2022年3月3日木曜日

西本願寺の景教文書 : 江部遊観のブログ

西本願寺の景教文書 : 江部遊観のブログ

西本願寺の景教文書

img_284242_21966785_0[1]図は高野山の景教的石碑

以前、西本願寺に景教文書が存在するといううわさを聞いたことがあるが、それっきりになっていた。今日なんとなくそのことを思い出したので、ネットで検索してみたらたくさん出てきた。とくに「徒然万歩計」は興味深く読んだ。「景教」の概観を見てから、このサイトを見るといいだろう。(景教:原始キリスト教・ネストリウス派としてカトリックからは異端視されている)

うわさと言えば伊勢神宮文庫の神代文字資料は100点ほどしか公開されていないが、某大学の教員から聞いたのだが、実際は山ほどあるらしい。
「徒然万歩計」http://manpokei1948.jugem.jp/?eid=131
興味深いのでここの全文を転載させていただきます。

1.西本願寺に伝わる宝物「世尊布施論」って、どんなお経?

まずは上の写真をご覧下さい。これは西本願寺に伝わる『世尊布施論』という経典です。

写真撮影の許可を求めたのですが、「そんな経典は当寺には存在しません」と、あっさり断られました。それでもあきらめず問いつめると、「資料室に確認したのですが、確かに以前はあったようですが、現在は見つかりません」という答えが返ってきた。

しかたがないので、ケン・ジョセフ氏の著作から転載させていただくことにした。印刷物からのコピーのうえ、今では使われていないような漢字も交じっており、ずいぶん読みにくいのだが、でもよく見ると、どこかで聞いたようなフレームが並んでいる。例えばこの三行目に注目してみよう。

「始布施若左手布施勿令右手……」(左の写真)

どこかで聞いたことはないだろうか。

そう、新約聖書マタイ伝「山上の垂訓」に「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」、あの一説だ。

また一八行目の中程には「看飛鳥亦不種不刈亦無倉坑」(右下の写真)とある。まさに『山上の垂訓』にある「空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません」、そのままです。

このほかにも、「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです」のフレーズや、「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい」などのフレーズが見つかるはずだ。

こうしてみていけば、親鸞が学んだという『世尊布施論』という経典、何のことはない『マタイ伝・山上の垂訓』そのままの漢文訳だった。漢文で書かれているため、今まで仏典として、また親鸞が学んだため、西本願寺の宝物として保存されてきたという。

日本在住のアッシリア人で景教(原始キリスト教)の研究家として知られるケン・ジョセフ氏は、この『世尊布施論』との出会いを次のように記している。

私は実際、西本願寺に行って、この『世尊布施論』について聞いたことがあります。寺の人に、「景教の書物がこの寺に保管されていると、本で読んだのですけれども、それはありますか。見せてもらえないでしょうか」と聞きました。しかし、何人かに聞きましたけれども、「いいえ、そういうものはありません」と言う。

「でも、こうやって写真まで出ているじゃないですか」と、私が持っていた本を見せました。それでも「知らない」と言います。そのうち、私がねばっていると、奥の方から責任者らしいおじいさんが出てきました。

「はい、たしかにあります」

と言ってくれました。「でも、大切にしまわれているものですし、古くて傷みやすい状態なので、普通はお見せしていません」とのことでした。「でも、どうしてもと言われれば、お見せすることもしていますが、それを撮影した写真がありますから、普通はその写真を見ていただいています」と。

それで、写真を見せていただきました。それは私の持っていった本のものと同じでした。こうして、西本願寺に景教の書物があるのは本当だと知ったのです。あの浄土真宗の開祖、親鸞が、これを何時間も読んで学んだということは、私にとっても感慨深いものでした。

(ケン・ジョセフ「〔隠された〕十字架の国・日本」徳間書店)

このことは一体何を意味するのだろうか。

私たちは、日本に初めてキリスト教が入ってきたのは、一五四九年、フランシスコ・ザビエルによってであると教えられてきた。それが親鸞の時代には、すでにキリスト教の教典が入ってきているというのだ。

驚いて調べてみると、高野山にも『景教伝達碑』なるものがあるという。

早速行ってみると、高野山一の橋から奥の院参道に入り、二手に分かれている道を右手にしばらく歩いたところに、それはあった。まず英文で書かれた『安住家』の供養塔が目に入り、その隣に『大秦景教流行中國碑』と頭に大きく三行に彫られた石碑がある。これがお目当ての『景教伝達碑』だという。

しかし『中國碑』とあるように、これはもともと中国は西安にあるもののレプリカ(複製)だという。では、なぜそのレプリカが日本の高野山にあるというのか。

そのことに触れる前に、まずはその本体である中国・西安にある『大秦景教流行中國碑』について、久保有政、ケン・ジョセフ、ラビ・マーヴィン・トケイヤーの三氏の共著になる『日本・ユダヤ封印の古代史-仏教・景教編-』から、その概要を見ておくことにしよう。

中国における景教の様子については、西安(旧・長安)で発見された有名な、「大秦景教流行中国碑」が物語っています。これは七八一年に建立されたものです。しかし、のちの迫害の時代に隠され、一六二五年になってイエズス会士が発見しました。

