2023年11月12日日曜日

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 救世山峯薬師 法谷寺(追記)

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 救世山峯薬師 法谷寺(追記)

救世山峯薬師 法谷寺(追記)

ちょっと鼻炎がひどくて頭痛が、うっ!ガクッ!!
といいながら「えべっさん」にはキッチリお参りしてくる今日この頃でございます。
(さっきのはナンだよ)


「救世山峯薬師 法谷寺」の追記でございます。
別資料として「峯薬師如来縁起」が出てきましたので、ご紹介しておきます。

前置きとして、前回は法谷寺由緒書きの看板しか出しておりませんでしたが
この法谷寺、本来の名称は「救世山大乗院峯薬師」といい現在は法谷寺となって
おりますが、古くは遍照寺と号しておりました。
もうここらで疑いビーム百万連発でしょうねぇ。
そっすよ京都の遍照寺と同じ名称ですよ、同じ真言宗ですよ。
ま、続けますけどね。

此の度紹介する「峯薬師如来縁起」は明治四十三年時の県知事渡邊勝三郎、寺総代
山松濤恵蔵外五名が通夜堂建設のために佛堂明細帳脱漏入願を出した時のものです。
出典資料は参考として「道は阿波から始まる」の文書も引用してて、ダブルところが
多かったんで途中はしょってます。

「峯薬師如来縁起」

日霊命神陵矢野神山の対岸の以乃山山頂を毛受ケ原という。古代語では「いの」とは頭の
こと、この以乃山の東西の両端が毛受の耳原と呼ばれ、古代の大聖地だった。
聖徳太子がこの以乃山西の耳に峰薬師を建立した。「この域南北に枕し、東方へ向け開けるは、是正に浄玻璃世界に相応せる域也。
よりてこの前尾の峰を救世山と号し一山を開かん」と自ら勅語し、後に弘法大師が当地に
至り「我此地を三密修行の根本道場になす」と述べ、救世山大乗院遍照寺なる
真言宗最高位の寺を建立したのは有名な伝話である。
この救世山峰薬師の伝記にも宇佐八幡を当寺鎮守として奉じ給いとある。
上流の神山神領と同様、鮎喰川を間にして日神陵摂社となっている。
現在の加茂名豊崎八幡宮。勿論この辺り一帯はこの遍照寺の寺内の一部天石門別八倉比売
神社と一対になっていた。
昔の、この寺内奥の院が熔造皇神社で、寺内には高良大明神(武内宿禰の陵といわれる)
があり、聖徳太子殯宮といわれる末寺、常厳寺タタリ山があり、また大日孁命神陵に相対
して、同一の標高地点(現在の眉山カントリー内、八人塚古墳の上)に同じ規模の大古墳
がある。
また聖徳太子は後の世で天照大神と呼ばれる日孁命の神陵を上流より下されて、自分の
住む気延山の東峯を矢の神山としつらえ、新らしく日孁命神陵を再建、日本国鎮守として
定める。


中略


この遍照寺は往事、真言宗最高の寺。西門は鮎喰川原近く、日孁命神陵天石門別八倉比売宮
の鳥居と東西相対し、寺の鎮守に上流神山神陵の鎮守、宇佐(宇狭)大明神を下ろして
奉祀(現在豊崎八幡宮在)し、奥院が聖徳太子陵といわれたタタリ谷の常厳寺(古くは
尼寺)。現在の名東町、豊崎の八幡宮、法谷寺山頂の熔造皇神社、高良明神(武内宿禰の
塚跡)を含め、庄町(以乃津最古の町)はこの寺の寺領、東耳原の金剛光寺とともに
以乃山全体を守る由緒ある寺であった。この寺の拝殿を医王殿と称し、薬師寺で医王山の
山号を持つ寺は総てこの救世山峰薬師の末流である。

で、医王水がある訳ですね。

残念ながら、熔造皇神社、寺内の高良大明神(武内宿禰の陵)、常厳寺タタリ山などは

確認できてません。

また、これ以上の資料も見つかってません。「阿波志」等は探したんですが詳しいこと

は書いてませんでした。

「名東関係誌」は岩利氏が、あてにならないなどと書いてありますので、後回しにして

いまでも見れてません(汗!)

以上、追記ですが、最後に「この」遍照寺は、寛朝僧正の京都広沢の遍照寺建立その後の

織田信長と豊臣秀吉の宗教弾圧政策によってつぶされ、峯の薬師のみが残されたとある

そうです。

また、信用されないような資料を出してしまった。(笑)

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