2022年3月29日火曜日

【「中曽根首相の別荘における盗聴発言」について】


http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/zikenzikoco/kokuzikoco/osutakayamazikenco/jokokensyo7.html


【「中曽根首相の別荘における盗聴発言」について】
 「中曽根首相の別荘における事件指揮発言の盗聴」が一部で流布されている。「2007.04.04御巣鷹山日航ジャンボ機事件の真相」その他参照。
 中曽根首相の別荘における『とある筋』との遣り取り。この会話が盗聴されている。それが真実であるか否かの真相は闇の中である。
(矢の催促の撃墜命令要請に対して)
中曽根 私はこんな事のために総理大臣になったわけじゃない
 国民に撃墜を知られないようにできるなら許可しよう。
官僚 目撃者が出たらどうしますか。
中曽根 何とかしろ
官僚 殺せという意味ですか
中曽根 私をこれ以上人殺しにするつもりか。
 何とかしろは何とかしろという意味だ。
(私論.私見)
 これも俄かに信じ難い卒倒すべき情報である。これが事実かどうか確認されれば良い。但し、17時11分、中曽根首相が、軽井沢駅を発車する特急「あさま22号」に乗り東京に向っている、ことを踏まえると辻褄が合わない。「別荘ではなく、事件発生後のどこかに於ける中曽根の盗聴」とすれば成立する。原文には「総理がみぞうの都市部墜落の大惨事を恐れて許可する条件として言い出した」とあるが、蛇足文臭いので外した。この中曽根発言は日航機123便がダッチロール中の指示として窺えば重大な意味を持ってくる。これが事実として、その真相が解明されたら、中曽根元首相の「らしさ」が又一つ明るみになったことになる。それにしても究極の卑劣漢と云うことになる。

 JAL123便を御巣鷹山に誘導した2機の自衛隊機の存在はこの件に関するマスコミ報道では完全に伏せられています。 しかし、この2機の自衛隊機を目撃した人物がいます。その人物とは、角田四郎氏といい、事故当日大月付近でキャンプをしていて目撃したというのです。 後になって、角田氏は、JAL123便事件解明のため『疑惑/JAL123便墜落事故』という本を出しています。この本から、角田氏自身の目撃状況をご紹介します。
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 このとき私は日航123便を目撃していた。[山梨県大月市 と神奈川県相模湖の中間地点の]東から南へ、南から西へ旋回しようとする地点である。18時42分頃になる。そして、44分か45分頃、ループ飛行を終えて東へ向かっ たであろう頃の日航機を追うように、東へ向かう2機の自衛隊機を私は見た。その時また飛行機が見える。木の間に見え隠れしていたが、私は「エッ」と驚きの思いで立ち止まって見つめた。しかし、 今度はごく小さな機影で、北西に向かって夕焼けの中をどんどん小さくなってゆく。 「あれはさっきの飛行機[JAL12便]じゃないな」と思い、ふたたびバンガローへの坂道を登ていった。この間5~6分の出来事である。――角田四郎著、 『疑惑/JAL123便墜落事故』より。早稲田出版刊
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 2機の自衛隊機の目撃情報は角田氏だけですが、防衛庁側はこれに対して何もコメントしていません。 自衛隊機がこの付近の空を飛んでいても別に不思議ではないからです。 角田氏自身もあとでJAL123便の墜落を知って、自衛隊機とJAL123便とをはじめて結びつけたのです。 ところで自衛隊機はどのようにして、JAL123便の進路を変更させたのでしょうか。 自衛隊機は無線で直接JAL123便と交信して旋回するよう指示したか、あるいは、航空基地を経由しての交信により横田基地に着陸しないよう伝えたはずです。 おそらくJAL123便の機長は、あくまで横田基地着陸を訴えたはずです。機長が当初「羽田に戻りたい」といったのは、羽田空港の方が、救急医療体制が整っているからです。 いずれにしても、まともな着陸はできないと考えていたのでしょう。
 
 しかし、機を完全にコントロールできないこともあり、この時点では横田基地しか選択肢はなかったはずです。とにかくボイスレコーダには、自衛隊機とのやりとりは記録されていないので、推測するしかないのですが、もしかしたら自衛隊機の指示を拒否したことも考えられます。このことを裏付けるようにJAL123便は横田基地に向けて高度を下げつつあったのです。そこで、自衛隊機はJAL123便の前方に出て、飛行進路を遮断するなど妨害し、埼玉・長野・群馬の県境の山岳地帯に向かうよう強引に左旋回飛行指示を出しているのです。 これに対して、JAL123便の機長は、あくまで「ターンライト」を主張して抵抗しています。しかし、結局、横田基地から北方向に向かわされ、御巣鷹山に入っていくことになります。この2機の自衛隊機の存在を肯定すると、JAL123便はエンジンの出力調整によって何とか左旋回できたことになります。 ここで奇妙なことは、JAL123便は何者かにミサイルなどで攻撃され、垂直尾翼を破壊された「被要撃機」になっているという事実です。
 
 この場合、既に述べたように、自衛隊による日本の防空上の規定では、スクランブルをかけられた領空侵犯機と同じ扱いになることです。もし、領空侵犯機がスクランブルをかけた軍用機の指示に従わないときは、攻撃してもよいことになっているのです。 このようにして、JAL123便は、2機の自衛隊機によって御巣鷹山のある山岳地帯に入っていくのですが、どのようにして墜落したのかについては、あとで明らかにするとして、墜落直後の状況について述べることにします。
 
 墜落事故のあった1985年8月12日――私は今でも鮮明に覚えていますが、テレビでは夕方から大騒ぎになり、安否を気遣う乗客の家族や知人が続々と羽田の日航の事務所に押しかけて、ごった返していたのです。 しかし、JAL123便の行方はわからず、つねに日航側の発表は「捜索中」の繰り返しだったのです。私は13日の午前2時頃まで起きていて、テレビを見ていましたが、とうとう朝になるまでわからなかったのです。しかし、今となって考えると、これは実に奇妙な話なのです。というのは、JAL123便は墜落直後からその場所は特定されており、自衛隊機をはじめ、米軍機もその墜落地点の上空までは行っているからです。ですから、加藤長官はそれ以前の時間に――午後9時頃ではないかと考えられますが、墜落現場の上空までヘリで視察しているのです。しかし、少なくともそのとき、乗客・乗員の救助は行われていないのです。もちろんその間テレビでは相変わらず「捜索中」が繰り返されていたのです。なぜ、発表しないのでしょうか。なぜ、墜落場所が特定できていたのに、なぜ、いち早く救助に向かわなかったのでしょうか。こういう問いかけに防衛庁、政府関係者は完黙の構えです。だからこそJAL123便の墜落事故に自衛隊が深くコミットしていたと考えざるを得ないのです。

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