり、まくらもとに散らした炬燵へ、ずぶずぶともぐって、「お米さん、……折り入って、お前さんに頼みがある。」と言いかけて、初々ういういしくちょっと俯向うつむくのを見ると、猛然として、喜多八を思い起こして、わが境は一人で笑った。「ははは、心配なことではないよ。――おかげで腹あんばいも至ってよくなったし、……午飯ひるを抜いたから、晩には入り合せにかつ食い、大いに飲むとするんだが、いまね、伊作さんが渋苦い顔をして池をにらんで行きました。どうも、鯉のふとり工合ぐあい鑑定めききしたものらしい……きっと今晩の御馳走ごちそうだと思うんだ。――昨夜ゆうべつぐみじゃないけれど、どうも縁あって池の前に越して来て、鯉と隣附き合いになってみると、目の前から引き上げられて、まないたで輪切りはひどい。……板前の都合もあろうし、またわがままを言うのではない。……
 いきづくりはお断わりだが、実は鯉汁こいこく大歓迎なんだ。しかし、魚屋か、何か、都合して、ほかの鯉を使ってもらうわけには行くまいか。――差し出たことだが、一ぴきか二ひきで足りるものなら、お客は幾人だか、今夜の入用いりようだけは私がその原料を買ってもいいから。」女中の返事が、「いえ、この池のは、いつもお料理にはつかいませんのでございます。うちの旦那も、おかみさんも、お志の仏の日には、鮒だの、鯉だの、……この池へ放しなさるんでございます。料理番さんもやっぱり。……そして料理番あのひとは、この池のを大事にして、可愛かわいがって、そのせいですか、ひまさえあれば、黙ってああやって庭へ出て、池を覗いていますんです。」「それはおあつらえだ。ありがたい。」境は礼を言ったくらいであった。
 雪の頂から星が一つ下がったように、入相いりあいの座敷に電燈のいた時、女中が風呂を知らせに来た。
「すぐにぜんを。」と声を掛けておいて、待ち構えた湯どのへ、一散――例の洗面所の向うのを開けると、上がり場らしいが、ハテ真暗である。いやいや、提灯ちょうちんが一燈ぼうと薄白く点いている。そこにもう一枚ひらきがあって閉まっていた。そのなかが湯どのらしい。
半作事はんさくじだと言うから、まだ電燈でんきが点かないのだろう。おお、ふたどもえの紋だな。大星だか由良之助ゆらのすけだかで、鼻をく、鬱陶うっとうしい巴の紋も、ここへ来ると、木曾殿の寵愛ちょうあいを思い出させるから奥床しい。」
 と帯を解きかけると、ちゃぶり――という――人が居て湯を使う気勢けはいがする。この時、洗面所の水の音がハタとやんだ。
 境はためらった。
 が、いつでもかまわぬ。……ひとが済んで、湯のあいた時を知らせてもらいたいと言っておいたのである。誰も入ってはいまい。とにかくと、解きかけた帯をはさんで、ずッと寄って、その提灯の上から、にひったりとほおをつけて伺うと、そでのあたりに、すうーと暗くなる、蝋燭ろうそくが、またぽうとあかくなる。影があざになって、巴が一つ片頬かたほに映るように陰気にみ込む、と思うと、ばちゃり……内端うちわに湯が動いた。何の隙間すきまからか、ぷんと梅の香を、ぬくもりで溶かしたような白粉おしろいの香がする。
婦人おんなだ」
 何しろ、この明りでは、男客にしろ、一所に入ると、暗くて肩も手もまたぎかねまい。乳に打着ぶつかりかねまい。で、ばたばたと草履ぞうりを突っ掛けたまま引き返した。
「もう、お上がりになりまして?」と言う。
 通いが遠い。ここでかんをするつもりで、お米がさきへ銚子ちょうしだけ持って来ていたのである。
「いや、あとにする。」
「まあ、そんなにおなかがすいたんですの。」
「腹もすいたが、誰かお客が入っているから。」
「へい、……こっちの湯どのは、久しく使わなかったのですが、あの、そう言っては悪うございますけど、しばらくぶりで、お掃除そうじかたがた旦那様だんなさまに立てましたのでございますから、……あとで頂きますまでも、……あの、まだどなたも。」
「かまやしない。私はゆっくりでいいんだが、婦人の客のようだったぜ。」
「へい。」
 と、おかしなベソをかいた顔をすると、手に持つ銚子が湯沸しにカチカチカチと震えたっけ、あとじさりに、ふいと立って、廊下に出た。一度ひっそり跫音あしおとを消すや否や、けたたましい音を、すたんと立てて、土間の板をはたはたと鳴らしてけ出した。
