2023年11月30日木曜日

阿波と古事記06

阿波と古事記06

阿波と古事記06

6.古事記の主人公は、阿波の穀靈(こくれい)・大宜都比売神(おおげつひめがみ)である!
 全国からの参詣者が絶えない伊勢神宮の外宮に祀られる豊受大神(とようけのおおかみ)と大宜都比売神(おおげつひめがみ)とは同一神である、と大日本神名辞典や本居宣長著「古事記伝」、広池千九郎(ひろいけちくろう)著「伊勢神宮と我が国体」などに書かれています。大宜都比売と豊受大神が同一神であるので、全国の人は阿波の穀靈・大宜都比売神を拝んでいるのです。
 古事記に粟国(あわのくに)は大宜都比売と記述され、この神だけが国生みより登場し続ける唯一(ゆいつ)の神です。伊邪那岐命(いざなぎみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)が、国生みの後に生み、須佐之男命(すさのおうみこと)が殺した場面などの計四回、大宜都比売名で登場しています。また、食粗の神として豊受大神・保食神神様など名を変えて何度も登場してきます。国生みで生まれた他の神は、それ以降一度も登場しないのですから古事記の主人公は大宜都比売になります。古事記に書かれている大宜都比売神は、先に現れ、物語として何回も登場しますが、これに対して豊受大神は
 【次は和久産巣日神(わくむすひのかみ)です。この和久産巣日神の子が、豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)といいます。】また、天孫降臨(てんそんこうりん)の際に【次に登由宇気神(とゆうけのがみ)、こは外宮(とつみや)の度相(わたらい)に座(いま)す神ぞ】
とたった一行ずつで書かれ、物語にまでなっていません。どぢらの神を重要視して書いているかがわかります。大宜都比売が主人公として書かれているのですから、古事記は阿波で起こった事を記録にとどめた書物になります。現代の社会では、天照大御神が「古事記」の主人公であるように思われていますが、天照大御神は表に現れている神であって、須佐之男命と天照大御神の物語・天の岩戸の物語・葦原中国の平定・天孫降臨の物語など多くの場面に登場してきます。しかし、よく読めば、大宜都比売神が後ろに隠れているのがわかります。
 伊勢神宮の内宮所伝本、倭姫命世紀の冒頭にも、次のように記されています。(左参照)
 何よりも大切なことは「ミケツ神である豊受大神〈大宜都比売神〉と現身(うつせみ〉の天照大御神が、前もってかくれたる契りをむすび、ながく天下を治めた」と記録していることです。ここに大嘗祭、当夜の穀靈と現身との合体「かくれたる契り」が、伊勢神宮「内宮・外宮」のペアという表現と一致しているのです。
 また、太陽神であるのに伊勢神宮も天皇家も太陽を祭る神事が見あたりません。表向きは天照大御神を祀るといいながら、実際は夜に大宜都比売を祀る稲〈食物)の神事であり、また天皇がなされている祀りは、田植えや稲刈りを始とする新嘗祭・神嘗祭が一番重要な祭りです。それらを見ても太陽の祭りではなく、食粗の祭りです。食糧の神は、阿波日の大宜都比賣しかいないのですから、古事記は、阿波を舞台として繰り広げられた話です。
 これまで書いてきたように、大宜都比売神と豊受大神は、同一神であり、全国の人が伊勢神宮の豊受大神を拝むということは、根の国の阿波の穀靈・大宜都比売神を拝んでいることになります。
 伊勢神宮の内宮・外宮と同じように阿波では、徳島市国府町矢野神山八倉比売神社(祭神大日�貴・天照大御神、またの名を八倉比売神)と徳島県名西郡神山町神領字上角の上一宮大粟神社(祭神大宜都比売神またの名を八倉比売神)として祀られています。このように、大嘗祭の時の現身と穀靈の合体を、阿波のように八倉比売神という同一の名で表しているところは、日本中を捜しても阿波以外には、どこにも存在しません。以上この事実からみても古事記の上巻は、阿波古代の物語だったのです。

