| ||||||||||||||||||||||||
https://twitter.com/tiikituukahana/status/1558463655276343296?s=21
日航機123便墜落事件
日航機墜落事故の真実「異常外力の着力点」
https://freeassociations2020.blogspot.com/2022/03/2-httpsyoutu.html @
https://www.blogger.com/blog/post/edit/102781832752441205/4859173859218055190
「自殺した航空自衛隊員が所持していた2枚の写真…」というサイトに《自衛隊員の自殺数は1986年には年間90人以上と81年から73パーセントも増加している》とありました。
どこまで信じるか、解釈は分かれます。
http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-1095.html
自衛隊員の自殺数は1986年には年間90人以上と81年から73パーセントも増加している。
国内唯一の短距離ミサイル『短SAM』発射訓練場をテレビ初撮影(2022年8月28日)
https://youtu.be/RbZEy4fgGbY
ANN
2022/08/29
https://twitter.com/tiikituukahana/status/1557818022534201344?s=21
真相は多分これ、
JAL123便 日航機墜落事故の真相
http://ugyotaku.web.fc2.com/JAL123Sinsou/JAL123Sinsou.htm
画像は数年前に密かに公開された、
事故調査報告書付録(JA8119に関する試験研究資料)
http://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/62-2-JA8119-huroku.pdf
「異常外力の着力点」の図解あり。
『日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす』青山透子(2020)参照
事故調査報告書付録(JA8119に関する試験研究資料)
全213頁
http://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/62-2-JA8119-huroku.pdf
116頁に「異常外力の着力点」の図解あり。
『日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす』青山透子(2020)参照。
2010 日航ジャンボ機墜落事故の真相(2)飛行機の外に見えるオレンジ色の物体は? (2010年9月7日) - エキサイトニュース
https://www.excite.co.jp/news/article/Real_Live_1425/
日航123便の真相に迫る②【機内から撮影された謎の写真】
https://youtu.be/dwPgZAgyU2Q?t=7m15s
7:15 撮影ポイント 18:18
直言(2017年8月7日)日航123便墜落事件から32年――隠蔽の闇へ
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2017/0807.html
18時18分頃機内から撮ったという問題の写真。(青山透子『星…』参照)
参考:
飛行機の外に見えるオレンジ色の物体は? (2010年9月7日)
https://www.excite.co.jp/news/article/Real_Live_1425/
日航123便の真相に迫る②【機内から撮影された謎の写真】
https://youtu.be/dwPgZAgyU2Q?t=7m15s
直言 日航123便墜落事件から32年
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2017/0807.html
1985年8月12日
NHKニュース速報テロップ
JAL123墜落事件 ~誤報ではなかった、自衛隊員射殺
http://c3plamo.ddns.net/blog/archives/2022/01/jal123_6.html
1985年8月12日
NHKニュース速報テロップ
「待機命令を無視して救助に向かおうとした隊員を射殺」
「一切誤報が問題になっていない」
2011 年週刊金曜日対談記事 当時テレビディレクター岩下俊三氏
https://twitter.com/tiikituukahana/status/1558453342858543105?s=21
(109) アシタノワダイ削除「日航123便 墜落事件」 - YouTube
2019/07/07
【本スレJAL】日航ジャンボ機墜落事故 94【123便】
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/archives/1660376959/
36 名無しさん@お腹いっぱい。[] 2022/08/13(土) 20:52:08.50 ID:2cdxijSd
山上って123便陰謀論で出てくるまつゆきに乗艦してたのか…
元自衛官が安倍氏銃撃「プロの犯行」といえるのか | 災害・事件・裁判 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース
https://toyokeizai.net/articles/-/602970?page=3
《山上容疑者は教育隊を修業すると護衛艦「まつゆき」に乗り組んだ。護衛艦とは、主に潜水艦を捜索・攻撃する戦闘艦艇のことで、各国の駆逐艦に相当する。》
【本スレJAL】日航ジャンボ機墜落事故 94【123便】
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/archives/1660376959/
山上って123便陰謀論で出てくるまつゆきに乗艦してたのか…
元自衛官が安倍氏銃撃「プロの犯行」といえるのか | 東洋経済
https://toyokeizai.net/articles/-/602970?page=3
《山上容疑者は教育隊を修業すると護衛艦「まつゆき」に乗り組んだ。》
【本スレJAL】日航ジャンボ機墜落事故 94【123便】
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/archives/1660376959/
山上って123便陰謀論で出てくるまつゆきに乗艦してたのか…
++ JAL123便 日航機墜落事故の真相 ++
http://ugyotaku.web.fc2.com/JAL123Sinsou/JAL123Sinsou.htm
《4.無人標的機『ファイア・ビー』の衝突説
…
この「まつゆき」の実験の一環で、たまたま相模湾上空にさしかかったJAL123便のところに何かが飛んできたのではないか――こういう推定も成り立つのです。》
機内からオレンジ色の飛翔体が撮影されたのが18時18分と推察される。
山上って123便陰謀論で出てくるまつゆきに乗艦してたのか…
元自衛官が安倍氏銃撃「プロの犯行」といえるのか | 東洋経済
https://toyokeizai.net/articles/-/602970?page=3
《山上容疑者は教育隊を修業すると護衛艦「まつゆき」に乗り組んだ。》
++ JAL123便 日航機墜落事故の真相 ++
http://ugyotaku.web.fc2.com/JAL123Sinsou/JAL123Sinsou.htm
《4.無人標的機『ファイア・ビー』の衝突説
…この「まつゆき」の実験の一環で、たまたま相模湾上空にさしかかったJAL123便のところに何かが飛んできたのではないか――こういう推定も成り立つのです。》
山上が乗っていた「まつゆき」から訓練で発射された標準機がかつて1985年に日航機の尾翼に誤射で当たったという説がある。
。。。
2002年12月から2004年4月まで山上が乗り組んでいた「まつゆき」には、そこから訓練で発射された標的機(オレンジ色)が1985年日航機の尾翼に誤射で当たったのではないか?という疑惑がある。
オレンジ色の飛翔体は機内からの写真に写っている。
ボイスレコーダー完全版の公開が待たれる。
69 はっとく[sage] 2022/08/14(日) 00:19:53.62 ID:???
599 はっとく sage 2022/08/11(木) 11:20:16.09 ID:???
坂本九が日頃から非難していた
日本航空の体質ってなんだろう....
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E4%B9%9D#%E6%9F%8F%E6%9C%A8%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%AD%90_%E4%B8%8A%E3%82%92%E5%90%91%E3%81%84%E3%81%A6%E6%AD%A9%E3%81%93%E3%81%86
https://i.imgur.com/OSWKVQR.jpg
https://i.imgur.com/vz2iesU.jpg
動画ありがとうございます。
ところで山上容疑者は2002年から2004年まであの「まつゆき」に乗り組んでいたそうですね。
参考:
元自衛官が安倍氏銃撃「プロの犯行」といえるのか | 東洋経済
2022/07/10
https://toyokeizai.net/articles/-/602970?page=3
《山上容疑者は教育隊を修業すると護衛艦「まつゆき」に乗り組んだ。》
自分としてはご遺族の意思を尊重したいと思います。
ワタナベケンタロウ 日航機墜落事故動画シリーズより
【日航機墜落事故80】訴えを起こしたご遺族、吉備素子さんが語る。
https://youtu.be/t7gOyj1dEw0?t=20m48s
2022/08/12
https://twitter.com/tiikituukahana/status/1560583305351036929?s=21
【日航機墜落事故㉙】どんな説もこの質問には答えてない。
(スザンヌ・ベイリー湯川さんへのインタビュー)
https://youtu.be/gggb_22e4TI
2021/08/17
https://twitter.com/tiikituukahana/status/1560582263263621121?s=21
~~~
参考:
2010 日航ジャンボ機墜落事故の真相(2)飛行機の外に見えるオレンジ色の物体は? (2010年9月7日) - エキサイトニュース
https://www.excite.co.jp/news/article/Real_Live_1425/
日航123便の真相に迫る②【機内から撮影された謎の写真】
https://youtu.be/dwPgZAgyU2Q?t=7m15s
撮影ポイント
18分における飛翔体は123便を掠めただけなので、機長は高度を下げたのだろう。
再び追尾され尾翼が吹き飛んだのが18時24分。
自衛隊の誤射であることは確実。
フライトレコーダーからは横田基地云々が削除された。
その後尾翼がないながら制御できていたが、右エンジンを撃ち落とされて墜落。
参考:
【日航機墜落事故㊱】(本動画は予告なく削除、又は変更される恐れがあります。)
https://youtu.be/el_1Ih0s-1Y?t=5m20s
右エンジン破壊の理由
生存者の抹殺は自衛隊の特殊部隊が担当した。
特殊部隊90人も全員自殺ということにされて殺された。
その後補完された特殊部隊には中曽根葬儀の警護くらいしか仕事がない。
18時台のテレビ速報の意味は中曽根に撃墜隠蔽指令の時間があり得たという点にある。
自衛隊も所詮官僚だから官邸と共に隠蔽を中曽根に迫ったのだろう。
2013年まで報告書別冊を隠蔽したことこそ陰謀と呼べる。
天網恢々…
参考:
JAL123便 日航機墜落事故の真相
http://ugyotaku.web.fc2.com/JAL123Sinsou/JAL123Sinsou.htm
中曽根元首相「真実は墓場まで持っていく」発言は本当にあったのか?(篠原修司) - 個人- Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/byline/shinoharashuji/20191130-00153082
●「墜落現場を避ける時の中曽根首相」(EJ第4863号) - Electronic Journal
http://electronic-journal.seesaa.net/article/462003634.html
【「中曽根首相の別荘における盗聴発言」について】
https://freeassociations2020.blogspot.com/2022/03/blog-post_40.html?m=1
自衛隊員が、故中曽根康弘 内閣 自由民主党 合同葬儀場の入り口にズラリと並んだ「と列」は通常なのでしょうか|白井則邦(しらいのりくに)|note
https://note.com/shirai_norikuni/n/ne6ddf83780b4
2020年10月18日 16:25
田中龍作ジャーナルの写真に驚きました。
故中曽根康弘 内閣 自由民主党 合同葬儀場の入り口にズラリと並んだ自衛隊員の写真は、ここはほんとに日本なのだろうかと感じました。
https://news.yahoo.co.jp/byline/shinoharashuji/20191130-00153082
中曽根元首相「真実は墓場まで持っていく」発言は本当にあったのか?
中曽根康弘元首相が亡くなられたことで、「『真実は墓場まで持っていく』の言葉どおり、日本航空123便墜落事故の真相を墓場まで持って行ってしまった」というような発言がSNSで多くあがっています。
これに対し「『墓場まで持っていく』は国鉄民営化についてであり、日本航空123便墜落事故説は誤りだ」と指摘する声もあがり、こちらも拡散されています。
一体何が本当なのか? 調べてみました。
「真実は墓場まで持っていく」をどこで発言したのか不明
先に結論だけ伝えておくと、「真実は墓場まで持っていく」をいつ、何に対して発言したのかはわかりませんでした。
なんだかトレンドブログの「調べてみたけどわかりませんでした~」みたいですが、本当にわからなかったです。
JAL123便 日航機墜落事故の真相
http://ugyotaku.web.fc2.com/JAL123Sinsou/JAL123Sinsou.htm ★
~~
https://www.excite.co.jp/news/article/Real_Live_1425/
日航ジャンボ機墜落事故の真相(2)飛行機の外に見えるオレンジ色の物体は?
リアルライブ「やっぱりあれですか、青山さんの結論としては、自衛隊の誤射っていうことなんですか?」
青山「それは分かりません。ただ、一つ言えるのは、締め切りの間際に遺族のAさんが私に写真を提供してくださった。それが『週刊現代』8月14日号に出たものです」
リアルライブ「記事は拝見しました。墜落寸前の機内から窓の外に向かって撮られた写真に、オレンジ色の物体が写っているという内容は衝撃的でした。惜しくも問題の写真は白黒でしたね」
青山「拡大したカラー写真がこれですね(※添付写真)。定かではないですけど、画像の専門家の先生に見ていただいた時のコメントがここに載っていまして、『黒っぽい円形の塊の領域内は中心から右側へ帯状、もしくは扇状にオレンジがかっているのが分かります。円錐、もしくは円筒の様なものを正面右斜めから見た様なイメージで、この物体はオレンジ体の方向から飛行機の進行方向へ向かっている様に見えますが、データ量が少なく、定かではありません。黒い…』と解析されています」
リアルライブ「これは結局、このオレンジ色の物体というのは、なんでしょう。写真を残された遺族の人は気づいていたのですか?」
青山「ええ、気づいています。もちろん。そのために私に見せてくれたわけです」
リアルライブ「ご遺族の方は、いわゆるマスコミに接触して、オレンジ色の物体が平行して飛んでいたってことを訴えてはないんですか」
青山「ご自分の口からは言っていないと思います」
リアルライブ「確かに、この窓から外に向けて何枚か撮影していますが、これだけ撮るっていうことは、撮った方は、窓の外のオレンジ色の物体に奇異な印象を受けて、『これは何だ』ということで撮ったわけですよね。しかし、この写真は、何故80年代にはあまり出回らなかったんですか?」
青山「これはインタビューの過程で知ったのですけれども。(写真を撮られた)犠牲者の方のお父さんのお母さんが、これを即持ち帰り、マスコミに公開すると仰ったんですが、群馬県の方で、『写真週刊誌とかいろいろに狙われて大変だし、これは実際に重要な証拠書類になるので、群馬県で保管します』と言われたそうなんです」
リアルライブ「じゃあ、当時は群馬県が保存していたのですか。何年くらいの期間でしょうか?」
青山「ええと、それが不思議なんですけれども、いつまで保存するのかと思っていたら、不起訴になって、さらに、時効が終わってから一週間後に急に返しに来たそうです」
リアルライブ「不思議ですね。作為的なことばかりで」
青山「そうですね、私もそう思いますね。不起訴になったくらいで返ってくるなら分かるんですが、時効後、ということなので。あと、このご遺族の方はその日から一週間くらいの間に記者会見を開いて、1990年に公開をしています」
リアルライブ「これが、もしパソコン普及以降にこの写真が公開されていれば、もっと写真を拡大する人や、(オレンジ色の物体に)気づく人も増えてたんでしょうね。当時のマスコミは、この小さなオレンジ色の物体に関して気づいたりしたんでしょうか」
青山「あの時は拡大できなかったので、気づいてないと思うんですよ」
リアルライブ「じゃあ、群馬県は気づいていたんですかね?」
青山「それは不明ですが、航路を特定するためという理由で、3枚ほど外の写真を採用したとあります。それが事故調査報告書なのです。フライトレコーダーなりレーダーなり、いろんな客観的事実がたくさんある中で、なぜ犠牲者が撮ったこの写真を「航路を特定するため」という証拠で採用し、時効まで保管したのでしょうか」
リアルライブ「それは、写真の意味する真実から目をそらすミスリードっていうことですか?」
青山「そう思いますか?それとも、採用した写真の言い訳をそういう風にしてとりあえず言っておかないと、後で分かった時に『なぜこの写真を採用したんだ』って言われた時に、まさかこの辺(オレンジ色の物体)が気になったとか言えないじゃないですか。今の技術をもってして、画像研究家によるとオレンジの筒状に見えるというこの物体に関して、説明してほしいのです」
((3)に続く)
青山透子(あおやま・とうこ)…宮城県出身。全国学芸コンクール、戯曲・シナリオ部門第一席、社団法人日本民間放送連盟会長賞受賞歴を持つ。日本航空株式会社に客室乗務員として入社。その後、日本航空客室訓練部のノウハウをもとに様々な企業研修を行う。全国の官公庁、各種企業、病院等の接遇教育インストラクターを経て、専門学校、大学講師。大阪国際花と緑の博覧会、愛知万博等の教育担当。
『日航123便あの日の記憶 天空の星たちへ』公式サイト
http://www.magazineland.jp/tenkuu/
日航123便の真相に迫る②【機内から撮影された謎の写真】
〜〜〜
1985年8月12日に起きた日航機墜落事故報告書には別冊があり、2年遅れで書かれたそうです。
事故調査報告書付録(JA8119に関する試験研究資料)
全213頁
http://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/62-2-JA8119-huroku.pdf
116頁に「異常外力の着力点」の図解あり。
『日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす』青山透子(2020)参照。
【日航機墜落事故⑫】やはり垂直尾翼に何かが当たっていた
https://youtu.be/DJeQjXo-Usw?t=3m50s
そして報告書別冊がネット上で追加公開されたのはなぜか2013年2月とのこと。
事故から28年後。
資料集
https://ichiro-kun.com/post/1210/#toc3
…
事故調査報告書(昭和62年6月19日公表)
公式ページはこちらだが、関係のない他の航空機事故の情報も混在している。
https://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/bunkatsu.html#5
123便の情報だけを抽出して以下に示す。
…
- (18.1MB) 1頁~213頁
5-2.
