2022年3月31日木曜日

【日本航空史上最大の陰謀論】JAL123便墜落事故の怖すぎる真相 | FM都市伝説 2021/09/11

【日本航空史上最大の陰謀論】JAL123便墜落事故の怖すぎる真相 | FM都市伝説

【日本航空史上最大の陰謀論】JAL123便墜落事故の怖すぎる真相

JAL123便事故。

もうこの事故を知らない世代も多くなりました。

無理もありません。この事故が起こったのは1985年8月12日のことだからです。

しかし、この航空事故は、日本の航空史上前代未聞の大事故です。

そして、この事故には、発生直後から各方面から様々な疑問点が噴出し、政府や自衛隊をも巻き込んだ、想像を絶する大陰謀論へと発展していきました。

事故後35年経った現在でも、この陰謀論は様々な角度から再調査が続けられています。

とくに遺族からは国土交通省に幾度も再調査の依頼がなされていることから、当時の政府からの説明では納得出来ないという方がほとんどなのです。

本記事では、この『JAL123便墜落事故』の恐るべき真相に迫っていきますが、前情報として以下の動画がうまくまとめられていますので、ぜひご視聴の上本記事をご覧いただければと思います。

JAL123便墜落事故とは

1985年8月12日18時羽田空港発、大阪伊丹空港行きのJAL123便は、定刻より12分遅れで離陸しました。

18時24分、相模湾上空辺りで機内で爆発音がし、客室は白い霧が一瞬立ち込めましたが、それはすぐに消えました。

しかし、酸素マスクが落ちてきたので、乗客達は皆酸素マスクを付けました。

スチュワーデス(客室乗務員の当時の名称)達は冷静で、マスクの付け方や、酸素が出ていないマスクのチェックを行っていました。この時点で、スチュワーデス達が歩ける状態であったことがわかります。

その後は、飛行機の操縦に欠かせない油圧系統が4つ共総て効かないという状態になりました。

操縦が上手く出来ない飛行機は、羽田へ戻ることを管制塔に伝えています。

そして、同時に機体が「uncontrollable(操縦不能)」であるとも伝えたので、事態を重く見た管制官は、日本語でのやり取りを許可しています。

この時、コックピットにいた機長、副機長(当日機長試験を受ける為に、機長席に座っていました)、機関士の3人は、何が原因なのかわかっていませんでした。

しかし、油圧で飛んでいる飛行機の油圧系統4つが、総て効かないというのは、車が坂道でブレーキが効かない状態と同じです。

機長達は、それからは、ダッチロール(左右の揺れ)やフゴイド運動(上下運動)を繰り返す機体と闘いながらも、羽田へ向かって懸命に機体を操縦しようと試みました。

羽田より近いアメリカ軍の横田基地からも、いつでも着陸可能の電信が何度も届きましたが、現在公開されているボイスレコーダーには、それへの応答は残っていません。

横田基地への着陸を諦めたのか、当日の積乱雲や強い風の為か、123便は群馬の山岳地帯へと飛行して行き、18時56分30秒に群馬県上野村高天原山の、通称御巣鷹山(おすたかやま)に墜落しました。

乗客乗務員524人のうち、生存者は女性4人のみでした。

この便は、普段から通勤に利用される便の上、お盆の帰省客も重なり、犠牲者の中には、一企業の社長や役員、また歌手の坂本九さんや元タカラジェンヌで美人女優の北原遥子さんなどの有名人が含まれていました。