《国土の形成》
 そこで、天(あま)つ神たちはイザナ岐命(いざなぎのみこと)、イザナ美命(いざなみのみこと)の二柱の神に「この漂っている国土をよく整えて作り固めよ」と仰(おお)せられ、玉(たま)で飾った天の矛(あまのほこ)を授けて、おまかせになった。そこで二神は、天(あめ)の浮橋(うきはし)に立たれ、その矛を刺し下ろし、かき廻して引き上げる特、その矛の先からしたたり落ちる塩水が、積もりかさなって島となった。これが、淤能碁呂島(おのころじま)である。
 天(あめ)より、その島にお降りになり、天の御柱(あめのみはしら)を立て、りっばな御殿をお建てになった。そしてイザナ岐命(ぎのみこと)が女神のイザナ美命(みのみこと)に「おまえの身体は、どのようになっているのか」とたずねられたので、女神は「私の身体はだんだん整うてきましたが、欠けているところが一所(ひとところ)あります」とお答えになった。そこでイザナ岐命は「私の身体もどんどんとできあがり整ってきたが、余分なところが一所あります。それで、この私の身体の余分なところをあなたの欠けているところに刺し塞(ふさ)ぎ整(ととの)えて、国土を生み出そうと思うが、どうだろうか。」とおっしやった。すると、イザナ美命は「それは、いいわ」と答えになった。
 そこで、イザナ岐命が「それなら、私とおまえは、この天の御柱(あめのみはしら)を回り、出会った所で夫婦(めおと)の契(ちぎ)りを結ぼう」とおっしゃった。「おまえは、右から回りなさい、私は左から回って出会いましょう」と約束して、回りはじめて出会った時、イザナ美命が、先に「まあ、なんてすてきな男性でしょう!」と言った。その後で、イザナ岐命が「ああ、なんとかわいい乙女だ!」とおっしゃった。それぞれ言い終わった後に、イザナ岐命は、妻に「どうも女性が先にものを言うのはよくない」と言いながら寝所(ねどこ)で子をつくりはじめましたが、生まれた子は、水蛭子(ひるこ)であった。この子は葦船(あしぶね)に入れて流しました。次に淡島(あわしま)が生まれたが、これも子には入れなかった。

《大八島国の生成》
 そこでニ柱(ふたはしら)の神が、相談して「いま、私たちが生んだ子たちは思わしくない。やはり、天つ神(あまつがみ)の所に行って、ご意見をうかがおう」といって、さっそく高天の原(たかまのはら)に一緒に上(のぼ)って、天つ神に神意(しんい)をうかがいました。
 そこで、天つ神の神意により、太占(ふとまに)という占(うらな)いをしたところが、「女性が、先に言葉をかけるのは良くない。また帰り降(くだ)って、あらためて言葉をかけなおすがよい」とのお告げがありました。
 そこで、すぐ帰り降って、また、その天の御柱(あめのみはしら)を前のように行き廻(めぐ)った。そして今度は、イザナ岐命が、先に「ああ、なんと美しい乙女だろう」といい、あとからイザナ美命が、「まあ、ほんとにりっばな男性ですわ」と言葉をかえしました。このようにお互いに言葉をかけあった後に、生まれた子が、淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけじま)でした。
 次に伊豫之二名島(いよのふたなじま)ができました。この島の本体は、一つですが、面(おも)が四面(よんめん)あり、面ごとに名がついています。伊豫国(いよのくに)を愛比売(えひめ)といい、讃岐国(さぬきのくに)を飯依比古(いひよりひこ)といい、粟国(あわのくに)は大宜都比売(おおげつひめ)といい、土佐国(とさのくに)を建依別(たけよりわけ)といいます。
 次に隠伎之三子島(おきのみつごじま)を生みました。またの名は、天之忍許呂別(あめのおしころわけ)といいます。
 次に筑紫島(つくのしま)を生みました。この島もまた本体は一つで四面あり、面ごとに名がついていました。筑紫国(つくしのくに)は白日別(しらひわけ)といい、豊国(とよのくに)は豊日別(とよひわけ)といい、肥国(ひのくに)は建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といい、熊曾国(くまそのくに)は建日別(たけひわけ)といいます。
 次に壱岐島(いきのしま)を生みました。またの名は、天比登都柱(あめひとつばしら)といいます。
 次に対馬(つしま)を生みました。またの名は、天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)といいます。
 次に佐渡島(さどのしま)を生みました。
 次に大倭豊秋津島(おおやまととよあきづしま)を生みました。またの名は天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきづねわけ)といいます。
このように、この八つの島を先に生んだので大八島国(おおやしまくに)と我が国を呼ぶのです。
 このようにして、大八島を生んだ後に、帰るとき、吉備児島(きびのこじま)を生み、またの名を建日方別(たけひかたわけ)といい。次に小豆島(あずきじま)を生み、またの名を大野手比売(おおのでひめ)という。
次に大島を生み、またの名を大多麻流別(おおたまるわけ)といい。次に女島(ひめしま)を生み、またの名を天一根(あめひとつね)という。次に知訶島(ちかのしま)を生み、またの名を天之忍男(あめのおしを)といい。次に両児島(ふたごのしま)を生み、またの名を天両屋(あめふたや)といいます。
吉備児島から天両屋まで合わせて六島である。

