日航機123便の真実は、ほぼ事実である - るいネット
カレイドスコープさんよりリンク
その最大の秘密が、1985年8月12日に起きた日航123便の墜落事故だ。
中曽根内閣がしつらえた事故調は、整備不良による圧力隔壁の損傷で旧減圧したことが原因とした。
いっぽうで、相模湾の海底から123便の垂直尾翼の一部が発見された。
しかし、それは報道されなかった。
中曽根官邸からマスコミに対して国家機密を理由に報道管制が敷かれたためである。
このQ&Aにあるように、その垂直尾翼は、実は相模湾から引き上げられたものの、すぐに日航の施設に収納されてマスコミの目から遠ざけられた。事故の真相が一目で分かってしまう痕跡があったからだ。
メディアは、事故後30年経って機体の一部が相模湾の海底で見つかったと報じているが、これはスピン報道である。
このニュースに出て「これだけでは分からない」と言っている調査官は、もちろん真相を知っている。
有力な分析が出てきたのは、事故が起きた1985年8月12日からほぼ1年が過ぎた1986年7月、二人の航空自衛隊パイロットの『自殺』がきっかけとなった。
というのは、この二人の隊員の自殺に続いて、同年9月12日14日には、さらに二人の航空自衛隊員が自殺したからだ。
これがトリガーとなって、航空自衛隊員が次々と謎の自殺を遂げるようになった。
自衛隊員の自殺は、事故の翌年の1986年の1年間で90人以上という異常さ。この内訳ははっきりしないが、航空自衛隊員が大半を占めていることは誰にでも想像がつく。
日航123便の墜落事故は、この記事が的確にまとめている。
つまり、この異常な自衛隊員の大量自殺は、航空自衛隊の戦闘機によるミサイルの誤射が原因だとする説を主流にした。
確かに、航空自衛隊のファントム機2機が日航123便を追尾していた。墜落するまで、自衛隊機が123便を追っていたのだ。
事故当時、123便の近くには謎のオレンジ色の物体が飛んでいたことが後の画像解析で判明している。
この物体は、自衛隊が使っていた敵機に見立てた無人機である可能性が高いとされている。
つまり、訓練中の航空自衛隊のファントム戦闘機が、日航123便を訓練用の敵機に見立てた無人機と勘違いして迎撃ミサイルを発射して撃墜してしまったという分析がある。
123便が墜落した直後、事故現場の上空には米軍のヘリが数機舞っていたという第一発見者の上野村の住民複数の証言がある。
しかし、肝心の自衛隊の到着は、ずっとずっと後になってからだった。
すでに現場に入って生存者を救出しようとしていた上野村の民間消防隊員は、自衛隊に追い返されたという。
「現場に入って詮索するな」ということである。
自衛隊と県警が、乗客の死亡を待つかのように救難隊の到着を遅らせたことは事実なのだ。
この無為に過ぎていった10時間の間に何が行われのか、ということだ。
重要なことは、御巣鷹山の墜落現場が、想像以上に広範囲に黒く焦げていることだ。
墜落した日航機の燃料は満タン状態だったとはいえ、これほど広範囲に森林を燃やし尽くすことなど不可能だ。今でもネット上には現場の画像が残っているので確認することができる。
さらに、どの遺体も炭化するほど黒こげになっていた。
どんな巨大な航空機も、広範囲に散らばっている500人を超える犠牲者をこれほど真っ黒焦げにする大量のジェット燃料を積むことはできない。
自衛隊に、やっと現場に入ることを許された上野村の住人の証言によると、現場には、ガソリンとタールを混合したような異臭が立ち込めていて、明らかにジェット燃料以外の燃料が燃えた跡であることを確信したとの証言が得られている。
つまり、自衛隊機のミサイル誤射によって日航123便が撃墜された事実を隠蔽するために、横田基地のレーダーが墜落地点を確認して座間から救援のヘリを飛ばした米軍に引き返せと命じたのは中曽根内閣から命令を受けた自衛隊幹部である蓋然性が限りなく高いということだ。
重要なことは、すぐに現場に登って生存者を探そうとしていた上野村の消防隊員に戻るように押し戻したのも自衛隊で、その間の空白の10時間に自衛隊員しかしなくなった現場で、いったい何が行われたのかということなのだ。
もし、多くの究明家が言うように、自衛隊の特殊部隊が現場に入って、生存者にガソリンをかけてすべて黒こげにして証拠隠滅を図ったとすれば、それを命じることのできるのは中曽根康弘ただひとりである、ということだ。
この自衛隊の特殊部隊こそが、戸籍を持っていない「ヤタガラス」であるとする究明家の分析もある。
生存者は4名発見されたが、このいずれも自衛隊が発見したのではなく、上野村の消防隊員が発見したものだ。
さらに、この4人は、幸か不幸か、地上に激突したショックで遠いところに飛ばされ、自衛隊が入っていた現場から、かなり離れた場所で発見された。
もし、墜落現場付近でこの4人が発見されたら、特殊部隊にガソリンをかけられ生きたまま焼かれていたかもしれない。
こうした無数の状況証拠を、現場の一人一人から聴き取り、学術的にまとめたのが、青山透子著の『日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』だ。
青山氏もまた日航のステュワーデス(当時は、女性客室乗務員を、こう呼んでいた)だったが、あまりにも不審点が多いため、事故で亡くなった同僚のステュワーデスの無念を晴らそうと数年かけて徹底的に調査してまとめ上げたのが、この本である。
この本は、まるで学者の書く論文のようで、誰も反論できないほど証拠を積み上げながら慎重確実に書き進められている。
しかし、なぜか、マスコミは青山氏を徹底的に無視したのだ。
テレビ、新聞社の幹部は事故の真相を知っていて、彼女の本を葬り去ろうとしたのだ。
日本のマスコミが犯罪機関であるというのは、決して言い過ぎなどではない。彼らは、今でもそうである。
青山氏は、その後、日航を辞めて東大の大学院まで進んで博士号を取得した。
1986年に自殺したとされている90人以上の自衛隊員は、間違いなく、この現場の「秘密」を知っていたに違いない。
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