藤原氏によって葬られた氏族【忌部氏】の正体とは?
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歴史沼チャンネルのきーです。
藤原氏によって消された忌部氏は、ヤマト王権の立役者だった!
全国を開拓していった忌部氏とは何者なのか?
今回は葬られた一族…忌部氏について深堀解説していきます。
今でも残る忌部氏とユダヤの深い関係性について動画の最後で、深堀考察していきますので、最後までお付き合いください!
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忌部氏とは
まず忌部氏とは、どんな一族なのか?ざっくりと解説していきましょう。
忌部氏とは、古代よりヤマト王権の宮廷祭祀、制作、宮殿造営を担った名門の一族です。
穢れを忌む集団、神事で穢れを取り去り身を清めることから『忌む』という字を氏に使用されています。
本来朝廷の祭祀は、忌部氏と中臣氏が司っていました。
中臣氏とは、のちに朝廷の中で1番の有力貴族となる藤原氏です。
乙巳の変の中臣鎌足の活躍で中臣氏(のちの藤原氏)が勢力を拡大させると、忌部氏は衰退し歴史の表舞台からは消えてしまいました。
忌部氏のルーツ
没落していく忌部氏の状況を憂いて、斎部広成が平安時代に記した書物である『古語拾遺』には、中央忌部氏の祖先は天太玉命という神様だとしています。
天太玉命は、玉串や注連縄(しめなわ)のルーツとさる神さまです。
『古事記』や『日本書紀』いわゆる『記紀』に記られている天岩戸神話や天孫降臨神話で活躍する神様でアマテラスの天岩戸隠れのときは、中臣氏の祖とされる天児屋命(アメノコヤネ)と岩戸に隠れたアマテラス大神を誘い出すために岩戸の前で卜占(占い)を行い、天孫降臨のときは瓊瓊杵尊とともに天降ることを命じられた五人の神様の一人でもあります。
阿波忌部氏が中央忌部氏になった
そんな忌部氏の出発地は、阿波(現在の徳島県)だったと思われます。
阿波忌部氏が畿内に進出していき、中央忌部氏になったと考えられます。
その根拠は古墳に残されています。
阿波忌部氏の本拠地である徳島県鳴門市に阿波国の一宮である大麻比古神社があります。
この大麻比古神社に祀られている阿波忌部氏の祖神である天日鷲命の子とされている大麻比古神を主祭神として祀っている神社で、この神社の麓に萩原墳墓群があります。
この萩原墳墓群は、1号墳~4号墳からなり、1号墳は大麻比古神の陵墓ともいわれています。
そして2号墳の築造は2c末であり、奈良のホケノ山古墳のルーツの可能性があります。
ホケノ山古墳とは、奈良の纏向遺跡古墳群の中にある古墳で、後円部に対して未発達な前方部を有している前方後円墳です。
萩原墳墓群にみられる「石囲い木槨」という特徴的な埋葬構造や石を積み上げて墳丘を造っている積石塚はホノケ山古墳でもみられ、築造時期は萩原2号墳は2c末、ホノケ山古墳は3世紀なので阿波の墳墓が畿内の墳墓に影響を与えていることが示唆されています。
同じく阿波忌部氏の本拠地である鳴門市の宇志比古神社の背後にある、3c中旬に築造されたとされる西山谷2号墳には、日本最古級の竪穴式石室が発見されており、畿内型石室のルーツともいわれています。
畿内前期の古墳の石室には、阿波産の結晶片石(青石)が使われていたり、纏向遺跡で大量に東阿波式土器が出土することからも阿波忌部氏が畿内に渡り中央忌部氏となっていったことがわかります。
阿波忌部氏とは?