 境はきょとんとして、
「何だい、あれは……」
 やがてぜんを持ってあらわれたのが……お米でない、年増としまのに替わっていた。
「やあ、中二階のおかみさん。」
 行商人と、炬燵こたつむつまじかったのはこれである。
御亭主ごていしゅはどうしたい。」
「知りませんよ。」
「ぜひ、承りたいんだがね。」
 半ば串戯じょうだんに、ぐッと声を低くして、
「出るのかい……何か……あの、湯殿へ……まったく?」
「それがね、旦那、大笑いなんでございますよ。……どなたもいらっしゃらないと思って、申し上げましたのに、御婦人の方が入っておいでだって、旦那がおっしゃったと言うので、米ちゃん、大変な臆病おくびょうなんですから。……久しくつかいません湯殿ですから、内のお上さんが、念のために、――」
「ああそうか、……私はまた、ちょっと出るのかと思ったよ。」
「大丈夫、湯どのへは出ませんけれど、そのかわりお座敷へはこんなのが、ね、貴方あなた。」
「いや、結構。」
 おしゃくはこの方が、けっく飲める。
 夜は長い、雪はしんしんと降り出した。床を取ってから、酒をもう一度、その勢いでぐっすり寝よう。晩飯ばんはいい加減で膳を下げた。
 跫音が入り乱れる。ばたばたと廊下へ続くと、洗面所の方へ落ち合ったらしい。ちょろちょろと水の音がまた響き出した。男の声も交じって聞こえる。それがむと、お米がふすまからまるい顔を出して、
「どうぞ、お風呂へ。」
「大丈夫か。」
「ほほほほ。」
 とちとてれたように笑うと、身を廊下へ引くのに、押し続いて境は手拭てぬぐいげて出た。
 橋がかりの下り口に、昨夜帳場に居た坊主頭の番頭と、女中がしらか、それとも女房かと思う老けたおんなと、もう一人の女中とが、といった形に顔を並べて、一団ひとかたまりになってこなたを見た。そこへお米の姿が、足袋たびまで見えてちょこちょこと橋がかりを越えて渡ると、三人のふところへ飛び込むように一団ひとかたまり
「御苦労様。」
 わがために、見とどけ役のこの人数で、風呂をしらべたのだと思うから声を掛けると、一度にそろってお時儀をして、屋根がかやぶきの長土間に敷いた、そのあゆみ板を渡って行く。土間のなかばで、そのおじやのかたまりのような四人の形が暗くなったのは、トタンに、一つ二つ電燈がスッと息を引くように赤くなって、橋がかりのも洗面所のも一齊いっせいにパッと消えたのである。
 と胸をくと、さらさらさらさらと三筋に……こう順に流れて、洗面所を打つ水の下に、さっきの提灯ちょうちん朦朧もうろうと、半ば暗く、ともえを一つ照らして、墨でかいた炎か、なまずねたか、と思う形にともれていた。
 いまにも電燈がくだろう。湯殿口へ、これを持って入る気で、境がこごみざまに手を掛けようとすると、提灯がフッと消えて見えなくなった。
 消えたのではない。やっぱりこれが以前のごとく、湯殿の戸口に点いていた。これはおのずからしずくして、下の板敷のれたのに、目の加減で、向うから影がしたものであろう。はじめから、提灯がここにあった次第わけではない。境は、斜めに影の宿った水中の月を手に取ろうとしたと同じである。
 つまさぐりに、例の上がり場へ……で、念のために戸口に寄ると、息が絶えそうに寂寞ひっそりしながら、ばちゃんと音がした。ぞッと寒い。湯気が天井から雫になって点滴したたるのではなしに、屋根の雪が溶けて落ちるような気勢けはいである。
 ばちゃん、……ちゃぶりとかすかに湯が動く。とまた得ならずえんな、しかし冷たい、そして、におやかな、霧に白粉おしろいを包んだような、人膚ひとはだの気がすッと肩にまつわって、うなじでた。
 脱ぐはずの衣紋えもんをかつしめて、
「お米さんか。」
「いいえ。」
 と一呼吸ひといきを置いて、湯どののなかから聞こえたのは、もちろんわが心がわが耳に響いたのであろう。――お米でないのは言うまでもなかったのである。
 洗面所の水の音がぴったりやんだ。
 思わず立ちすくんで四辺あたりを見た。思い切って、
「入りますよ、御免。」