また、子供VIPというJALのキャンペーンがあり、1人で乗っていた小学生位の子供達12人もいました。

原因は、圧力隔壁の破損によって、空気が垂直尾翼を殆ど吹き飛ばしたことで、

油圧系統が失われた為とされました。

123便の機体は、1978年に伊丹空港の着陸時に機体後部を滑走路にこすったことがあり、その時圧力隔壁にも亀裂が入りました。

この時のボーイング社の修理ミスが、この事故の原因とされました。

【JAL123便の謎】救助まで13時間も掛かったのは何故か

この事件では、当初から専門家やジャーナリストからさまざまな疑問点や不審点が指摘されていました。

その中で、最も大きな問題は、123便が墜落してから救助隊が到着するまで、13時間も掛かっていることです。

何より墜落した現場近くの住民達からの連絡や、アメリカ軍からの墜落位置の情報があったにも拘らず、どうしてすぐに救助に向かわなかったのでしょうか。

これについては、実に様々な推測が為され、またその中には信じられないような理由もありますので、後程改めて取り上げたいと思います。

「墜落地点が分からなかった」の公式発表はウソである可能性

123便が墜落したのは19時少し前。真夏の関東地方のことですから、薄暗くなりはじめた時間帯です。

当然御巣鷹山(おすたかやま)近くの、群馬県上野村の人達等は、まだ畑で作業をしていた人も多く、落ちた地点を正確に警察に伝えています。

ところが、テレビでは、現地からの電話を無視するように、長野県佐久郡北相木村や御座山(おぐらさん)に墜落、と警察が会見し、報道陣は一斉に長野県の御座山へと向かいました。

ところが、事件から10年後、軍を離れたアメリカ人の元中尉マイケル・アントヌッチ氏が、当日の模様をアメリカの新聞に話しました。

それによると、飛行中123便が日本語で管制塔と応答しているのを聞き、これは一大事が起こっていると気づき、19時15分に山が燃えているのを確認したので、横田基地と連絡をすると、そのままその位置で情報収集するように指示されました。

アメリカ軍は、厚木基地から海兵隊を派遣し救助することにしました。

そして、現場に到着した海兵隊員のうち2人をウィンチで地上に降ろそうという正にその時、基地からの命令で、直ちに基地へ戻るように言われたのです。海兵隊にも同じ命令が下りました。

驚いたアントヌッチ氏が

「今から現場に降りるところなんです」

と、言っても、基地からは、日本側が救助に向かう、戻れ、の一点張り。

基地へ戻ると、労いの言葉と一緒に、今日あったことは他言しないようにとの命令も下されたのです。

つまり、自衛隊も日本政府も、アメリカから墜落場所の正確な位置を知らされていたことになります。

それなのに、何故事故から救助まで13時間もかかったのでしょう。

当時の自衛隊の司令官は、インタビューに対して、

「アメリカ軍から連絡があったのは知らない。暗い中で、(救助の為に)降下するのは自殺行為」

と、答えました。

ところが、アメリカ軍によれば、当時でも夜間の救助は充分可能だった、と言います。

以下は当時の自衛隊司令官の『アメリカ軍の救助』に関して発言している動画です。

(該当映像は次の時間帯:4:00~4:55/6:30~7:00)

