四天王寺「石鳥居」【重要文化財】
読み方
※「いしとりい」や「いしどりい」ではなく、「いしのとりい」と読みます。
造営年
造営した人
鳥居の造り(様式)
- 石造・明神鳥居
- 島木:木製銅包
- 貫柱間、額束及び額:銅製
大きさ
重要文化財指定年月日
※登録名は「四天王寺鳥居」となっています。
※附指定(つけたりしてい:追加の指定)として、「左右玉垣」が指定されています。
四天王寺「石鳥居」は日本三大鳥居の1つ!?
一般的に、四天王寺の石鳥居(石の鳥居)は、「日本三大鳥居」の1つとされます。
残りの2つは、吉野の「銅の鳥居(かねのとりい)」と、宮島・厳島神社の「朱丹の大鳥居」です。
①奈良県吉野・金峯山寺「銅の鳥居」(金峯山寺銅鳥居)【重要文化財】
金峯山寺(きんぷせんじ)蔵王堂の参道に建つ鳥居です。
- 様式:銅製明神鳥居
- 高さ:7.6m
- 所在地:奈良県吉野郡吉野町吉野山2498
②広島県宮島・厳島神社「朱丹の大鳥居」(厳島神社大鳥居)【重要文化財】
- 様式:木造両部鳥居
- 高さ:約16.6m
- 所在地: 広島県廿日市市宮島町1−1
世界遺産にも登録されている宮島・厳島神社の大鳥居は、木造鳥居の中では日本一の高さを誇ります。
③大阪市天王寺区・四天王寺「石の鳥居」
- 様式:石造明神鳥居
- 高さ:8.5m
- 所在地:大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
それでは、日本三大鳥居の1つ、四天王寺の石鳥居(石の鳥居)について、詳しくご紹介していきます!
四天王寺に鳥居があるのはなぜ?
まず、そもそも、仏教寺院である四天王寺に、なぜ大きな鳥居が建っているのか、という点について、ご説明します。
鳥居は神道特有のものではない
鳥居というと、神社の境内にあるものというイメージが強いかもしれません。
でも実は、鳥居のある仏教寺院は意外と多く、前述の奈良県・金峯山寺蔵王堂や、奈良県・生駒山宝山寺、東京都・高尾山薬王院などにも見られます。
鳥居の起源については諸説あり、いまだにはっきりしたことはわかっていません。
例えば、日本の神話に登場する鶏の止まり木がルーツだとする説や、インドの仏教寺院の門、中国の宮殿の門などに起源を求める説もあります。
つまり、元来、鳥居は、神社のみのものではなかったというわけです。
「神道・神社」と「仏教・寺」は近い存在だった
もう1つ、忘れてはならないのは、日本では明治時代に入るまで、神道と仏教が非常に近かったということです。
仏教は、6世紀に伝来して以降、日本にもともとあった神道(自然崇拝、精霊崇拝、祖霊信仰などを含む)と結びつき、発展しました。
ですので、古くから、神社に「神宮寺」と呼ばれる寺院が建てられたり、寺院に神社が建てられたりすることは、珍しくありませんでした。
また、「神仏習合」といって、神道の神と仏教の仏が時に同一視され、「神は仏が衆生を救うために仮の姿をとって現われたもの(権現)」とする「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」や、その逆で「神が本来の姿である」とする「反本地垂迹説」などが広まりました。
ですので、寺院に鳥居があったり、神さまが祀られていたりしても、何ら不思議ではないのです。
ただ、四天王寺の創建は593年(推古天皇元年)と伝わり、これは日本に仏教が伝来してわずか数十年後のことです。
そして、四天王寺には創建当初から木造鳥居があったとされています。
この頃は、神と仏を同一視するほどには神仏習合が進んでおらず、本地垂迹説などはないので、四天王寺に鳥居があることを「神仏習合の名残」とするのは、やや語弊があるかもしれません。
四天王寺「石鳥居」の特徴と見どころ
明神鳥居とは?
四天王寺の石鳥居は、石造で、「明神鳥居(みょうじんとりい)」という種類(様式)の鳥居です。
明神鳥居はもっとも一般的な鳥居の形の1つで、仏教建築の影響を受けた様式とされています。
その明神鳥居には、以下のような特徴があります。
明神鳥居の主な特徴
- 笠木(かさぎ/笠石)の下に島木(しまき、しまぎ)がある
- 笠木に「反増(そりまし)」と呼ばれる湾曲がある
- 貫の中央に額束がある
- 貫の端が柱を貫いて外に出ている
- 額束と楔(くさび)がある
※四天王寺の石鳥居に楔はありません。 - 柱が亀腹(かめばら)の上に乗っている
※四天王寺の石鳥居に亀腹はありません。 - 柱は上に行くほどわずかに内側に傾いている
※このように柱などを傾斜させて建てることを「転び(ころび)」と言います。
これを、四天王寺の石鳥居に当てはめると、こちらの写真のようになります。
※額束が見えるよう、鳥居の裏側の写真を使用しています。
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「石鳥居」だけど100%石造りではない!?