62-2-JA8119(航空事故調査報告書付録)
日本航空(株)所属 ボーイング 747SR-100型 JA8119 群馬県多野郡上野村
(JA8119に関する試験研究資料)
(一部ページ番号が飛んでいる箇所がありますが、これは製本の際の白紙ページであり落丁ではありません。)
付録1 後部圧力隔壁破壊の解析のための試験研究 3頁~ 21頁
付録2 垂直尾翼破壊の解析のための試験研究 23頁~ 46頁
付録3 APU防火壁付近の強度解析 47頁~ 52頁
付録4 後部圧力隔壁からの与圧空気の流出の数値計算による検討 53頁~ 85頁
付録5 DFDR記録のエラー修復作業 87頁~ 93頁
付録6 DFDRに基づく事故機の飛行状況及び飛行経路について 95頁~130頁
付録7 事故機の飛行シミュレーション試験 131頁~156頁
付録8 プリレコーデッド・アナウンス及び警報音(客室高度・離陸) 157頁~163頁
付録9 CVR記録の音響分析 165頁~173頁
付録10 低酸素症に係る行動変容の調査・試験 175頁~189頁
付録11 垂直尾翼の画像解析 191頁~206頁
付録12 目視点検による亀裂の発見について 207頁~213頁
事故調査報告書付録(JA8119に関する試験研究資料)
全213頁
http://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/62-2-JA8119-huroku.pdf
116頁に「異常外力の着力点」の図解あり。
『日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす』青山透子(2020)参照。
http://electronic-journal.seesaa.net/article/462003634.html
●「墜落現場を避ける時の中曽根首相」(EJ第4863号)
ことです。このとき、時の総理中曽根康弘氏は、軽井沢発17時
11分の特急あさま22号に乗車して、上野駅に向っていたので
す。上野駅到着は19時15分。これほどの大事故ですから、必
ず事故のことは首相に伝えられているはずですが、携帯電話のな
かった時代です。列車内の連絡電話を利用しているはずですが、
中曽根首相はどの時点で事故を知ったのでしょうか。
自衛隊の公式発表によると、19時1分にファントム2機が百
里基地から飛び立ち、20分後に墜落現場上空で燃えている地上
の炎を確認しています。これが正しいとすると、中曽根首相が上
野駅に着いた時点では、123便墜落事故を知らなかったことに
なります。しかし、2012年に執筆されている『中曽根康弘が
語る/戦後日本外交』(新潮社刊)のなかでは「軽井沢から東京
に戻る列車の中で午後7時過ぎに聞いた」と書いています。とい
うことは上野駅に着く前に連絡があったということです。
特急あさま22号は19時15分に上野駅に到着。上野駅から
はパトカー先導で官邸に向っていますが、本来なら19時30分
には着いていなければならないのですが、着いたのは19時50
分。ここに20分間の空白があります。官邸で待ち構えていた記
者たちから、123便墜落のニュースを聞き、「ほう、そうなの
か」と答えています。
これはあくまで推測ですが、中曽根首相はもっと早い時点──
18時31分に浜松基地から2機のファントムが発進(自衛隊は
これを否定)した頃から、首相には逐次情報が伝えられていたの
ではないかと思います。
つまり、護衛艦「まつゆき」から発射された標的機が、JAL
123便に衝突し、垂直尾翼を破壊したあたりから、乗客乗員を
救出することではなく、政府の現体制と自衛隊を守るため、この
事件をいかに隠密裏に処理するか、軍事作戦のプロフェッショナ
ルが絵図を描いて実行したと池田昌昭氏はいうのです。池田氏は
これについて次のように述べています。
─────────────────────────────
水際立った墜落現場特定の遅れの手法。水際立った救助活動の
遅れの手法。水際立った事後の報道統制。水際立った事後の真の
事故原因究明隠蔽工作。複雑に錯綜する事態の推移の糸を束ねる
ことのできる頭脳の良さと、コンピュータのちからでは謀れない
統制力。紙の上での図上計画を実施に移し、しかも現実生起情勢
の変化に機敏に対応できる機動力と決断力。事件の風化をジッと
待つ辛抱強さ、根気強さ。これらの一連のことに何かを感じない
か。先に、先にと考えは進む。つまり、事後の手際の良さが却っ
て不自然さを感じさせるのである。危機管理の専門家の存在を予
想させる。
本当であれば、ヘリコブタ一搭載の暗視装置等の活用で現場特
定は直ちにできていたはず。従って夜間救出もできなかったわけ
ではないはず。報道も、もっと徹底して、事故原因を究明してい
たはず。事故調ももっと深く突っ込んで事故原因を解明できたは
ず。それら一連のことがすべて一致して、先に、先になされたよ
うな感じがする。とするとすべて、先に、事前に仕組まれていた
のであろうか?
もしこれらがシナリオ化されていたと仮定すれば、それは手慣
れた勢力の存在が予測される。そういったことに手慣れている勢
力である。軍事作戦発動プロフェショナルの存在が予想される。
周到で綿密な計画と事後統制力。その糸に操られているものも、
その操り糸にまったく気が付かないくらいの冷静な手法。ただそ
の間に潜みしものは、表に出ないで聞に潜んでいることに意義が
あるのである。表に出てしまっては、闇の意味がなくなるのであ
る。 ──池田昌昭著/文芸社
『御巣鷹山ファイル2/JAL123便は自衛隊が撃墜した』
─────────────────────────────
その後の中曽根首相の動静を見ると、墜落場所が自分の地元で
あるにもかかわらず、中曽根首相は墜落現場には足を運んでいな
いのです。何しろ乗客乗員520人が亡くなっているのです。日
本の首相として一刻も早く現場に行き、遺族を慰める義務があり
ます。それができないのはそこに何かがあるのです。
墜落事故の10日後の8月22日は、「中曽根政権発足千日の
記念すべき日」だったのです。この日、中曽根首相は軽井沢にお
り、そこで次のコメントを出しています。
─────────────────────────────
今日まで政治を遂行出来て望外の幸せである。防衛問題につい
ては、非常に慎重に手続きを尽くしてやっていきたい。新しい防
衛計画は何しろ財政が厳しいので、質的効率化を中心に計画が練
られるべきだ。文民統制を全うする手順、内容を考えて進めて行
くことが大事だ。防衛費の対国民総生産(GNP)比1%枠を撤
廃することについて維持は困難だ。出来るだけ1%以内に収める
努力は続けると申し上げてきた。──青山透子著/河出書房新社
『日航123便/撃墜の新事実/目撃証言から真相に迫る』
─────────────────────────────
このように、中曽根政権発足千日のコメントでも、日航機12
3便事故については、まったく触れていない。軽井沢に長くいて
さすがにゴルフは自粛したものの、テニス、水泳、読書にいそし
んでいるのに、123便の墜落現場には、足を向けようとはしな
かったのです。
9月11日には、茨城県筑波へ科学万博の見学に自衛隊のヘリ
コプターで行っているのですが、自衛隊市ヶ谷駐屯地からわずか
19分で万博会場に着いたことで、大変ご満悦であったといいま
す。なぜ、墜落現場に足をのばそうとしないのでしょうか。
結局、中曽根首相が墜落現場に行ったのは、事故後3ヶ月が経
過した11月4日だったのです。あまりにも遅過ぎるし、遺族に
対して失礼であると思います。彼は、やましいと考えているので
しょうか。 ──[日航機123便墜落の真相/033]
≪画像および関連情報≫
●日航ジャンボ機墜落事故と中曽根康弘
───────────────────────────
9月12日は、1985年の日航ジャンボ機墜落事故から
33年となった。多くの遺族らが花束や線香などを手に、墜
落現場の御巣鷹の尾根に慰霊登山に訪れたようである。
この尾根には『昇魂之碑』が設けられ、慰霊登山者はここ
で手を合わせる。中には熱心な方もいられて、身近にこの事
故の犠牲者を慰霊するためだけの専用の神棚を設けられてい
るそうである。
しかし、この方は遺族ではない。遺族でもないのに、専用
の神棚を設けているのは、多分彼だけだろう。こんなに熱心
なのに、一度も御巣鷹の尾根に慰霊に訪れたことがない。車
で行ける『慰霊の園』も訪れたことがない。事故現場のすぐ
隣の群馬出身で、地元にはよく帰られているのにもかかわら
ずである。
何かちょっと違和感を感じないだろうか?その方の名前を
『中曽根康弘』という。この事故が発生した時の内閣総理大
臣である。この事故の真相を知る人物である。真相を知るど
ころか私は当事者本人だろうと思っている。事故は事故だっ
たのだろうが、その真実を覆い隠すための工作を指示した本
人である。その中曽根氏も今年の5月27日で100歳をむ
かえたという。彼は、この事故についての真相を『墓場まで
持っていく。』と語ったとされる。中々持っていけないよう
である。しかし、焦る事はない。死んでからじっくりとこの
事故と向き合うことになるだろう。
https://bit.ly/2IActGp
JAL123便 日航機墜落事故の真相
JAL123便 日航機墜落事故の真相
【 このページを見やすくするためのヒント 】スマホに対応しています。
あまり横長になると読みにくくなりますので、その場合はウィンドウの幅を見やすいように縮めて調節してください。
【 追記: 動画 日航機123便!10年後に明かされた真実! 】2014.2.6
【 追記: 動画 マイケル・アントヌッチ Michael Antonucci の証言】2013.8.12
【 追記:垂直尾翼にぶつかる直前の切迫していたであろうコックピット内の音声(交信も含む) 】2012.7.18
【 追記:JAL123便、ボイスレコーダの内容と飛行経路情報で、検証した動画 】2010.8.11
【 ご挨拶 】
このページは http: //www.fims.co.jp/fumitaka/osutaka.pdf ファイル(作成日・変更日 2005/08/11,18:09:11)からできるだけ忠実に引用したものです。
なお、著者の承諾手続きをまだ致しておりませんが、残念ながら、サイトにアクセスできなくなってしまいました。
【 墜落後の不審な動き 】 --> こちら
米軍輸送機C130がJAL123便の異常を察知し、交信を傍受。
米軍横田基地から直ちに捜索開始命令が発せられ、20分後にそのC130が墜落現場を特定。
座間から救難へりUH-1も到着し、直ちにロープを下ろし救助を始めようとしたところで、
そこへ横田から帰還命令が発せられた。そして口外するな、と。
日本側とバトンタッチする際に、米軍から当然に正確な位置情報が伝えられたはずなのに
自衛隊は誤報を繰り返した。
その誤報によって現場に向かっていた救助隊が混乱し、
救助の開始が大きく妨げられたと考えられ、
助かっていた筈の尊い人命が、無残にも多数失われたと推察されます。
米軍が現場から撤収したあと、救助開始までの10時間以上、いったいなにが行われていたのか?
管理人 (2013.8.20)
JAL123便 日航機墜落事故の真相 目次
1.御巣鷹山飛行機事故の真相 .......................1
2.後部圧力隔壁破損は起こっていない.................2
3.事故調が隔壁破損に執着する理由...................3
4.無人標的機『ファイア・ビー』の衝突説.............4
5.謎の飛行物体はSSM-1である...................6
6.衝突6分前から気付いていた操縦クルー.............7
7.東京航空管制はどう受け止めたか...................8
8.スコーク77と自衛隊機のスクランブル.............10
9.なぜ横田基地着陸阻止になったか...................11
10.墜落場所は早くからわかっていた ...............13
11.自衛隊はなぜ米軍の救助を断ったか .............14
12.特殊部隊は墜落現場で何をしたか ...............15
13.JAL123便ミサイル撃墜の証拠と証言........16
14.生存者の一人・落合由美さんの証言 .............18
1.御巣鷹山飛行機事故の真相
-------------------------池田昌昭著
『JAL123便は自衛隊が撃墜した』/文芸社刊
思わずギョッとするようなタイトルです。タイトルを見る限りキワもののように見えます。しかし、実はこの本は2冊目であり私がEJに取り上げる直前にさらに3冊目が出版されているのです。そして、2001年7月に4冊目が出ています。内容はキワものではなく、事実に基づいて記述されています。
関連書籍については、あとでまとめてお知らせしますので、まずはEJのレポートを読んでいただきたいと思います。読み進めるにしたがって、池田氏の2冊目の本のタイトル『JAL123便は自衛隊が撃墜した』という結論に近づくのかどうかです。
1985年8月12日、羽田発大坂行きJAL123便は、乗客509人、乗員15人、合計524人を乗せて、午後6時12分に羽田を離陸したのですが、午後6時56分30秒、群馬県側の山岳地帯である御巣鷹山に墜落――乗客のうち重傷4名は8月13日に救出されたものの、505人の乗客と15人の乗員は還らぬ人となったのです。
問題は事故の原因です。当時の運輸省航空事故調査委員会は結論として、次のように述べています。
報告書はもっと詳細なものですが、重要な部分のみ書きます。
-------------------------
機体後部の圧力隔壁の破壊による機内与圧空気の急激な噴流により、垂直尾翼を噴き飛ばし、JAL123便は操縦不能となり、御巣鷹山に墜落したものである
――運輸省航空事故調査委員会の報告書より
大きな疑問点は、次の3つがあります。
-------------------------
1.圧力隔壁は何によって破壊されたか
2.機内急減圧が本当に起きているのか
3.墜落場所がなぜ御巣鷹山になったか
-------------------------
事故調査委員会は、機体後部の圧力隔壁が破壊された原因について、「疲労亀裂の進展で残留強度が著しく低下したため」としています。JAL123便は、垂直尾翼が3分の2も損傷しているのです。航空機の垂直尾翼は非常に頑丈なものであり、簡単に破損するものではないのです。機内与圧空気の急激な噴流などで壊れるものかどうかは疑問です。
事故調査委員会は、機内与圧空気の急激な噴流が尾翼破壊の原因という説を正当化するために、圧力隔壁の破壊を後からつけたのではないでしょうか。
もし、与圧空気の噴流が頑丈な垂直尾翼を吹き飛ばすほど強いものであったなら、機内にはその空気抜けによる急減圧が起きているはずなのです。何しろ高度24000フィート(7200メートル)で起こったことなのですから、機内の人たちは大変なことになっていたはずです。
しかし、生存者の証言を調べても、そのような急減圧は起きているフシはないのです。事故調査委員会も急減圧の起きていないことは一応認めており、これを解明できない未解決事項としているのです。
垂直尾翼が破壊された原因を常識的に考えると、何らかの飛行物体が尾翼にぶつかったのではないかということになります。疲労亀裂で圧力隔壁に穴が開き、内部の空気の墳流によって尾翼を飛ばしたという説明はかなり苦しいのではないでしょうか。
そして、3つ目の疑問は、なぜ航路から大きく外れた御巣鷹山に墜落したのでしょうか。途中で操縦不能になり、ダッチロールによって御巣鷹山まで行ってしまったという説を信じている人は多いのですが、御巣鷹山に行く必然性がないのです。
このように、事故から17年を経過しても、なお不明なことがあまりにも多いのです。これら多くの疑問点にひとつずつメスを入れていくことにします。
2.後部圧力隔壁破損は起こっていない
JAL123便は、疲労亀裂の進行によって後部圧力隔壁に穴が開き、機内与圧空気の噴流によって垂直尾翼の3分の2を損傷して操縦不能に陥ったとされています。高度2万4000フィート(7200メートル)の上空でこれは起こったのです。しかし、この場合、機内は気圧が急速に下がって、もの凄い風が機内を吹き抜けるはずです。ところがJAL123便の場合、そういう急減圧は起こっていないのです。
実は、御巣鷹山事故後の1986年10月26日、タイ航空のエアバスA300型機が土佐湾上空を通過中、ある乗客が手榴弾をトイレで爆発させるという事件が起こったのです。
このときは後部圧力隔壁が破壊されて、急減圧が発生したのです。操縦士はすぐに急減圧の発生を認識し緊急降下しています。
機内与圧空気は、機内を強い風となって通り抜け、最後部にある洗面所の化粧台を倒壊して、圧力隔壁後方へと抜けたのです。
これによって搭乗者247名中89名(36%)が航空性中耳炎になり、「ツーン」とする耳の痛みを訴えています。乗客が写した機内写真によると、落下した酸素マスクと、床に散乱した無数の荷物が写っています。
これは、明らかに減圧現象を示しているのです。乗客の証言によると、「風が前から後ろに向かって、『ブァー』と入ってきた。そして飛行機が『バァー』と下に降りた」といっています。
しかし、JAL123便では、急激な機内空気の後方への流れも、飛行機の急降下も起きていないのです。
しかし、事故調査委員会の報告書では、JAL123便では、客室後方への風速は1秒間にほぼ10メートルだったと計算しています。
事故調査委員会のいうように、1秒間に10メートルの風が本当に客室後方に噴き抜けたとすると、JAL123便の機内は相当ひどい状態になるはずなのです。元日本航空のパイロットである藤田日出男氏らの計算によると、JAL123便の場合は、荷物が飛んだタイ航空エアバス機の3倍以上になるというのです。
その風の勢いは、荷物どころか乗客まで後方に噴き飛ばしてしまうはずなのです。しかも、後部圧力隔壁が破損し、垂直尾翼の3分の2が噴き飛んだとすれば、乗客や荷物は機外に吸い出されてもおかしくはないのです。
しかし、実際のJAL123便の機内では、たまたま乗客として搭乗していて助かったスチュワーデス落合由美さんの証言によれば、機内の乗客・乗員はいたって沈着・冷静であり、一瞬白い霧状のものが発生したが、それもすぐに収まったというのです。
つまり、事故調査委員会の報告書にある機内の空気の流れなどはなかったのです。また、酸素マスクは降りてきたが、機内の急減圧現象はなく、機内は落ち着いており、操縦クルーも機の急降下操作を行っていないのです。
落合由美さんは次のようにいっています。
-------------------------
そろそろ水平飛行に移るかなというとき「バーン」という、かなり大きい音がしました。テレビドラマなどで、ピストルを撃ったときに響くような音です。『バーン』ではなくて、高めの『パーン』です。急減圧がなくても、耳を押さえたくなるような、すごく響く音。前ぶれのような異状はまったく何も感じませんでした。(一部省略)
『パーン』という音とほとんど同時に、酸素マスクが自動的に落ちてきた。・・・直ちに「ただいま緊急降下中、マスクをつけてください」という録音されているアナウンスが日本語と英語で流れました。
―――落合由美さん
このとき、乗客はお互いに教えあってマスクをつけたそうですが、パイロットたちはマイクをつけていなかったのです。それは地上と交信するときの彼らの声がくぐもっていなかっとたことからもわかるのです。それは、そのとき機内で急減圧が起きていなかったことの証明であり、事故調査委員会のいう圧力隔壁の破損はなかったことを意味するのです。
もし、高度2万4000フィートで急減圧が起こると、物理的に酸素が不足し、動脈血の酸素飽和度が70%を切るため、直ちに安全高度1万3000フィートまでの降下が義務づけられているのです。しかし、JAL123便は、高度2万2000フィートへの降下を要求したのみで、そのまま約18分間もその高度で飛び続けています。
急減圧が起きた状態では、18分間も酸素マスクなしでジャンボ機を操縦することは不可能なのです。その状態では、人間は意識が朦朧として動作できなくなり、判断力が極度に鈍ってしまうからです。