次はアントヌッチ氏の救助に関する証言と、自衛隊司令官がそれに対して発言している動画。

※自衛隊司令官の"自殺行為発言"は7:10~

政府の思惑がからんだ陰謀論

当時、中曽根首相は日本の軍事予算を上げようとしていました。

そんな時に、自衛隊の不始末で520名もの人命が失われたと聞いたら、国民の大反対にあうことは明白でしょう。

それで、自衛隊の不祥事を隠そうとして、救助より何か策を講じたのではないかとの疑問もあとをたちません。

海底調査を途中で中止したことの疑問

相模湾の海底には、123便の垂直尾翼が沈んでいます。

しかし、相模湾の海底捜索は、予算との兼ね合いからほんの一部を回収しただけで、肝心の垂直尾翼を引き上げずに終えてしまいました。

当時の中曽根首相は、「どんなにお金をかけても、原因を究明する」と言っているのに、です。

また、2015年には、相模湾海底で123便の残骸である可能性が高い部品が発見されました。

しかし、それを引き上げようという声も上がらず、調査したANNですら一度の報道で済ませてしまいました。

垂直尾翼は、事故の原因を知るのに最も大切な部分です。

どのようにして垂直尾翼がちぎれて飛んだのか、がわかれば、事故の原因や再発を防ぐ手立てにも役立ちます。

水深はたった160m。引き上げが難しい深さではありません。

遺族も引き上げを希望する中、どこかからの力が働いているのでしょうか。

【JAL123便の謎】映像に残された『オレンジ色の物体』

123便の乗客が窓の外を撮った写真があります。

そこには、黒い物体が写っていました。他の飛行機だろうかと思って撮った物でしょうか。

それを現在の技術で、詳しく調べると、黒い物体はオレンジ色だと判明しました。

ここから、以前からも言われてきたことですが、自衛隊の無人標的機が123便の垂直尾翼に当たったのが原因ではないか、という説が根強く疑われています。

無人標的機は当時オレンジ色に塗ってあったのです。また、事故当日は自衛隊が静岡県沖でミサイル訓練をしていました。

また、当日自衛隊の隊員が、知り合いの元隊員に、

「大変なことをした。民間機に標的機を当ててしまった。今、百里基地から偵察機2機に追尾させている」

という電話をかけているのも有名な話です。

これは、匿名を条件に、電話を受けた男性がインタビューに応じたものです。

更に、ある自殺した自衛隊員が仲間に託した写真には、相模湾から引き揚げられた123便の機体の一部に、"オレンジ色の何か"が付着していました。

JALの機体には、白、赤、青しか使われていません。

因みに、この時に引き上げられた機体の残骸は、そのままJALの倉庫にしまわれたままです。

この自衛隊員は何故、この写真を手元に残して自殺しなければならなかったのでしょうか。

オレンジ色、は自衛隊の中では禁句であり、絶対口外無用の命令に、良心が耐えられなくなったのでしょうか。

もし、当時相模湾から垂直尾翼を引き上げていたら、そこにオレンジ色の何かが付着していた可能性はかなり高そうです。

そのことが発覚するのを恐れて、事件後1年10か月が経った時点で、海底捜索を打ち切ることにしたのでしょうか。

【JAL123便の謎】圧力隔壁説への大きな疑問

事故原因は、機体後部で機内の気圧を保つ圧力隔壁の破損により、機内の空気が一気に垂直尾翼や機体後部に噴出した為に、垂直尾翼が吹き飛んだものとされました。

機体後部と垂直尾翼に油圧4系統が総て装備されているので、これで操縦が不可能になったと考えられます。

しかし、もし垂直尾翼が吹っ飛ぶ程圧力隔壁が破損したのなら、客室内では、まず真っ白な霧が立ち込め、乗客達の耳は痛くなり、空気が後ろへ向かって噴出するので機内にある様々な物が飛び散るはずと言われています。

しかも温度はー20℃~-25℃に下がるので、乗客達は酷い寒さを感じるはずです。

ところが、生存者の証言では、白い霧も一瞬で消え、気温の変化はなかったということです。スチュワーデスが歩いて座席を回っているのですから、物が飛び散るという現象も無かったようです。

つまり、生存者の証言からわかることは、もし、圧力隔壁に破損があっても、それはごく小さなものだったと言えます。ましてや、垂直尾翼が吹き飛ぶような大きな空気の流れは無かったのです。

当初、アメリカのメーカーであるボーイング社は、自社に責任はないと言っていましたが、突然、しりもち事故の際の圧力隔壁の修理にミスがあったことを認めました。

これは、事故の原因を圧力隔壁の修理ミスにして、この123便固有の事故にする為だと思われます。

それ以外に原因が見つかった場合、全てのボーイング社の旅客機を調査する必要も出てきますし、ボーイング社に乗るお客さんも激減することでしょう。

これが、ボーイング社がミスを認めた理由だと言われています。

しかし、アメリカでは、故意で行ったミス以外は、罪を問われないことになっています。

日本の検察も、まず修理をした人達を探し、その中の3名を何とか起訴しましたが、結局その他日航の責任者達は全員不起訴になっています。

また、人間は気圧の変化に弱く、もし123便で"急減圧"が起きたら、酸素不足で思考力の低下や手足の動きも思い通りにならなくなりますが、事故調査委員会が行った実験では、そういうことは無いことになっています。