この景教碑や、中国における景教文書、遺物等の研究者として、佐伯好郎教授は世界的に有名です。景教碑の複製は、弘法大師・空海の開いた高野山と、京都大学文学部陳列館にもあります。

景教碑は、次のような神への賛辞から始まっています。

「大秦景教流行中国碑。中国における景教の普及を記念して。大秦寺僧侶・景浄(シリア名アダム)叙述。……見よ。真実にしで堅固なる御方がおられる。彼は造られず造る御方、万物の起源、私たちの理解を超える見えない御方、奇しくも永遠に至るまで存在し、聖なるものを司る宇宙の主、三位一体の神、神秘にして真実な主なる神である。……」

この「神」は、原文では「阿羅訶」(アロハ)という漢字です。これはシリア語またはヘブル語の「神」を意味するエロハに漢字を当てはめたものでしょう。

景教碑に記されたところによると、唐の皇帝は景教を重んじ、中国の一〇の省すべてに景教の教えを広めました。こうして国は、大いなる平和と、繁栄を楽しんだといいます。また景教の教会は多くの町々につくられ、すべての家庭に福音の喜びがあったと、景教碑は記しています。

王室の儀式、音楽、祭、宗教的慣例なども、ガブリエルという名の景教徒が担当していたと記録にあります。

当時の長安の都は、このように多分に、景教文明によるものでした。たとえば景教徒の自由と人権の思想は、中国社会に強い影響を与えました。唐の文学者・柳宗元(七七三~八一九年)の文学の中に、奴隷解放思想などが現われるのも、この頃です。

唐の時代の中国は、中国史上、文化・文明の上でも最も栄えた時代となりました。佐伯教授は、唐の時代の中国は、景教の強い影響下にあったと述べました。その文化の中枢に、景教徒が入り込んでいたのです。この時代、日本は遣唐使を派遣して、使節を長安の都で学ばせました。つまり、遣唐使が長安で学んできたものの多くは、純粋に中国生まれのものというよりは、多分に景教の影響を受けて発展した中国文化だったと、佐伯教授は述べています。

このように遣唐使や留学生(るがくしょう)が中国からもたらした文化というのは、多分に景教(原始キリスト教)の影響を強く受けたモノらしい。

九世紀に留学生として唐にわたった空海。そのもたらした密教も、どうも景教の影響を強く受けたモノの一つらしいのだ。高野山の僧侶たちは、このことを否定しようとはしない。むしろ「うちは単なるグレた景教にすぎないのです」と冗談めかした話をする。また、密教で結ぶ「引」の中にも、キリスト教徒と同じ「十字」を切るという「引」が存在するというのだ。ケン・ジョセフ氏は更に言う。

空海はどうして、景教にふれるようになったのでしょうか。……。

空海は、唐の時代の中国にわたりました。けれども渡る前に、すでに日本で、古代基督教徒であった秦氏、あるいは景教の人たちと接触していたようです。

空海の出身地、讃岐(香川県)は、じつは秦氏の人々が多く住んでいるところでした。その地には景教徒も多かったでしょう。また、空海の先生であった仏教僧「勤操(ごんぞう)」(七五八~八二七年)も、もとの姓を秦といいました。

空海は彼らのパワーに驚き、基督教、景教のことをもっと勉強しようとして、彼らの紹介で当時アジアの基督教の中心地であった中国の長安に行ったのだ、と述べる人々もいます。

そのとき、のちの天台宗の開祖・最澄も一緒に、唐にわたりました。最澄は日本に帰るとき旧約聖書を持ち帰り、一方、空海は新約聖書を持ち帰ったということです。ところがのちに、空海は最澄とケンカをしてしまいます。つまり二人は、景教徒たちが中国で漢文に訳した聖書を、分けて持ち帰った。じつは天台宗と真言宗の違いはそこにあるのです、と。──これは高野山のお坊さんから聞いた話です。また、岡山県の大学で教授をなさっていた岡本明郎先生も、これについて長年研究して、そうおっしゃっていました。

高野山では、空海の持ち帰った新約聖書が読まれていた、と聞きます。今も某所には、空海の持ち帰った『マタイの福音書』が保管されていると。こういったことを、当時ゴードン女史が熱心に調べて、その結果、今の高野山に景教の碑が立つに至ったわけです。

(ケン・ジョセフ「隠された十字架の国・日本-逆説の古代史-」)

これを読む限り、空海以前、景況は既に日本に定着していたようだ。

聖徳太子が、イエスと同じく厩で生まれたという「厩戸の皇子」伝説も、既にキリスト教が日本に入っていたとなると、「なるほど」と納得できる。

ところで、ゴードン女子のことだが、日本を愛したイギリス人女性エリザベス・A・ゴードンのことである。彼女は、キリスト教と仏教の根本同一を確信し、その研究のため中国・朝鮮を調査し、明治末期にはこの日本を訪れた。そしてまず目を付けたのが真言密教。調べるにつれ、そこに原始キリスト教の影響が深く影を落としていることに確信を持つようになり、その研究の一環として、『大秦景教流行中国碑』のレプリカをこの高野山に建てたのだという。

ちなみにゴードン女子は、残された人生のすべてを、この研究に捧げ、1925年、七十四才でこの世を去ったという。最期の地は京都であった。 


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