このような状態から見て、JAL123便の垂直尾翼破損の原因が機内にあるという内部説(事故調の結論)は無理があり、何らかの飛行物体が尾翼に衝突したという外部説が正しいということになります。しかし、事故調査委員会は外部説をとことん否定しているのです。何かおかしくはないでしょうか。
『パーン』と音がしてから32分間、酸素マスクが降りてから18分間――高度を2万2000フィートに下げただけで、パイロットたちは一体何をしていたのでしょうか。
飛行機が垂直尾翼を3分の2も破損されると、飛行はきわめて不安定になり、ダッチロール状態になります。これをパイロットたちは、エンジンの出力調整で何とか克服し、横田基地への着陸姿勢をとりつつあったのです。このことは、もっとあとで明らかにしたいと思います。
以上のことからも明らかであるように、事故調のいう後部圧力隔壁の破損はほとんどなく、機内の急減圧はなかったのです。パイロットたちは、何によって尾翼が破壊されたかがわかららないまま何とか機体を立て直すことに全力を注いだのです。
それにしても、事故調は、なぜ、何かが尾翼にぶつかったという外部原因説をとろうとはしないのでしょうか。どんな矛盾があろうとも、今もって内部原因説を捨てていないのです。
3.事故調が隔壁破損に執着する理由
JAL123便の機内に、「急減圧」があったか、なかったかは、事故のあと、大きなテーマとなって、いろいろなところで実験が行われています。その結論として急減圧はなく、したがって後部圧力隔壁の破損もなかったということがいえるのです。しかし、事故調査委員会は「後部圧力隔壁破損説」をいささかも譲ろうとはせず、再調査もしないまま、事故後17年が経過しているのです。
急減圧がなかったいう根拠についてまとめておきます。根拠は4つあります。
-------------------------
1.JAL123便は、規定の急降下をしていない
2.酸素マスクは降りたが、クルーは使っていない
3.墳流で乗客も荷物も噴き飛んでいる様子はない
4.生存者の機内の状況目撃証言でも急減圧はない
-------------------------
第1の根拠は、JAL123便のクルーは、機を急降下させていないことです。機内に急減圧が発生すれば、直ちに急降下を行うことが義務づけられているのですが、JAL123便は高度を2万2000フィートに下げる許可を求めただけで、急降下させていないのです。それは、急減圧がなかったことを意味していることになります。
第2の根拠は、酸素マスクが降りてきたにもかかわらず、パイロット・クルーはそれを着用していないことです。これは、マスクをつけなくても操縦ができたことを意味しており、これも急減圧がなかったことを意味しています。
それに酸素マスクが降りたのは、急減圧のせいではなく「ドーン」という何かがぶつかった衝撃によって降りてきたのではないかともいわれているのです。
第3の根拠は、墜落前の機内写真によると、酸素マスクは降りているものの、比較的機内は整然としていることです。もし、本当に急減圧が起きていれば、乗客や荷物が後ろに噴き飛んで大混乱になっていたはずなのに、そういう状況は見られないのです。
ボイスレコーダーにも、それをうかがわせるものはいっさい入っていないのです。
第4の根拠は、生存者の落合由美氏の証言でも急減圧は起きていないのです。乗客は降りてきた酸素マスクは当てているが、混乱はなかったと落合氏は証言しています。事故機の機内にいた人自身がそう証言しているのですから、これ以上確かなことはないはずです。
しかるに、事故調査委員会は、それでも後部圧力隔壁の破損の一点張りなのです。それにJAL123便の過去の事故を持ち出して正当化しようとしているのです。
JAL123便は、JA8119機というのですが、墜落事故を起す前に、2つの事故を起しているのです。事故調査委員会はこの事故と後部圧力隔壁破損を結びつけているのです。
-------------------------
1978年6月2日 ・・・ 大阪空港でのしりもち事故
1982年8月19日 ・・・千歳空港の滑走路での事故
JA8119機は、1985年8月12日の墜落事故の7年前の6月2日に、大阪空港において「しりもち事故」を起しています。着陸のさいに進入角度を大きく取りすぎ、尾翼付近の機体底部を滑走路に接触させ、その部分が幅約1メートル、長さ約17メートルにわたって破損しています。
このときは、ボーイング社から修理チームが来日し、圧力隔壁の下半分を取り替えているのです。墜落事故後のボーイング社の話によると、圧力隔壁には亀裂が入っていたので後部全体を取り替えており、新品同様であるといっているのです。しかし、事故調査委員会は、このとき隔壁の上部を取り替えていないことが、今回の事故の原因と見ているようなのです。
もうひとつの千歳空港の事故は、墜落事故の3年前に起きています。千歳空港に着陸するさいに、右第4エンジンを滑走路に擦っているのです。それにしても、よく着陸ミスを起す飛行機であるとはいえると思います。しかし、この事故は墜落事故には直接関係ないとされています。
墜落事故の7年前の大阪空港のしりもち事故で後部圧力隔壁を修理したという事実は、操縦不能になった原因をその圧力隔壁破損にあるとするのには格好の根拠として使えることは確かです。
ボーイング社の修理ミスのせいにするためにも、その方がプラスと判断したのでしょうか。
ちなみに「隔壁」とは、強度の強いアルミ合金製であり、円錐構造の機体におわんのように嵌め込まれているのです。したがって、しりもち事故のさい、その衝撃は下方部分だけでなく、上方部分にも及んでいるはずとする主張には一理あるのです。しかしだからといって、それが操縦不能の原因として断定することは、困難であるといえます。状況的には、機内に急減圧は起きておらず、圧力隔壁は破損していないという証拠が、大勢を占めているからです。
このように、JAL123便が操縦不能になった原因については数多くの疑問があるのです。そのため被害者の遺族たちは、1999年1月に事故原因再調査要求を提出したのですが、事故調査委員会はこれを完全に無視し、それどころか、JAL123便墜落事故関係の全書類を1999年11月にすべて廃棄処分にしてしまっているのです。
事故の真の原因を徹底的に究明することなく、大きな矛盾のある事故原因であくまで押し通し、あまつさえその証拠となる書類をすべて廃棄処分にする――考えられないことであり、許されないことであると思います。
さて、圧力隔壁の破損がないとすると、JAL123便は何によって操縦不能となったのでしょうか。次章からは、外部原因説について分析を進めていきたいと考えています。
4.無人標的機『ファイア・ビー』の衝突説
JAL123便が操縦不能になった原因は、飛行機の垂直尾翼が3分の2程度破壊されたことにあります。事故調査委員会は内部原因説を結論としていますが、ごく素直に考えれば、何らかの飛行物体がJAL123便の尾翼に衝突したのではないかということを疑うのが自然であると思います。
しかし、高度高度24000フィート(7200メートル)の上空で飛行機の垂直尾翼にぶつかるものといったら、何があるでしょうか。それは、飛行機かミサイルのようなもの以外は考えられないのです。
飛行機は考えられないので、ミサイルのような謎の飛行物体ということになるのですが、場所は相模湾上空であり、もっとも飛行機の往来の多いところなのです。なぜ、そのような物騒なものが飛んでくるのでしょうか。普通では考えられないことです。
しかし、ひとつだけ気になることがあります。それは、JAL123便の墜落事故が起こった1985年8月12日に、相模湾で当時の新型護衛艦「まつゆき」が試運航中であったことです。
護衛艦は、昔のことばでいえば戦艦です。戦艦の試運航というのは、単に海上を航行するだけではなく、兵装運用実験を行うことが大切な目的なのです。
当時「まつゆき」といえば、最新の高度ミサイル防空システムを備えたシステム艦であり、実験項目もかなりあったと考えられます。「まつゆき」の任務は、来襲するミサイルや戦闘機という標的を正確に攻撃して防空することにあり、当時のこの軍事技術が後のイージス艦の開発につながっていくことになります。
この「まつゆき」の実験の一環で、たまたま相模湾上空にさしかかったJAL123便のところに何かが飛んできたのではないか――こういう推定も成り立つのです。
ここで、1985年当時の日本の防衛に関する状況を振り返っておく必要があります。1985年といえば、時の総理大臣中曽根康弘氏が米国で「日本列島は不沈空母」と発言して、大騒ぎになっていたときです。
米国がレーガン政権のときの話です。
当時の中曽根内閣は、国防政策の中身として、武器輸出三原則や軍事費のGNP1%枠を撤廃し、世界最先端軍事技術を米国の監視のもとで自主開発する国防政策を推進したのです。その具体的な目玉は、国産巡航ミサイルの開発だったのです。そして日本は、独自に光学ミサイル管制技術を開発したのです。
米国はこの日本の技術を自国の巡航ミサイルの中心部分に組み込み、あの「トマホークミサイル」を完成させたのです。レーガン政権は、日本に対し、石油資源のルート確保を担わせるため、シーレーン防衛の名のもとで、日本の自衛隊を強化しようとしていたのです。そして、とくに日本に求めた技術開発は、ミサイル誘導装置の開発なのです。
このミサイル誘導システムの精度をチェックするために使われるものに「無人標的機」というものがあります。航空評論家の関川栄一郎氏は、JAL123便の垂直尾翼にぶつかったのは、この無人標的機ではないかといっているのです。
「無人標的機」には、次の3種類があります。
-------------------------
1.高速無人標的機「ファイア・ビー」
2.高速無人標的機「チャカ(CHUKAR Ⅱ)」
3.対空無人標的機「ターゲット・ドロン」
第1の「ファイア・ビー」は、長さ7m、幅3.93m、高さ2.25m、重さ686.3キロで、最大速度0.96マッハで実用上昇限度1万7000m、航続時間は約60分です。事故発生時の高度7200mにゆうゆう届くのです。操縦方式は、無線コマンド・コントロールです。
第2の「チャカⅡ」は「ファイア・ビー」を小型化した対ミサイル用標的機です。長さ3.87m、幅1.76m、高さ0.71m、時速350~900キロ、高度150~9000m、重さ182キロ、航続時間約80分です。これもJAL123便に届くのです。訓練支援艦「あずま」の管制システム「艦上追尾管制装置」によって飛行をコントロールするのです。
第3の「ターゲット・ドロン」は、長さ3.8m、幅4.03m、高さ0.79m、重量162キロ、航続時間約90分、母艦艇からジャトーにより発射され、UHF、FM方式の電波でリモコンされて飛行するプロペラ機なのです。
垂直尾翼を壊したのがこれらの標的機であるとした場合、3つの標的機のうち、どれがJAL123便の垂直尾翼に衝突したのでしょうか。
まず、はっきりしていることは、プロペラ機である「ターゲット・ドロン」ではないということです。そうすると、「ファイア・ビー」か「チャカⅡ」ということになりますが、「チャカⅡ」は、JAL123便の垂直尾翼を壊すには、重量的に軽過ぎると考えられます。
この点、「ファイア・ビー」は重量が686.3キロありますので、JAL123便の垂直尾翼を破壊する力は十分あります。したがって、もし、標的機が犯人であるとした場合、「ファイア・ビー」である可能性が高いことになります。
しかし、無人標的機「ファイア・ビー」をリモート・コントロールするには、海上自衛隊の訓練支援艦が必要なのです。事故当時は、訓練支援艦は「あずま」のみが実在していたのですが、当日「あずま」は、呉港に繋留されていたのです。したがって、当日は「ファイア・ビー」を飛ばせることはできなかったのです。
それに「ファイア・ビー」については、航続距離や民間航空路線の関係から相模湾ではできないことになっているのです。つまり、アリバイがあるわけです。
そこで、事故の起こった時刻に、その空域――関東南A空域にどのような航空機がいたのか詳細に調べたところ、気になる航空機が多く存在していたことがわかってきたのです。
5.謎の飛行物体はSSM-1である
JAL123便が事故時刻に飛んでいた空域は、「関東南A空域」と「関東西空域」の2つです。それぞれの空域にその時刻にどのような航空機がいたかを調べた記録があります。≪関東南A空域≫ ≪関東西空域≫
-------------------------
1.全日空トライスター 8.全日空ボーイング747
2.全日空YS11 9.全日空トライスター
3.日航ボーイング747 10.日航ボーイング747
4.東亜国内航空DC9 11.ノースウエスト航空
5.ビーチクラフト機 12.大韓航空
6.米軍機C―130 (11と12の機種はいずれもボーイング747)
7.自衛隊機C-1
-------------------------
このほか、関東西空域に米軍機がもう1機存在していたのですが、位置や高度などは不明です。この中で注目すべきは、自衛隊機C-1です。C-1は、人員や兵器を輸送するずんぐりとした航空機なのですが、外形はこれとそっくりのEC-1という航空機があるのです。
EC-1は、C-1を電子戦用に改良したもので、所属は岐阜の航空実験団です。この航空実験団というのは、航空機および搭載装備品、支援機器、電子機器、兵装などの試験・評価と、これらの基礎的な運用、研究、開発をやっているのです。諸般の情勢から考えて、この空域にいたのは、C-1ではなく、EC-1であると考えられます。
重要なことは、JAL123便事故の1985年8月12日には、このEC-1は納入前のテストをしており、試験飛行をしていていたこと、それに護衛艦「まつゆき」も納入前の試運航をしており、EC-1、「まつゆき」の両方とも厳密には国有財産として未登録であったことです。
国有財産でない場合は、所有権は製造会社側にあるので、これらの航空機や艦艇が実際にやったことの報告義務から法的には免れることになります。実際に何が行われたかを究明するのは非常に困難になるのです。
訓練支援艦「あづま」が8月12日に呉港にいたことによってJAL123便の垂直尾翼に衝突した謎の飛行物体は「ファイア・ビー」でないことは確かです。なぜなら、「ファイア・ビー」は、訓練支援艦がいないと飛行させることができないからです。
そこで、謎の飛行物体として現在考えられているのは、1985年当時鋭意開発が進められていた沿岸防衛用国産巡航ミサイル「SSM-1」のプロトタイプ、すなわち、爆薬を搭載していない演習用ミサイルではないか――と考えられるのです。
2月25日に北朝鮮が発射した「シルクワーム」も、沿岸の艦艇を攻撃する地対艦ミサイルですが、SSM-1はより性能が高く、かなり長い射程でミサイルを発射し、管制できる巡航ミサイルなのです。
JAL123便墜落事故の3年前の1982年、アルゼンチンとイギリスのフォークランド紛争が勃発したのですが、アルゼンチン空軍の「シュペル・エタンダール」機が放ったフランス製ミサイル「AM39エグゾセ」が、イギリス軍のミサイル駆逐艦、「シェフィールド」(3500トン)を轟沈し、世界の軍事関係者に衝撃を与えたのです。これは、空対艦ミサイルですが、これが刺激となってSSM-1の開発に拍車がかかったのです。
SSM-1は、地上基地、陸上移動発射台、あるいは航空機からでも発射できる巡航ミサイルで、その飛行モニターを空中では電子戦機EC-1、海上では護衛艦「まつゆき」が実施する――これなら、ミサイルの発射実験は可能なのです。
そして、同時にその空域にいた米軍のC-130やもう1機の米軍の正体不明機も、日本の巡航ミサイルの発射実験をモニターしていたと考えられます。米軍は、民間機、軍用機を問わずコックピットと管制塔との交信すべてを傍受するシステムを敷いているからです。その証拠に、所沢市の東京航空交通管制部(東京ACC)のすぐ隣りに米軍の通信傍受施設があるのです。
その国産巡航ミサイルの飛行実験が何らかのアクシデントで、演習用ミサイルをコントロールすることができなくなり、民間航空機の空域に入り込んでしまい、JAL123便の尾翼に衝突したのではないか――と一応考えられるのです。
JAL123便の尾翼が吹き飛んだとみられる地点の南40キロメートルの高度1500フィート付近は、R116という自衛隊の演習区域になっているのです。雫石で全日空機が自衛艇のF86F戦闘機と衝突して墜落したのも、自衛隊機が民間航路へ侵入した結果なのです。けしからん話ですが、自衛隊戦闘機パイロットの中には、民間航空機を敵機とみなして訓練する者もいるということです。
さて、護衛艦「まつゆき」には、艦対空ミサイル「短SAMシースパロー装置」が搭載されています。1985年8月12日に「まつゆき」は相模湾・伊豆沖で試運航中であったのですが、当然、ミサイルの発射実験とその誘導レーダーの操作、命中についてのテスト訓練をやっているはずです。したがって、そういう飛行物体が民間航空路に迷い込む可能性はゼロではないのです。
しかし、爆薬の入っていない巡航ミサイルが「まつゆき」から打ち上げられたのか、内陸部の車両発射台から打ち上げられたのか、もしくは航空機から発射されたのかは、わかっていないのです。巡航ミサイルであれば、自衛隊の東富士演習場から打ち上げられ、富士山を迂回して、相模湾上空でJAL123便に遭遇するということも、十分考えられるのです。
ボイスレコーダーなどの分析記録によると、操縦クルーや乗客の一部がその謎の飛行物体を目撃しているフシがあるのです。事故調査委員会はそういう事実も知ったうえで、あくまで圧力隔壁破損が垂直尾翼破壊の原因であることで通してしまったのですからよほど外部からの飛行物体の存在を隠したかったのでしょう。
6.衝突6分前から気付いていた操縦クルー
JAL123便の操縦クルーは、謎の飛行物体にぶつかる少し前に気がついていたのではないかと思われるフシがあります。今朝はここからはじめます。JAL123便が羽田空港を離陸したのは、午後6時12分のことです。そのまま順調に飛行を続け、水平飛行に移行した午後6時18分過ぎ、右側に富士山と江ノ島が見えます。高度は、約3500メートル。富士山と眼下の相模湾が一望できる風光明媚な場所で、この場所を飛行するパイロットたちがホッと息をつく瞬間だそうです。
そのとき、右前方から奇怪な飛行物体が飛行機に近づいてきたのです。あり得ないことであるだけに、操縦クルーに緊張がはしります。「危ない!衝突する!」
それとほぼ同時に、座席中央部分の最後部から5番目に座っていた小川哲氏(当時41歳)も、その飛行物体に気がつき、それをカメラに収めているのです。この写真は、JAL123便事件の謎を解く、唯一の貴重な物的証拠として後世に遺ることになるのです。
その前後のコックピットと客室とのやりとりなどの状況を整理しておきます。
-------------------------
18:12:20・・・羽田空港を離陸
18:18:00 ・・・ 謎の飛行物体操縦クルー視認 小川氏が謎の飛行物体を撮影
18:23:00・・・ベルト着用指示
18:24:15・・・ 客室乗務員とのやりとり
18:24:35・・・ドーンという爆発音
18:24:42・・・スコーク77を発信
-------------------------
JAL123便の操縦クルーが謎の飛行物体を認めた午後6時18分の時点で飛行機は水平飛行に移っており、ベルト着用のランプは消えていたはずです。しかし、23分になって再びベルト着用のランプがついたので、24分にスチュワーデスが、「(トイレにいき)たいという方がいらっしゃるのですが、よろしいでしょうか」とコックピットに許可を求めています。
そのとき、副操縦士は次のように応答しているのですが、声は上ずっており、内容もかなりおかしかったのです。
-------------------------
「気をつけて、じゃ気をつけてお願いします、手早く、気をつけてください」
――副操縦士
副操縦士の物言いは明らかにていねい過ぎますし、ボイスレコーダーに残されたその声を周波数分析した結果、緊張度が非常に高いことが分かったのです。スチュワーデスの声が正常値の3であるのに対し、副操縦士の声の緊張度は7と明らかに異状に高い緊張度を示しているのです。