以下はお蔵入りになったと言われる日航123便に関する幻の番組

しかし、コックピットにいた3人はボイスレコーダーの声が籠っていないことから、酸素マスクを着けていなかったことがわかっています。

急減圧が起きたなら、酸素が不足し、-20℃の寒さの中、とてもそれから20分以上にわたって言うことを効かない飛行機を操縦することは不可能です。

このことから、圧力隔壁が壊れ、"急減圧"が起きたという説には無理があるのです。

【JAL123便の謎】ボイスレコーダーの改ざん

事故後、ボイスレコーダーの内容は文章におこした状態で世に公表されました。ですが2000年に、あるジャーナリストがカセットテープの形で入手し、これが世間に公開されることになります。

しかし、その内容は明らかに改ざんされた跡がありました。

操縦困難な中、不可思議な沈黙や、かみ合わない羽田の管制塔や横田基地との会話。

このことから、このテープは改ざん後のものだと容易にわかります。

では、何故そんなことをしたのでしょう。

JAL123便の墜落原因は「圧力隔壁破壊説」ありきで進められていました。それを妨げるような会話が世に出ては困るので、あるいは会話を前後させ、あるいは出てはマズい会話は消す、といった作業をしているのです。

先述の通り、自衛隊は2機の偵察機を飛ばしていますから、当然123便を見つけたはずです。

その時、既に自衛隊による大失策は隠ぺいするという、政府の方針が決まっていたと思われます。

123便に追いついた偵察機は、御巣鷹山周辺の住民達にも見られています。(多数の目撃証言あり)

さらに、上野村立小学校では、校長先生が、事故当日見たことがあれば作文するように指示し、それが今でも文集として残っています。

中には、

「飛行機が追いかけっこをしていた。」

「ニュース速報が流れた時、既に家の近くで飛行機が3機飛んでいた。」

「18時45分頃、南の空からジェット機2機ともう1機大きい飛行機が飛んできた。

(その後)ジェット機2機は、埼玉県の方へ行ってしまいました。」

「用事が済んで、お母さんと帰る途中一瞬光った。

そして、家に帰って少し経って7時のニュースを見たら、日航機墜落事故のことを報道していました。墜落した時刻は6時57分頃とニュースは言っていました。

お父さんやお母さん達は、『さっきこの子が見た光じゃないの』と言いました。」

(※文章をわかりやすく変えた部分があります)

多くの子が、123便が墜落する18時56分より前に、ジェット機と飛行機を見ています。はっきりジェット機2機と書いている子もいます。

また、複数のヘリコプターも目撃されています。

新聞に載った現地の方の話の中には、赤い炎を上げながら飛んでいた、とか、飛行機は炎を上げながら飛んで行った、というものもあります。

飛行機が墜落する前に閃光が走ったり、2機のジェット機だけが埼玉方面へと飛んで行ったというのは、ジェット機からミサイルが発射され、証拠隠滅の為に123便が撃墜されたことを想像させます。

炎を上げた飛行機が飛んで行ったというのも、同じことです。

これらから、機長は自衛隊のジェット機のパイロットとも話していたのではないかと思われます。

ボイスレコーダーの中には、操縦で大変な中、短い言葉で管制塔ともやり取りをしていたのに、急に敬語になる部分があるのです。

「こ、このままでお願いします」

この言葉は2度繰り返されています。

これを聞いた管制塔では、話が噛み合わないので、「なんですか?」と聞き返しています。

この敬語の会話の相手こそ、自衛隊のジェット機のパイロットではないかと言われています。123便の機長は、元々は自衛隊のパイロットでした。その後、民間機のパイロットとなり、日航に勤めるようになりました。

