2022年3月31日木曜日

田河水泡『滑稽の研究』1987


田河水泡『滑稽の研究』
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「のらくろ」の巨匠が「滑稽とはなにか」?」を真摯に探求する! 国内外の美学、修辞学、論理学等の著作から滑稽論を渉猟し、理論的バックボーンを追求。また、芸能・文芸・絵画の史料にその発祥を求める。滑稽理論の実例として、実作者ならでは、自身の作品を豊富に使用。また、愛弟子の長谷川町子ほか同時代作家の作品も、あたたかな解説とともに掲載する。

2016年12月14日に日本でレビュー済み
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序盤、「滑稽」についてさまざまな側面から論を集めるのはなかなか面白いのだが、後半に入って日本における滑稽の歴史になってくると、単なる人物の羅列のようになってしまい、一気に眠くなってくる。

しかも本人があとがきに書いてあるように、マンガ以外の歴史を調べることは蛇足であり、その意味でも本書は単に著者の著者による著者のために書かれた本であるから、よほどの物好きでない限りカネを出して買ってまで読む必要はないと思う。
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2016年9月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「滑稽」や「ユーモア」という単語を最近あまり使わなくなった気がします。
しかし形態や表現は変わっても精神は受け継がれていることに間違いはありません。

著者の田河水泡と言えば最初に浮かぶのは「のらくろ」です。第2次世界大戦前からある漫画です。
そして「サザエさん」の長谷川町子の師であることは知られている。高視聴率番組であるアニメの
「サザエさん」は間違いなく滑稽な4コマまんがの「サザエさん」を再構築して制作されている。これは
日本人の「ユーモア」の基礎になるかもしれません。

この本は多方面の文化的表現や形態から滑稽を追求するものになっています。ある事象を滑稽
だと思うことは現代のように世界的な規模でコミュニケーションが出来るようになれば様変わりし
てしまいますが、まだそういう手段が未熟だった1987年当時のガラパゴス的なユーモアが解析
されています。


カント(一七二四~一八〇四)ドイツ 
 十八世紀のドイツに大哲学者カントが現れて、それまでいろいろの哲学者が説いた学問を体系的に統一したので、近代哲学の開祖とたたえられています。  また、バウムガルテンの美学にも新しい解釈を加えて訂正したので、近代美学はカントから始まるともいわれています。  このカントが滑稽について、「滑稽は、緊張した期待がとつぜん無に変わるときに起こる一情緒であり、自分自身の思考の過程の変化である」と論理的に説きました。  思考の過程の変化というとむずかしく聞こえますが、これを漫画で解くとこういうことなのです。 

 こだま(②)  思考の基になるのは直感ですから、ヤッホーと呼ぶ声が返ってくるので、これはこだまだと直感する。その現象から、こだまの概念ができます。そして更に言葉を叫ぶと同じ言葉が返ってくるが、同時に山男が現れるので、これはこだまではなかったと判断ができ、自分の推理が誤っていたことに気づくとたんに、こだまへの期待が無になります。  この直感・概念・判断・推理と変わることを思考の過程の変化といいます。緊張した期待がとつぜん無に変わるときに起こる一情緒である、ということも、こだまではなかったと気づいたときに行われています。 
ショウペンハウエル(一七八八~一八六〇)ダンチヒ
  ダンチヒは現在ポーランド領です。この先生は、「概念と実体との矛盾がとつぜん認められたときに笑いが生じる。笑いはこの矛盾の発表である。その矛盾が一層大きく、かつ一層予期に反したものであれば、滑稽的効果はますます強いものである」と概念と実体との矛盾に滑稽の本質があると説いています。