四天王寺の石鳥居は、花崗岩を用いた石造の鳥居です。
ただ、見た目は完全な石造の鳥居ですが、実は別の素材も使われています。
まず、島木と貫は、軽量化を図るため、木製の芯材(心材)を銅版で覆うという構造になっています。
また、貫の柱間の部分や、扁額がかかる額束も、石ではなく銅製です。
上掲の写真をご覧ください。
よく見ると、石の部分と銅の部分で、若干、色が違うのがわかります。
ええっ!?四天王寺の石鳥居の芯材で造られた仏像がある・・!?
画像引用元:大阪市
四天王寺の石鳥居は、たびたび修理が行われていますが、そのうち1669年(寛文9年)の修復工事の際に島木の芯材が取り替えられました。
この時取り出された芯材を一木造の材として用いた仏像が、四天王寺の境外支院「施行院(せぎょういん)」に、御本尊として祀られています。
座高70.6cmの立像で、大阪市の有形民俗文化財に登録されています(非公開)。
四天王寺の西門(西大門や鳥居)は、浄土教信仰の中心地として、人々にとって特別な場所でした(後述)。
そこに建つ鳥居の廃材で仏像が造られているという事実は、大阪の人々の四天王寺への信仰心や、極楽浄土へ思いの強さの表れであるようです。
石鳥居の「扁額」
- 大きさ:縦(高さ)1.5m、横1.1m
- 素材:ブロンズ(青銅)
- 鋳造年:1326年(嘉暦元年)?
石鳥居に掲げられている扁額は、扁額裏の銘によると、1326年(嘉暦元年)の鋳造とされます。
頭上約8mのところにあるのであまり大きく感じないかもしれませんが、実際は高さ1.5mもある、大きな扁額です。
扁額の形は、単なる板ではなく箕(み)のような形をしています。
箕はもともとは穀物をふるう道具ですが、取り入れや運搬の際に、入れ物やちりとりのようにも使われるということで、すべての願いを「すくい取って漏らさない」という、阿弥陀如来の本願(誓願)を表しているとされています。
扁額の文字の意味は?
中央の文字は、「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と書かれています。
これは、平安時代初期の書家の代表「三筆(さんぴつ)」の1人とされる弘法大師空海、または、「三蹟」の1人とされる小野道風(おののみちかぜ)の筆とも言われています。
内容は、「釈迦如来が仏法を説く所であり、ここが極楽の入口である」という意味だそうです。
阿弥陀如来が納める極楽浄土は「西方浄土(さいほうじょうど)」とも呼ばれ、西にあるとされますので、四天王寺の西の入口を、極楽浄土の東の入口と見立てたというわけです。
西向きの「石鳥居」で行われた「日想観」はどんな修業?
四天王寺が創建された頃、海岸線は四天王寺のすぐ西側にあり、また、森林や建物など視界を遮るものがなかったため、四天王寺周辺は、大阪湾に沈む夕日を見るのには絶好の場所でした。
これは、四天王寺の最寄駅である「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」のある地域の地名「夕陽丘(ゆうひがおか)」にも表れています。
春と秋のお彼岸の中日、つまり、春分の日と秋分の日の夕暮れ時には、四天王寺の西大門(極楽門)付近から西を見ると、太陽がこの石鳥居の中心を通り、六甲山系と淡路島の中間の、水平線に沈みます。
かつて、弘法大師や法然上人らが、石鳥居の向こうに沈む夕日を望み、「日想観(じっそうかん・にっそうかん)」の修業をしたとされており、この地は日本の浄土思想発祥の地とも言われています。
日想観は、極楽浄土に往生する(生まれ変わる)べく、西に沈む太陽を見てその丸い形を心に留め、目を閉じ、遥か西方にある極楽浄土を思い描く修行法です。
遅くとも11世紀頃には、四天王寺の西門(西大門・鳥居)「極楽浄土の東門」として、浄土教信仰の聖地・日想観の名所となっていました。
しかし、江戸時代頃以降は四天王寺で日想観をしたという記録はなく、その習慣・信仰は長く廃れていたと考えられています。
そこで四天王寺では、2001年(平成13年)秋に、この日想観を寺の行事として復活させました。
今では、毎年春分の日と秋分の日の17時20分から、西大門(極楽門)付近にて、日想観の法要が行われています。
日想観は、だれでも参加できます。
四天王寺「石鳥居」の歴史・由来
四天王寺は、南側から北側に向かって中門(仁王門)、五重塔、金堂、講堂が一直線に配される「四天王寺式伽藍配置」で有名ですが、実は、1945年(昭和20年)の大阪大空襲でほぼ全焼という被害を受け、現在の堂宇のほとんどは、戦後に再建されたものです。
しかし、奇跡的に空襲の被害を免れた建造物もあり、その多くは重要文化財に指定されています。
西大門(極楽門)の外側に建つ「石鳥居」も、その1つです。