それだけに、自衛隊の中の厳しさや命令に対しては絶対服従、ということが身についていたのでしょう。

恐らく機体に残る証拠(オレンジ色)もみ消しの為に、自衛隊のパイロットは横田基地への着陸を許可しなかったのだと思います。

それでも機長は、乗客を守る為、長野県のレタス畑を低空飛行しています。もしかすると、平らなレタス畑に着陸を試みたのかもしれません。しかし、生憎夏でまだ薄明るかった為、レタス畑では、まだ農家の方達が作業をしていました。それで、着陸を諦めたのかもしれません。

または、自衛隊のジェット機に着陸を阻まれた可能性も残っています。

このように、ボイスレコーダーには不可思議な点が数多くあります。

【JAL123便の謎】おぞましい墜落現場の状況

まるで遺体が二度焼きされたよう

墜落現場は、手だけや足だけの遺体の一部や頭の無い遺体等、大変な惨状でした。

そして、墜落の際に起きた火災で焼けた遺体が殆どでした。

ところが、その遺体の焼け方が異常なのです。

遺体を鑑定した医師・歯科医師の話は、

「まるで、遺体を二度焼きしたようだ」

と言う程、酷い焼け方に首を捻っています。

しかし、飛行機の燃料はそれほど高温にはならないのです。

燃料にまつわる謎「ガソリンとタールの臭いがした」

飛行機の燃料は、ケロシンと呼ばれる灯油に近い物で、飛行機が飛ぶ10,000mでも凍らないのが特徴です。

しかし、一番最初に生存者を見つけた上野村の消防団の方達は、現場はガソリンとタールの臭いがした、と言っています。そのような臭いは、飛行機燃料からは発しません。

また、4人の生存者は、機体後部に乗っていたのですが、後部がちぎれて沢を滑り落ちたので、他の部分と違い、火災に巻き込まれずに済みました。

墜落後、生存者の方の証言では、多くの人達のうめき声や、子供の「ようし、僕は頑張るぞ」というような声があちらこちらから上がっていたそうです。

家族と話していたのに、その後声がしなくなったという生存者もいます。

そして、ガソリンとタールの臭いと、真っ黒に炭化した遺体。

これは、火炎放射器等を使わなければ、ここまで炭化しない、という程の焼け方だったのです。

火炎放射器やナパーム弾は、身体に着くといつまでも燃え続けるという特徴があります。燃焼性と持続性が極めて高いのです。

おまけに、炭化した遺体が接している樹は全く焦げてもいない、遺体を裏返したら、全く焼けていなかった、また機長などは下顎の部分しか見つかりませんでしたが、制服は殆ど焼けていない、といった不可思議な点が多いのです。

火炎放射器は自衛隊しか持っていない武器です。

もし、もっと早く、日本の警察や自衛隊がアメリカ軍から聞いた墜落位置に行っていたら、生存者はもっと多かったに違いありません。

地元の消防団の方達は、当日の夜に山に登ろうとしたら、警察に止められたと言います。

朝になる前に『秘密裏に』行われたこと

アメリカ軍から123便の墜落位置を聞いていたにもかかわらず、機動隊、警察、自衛隊による救助は朝まで行われませんでした。

相変わらずテレビでは、「御座山」が墜落地点であると繰り返し報道されていました。

しかし、地元の住民達は、テレビの報道に諦めをつけ、自分達で現場へ向かった人もいました。

その中の1人は、Mさんと呼ばれていて、事故があってからすぐ、友人2人とバイクで御巣鷹の山頂を目指しています。彼らの後ろから白バイがついてきたところをみると、警察も御巣鷹山が現場であることを知っていたとしか思えません。

