田河水泡『滑稽の研究』
https://freeassociations2020.blogspot.com/2022/03/blog-post_31.html @ーー
https://twitter.com/changmai2003/status/1509502071170498562?s=21
| ||||||||||||||||||||||||
「のらくろ」の巨匠が「滑稽とはなにか」?」を真摯に探求する! 国内外の美学、修辞学、論理学等の著作から滑稽論を渉猟し、理論的バックボーンを追求。また、芸能・文芸・絵画の史料にその発祥を求める。滑稽理論の実例として、実作者ならでは、自身の作品を豊富に使用。また、愛弟子の長谷川町子ほか同時代作家の作品も、あたたかな解説とともに掲載する。
2016年12月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
序盤、「滑稽」についてさまざまな側面から論を集めるのはなかなか面白いのだが、後半に入って日本における滑稽の歴史になってくると、単なる人物の羅列のようになってしまい、一気に眠くなってくる。
しかも本人があとがきに書いてあるように、マンガ以外の歴史を調べることは蛇足であり、その意味でも本書は単に著者の著者による著者のために書かれた本であるから、よほどの物好きでない限りカネを出して買ってまで読む必要はないと思う。
しかも本人があとがきに書いてあるように、マンガ以外の歴史を調べることは蛇足であり、その意味でも本書は単に著者の著者による著者のために書かれた本であるから、よほどの物好きでない限りカネを出して買ってまで読む必要はないと思う。
…
これらの戯画と認めるものに対して、大和絵の研究にくわしい下店静市氏は、この種の絵画におけるおかしみは日本的なものである、と同氏の著書「大和絵史研究」で、中国絵画との比較で滑稽についてユニークな見解をのべておられるので、その文章の一部を書き抜いて滑稽研究の資料とさせていただくことにします。
下店氏の戯画観
「唐招提寺の梵天帝釈天両像の台座の組合せの内部に人物・動物・遠山その他のものの戯画が描かれている。正倉院の続修古文書別集中に収められている大大論と書いた戯画、また栄山寺にも戯画らしいものがある。 らくがきがこのように発見されたのはいかにも興味深い事である。このようなものを私が特に採りあげてみるのには少しく理由がある。それは大和絵の内には戯画的要素が決して少なくないからであり、しかも高山寺鳥獣戯画の如き本格的堂々たる名作すら存在するからである。今昔物語には義清阿闍梨の嗚呼絵について記しているが、この種の絵画に於ける笑、おかしみは日本的なるものにほかならない。 私はこの種の伝統がひとり大和絵といわず日本絵画史を貫くものだと思う。その意味に於て古くは天平時代のこの種の絵と共に室町時代の水墨画と大津絵との関係も閑却することができぬと思う。如拙の瓢鮎図と大津絵の瓢簞鯰とは中国的なものと日本的なものとの民族的特性を直截にあらわしたものであると思う。 東山時代に於ける禅宗の祖師像としての達磨大師がやがて江戸時代には全く玩具化されてそのいかめしさが完全に笑殺されてしまうのだ。それは厳粛なものを安価に茶化すというようなものではなく、もっと深い民族の魂の底にひそむものとして考え直してみなければならないものだと思う。 義清、鳥羽僧正、玄証阿闍梨は古い時代の漫画家にほかならなかった。高山寺の戯画・職人尽歌合せにも多分のおかしみがあり、絵師草子、福富草子もみな滑稽の絵であり、そのおかしみに於てすぐれたものを出しているのである。そして不思議なことに中国の絵にはこのような笑の伝統がないのである。 仏画から戯画へ、このような通路はすでに天平時代に開けていたのであって決して鳥羽僧正や玄証に始まったものではない。 如拙から大津絵へ変わった歴史的必然性がすでにこのような古い時代に先蹤をみるのである。絵そらごとという造形理念が日本的なものである事が分かるであろう。それは民族的性格の一端を示すものでなければならない。 平安朝の初期に大嘗祭の標の山に中国的な道教風の厳粛な造りものが行われたのだが、やがて中期頃にはそれが祭礼の傘鉾の上の滑稽極まる造り物に変化する。大まじめな達磨大師が鉢巻をしてひょうきんな起上り小法師と変わる。伎楽舞楽から太郎冠者の申楽狂言になり、万葉の和歌から俳諧が生じ、さらに川柳に変わる等、厳粛から滑稽に変わる例はいろいろある。 天平時代の戯画の顔の表情を見るに目鼻だちの釣合いなどに頓着せず、奔放自在におかしみの表情を与える表出の仕方は、絵そらごとの造形理念にもとづいて描かれたものである事はいうまでもないのである」 こういうご高説を承わると、滑稽研究にもいちだんと身がはいって、新しい資料の探索に精進する気になりますが、たわむれに描いたものは大切にするというものではないので、その場かぎりで散逸してしまうから、残されているものはまことに少ないのです。 それにもかかわらず、前掲の戯画のようなものが思いがけない所からとつぜん現れることがあるものです。 昭和六十一年十一月八日の朝日新聞によると、大阪府交野市傍示にある融通念仏宗、氷室山八葉蓮華寺の本尊、木彫阿弥陀如来立像の胎内に何かが納められている様子なので、解体してみると、多数の経巻と共に仏師快慶に宛てた書状があって、その余白に、不動明王の顔と雅楽でかぶる陵王の面などが描いてありました。これには、快慶が銘に用いている梵字が書かれているので、書状を読んだのち快慶が自分で描いたと判断されるものが現れています。