むかでさん(⑥)  屋台が満員という概念は観察の誤りで、実体はむかで一ぴきという矛盾と、人間かと思ったら予期に反してむかでだったから余計おかしいという、ショウペンハウエルの理論です。  しかしここで麻生氏は、「緊張した期待が無に変ずる時に滑稽が起こる」というカントの説も、「概念と実体の矛盾による」とするショウペンハウエルの説も、不調和の理論ということでは一致しているが、期待のあるなしにかかわらず滑稽というものはあり得るし、概念と実体の矛盾があっても、滑稽にならないことだってあることを指摘しています。
… 
ベルグソン(一八五九~一九四一)フランス 
 ベルグソンには、「笑の哲学」という有名な著書があるので、邦訳されたものを私も読んでみましたが、内容を理解するよりも退屈のほうが先で、ついに精読できずに放り出しちまったものです。  そこで、また参考書のお世話になって要点を抜萃しますが、 「生命は創造されながら進化していくもので、時間的にも一定の進行をしているから、その現象は刻々と古くなってゆき、決して逆行することも反復することもない。  人生と社会がわれわれ個人に要求するものは、緊張と弾力である。精神的肉体的欠陥や秩序や規則の違反というようなことは、時間の流動性を凝固させたことになる。  社会は互いに協調することを要求しているので、従って性格的精神的肉体的などが凝固の状態にあることは社会の要求に反するものであって、その凝固の状態が滑稽なのである。  また、ぜんまい仕掛けの人形を例にあげて、その人形の動きが滑稽に感じられるのは、創造的進化を続けるはずの人間生活の間に、折々ぜんまい仕掛けのような、繰返しによる機械的凝固があって、その姿を人形から見出すためである。  それは人生に於ける放心状態のようなもので、もしも、われわれの生活が絶えず前進展開するものであれば、機械的に凝固することはないはずである。それが滑稽に感じられるのは、その人形の自動作用、生命のない運動は即ち人間生活に凝固、放心、機械的、非社交的なものが存在することを示す故に滑稽に感じるのである。  そしてこのように凝固せるもの、機械的なるものは匡正を必要とする。  笑は匡正そのものであり、笑は人間及び人事の或特殊の放心状態を指摘し、制止する一種の社交的態度である」と説いています。 「お嬢さんおいくつですか」 「私、はたちよ」 「そうですか、妹さんは」 「妹、あれは二十二でしょ」  自分の年は隠したけれども、妹の年でばれちゃった。  常に移り変わる時間の中で、自分だけはいつまでも若くみせたいと思うのは女性に共通する願いですが、時の流れを凝固させたり、この笑話の場合には時間を逆流させた矛盾になりますが、これは社会的な法則に背く滑稽なので、姉のほうが妹より若いなんてそんなばかなと笑われる、この笑いが凝固を戒める社会的匡正なのだという例になりましょう。


  この漫画(⑱)も、生命の法則を無視した矛盾で、時代錯誤による滑稽は、すべてこの型に属します。  時間だけでなく、人生や社会も常に流動的に進化しているものだから、われわれ個人もその属する社会的意志に従って、緊張と弾力をもって、その社会の要求する和合と協調に適応するように行動しなければならない。  これらに違反すると、流動的でないとしてこれを凝固と呼び、凝固の状態にあるものを滑稽というのだ、とあります。  そこで、時間の流れと区別して空間的な機構も流動的でなければならないので、「個体の錯綜は滑稽である」とも言っています。  個体の錯綜というと言葉は固苦しいが、人違い、勘違い、物を取違えたりすることは、社会的協調に合わないから滑稽だというのです。