Mさん達が急峻な山道を7時間ほどかけて登ると、もう辺りは夜が白み始めていたので、朝の4時前後ではなかったかということです。

警察より先に現場に到着すると、そこでは、なんと自衛隊員が100人近くいたそうです。

しかし、うめき声を上げる生存者には構っていなかったので、Mさん達は自衛隊員に負傷者の場所と手当てを頼んだそうですが、自衛隊員は、

「動かすと危険。後続部隊が救助を担当するから」

と言うだけで、地面に落ちている物を拾っては大きなバッグに入れて、尾根の反対側にホバリングしていたヘリコプターに吊り上げていたと言います。

100人近くいたにもかかわらず、自衛隊員達は生きている人達に見向きもせず、ただただ、暗視ゴーグルで地面に落ちている物を拾っていたというのです。

行われた『証拠の隠滅』

13日朝7時頃から、本格的な救助が始まりましたが、その時には、もう現場では誰の声もしませんでした。

その前に、Mさん達が朝の5時頃に下山を始めた時に、もう生存者のうめき声はしなくなっていたそうです。

生存者4名を発見し、救助したのは、自衛隊や警察ではなく、上野村の消防団の方達です。そして、4名の方々は機体からちぎれた為、夜中のうちに作業をしていた自衛隊員に見つからなかった、という不幸中の幸いだったと言えるでしょう。

一体、Mさん達が見た、指が1本しか取れていない人や、火災に巻き込まれておらず、うめき声を上げていた人達は、どうして皆一様に炭化するまで、徹底的に焼け焦げていたのでしょうか。

災害時には命がけで被災者達を助けるはずの自衛隊員は、それらの人達を放っておいて、何を拾っていたのでしょうか。

そして、遺体は飛行機の燃料(灯油)で、何故あれだけすっかり炭化してしまったのでしょうか。

何を隠そうとして、政府は自衛隊にどんな指示を与えたのでしょうか。

恐らくは、123便の機体に着いたオレンジ色の残骸を、暗視ゴーグルで探して拾っていたものと思われます。

もし、墜落による爆発で遺体が炭化する程現場が灼熱の状態であれば、自衛隊員達も悠長に目的の物を拾う作業などは出来なかったはずです。つまり、彼らは命令を遂行した後で、遺体を、まだ息のある乗客も含めて、焼き殺したのではないかという疑問が湧きます。

証拠の隠滅です。

生存者に含まれているべき少年の謎

この写真を見て下さい。

画像は「Rapt」より引用

生存者の中に少年はいません。

しかし、この少年は死後硬直していないように見えます。

万が一死亡しているとしたら、事故後13時間以上経っている訳ですから、丁度内臓から始まる死後硬直が全身に現れているはずなのです。

顔を隠すようにした手や、自衛隊員に抱えられて曲がった膝等、相当なダメージは受けていますが、生きているように見えます。それだけに、自衛隊員もしっかりと抱いているように見えます。

実は、この少年以外にも、少年や少女も目撃され、特に少年に関しては、この写真の少年ではないかもしれませんが、自衛隊員が無線で「少年が一人生きている」、と本部に連絡しているのです。

新聞も当初は「生存者8人」と報道しています。

それらの子供達はどこへ行ってしまったのでしょう。

考えれば考える程、背筋が寒くなります。

【JAL123便の謎】123便は撃墜されたのではないか

この事故で、自分のお子さん2人と、親戚3人の併せて5人を亡くした小田周二氏が書いた「524人の命乞い」という本があります。

題名を見ただけで、やりきれない気持ちになりますが、小田氏は親族を亡くしたこの事件を、実に冷静に細かく検証し、123便が横田基地にも、レタス畑にも着陸させてもらえなかったこと、最後には自衛隊のミサイルで撃墜させられたことを書き上げました。