「いけません。」
 と澄みつつ、湯気にれとした声が、はっきり聞こえた。

「勝手にしろ!」
 我を忘れて言った時は、もう座敷へ引き返していた。
 電燈は明るかった。巴の提灯はこの光に消された。が、水は三筋、さらにさらさらと走っていた。
「馬鹿にしやがる。」
 不気味より、すごいより、なぶられたような、反感が起こって、炬燵こたつへ仰向けにひっくり返った。
 しばらくして、境が、飛び上がるように起き直ったのは、すぐ窓の外に、ざぶり、ばちゃばちゃばちゃ、ばちゃ、ちゃッと、けたたましく池の水のみださるる音を聞いたからであった。
「何だろう。」
 ばちゃばちゃばちゃ、ちゃッ。
 そこへ、ごそごそと池を廻って響いて来た。人の来るのは、なぜか料理番だろうと思ったのは、この池のうおを愛惜すると、聞いて知ったためである。……
「何だい、どうしたんです。」
 雨戸を開けて、一面の雪の色のやや薄いところに声を掛けた。その池も白いまで水は少ないのであった。

      三

「どっちです、白鷺しらさぎかね、五位鷺ごいさぎかね。」
「ええ――どっちもでございますな。両方だろうと思うんでございますが。」
 料理番の伊作は来て、窓下の戸際とぎわに、がッしり腕組をして、うしろ向きに立って言った。
「むこうの山口の大林から下りて来るんでございます。」
 ことばの中にもあらわれる、雪の降りやんだ、その雲の一方はうるしのごとく森が黒い。
「不断のことではありませんが、……この、旦那だんな、池の水のれるところをねらうんでございます。こいふなも半分ひれを出して、あがきがつかないのでございますから。」
怜悧りこうやつだね。」
「馬鹿な人間は困っちまいます――うお可哀相かわいそうでございますので……そうかと言って、夜一夜よっぴて、立番をしてもおられません。旦那、お寒うございます。おしめなさいまし。……そちこち御註文ごちゅうもんの時刻でございますから、何か、不手際ふてぎわなものでも見繕って差し上げます。」
「都合がついたら、君が来て一杯、ゆっくりつき合ってくれないか。――私は夜ふかしは平気だから。一所に……ここで飲んでいたら、いくらか案山子かかしになるだろう。……」
「――結構でございます。……もう台所は片附きました、追ッつけ伺います。――いたずらな餓鬼どもめ。」
 と、あとを口こごとで、空をにらみながら、枝をざらざらとくぐって行く。
 境は、しかし、あとの窓を閉めなかった。もちろん、ごく細目には引いたが。――実は、雪の池のここへ来て幾羽の鷺の、うおを狩るさまを、さながら、炬燵で見るお伽話とぎばなしの絵のように思ったのである。すわと言えば、追い立つるとも、驚かすとも、その場合のこととして……第一、気もそぞろなことは、二度まで湯殿の湯の音は、いずれの隙間すきまからか雪とともに、鷺がち込んでゆあみしたろう、とそうさえ思ったほどであった。
 そのままじっとのぞいていると、薄黒く、ごそごそと雪を踏んで行く、伊作のそでわきを、ふわりと巴の提灯がいて行く。おお今、窓下では提灯を持ってはいなかったようだ。――それに、もうやがて、庭を横ぎって、濡縁ぬれえんか、戸口に入りそうだ、と思うまでへだたった。遠いまで小さく見える、としばらくして、ふとあとへ戻るような、やや大きくなって、あの土間廊下の外の、かや屋根のつま下をすれずれに、だんだんこなたへ引き返す、引き返すのが、気のせいだか、いつの間にか、中へはいって、土間の暗がりをともれて来る。……橋がかり、一方が洗面所、突当りが湯殿……ハテナとぎょッとするまで気がついたのは、その点れて来る提灯を、座敷へ振り返らずに、逆に窓から庭の方に乗り出しつつ見ていることであった。
 トタンに消えた。――頭からゾッとして、首筋をこわく振り向くと、座敷に、白鷺かと思う女の後ろ姿の頸脚えりあしがスッと白い。
 ちがだなわきに、十畳のその辰巳たつみえた、姿見に向かった、うしろ姿である。……湯気に山茶花さざんかしおれたかと思う、れたように、しっとりと身についた藍鼠あいねずみ縞小紋しまこもんに、朱鷺色ときいろと白のいち松のくっきりした伊達巻だてまきで乳の下のくびれるばかり、消えそうな弱腰に、裾模様すそもようかろなびいて、片膝かたひざをやや浮かした、つま友染ゆうぜんがほんのりこぼれる。露のりそうな円髷まるまげに、桔梗色ききょういろ手絡てがらが青白い。浅葱あさぎ長襦袢ながじゅばんの裏がなまめかしくからんだ白い手で、刷毛はけを優しく使いながら、姿見を少しこごみなりに覗くようにして、化粧をしていた。
 境はつもるも知らず息を詰めたのである。
 あわれ、着たきぬは雪の下なる薄もみじで、はだの雪が、かえって薄もみじを包んだかと思う、深く脱いだ襟脚えりあしを、すらりと引いてき合わすと、ぼっとりとして膝近だった懐紙かみを取って、くるくると丸げて、てのひらいて落としたのが、畳へ白粉おしろいのこぼれるようであった。
 衣摺きぬずれが、さらりとした時、湯どのできいた人膚ひとはだまがうとめきがかおって、少し斜めに居返いがえると、煙草たばこを含んだ。吸い口が白く、艶々つやつや煙管きせるが黒い。
 トーンと、灰吹の音が響いた。
 きっと向いて、境を見た瓜核顔うりざねがおは、ぶちがふっくりと、鼻筋通って、色の白さはすごいよう。――気のもった優しいまゆの両方を、懐紙かみでひたと隠して、大きなひとみでじっとて、
「……似合いますか。」
 と、莞爾にっこりした歯が黒い。と、莞爾しながら、つまを合わせざまにすっくりと立った。顔が鴨居かもいに、すらすらとたけが伸びた。
 境は胸が飛んで、腰が浮いて、肩が宙へ上がった。ふわりと、そのおんなそでで抱き上げられたと思ったのは、そうでない、横に口に引きくわえられて、畳をくうり上げられたのである。
 山が真黒になった。いや、庭が白いと、目にさえぎった時は、スッと窓を出たので、手足はいつか、尾鰭おひれになり、我はぴちぴちとねて、おんなの姿はひさしを横に、ふわふわと欄間の天人のように見えた。
 白い森も、白い家も、目の下に、たちまちさっと……空高く、松本城の天守をすれすれに飛んだように思うと、水の音がして、もんどり打って池の中へ落ちると、同時に炬燵こたつでハッと我に返った。
 池におびただしい羽音が聞こえた。
 この案山子かかしになど追えるものか。
 バスケットの、つたの血を見るにつけても、青い呼吸いきをついてぐったりした。
 廊下へ、しとしとと人の音がする。ハッと息を引いて立つと、料理番がぜん銚子ちょうしを添えて来た。
「やあ、伊作さん。」
「おお、旦那だんな。」

