2023年11月10日金曜日

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 舎心山太龍寺縁起

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 舎心山太龍寺縁起
「神武天皇が太龍寺に行幸された。」と太龍寺縁起に書いてあるとのこと。書いたのは空海だそうです。
でも当たり前ですよね? 延喜式に唯一掲載されている樫原神社もすぐ近く。阿波は神武天皇の本拠地ですから。(^_-) 秋山さんからのシェアです。
http://goutara.blogspot.com/2011/01/blog-post_06.html?m=1

舎心山太龍寺縁起

お正月明けてピンチです。
ブログの画像容量がパンクしそうです。
このBloggerの画像はPicasaって言うフリーの画像サービスとリンクしていて容量は
1Gb(ギガバイト)つまり1024メガバイトあるんですが、今やこの有様。

何故か。「阿波国(続)風土記」 このサイトで画像を700Mbくらい使って
しまってるんです。
容量のアップには年間使用料がいるし、他のブログに移るのもいまさらだし......
悩んでおります。まあ、今回は大丈夫でしょう。

さて、愚痴は置いといて、徳島県の阿南市にあります「太龍寺」
四国八十八箇所霊場の第二十一番札所です。
地図はこれ。

より大きな地図で 無題 を表示

太龍寺は徳島県鷲敷町の東北にそびえる海抜600mの太龍寺山の山頂近くにあり、古来より
「西の高野」と呼ばれています。 延暦12年(793)19歳の弘法大師空海が、太龍嶽(舎心嶽)の上
で百日間にわたり「虚空蔵求聞持法」を修法なされたことは、大師24歳の時に著された
「三教指帰」の中に「阿国太龍嶽にのぼりよじ土州室戸崎に勤念す 谷響を惜しまず明星
来影す」と記されています。
つまり、太龍寺と室戸岬は青年期の大師の思想形成に重要な役割を果した修行地である
ことがうかがわれます。               太龍寺ホームページより転載

とあります。

こんな所です。実は「太龍寺」行った事が無いんです。

下のロープウェイ乗り場(鷲の里)までは、昔行ったことがあるんですが、料金が高くて

その時は諦めてしまいました(涙)だって往復2400円ですよ、4人で行ったら9600円

どうしましょう。(あ〜貧乏くさ、今日はそんな話ばっかり)

ま、いいや。で、この「太龍寺」当然、縁起がある訳でして

知ってる人は知ってますが、これが本当に驚天動地の内容。
名草戸畔(なぐさとべ)の時に神武東征ルートに異議があると書いた理由の一つがここに
あります。
その内容なんですが、原本のマイクロフィルムがあるようなんですが、手に入らなかった
ので、写本等から見ていきました。
こんなのね。