この本の中で記されている最重要ポイントは、

「123便は操縦出来ていた」

という部分です。

ボイスレコーダーの機長の「uncontrollableです」という言葉から、当初123便が「完全なる操縦不能」に陥ったと思われていました。

ところが、123便は、エンジン出力の微調整で「ライトターン(右回り)」も「レフトターン(左回り)」も出来ています。

降下出来なかった際も、機関士がギア(車輪)を下ろして、その重量と空気抵抗で機体を下げることを提案しています。

油圧が効かないので、「ダメだ、下りない」という機長に対し、機関士は「オルタネート(代替装置)で」と別の方法を挙げています。

機関士は一番落ち着いていたと、事故の翌年に「墜落の夏」を刊行した吉岡忍氏も書いています。

この後も、フラップの上げ下げを提案し、「ダメだ」という機長に対し、「いや、オルタネートで」と答え、自分で操作をしています。

操縦桿を握りっぱなしの機長・副機長より少しだけ余裕があった、もしくは機械関係のベテランだったからとも言えるかもしれません。

実際123便はコックピットの3人が知恵と力を振り絞って、飛行していたのです。羽田より近い横田基地まで、実際に向かっていました。

油圧系統を使わずに、何とか操縦していたのです。

だからこそ、車輪も出ていたのですから、怪我人や死者も出たかもしれませんが、横田基地に不時着も可能だったのです。

それを妨げたのが、自衛隊のジェット機だと小田氏は言います。

一体この事故は何がどうなったのか、隠された部分を知りたい方にはお薦めの本です。内容は、あくまで小田氏の解釈ですが。

ボイスレコーダーの最後の方に、機長の激しい息遣いが録音されているのですが、この部分は自衛隊のジェット機のパイロットとの会話の後なのではないかと推測しています。

もしかすると、機長は強硬に横田基地へ着陸しようとしたかもしれません。しかし、123便はジェット機2機に追尾されていたのです。

ジェット機が123便の行く先を遮れば、それは不可能になります。

また、実際に上野村の子供達も飛行機が燃えながら落ちた様子や、飛行機に向かって閃光が走っているのを見ています。

ミサイル撃墜説は、荒唐無稽な話ではないでしょう。

むしろ、状況証拠を繋ぎ合わせると、撃墜されたと考えるほうが、むしろ自然ではないでしょうか。

JAL123便陰謀論に関する『反対論』

123便の尾翼に何かが当たって墜落した、というのは、都市伝説だという人達も大勢います。

その人達は、まず尾翼の部分を見て、その壊れ方から、これは外部から物が当たったのではなく、内部から破裂したのは間違いない、と言います。

しかし、それは、相模湾に8割方沈んだ尾翼と両方を見てからでないと、出せない結論ではないでしょうか。

ボーイング社から派遣された調査員達も、一目で圧力隔壁が原因だと思ったと言います。

しかし、圧力隔壁は、事故後たった3日で、山から降ろす為ということで、カッターで幾つにも切られてしまいました。

これでは、元々の破損部分を切ってしまった可能性もあります。そんな状態で、本来の調査が行えるのでしょうか。

また、アメリカに取材に行ったテレビ局の中には、たった一人ながら、

「123便の事故の原因は圧力隔壁ではない」

と言う修理担当者の証言を得ていることも付け加えておきます。

最後に

これからも歴史に残るであろう「JAL123便墜落事故」。

本来ならば、事故後すぐに相模湾から尾翼を引き上げ、事故の原因をきちんと調べることが必要でした。

この事故には、様々な疑惑や陰謀論、都市伝説が存在します。

ですが重要なのは、それらの疑惑や陰謀論の真相を、(徹底的な調査の結果分からなかった、ではなく)何らかの力で、あえて追求しない状態で強制終了されているということです。

まるで、出てきては困る証拠を隠滅しようとしているように。


修理ミスを犯したボーイング社の飛行機は、この事故の後、もっぱら日本が買い漁っています。当時日米の貿易摩擦があったとしても、こんなに大きな事故を起こした会社をなぜ信頼出来るでしょうか。

しかも外国ではエアバス等が主流だったのに対し、日本はボーイング社一辺倒です。この点も疑問が残ります。


日本はよく『平和ボケしている』と言われることが多いですが、それは単に我々がマインドコントロールされているだけで、日本政界の上層部には我々の想像を絶する暗部が存在するのかもしれません。

いつの日か、JAL123便に起こった真実が白日の元に晒されることを、願わずにはいられません。

Amazon電子書籍 好評販売中!

Kindle Unlimited会員は無料でお読み頂けます。


iPhoneから送信

0 件のコメント:

コメントを投稿