      四

「昨年のちょうど今ごろでございました。」
 料理番はひしと、身を寄せ、肩をしめて話し出した。
「今年は今朝から雪になりましたが、そのみぎりは、忘れもしません、前日雪が降りました。積もり方は、もっと多かったのでございます。――二時ごろに、目のめますような御婦人客が、ただお一方ひとかたで、おいでになったのでございます。――目の覚めるようだと申しましても派手ではありません。婀娜あだな中に、何となく寂しさのございます、二十六七のお年ごろで、高等な円髷まるまげでおいででございました。――御容子ごようすのいい、背のすらりとした、見立ての申し分のない、しかし奥様と申すには、どこかなまめかしさが過ぎております。そこは、田舎いなかものでも、大勢お客様をお見かけ申しておりますから、じきにくろうとしゅだと存じましたのでございまして、これが柳橋の蓑吉みのきちさんというねえさんだったことが、後に分かりました。宿帳の方はお艶様つやさまでございます。
 その御婦人を、旦那――帳場で、このお座敷へ御案内申したのでございます。
 風呂ふろがお好きで……もちろん、おいやな方もたんとございますまいが、あの湯へ二度、お着きになって、すぐと、それに夜分に一度、お入りなすったのでございます――都合で、新館の建出しは見合わせておりますが、温泉ごのみに石でたたみました風呂は、自慢でございまして、旧の二階三階のお客様にも、ちと遠うございますけれども、お入りを願っておりましたところが――実はその、時々、不思議なことがありますので、このお座敷も同様にしばらく使わずにおきましたのを、旦那のような方に試みていただけば、おのずと変なこともなくなりましょうと、相談をいたしまして、申すもいかがでございますが、今日こんにち久しぶりで、かしも使いもいたしましたような次第わけなのでございます。
 ところで、お艶様、その御婦人でございますが、日のうち一風呂お浴びになりますと、(鎮守様のお宮は、)と聞いて、お参詣まいりなさいました。贄川街道にえがわかいどうよりの丘の上にございます。――山王様のおやしろで、むかし人身御供ごくうがあがったなどと申し伝えてございます。森々しんしんと、もの寂しいお社で。……村社はほかにもございますが、鎮守と言う、お尋ねにつけて、その儀を帳場で申しますと……道を尋ねて、そこでお一人でおのぼりなさいました。目を少々お煩いのようで、雪がきらきらしていたむからと言って、こんな土地でございます、ほんの出来あいの黒い目金を買わせて、掛けて、洋傘こうもりつえのようにしてお出掛けで。――これは鎮守様へ参詣さんけいは、奈良井宿一統への礼儀挨拶あいさつというお心だったようでございます。
 無事に、まずお帰りなすって、夕飯の時、おぜんで一口あがりました。――旦那の前でございますが、板前へと、御丁寧にお心づけを下すったものでございますからてまい……ちょいと御挨拶に出ました時、こういうおたずねでございます――お社へお供物くもつにきざがき楊枝ようじとを買いました、……石段下のそこの小店のおばあさんの話ですが、山王様の奥が深い森で、その奥に桔梗ヶ原ききょうがはらという、原の中に、桔梗の池というのがあって、その池に、お一方ひとり、お美しい奥様がいらっしゃると言うことですが、ほんとうですか。――
 ――まったくでございます、と皆まで承わらないで、てまいが申したのでございます。
 論より証拠、申して、よいか、悪いか存じませんが、現にてまいが一度見ましたのでございます。」
「…………」
「桔梗ヶ原とは申しますが、それは、秋草は綺麗きれいに咲きます、けれども、桔梗ばかりというのではございません。ただその大池の水が真桔梗まっききょうの青い色でございます。桔梗はかえって、白い花のが見事に咲きますのでございまして。……
 四年あとになりますが、正午まひるというのに、この峠向うの藪原宿やぶはらじゅくから火が出ました。正午しょううまこくの火事は大きくなると、何国いずこでも申しますが、全く大焼けでございました。
 山王様の丘へ上がりますと、一目に見えます。火の手は、七条ななすじにも上がりまして、ぱちぱちぱんぱんと燃える音が手に取るように聞こえます。……あれは山間やまあいの滝か、いや、ぽんぷの水の走るのだと申すくらい。この大南風おおみなみの勢いでは、山火事になって、やがて、ここもとまで押し寄せはしまいかと案じますほどの激しさで、けつけるものは駈けつけます、騒ぐものは騒ぐ。てまいなぞは見物の方で、おやしろ前は、おなじ夥間なかま充満いっぱいでございました。
 二百十日の荒れ前で、残暑の激しい時でございましたから、ついつい少しずつお社の森の中へ火を見ながら入りましたにつけて、不断は、しっかり行くまじきとしてあるところではございますが、この火の陽気で、人の気のいている場所から、深いといっても半町とはない。大丈夫と。ところで、てまい陰気もので、あまり若衆わかしゅづきあいがございませんから、誰を誘うでもあるまいと、杉檜すぎひのきの森々としました中を、それも、思ったほど奥が深くもございませんで、一面の草花。……白い桔梗ききょうでへりを取った百畳敷ばかりの真青まっさおな池が、と見ますと、そのみぎわ、ものの二……三……十間とはない処に……お一人、何ともおうつくしい御婦人が、鏡台を置いて、斜めに向かって、お化粧をなさっていらっしゃいました。
 おぐしがどうやら、お召ものが何やら、一目見ました、その時のすごさ、可恐おそろしさと言ってはございません。ただいま思い出しましても御酒ごしゅが氷になって胸へみます。ぞっとします。……それでいてそのお美しさが忘れられません。勿体もったいないようでございますけれども、家のないもののお仏壇に、うつしたお姿と存じまして、一日でも、この池の水をながめまして、その面影おもかげを思わずにはおられませんのでございます。――さあ、その時は、前後も存ぜず、はねの折れた鳥が、ただ空から落ちるような思いで、森を飛び抜けて、一目散に、高い石段を駈け下りました。てまいがその顔の色と、おびえた様子とてはなかったそうでございましてな。……お社前の火事見物が、一雪崩ひとなだれになってりました。森の奥から火を消すばかり冷たい風で、大蛇だいじゃがさっと追ったようで、遁げたてまいは、野兎のうさぎの飛んで落ちるように見えたということでございまして。
 とこの趣を――お艶様、その御婦人に申しますと、――そうしたお方を、どうして、女神様おんながみさまとも、お姫様とも言わないで、奥さまと言うんでしょう。さ、それでございます。てまいはただ目が暗んでしまいましたが、前々ぜんぜんより、ふとお見上げ申したものの言うのでは、桔梗の池のお姿は、まゆをおとしていらっしゃりまするそうで……」
 境はゾッとしながら、かえって炬燵こたつわきへ払った。
「どなたの奥方とも存ぜずに、いつとなくそう申すのでございまして……旦那。――お艶様に申しますと、じっとお聞きなすって――だと、その奥さまのお姿は、ほかにも見た方がありますか、とおっしゃいます――ええ、月の山の、花の麓路ふもとじほたるの影、時雨しぐれ提灯ちょうちん、雪の川べりなど、随分村方でも、ちらりと拝んだものはございます。――お艶様はこれをきいて、猪口ちょくを下に置いて、なぜか、しょんぼりとおうつむきなさいました。――
 ――ところで旦那……その御婦人が、わざわざ木曾のこの山家やまがへ一人旅をなされた、用事がでございまする。」