では忌部氏を知るには、阿波忌部氏に迫らざるを得ません。
阿波忌部氏とは、天日鷲命を祖神とする一族で阿波を開拓した一族です。
忌部氏が粟を植えて開拓し→粟島→阿波国となったといわれています。
阿波を開拓した忌部氏は、ヤマト政権の設立直前の3~4世紀に全国各地へ進出して麻・穀を植えるとともに音楽・芸能・農業・養蚕・織物・建築・製紙・鍛冶などを伝えた祭祀族であり、海洋民であり、技術集団だったと考えられています。
ヤマト王権成立にも深くかかわっており、記紀の中でも阿波忌部氏の祖神である天日鷲命は、神武天皇の重臣的役割や東征を助けた金鵄として登場しています。
阿波忌部氏と践祚大嘗祭
阿波を開拓していった忌部氏が麻を植えて開拓した地である「麻植」という地域があります。
忌部氏の古墳が残り、全国を開拓していった阿波忌部氏の海洋民的な本拠地が徳島県鳴門市ならば、初期ヤマト王権の祭祀を司った祭祀族的な本拠地が麻植(現:吉野川市)です。
阿波忌部氏が天皇家の祭祀を司っていたことが現代でもわかる祭祀に、践祚大嘗祭があります。
践祚大嘗祭とは、天皇即位の儀式で秘儀で行われる宮中祭祀です。
この大嘗祭をすることによって、正式に天皇として即位できると考えられています。
この践祚大嘗祭には、繒服と呼ばれる絹織物と麁服と呼ばれる麻織物が使われますが、麻織物である麁服は今でも阿波忌部氏が供進しています。
天皇が即位する践祚大嘗祭において、天皇が即位するための儀式に必須の麁服(あらたえ)を制作・献上する特別な家柄を「御衣御殿人」(みぞみあらかんど)といいますが、この御衣御殿人を務めているのが阿波の三木家です。
吉野川市山川町忌部山にある、延喜式式内大社である「忌部神社」 で織られてた麁服が三木家によって新天皇即位のたびに貢進されるのです。
※延喜式内社とは…平安時代(927年)に編纂された『延喜式神名帳』に記載されている神社。編纂当時には存在し由緒ある神社として知られた神社
この忌部神社は元は、忌部大神宮と呼ばれ日本国きっての大神宮でした。
その境内は「三里四方の霊地」と呼ばれ、今で言えば、16km四方の神領を有して国司が大宮司を兼ねていた日本第一の神社でした。
源頼朝が鎌倉幕府を開いた直後、阿波にあった「忌部大神宮」の所領安堵(土地権利の承認)を約束した書状の文面があり、頼朝がこの忌部大神宮をいかに大事に思っていたかが推察されます。
阿波が単なる地方の国であれば、京の都からも辺鄙な阿波を、東国出身の武士の頼朝が特に意識するような場所ではないはずですが、当時、頼朝が忌部大神宮の大切さをよく理解していたということがうかがわれます。
その忌部大神宮は戦国時代、三好氏に所領を奪われ、最後は長曾我部氏に焼打ちにあって現世から消えてしまいました。江戸幕府が再興しようとしたのですが、これを認めると領地が縮小する蜂須賀家にかわされ再興はなりませんでした。
忌部大神宮が祀っていた天日鷲命を勧請して、現存しているのが麁服調進出発神社である、延喜式式内大社である「忌部神社」なのです。
全国を開拓していった阿波忌部氏
阿波忌部氏は、海洋民的であり阿波を開拓した技術を全国的に伝播させていきました。
阿波忌部氏が渡ってきて影響力を及ぼした場所が全国にいくつもあります。
全国を開拓していった忌部氏には朝廷に、
竹や盾を納める讃岐忌部(香川)
玉を貢納する出雲忌部(島根)
宮殿の木材を貢納する紀伊忌部(和歌山)
鍛冶に携わった筑紫と伊勢忌部(福岡・三重)
などがいたとされ、その他、越前(福井)、淡路(兵庫)、備前(岡山)、隠岐島(島根)、安房(千葉県)などにも忌部氏が居たとされ、全国にその面影を感じさせる神社が残されています。
出雲と忌部氏
全国に痕跡を残している忌部氏の中でも、私が注目しているのが出雲忌部氏です。
阿波忌部氏は、北九州を経由して日本海側に進出していったと考えられています。
島根県那賀郡三隅町には、延喜式内社である「大麻山神社」があります。
ご祭神は、天日鷲命 ・猿田彦命・ 大麻彦命です。
889年徳島県の大麻彦神社、忌部神社を勧請して建立されたとしています。
大麻山神社がある三隅地方には伝承や神話が残されており、その伝承とは…
"阿波国から大麻比古命に率いられて忌部族が移住してきた。大麻比古命は海を馬で渡り、山を舟で行った。大麻山に入った大麻比古命は周辺の小野の原に住んでいた小野族めがけ岩を投げつけて追い払った。
~大麻の名は、この地へ忌部族をつれてきた大将オオアサヒコの名から出たと伝えられていますが、大麻神社の祭神は、忌部族の大先祖天日鷲命を祀ってあります。"
という伝承です。
そして出雲忌部氏が司ったのは勾玉作りですが、島根県松江市には延喜式内社の玉作湯神社があります。
玉作湯神社は、勾玉作りをしてたことがわかる国の史跡「出雲玉作跡」の一角として史跡に指定されており、この地域は『出雲国風土記』にも忌部の管理下として比定されています。
勾玉作りは、玉を削りカーブを作るための石が必要です。
この地域で出土する玉を削るために使ったであろう石は、阿波の吉野川から採取したとされる結晶片岩(青石)・紅簾片岩(こうれんせきへんがん)(赤石)なのです。