《神々の生成》
 イザナ岐命(ぎのみこと)・イザナ美命(みのみこと)は、国を生み終えて、さらに神を生み出し、そうして生んだ神の名は、大事忍男神(おほことおしをのかみ)、次に石土毘古神(いはつちびこのかみ)を生み、次に石巣比売神(いはすひめのかみ)を生み、次に、大戸日別神(おほとひわけのかみ)を生み、次に天之吹男神(あめのふきをのかみ)を生み、次に大屋毘古神(おほやびこのかみ)を生み、次に風木津別之忍大男神(かざもつわけのおしをのかみ)を生みました。次に海の神、名は大綿津見神(おほわたつみのかみ)を生みました。次に水戸(みなと)の神、名は速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)。次に女神の速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)を生みました。この速秋津日子(はやあきつひこ)・速秋津比売(はやあきつひめ)の二神が河と海をそれぞれ分担して生んだ神の名は、沫那芸神(あわなぎのかみ)、次に沫那美神(あわなみのかみ)。次に頬那芸神(つらなぎのかみ)、頬那美神(つらなみのかみ)。次に天之水分神(あめのみくまりのかみ)、国之水分神(くにのみくまりのかみ)。次に天之久比奢母智神(あめのくひざもちのかみ)、国之久比著母智神(くにのくひざもちのかみ)です。次に風の神、名は志那都比古神(しなつひこのがみ)を生みました。次に木の神、名は久久能智神(くくのちのかみ)を生みました。次に山の神、名は大山津見神(おほやまつみのかみ)を生みました。
次に野の神、名は鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)を生みました。またの名は野椎神(のづちのかみ)といいます。この大山津見神(おほやまつみのかみ)・野椎神の二神(のづちのかみ)が、それぞれ分担して生んだ神の名は、天之狭土神(あめのさづちのかみ)、国之狭土神(くにのさづちのかみ)。次に天之狭霧神(あめのさぎりのかみ)、国之狭霧神(くにのさぎりのかみ)。次に天之闇戸神(あめのくらどのかみ)、国之闇戸神(くにのくらどのかみ)。次に大戸或子神(おほとまとひこのかみ)、大戸或女神(おほとまとひめのかみ)。次に生んだ神の名は烏之石楠船神(とりのいわくすぶねのかみ)、またの名は天鳥船(あめのとりふね)といいます。
 次に大宣都比売神(おおげつひめのかみ)を生みました。次に火之夜芸速男神(ひのやぎはやおのかみ)を生みました。またの名は、火之弦毘古神(ひのかぐつちのかみ)といい、またの名は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)といます。この子を生んだために、イザナ美命はみほとをわずらい病んで床にふされました。その時もどされた嘔吐(へど)からできあがった神の名は、金山毘古神(かなやまびこのかみ)、次に金山毘売神(かなやまびめのかみ)です。次に糞(くそ)からできあがった神の名は、波に夜須毘古神(はにやすびこのかみ)、波に夜須毘売神(はにやすびめのかみ)です。次に尿(ゆばり)からできあがった神の名は、弥都波能売神(みつはのめのかみ)といい、次は和久産巣日神(わくむすひのかみ)です。この和久産巣日神の子が、豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)といいます。
 そして、イザナ美神(みのかみ)は、火神(ひのかみ)を生んだことによって、ついにお亡くなりになりました。
 イザナ岐(ぎ)・イザナ美(み)の二神がいっしょに生んだ島は、十四島で、また、神は三十五神である。
これらは、またイザナ美神が亡くなられる前に生んたものです。ただし意能碁呂島は生んだのではありません。また、蛭子と淡島とは、子の数には人れません。

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