      五

「ええ、その時、この、村方で、不思議千万な、色出入り、――変な姦通まおとこ事件がございました。
 村入りの雁股かりまたと申すところに(代官ばば)という、庄屋しょうやのおばあさんと言えば、まだしおらしく聞こえますが、代官婆。……渾名あだなで分かりますくらいおそろしく権柄けんべいな、家の系図を鼻に掛けて、おらが家はむかし代官だぞよ、と二言めには、たつみ上がりになりますので。その了簡りょうけんでございますから、中年から後家になりながら、手一つで、まず……せがれどのを立派に育てて、これを東京で学士先生にまで仕立てました。……そこで一頃ひところは東京住居ずまいをしておりましたが、何でも一旦いったん微禄びろくした家を、故郷ふるさとぱだけて、村中のつらを見返すと申して、估券こけんつぶれの古家を買いまして、両三年ぜんから、その伜の学士先生の嫁御、近頃で申す若夫人と、二人で引き籠もっておりますが。……菜大根、茄子なすびなどは料理に醤油したじついえ、だという倹約で、ねぶかにら大蒜にんにく辣薤らっきょうと申す五うんたぐいを、空地あきち中に、植え込んで、塩で弁ずるのでございまして。……もう遠くからぷんと、その家がにおいます。大蒜屋敷の代官婆。……
 ところが若夫人、嫁御というのが、福島の商家の娘さんで学校をでた方だが、当世に似合わないおとなしいやさしい、ちと内輪すぎますぐらい。もっともこれでなくっては代官婆と二人住居はできません。……大蒜ばなれのしたかたで、すきにも、くわにも、連尺にも、婆どのに追い使われて、いたわしいほどよく辛抱なさいます。
 霜月の半ば過ぎに、不意に東京から大蒜屋敷へお客人がございました。学士先生のお友だちで、この方はどこへも勤めてはいなさらない、もっとも画師えかきだそうでございますから、きまった勤めとてはございますまい。学士先生の方は、東京のある中学校でれっきとした校長さんでございますが。――
 で、その画師さんが、不意に、大蒜屋敷に飛び込んで参ったのは、ろくに旅費も持たずに、東京からげ出して来たのだそうで。……と申しますのは――早い話が、細君がありながら、よそに深い馴染なじみが出来ました。……それがために、首尾も義理も世の中は、さんざんで、思い余って細君が意見をなすったのを、何を! と言って、一つ横頬よこぞっぽくらわしたはいいが、御先祖、お両親ふたおや位牌いはいにも、くらわされてしかるべきは自分の方で、仏壇のあるわが家には居たたまらないために、その場からかどを駈け出したは出たとして、知合ちかづきにも友だちにも、女房に意見をされるほどの始末で見れば、行きどころがなかったので、一夜ひとよしのぎに、この木曾谷まで遁げ込んだのだそうでございます、遁げましたなあ。……それに、その細君というのが、はじめ画師えかきさんには恋人で、晴れて夫婦になるのには、この学士先生が大層なお骨折りで、そのおかげで思いがかなったと申したようなわけだそうで。……遁げ込み場所には屈竟くっきょうなのでございました。
 時に、弱りものの画師さんの、その深い馴染というのが、もし、何と……お艶様――手前どもへ一人でお泊まりになったその御婦人なんでございます。……ちょいと申し上げておきますが、これは画師さんのあとをたずねて、雪を分けておいでになったのではございません。その間がざっと半月ばかりございました。その間に、ただいま申しました、姦通まおとこ騒ぎが起こったのでございます。」
 と料理番は一息した。
「そこで……また代官ばばに変な癖がございましてな。癖より病で――あるもの知りの方に承りましたのでは、訴訟狂とか申すんだそうで、ねぶかが枯れたと言っては村役場だ、小児こどもにらんだと言えば交番だ。……派出所だ裁判だと、何でも上沙汰かみざたにさえ持ち出せば、我に理があると、それ貴客あなた、代官婆だけに思い込んでおりますのでございます。
 その、大蒜にんにく屋敷の雁股かりまたへ掛かります、この街道かいどう棒鼻ぼうばなつじに、巌穴いわあなのような窪地くぼちに引っ込んで、石松という猟師が、小児がきだくさんでもっております。四十親仁おやじで、これの小僧の時は、まだ微禄びろくをしません以前の……その婆のとこに下男奉公、女房かかあも女中奉公をしたものだそうで。……婆がえろう家来扱いにするのでございますが、石松猟師も、堅い親仁で、はなはだしく御主人に奉っておりますので。……
 よいの雨が雪になりまして、その年の初雪が思いのほか、夜半よなかを掛けて積もりました。山の、ししうさぎあわてます。猟はこういう時だと、夜更よふけに、のそのそと起きて、鉄砲しらべをして、炉端ろばた茶漬ちゃづけっ食らって、手製てづくりさるの皮の毛頭巾けずきんかぶった。むしろの戸口へ、白髪しらがを振り乱して、蕎麦切色そばきりいろふんどし……いやなやつで、とき色の禿げたのを不断まきます、尻端折しりぱしょりで、六十九歳の代官婆が、跣足はだしで雪の中に突っ立ちました。(内へけものが出た、来てくれせえ。)と顔色がんしょく、手ぶりであえいで言うので。……こんな時鉄砲は強うございますよ、ガチリ、実弾たまをこめました。……旧主人の後室様がお跣足でございますから、石松も素跣足。