芸 能 
「笑の研究」の著者麻生磯次氏は、その著書で古代の日本人について「日本民族が国民として統一されない以前は、民族としての生活を続けてきた。学問的な精細なことは別として、一般に想像される範囲でいえば、生活の基礎を農業に置き、土地は肥沃、気候は温和、人口は希薄、異民族との接触は少く、従って民族競争はなく比較的安穏な生活を続けて満足していたのであった。その為に楽天的な軽快な性質が養われ、こうした民族性から単純な滑稽や洒落や道化が演出されるようになった」と述べています。  日本という国家が出来る以前にも、ここには人間が住んでいたわけですから、その頃の生活環境は、ここに述べられたようなユートピアだったので、明るい笑いに満たされていたことでしょう。  農を主とする民族には耕作への祈りがあり、それはまた、娯楽としての楽しみでもあったので、原始芸能として古い時代から田舞がありました。  滑稽が歴史に記録されるようになったのは仏教伝来以降のことで、欽明天皇十三年(五五二)に百済から仏像、仏具、経文等が日本に伝えられ、推古天皇二十年(六一二)に百済の味摩之が帰化して伎楽を伝えました。  伎楽とは仮面劇であって、寺で法会がある時にページェントとして催されたものだろうということです。続いて、舞楽・散楽と大陸から三つの舞楽が輸入されました。これらの特徴は、伎楽は舞踊団としての組織をもち、舞楽は管弦の楽人と舞人との組み合わせであるのに対して、散楽は散楽百戯といって、個々に異なる芸能技術をもつ芸人たちの集まりですから、その曲目の組み合わせは自由に行われました。

 散 楽  
 私はある物知りから、日本の滑稽文化は散楽から始まる、と教えられたことがあるので、その後その文献を探していたところ、河竹繁俊氏著「歌舞伎史の研究」に詳しく紹介されているのをみつけました。それによると「大言海」に「中国後漢の頃の南蛮に烏滸の国あり、その風俗に理非を転倒して笑うべきこと多し、その語暗合して後には混淆せり」とあります。  散楽とは、大陸から渡来して滑稽芸能を演じる芸人の一団で、その発祥は、烏滸国から伝来したといわれることから、その人たちを烏滸または烏滸人と呼んだものです。 「大言海」に南蛮に烏滸の国あり、とありますが、いまはそんな国はありません。河竹繁俊氏の推定によると、パミール高原の方らしいということですから、シルクロードを渡ってきたものでしょう。  奈良朝の頃は、朝廷に公宴のあるとき、その余興に演じたもので、奈良東大寺の大仏開眼(天平勝宝四年〈七五二〉)のときにも散楽が催された記録があります。  そこで、散楽とはどういう芸のものであったか、その曲目を書き出してみると、呪師、文字はじゅしと書きますが、奈良朝の頃はこれをのろんじと呼び、平安朝には外術と、時代によって名目が変わっています。また、幻術ともいって、呪文を唱えて人の目をくらませて、不思議な現象を起こす魔術ともいうべきものでしょう。 
蜘舞 身の軽い男が演じる体技で、現代でいうアクロバットのことです。これは後世の軽業の元祖といわれています。 
傀儡子 人形使いのことで、後世の人形芝居の元祖に当たります。 
品玉 玉や刀をお手玉にして鮮やかな手さばきをみせるもので、現代では、寄席などで演じる大神楽の元祖に当たります。 
走索 これは綱渡りです。 
縁竿 竿を登ったり、梯子に乗ったりする芸で、これは現代のサーカスにもあります。 
独相撲 相手がいるような構えで、一人で相撲を取ってみせる物真似芸です。

これらの戯画と認めるものに対して、大和絵の研究にくわしい下店静市氏は、この種の絵画におけるおかしみは日本的なものである、と同氏の著書「大和絵史研究」で、中国絵画との比較で滑稽についてユニークな見解をのべておられるので、その文章の一部を書き抜いて滑稽研究の資料とさせていただくことにします。

