伊雑宮へ〈5〉六芒星の行方
伊雑宮には、六芒星(ダビデの星)の付いた灯籠がある。
よって同じく六芒星を裏社紋とする籠神社とは、
阿吽の関係だ…と、言われて久しいが、
聖書と似た風習の多い沖縄の古代を追いかけるには重要な鍵。
ということで探してみると…あった。
ただし、境内ではなく、鳥居の斜向いの建物に。
神武参剣道場(じんむさんけんどうじょう)という。
神武とはこれまた意味深。昭和36年の設立。
門に立つ石灯籠に、十六菊と六芒星がくっきりと刻印されている。
石柱の下部には「伊勢参宮奉賛献燈会」と、鮮やかに、左右に。
道場主は、小泉太子命(こいずみたいしめい)氏という剣の達人だった。
御師の家の森さんによると、小泉氏は平成元年に他界されたが、
生前、多くの政治家や財界人が訪れていたという。
「伊雑宮の神紋は花菱と六芒星である」が持論で、
惟神(かんながら)思想の平和主義者。
そして、際立った霊能者だった。また…
神宮の内宮と外宮をつなぐ御幸道路(みゆきどうろ、5.5㎞)に、
隙間なく六芒星の灯籠を設置するため、寄付者探しに尽力。
自らの道場にも立てたのが、「伊雑宮に六芒星あり」の真相だった。
こちら御幸道路に立っている石灯籠。
六芒星は、伊勢三宮奉賛献燈会のシンボルだった。
伊雑宮、内宮、外宮を「太陽、星、月」と崇めるのが、
「三宮」と付けた団体名の由来…
と、知ったところで、思わずのけぞった。
伊勢三宮を六芒星でつないだ伊勢三宮奉賛献燈会は、
神宮が古代ユダヤかシュメール由来であることを暗示していた。
財団法人であったその献燈会は既に
解散しているが、設立当時('53年)の総裁には、
実はなんと、北白川宮能久親王は
沖縄開闢の地・知念玉城をご訪問になったことがある。
まさか御嶽の視察ではないだろうが、気になる一致だ。
『玉城村史』('77年)に「北白川宮能久親王御台臨」の記事が見える。
〜明治26年の夏、北白川宮第六師団長殿下は島尻郡を御視察になり、
正午、玉城村に御立寄りになり、御昼食を召し上がられました。〜
また(知念)佐敷村役場にも、当時の記録が残っている。
〜北白川宮能久親王殿下御馬にて村東入口より御来村遊ばされ、
村民学童村入口にて御迎え申候〜
佐敷では村役場に1泊され、翌日、佐敷小学校で歓迎運動会をご覧になった。
その3ヶ月後、親王殿下は大日本帝国陸軍第四師団長
として台湾出兵。2年後、マラリアのため薨去された。
ともあれ、御幸道路(県道、市道)に立つ石灯籠(700基余り)は
老朽化して危険なものから撤去となることが決まっている。
伊雑宮から車で20分ほど。
海沿いの町・相差(おうさつ、鳥羽市)では、
海女さんが「五芒星(セーマン)九字(ドーマン)」の魔除けを磯着に付ける。
そのお守りを授ける神明神社近くの海産物販売所には、こんな張り紙も。
くだんの籠神社の海部宮司が、この相差で
海女さんが五芒星の魔除けを付ける風習に
関心を寄せておられたのを思い出す。
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