この分析方法は、航空自衛隊航空医学実験隊が開発したものでパイロットの「音声基本周波数」(1秒間の声帯振動数)をボイスレコーダーから抽出し、緊張状態との相関関係を推定する方法なのです。
ここで注目すべき事実があります。謎の飛行物体を操縦クルーが視認した18時18分時点の飛行機の高度は、1万1300フィート(3440メートル)なのですが、謎の飛行物体が尾翼に衝突した18時24分35秒時点の高度は、2万3900フィート(7170メートル)であることです。つまり、6分間に1万2600フィート(3780メートル)も上昇しているのです。
この2万3900フィートという高度は、ジャンボ旅客機が水平飛行に移ろうとするときの高度なのです。JAL123便は、6分間も謎の飛行物体に追い掛け回されていたことを意味するのです。何かが飛んできて偶然にぶつかったという状況ではなく、その飛行物体は執拗に飛行機を追尾しているのです。
このことから考えて、謎の飛行物体は明らかに巡航ミサイルであるといえます。標的が、どのように高度を変えても、時々刻々自ら軌道修正を行い、標的を追い詰めて標的の後ろに回ろうとします。その結果がJAL123便の垂直尾翼破壊だったのです。
最初謎の飛行物体は、コックピットの右サイドで視認されています。つまり、JAL123便よりも前の方を飛んでいたことになります。そのあと、飛行機の右後ろに回り、そこから垂直尾翼に衝突しているのです。
謎の飛行物体が国産の巡航ミサイルSSM-1であるとするとなぜ、そのようなものを民間航空機が数多く通る空の銀座通りといわれる相模湾上空で飛ばしたのでしょうか。場所といい、時間といい、自衛隊は軽率のそしりを免れないでしょう。
巡航ミサイルSSM-1は、攻撃してくるミサイル迎撃のための半導体レーザー結合光ファイバー画像解析装置を搭載しています。光学センサーでミサイルや戦闘機を瞬時に識別し、最適攻撃手段を選択できる当時の最先端技術です。
それならば、なぜ、民間航空機であるJAL123便を識別できなかったのでしょうか。当然識別できるはずですし、まして、地上、海上、航空での管制システムによって動くのですから、JAL123便が識別できないはずがないのです。
地上の管制システムは、巡航ミサイルSSM-1が先端部に搭載したシーカーによって民間機JAL123便の画像情報をSSM-1を経由して捕捉していたはずです。それなのに、なぜ衝突を回避できなかったのでしょうか。なぜ、自爆させるなどの処置がとれなかったのでしょうか。管制システムに突如故障が生じたのでしょうか。
考えられることは、SSM-1搭載コンピュータに民間機識別情報が入力されていなかったことです。演習用なので、すべての航空機を敵機とみなすようになっていたのではないしょうか。
衝突後、JAL123便の機長は7秒後に「スコーク77」を発信していますが、これについては次の章で取り上げます。
7.東京航空管制はどう受け止めたか
JAL123便の垂直尾翼に演習用巡航ミサイルSSM-1がぶつかったのを知って機長はその7秒後に「スコーク77」を発信しています。この「スコーク77」は、国際緊急無線信号であり、めったなことでは使わない信号なのです。仮に事故調のいうように、圧力隔壁の破損が原因で尾翼が破壊された場合、「ドーン」という爆発音が聞こえた18時24分35秒の時点では、コックピットの中では何が起こったのかわからなかったはずです。
そういう状況において、まして「ドーン」という音が聞こえた7秒後に「スコーク77」を発信することはあり得ないのです。
操縦クルーたちは、謎の飛行物体に6分間もつけまわされていたからこそ、「ドーン」という音が聞こえたとき、その飛行物体が垂直尾翼にぶつかったと確信して、「スコーク77」を発したのです。「スコーク77」は、飛行機が他から攻撃されたようなときに発信する緊急信号だからです。
「スコーク77」を発信させたJAL123便は、墜落したと見られる午後6時56分26秒までの間に、次の4つと交信しています。数字はその通信回数です。
-------------------------
東京航空管制 羽田航空管制 横田基地 日航羽田無線
28 8 13 9
JAL123便が最初に交信をしたのは、所沢にある東京航空交通管制部(ACC)です。この東京航空管制の立場に立って、作家の山崎豊子氏は、『沈まぬ太陽/御巣鷹山篇』(新潮社刊)において、次のように記述しています。この本では、JAL機のことをNAL(国民航空)と表現していますが、ボイスレコーダーに基づいて記述されており、その内容は正確です。
-------------------------
午後6時24分40秒――、突然、関東南A空域のレーダー画面に、EMG(緊急事態)の赤い文字が点滅し、ピーピーと金属音を帯びた警報が鳴った。(一部略)何が起こったのだろうか ――、ヘッドセットをつけ、口元にのびた小さなマイクに向かって、直接、交信している管制官の耳に、国民航空123便の機長の声が飛び込んで来た。
25秒20秒
NAL「アー、東京管制部、こちらNAL123便、緊急・・トラブル発生、羽田に戻りたい、22000フィートまで降下する、どうぞ」
管制部「22000フィートまで降下ですね。了解、要求通り承認します」
NAL「大島へのレーダー誘導をお願いします」
管制部「右旋回しますか、それとも左旋回?」
NAL「右旋回に移っています。どうぞ」
管制部「右旋回して、磁方位90度(真東)、大島レーダー誘導します」
―――山崎豊子著、『沈まぬ太陽/御巣鷹山篇』(新潮社刊)
しかし、この時点では、東京管制部では、JAL123便のトラブルの内容はわかっていなかったのです。
急病人が出て羽田に戻りたいのか、それともハイジャックされたのか、管制部としてはいろいろ考えたそうです。
しかし、右旋回するといったJAL123便は、一向に方角を東に変えず、そのまま、西に移動しており、高度も下がっていないので、不審に思った管制部は、JAL機に連絡をとります。ここも山崎氏の小説から引用します。
-------------------------
27秒02秒
管制部「NAL123便、確認しますが、緊急事態ですね」
NAL「その通りです」
管制部「123便、了解、緊急事態の内容を、知らせてください」
NAL「・・・(応答なし)」
28分30秒
管制部「NAL123便、磁方位90度で飛行せよ、大島レーダー誘導です」
NAL「しかし、現在、操縦不能」
――山崎豊子著、『沈まぬ太陽/御巣鷹山篇』(新潮社刊)
操縦不能――緊急事態の第1報がこれなのです。それでいて、2万5000~4000フィートの高度を保っている――これは管制官にとっては初体験だったといいます。まして、JAL123便はボーイング747、安全度が最も高い飛行機だったのですから尚更のことです。
そのときJAL123便は静岡の焼津付近に達しており、なお西に向かっていたのです。近くには、自衛隊の浜松基地があるのですが、滑走路が短くジャンボ機の着陸は無理なのです。それなら名古屋空港へ行った方が早い――管制官はJAL123便に連絡をとろうとしたとき、JAL123便の高度が一定しなくなっているのに気がつきます。1万5000~1万2000フィートの間を上下し出したのです。いわゆるダッチロールです。
管制官は、JAL123便に連絡を取り、名古屋に着陸できるかと聞いています。しかし、JAL123便の機長は、あくまで羽田着陸を主張したというのです。
そこで、大島通過の報告をしてきた米輸送機C-130が横田基地への着陸を求めてきているのにスタンバイの指示を出し、JAL123便の航路を最優先に確保しようとしたのです。
ちょうど、そのときJAL123便は、垂直尾翼を飛ばされながら、操縦を何とかコントロールして、羽田に戻る体制を確立しようとしていたのです。驚くべき操縦技術です。
8.スコーク77と自衛隊機のスクランブル
「スコーク77」は、単なるエマージェンシー・コールとは異なるようです。これに関する限りあまりにも情報がないので、ある程度推測するしかないのですが、とくに、「スコーク77」を発信すると、なぜ自衛隊の軍用機がスクランブルをかけてくるのかということがいまひとつ理解しにくいと思うので、池田氏の本をベースにして説明します。昨日ご紹介したICAO(国際民間航空機関)条約「付属文書2」というのは、日本が支配する空域において、民間機が何かに要撃された場合の自衛隊機の対処法が決められているのです。というよりも、日本の空域において民間機が何かに要撃されることは想定しにくいので、日本の領空を侵犯してきた航空機に対する自衛隊機の対応を民間機要撃のケースにそのまま適用しているというべきです。
日本は、米国と日米安全保障条約を締結しており、当然のことながら、これは米軍と無関係ではありません。歴史を遡ると、領空侵犯機に対する対応は、1959年9月2日に、当時の米軍第5空軍司令官ロバート・バーンズ中将と日本の航空自衛隊総司令官松前未曾雄空将との間で締結された「松前・バーンズ協定」にたどりつくのです。これによると、日本の航空自衛隊は、米国第5空軍の「交戦準則」をもとに規定を作っているのです。何もかも米国任せのこの国の姿勢を示していると思います。
それにしても、日本の領空で民間機が何かに要撃されたとき、その民間機を領空侵犯機と一緒に扱うというのはどうかと思いますが、一応そういう規則になっているのです。
「スコーク77」は、民間機が何かに要撃の対象とされたということですから、自衛隊機としてはスクランブル発進をかけて被要撃機を誘導し保護する必要がある――一応そういう理屈になっているのです。
そのとき、被要撃機は、自衛隊機の指示・誘導に従うよう定められています。スクランブルをかけた自衛隊機が使用する言葉は次の4つです。
-------------------------
1.当方に従え
2.着陸のため降下せよ
3.この飛行場に着陸せよ
4.そのまま飛行してよい
これに対して、要撃された民間機が使用できる言葉は、次の6つです。
-------------------------
1.了解、指示に従う
2.指示に従うことはできない
3.指示を繰り返してください
4.自機の現在位置がわからない ←リクエストポジション
5.○○に着陸したい
6.降下したい
18時54分20秒に機長がいった「リクエストポジション」はこの中にあります。実は、31分21秒の時点で、尋常ならざる事態と判断した東京管制部は、JAL123便に対して「日本語で交信してください」と指示しており、それ以降管制とはすべて日本語で交信しているのです。
無線交信は、万国共通、英語で行われているのですが、非常のさいには、パイロットの負担を軽くし、かつ意思疎通の妨げにならないように日本語での交信を指示したのです。
しかし、なぜか、54分20秒のときだけは、「リクエストポジション」と英語で聞いており、これは自衛隊機との交信と考えられるのです。限られた言葉の中で機長としては、それを英語で「リクエストポジション」と発信することによって、JAL123便の前後に自衛隊機がいることを管制に知らせたかったのではないかと考えられるのです。
もうひとつボイスレコーダーの分析でわかったことがあります。18時33分38秒~34分52秒にかけて、日本航空の社内無線は、JAL123便を次のように呼び出しているのです。
-------------------------
JAPAN AIR 123 JAPAN AIR TOKYO
How do you read?
「JAL123便、聞こえますか」という意味です。そのあと日本航空の社内無線は、36分00秒に「羽田に戻ってこられますか」と聞いています。機長自身は東京管制部には「羽田に戻りたい」と伝えているのですから、社内無線に対しても「羽田に戻ります」と伝えるのが自然ですが、機長は社内無線に対しては、次のようにいっているのです。
-------------------------
ふたたびコンタクトしますので、このままモニターして
おいてください
----------機長
これはどういう意味でしょうか。池田氏は、自衛隊機とのやりとりを社内無線に傍受させる意図でそうしたのではないかといっているのです。
18時46分の時点でJAL123便は、明らかに横田基地に着陸体制にあったといえます。JAL123便の動きを外部から見た場合、今まで北北東に向かっていた飛行機がぐるりと真東に機体を向けて高度を下げつつあったのですから、パイロットは機体をコントロールできると考えても不思議はないのです。
しかし、どうしても横田基地に降りられては困る事情が政府筋にあったのではないかという疑いがあるのです。したがって、JAL123便は墜落必至と見て、横田基地周辺の市街地に墜落させるわけにはいかないという大義名分のもと、自衛隊機が御巣鷹山に強引に誘導したのではないかと考えられるのです。
9.なぜ横田基地着陸阻止になったか
JAL123便が操縦不能に陥った真の原因は、演習用ミサイルが飛行機の垂直尾翼に衝突してその3分の2が失われたという仮説を中心にこのレポートを書いています。事故より14年が経過した時点で発刊された山崎豊子氏の『沈まぬ太陽/御巣鷹山篇』(新潮社刊)には、この演習用ミサイル衝突説はどのように扱われているのでしょうか。それとも無視されているのでしょうか。
実はちゃんと取り上げられているのです。事前調査には定評のある山崎豊子氏のことですから、あらゆる情報を集めて研究し、書いています。もちろん山崎氏が、荒唐無稽な情報であると判断すれば無視するでしょうが、ちゃんと取り上げているのです。
それは、事故調の藤波調査官に突撃取材を試みる週刊日本の記者のシーンで取り上げられています。
本を読まれた方も多いと思いますが、その一部をご紹介しましょう。
それにしても当時の内閣官房長官は、あの藤波孝生氏――山崎さんは皮肉を込めて「藤波」という名を使ったのでしょうか。
-------------------------
「藤波調査官ですね」
再び、声をかけられた。今度は三十そこそこの男性だった。
「そうですが―――」
「週刊日本の記者です、ちょっと話を伺いたいのですが」
行く手を阻むように言い、名刺を差し出した。
(一部略)
「どのような話ですか」
「実は、事故機の墜落原因について、聞き捨てならない重大な話を仕込みましてね、墜落の真相は、自衛隊がミサイル発射訓練に使う標的機が、たまたま飛行中の国民航空123便の尾翼に衝突したらしいのです、ご意見を聞かせて下さいませんか。
(駅の)ホームで、記者は強引にコメントを求めた。
「いきなりそんな突飛なことを言われても、答えようがないですな」
「おや、おとぼけですか、それとも政府、防衛庁は、事故調査官を棚上げして、真相を隠蔽するつもりなのですかね」
嫌味な言い方をした。
「確たる証拠でもあるのですか」
「事故機が、最初に緊急事態を発信したあの時刻に、海上自衛隊の護衛艦『たかつき』が、相模湾でちょうど演習中だったのですよ。現に事故の翌日、相模湾内に尾翼の重要部分である垂直安定版が浮いていて、回収されたではありませんか」
-――山崎豊子著、『沈まぬ太陽(三)/御巣鷹山篇』より
どうでしょう。疑惑の追及者を週刊誌の記者という設定にしているのは、作家の山崎氏自身が、そこに多少なりとも「真実かも知れない」という気持があったからこそそういう設定にしたのだと思います。
さて、JAL123便の「スコーク77」の発信を探知して自衛隊機がスクランブル発信したのは18時30分頃です。機種はF-4EJ戦闘機2機です。そして2~3分後にJAL123便を発見しています。F-4EJ戦闘機は、機種を識別する機能を持つコンピュータを搭載しているので、標的はレーダー・スコープ上に表示されるのです。
そのときJAL123便は、焼津市上空で右方向に向かい、羽田もしくは横田基地に戻ろうとしていたのです。F-4EJ戦闘機はJAL123便の後ろから垂直尾翼の状況を肉眼で観察し、次に前に出て、ダッチロール(機体左右の揺れ)とフゴイド(機体前後の揺れ)を減衰させる方法を指導しています。
しかし、このとき、JAL123便のパイロットは、左右のエンジンの出力調整だけで、ダッチロールとフゴイドをかなり減衰させることに成功していたのです。垂直尾翼の3分の2を欠いてこれをやることはきわめて困難なことですが、彼らはそれをクリアしつつあったのです。そして、横田基地への着陸に向けて高度を下げていったのです。
2機のF-4EJ戦闘機は、このことを要撃管制官に報告しています。このとき、要撃管制官としては、横田基地への着陸を容認していたはずです。横田基地側も何度も直陸許可を出しており救急体制も整えていたのです。
それがどうして横田基地着陸阻止に変わってしまったのでしょうか。ここからは、池田昌昭氏の推測にしたがって、記述していきます。
JAL123便を追尾したF-4EJ戦闘機の航空基地指令への報告の中に、欠けた垂直尾翼に巡航ミサイルの衝突痕跡――オレンジ色の塗料の跡があるというのがあったのです。自衛隊では軍事演習用の機器は、オレンジ色に塗ってあるのです。
この報告を受けた航空基地指令はがくぜんとします。そして、直ちにこの事実は上級指令者(航空幕僚)に報告されたのです。
その航空幕僚はそれをさらに上――自衛隊を指揮命令する立場の者に報告して、指示を仰いでいるはずです。
垂直尾翼にオレンジ色の塗料の痕跡が残っているということは民間機が軍事演習のターゲットになって操縦不能に陥ったことになり、日本国政府と自衛隊の立場は完全に崩壊します。しかし、本来であれば、だからこそJAL123便に乗っている524人の乗客・乗員の救出を何としてでも行うべきなのです。
しかし、われわれは、この事件のあと、警察や自衛隊、各官庁の官僚たちの責任回避体質をイヤというほど見てきています。彼らがこういう状況に直面したときどうするか。何よりも現体制の維持と責任回避を考えただろうと思います。
彼らは、もしJAL123便が横田基地着陸に失敗したときの被害の大きさ――5000人規模の死傷者を予測――を理由にF-4EJ戦闘機に対して、指令を発するのです。「JAL123便の横田基地着陸を阻止せよ」と。
10.墜落場所は早くからわかっていた
JAL123便を御巣鷹山に誘導した2機の自衛隊機の存在はこの件に関するマスコミ報道では完全に伏せられています。しかし、この2機の自衛隊機を目撃した人物がいます。その人物とは、角田四郎氏といい、事故当日大月付近でキャンプをしていて目撃したというのです。後になって、角田氏は、JAL123便事件解明のため『疑惑/JAL123便墜落事故』という本を出しています。
この本から、角田氏自身の目撃状況をご紹介します。
-------------------------
このとき私は日航123便を目撃していた。[山梨県大月市と神奈川県相模湖の中間地点の]東から南へ、南から西へ旋回しようとする地点である。18時42分頃になる。
そして、44分か45分頃、ループ飛行を終えて東へ向かったであろう頃の日航機を追うように、東へ向かう2機の自衛隊機を私は見た。
その時また飛行機が見える。木の間に見え隠れしていたが、私は「エッ」と驚きの思いで立ち止まって見つめた。しかし、今度はごく小さな機影で、北西に向かって夕焼けの中をどんどん小さくなってゆく。「あれはさっきの飛行機[JAL123便]じゃないな」と思い、ふたたびバンガローへの坂道を登っていった。この間5~6分の出来事である。――角田四郎著、
『疑惑/JAL123便墜落事故』より。早稲田出版刊
2機の自衛隊機の目撃情報は角田氏だけですが、防衛庁側は、これに対して何もコメントしていません。
自衛隊機がこの付近の空を飛んでいても別に不思議ではないからです。角田氏自身もあとでJAL123便の墜落を知って、自衛隊機とJAL123便とをはじめて結びつけたのです。
ところで、自衛隊機はどのようにしてJAL123便の進路を変更させたのでしょうか。
自衛隊機は無線で直接JAL123便と交信して旋回するよう指示したか、あるいは、航空基地を経由しての交信により横田基地に着陸しないよう伝えたはずです。
おそらくJAL123便の機長は、あくまで横田基地着陸を訴えたはずです。機長が当初「羽田に戻りたい」といったのは、羽田空港の方が、救急医療体制が整っているからです。いずれにしても、まともな着陸はできないと考えていたのでしょう。
しかし、機を完全にコントロールできないこともあり、この時点では横田基地しか選択肢はなかったはずです。とにかくボイスレコーダには、自衛隊機とのやりとりは記録されていないので、推測するしかないのですが、もしかしたら自衛隊機の指示を拒否したことも考えられます。