 下店氏の戯画観 
「唐招提寺の梵天帝釈天両像の台座の組合せの内部に人物・動物・遠山その他のものの戯画が描かれている。正倉院の続修古文書別集中に収められている大大論と書いた戯画、また栄山寺にも戯画らしいものがある。  らくがきがこのように発見されたのはいかにも興味深い事である。このようなものを私が特に採りあげてみるのには少しく理由がある。それは大和絵の内には戯画的要素が決して少なくないからであり、しかも高山寺鳥獣戯画の如き本格的堂々たる名作すら存在するからである。今昔物語には義清阿闍梨の嗚呼絵について記しているが、この種の絵画に於ける笑、おかしみは日本的なるものにほかならない。  私はこの種の伝統がひとり大和絵といわず日本絵画史を貫くものだと思う。その意味に於て古くは天平時代のこの種の絵と共に室町時代の水墨画と大津絵との関係も閑却することができぬと思う。如拙の瓢鮎図と大津絵の瓢簞鯰とは中国的なものと日本的なものとの民族的特性を直截にあらわしたものであると思う。  東山時代に於ける禅宗の祖師像としての達磨大師がやがて江戸時代には全く玩具化されてそのいかめしさが完全に笑殺されてしまうのだ。それは厳粛なものを安価に茶化すというようなものではなく、もっと深い民族の魂の底にひそむものとして考え直してみなければならないものだと思う。  義清、鳥羽僧正、玄証阿闍梨は古い時代の漫画家にほかならなかった。高山寺の戯画・職人尽歌合せにも多分のおかしみがあり、絵師草子、福富草子もみな滑稽の絵であり、そのおかしみに於てすぐれたものを出しているのである。そして不思議なことに中国の絵にはこのような笑の伝統がないのである。  仏画から戯画へ、このような通路はすでに天平時代に開けていたのであって決して鳥羽僧正や玄証に始まったものではない。  如拙から大津絵へ変わった歴史的必然性がすでにこのような古い時代に先蹤をみるのである。絵そらごとという造形理念が日本的なものである事が分かるであろう。それは民族的性格の一端を示すものでなければならない。  平安朝の初期に大嘗祭の標の山に中国的な道教風の厳粛な造りものが行われたのだが、やがて中期頃にはそれが祭礼の傘鉾の上の滑稽極まる造り物に変化する。大まじめな達磨大師が鉢巻をしてひょうきんな起上り小法師と変わる。伎楽舞楽から太郎冠者の申楽狂言になり、万葉の和歌から俳諧が生じ、さらに川柳に変わる等、厳粛から滑稽に変わる例はいろいろある。  天平時代の戯画の顔の表情を見るに目鼻だちの釣合いなどに頓着せず、奔放自在におかしみの表情を与える表出の仕方は、絵そらごとの造形理念にもとづいて描かれたものである事はいうまでもないのである」  こういうご高説を承わると、滑稽研究にもいちだんと身がはいって、新しい資料の探索に精進する気になりますが、たわむれに描いたものは大切にするというものではないので、その場かぎりで散逸してしまうから、残されているものはまことに少ないのです。  それにもかかわらず、前掲の戯画のようなものが思いがけない所からとつぜん現れることがあるものです。  昭和六十一年十一月八日の朝日新聞によると、大阪府交野市傍示にある融通念仏宗、氷室山八葉蓮華寺の本尊、木彫阿弥陀如来立像の胎内に何かが納められている様子なので、解体してみると、多数の経巻と共に仏師快慶に宛てた書状があって、その余白に、不動明王の顔と雅楽でかぶる陵王の面などが描いてありました。これには、快慶が銘に用いている梵字が書かれているので、書状を読んだのち快慶が自分で描いたと判断されるものが現れています。


荒海の障子  
 現物は残っていないけれども、古い時代に滑稽な絵が描かれていたことには幾つかの記録が残されています。  宇多天皇の寛平四年(八九二)に紫宸殿と清涼殿の障子をことごとく描き改めたことがありました。紫宸殿の南殿には諸葛亮・張良・管仲・太公望など中国の賢人聖者三十人ほどの肖像を描いたので、これを賢聖障子といいました。それは滑稽とは関係ありませんが、その時に清涼殿の広庇には衝立障子を立てて昆明池が描かれ、萩の戸の前の布障子は荒海の障子といって手長足長の人間を描いたので、見る人によっては滑稽で面白くも思うのですが、清少納言には不気味に見えたのでしょう、「枕草子」巻の一に「清涼殿のうしとらのすみの北のへだてなる御障子は荒海のかた、生きたるものどもの怖ろしげなる手長足長などをぞ描きたる」と書いています。滑稽のつもりで描いても、ナンセンスはしばしばグロテスクに思われることがあるものです。  この荒海の障子は、宇多天皇の思し召しをもって巨勢金岡に命じられたとあるので、当時の大画伯巨勢金岡も、手長足長というナンセンスを描いたのであり、それが実在していたことは清少納言の随筆でも立証されます。  惜しいことに記録だけにとどまりますが、もし現物が残っていたら、巨勢金岡が漫画史の第一頁に登場するところでした。 