街道を突っ切ってにら辣薤らっきょう葱畑ねぶかばたけを、さっさっと、化けものを見届けるのじゃ、静かにということで、婆が出て来ました納戸口なんどぐちから入って、中土間へ忍んで、指さされるなりに、板戸の節穴からのぞきますとな、――何と、六枚折の屏風びょうぶなかに、まくらを並べて、と申すのが、寝てはいなかったそうでございます。若夫人が長襦袢ながじゅばんで、掻巻かいまきえりの肩からすべった半身で、画師のひざに白い手をかけて俯向うつむけになりました、背中を男が、でさすっていたのだそうで。いつもは、もんぺを穿いて、木綿もめんのちゃんちゃんこで居る嫁御が、その姿で、しかもそのありさまでございます。石松は化けもの以上に驚いたに相違ございません。(おのれ、不義もの……人畜生にんちくしょう。)と代官婆が土蜘蛛つちぐものようにのさばり込んで、(やい、……動くな、そのざまを一寸でも動いてくずすと――鉄砲あれだぞよ、弾丸あれだぞよ。)と言う。にじり上がりの屏風の端から、鉄砲の銃口すぐちをヌッと突き出して、毛の生えたひきがえるのような石松が、目を光らしてねらっております。
 人相と言い、場合と申し、ズドンとやりかねない勢いでごさいますから、画師さんは面喰めんくらったに相違ございますまい。(天罰はどころじゃ、足四本、手四つ、つら二つのさらしものにしてやるべ。)で、代官婆は、近所の村方四軒というもの、その足でたたき起こして廻って、石松が鉄砲を向けたままの、そのありさまをさらしました。――夜のあけ方には、派出所の巡査おまわり檀那寺だんなでら和尚おしょうまで立ち会わせるという狂い方でございまして。学士先生の若夫人と色男の画師さんは、こうなると、緋鹿子ひがのこ扱帯しごきわらすべで、彩色さいしきをした海鼠なまこのように、雪にしらけて、ぐったりとなったのでございます。
 男はとにかく、嫁はほんとうに、うしろ手にくくりあげると、細引を持ち出すのを、巡査おまわりしかりましたが、叱られるとなおたけり立って、たちまち、裁判所、村役場、派出所も村会も一所にして、姦通かんつうの告訴をすると、のぼせ上がるので、どこへもやらぬ監禁同様という趣で、ひとまず檀那寺まで引き上げることになりましたが、証拠じょうこだと言い張って、嫁に衣服きものを着せることをきませんので、巡査おまわりさんが、雪のかかった外套がいとうを掛けまして、何と、しかし、ぞろぞろと村の女小児こどもまであとへついて、寺へ参ったのでございますが。」
 境はききつつ、ただ幾度いくたび歎息たんそくした。
「――がしたのでございましょうな。画師さんはその夜のうちに、寺から影をかくしました。これはそうあるべきでございます。――さて、聞きますれば、――せがれの親友、兄弟同様の客じゃから、伜同様に心得る。……半年あまりも留守を守ってさみしく一人で居ることゆえ、嫁女や、そなたも、伜と思うて、つもる話もせいよ、と申して、身じまいをさせて、ものまで着かえさせ、寝る時は、にこにこ笑いながら、床を並べさせたのだと申すことで。……嫁御はなるほど、わけしりの弟分の膝にすがって泣きたいこともありましたろうし、芸妓げいしゃでしくじるほどの画師さんでございます、背中をさするぐらいはしかねますまい、……でございますな。
 代官婆の憤り方をお察しなさりとう存じます。学士先生は電報で呼ばれました。何となだめても承知をしません。ぜひとも姦通の訴訟を起こせ。いや、恥も外聞もない、代官といえば帯刀じゃ。武士たるものは、不義ものを成敗せいばいするはかえって名誉じゃ、とこうまで間違っては事面倒で。たって、裁判沙汰にしないとなら、生きておらぬ。咽喉笛のどぶえ鉄砲じゃ、鎌腹かまばらじゃ、奈良井川のふちを知らぬか。……桔梗ヶ池ききょうがいけへ身を沈める……こ、こ、このばばあめ、沙汰の限りな、桔梗ヶ池へ沈めますものか、身投げをしようとしたら、池が投げ出しましょう。」
 と言って、料理番は苦笑した。
「また、今時に珍しい、学校でも、倫理、道徳、修身の方を御研究もなされば、お教えもなさいます、学士は至っての御孝心。かねて評判な方で、嫁御をいたわるはたの目には、ちと弱すぎると思うほどなのでございますから、こうじ果てて、何とも申しわけも面目めんぼくもなけれども、とにかく一度、この土地へ来てもらいたい。万事はその上で。と言う――学士先生から画師えかきさんへのお頼みでございます。
 さて、これは決闘状はたしじょうより可恐おそろしい。……もちろん、村でも不義もののつらへ、つばと石とを、人間の道のためとか申して騒ぐかたが多い真中まんなかでございますから。……どの面さげて画師さんが奈良井へ二度面がさらされましょう、旦那だんな。」
「これは何と言われても来られまいなあ。」
「と言って、学士先生との義理合いでは来ないわけにはまいりますまい。ところで、その画師さんは、その時、どこに居たとおぼします。……いろのことから、しからん、横頬よこぞっぽったという細君の、そでのかげに、申しわけのない親御たちのお位牌いはいから頭をかくして、しりも足もわなわなと震えていましたので、弱った方でございます。……必ず、連れて参ります――と代官ばばに、誓って約束をなさいまして、学士先生は東京へ立たれました。
 その上京中。その間のことなのでございます、――柳橋の蓑吉みのきちねえさん……お艶様が……ここへお泊まりになりましたのは。……」

