2023年11月7日火曜日

御幸道路 - Wikipedia

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石灯籠

御幸道路の石灯籠(2013年4月、五十鈴川駅前、現存せず)

御幸道路沿いには石灯籠が建ち並んでいた[2]。石灯籠は「伊勢らしい景観」であるとされ、住民や観光客から親しまれてきた一方で、倒壊の危険性と責任の所在が不明であるとして長年地域の課題とされてきた[41]。主に御幸道路沿線に設置されているが、近鉄宇治山田駅前など御幸道路から外れたところにもあった[42]2013年(平成25年)時点の調査では、国道区間に102基、三重県道区間に425基、伊勢市道区間に11基設置されていた[42]が、2015年(平成27年)3月の調査では国道区間99基、三重県道区間418基、伊勢市道区間9基、道路敷地外に86基となり[30]2018年(平成30年)4月には国道区間99基、三重県道区間328基、伊勢市道区間8基、伊勢市営駐車場周辺に約80基となった[43]。灯籠上部の落下による死亡事故が発生したことを受け、2018年(平成30年)11月29日に全ての撤去が完了した[44]

灯籠の設置と責任の曖昧化(1955-1977)

1955年(昭和30年)3月5日、外宮と内宮および内宮の別宮である伊雑宮[注 6]を結ぶ道路に石灯籠を設置することを目的とした「伊勢三宮奉賛献燈会」(以下、献燈会とする)が設立され、日本全国から献灯者を募集した[45]。献灯者には歴代内閣総理大臣や財界の有力者も名乗りを上げた[46]。同年12月1日には献燈会が三重県知事と伊勢市長に対して道路占用許可を申請し、灯籠が設置された[45]。灯籠には、吉田茂池田勇人ら献灯者の名が刻まれた[47]。その後、献燈会は1960年(昭和35年)4月1日に占用許可の更新を県知事に申請したが、未処理のまま時が流れ、1963年(昭和38年)から1965年(昭和40年)にかけて献燈会関係者が死去し、事実上献燈会は解散状態[注 7]となった[45]

献燈会解散後の1968年(昭和43年)頃、「伊勢神宮献灯籠保存会」(以下、保存会とする)が設立され、1975年(昭和50年)11月18日、国道23号拡幅のために灯籠を移設することになり、保存会は伊勢市長に豊川浦田線交通広場(宇治浦田街路広場)の一部使用許可を申請した[49]

進まぬ管理交渉(1977-2009)

1977年(昭和52年)8月5日、保存会は伊勢商工会議所と今後の灯籠の管理について協議を行い、同年10月18日には伊勢市観光協会を含めた三者で協議が持たれたが、具体的な進展はなかった[50]。1982年(昭和57年)には伊勢市当局が三重県や日本国の関係機関と灯籠に関する対策協議会を設置したが、ここでも成果を得ることができなかった[50]。こうした中、伊勢市駅前から外宮前の道路(三重県道37号鳥羽松阪線)を4車線化するにあたって灯籠48基を移設することについて議論が行われたが、補強工事を行うことでそのままの位置での保存が決定した[50]

1989年(平成元年)には6月、9月、12月の三重県議会土木常任委員会の場で灯籠をどうすべきかが議題に挙げられた[50]1993年(平成5年)には神宮式年遷宮に合わせ、暫定的に表面の修復が行われた[46]1995年(平成7年)と2000年(平成12年)には国・県・市の三者協議が持たれたもののやはり事態の進展はなく、保存会との折衝は進まなかった[50]

2006年(平成18年)、遅々として進まなかった議論が動き出す[50]3月22日に保存会と「社団法人神宮環境振興会」(以下、振興会とする)の間で灯籠の管理等に関する合意書が締結されたのである[51]4月26日には振興会が神宮会館で会見を開き、灯籠の補修と周辺民有地の買い上げについて目途がついたと表明した[46]。これにより、行政当局は交渉相手をようやく確定することができた[50]。そして8月8日の伊勢市議会産業建設委員協議会において、「伊勢らしい良好な景観形成及び観光振興その他地域の活性化に資する」ために引き続き灯籠を設置すること、振興会に既存の灯籠を撤去させ、耐震性を確保した上で新しい灯籠を設置させることを決定した[52]。この時、既存の灯籠は震度5強程度の地震、風速40m/s以上の暴風、自動車による衝突で倒壊する可能性があることと、国道・県道区間の道路占用許可が既に満了し放置されていること、市道区間については占用許可が「永続的」になっているものの占用者が解散した献燈会であるため責任者が不在であることが公表された[51]

2007年(平成19年)4月23日、伊勢市経営戦略会議において伊勢市としての灯籠に関する以下の3つの方針を示した[53]

  1. 伊勢らしい良好な風景を形成していく目的で建てられる場合は、景観形成という公益性の観点から認めていく。
  2. 新たな灯籠型街灯の設置にあたっては、安全性の確保を最優先とし、現在のものの撤去を最優先とする。
  3. 新たな灯籠型街灯の設置基数は、現在の基数を超えないこととする。

灯籠の新設の目途が付いたことから、2007年(平成19年)8月20日、伊勢市は伊勢市観光協会に対し道路占用許可を出した[54]

部分撤去の継続(2009-2018)

これにて灯籠問題が決着するかに見えたが、2009年(平成21年)8月19日に振興会は三重県から解散命令を受けてしまい、灯籠問題はまた振り出しに戻ってしまったのである[50]。伊勢市観光協会は翌8月20日に道路占用廃止届を提出した[54]。解散命令は振興会が最低でも3億5900万円に上る粉飾決算をしていたことが明らかになったためであり、三重県が解散命令を発令するのは戦後初の出来事であった[47]。時の伊勢市長である森下隆生が灯籠の建て替えを推進したことで振興会に寄付が集まっていた面もあるため、伊勢新聞は森下市長の責任も問われかねないと報じた[47]。結局、森下市長は灯籠問題とは別件の中部国際空港海上アクセス事業を巡る問題で同年10月7日に辞任した[55]