石鳥居は、1294年(永仁2年)に造立されたとされ、四天王寺の現存する建物の中で最古であり、また、日本の現存する石造鳥居としても最古とされています。
ただし、現在の石鳥居で造立当初のままの部分は柱のみとなっています。
石鳥居の創建と修理
四天王寺には、創建当初から木造鳥居があったとされています。
それを、鎌倉時代の1294年(永仁2年)、忍性上人(忍性律師)が石造鳥居に改めました。
江戸時代、1667年(寛文7年)の地震で破損したものを1669年(寛文9年)修復するなど、大規模・小規模の修理がたびたび行われています。
四天王寺「石鳥居」の修理履歴
- 1326年(嘉暦元年):部分修理
- 1510~1516年(永正7~13年):部分修理
- 1669年(寛文9年):部分修理
- 1759年(宝暦9年):修理
- 1903年(明治36年):修理
- 1934年(昭和9年):修理
- 1997~1998年(平成9~10年):半解体修理
※阪神大震災の後にひび・傾きが確認されたため。
忍性上人とは:
真言律宗の僧。字は良観。
鎌倉執権・北条家に重く用いられ、鎌倉極楽寺の開山となりました。
聖徳太子が大阪に四箇院(しかいん)と呼ばれる4軒の福祉施設を設置したことに感銘を受け、1294年に四天王寺の別当となってからはそれらの再興に勤めました。
他にも、道路や橋を建設・修築するなど、慈善事業・社会事業を積極的に行ったことで知られています。
永仁2年の石鳥居の一部が現存!
ご紹介した通り、現在の石鳥居のルーツは、1294年(永仁2年)に忍性上人が造立した鳥居です。
その後何度も修繕が繰り返されていますが、当初使用されていたと思われる笠木(笠石)の一部が、四天王寺の宝物館前に展示されています。
向かって左の方がやや分厚く、反り上がった形をしているため、笠石部分の端に使われていた石材とわかります。
四天王寺「石鳥居」の場所
四天王寺には南大門、西大門(極楽門)、東大門、中之門と、4か所の出入り口があります。
石鳥居は、このうち、西大門(極楽門)の外側にあります。
石鳥居から参道をまっすぐ進み、西大門(極楽門)をくぐった先が、中央伽藍への入口(拝観受付)のある西重門です。
【補足】四天王寺「石鳥居」の中には納入品があった!
阪神大震災後の1997~1998年(平成9~10年)に行われた保存修理の際、木の芯材を使っている島木と貫も解体されました。
すると、芯材と、それを覆う銅版の間から、納入品が大量に発見されました。
納入品の内容
画像引用元:大阪市
主なものとしては、まず、大阪の町人が奉納したと思われる、合計154点の和紙の包みがあります。
包みは、毛髪や火葬骨の破片、へその緒、江戸時代の銭貨「寛永通宝」などを和紙で包んだもので、包み紙には極楽往生を祈願して南無阿弥陀仏の名号などを書き、奉納者の名前も添えられていました。
また、大半が同じ筆跡という244枚の経木札も見つかりました。
経木札にも、名号や奉納者の名前が書き連ねられています。
他には、以下のようなものが見つかりました。
島木・貫の芯材と銅版の間から見つかったもの
- 南無阿弥陀仏の名号を書写した写経帳や奉納者の名を記した帳面:9冊
- 菩薩戎の印信:9枚
- 曲物:1点
- 文書:9枚
- 銭:120枚
- 毛髪の束:19束
- 数珠:7点
島木と笠木(笠石)の間から見つかったもの
※島木と笠木の間から見つかったものは1933年(昭和8年)の新聞紙に包まれており、このことから、同年、旧国宝指定のための報告書作成にかかる調査を実施した際に、島木や貫からこぼれ落ちた納入品をまとめて納入したものと考えられています。
納入品合計
※納入品は、大阪市の有形民俗文化財に登録されています。
納入品の年代と納入の経緯
納入品の中には、1516年(永正13年)のものと記載された文書3通が含まれ、これらは1510~1516年(永正7~13年)の修理の際に納入されたと考えられます。
この3通以外のものはすべて江戸時代の納入品と見られ、年代がわかるものの大半が1669年(寛文9年)で、この年の修理の際の納入品と考えられます。
どうやら、これらの納入品は、石鳥居修復のための勧進(寄付)を募り、その呼びかけに応じて極楽往生を願い結縁(けちえん:仏教と縁を結ぶこと)した町人たちが納めた品々のようです。
これはもちろん、四天王寺が「極楽浄土の東門」とされ、浄土教信仰の聖地という特別な場所だったことに関係しています。
勧進に伴う納入品が見つかることは非常に珍しく、また、お札や文書だけでなく髪の毛や骨なども見つかっていることから、四天王寺と大阪の人々との深いつながりや、人々の極楽浄土への強い思いが伺われる貴重な資料です。
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