      六

「――どんな用事の御都合にいたせ、夜中やちゅう、近所が静まりましてから、お艶様が、おたずねになろうというのが、代官婆のところと承っては、一人ではお出し申されません。ただ道だけ聞けば、とのことでございましたけれども、おともが直接じかについて悪ければ、垣根かきね、裏口にでもひそみまして、内々守って進じようで……帳場が相談をしまして、その人選に当たりましたのが、この、ふつつかなてまいなんでございました。……
 お支度したくがよろしくばと、てまい、これへ……このお座敷へ提灯ちょうちんを持って伺いますと……」
「ああ、二つどもえの紋のだね。」と、つい誘われるように境が言った。
「へい。」
 と暗く、含むような、おとがいで返事を吸って、
「よく御存じで。」
「二度まで、湯殿にいていて、知っていますよ。」
「へい、湯殿に……湯殿に提灯をけますようなことはございませんが、――それとも、へーい。」
 この様子では、今しがた庭を行く時、この料理番とともに提灯が通ったなどとは言い出せまい。境は話を促した。
「それから。」
「ちと変な気がいたしますが。――ええ、ざっとお支度済みで、二度めの湯上がりに薄化粧をなすった、めしものの藍鼠あいねずみがお顔の影に藤色ふじいろになって見えますまで、お色の白さったらありません、姿見の前で……」
 境が思わず振り返ったことは言うまでもない。
「金の吸口くちで、烏金しゃくどうで張った煙管きせるで、ちょっと歯を染めなさったように見えます。懐紙かいしをな、まゆにあてててまいを、おも長に御覧なすって、
 ――似合いますか。――」
「むむ、む。」と言う境の声は、氷を頬張ほおばったように咽喉のどつかえた。
「畳のへりが、桔梗ききょうで白いように見えました。
(ええ、勿体ないほどお似合いで。)と言うのを聞いて、懐紙をおのけになると、眉のあとがいま剃立そりたての真青まっさおで。……(桔梗ヶ池の奥様とは?)――(お姉妹きょうだい……いや一倍お綺麗きれいで)とばちもあたれ、そう申さずにはおられなかったのでございます。
 ここをお聞きなさいまし。」……

(お艶さん、どうしましょう。)
「雪がちらちら雨まじりで降る中を、破れた蛇目傘じゃのめで、見すぼらしい半纏はんてんで、意気にやつれた画師さんの細君が、男を寝取った情婦おんなとも言わず、お艶様――本妻が、そのていでは、情婦いろだって工面くめんは悪うございます。目をわずらって、しばらく親許おやもとへ、納屋なや同然な二階借りで引きもって、内職に、娘子供に長唄ながうたなんか、さらって暮らしていなさるところへ、思い余って、細君が訪ねたのでございます。」
(お艶さん、わたしはそう存じます。私が、貴女あなたほどお美しければ、「こんな女房がついています。何のやどが、木曾街道きそかいどうの女なんぞに。」と姦通まおとこ呼ばわりをするそのばばあに、そう言ってやるのが一番早分りがすると思います。)(ええ、何よりですともさ。それよりか、なおその上に、「おめかけでさえこのくらいだ。」と言ってわたしを見せてやります方が、上になお奥さんという、奥行があってようございます。――「奥さんのほかに、私ほどのいろがついています。田舎いなかで意地ぎたなをするもんですか。」ばばあにそう言ってやりましょうよ。そのお嫁さんのためにも。)――