烏滸絵  
 源隆国の「今昔物語集」第二十八巻に、「比叡山無動寺義清阿闍梨烏呼絵語」というのがあります。源隆国は権大納言という身分の高い人ですが、性分がらいらくで機智に富んだ人だったそうで、いろいろの人から昔噺を聞いて、それを書きとめたのが「今昔物語集」として残っている、その中に義清阿闍梨が烏呼絵を描いた話がのっているのです。烏呼(滸)とは芸能編のはじめに、散楽の芸人が烏滸の国から来て滑稽を演じたことから、滑稽なことを烏滸だ、烏滸のようだといったことによる、と述べてあるように、その頃は、滑稽な絵のことも烏滸絵と呼んだものです。 「今昔物語」を著した著者、源隆国は承保四年(一〇七七)に七十四歳で歿していますが、漫画の元祖といわれている鳥羽僧正はこの隆国の九番目の子なので、今は昔とあるからには、僧正よりは義清阿闍梨のほうが古いことになります。  鳥羽僧正が後に戯画を描くようになったのも、この義清阿闍梨の烏滸絵の影響があったであろうことは、充分に推察することができます。  阿闍梨とは、弟子の行為を矯正してその規範となる職であって、比叡山でも四、五人の貴人に数えられる偉い坊さんですが、しかし寺の諺に、「阿闍梨死んでも事欠かず」というのがあって、位だけは偉くても、日常は閑な役だったようです。  この阿闍梨は烏滸絵が上手で、人によっては、僧侶ではなく単純に烏滸絵描きかと思っていた人もいたそうです。 「今昔物語集」の原文によれば、他の人の「烏滸絵は、筆つきは(巧みに)描けどもそれはみな烏滸絵の気色なし、この阿闍梨の描きたるは、筆はかなく立てたるようなれども、ただ一筆に描きたるに心地のえもいわずみゆるは、おかしきこと限りなし」とあるので、これによっても当時義清阿闍梨に限らず、ほかにも人を笑わせようとするために滑稽な絵を描いていた人が幾人かいたことがうかがわれます。  この阿闍梨は少々僻者で、近くの京都などに行ったこともなく、無動寺に引きこもったまま、烏滸絵ばかり描いていたそうです。  そこである人が、絵巻のように紙を長く継いで、横に長い絵を描いてくれと頼んだところ、阿闍梨は紙の一端に弓を射た人の姿を描き、他の一端に的を描いて、弓から的までの間は矢が通った跡に見立てて、墨をなん細く引き渡したりける。とあるので、頼んだ人は意表をつかれたことでしょう。この機智が烏滸絵の真髄ですから、阿闍梨の絵が一枚でも残っていたら、義清阿闍梨こそ漫画の開祖といえるのですが、残念なことに、文献はあっても作品が遺らないため、話だけのことに終わります。  また「今昔物語集」巻二十四に、百済河成は世に並びなき上手な絵師だが、永年使っていた弟子がいなくなったので、人に頼んで探してもらうことにした。頼まれた人は探そうにも顔を知らないので探しようもないというと、紙を取り出して弟子の似顔を描いて渡した。頼まれた人はこれを持って町へ行き探していると、それらしい男がいたので似顔絵と見比べてみると、少しも違わずそっくりに描けていたという話があります。  百済河成は百済から渡来した絵師で、仁寿三年(八五三)平安初期に七十二歳で歿していますが、この話は文徳実録にものっているので、当時有名な話だったのでしょう。  もしこの時の似顔絵が遺っていたら、百済河成が似顔絵の元祖になったことでしょう。

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