このことを裏付けるようにJAL123便は横田基地に向けて高度を下げつつあったのです。そこで、自衛隊機はJAL123便の前方に出て、飛行進路を遮断するなど妨害し、埼玉・長野・群馬の県境の山岳地帯に向かうよう強引に左旋回飛行指示を出しているのです。
これに対して、JAL123便の機長は、あくまで「ターンライト」を主張して抵抗しています。しかし、結局、横田基地から北方向に向かわされ、御巣鷹山に入っていくことになります。この2機の自衛隊機の存在を肯定すると、JAL123便はエンジンの出力調整によって何とか左旋回できたことになります。
ここで奇妙なことは、JAL123便は何者かにミサイルなどで攻撃され、垂直尾翼を破壊された「被要撃機」になっているという事実です。
この場合、既に述べたように、自衛隊による日本の防空上の規定では、スクランブルをかけられた領空侵犯機と同じ扱いになることです。もし、領空侵犯機がスクランブルをかけた軍用機の指示に従わないときは、攻撃してもよいことになっているのです。
このようにして、JAL123便は、2機の自衛隊機によって御巣鷹山のある山岳地帯に入っていくのですが、どのようにして墜落したのかについては、あとで明らかにするとして、墜落直後の状況について述べることにします。
墜落事故のあった1985年8月12日――私は今でも鮮明に覚えていますが、テレビでは夕方から大騒ぎになり、安否を気遣う乗客の家族や知人が続々と羽田の日航の事務所に押しかけて、ごった返していたのです。
しかし、JAL123便の行方はわからず、つねに日航側の発表は「捜索中」の繰り返しだったのです。私は13日の午前2時頃まで起きていて、テレビを見ていましたが、とうとう朝になるまでわからなかったのです。
しかし、今となって考えると、これは実に奇妙な話なのです。というのは、JAL123便は墜落直後からその場所は特定されており、自衛隊機をはじめ、米軍機もその墜落地点の上空までは行っているからです。
当時の防衛庁長官であった加藤絋一氏は、当日夜、救難ヘリコプター・バートル107で現場上空に飛んでいるのです。これを受けて防衛庁では、13日の午前0時5分から、緊急会議を開いています。出席者は、加藤長官以下、内局幹部、陸幕長、空幕長です。ですから、加藤長官はそれ以前の時間に――午後9時頃ではないかと考えられますが、墜落現場の上空までヘリで視察しているのです。しかし、少なくともそのとき、乗客・乗員の救助は行われていないのです。
もちろんその間テレビでは、相変わらず「捜索中」が繰り返されていたのです。なぜ、発表しないのでしょうか。なぜ、墜落場所が特定できていたのに、なぜ、いち早く救助に向かわなかったのでしょうか。
こういう問いかけに防衛庁、政府関係者は完黙の構えです。だからこそ、JAL123便の墜落事故に自衛隊が深くコミットしていたと考えざるを得ないのです。次章からは、もっと驚くべき事実を出していきます。
11.自衛隊はなぜ米軍の救助を断ったか
1994年9月25日のことです。テレビ朝日「ニュース・ステーション」では、「米軍幻の救出劇」と題して、御巣鷹山日航機墜落事故関連の番組を放映しています。1985年8月12日当日、沖縄嘉手納基地から横田基地に帰投中の米軍C-130輸送機は関東南A空域にさしかかっていたのです。そのとき、同機のマイケル・アントヌッチ航法士(ナビゲーター)は、横田基地からJAL123便の探索命令を受けたので、一帯を捜索した結果、午後7時30分前にJAL123便の墜落現場を確認しています。番組では、マイケル・アントヌッチ航法士が次のようにいっています。
-------------------------
あたりはちょうど夕暮れだったが、地面はまだ見える明るさでした。燻る機体も炎も見えた。
-――アントヌッチ航法士
米軍C-130のジョン・グリフィン機長は、JAL123便の残骸の上空600メートルで旋回飛行をし、横田基地からの位置を測定し、20分後には正確な墜落場所の位置を横田基地に知らせているのです。
午後8時30分になって、横田基地からC-130に再び連絡が入り、「60キロ離れた米陸軍キャンプ座間から救難ヘリUH-1が、そちらに向かっている」と知らせてきたのです。
やがて救難ヘリUH-1は飛来し、乗員2人を下ろそうとして木の梢から15メートルのところまで降下したのです。そのときC-130に横田基地からいきなり「直ちに基地に帰還せよ」という命令が入ったのです。
しかし、ヘリは「救助に入りたい」――と連絡。これに対して横田基地の司令官は「日本側の救助隊が向かっている。繰り返す直ちに基地に帰還せよ」と短兵急に帰還を命じたのです。時刻は午後9時20分――地上に降りかけていたヘリの乗員も再びロープを登ってヘリに戻り、救難ヘリも去っていったのです。そしてC-130は横田基地に帰還するのです。
横田基地で待っていたのは、第316戦術航空団のジョエル・シルズ副司令官――グリフィン機長が報告を終えると、シルズ副司令官は「良くやった。しかし、このことは一切マスコミには話してはいけない」といったといいます。
このヘリの音を生存者の落合由美さんは聞いており、次のようにいっています。
-------------------------
やがて真っ暗闇のなかに、ヘリコプターの音が聞こえたのです。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん、遠くに行ってしまうんです。このときもまだ何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。
―――――――落合由美さんの証言
このように、1994年9月25日の「ニュース・ステーション」は、日本側の都合による米軍救援活動中止要請が事実であることを報道しています。何ということでしょう。米C-130は午後7時30分に墜落場所を特定し、20分後には横田基地に正確な墜落場所を知らせているのです。もちろん日本側にもその時点で伝えられています。
それなのにテレビでは、次の日の朝まで墜落場所を特定できていないと報道しているのです。これは明らかに意図的です。加藤紘一防衛庁長官(当時)にいたっては、12日の夜に墜落場所の上空までヘリで飛来しながら救援を指示せず、次の日の朝まで放置したのです。
C-130の航法士、マイケル・アントヌッチ氏は、『週刊文春』1995年9月28日号でも次のようにいっています。
-------------------------
あの飛行機事故のことは、10年経った今も脳裏に焼き付いて離れない。
JAL123便が管制塔に『緊急』を告げたときたまたま近くを飛んでいた。
現場はすぐに確認できた。
墜落の2時間後には、アメリカ海軍(陸軍?)の救助ヘリが現場に着いた。
あの時、ストップがかからなければ、もっとたくさんの人が助かっていたに違いない。
日本の救援隊が現場に着いたのはその14 時間も経ってからというではないか。
――『週刊文春』1995年9月28日号より。
これに対して防衛庁は、米軍ヘリが墜落現場上空に到着し、救助寸前であったことについて次のように否定の見解を示しているのです。
-------------------------
「米軍ヘリが現場上空に飛来した事実は認められない」 ――――防衛庁
「当時の記録がないので、ノーコメント」
――――米国防総省
そのうえ、自衛隊の松永貞昭中部航空方面司令官(当時)は次のようにコメントしているのです。
-------------------------
「夜間でしかも急斜面への降下は自殺行為である」
-------------------------これに対して、米陸軍救難ヘリのスタッフは次のように反論しています。
-------------------------
「陸軍のヘリにはサーチライトはもちろん、1980年代から、夜間暗視装置を標準装備しており、夜間でも急斜面でも、救急隊員であれば、だれでも降下できる」
-------------------------マイケル・アントヌッチ Michael Antonucci の証言
日航機墜落事故 米軍幻の救出劇 (米軍パイロットの証言)
クリック ↓ でYoutubeを開く
日航機墜落事故 米軍幻の救出劇 (米軍パイロットの証言).flv
日航機123便!10年後に明かされた真実!
クリック ↓ でYoutubeを開く
日航機123便!10年後に明かされた真実!.mp4
その頃、墜落場所付近では奇怪なことが起きていたのです。
12.特殊部隊は墜落現場で何をしたか
JAL123便が墜落したのは、午後6時56分です。それから約1時間後に、上野村三つ岐というところに自衛隊の一団が集結しはじめたのです。その数50人~100人――彼らは何かの合図を待っているように静かに待機していたのです。1985年8月12日のことです。ちなみに、墜落現場から一番近い自衛隊の基地といえば、長野県松本市の陸上自衛隊第13普通科連隊、陸上自衛隊第12師団司令部のある群馬県相馬原の部隊です。しかし、ここに集まってきていたのは、そのいずれでもないのです。
この上野村三つ岐は群馬県にあり、神流川主流に沿って浜平鉱泉・諏訪山方面から御巣鷹山付近へも、または長野県境のぶとう峠方面へもいける交通の要衝に当たります。とくに群馬県側から御巣鷹山付近に行くには最適の待機地点といえます。
午後9時30分過ぎになって、JAL123便の墜落現場――御巣鷹山方向から信号弾が上がったのです。
その信号弾に呼応して、上野村三つ岐に待機していたその自衛隊とおぼしき一団は整然と移動を開始したのです。そして、御巣鷹山の墜落現場に入っていったというのです。
この時刻は、米軍のC-130と救難ヘリが横田基地からの連絡により、乗員・乗客の救出を断念して引き上げた時刻と一致するのです。つまり、米軍が去るのを待っていて、信号弾を打ち上げたと思われます。
彼らはそこで何をしたのでしょうか。はっきりしていることは、救助ではないことです。
その一団の行動は整然として無駄がなく、特殊訓練を受けた部隊のように見えたといいます。おそらくその一団は自衛隊の秘密部隊であると考えられます。どこの国にもそういう部隊は存在し特殊任務を遂行するのです。
もうひとつ重要なことは、JAL123便が墜落した御巣鷹山一帯が、自衛隊特殊部隊の秘密訓練地帯になっていることです。
したがって、墜落場所からそう遠くないところにその秘密部隊の基地があったとしても不思議はないのです。
それにしても、2機の自衛隊機がJAL123便を強引に御巣鷹山付近へ誘導したことといい、墜落場所へ行く絶好の地点に、少なくとも50人を超える人数を午後8時(墜落の1時間後)に集めていることといい、そこに何か意図的というか計画的なものを感じるのです。
池田昌昭氏によると、その秘密部隊は、墜落現場で、機体の前部・中部の様子を入念に調べ、何やら作業をしていたそうです。
そして、スゲノ沢の機体後部付近で、無線交信妨害電波を出しながら、何かをやっていたといわれます。
その時点ではかなりの生存者がいたと考えられますが、そういう生存者の救出は一切行ってはいないのです。まさに見殺しです。
いったいこの特殊部隊は何をしていたのでしょうか。
JAL123便が御巣鷹山に墜落した直接の原因について、池田昌昭氏は恐ろしい仮説を立てています。
それは、自衛隊機のミサイル発射によってエンジン部分が破壊されたことによる墜落という仮説です。あまりにも恐ろしい、考えられない推測であり、にわかには信じられない思いがあります。
しかし、仮にそうであったとすると、ツジツマが合ってくるのです。自衛隊――いや、自衛隊は一応軍隊組織であり、上の命令によって動く存在であるので、「自衛隊を動かしている存在」-つまり、政府としては、どうしても隠さなければならないものがあったのです。
それは、日米でひそかに開発を進めていた巡航ミサイル―――それ自体が極秘であるのに、こともあろうにその演習用ミサイルが、民間機であるJAL123便の垂直尾翼にぶつかってそれを破壊してしまったことです。
しかも、その痕跡がはっきりと破壊された尾翼の跡に残っているということが緊急発進した自衛隊機によって確認されているのです。もし、JAL123便が横田基地や羽田空港などに着陸を試みたとして、大勢の人が亡くなるようなことになったら、その原因が白日の下に晒されることになる――そんなことになったら政府や自衛隊は持たないと考えて不思議はないのです。
この場合、「自衛隊を動かしている存在」によって一番都合が良いのは、JAL123便が、人が容易には近づけない険しい山岳地帯に激突して機体がこなごな に破壊され、垂直尾翼の痕跡もろとも、すべてが隠蔽されることだと思います。
そのため、JAL123便を方向転換させ、自衛隊の特殊部隊の演習場である御巣鷹山付近の山岳地帯に誘導したのです。しかし、JAL123便の機長は、それでも必死の不時着を試みようとしているので、ミサイルを発射して墜落させたのではないかというのです。
「自衛隊を動かしている存在」にとってさらに都合が良いことは、全員が死亡することでしょう。生存者――とくにすべての事情を知る機長をはじめとする操縦クルーに生存者がいることは、「自衛隊を動かしている存在」にとって、致命的になります。
生存者はいない方が良い――これが米軍の救出の申し出をあえて断り、墜落場所が特定されているにもかかわらず、直ちに救出しようとしなかった理由であったとしたら、これほど人の道に外れる行為はないといえます。
仮にそうであったとしたら、墜落現場での自衛隊特殊部隊の任務は、機体の墜落状況の調査、ミサイルで粉砕されたあらゆる痕跡の回収――とくにミサイル痕が残っている遺体の回収、垂直尾翼の痕跡の除去などになります。
とくにコックピット内は、焼き尽くされ、何もなかったし、操縦クルーの遺体はなく、ただ歯が残されているのみという状況であったといわれます。いかに激しく地面にぶつかったとはいえ、遺体の一部は残るはずであるし、コックピット部分には燃料タンクはないのに焼け爛れていたといわれます。それは、まるで火炎放射器で焼いた跡のようであったといいます。機首前部付近では「遺体がない」という声が相次いだといいます。
13.JAL123便ミサイル撃墜の証拠と証言
それでは、JAL123便に対して、どのようにしてミサイルが撃ち込まれたのでしょうか。そのあたりの状況について説明しましょう。JAL123便が墜落する前に、次の3機の自衛隊機が周辺を飛行していたのです。
-------------------------
F-4EJ戦闘機・・・・・2機
F-15J戦闘機 ・・・・・ 1機
JAL123便を御巣鷹山方面に強引に誘導したのは、2機のF-4EJ戦闘機です。しかし、JAL123便に対してミサイルを撃ち込んだのは、あらかじめ、在空していたとみられるF-15J戦闘機なのです。F-4EJとF-15Jは、ともに米国が開発した要撃戦闘機ですが、F-15JはF-4EJの後継機です。
F-4FJ 戦闘機 F-15J 戦闘機
そのときJAL123便は、何とか山中に不時着しようとしていたと考えられるのです。山への不時着ですから、ほとんどは絶望的ですが、かなり多くの生存者が出ることも考えての機長の判断であると思われます。機長をはじめとする操縦クルーは、何が起こっているのかが一番よくわかっていたと思われます。そのため、1人でも多くの生存者を出したいと考えたのでしょう。
しかし、それを隠蔽しようと考える側からすると、少なくとも操縦クルーは生かしてはおけないと考えるはずです。そこで、F-15J戦闘機は、JAL123便が稜線を越えて、人目につきにくい山かげに入るのを見極めて、2発のミサイルを発射したのです。このとき要撃戦闘機とミサイルの航跡を地上から目撃されないように稜線を縫うように実に巧妙にJAL123便の後部にまわり、ミサイルを発射しています。
ミサイルは、赤外線追尾方式であり、1発目はJAL123便のエンジン部分に命中したとみられます。ミサイルの爆破エネルギーは機体の前部と中部を貫通し、その付近の乗客・乗員を機内で粉砕したのです。JAL123便は右旋回しながら、火に包まれながら、真っ逆様に急降下したのです。これを確認して要撃戦闘機は、2発目のミサイルを発射し、とどめをさしています。
しかし、JAL123便の最後の様子は、地上からかなり多くの目撃情報があるのです。墜落事故の翌日、8月13日の埼玉新聞の見出しは「夕やみに"火の玉"」とあります。埼玉県浦和市に住む住民と長野県の川上村住民は次のようにいっています。
-------------------------
マンションのベランダから西空を眺めていたところ、突然雲の透き間から太陽が射すようなオレンジ色の閃光を見た。双眼鏡で覗くと両側から青、真ん中から赤い光を発した大型機が北の方に消えた。
――浦和市に住む住民の目撃証言
埼玉方面から飛んできた飛行機が赤い炎をあげ、やがて黒い煙を残して南相木村の群馬県境に消えた。
――長野県川上村住民
ゴーンという音をさせながら、航空機が低く飛んでいた。長野、山梨、埼玉県境の甲武信岳方面から飛んできて上空を右に旋回して北東の方に行った。まもなくして、雷が落ちるようなバリバリという大音響がし、二度ほどパッパッと光った。そのうちネズミ色のキノコ雲が上がった。墜落したなと思った。
――長野県川上村住民
垂直尾翼を破壊されても、エンジンには支障のない飛行機が火を吹くはずはないのです。しかし、「オレンジ色の閃光」「赤い炎」という証言があり、「パッパッと光る」という証言まであるのです。ちょうど事故の日に、上野村の民宿に泊まっていた東京の会社員も「神流川上流の山あいがピカピカと二度光った」と証言しています。
「パッパッと光る」と「ピカピカと二度光った」については、ミサイル弾がJAL123便に命中したときの閃光と考えることができます。ミサイルが空中で爆発するときは、ミサイルに装填されている火薬が一挙に爆発するために、空気中の分子と猛烈に衝突を起こすのです。そのさいに空気と摩擦を起こし、ちょうど稲妻に似た放電現象が起きるのです。それが、ピカッと目撃された閃光と考えられます。けっして、墜落したときの閃光ではないのです。
長野県南相木村中島地区の住人3人の証言に次のようなものがあります。
-------------------------
飛行機が飛んで行った後から、流れ星のようなものが近くを飛んでいるのが見えた。
――長野県南相木村中島地区の住人3人
ここで「流れ星のようなもの」とは、明らかにミサイルの航跡であると考えられます。
機体がミサイルで爆破されたのではないかと思われるもうひとつの証拠と考えられるのは、乗客・乗員の遺体の損傷があまりにもひどかったということです。 520人のうち、本当にきれいな遺体は10体程度といわれています。
とくに機体の前部については、飛行機らしい形をとどめておらず、アルミホイルを千切ってばらまいたようになっているのですから、遺体もただの肉片になってしまっているのです。山に激突したとはいえ、あれほどにはならない――と専門家もいっているのです。それでいて、機体後部の乗客・乗員のそれは粉砕されていないのです。生存者も機体後部から見つかっています。
それに機体前部では、歯や肉片といえども遺体が発見されていないケースも多々あったといわれています。おそらくミサイルの痕跡を示す遺体はすべて自衛隊の特殊部隊によって持ち去られたのではないかと考えられます。
14.生存者の一人・落合由美さんの証言
離陸してすぐ、私は機内に備え付けの女性週刊誌を読んでいました。女性や子供の姿が多く、いつもの大阪便とはちがうな、という印象はありました。私の席の周囲にも、若い女性の姿が目立った。禁煙のサインはすぐに消えたのですが、着席のサインが消えていたかどうか、はっきりしません。(吉岡忍著「墜落の夏」新潮社より)
そろそろ水平飛行に移るかなというとき、「パ-ン」という、かなり大きい音がしました。テレビ・ドラマなどでピストルを撃ったときに響くような音です。「バーン」ではなくて、高めの「パーン」です。急減圧がなくても,耳を押さえたくなるような、すごく響く音。前ぶれのような異常は、まったく何も感じませんでした。
音は、私のちょっとうしろの天井のあたりからしたように感じましたが、そこだけでなく全体的に広がったように思います。私は思わず天井を見上げました。しかし、振動はまったく感じませんでした。機体も揺れなかった。