「――あとで、お艶様の、したためもの、かきおきなどに、この様子が見えることに、何ともどうも、つい立ち至ったのでございまして。……これでございますから、何の木曾の山猿やまざるなんか。しかし、念のために土地の女の風俗を見ようと、山王様御参詣ごさんけいは、その下心だったかとも存じられます。……ところを、桔梗ヶ池の、すごい、美しいお方のことをおききなすって、これが時々人目にも触れるというので、自然、代官婆の目にもとまっていて、自分の容色きりょうの見劣りがするには、美しさで勝つことはできない、という覚悟だったと思われます。――もっとも西洋剃刀かみそりをお持ちだったほどで。――それでいけなければ、世の中にうるさばばあ、人だすけに切っちまう――それも、かきおきにございました。
 雪道を雁股かりまたまで、棒端ぼうばなをさして、奈良井川の枝流れの、青白いつつみを参りました。氷のような月が皎々こうこうえながら、山気が霧に凝って包みます。巌石がんせき、がらがらの細谿川ほそたにがわが、寒さに水涸みずがれして、さらさらさらさら、……ああ、ちょうど、あの音、……洗面所の、あの音でございます。」
「ちょっと、あの水口を留めて来ないか、身体からだの筋々へみ渡るようだ。」
「御同然でございまして……ええ、しかし、どうも。」
「一人じゃいけないかね。」
貴方様あなたさまは?」
「いや、なに、どうしたんだい、それから。」
「岩と岩に、土橋がかりまして、向うにえんじゅの大きいのが枯れて立ちます。それが危なかしく、水で揺れるように月影に見えました時、ジイと、てまいの持ちました提灯ちょうちん蝋燭ろうそくが煮えまして、ぼんやりを引きます。(暗くなると、ともえが一つになって、人魂ひとだまの黒いのが歩行あるくようね。)お艶様の言葉に――てまい、はッとしてのぞきますと、不注意にも、何にも、お綺麗きれいさに、そわつきましたか、ともしかけが乏しくなって、かえの蝋燭が入れてございません。――おつき申してはおります、月夜だし、足許あしもと差支さしつかえはございませんようなものの、当館の紋の提灯は、ちょっと土地では幅が利きます。あなたのおためにと思いまして、道はまだ半町足らず、つい一っ走りで、け戻りました。これが間違いでございました。」
 声も、ことばも、しばらく途絶えた。
裏土塀うらどべいから台所口へ、……まだ入りませんさきに、ドーンと天狗星てんぐぼしの落ちたような音がしました。ドーンとこだまを返しました。鉄砲でございます。」
「…………」
「びっくりして土手へ出ますと、川べりに、薄い銀のようでございましたお姿が見えません。提灯も何もり出して、自分でわッと言ってけつけますと、居処いどころが少しずれて、バッタリと土手っ腹の雪をまくらに、帯腰が谿川の石に倒れておいででした。(寒いわ。)とうつつのように、(ああ、冷たい。)とおっしゃると、そのくちびるから糸のように、三条みすじに分かれた血が垂れました。
 ――何とも、かとも、おいたわしいことに――すそをつつもうといたします、乱れづま友染ゆうぜんが、色をそのままに岩に凍りついて、霜の秋草にさわるようだったのでございます。――人も立ち会い、抱き起こし申す縮緬ちりめんが、氷でバリバリと音がしまして、古襖ふるぶすまから錦絵にしきえがすようで、この方が、お身体からだを裂く思いがしました。胸にまった血は暖かく流れましたのに。――
 撃ちましたのは石松で。――親仁おやじが、生計くらしの苦しさから、今夜こそは、どうでもものをと、しとぎもちで山の神を祈って出ました。玉味噌たまみそなすって、くしにさして焼いて持ちます、その握飯には、魔が寄ると申します。がりがり橋という、その土橋にかかりますと、お艶様の方では人が来るのを、よけようと、水が少ないから、つい川の岩に片足おかけなすった。桔梗ヶ池ききょうがいけの怪しい奥様が、水の上を横に伝うと見て、パッと臥打ふしうちに狙いをつけた。おれは魔を退治たのだ、村方のために。と言って、いまもって狂っております。――
 旦那だんな、旦那、旦那、提灯が、あれへ、あ、あの、湯どのの橋から、……あ、あ、ああ、旦那、向うから、てまいが来ます、てまいとおなじ男が参ります。や、並んで、お艶様が。」
 境も歯の根をくいしめて、
「しっかりしろ、可恐おそろしくはない、可恐しくはない。……うらまれるわけはない。」
 電燈のたまが巴になって、黒くふわりと浮くと、炬燵こたつの上に提灯がぼうと掛かった。

「似合いますか。」

 座敷は一面の水に見えて、雪の気はいが、白い桔梗のみぎわに咲いたように畳に乱れ敷いた。

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