2023年11月27日月曜日

マックス・ウェーバーと音楽社会学 | 井手敏博の日々逍遥

マックス・ウェーバーと音楽社会学 | 井手敏博の日々逍遥

マックス・ウェーバーと音楽社会学

音楽社会学

近代知の巨人といわれるマックス・ウェーバー(1864~1920)の生涯は西欧近代の本質を考え続けたことであった。本質とは要因であり、担い手であり、果実である。これらは分化しつつ相互に影響して、場合によって統合される。

彼の関心は多岐に亘る—-それ故に巨人と称せられるのである—-が、私が音楽社会学というカテゴリーに気づいたのは比較的新しい。一般に『音楽社会学』といわれる文献は「音楽の合理的かつ社会学的基礎(Die rationale und soziologische Grundlagen der Musik)」であって、まだ読破してはいない。読みこなせるかどうかも疑問なので、世の中に流布しているウェーバーの解説書を基にしての話をすすめる。

ウェーバーは西欧音楽を「他の諸地域の歌唱や演奏がヨーロッパより優れている例はいくらでも挙げることが可能だが、和声音楽の分野では西欧近代音楽の優位性は揺るぐことがなく、他地域ではこの分野を構築することができなかった」といったように位置づけている。音楽は近代西欧が創りあげたと言っているに等しい。

西欧の文化が世界に一般化されて近代文明となったことの例証はたやすい。「経済における資本主義生産様式」であり「国家体制としての憲法と三権分立の法治」である。「官僚制行政組織」に「自然科学の学問的探求と大学の設立」もそうだ。「芸術の市場商品化」も進展した。それによって絵画に遠近法が共有され、また音楽に和声音楽が確立された。芸術としての絵画や音楽が人類の到達した高みとして定立されたのである。

音楽の3要素といわれるものは旋律melodyと律動rhythm及び和声harmonyである。和声音楽とは和音和声chord harmonyであり、自由な転調や移調を可能とした均質なオクターブを保障した12平均律に基づく。12平均律とは1オクターブを12等分する音律をいう。隣り合う半音の周波数比は一定である。楽譜が生まれ記譜がなされ、生まれた曲をwrite downすることで作曲が可能になった。ひいては近代産業資本の勃興にも資することとなったのである、と。

12平均律が今ある楽譜を生み出して芸術の市場化に与ったのは理解できる。だが一挙に産業資本の勃興まで論じられては少し鼻白む。西洋音楽が地球の覇権を握ったことは諒解できる。たとえ世界No.1の国が中国になったとしてもチャルメラがトランペットに代わることはありえない。メロディーとリズムはあってもハーモニーがないエスニック音楽では、(たとえば勇気といった)感情を表現するのは不十分である。

「君が代」の作曲は原曲を英国公使館軍楽隊長のジョン・ウィリアム・フェントンが作り、宮内省雅楽部の林廣守が改作した演奏を、同僚の奥好義が曲に起こし、お雇い外国人音楽教師だったドイツ人フランツ・エッケルトが西欧的和声をつけて編曲したものである。和声がなくては国家の荘重が表現されなかったのであろう。

合理的な和声音楽と、自由な転調や移調によって豊かな感情を表現する調性音楽の完成は、「産業資本の勃興に与った」というテーゼも牽強付会ではない気がしてくる。明治新政府が西洋文化の<なんでも猿真似>に狂奔したのも、強ち税金の無駄遣いではないのかもしれない。富国強兵を実現するのは軍楽隊のマーチが不可欠だったのである。

民族音楽の限界性

音楽は人々の情緒を表現する。原始の昔から人々は喜怒哀楽を「うた」として歌い、「おどり」を舞ってきた。歌や踊りに民族的な違いはあっても感情の表出に優劣はない。だが技法にはある。