でも、ここから書き下していくのは至難の業であることが判明いたしましたので

手を抜いて、「鷲敷町史」「那賀川町史」などから引用していきます。

といいつつも両町史、逃げてます。

「鷲敷町史」には訳文が載ってましたが、「那賀川町史」には「太龍寺縁起」がある

との記載のみで内容は書かれてません。「鷲敷町史」も第一部の真然僧正作の部分には

解説があるのに、以降は無いと言う見事な開き直りを見せてます。

まあ、見れば分ると思いますが、町史にこの内容は書けんでしょう。

それと、「古代阿波研究所」の会報にも掲載されていましたが、敬意を評してそちらの

訳文は引用いたしません。

でも(見てたら怒るかな)どっちの訳文も間違ってる所があるぞ。

そして、県外から見てる方、本当そんな縁起があるのか?と後で疑われると思うので

先にこれを出しておきます。

塙保己一(はなわ ほきいち)検校編纂の「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」

あのヘレン・ケラーも

「私は子どものころ、母から塙先生をお手本にしなさいと励まされて育ちました」

と言った、塙保己一の著作です。

これなら、ちょっと大きな図書館になら大概あるでしょう。

そのうちの「続群書類従 第二十八輯上」333ページから。

ここに掲載されてます。

では、「鷲敷町史」からですが、無論全文は掲載できませんので。

一応全部入力はしたので、欲しい方は連絡してくれれば、テキストを送りますよ。

舎心山太龍寺縁起                   金剛遍照撰

それをもって諸仏鎮場多しといえども、或は劫初より以後、出ずる砌をも

って徳を揮う、或は仁王即位より以後、当某御宇、宿に困り用を積み威力

を数う、かたじけなくも勅にしたがい、紫宸の宣に応じ某、霊地に開くあ

り、或は高賤平等もって益、信、新に初め成り、興隆正により運び歩みあ

り。

中略

在々処々是くの如し、その阿波国

那賀郡舎心山太龍寺に及ぶ。天神七代の内、六世、面足尊、惶根尊降り磯

輪上に居坐す秀真国これなり。当七代伊弉諾尊、伊弉冉尊居坐に降る玉墟

うち国産み八嶋あり。まず淡路州を生む、これを淡道穂狭別という。

つぎに伊与産む二名州あり、一身四面あり、一に愛止比売と言い、これ

与州なり、二に飯依比古と言い、これ讃岐国なり、三に大宜都比売と言い

これ阿波国なり、四に(建)依別と言い、これ土佐州なり元根は伊与二名

国ところ人情の賢別二名を称すと言う。四国名中、この大宜都比売、天神

のため相応に玉墟内国のため恵会す。天地開闢以後、天棚霧中、金色雲登

る。一茎二神、金色雲に乗り、大雨降り濁潮となる。和泥、世界を建立す。

中略

空海、両手かたじけなく大神宮を作る。両賓童子を作

す。五身あり、衣体作り奉り空海の両足、鷲敷一殿大己貴尊を作す。この

不動明王一度、輩に見せ奉る。生々世々無病息災うたがいなし。また金剛

の登山日より本堂閣、新に空海の峰承聞伝所を造らしめ奉る。往昔、神武

天皇狭野尊、筑紫日向宮崎宮より大和国御坐入りの時、五月十六日舎心

山、行幸あり、舎心の峰の明星、御影向石に通じ夜上に向き明星に礼し給

う。公卿数輩、軍兵、蹲踞す。低頭出現し明星を念じ奉る。神武五十四年

歳次甲寅五月十六日寅時、明星出現在り、自光の中漏降す、五寸虚空蔵あ

り、舎心峰の石盤、安坐を示す。その円き光の連三十五脈、輝き天地に在

り、その光数、滴り集合する所、閼伽水涌出す。和修吉龍王を守護し常住

なり。

また、西南方に当る地を鎮め三十二町敷、三十二相の霊地有り。神代の初

二神上、珍貴尊を産し、祝後上に三柱彦神を産す在り、当に三生の上産に

蛇あり、蛭子、足無し分間無し、天豫(にんべんに豫)樟船に乗せ奉り大海原に放し捨て在

り、和修吉龍、拾いとり奉り養育す。自地を授け出でて売買を主とし万民

に幸す。愛敬神あり、名を戎と奉る、今鷲敷社にあり、その時、天豫(にんべんに豫)樟船

に乗りあって上、久しく御鎮座の辺と為す。また鎮殿造社三間形、南殿三

柱神あり、かたじけなくも天照大神宮鹿嶋一御殿、春日太明神、ならびに

天照大神宮第一稚子神あり。中殿西宮に愛敬戎三郎神を祝う。坎殿三柱神

あり。白山に弁財天、三輪に大己貴尊あり、閼伽水を涌出し守護なし遷宮

奉る。空海天長二年歳次乙巳六月一日本堂再興成就、元を治納す。

去る五月十六日より御本尊作を企て奉り誓う。神武行幸日、五寸虚空蔵

涌降なり奉る等□服身なり、同六月一日寅時御本尊安坐鎮静す。真実恭敬

勤行し満足せしめ畢わんぬ。これひとえにかたじけなくも天照大神宮御正

勅に依る者なり。

中略

かたじけなくも天照太神宮、毎日午時、御影

向を垂れ摩頂に至る。大弁財天女十五童子、戎愛敬神、たちまち守護を加

う。草木萬情、種子を絶やさず萬民を与えしめ衣食、意の如し。この山こ

れ和修吉龍王、婆竭羅龍、坐を示し守護せしむ。霊地は、龍神直に勅言を

誓う。尽未来際、燈明を檠け毎夜、生死長夜を照らす。求聞持、成就力。

一切衆生悪道に堕すべからず誓約堅固。もって信言かたじけなくも天照大

神宮の額字を奏請す。かたじけなくも天照大神宮勅宣を返し、龍神と偽り

霊地を守護す、吾また守護を加うる所の者なり、太龍寺と号し奉る。かた

じけなくも勅言を訖す。

帝釈天、その額形、献上の勅あり、時に四天大王中、毘沙門天その額

形、帝釈天に献上す。その時、広目天撃硯筆あり、帝釈天舎心山居三字、

空海に賜る。余り微妙、歓喜、覚めず了知、三字を奉書す大龍寺額これな

り。今よりのち当山において本求聞持し奉らず滅亡知るべし。帝釈天帰幸

ののち、厚恩を報じ奉らす。北方五十町を隔て毎夜、初丑の刻参詣奉る。

天長地久のため、一切衆生求める所、円満無病延命なり、仏法人の境、常

安隠常住繁昌治定なり。

天長二(八二五)年歳次乙巳六月十三日      金剛遍照  啓白

ちゃんと読んでね。

ほんとに全文載せたい所なんですから。

こんな、国産みから書かれた縁起がありますか?

では「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」からぽろぽろと画像など

金剛遍照つまり「空海」が書かれてます。

阿波国は「磯輪上秀真國是也」とありますね。

さあ、どうだ、神武天皇舎心山行幸とあるでしょ。

図書館に走っていって見てください。

神武天皇は少なくとも阿波国舎心山にいらせられました。

「少なくとも」と書いたのは、本当は「阿波国に居た」と書きたいのです

証拠はぼちぼち出していきます。

その他にもこの縁起

「蛭子、足無し分間無し、天豫樟船に乗せ奉り大海原に放し捨て在り、

和修吉(わじき)龍、拾いとり奉り養育す。自地を授け出でて売買を主とし万民

に幸す。愛敬神あり、名を戎と奉る、今鷲敷社にあり」

なんて、とんでもない事を書いてあったりするんですが、そこらはご自身で確認

してみてください。

で、もうひとつだけ神武天皇が阿波国にいた資料を出しておきますと。

「阿波国続風土記」第五巻84ページです。

「天日鷲命ハ即日向皇子ニテ」とあります。

「日向皇子」は「神武天皇」のことですよね。

「日本書紀」でご存知の通り「天日鷲命」は阿波国の神であります。

まあ、一説ですよ一説。

また、資料はもっと出しますけど、一説ですよ、一説。

さあ、どうします。「通説」の神武東征ルートが変わっちゃいますよ。


あ〜、こんな文章打ち込むのは「天石門別八倉比賣大神御本記」で止めようと

思ってたのにぃ。

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