お客様からは、「うわっ」という声がした。女の人だと、「きゃっ」という、一瞬、喉に詰まったような声。騒がしくなるとか、悲鳴があがるということはありませんでした。耳は,痛くなるほどではなく、ツンと詰まった感じでした。ちょうどエレベーターに乗ったときのような感じ。しかし、それもすぐに直りました。
「パーン」という音とほとんど同時に、酸素マスクが自動的に落ちてきた。ジャンボの場合、席の数プラス・エキストラのマスクが落ちてくるので、私の座っていた「56」の二席には三つありました。それが機内にいっせいに落ちてきたときは、マスクが、わんわんわん、とバウンドするような感じでした。ひっぱると、酸素が流れだして、口もとの袋がふくらむ。酸素が出てこないのもあったけれど、足りないということはありません。
ただちに録音してあるアナウンスで「ただいま緊急降下中。マスクをつけてください。」と日本語と英語で流れました。マスクのつけ方は、となり同士教えあって、あんがいスムーズにつけていました。
ベルトについての指示はなかった。お客様はまだベルトをしたままでした。煙草をすぐ消すように、という注意はアナウンスでも口頭でもありませんでしたが、禁煙のランプのサインは自動的についたようでした。
あとで気がつくと、離陸してまもなく消えていたはずのサインがついていましたから。
しかし、緊急降下中といっても、体に感じるような急激な降下はありませんでした。急減圧のとき、酸素マスクがおちてくることは、もちろん知っていました。急減圧は何かがぶつかったり、衝撃があって、機体が壊れたときに起きると教わっていましたから、そういうことが起きたのだな、と考えたのですが、しかし、何が起きたのか想像もつきませんでした。酸素マスクが落ちてくる光景は、訓練では見ていますが,実際に経験するのは、もちろんこれがはじめてでした。
やはり「パーン」という音と同時に、白い霧のようなものが出ました。かなり濃くて、前の方が、うっすらとしか見えないほどです。
私の席のすぐ前は、それほど濃くはなかったのですが、もっと前の座席番号「47」「48」あたりのところが濃かったように見えました。ふと見ると、前方スクリーンの左側通路にスチュワーデスが立っていたのですが、その姿がボヤ-ッと見えるだけでした。
その霧のようなものは、数秒で消えました。酸素マスクをして、ぱっと見たときには、もうありませんでした。
白い霧が流れるような空気の流れは感じませんでした。すっと消えた、という感じだったのです。
匂いはありませんでした。こうした白い霧というか、靄のようなものが出るのは、急減圧の場合の現象だ、ということも、もちろん訓練のときに教わっていたことでした。はじめはスチュワーデスもそれぞれの席に座って酸素マスクをしていましたが、しばらくして、お客様のマスクを直したりして、まわっていました。そのときは、エキストラ・マスクをひっぱって、口にあてていました。マスクのチューブは伸ばすと、けっこう伸びます。
三列くらいはひとつのマスクをつけたまま、まわっていたようでした。
このときも、荷物などが飛ぶということもなく、機体の揺れはほとんど感じませんでした。しかし、何が起きたのだろうと、私は酸素マスクをしながら、きょろきょろあたりを見まわしていました。
あとになって、8月14日に公表されたいわゆる『落合証言』では、客室乗務員席下のベントホール(気圧調節孔)が開いた、とありますが、私の座席からはベントホールは見えない位置にあります。ですから、開いたのかどうか、私は確認できませんでした。
きょろきょろしていたとき、私は、トイレの上の横長の壁がほとんど全部、はずれていることに気がつきました。トイレのドアはしまっていましたが、その上の壁がすっぽりはずれて、屋根裏部屋のような感じで見えたのです。壁はちぎれたとか、破壊された、というふうではなく、継目が外れたと言う感じでした。壁のパネルがどこかにいったのかはわかりませんでした。
そして、壁のはずれた向こう側に、運動会で使うテントの生地のようなものが、ひらひらしているのが見えました。オフ・ホワイトの厚地の布のようなものです。ぴんと張ったのでもなく、ヒダの多いカーテンのようでもなく、一枚の布を垂らしたような感じでした。これもあとで整備の人に聞いたのですが、裏のほうには、そういう布があるのだそうです。それが破れたというふうではなく、風にあおられたように、ひらひらしていたのです。
そこから機体の外が見えたとか、青空がのぞいた、ということはありませんでした。
もひとつ、私の頭上の少し前の天井に、整備用の50センチ四方の長方形の穴があって、蓋がついているのですが、その蓋が私のほうに向いて開いていることに気がつきました。壊れたのではなくて、何かのはずみで開いたという感じです。内部は暗く、何も見えませんでした。ただ天井の荷物入れが下に開くということはありませんでした。
このときにはお客様は全員、酸素マスクをつけていましたから、しゃべったりはしませんでした。酸素マスクをして、呼吸するのに懸命で、とても会話どころではなかったのかもしれません。でも、とても不安そうにして、きょろきょろしたり、窓の外を見たりしていました。赤ちゃんの泣き声がしたかどうか、覚えていません。
いつ点灯したのか気付きませんでしたが、「EXIT」と「非常口」を示す、エマージェンシー・ライトはついていました。座席上の空気穴から空気が出ていたのかどうか、記憶にありません。ライトをつけていて人がいたかどうかも、覚えていないのです。時間的にはそろそろ暗くなるときですから、つけていてもおかしくないのですが、気がつきませんでした。
こうしているあいだも、飛行機が降下している感じは、ほとんどありませんでした。ゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは、酸素マスクをして、しばらくしてからです。
「パーン」という音から、たぶん10分くらいしてからのように思います。このころになって、酸素マスクをはずしてみても、苦しさは感じませんでした。ただ、ほとんどのお客様がマスクをしていましたが。
ダッチロールという言葉は、知りませんでした。飛行機はあいかわらず旋回をくり返すように左右の傾きをつづけます。振動などは全然ありません。とにかく、くり返し、左右に傾いているという揺れ方がつづきました。急な動きとか、ガタガタ揺れるというのでもなく、スローです。だんだん揺れが激しくなるというのでもありません。
私の席に近い左の窓から見えたのは、まっ白な雲だけでした。かなり厚い雲で、地上は見えませんでした。
お客様は窓の外を眺めたり、なかにはスチュワーデスに「大丈夫か」とたずねる方もいました。機内の様子は、あわただしい雰囲気とかパニックなどということではなく、この段階では、まだ何とかなるんじゃないか、という気持ちがあったように思います。ただ、コックピットからの連絡は何もなくて、みんな不安な表情ではあったのです。
そのうちに酸素が出なくなりました。いつだったか、私がフライトをしていたとき、お客様から、酸素マスクは何分くらいもつのか、とたずねられたことがありました。全員が吸った場合、18分くらい、と計算したことがあります。そのくらいの時間が経過していたのかもしれません。でも、ほとんどのお客様は、そのままマスクをしていました。
ちょうどそのころになって、私のうしろのL5(最後部左側)ドア受持ちのスチュワーデスが、まわりのお客様に「座席の下にある救命胴衣を取りだして、つけてください」という指示を出しました。その指示がどこからきたのか、わかりません。ふだんのコックピットからの連絡はチーフ・パーサーを通じて各スチュワーデスに伝えられたり、急な場合は、乗務員席の電話が全部コックピットと同時につながって受けることができる「オール・コール」でくるのですが、今度の場合は、それはありませんでした。ライフ・ベストをつけるように、という指示は、機内アナウンスではなく、スチュワーデスの口頭で行っていました。まず、スチュワーデスが着用して、このようにつけるんです、と教えながら、座席をまわることになっています。今度も、そうしていました。
前のほうでも、いっせいにベストの着用がはじまっている様子が見えました。スチュワーデスは口頭で、座席ポケットのなかにある『安全のしおり』を見て,救命胴衣をつけてください、と言いながらまわりはじめました。私はすぐに座席下から救命胴衣をひっぱりだして頭からかぶりました。
私は羽田にもどれればいいな、と感じていました。しかし、まだ雲の上で、高度も高いし、ちょっと無理なんじゃないかな、とだんだん不安になってきました。
しかし、ライフ・ベストが座席の下にあることがわからないお客様や、わかっても、ひっぱって取りだすことがわからないお客様も少なくありませんでした。私の近くにも、ベストの場所がわからなくて、取り乱している若い女性のたちがいました。そのときになって私は、席を立って、お客様のお手伝いをはじめたのです。お客様はこのときはじめて、座席ポケットのなかの『安全のしおり』を取りだしました。
私が席を立ったとき、となりの窓際の席にいた男性のKさんが「スチュワーデスの方ですか」と、声をかけました。私は「はい、そうです」と答えて、Kさんが救命胴衣をつけるのをお手伝いしました。とても冷静な方でした。ご自分のをつけ終わると、座席から手を伸ばして、前後のお客様の着用を手伝ってくださったのです。
私は通路に出て、L5のスチュワーデスの受持ちのお客様のお手伝いをして歩きました。彼女が私の席よりうしろのほうをまわり、私は、前のほう二列分くらいの左右のお客様を指示してまわりました。
しかし、このころになると、機体の揺れは、じっと立っていられないほどでした。激しい揺れ、というのではなくて、前と同じように、左右に傾く揺れなのですが、その角度が大きくなって、座席につかまって二、三歩、歩いて、お客様の座席の下のベストをひっぱって、ちょっと座って、また二、三歩という感じでした。まっすぐ歩いて、あたりを見てまわる、ということはもうできません。
救命胴衣は飛行機が着水して、外に脱出してからふくらませることになっています。機内でふくらませてしまうと、体を前に曲げて、膝のあいだに頭を入れる安全姿勢がとれないからです。しかし、私の席の周囲では、ふくらませてしまったお客様が、四、五人いました。男の人ばかりです。
こういう場面になると、女の人のほうが冷静なようです。泣きそうになっているのは男性でした。これはとても印象深かったことです。ベストをふくらませてしまった若い男性が「どうすればいいんだ」と弱気そうな顔でおっしゃるんですが、ふくらませてしまったのは仕方ないですから、そのままでいいですと、安全姿勢をとっていただきました。ひとりの方がふくらませると、そのとなりのお客様もふくらませてしまう。他のスチュワーデスも私も、それに私のとなりのKさんも、「ふくらませないで!」と叫びました。
機内にはまだいくらかの空席がありました。ひとりだけポツンと座っている人は、不安になったんだと思います。救命胴衣をつけているあいだに、席を詰めて、固まるようになりました。
私は何も聞かれませんでしたが、制服を着ていたスチュワーデスはお客様からいろいろ質問されました。
「どうなるんだ」「大丈夫か」「助かるのか」。聞いていたのは男の方ばかりでした。家族連れの女性は、男の方が一緒だったせいでしょうか、そういう場合でも、男の人がいろいろ質問していました。
スチュワーデスはお客様に不安感を与えないように、できるだけ冷静に行動していました。いろいろ聞かれても、「絶対大丈夫です。私たちはそれなりの訓練も受けています。絶対大丈夫です。」と答えていました。
そのせいもあって、客室内がパニックに陥るようなことがなかったのだと思います。ただ、笑顔はもうなく、彼女たちの顔も緊張していたのですが。赤ちゃん用の小さいライフ・ベストが上の棚にあるのですが、このときにはもう、それを取りだす余裕はなく、大人用のベストをつけたと思います。
子供の声が聞こえました。「おかあさーん」という声。大きくはなかったのですが、短い叫びのような声でした。大人のお客様は叫んだり、悲鳴をあげたりすることはありませんでした。声も出なかったのかもしれません。不安と緊張の機内でした。
全員が救命胴衣をつけ終わるまでに五、六分かかりました。つけ終わった方は、となりの方を手伝ったりしていました。救命胴衣をつけているあいだに、スチュワーデスの声でアナウンスがあったのです。正確には覚えていませんが、「急に着陸することが考えられますから」というような内容です。それと、「管制塔からの交信はキャッチできています」とも言っていました。私の想像では、二階席のアシスタント・パーサーが操縦室に入って、様子を聞いてきたのではないかと思います。落着いた声でした。
揺れはいっそう大きくなりました。もう立っていることはできないほどです。救命胴衣をつけ終わってすぐに、ほとんどいっせいに安全姿勢をとりました。そのときには、眼鏡をはずしたり、先のとがったものは座席ポケットにしまったりとか、上着があれば、衝撃の際の保護になるように着用してください、と指示するのですが、そんな時間的余裕はありませんでした。
私は「56C」にもどりました。L5のスチュワーデスは通路をはさんでふたつうしろの空席に座りました。安全姿勢は、頭を下げ、膝の中に入れて、足首をつかむんです。うしろのスチュワーデスも私も、席に座って大声で何度も言いました。「足首をつかんで、頭を膝の中に入れる!」「全身緊張!」。全身を緊張させるのは、衝撃にそなえるためです。こういうときは、「・・・してください」とは言いません。
お相撲さんや、妊娠してお腹の大きい女性の場合、腰をかがめるのは苦痛ですから、逆に背中を伸ばして、脚でしっかり床を踏み、椅子の背に上体を押しつける安全姿勢のとり方があるのですが、このときにはそういう姿勢をしているお客様はいませんでした。
安全姿勢をとる直前、私はとなりのKさんに言いました。「緊急着陸して、私がもし動けなかったら、うしろのL5のドアを開けて、お客様をにがしてやってください」と。Kさんは「任せておいてください」と、とても冷静な声で言いました。Kさんと言葉をかわしたのは、これが最後です。
そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。このルートを飛ぶときに、もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた富士山は、すうっと後方に移動していきます。富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。
頭を下げながら機内をちらっと見ると、たくさん垂れている酸素マスクのチューブの多くが、ピーンと下にひっぱられているのが見えました。マスクをつけたまま安全姿勢をとったお客様が大半だったのかもしれません。安全姿勢をとった座席のなかで、体が大きく揺さぶられるのを感じました。船の揺れなどというものではありません。ものすごい揺れです。しかし、上下の振動はありませんでした。前の席のほうで、いくつくらいかはっきりしませんが女の子が「キャーッ」と叫ぶのが聞こえました。聞こえたのは、それだけです。
そして、すぐに急降下がはじまったのです。まったくの急降下です。まっさかさまです。髪の毛が逆立つくらいの感じです。頭の両わきの髪がうしろにひっぱられるような感じ。ほんとうはそんなふうにはなっていないのでしょうが、そうなっていると感じるほどでした。
怖いです。怖かったです。思いださせないでください、もう。思いだしたくない恐怖です。お客様はもう声もでなかった。私も、これはもう死ぬ、と思った。
まっすぐ落ちていきました。振動はありません。窓なんか、とても見る余裕はありません。いつぶつかるかわからない。安全姿勢をとりつつ"けるしかけるしかない。汗をかいたかどうかも思いだせません。座席下の荷物が飛んだりしたかどうか、わかりません。体全体がかたく緊張して、きっと目をつむっていたんだと思います。「パーン」から墜落まで、32分間だったといいます。でも、長い時間でした。何時間にも感じる長さです。羽田にもどります、というアナウンスがないかな、とずっと待っていました。そういうアナウンスがあれば、操縦できるのだし、空港との連絡もとれているのだから、もう大丈夫だって。でも、なかった。
衝撃がありました。
衝撃は一度感じただけです。いっぺんにいろんなことが起きた、という印象しか残っていません。回転したという感じはありません。投げだされたような感じです。衝撃のあとも安全姿勢をとっていなければいけないのですが、私はもう怖くて、顔をあげた。その途端、顔にいろんなものがぶつかってきました。固いもの、砂のようなものがいっぺんに、です。音は、まったく記憶にありません。音も衝撃も何もかもが一度に起きたのです。
衝撃が終わったあとは、わーっと埃が舞っているようでした。目の前は、もやーっとしているだけです。墜落だ、と思いました。大変な事故を起こしたんだな、と思ったのは、このときでした。
すごく臭かった。機械の匂いです。油っぽいというより、機械室に入ったときに感じるような機械の匂いです。
体は、ちょうど座席に座っているような姿勢です。左手と両脚は何か固いものにはさまれていて、動かせません。足裏は何かに触っていました。それほどの痛みはなく、もうぐったりしているという感じです。
目には砂がいっぱい入っていて、とくに左の目が飛び出してしまったように、とても熱く感じました。失明するだろうな、と思っていました。これはあとで知らされたのですが、左右どちらかわかりませんが、コンタクト・レンズがどこかへ飛んでしまったのか、なくなっていました。すぐに目の前に何かあるんですが、ぼやーっとしか見えません。灰色っぽい、夕方の感じなのです。耳にも砂が入っていたので、周囲の物音もはっきりとは聞こえていなかったのではないかと思います。
呼吸は苦しいというよりも、ただ、はあはあ、とするだけです。死んでいく直前なのだ、とぼんやり思っていました。ぐったりして、そのとき考えたのは、早く楽になりたいな、ということです。死んだほうがましだな、思って、私は舌を強く噛みました。苦しみたくない、という一心でした。しかし、痛くて、強くは噛めないのです。
墜落の直後に、「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく、何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。
「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。
次に気がついたときは、あたりはもう暗くなっていました。どのくらい時間がたったのか、わかりません。すぐ目の前に座席の背とかテーブルのような陰がぼんやり見えます。私は座ったまま、いろんなものより一段低いところに埋まっているような状態でした。左の顔と頬のあたりに、たぶんとなりに座っていたKさんだと思いますが、寄りかかるように触っているのを感じました。すでに息はしていません。冷たくなっていました。
シート・ベルトはしたままだったので、それがだんだんくいこんできて、苦しかった。右手を使って、ベルトをはずしました。動かせたのは右手だけです。頭の上の隙間は、右手が自由に出せる程度でしたから、そんなに小さくはなかったと思います。右手を顔の前に伸ばして、何か固いものがあったので、どかそうと思って、押してみたのですが、動く気配もありません。それを避けて、さらに手を伸ばしたら、やはり椅子にならぶようにして、三人くらいの方の頭に触れました。パーマをかけた長めの髪でしたから、女性だったのでしょう。
冷たくなっている感じでしたが、怖さは全然ありません。
どこからか、若い女の人の声で、「早くきて」と言っているのがはっきり聞こえました。あたりには荒い息遣いで「はあはあ」といっているのがわかりました。
まだ何人もの息遣いです。
それからまた、どれほどの時間が過ぎたのかわかりません。意識がときどき薄れたようになるのです。寒くはありません。体はむしろ熱く感じていました。私はときどき頭の上の隙間から右手を伸ばして、冷たい空気にあたりました。
突然、男の子の声がしました。「ようし、ぼくはがんばるぞ」と、男の子は言いました。学校へあがったかどうかの男の子の声で、それははっきり聞こえました。さかし、さっき「おかあさーん」と言った男の子と同じ少年なのかどうか、判断はつきません。