私はわが国に民族音楽のどれが「伝統音楽」で、なにがそうでないのかを区分する境界がよくわからない。とりあえず前近代と近代の時代区分で考えてみる。私の前近代音楽体験は詩吟と謡曲である。演歌は歌曲の民謡バージョンであるし、今や民謡自体が西洋音楽化していることもあって検討の対象としない。「小節がいやらしい」とか「喉を締め上げるような発声は野蛮だ」といったことは主観的論難に過ぎない。

それはいいとしても、民族音楽は入り口がせせこましく、門戸開放とはほど遠い。詩吟や謡曲の当事者が国民一般への普及や理解促進を考えているとは思えない。頭がわるいのか、どうせ滅びるだけと諦めているのか。どちらにせよ、力を尽くさずして滅びに到る道を着々と歩んでいる。

楽譜がない。詩吟はそもそもない。謡曲は大きな文字の横や下に波模様や跳ね点などがあるが、その説明は教本にもなければ先生もやってくれない。つまりは「師弟相伝」のマンツーマン教育であって、それ以外の方法はない。さらに極論すれば天下の大道(=orthodox)がない。幼稚園のお歌の時間みたいに先生の後を真似することの繰り返しだから、先生の癖を癖と知らずに覚えてしまう。

「まず師匠ありき」では普及が覚束ないだけではない。津々浦々に伝播するうちに御家流となって様々の流派ができあがる。江戸時代の時制である不定時制そのものである。—-不定時制は一日を昼夜で二分したので夏冬で時間の長さが違い、また南中時を正午としたので地域によって時刻もズレがあった。—-それはローカリティがあるとかの話ではないと思う。

師弟と記したが、職業芸能人を別にすれば、教わる方だって弟子とか思っちゃいないので師匠と弟子ほどの重みはない。詩吟は流派で漢詩の読み下しが異なる。節(メロディー)だって違うから音楽的良し悪しがわからない。みんな勝手放題ではないかと思ってしまう。

詩吟はアマチュアっぽいからWEBで聴けるからまだいい。謡曲をも包含する能楽はシテ方の観世・今春・星生・金剛・喜多をはじめとして、ワキ方・囃子方・狂言方など19流派で寡占化されて何百年である。これで発展とか望めるわけもない。趣味で謡曲をやりたいといってもプロについて教わるマンツーマンなので、それなりの出費が必要である。DVDや教本があるといっても安いものではない。楽譜がないということはレベルの平準的を阻害する。西洋音楽でも先生についての個人レッスンはあるが、それは趣味の領域を超えてからのレベルである。

西欧近代音楽は抽象的感情を表現する和声をつくる技法を創りあげた。和音と和声の関係を解き明かしたのだ。感情の表現はなお作曲家の手のうちにある。対位法と和声法といったものは長い時間と多くの人の経験と試行錯誤の結果であった。誰かの閃きによる発見ではない、だからこそ、近代西欧の恵沢を一身に受けていると思うウェーバーが大いに自負したのだと思われる。

クラシック音楽のタイトルはほとんどが無機質である。師走の定番であるベートーヴェンの第九のタイトルは「交響曲第9番ニ短調作品125(Sinfonie Nr.9 D-moll op.125)」である。「合唱付き(Choral)」というサブタイトルがつけられることもあるが、無味乾燥に変わりはない。「交響曲第3番変ホ長調『英雄』作品55(SymphonyNo.3-Eroica)」はむしろ例外である。

私たちはクラシック音楽の場合、無機質のタイトルを当たり前と感じているけれども、ポピュラーや歌謡曲あるいは伝統音楽だったらそうはいかない。音楽は「うた」から発し、歌い続けるためのメロディーとリズムが音楽となった。あるいは(風や水など)自然の音を声や(音を出す)道具で再現しようして音楽が生まれたとされる。歌がどんな気持ちを歌ったものか、音楽がどんな自然の音を表そうとしたものかを、歌い手や演じ手が聞き手に伝えるのは当然である。

タイトルは重要である。歌い終わっての感動の拍手は、タイトルの内容を歌手Singerがうまく表現していると聴衆Listenerが感じた時に起きる。外国の歌を訳詞する際に、タイトルを"苦吟"するのももっともである。