その後、2010年(平成22年)8月13日に「一般社団法人伊勢の国」と「一般社団法人神宮景勝保全会」の連名で道路許可申請が提出されたが、伊勢市は耐震性や灯籠の管理などの不備を指摘し、同年10月25日に通知を行った[53]

2012年(平成24年)度の三重県に対する包括外部監査の報告書では、県が占用許可が失効した時点で献燈会に対して改築や撤去等の指導をしなかったことについて「占用許可をするか撤去等の請求をすべきであった」と記し、不法占用状態にある灯籠の所有者を早期に確定すべきと記している[48]2013年(平成25年)5月15日より、三重県は県道部分にある灯籠425基の安定性調査を開始、6月20日に終了した[56]。同年に開催される神宮式年遷宮による参宮客増加が想定されることから、安全性の確保のために始めたもので、県の調査に続いて6月10日11日に伊勢市が、6月10日と18日国土交通省中部地方整備局三重河川国道事務所が、それぞれ市道・国道にある灯籠を1基ずつ手で触れて調査した[42]。その結果、ただちに撤去すべき灯籠は見つからなかったが、一部ぐらつきのあるものがあり、上部を取り外す作業が行われた[42]

2015年(平成27年)6月に「伊勢市内道路空間利用のあり方懇談会」は中間とりまとめを行い、今後は石灯籠の耐震性、沿道住民の合意形成、不法占拠に対する法的問題の整理が必要であるとし、危険な石灯籠は計画的に撤去すること、新たに道路占用許可を受けようとする者が現れた場合は公共性・計画性・安全性を重視し、厳格に審査する方針を示した[30]。その後、第42回先進国首脳会議(伊勢志摩サミット)の開催を控え、三重県は同年10月から11月にかけて石燈籠の点検を行い、危険な32基の撤去を決定、翌2016年(平成28年)2月16日から撤去作業を開始した[57][58][59]

全撤去(2018)

三重県では、2015年(平成27年)から2017年(平成29年)までに危険な石灯籠を約90基を撤去したが、安全性を確認しつつ維持してきた[43]。ところが、2018年(平成30年)4月14日に三重交通の路線バスが石灯籠に接触し、上部が落下、歩行者の男性に当たり、男性が死亡するという事故[注 8]が発生した[43]。この事故を受け、県は安全性検査を早期に開始すると当初は発表した[43]が、同年4月26日に開かれた国・県・市の三者会議で石灯籠の撤去を決定した[60]。灯籠の存続を求める市民の声もあったが、人命優先の観点から、7月に開幕する平成30年度全国高等学校総合体育大会(高校総体)までに全てを撤去することを決めたのである[60]。実際には高校総体までには撤去は終わらず、2018年(平成30年)11月29日に最後まで残っていた国道沿いの2基の撤去をもって全撤去が完了した[44]


41~


  1. ^ 「大鳥居緑に輝く 日愛友好のライトアップ」伊勢新聞2014年3月13日木曜日(伊勢志摩東紀州)
  2. ^ 伊勢市 編(2012):第5巻214ページ
  3. a b c d 「石灯籠102基の点検終了 国交省三重事務所 伊勢の国道23号沿い 4基危険 早急に対策」中日新聞2013年6月19日付朝刊、三重版
  4. a b c d 石灯籠落ち歩行者死亡 伊勢の県道、バス接触で”. 伊勢新聞 (2018年4月15日). 2018年12月4日閲覧。
  5. a b c 共同通信社 (2018年11月29日). “伊勢の石灯籠撤去完了 520基、死亡事故受け”. 日本経済新聞. 2018年12月4日閲覧。
  6. a b c d 伊勢市 編(2012):第5巻216ページ
  7. a b c 長戸稔 (2006年4月29日). “伊勢神宮「御幸道路」の灯籠問題解決へ=三重”. livedoorニュース2018年12月4日閲覧. "Internet Archiveによる2008年9月24日時点のアーカイブページ。"
  8. a b c 伊勢新聞 (2009年8月20日). “3億5900万円粉飾 神宮環境振興会に解散命令”47ニュース 2018年12月4日閲覧. "ウェブ魚拓による2013年9月6日時点のアーカイブページ。"
  9. a b 三重県包括外部監査人(2013):10ページ
  10. ^ 伊勢市 編(2012):第5巻216 - 217ページ
  11. a b c d e f g h 伊勢市 編(2012):第5巻217ページ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B9%B8%E9%81%93%E8%B7%AF

御幸道路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1900年代(明治時代後期)まで、伊勢神宮の2つの正宮である外宮と内宮を結ぶ道路は限定され、急な坂道を伴う幅の狭い道(伊勢街道(伊勢参宮街道))しかなかった[1]。そこで三重県庁は既存道路改修か新道の建設を検討し、国家の補助を得られる新道の建設を決め、実際に開通したのが御幸道路である[11]。総工費は当時の金額で375,000円余り[注 2]総延長48町(約5.2km)余りであった[12]。開通後、御幸道路は路線バスが運行されるようになり[4]、外宮と内宮を結ぶ伊勢のメインストリートとなった[7]。『伊勢市都市計画マスタープラン』では「内環状軸」(市街地の交通の効率化を図る環状道路)・「外宮・内宮連絡軸」(外宮と内宮を結ぶ都市軸)として伊勢市街における幹線道路として位置付けられ[13]、『伊勢市景観計画』では「景観重要道路」に指定されている[14]

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