荒海の障子
現物は残っていないけれども、古い時代に滑稽な絵が描かれていたことには幾つかの記録が残されています。 宇多天皇の寛平四年(八九二)に紫宸殿と清涼殿の障子をことごとく描き改めたことがありました。紫宸殿の南殿には諸葛亮・張良・管仲・太公望など中国の賢人聖者三十人ほどの肖像を描いたので、これを賢聖障子といいました。それは滑稽とは関係ありませんが、その時に清涼殿の広庇には衝立障子を立てて昆明池が描かれ、萩の戸の前の布障子は荒海の障子といって手長足長の人間を描いたので、見る人によっては滑稽で面白くも思うのですが、清少納言には不気味に見えたのでしょう、「枕草子」巻の一に「清涼殿のうしとらのすみの北のへだてなる御障子は荒海のかた、生きたるものどもの怖ろしげなる手長足長などをぞ描きたる」と書いています。滑稽のつもりで描いても、ナンセンスはしばしばグロテスクに思われることがあるものです。 この荒海の障子は、宇多天皇の思し召しをもって巨勢金岡に命じられたとあるので、当時の大画伯巨勢金岡も、手長足長というナンセンスを描いたのであり、それが実在していたことは清少納言の随筆でも立証されます。 惜しいことに記録だけにとどまりますが、もし現物が残っていたら、巨勢金岡が漫画史の第一頁に登場するところでした。
烏滸絵
源隆国の「今昔物語集」第二十八巻に、「比叡山無動寺義清阿闍梨烏呼絵語」というのがあります。源隆国は権大納言という身分の高い人ですが、性分がらいらくで機智に富んだ人だったそうで、いろいろの人から昔噺を聞いて、それを書きとめたのが「今昔物語集」として残っている、その中に義清阿闍梨が烏呼絵を描いた話がのっているのです。烏呼(滸)とは芸能編のはじめに、散楽の芸人が烏滸の国から来て滑稽を演じたことから、滑稽なことを烏滸だ、烏滸のようだといったことによる、と述べてあるように、その頃は、滑稽な絵のことも烏滸絵と呼んだものです。 「今昔物語」を著した著者、源隆国は承保四年(一〇七七)に七十四歳で歿していますが、漫画の元祖といわれている鳥羽僧正はこの隆国の九番目の子なので、今は昔とあるからには、僧正よりは義清阿闍梨のほうが古いことになります。 鳥羽僧正が後に戯画を描くようになったのも、この義清阿闍梨の烏滸絵の影響があったであろうことは、充分に推察することができます。 阿闍梨とは、弟子の行為を矯正してその規範となる職であって、比叡山でも四、五人の貴人に数えられる偉い坊さんですが、しかし寺の諺に、「阿闍梨死んでも事欠かず」というのがあって、位だけは偉くても、日常は閑な役だったようです。 この阿闍梨は烏滸絵が上手で、人によっては、僧侶ではなく単純に烏滸絵描きかと思っていた人もいたそうです。 「今昔物語集」の原文によれば、他の人の「烏滸絵は、筆つきは(巧みに)描けどもそれはみな烏滸絵の気色なし、この阿闍梨の描きたるは、筆はかなく立てたるようなれども、ただ一筆に描きたるに心地のえもいわずみゆるは、おかしきこと限りなし」とあるので、これによっても当時義清阿闍梨に限らず、ほかにも人を笑わせようとするために滑稽な絵を描いていた人が幾人かいたことがうかがわれます。 この阿闍梨は少々僻者で、近くの京都などに行ったこともなく、無動寺に引きこもったまま、烏滸絵ばかり描いていたそうです。 そこである人が、絵巻のように紙を長く継いで、横に長い絵を描いてくれと頼んだところ、阿闍梨は紙の一端に弓を射た人の姿を描き、他の一端に的を描いて、弓から的までの間は矢が通った跡に見立てて、墨をなん細く引き渡したりける。とあるので、頼んだ人は意表をつかれたことでしょう。この機智が烏滸絵の真髄ですから、阿闍梨の絵が一枚でも残っていたら、義清阿闍梨こそ漫画の開祖といえるのですが、残念なことに、文献はあっても作品が遺らないため、話だけのことに終わります。 また「今昔物語集」巻二十四に、百済河成は世に並びなき上手な絵師だが、永年使っていた弟子がいなくなったので、人に頼んで探してもらうことにした。頼まれた人は探そうにも顔を知らないので探しようもないというと、紙を取り出して弟子の似顔を描いて渡した。頼まれた人はこれを持って町へ行き探していると、それらしい男がいたので似顔絵と見比べてみると、少しも違わずそっくりに描けていたという話があります。 百済河成は百済から渡来した絵師で、仁寿三年(八五三)平安初期に七十二歳で歿していますが、この話は文徳実録にものっているので、当時有名な話だったのでしょう。 もしこの時の似顔絵が遺っていたら、百済河成が似顔絵の元祖になったことでしょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