そう考えていくと、クラシック音楽とは和声音楽の心地よさを堪能するカテゴリーであるとも思えてくる。聞き手へはタイトルの縛られない空想の自由をもたらし、作曲家は制作の自由を有し、指揮者あるいは演奏家も解釈とメソッドの自由を得る。なるほど、近代西欧がつくりあげた音楽空間は壮大な可能性を人類に広げてみせたのだった。

平均律を択った意味

音としての和音和声が西欧以外の他の諸地域、東洋やインドなどの人々が無知だったわけではない。古代黄河文明ではすでに12音程の知覚があり、江戸期の和算でも音程の差を12乗根で開く方法を会得している。となると、むしろ平均律への冒険を敢えて行った西欧文化の「勇気」を賞賛するべきかもしれない。

楽音とはヒトが快いと感ずる音であって、文字通り音楽に使われる音である。共鳴という概念は固有周波数による音の増幅といっていいが、これによって音楽は鈴鈴(りんりん)と鳴り響いて強く大きくなる。その音を楽音は掬(すく)いとる。

平均律は1オクターブの音を12音程に等分したが、それは経験値による音程数を数学的に平均した結果である。平均律の反対概念を純正律という。純正律は経験値によって和音が濁らない音程でつくられた音階である。平均律が「1オクターブの周波数比は2」で「隣り合う音程の周波数比は12√2:1」であること、純正律とは「和音の周波数比が整数になる」ことが定義となったのは科学的後追いである。1オクターブを12分する科学的根拠はなく、純正律和音の調和も説明できない。すべてはヒトの感性の賜としかいいようがない。

平均律の音程と周波数は対数曲線で表される。対数の解はほとんどが無限小数であるようにアナログanalogueであるに対し、純正律の解である整数はいわばデジタルdigitalである。アナログ楽器である弦楽器の場合、演奏者の耳と腕によって和音の音程を調和させることができる。しかしデジタル楽器であるピアノの調律は難しい。マックス・ウェーバーは『音楽社会学』のなかでピアノの起源に言及していが、「ピアノによる音感訓練は微妙な聴覚を鈍らせる」とも述べている。そもそもピアニストはコンサートホールにMy pianoを持ち込めない。

12平均律は音の美しさを犠牲にして音楽表現の多彩な可能性を選択したということもできる。その結果主題が確固としていた調性音楽は、さらに自由な感情表現をもたらす無調整音楽に取って代わられた。絵画が具象の覊束を脱して印象派から絢爛たる抽象へと自由に手足を伸ばすようになったように、芸術の様々の分野においてタイトルに束縛されない「芸術のための芸術」が花開いてきたのである。

ウェーバーの限界性

近代西欧音楽が産業資本の勃興にどう与ったのか、ウェーバーも精緻な論証によって解明したわけではない。『音楽社会学』は彼の死の翌年に未完のままで発表された。

さらに言及すれば、ウェーバーの論じた西欧近代の本質の前提であった「西欧の優位」が破綻したことのなかに、彼の洞察力の限界を思うのである。破綻とはEUの経済的な揺らぎといったことではなく、資本主義生産様式が近代的合理主義の確立—-国家体制の法治や行政官僚機構及び高等教育機関を軸とする自然科学の進展など—-がなくとも、容易に成功できるようになったことである。

逆説的にいえば、音楽や絵などの文化的な近代西欧化がなされなくともいい。そうした「国家としてのハビトゥスhabitus」は不必要なのだとなると、本気で「西欧の没落」がやってきたとすら思える。—-これについては「ハビトゥスの妖怪」(1)~(4)(2011/06/24~06/30)を参照してほしい。

だれもが彼の"箴言"、すなわち「資本主義の精神とは節制と禁欲である」を信じなくなってきた。資本主義—-その瑞々しい精神を蘇生させることができるかどうか—-が問われているのである。

1920年と今日の音楽情況はまるで異なる。音楽社会学が意味するものは現代こそ大きくなっているのではあるまいか。

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