常世神 - Wikipedia日本の黒歴史...聖徳太子と謎のカルト教団|小名木善行
皇極三年?
644年
動画では一年後
常世の神[とこよのかみ]と秦河勝
秋七月に、東国の不尽河(富士川)のほとりの大生部多[おおふべのおう]という人が、虫を祭ることを村里の人々にすすめて、 「これは常世の神だ。この神を祭る人は、富と長寿とを得るぞ」 と言った。巫覡たちも人々をあざむき、神のお告げだといって、 「常世の神を祭るなら、貧しい人は富を得、老人は若返るぞ」 と言った。そのうえ、民にすすめて家の財宝を捨てさせ、酒を並べ、野菜や六畜(中国で馬・牛・羊・豚・犬・鶏をいう)を道ばたに並べて、 「新しい富が入ってきたぞ」 と呼ばわらせた。そこで都鄙の人々は、常世の虫をとらえて座に安置し、歌ったり舞ったりして幸福を求め、珍しい財宝を捨ててしまったが、何の益もなく、損ばかりがはなはだしかった。このとき、葛野(京都盆地)の秦造河勝は、人々が惑わされているのをにくみ、大生部多を打ちすえた。巫覡たちは恐れて人々に祭りをすすめるのをやめた。そこで人々は、
太秦は 神とも神と 聞こえ来る 常世の神を 打ち懲ますも(太秦の河勝さまは、神のなかでも神という評判のたかいあの常世の神をおうちこらしになったことよ)
という歌を作った。この虫は、いつも橘の木や曼椒(山椒)〔曼椒、これを褒曽紀という〕に生まれ、長さは四寸あまり、大きさは人さし指ほど、色は緑で黒の斑点があり、かたちは蚕にそっくりであった。
冬十一月に、蘇我大臣蝦夷と子の入鹿臣は、家を甘梼岡(明日香村)に並べて建て、大臣の家を上の宮門、入鹿の家を谷の宮門〔谷、これを波佐麻という〕とよんだ。また、その男女を王子とよんだ。家の外には城柵を造り、門のわきには兵庫(武器庫)を造り、門ごとに水をみたした舟一つと木鉤(とびぐち)数十本とを置いて火災に備え、力の強い男に武器をもたせてつねに家を守らせた。大臣は、長直に命じて大丹穂山(明日香村入谷か)に桙削寺を造らせ、また畝傍山の東にも家を建て、池を掘ってとりでとし、武器庫を建てて矢を貯えた。大臣はまた、いつも五十人の兵士をつれ、身の周囲にめぐらして家から出入りした。これらの力の強い男たちを、東方の儐従者(東国出身の従者)と名づけた。諸氏の人々の、入ってその門に侍する者を、祖子孺者(先祖代々仕えている者の意か)と名づけた。漢直(東漢直。渡来系の有力豪族)たちは、大臣と入鹿との二つの門に侍するのをもっぱらにした。
四年の春正月に、岡や、川辺や、宮殿と寺院の間などで、遠くから見るとなにか物があり、十か二十ほどの猿のうめく声が聞こえた。近くに寄ってみると、物は見えないが、鳴きうそぶくような音はなお聞こえ、しかもその姿を見ることはできなかった〔もとの本には、この歳、京を難波に移したため、板蓋宮が廃墟となることの前兆であるという〕。人々は、 「これは、伊勢大神の御使だ」 と言った。
夏四月の戊戌の朔に、高麗に遣わされた学問僧らが、 「同学の鞍作得志は、虎を友達にし、その術を学びとりました。枯山を青山に変えたり、黄色い土を白い水に変えたりなどの奇術は、数えきれないほどです。また虎は、針を得志に授けて、『決して人に知られないようにしろよ。これで治療すればなおらない病気はないのだ』と言いましたが、ほんとうに、どんな病気でもきっとなおりました。得志はいつもその針を柱のなかに隠しておいたのですが、やがて虎は、その柱を折って、針をとって逃げてしまいました。高麗国では、得志が帰国したいと思っていることを知って、毒をもって殺してしまいました」 と報告した。
日本書紀
常世神
常世神(とこよのかみ)は、『日本書紀』に登場する新興宗教の神。この神を祀ると、富と長寿が授けられ、貧者は裕福になり、老人は若返ると説かれた。
古来行われてきた共同体的な祭祀ではなく、個人の欲求を叶える信仰であるところに特色があるといわれ、民間道教の一種ではないかとの説もある[1]。
概要
『日本書紀』によると、皇極天皇3年(644年)、東国の富士川の近辺の人・大生部多が村人に虫を祀ることを勧め、「これは常世神である。この神を祀れば、富と長寿が授かる。」と言って回った。巫覡(かんなぎ)等も神託と偽り、「常世神を祀れば、貧者は富を得、老人は若返る」と触れ回った。さらに人々に財産を棄てさせ酒や食物を道端に並べ、「新しい富が入って来たぞ」と唱えさせた。
やがて信仰は都にまで広がり、人々は「常世虫」を採ってきて清座に祀り、歌い舞い、財産を棄捨して福を求めた。しかし、全く益することはなく、その損害は甚大だった。ここにおいて、山城国の豪族・秦河勝は、民が惑わされるのを憎み、大生部多を討伐した。巫覡等は恐れ、常世神を祀ることはしなくなった。時の人は河勝を讃え、
太秦(うずまさ)は 神とも神と 聞こえくる 常世の神を 打ち懲(きた)ますも
(秦河勝は、神の中の神と言われている 常世の神を、打ち懲らしめたことだ)
と歌った。
常世神の正体
『日本書紀』では、常世神とされた虫について「この虫は、常に橘の樹に生る。あるいは山椒に生る。長さは4寸余り、親指ぐらいの大きさである。その色は緑で黒点がある。形は全く蚕に似る」と記され、アゲハチョウの幼虫ではないかといわれる。
解説
- 橘
「常世の国」は、海の彼方にある、不老不死の世界のことである。大国主命の国造りを助けたスクナヒコナ命や、浦島子(浦島太郎)が行ったのが常世の国といわれる。この常世の国には、「時じくの香(かぐ)の木の実」という、不老不死の仙薬になる木の実が生えており、『記紀』では「橘」のこととされる。橘は常緑樹で、雪や霜にも負けずに繁茂し、その実も保存の利く植物であるために、常世の木と同一視されるに到った。橘に発生する「虫」が常世神とされたのも、これに関連づけられている[2]。
- 秦河勝
当時、仏教の信仰に篤い豪族は他にもおり、また、秦河勝より強い政治権力を持った人物も多かった。なぜ河勝ひとりが、常世神信仰を討伐したのかについては、全国に秦人・秦部を抱え、殖産興業を推進してきた秦氏としては、民の生産・経済活動を停止させる宗教は、看過できなかったとする考えがある。また、渡来氏族である秦氏の河勝は、新興ではあるが原始的な「神」を恐れることなく、これと対決できたのではないかとも言われる[1]。
脚注
- ^ a b 水谷千秋『謎の渡来人 秦氏』(文春新書、2009年)。
- 及川智早 「ときじくのかぐの木の実」『日本神話辞典』 大和書房 1997年。
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