私はただぐったりしたまま、荒い息遣いや、どこからともなく聞こえてくる声を聞いているしかできませんでした。もう機械の匂いはしません。私自身が出血している感じもなかったし、血の匂いも感じませんでした。
吐いたりもしませんでした。
やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちゃいやって、一生懸命振りました。「助けて」「だれか来て」と、声も出したと思います。ああ、帰って行く・・・・・。
このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。しかし、男の子や若い女の人の声は、もう聞こえてはいませんでした。
体は熱く、また右手を伸ばして冷たい風にあたりながら、真暗ななかで、私はぼんやり考えていました。私がこのまま死んだら主人はかわいそうだな、などと。父のことも考えました。母親が三年前に亡くなっているのですが、そのあとで私が死んだら、とても不幸だ、と。母は私がスチュワーデスになったとき、「もしものことがあったときは、スチュワーデスは一番最後に逃げることになっているんでしょ。そんなこと、あなたに勤まるの?」と、いくらかあきれた口調で言っていたものです。それからまた、どうして墜落したんだろう、ということも考えました。時間がもう一度もどってくれないかなあ、そうすれば今度は失敗しないで、もっとうまくできるのに。いろんなことが次々と頭に浮かびました。
涙は出ません。全然流しませんでした。墜落のあのすごい感じは、もうだれにもさせたくないな。そんなことも考えていました。そして、また意識が薄れていきました。
気がつくと、あたりはあかるかった。物音は何も聞こえません。まったく静かになっていました。生きているのは私だけかな、と思いました。でも、声を出してみたんです。「がんばりましょう」という言葉が自然と出てきました。返事はありません。「はあはあ」いう荒い息遣いも、もう聞こえませんでした。
あとで吉崎さん母子や川上慶子ちゃんが助かったと聞きましたが、このときにはその気配を感じませんでした。たぶん、それから私は眠ったのだと思います。
風をすごく感じたのです。木の屑やワラのようなものが、バーッと飛んできて、顔にあたるのを感じました。
はっと気がついたら、ヘリコプターの音がすぐそばで聞こえる。何も見えません。でも、あかるい光が目の前にあふれていました。朝の光ではなくて、もっとあかるい光です。
すぐ近くで「手を振ってくれ」だったか「手をあげてくれ」という声が聞こえたのです。だれかを救出している声なのか、呼びかけている声なのか、わかりません。私は右手を伸ばして、振りました。「もういい、もういい」「すぐ行くから」と言われました。
そのすぐあとで、私は意識を失ったようです。朦朧としながら、ああ、助かったな、助かったんだ、とぼんやり考えていました。どうやって埋まったなかから救出されたのか、どうやって運ばれたのか、まったく覚えていません。
体の痛みも、空腹も感じませんでした。ただ、喉が渇いたのを覚えています。カラカラでした。お水が飲みたい、お水が飲みたい、と言っていたというのですが、私は記憶していないのです。応急処置をしてくれた前橋の日赤病院の婦長さんが、あとで「あのときは打ちどころがわるかったりするといけないから、あげられなかったのよ」といわれましたが、水を飲みたいと言ったことはまったく覚えていないのです。
目を開けたら、病院でした。お医者さんから「ここはどこだか、わかりますか」と聞かれて、奇妙な返事をしました。「はい、二、三回きたことがあります」って。そんな馬鹿な、と自分では思っているのですが、わかっていながら、そんなふうに答えていました。頭がおかしいんです。でも、電話番号は正確に答えていました。「ここは群馬県だよ」とお医者さんは言いました。どうして群馬県にいるんだろう、と思いました。それで、あ、あのとき飛行機が落ちて、そこからきっと群馬県が近いんだな、とだんだん考えるようになりました。
家族がきていると教えられたとき、えーっ、と思いました。飛行機がおちたことはわかっているのですが、どうしてここまで家族がきているのだろうと、不思議で仕方ありませんでした。現実感がなかなかとりもどせないのです。
たぶん、このときだったと思いますが、「何人助かったんですか」と聞きました。お医者さんが「四人だよ。
全部女の人ばかり」と教えてくださいました。それしか助からなかったんですか、と思いながら、「へえーっ」と言いました。大変な事故を起こしてしまったんだと、また感じました。
天井しか見えませんでした。酸素マスクをして、じっと天井を見ながら、一緒に千歳からもどってきて、同じ飛行機に乗った松本さんはどうなったのだろう、と考えました。私もほんとうはもう助からなくて、死んでいくところなんだ、などとも考えていました。百幾針も縫ったのに、痛みは感じません。麻酔をしていたせいだと思いますが、でも、あとで看護婦さんに聞くと、「痛い、痛い」と言っていたようです。
救出された日の午後3時過ぎ、夫と父と叔父が病室に入ってきました。私は「四人しか・・・・・」と口にしたのですが、夫はすぐに「しゃべらなくていいから」といいました。
落合由美さんは日本航空の客室乗務員。当日は非番で123便に乗り合せていました
公開されたボイスレコーダの内容がカット、修正など改変されている疑いがあり、重要な記録が隠されている可能性も考慮してご覧ください!
尾翼にぶつかる直前の切迫していたであろうコックピット内の音声(管制塔との交信も含む)--> コメント欄
下図をクリックすると動画が開きます。 (ご注意: ダウンロードにはだいぶ時間がか かるので、クリック後はそのままでお待ちください。
図の右上あたりに、Now Loarding と赤色の横バーが伸びていきます。100%になるまでそのままお待ちください。
一度、ローディングすると2回目の再生はすぐに始まります。コンピュータ内部のキャッシュデータが削除されないかぎり )
※ファイルが消されるのでリンク先を変更しました。
一部再掲
長野県警が翌朝05:37に確認。
生存率が極端に低下するので一秒一刻を争うときだったのに、救助隊が10時間以上も現場から遠ざけられてしまった。
『日本航空123便ジャンボジェット墜落事故の真実を求めて(御巣鷹山、日航機墜落の真相)~自民党時代にはできなかった政府による真実の追究ができるようになるか』サイトから一部引用させて頂く。 --> こちら
この中の表で自衛隊がいかに墜落位置の誤報を繰り返したかがよくわかり、意図的にやったとしか思えない。
(特に長野県警が確認した後も誤報を繰り返し発表している)
(朝になって長野県警のヘリが正確に位置を確認しており、自衛隊の7回中、6回が誤報:生存者を発見したのも長野県レスキュー隊で自衛隊はそれまで何かを運び出すのに精一杯)
所属 | 機種 | 離陸時刻 | 到着時刻 | 火災の報告 | 残骸 | 救助 | 位置 | 帰還時刻 | 帰還理由 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
米軍 | C-130 | 沖縄から飛行中 | 19:15 | 大規模火災 | 確認 | 降下 | 横田から305度、35マイル | 21:20 | 自衛隊に交替 | |
空自 | F4戦闘機 | 19:01 百里基地 | 19:21 | 災を確認 | - | - | 横田タカンから300度、32マイル | 誤報 | ||
空自 | V-107ヘリ | 19:54 百里基地 | 20:42 | 山腹炎上 | - | - | 横田タカンから299度、35.5マイル | 30分後 | 近づくと危険 | |
空自 | V-107ヘリ | 00:36 入間基地 | 01時頃 | - | - | 入間から291度、36.3マイル | 誤報 | 近づくと危険 | ||
空自 | V-107ヘリ | 00:36 入間基地 | 01:35 | - | - | ぶどう峠から210度、3マイル | 誤報 | |||
空自 | V-107ヘリ | 立川基地 | 04:39 | - | 発見 | - | 三国山の西3km、扇平山の北1km | 誤報 | ||
陸自 | OH6ヘリ | 立川基地 | 05:10 | - | 確認 | - | 御座山の東5km | 誤報 | ||
長野県警 | ヘリ | 05:37 | - | 確認 | - | 御巣鷹山 | ||||
陸自 | 05:45 | - | 発表 | - | 御座山の東7km、南4km | 誤報 | ||||
陸自 | V107(6機) | 07:54 習志野 | 08:49 | - | - | 開始 | (10:19 約70名全員のリペリング完了) |
横田タカン・・・横田TACAN(無線位置標識)を表す。そこから例えば磁方位300度、32マイル(約51キロ)などと表現。
【こちらは秀逸なコメントです。本文の中に掲載します】
機長らクルーはなにが起きるかが予測できていたので、
即座に「スコーク77をセット」できた・・・
という鋭い考察です。
またあの日が近づいてきました。
事故直前まで米軍の横田空域を避ける通常のルートでしたが、
事故後羽田へ帰還するルートは横田空域内を通過して
います。スコーク77で自衛隊機がスクランブルしたと
思われますが、それを含めて自衛隊機と横田基地との
交信が殆ど開示されていません。軍事機密ということ
なのでしょうが、外部から見た機体の状況など機長には
つぶさに報告されていたはずです。横田空域ですので
米軍機にも何らかの動きがあったでしょう。
情況証拠を考察すると、
1.機体に何らかの損傷はあったが、客室与圧調整系でまかなえる程度の損傷だった
2.機体の損傷で一瞬減圧したがすぐに与圧が回復。そのため高度を下げる必要がなかった
3.1、2により圧力隔壁の大規模な破壊はない
4.3により隔壁破壊による尾翼の損傷も根拠のないものに
常識的に考えられる事故のシナリオは、垂直尾翼の破壊(原因不明)→客室減圧(すぐに回復)→操舵制御系が不能
発表された飛行ルートを見ますと、富士山あたりまでは
あきらかに羽田に向かっています。ところがそこから
横田基地へ進路変更します。大月山で旋回しながら急降下
して着陸の準備とも取れる飛行をしています。これを見ますと
飛行機はかなりのレベルでコントロールが可能であったことが
わかります(もちろん機長と副操縦士が最大限の努力をしていました)。
ところが横田基地直前で御巣鷹山方面に進路変更します。
まるで山へ不時着しろとでも言われたように・・・。
生存者の一人・落合由美さんの証言に「パーン」という「音」がした
とあります。ところが機長はその異音をすぐに「爆発したぞ」と
わかりスコーク77をセットしました。これも不自然ですね。
いかに危機管理に優れた人でも、予期せぬ事象を即断することは
不可能です。最低限計器類のチェック&乗務員への確認を行う
はずです。
常識的に考えられることは、
1.機長&クルーは何が起こるかを予期していた
2.それは爆発を伴うものと認識していた(実際に爆発したか不明)
3.異音発生とほぼ同時にスコーク77をセットした
私の妄想ですが、やはり123便の事故は自衛隊存続か民間人救出かを天秤にかけて
自衛隊存続が選ばれてしまった結果ではないかと思います。尻もち事故による
隔壁修理という事故調にとって救いとなる記録が発見され、自損事故へ急展開
していきます。軍事機密(隊員は公務員ですから公務員法の適用なんですけどねw)
ですから、日本がある限り真相は表にでないでしょう。残念ですが。
犠牲になった人たちのご冥福をお祈りいたします。
投稿者 彼岸花 : 2012年7月13日 17:38
カテゴリ_JAL123日航機墜落
■ JAL123墜落事件 ~誤報ではなかった、自衛隊員射殺 --> こちら 2022年1月26日
■ JAL123墜落事件 ~アクセスが依然として続き、異例の状況になっている・・2 --> こちら 2021年11月 4日
■ JAL123墜落事件 ~アクセスが依然として続き、異例の状況になっている・・ --> こちら 2021年10月3日
■ JAL123便墜落事件 ~毎年この時期、アクセスが急増する --> こちら 2021年8月13日
■ あれから36年、JAL123日航機墜落事件 ~その時にはわかっていたんじゃないか --> こちら 2021年7月3日
■ 「日航123便墜落の真相を明らかにする会」設立 ~究明=自民党政権を終わらせる事 --> こちら 2020年8月10日
■ ボイスレコーダーも改竄 ~JAL123墜落事件、あれから35年 --> こちら 2020年8月9日
■ 3秒前「バシッと言う落雷のような強烈な音」 ~JAL123撃墜・・・ --> こちら 2019年8月14日
■ JAL123 ~1985年8月12日、当日のNHKニュース速報テロップ --> こちら 2019年8月13日
■ JAL123便墜落事件 ~事故調報告書が土台から崩壊 --> こちら 2019年8月12日
■ 【 二度焼き 】骨まで炭化、異常燃焼 ~JAL123墜落事件 --> こちら 2019年8月9日
■ あれから34年 ~JAL123日航機墜落事件 --> こちら 2019年7月27日
■ JAL123日航機墜落 ~唐突感ぬぐえない記事 --> こちら 2018年8月12日
■ 【 JAL123便 日航機墜落 】8月で34年に ~新政権樹立でケリつきます --> こちら 2018年6月23日
■ あれから33年 ~JAL123便 日航機墜落 --> こちら 2017年9月12日
■ これで打ち止めにしたい・・・ 日航ジャンボ機事故 空白の16時間 ~"墜落の夜"30年目の真実~ --> こちら 2015年8月12日
■ JAL123便、あれから31年目に ~物理現象としての検証が欠かせないが無視されたまま --> こちら 2015年8月1日
■ JAL123便 日航機墜落事故の真相 --> こちら ホームページFC2サイト 2009.11.1 初版
■ マレーシア航空墜落報告書 ~何も記録されてないといいながらブラックボックス開示拒否 --> こちら 2014年9月 9日
■ アナログ音源を波形化して見せ、圧力隔壁破壊だと決めつける・・ ~ぶっ飛びの脚本 --> こちら 2014年8月13日
■ 「ドーン、ドーン、ドーン」3回の爆発音 ~JAL123 日航機墜落30年目 --> こちら 2014年8月12日
■ あれから28年、デタラメな事故調査報告書 ~日航ジャンボ123便、墜落 --> こちら 2013年8月11日
■ ボイスレコーダー CVR ~4チャンネルで記録されていたとは・・・ --> こちら 2012年8月14日
■ 日航ジャンボ123便、墜落 27年周年 ~あのとき何が行われていたのか --> こちら 2012年8月12日
■ 隠された全ての証拠こそ公開を ~日航123便墜落の真相究明 --> こちら 2011年8月12日※リンクミス訂正しました。ご迷惑おかけしました。2021/07/09
■ あれから26年、いつまでも隠せない ~日航ジャンボ123便、墜落の真相 --> こちら コメント欄、追加しました。 2011年7月29日
■ 「こんな不正があるわけがない」 沈まぬ太陽 ~JAL社内報で批判 --> こちら 2010年10月12日
■ 日航ジャンボ123便、墜落 ~原因が未だ解明されてない --> こちら 2010年8月14日
■ 大惨事の原因を安全管理に結び付けたがっている ~日航ジャンボ機墜落 --> こちら 2010年8月12日
■ 日航ジャンボ123便、墜落 ~あれから25年 --> こちら 2010年8月10日
■ 御巣鷹 日航機墜落21年 JAL123便 事故だったのか!? --> こちら 2006年10月 3日
--------------------------------------------------------------------------
【 ワタナベ動画 】2022.1.27追記
52.【日航機墜落事故52】あの出来事が確信に --> こちら
51.【日航機墜落事故51】報告書には大きな見落としがある。エンジニア佐藤氏が解説する日航機墜落事故。 --> こちら
50.【日航機墜落事故㊿】徹底アンチテーゼ。エンジニア佐藤氏が根拠をもって解説する噂の真相。 --> こちら
49.【日航機墜落事故㊾】大きな局面に突入するから、その前に確認しておくよ。 --> こちら
48.【日航機墜落事故㊽】皆がこのチャンネルを見る理由 --> こちら
47.【日航機墜落事故㊼】本当に危険な領域へ --> こちら
46.2021年12月17日【日航機墜落事故㊻】川原機長が伝える真実コックピットから見た123便 --> こちら
45.【日航機墜落事故㊺】この不自然は現場の人間しか分からない --> こちら
44.【日航機墜落事故㊹】「あのですね、、、、」パイロットから見た黒田説とは --> こちら
43.【日航機墜落事故㊸】潰されるその日まで --> こちら
42.【日航機墜落事故㊷】小象の鎖、この世界に正義は存在するのか? --> こちら
41.【日航機墜落事故㊶】闇に蠢くもの、その正体とは? --> こちら
40.【日航機墜落事故㊵】ご遺族による証言と資料提供、その思いとは。 --> こちら
39.【日航機墜落事故㊴】本当の事、話します。だから目は瞑れない。 --> こちら
38.【日航機墜落事故㊳】新たな交信記録。一つ一つを探し出し、一つ一つを積み重ねたその先に。 --> こちら
37.【日航機墜落事故㊲】遺族の気持ち。裁判で真相解明する日 --> こちら
36.【日航機墜落事故㊱】内容は予告なく削除又は変更される恐れがあります --> こちら
35.【日航機墜落事故㉟】この指摘が波紋になる123便の機影を追う今夜公開予定 --> こちら
34.【日航機墜落事故㉞】目の前の人が豹変する時 --> こちら
33.【日航機墜落事故㉝】何が最悪の事態それは何も変わらないこと闇の淵_ --> こちら
32.【日航機墜落事故㉜】本気で突っ込んでいきます確信に迫る宣言 --> こちら
31.【日航機墜落事故㉛】あの時現場上空から降りようとした救難隊員達 が見た光景 --> こちら
30.【日航機墜落事故㉚】刻一刻と真相へと向かう事実の積み重ね --> こちら
29.【日航機墜落事故㉙】どんな説もこの質問には答えてない --> こちら
28.【日航機墜落事故㉘】ご遺族が危険を顧みず中傷覚悟で告白するその意味を知ってください --> こちら
27.【日航機墜落事故㉗】その告白は思いもよらぬ暴露を含んでいた_ --> こちら
26.【日航機墜落事故㉖】特定した情報の出所 --> こちら
25.【日航機墜落事故㉕】このチャンネルについて勇気ある者の告白 --> こちら
24.【日航機墜落事故㉔】田中氏の執念と関係者の秘めた想いが語られ始めた --> こちら
23.【日航機墜落事故㉓】無音だったはずの交信記録消されたボイスレコーダー --> こちら
22.【日航機墜落事故㉒】ネット上で囁かれる噂について。政党から受けた追及 --> こちら
21.【日航機墜落事故㉑】空白の2分間。一縷の望み、123便は緊急着陸が可能だったのか --> こちら
20.【日航機墜落事故⑳】池上彰氏からの返答 --> こちら
19.【日航機墜落事故⑲】伝えるなら今しかない --> こちら
18.【日航機墜落事故⑱】なぜ隠した?皆が知る著名な関係者 --> こちら
17.【日航機墜落事故⑰】今まで謎だった報道の真相を追及へ --> こちら
16.【日航機墜落事故⑯】違法。返却を拒否されているビデオテープが存在していた。 --> こちら
15.【日航機墜落事故⑮】警察医が気づいた事。科学は証明している。 --> こちら
14.【日航機墜落事故⑭】当初ボーイングも日航も圧力隔壁説を認めていなかった。 --> こちら
13.【日航機墜落事故⑬】空中を飛び衝突した物は --> こちら 12.【日航機墜落事故⑫】やはり垂直尾翼に何かが当たっていた --> こちら
11.【日航機墜落事故⑪】あの日、裏では何が起こっていたか --> こちら
10.【日航機墜落事故⑩】36年目に明かされるのは真実と事実 --> こちら
9.【日航機墜落事故⑨】やはり事故調はおかしい --> こちら
8.【日航機墜落事故⑧】レコーダーに謎の物音が入っていた!新しい発見があります。 --> こちら