出土品や伝承から見ても、阿波忌部氏が出雲にたどり着き、影響を及ぼしたことがわかります。
関東と忌部氏
阿波忌部氏は、黒潮ルートに乗って関東に進出していっています。
現在の千葉県南部を以前は、漢字違いの安房国と呼んでいたことからも徳島との関りが深いことがわかるでしょう。
静岡県掛川市には、黒潮ルートで関東へ行く際の目印になる粟ケ岳という山があり、粟ケ岳山頂には延喜式内社の「阿波々神社」があります。
斎部広成が記した『古語拾遺』には、「天富命、阿波忌部の一部を率いて関東に行って麻・穀を植える。麻が良く生えたところを総国、穀が生えたところを結城郡という。阿波の忌部のいるところ安房郡名付ける。天富命がアメノフトダマの社を建てて、今安房社という」とあり、安房国一宮であり延喜式内社の安房神社では、天太玉命を祀っています。
安房神社の境内には、安房神社洞窟遺跡がありそこから縄文~弥生時代の人骨が発見され、その一部が再び埋葬された場所は「忌部塚」と呼ばれています。
この名前の由来はもちろん、忌部一族による安房開拓神話に登場する千葉の安房忌部氏の祖である天富命(アメノトミノミコト)が、その祖神を祀ったものとされていることから、洞窟から出土した人骨は先祖である忌部氏と考えたことに由来しています。
安房神社だけでなく、関東には天日鷲命を祀る「鷲神社」が千葉県市原市や栃木県佐野市にあったりと阿波忌部氏が開拓した痕跡が数多く残っています。
忌部氏とユダヤ
今回忌部氏を深堀して気づいたのが、忌部氏とユダヤとの繋がりです。
その根拠となるのが、白人神社の奥院である磐境神明神社です。
磐境神明神社とは、徳島県美馬市穴吹町にある石を積み上げて磐境を作り上げ、その中に祭壇が5つあるという不思議な神社です。
この神社は、元駐日イスラエル大使のエリ・コーヘン氏がこの地を訪れたとき、「自然石を積み上げてつくられた祭祀場が、古代イスラエルの礼拝所とそっくりだ」と発言しており、古代イスラエルやユダヤとの関りを強く指摘されている神社です。
忌部氏研究の林博章氏は、磐境神明神社は天日鷲命(アメノヒワシノミコト)陵だと言っています。
このユダヤ的な磐境神明神社は、阿波忌部氏の本拠地である
地域にあり、忌部氏が75人の宮人(みょうど)と呼ばれる氏子を務めたとれています。
今でもこの75人の宮人しか、神輿を担げないそうです。
この75という数字は、古代イスラエル渡来説では重要な数字で、長野県の諏訪大社で行われる御頭祭でお供えさえるシカの頭は75頭ですし、阿波には諏訪大社の元宮といわれている多祁御奈刀弥神社がありますが、その神社では鹿の頭ではなく75個のお膳をお供えするそうです。
限られた人しか神輿を担げないというのは、古代イスラエルのレビ族を思い起こさせます。
レビ族とは、古代イスラエルの祭祀の一族として特別な役割を与えられた一族で、ユダヤの三種の神器を納めるアーク(契約の箱)に触れることができたのは、レビ族だけだと言われています。
アーク(契約の箱)と日本の神輿の形状はそっくりですし、ある一族しかそれを担ぐことができないという特徴やレビ族も忌部氏も祭祀族であるという特徴は、レビ族と忌部氏に何らかの関係性があったのではないか?ということを考えさせます。
そして阿波忌部氏が開拓していった房総半島です。
高い鼻、幅広の鍔がついた帽子、耳元の美豆良(みずら)、顎髭のようなユダヤ人の特徴をそのまま埴輪に投影させたような「ユダヤ人埴輪」が出土しているのは、阿波忌部氏が開拓していった千葉県や茨城県だけです。
「ユダヤ人埴輪」が出土した芝山古墳は、阿波忌部氏が関東開拓の拠点としたとされる安房神社がある場所から少し離れていますが、阿波忌部氏が開拓していった場所に「ユダヤ人埴輪」が出土したということは阿波忌部氏とユダヤとの関係を裏づけうる一つの根拠になるのではないでしょうか?
まとめ
いかがでしょうか?
今回は、忌部氏の正体からユダヤとの関りについて深堀していきました。
何もかも阿波忌部氏がはじまりだ!というつもりはありませんが、古代において阿波忌部氏が全国に渡っていき、影響力を及ぼした痕跡は残っています。
今回、阿波忌部氏と島根県西部の出雲との関係性の深さがわかっていただけたかと思います。
古代出雲王朝に口述で伝えられた古史である「出雲口伝」と忌部氏が、関係してきそうなので今後また考察してみたいと思います。
今回の参考文献は、概要欄にリンクを貼っているので興味のある方は概要欄のリンクからチェックしてみてください。
今回の動画につかった台本も公開しています。
文字で今回の内容を読みたい!という方は、概要欄のリンクからチェックしてみてください!
今日はここらへんでお別れです。
ご視聴いただきありがとうございました。
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ではまた、違う動画でお会いしましょう!
ばいばい!
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