7.【日航機墜落事故⑦】警報音の謎を解明しました。 --> こちら
6.【日航機墜落事故⑥】※ガイドラインにより年齢制限かけられました。 --> こちら
5.【日航機墜落事故⑤】事故調査の不自然だらけの挙動 --> こちら
4.【日航機墜落事故④】誰も言わなかった墜落後の事。元機長の指摘 --> こちら
3.【日航機墜落事故③】元機長が否定する事故原因 --> こちら
2.【日航機墜落事故②】元機長が今、新事実を語り始めた --> こちら
1.【日航機墜落事故①】元機長が今、分析する事故の真実 --> こちら
https://note.com/ohlly6915/n/n07c6e9dc7dfe
日航機123便墜落事故(事件)①〜事故調発表の飛行ルートとは異なる、相模湖付近上空を飛んだという飛行ルートを再度確認、認識する
わが国の航空史上最大最悪の事故にして、いまだ謎に満ち溢れた日航機123便墜落事故(1985年8月12日)。昨今は周知のようにネットやYouTubeでは様々な検証考察がなされているが、今一度確認、認識しておきたい点のひとつが、その飛行ルートだろう。
というのも、事故調(事故調査委員会)が発表したルートには決定的に漏れている(避けられている)箇所があるから。
お馴染み、同事故検証考察YouTube「ワタナベケンタロウ動画」における指摘で、あらためて浮き彫りになったが(上記画像2点は同動画より)、墜落の10分強前の18時46分06秒に123便は相模湖上空付近を飛んだことが、公開されたボイスレコーダーからわかっている(ボイスレコーダー改ざんによる18時44分〜45分ぐらい説もあり)。地図的にいうと、大月市からほぼ真東の場所に位置する湖(下地図。右端に位置するのが相模湖)。なぜかくだんの事故調の飛行ルートを見ると、大月での旋回以降、北東へ向かっていることになっている。
「相模湖上空」が避けられている理由、推論は、「ワタナベケンタロウ動画」の「日航機墜落事故㉟」編で詳しく言及されている。考察しているのは、生体力学、材料工学専門家にして、近代史研究家の黒田匠氏。
詳細は同動画を見ていただくとして。すでに方々で言及、拡散されているはずで、それを踏まえてここでも記させていただくと、横田着陸を試みるべく、相模湖側から回ったものと思われる。再度、黒田氏が想定する経路を見てみると――。
大月→相模湖→八王子→昭島→福生(横田基地)、といった経路。氏も語るように、横田基地をめざすなら、このルートがごく自然と思われる。
では、なぜ、事故調の結論づけた飛行ルートが相模湖を入れなかったかといえば、なんらかの理由で横田基地の名前を出したくなかったからだろう。飛行機はあくまで操縦不能ということで、大月以降、北東の山間部へ行かざるえなかったということを提示したかったのだろう(公表ルートを見る限りそうとしか考えられない)。
ちなみに、ネットでは、当時の知られざる目撃地として、埼玉県の飯能市、坂戸市、鳩山町などが挙げられているが、その3つのまちは、横田基地のほぼ真北に位置する。先の「ワタナベケンタロウ動画」における推定飛行ルートとは微妙に異なったものとなるものの、さらなる目撃情報(特に埼玉県)のすり合わせで、より正しいものになっていくはず。というか、事故から36年を経てまだその段階というのが実情であり(当時の目撃者で、事故調発表のルートをあらたまって確認している者は相当少ないのだろう。見れば、「自分の町の上空が入っていない」など、疑問を呈することになるはず)、真相究明に向けて、さらなる考察が必要になってくる。
繰り返すが、確実に事実といえるのは、123便が相模湖付近(真上かは不明)の上空を飛んでいたということだ。
※最後に余談ながら……。事故当時、筆者は高1だった(正確には苫小牧高専の1年生)。あの日、1985年8月12日(月)は、夏休みの部活の合宿のまっ最中だった。学校の敷地にある合宿所に一週間ほど泊っており、そのニュースを知ったのは、当日夜ではなく13日(火)の朝のニュースか朝刊だったと思う。あの週は甲子園における桑田・清原のPLフィーバーがいっそう熱くなった週のはずであり、北国・北海道の苫小牧も連日とにかく暑い、暑すぎる一週間だった。
~~~~~
多分、戦犯は迎撃ミサイル推進論者の長田博。
別冊報告書公開は長田の死の直前の2013年。
長田博(1927~2013)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%94%B0%E5%8D%9A
1983年(昭和58年)12月20日:第24代 自衛艦隊司令官に就任1985年(昭和60年)8月1日:第16代 海上幕僚長に就任
1987年(昭和62年)7月7日:退官
長田博
[[ファイル:|200px]] | |
生誕 | 1927年9月6日 日本 神奈川県 |
死没 | 2013年12月1日(86歳没) 日本 東京都世田谷区 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 警備隊 海上自衛隊 |
軍歴 | 1944年 - 1945年(帝国海軍) 1953年 - 1954年(警備隊) 1954年 - 1987年(海自) |
最終階級 | 海軍兵学校生徒(帝国海軍) 海上幕僚長たる海将(海自) |
テンプレートを表示 |
長田 博(ながた ひろし、1927年(昭和2年)9月6日 - 2013年(平成25年)12月1日)は、日本の海軍軍人及び海上自衛官。第24代自衛艦隊司令官を経て第16代海上幕僚長を務めた。海軍兵学校出身最後の海上幕僚長(海兵76期)。
略歴
1944年(昭和19年)10月、海軍兵学校に第76期生として入校する。終戦により、海軍兵学校が閉校となり第2学年扱いで修了となる。その後、第一水産講習所に入学[1]。卒業後は、日魯漁業に入社し、トロール船に乗組む。1953年(昭和28年)8月、海軍ができると聞き、保安庁警備隊に応募し、三等警備士で入隊する[1]。職種は砲術、ターター・システム導入に備えて第1回米留、帰国後は「あまつかぜ」砲雷長。念願の艦長は護衛艦「きたかみ」の1回だけで、以後、海幕防衛畑を歩む[1]。4次防、53中業を手掛け、海上幕僚監部防衛部長として56中業をまとめ、海上防衛力の整備に尽力した[1]。その後、呉地方総監、自衛艦隊司令官を経て、第16代海上幕僚長に就任。「新・八八艦隊」などと俗称される「八艦八機」体制の生みの親であり、退官に際して「海軍兵学校出身の最後の海幕長」として朝日新聞「この人」欄に取り上げられた。退官後は、艦船総合情報誌「世界の艦船」に高い頻度で執筆・寄稿したことでも知られた。
なお、自衛艦隊司令官は横須賀地方総監と同等の政令指定職5号ポストであり海幕長への登竜門となっているが、自衛艦隊司令官から海幕長への昇格は長田を最後に23年間、杉本正彦が就任するまで途絶えることとなる。
年譜
- 1944年(昭和19年)10月:海軍兵学校入校(第76期)
- 1945年(昭和20年)10月:終戦により第2学年(2号生徒)扱いで修了する。
- 1953年(昭和28年)8月:保安庁警備隊に三等警備士で入隊(第4期幹部講習員)
- 1967年(昭和42年)
- 1971年(昭和46年)7月1日:1等海佐に昇任
- 1973年(昭和48年)12月16日:第2護衛隊群司令部幕僚
- 1975年(昭和50年)7月1日:海上幕僚監部防衛部防衛課防衛班長
- 1976年(昭和51年)12月1日:海上幕僚監部防衛部防衛課長
- 1978年(昭和53年)3月16日:海将補に昇任
- 1979年(昭和54年)2月1日:第1潜水隊群司令に就任
- 1980年(昭和55年)7月1日:海上幕僚監部防衛部長
- 1981年(昭和56年)2月16日:海将に昇任
- 1982年(昭和57年)3月16日:第18代 呉地方総監に就任
- 1983年(昭和58年)12月20日:第24代 自衛艦隊司令官に就任
- 1985年(昭和60年)8月1日:第16代 海上幕僚長に就任
- 1987年(昭和62年)7月7日:退官
- 1997年(平成9年)11月3日:勲二等瑞宝章受章[2][3]
- 2013年(平成25年)12月1日:自衛隊中央病院にて心不全のため死去(享年86歳)[4]叙・正四位[5][6]
栄典
関係する人物
- 香田洋二(娘婿、36代自衛艦隊司令官)
脚注
- ^ a b c d 海上自衛新聞・1985年(昭和60年)9月8日(日)第3面「海上幕僚長・長田博に聞く」
- 『官報』号外220号(平成9年11月4日)
- 「97年秋の叙勲受章者勲三等以上の一覧」『読売新聞』1997年11月3日朝刊
- "元海上幕僚長、長田博氏が死去". 産経新聞(MSN産経ニュース) (2013年12月2日). 2018年2月15日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2018年2月7日閲覧。
- 『官報』本紙6206号(平成26年1月10日)
- "長田博氏が死去 元海上幕僚長". 日本経済新聞 (2013年12月3日). 2021年1月17日閲覧。
隠す | |
---|---|
海上警備隊総監 | 山崎小五郎:1952.4.26-1952.7.31 |
保安庁第二幕僚長 | 山崎小五郎:1952.8.1-1954.6.30 |
海上幕僚長 |
|
https://twitter.com/tiikituukahana/status/1557818022534201344?s=21
返信削除真相は多分これ、
JAL123便 日航機墜落事故の真相
http://ugyotaku.web.fc2.com/JAL123Sinsou/JAL123Sinsou.htm
画像は数年前に密かに公開された、
事故調査報告書付録(JA8119に関する試験研究資料)
http://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/62-2-JA8119-huroku.pdf
「異常外力の着力点」の図解あり。
『日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす』青山透子(2020)参照
事故調査報告書付録(JA8119に関する試験研究資料)
全213頁
http://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/62-2-JA8119-huroku.pdf
116頁に「異常外力の着力点」の図解あり。
『日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす』青山透子(2020)参照。
地域通貨花子1
@TiikituukaHana
こちらは18時18分頃機内から撮ったという問題の写真。
参考:
飛行機の外に見えるオレンジ色の物体は? (2010年9月7日)
excite.co.jp/news/article/R…
日航123便の真相に迫る②【機内から撮影された謎の写真】
youtu.be/dwPgZAgyU2Q?t=…
直言 日航123便墜落事件から32年
asaho.com/jpn/bkno/2017/… pic.twitter.com/bQcdezeNol
2022/08/13 4:12
https://twitter.com/tiikituukahana/status/1558169580211929088?s=21
返信削除山上容疑者は123便陰謀論で出てくる「まつゆき」に乗艦してたという。
https://toyokeizai.net/articles/-/602970?page=3
《山上容疑者は教育隊を修業すると護衛艦「まつゆき」に乗り組んだ。》
日航機墜落事故の真相
http://ugyotaku.web.fc2.com/JAL123Sinsou/JAL123Sinsou.htm
《この「まつゆき」の実験の一環で…JAL123便のところに何かが飛んできたのではないか―》
2002年12月から2004年4月まで山上が乗っていた「まつゆき」から
1985年の訓練で発射された標的機が日航機の尾翼に間違って当たったという説がある。
参考:
護衛艦まつゆきが35年の任務完遂 日航機墜落で尾翼発見- 産経ニュース
2021/04/07
https://www.sankei.com/article/20210407-YM4YAHUSVBK5TEUBZWH64TTM7Q/
犯人は第一発見者
山上は秦氏の末裔だろう
山上は戦後史のみならず日本史を総括する
JAL123便 日航機墜落事故の真相
返信削除http://ugyotaku.web.fc2.com/JAL123Sinsou/JAL123Sinsou.htm
別冊報告書
http://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/62-2-JA8119-huroku.pdf
「異常外力の着力点」116頁
『圧力隔壁説をくつがえす』2020参照
飛行機の外に見えるオレンジ色の物体
https://www.excite.co.jp/news/article/Real_Live_1425/ 謎の写真
https://youtu.be/dwPgZAgyU2Q?t=7m15s
直言
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2017/0807.html
日航機事故の真相
返信削除http://ugyotaku.web.fc2.com/JAL123Sinsou/JAL123Sinsou.htm
《 [沿岸防衛用国産巡航ミサイル]SSM-1は、地上基地、陸上移動発射台、あるいは航空機からでも発射できる巡航ミサイルで、その飛行モニターを空中では電子戦機EC-1、海上では護衛艦「まつゆき」が実施する――これなら、ミサイルの発射実験は可能》
返信削除ご教授ありがとうございます。現在訴訟を準備中ということでしょうか?
『日航123便 墜落の波紋: そして法廷へ』2019/7/12
https://www.amazon.co.jp/dp/4309028128/
『JAL裁判 : 日航123便墜落事件と1985』2022/10/22
https://www.amazon.co.jp/dp/4309030521/
結果がどうあれ何らかの力になりたいと思います。
ナベツネはどこまで知っているのか?
返信削除ナベツネが死なないと情報公開されないだろう
日航機墜落事故 米軍幻の救出劇 (米軍パイロットの証言)
返信削除https://youtu.be/65krBx_Bblg
返信削除JAL123便 日航機墜落事故の真相
http://ugyotaku.web.fc2.com/JAL123Sinsou/JAL123Sinsou.htm
別冊報告書
https://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/bunkatsu.html#5
事故調査報告書付録(JA8119に関する試験研究資料)
全213頁
http://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/62-2-JA8119-huroku.pdf
「異常外力の着力点」116頁
『圧力隔壁説をくつがえす』2020参照
https://i.imgur.com/GIzGlxq.jpg
飛行機の外に見えるオレンジ色の物体
https://www.excite.co.jp/news/article/Real_Live_1425/ 謎の写真
https://youtu.be/dwPgZAgyU2Q?t=7m15s
直言
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2017/0807.html
ちなみに別冊報告書公開は迎撃システム推進派だった長田博の死んだ年。
長田博(1927~2013)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%94%B0%E5%8D%9A
1985年8月1日:第16代 海上幕僚長に就任
1987年7月7日:退官
《自衛艦隊司令官から海幕長への昇格は長田を最後に23年間…途絶えることとなる。》
多分次の情報公開はナベツネの死後だろう。
陰謀論を一掃したいのでボイスレコーダー完全版の公開を求めます
aki
@3h_aki
何で公開出来ないんだ?ヤバい事があるのか?墜落の原因は確か隔壁の損傷だった。真実は違うという事か。 pic.twitter.com/tZH0kfoNmt
2022/10/14 13:55
https://twitter.com/3h_aki/status/1580784348194050048?s=21
地域通貨花子1
@TiikituukaHana
山上は無意識のうちに日本の戦後を総括する仕事をしていたことになる。
2022/10/15 14:53
https://twitter.com/tiikituukahana/status/1581161214042066944?s=21
地域通貨花子1
@TiikituukaHana
《重要なことは、JAL123便事故の1985年8月12日には、このEC-1は納入前のテストをしており…EC-1、「まつゆき」の両方とも厳密には国有財産として未登録であったことです。
国有財産でない場合は…報告義務から法的には免れることになります。》
ugyotaku.web.fc2.com/JAL123Sinsou/J…
2022/10/15 14:52
https://twitter.com/tiikituukahana/status/1581160999947993088?s=21
F-4J ファントム です。
返信削除https://twitter.com/slowslow2772/status/1679504810188640256?s=61
𝓔𝓲𝓷𝔃𝓫𝓮𝓻𝓷
@00Einzbern
@akagamisp 戦闘機はF-4J ファントム です。
詳しくは言えませんが亡くなった父の友人からです。
2023/07/12 19:54
https://twitter.com/00einzbern/status/1679081892375822336?s=61
異常外力の正体
返信削除https://youtu.be/qyAXcDzBi80
異常外力の正体
返信削除https://twitter.com/slowslow2772/status/1685086028204589056?s=61
slowslow2772
@slowslow2772
【大竹まこと×森永卓郎×倉田真由美】 日航機123便墜落事故の謎 真相を追った元日航客室乗務員! youtu.be/eq1AzBRzhy8 @YouTubeより
2017/08/21 放送分
2023/08/10 13:44
https://twitter.com/slowslow2772/status/1689498004884254720?s=61
【日航機墜落】事故原因は本当に「急減圧」だったのか【123便 ゆっくり解説】
返信削除https://youtu.be/tcTNm06TjVQ
2013年に報告書別冊が密かにネット公開されています。公式の文書です。
青山透子さんが著作で論じています。
その公式報告書別冊では異常外力の着弾が図解されています。
要するに圧力隔壁説は公式の報告書で否定されているのです。
誰も報道しないだけです。
参考
異常外力の正体
https://youtu.be/n4Rcid5Sk7g
事故調査報告書付録(JA8119に関する試験研究資料)
全213頁
http://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/62-2-JA8119-huroku.pdf
116頁に「異常外力の着力点」の図解あり。
『日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす』青山透子(2020)参照。
宮崎哲弥が日航機墜落事故を語る
https://youtu.be/06BNkmhbNfQ
【日航機墜落事故】真相を隠す日本の闇…謎多き日本航空123便墜落事故をわかりやすく解説
https://youtu.be/wA-sCykPDQs
大人の教養