2022年3月3日木曜日

葬儀に関する仏教の常識って? 「世尊布施論」が示すもの | 徒然漫歩計

葬儀に関する仏教の常識って? 「世尊布施論」が示すもの | 徒然漫歩計

葬儀に関する仏教の常識って? 「世尊布施論」が示すもの

ネパールでブッダの降誕祭を体験

仕事でネパールのパタンに出張したときのことです。到着して3日目に「ブッダ・ゼンティ」というお祭りを体験することとなりました。聞けばブッダの降誕祭だといいいます。予期せぬ成り行きでした。ブッダが悟りをひらいたというネパールですが、今ではヒンドゥー教徒が人口の82%と圧倒的に多い状態です。仏教徒はわずか8%に過ぎないのですが、それでも町中あげての盛大なお祭りとなります。それが日本と違い、やたらとにぎやかなのです。日本なら「しめやかに行われました」となるのでしょうが、ネパールでは派手なこと、この上ありません。部族ごとにパレードが町中を練り歩き、楽隊がラッパや太鼓を鳴り響かせる。その先頭を行く、青、赤、黄、白、茶のにぎやかな旗。ネパールの友人に「あの旗は?」と訊くと、すかさず「ブッダの旗!」と答えが返ってきました。民族性と言えば、それまでなのでしょうが、同じ仏教で「どうしてこうも違うのだろう」と思わずにはいられません。
ネパールで、もうひとつ民族性の違いによるショッキングな出来事に遭遇しました。ネパールの葬儀を遠望することになってしまったのです。寺院のような場所に遺骸が運び込まれ(下の写真)、その遺骸は持参した石油で、その場で火葬に付されてしまいました。友人に訊くと、遺骨は川に撒かれ、それっきりだといいます。仏壇に位牌を祀るとか墓がつくられることもないというのです。
ネパールは、ヒンドゥー教と仏教が混淆した文化だと言われますが、それでも葬送の儀式については、仏教的な要素が強いようです。しかし、日本では、「葬式は家族だけで行い、墓は作らない」などというと、仏教徒が墓を作らないのは常識知らずだと、責められることにもなりかねません。
いったい、どうしてでしょうか? そこで、墓をつくることが、果たして仏教徒としての常識なのか、歴史的な面を含めて考えてみることにしました。

ネパールで見た葬儀

はじめに
人の一生には様々な儀式がついて回る。
誕生に当たっては、まずは安産祈願。妊娠五ヶ月目に安産を祈って神社に詣で、腹帯とか岩田帯と呼ばれているものを授けられ、これを捲く。生まれたら生まれたで、七日目をお七夜と称し、この日に赤ちゃんの名前を付けるのが古来からの習わし。そして、この名前を命名書に書いて神棚にお供えする。
生まれて一月が過ぎると、初宮参りといって、男子は生後三十一日目、女子は生後三十三日目に神社にお参りする。
この後も、お礼参り、七五三参りと生まれてからしばらくは神社との縁が切れないようだ。
特に「氏神」だ、「氏子」だと意識しなくても、多くの人が、このように神社と関わり、当たり前のように正月には神社に初詣をする。結婚式も圧倒的に神式が多い。最近はクリスチャンでなくても教会で式を挙げる人も増えているが、葬儀となると、俄然、日本人は「自分は仏教徒」だという意識を強くするようだ。生まれるときは「神様」で、死ぬときは「仏様」となるのが日本人の普通の姿になってしまった。
ところが最近、葬儀についてのトラブルが後を絶たない。その多くがお寺、あるいは僧侶との関係にあるようだ。こんな中、「葬儀不要」「墓不要」「戒名不要」の声もにわかに勢いづいてきた。つい先だっても朝日新聞の朝刊に、シニアの三割が「葬儀を望まず」という記事が掲載された。
しかし、一方で「葬儀は仏教でし、僧侶にお経を上げてもらい、戒名を授かり、死んだら墓に入るのが常識」という感覚が根強くある。だがこの常識、一体どこまでがホンモノなのだろうか。
なぜ、こんなことを言うかというと、そもそも仏教に「墓をたてる」という思想がない。「死んで戒名をつける」という考え方も存在しない。仏陀自身は、「僧侶が葬式に関わるべきではない」とまで言っている。
こんなことを言うと、みんなから「ウソーッ」という声が返ってきそうだが、多くの仏教国で常識となっていることが、なぜ日本では「ウソーッ」と叫ばれるような状況になってしまったのか。
先日も、ある女性からこんな体験を聞いた。彼女も「葬儀不要」「墓不要」という考え方なのだが、ある時、知り合いの町会議員の方と話す機会があったという。話題は、息子さんの結婚式の話。ところが話すうちに、「うちの息子が、結婚式は外国で自分たちだけで挙げる。たくさんの人を招いて披露宴など挙げたくないと、バカなことを言い出しよった」と怒りだしたのだ。彼の立場上、そんなわけにもいかないらしく、それがもとで口喧嘩となり、あげくは、息子さん、「そんな体面ばっかりの儀式に縛られたくない。一番いい例が葬式じゃないか、あんな金ばっかりかかる葬式、ホンモノじゃないよ。必要ないんだ」と自分の思いをぶちまけたらしい。
これには議員さん、よっぽど腹が立ったらしく「近頃の若い者はけしからん、あんた、どう思う」と、彼女に同意を求めてきた。
それをよせばいいのに、「私だって、今の形の結婚式や葬式は必要ないと思っています。お墓だって必要ないですヨ。先祖や親を敬うっていう気持ちが、どれだけ大きな葬儀を挙げるか、どれだけ立派なお墓をたてるかにかかっているなんて、ナンセンスだと思います。せまい日本、そのうち墓だらけになってしまいますしネ。息子さんの言ってること、案外、筋が通っていると思いますけど……」と口が滑ってしまったからたまらない。
「葬儀がいらない! 仏教徒が墓をたてない! そんなバカな話があるか!」と、怒りの矛先は遂に彼女に向かい「わしは仏教徒だ。お釈迦様を敬い、先祖を敬っとる。仏教徒が墓をたてないなど聞いたことがない。家を建てなくても墓はたてるべきだ。墓を持たない家は、いずれ衰退していく。わしが死んだら、墓がいらんというあんたの人生、これからどうなっていくか、草葉の陰からじっくり見届けてやる」ときたのです。
このことをどうこう言うつもりはないのですが、私たちは、仏教徒だからこうしなければならないとか、お坊さんが言うからとか、常識だからとか言いますが、もし、この常識の根本が間違っていたらどうなるのでしょう。
ここでは「葬式が必要だ」とか「必要でない」とか、「墓がいる」とか「いらない」とか、そんな話をするつもりは全くありません。私たちが仏教で当たり前だと思っているもの、世間で常識だと思っているものに焦点を当て、本当にそれが仏教での常識なのかを考えてみたいと思うのです。

世尊布施論 全体

1.西本願寺に伝わる宝物「世尊布施論」って、どんなお経?
まずは上の写真をご覧下さい。これは西本願寺に伝わる『世尊布施論』という経典です。
写真撮影の許可を求めたのですが、「そんな経典は当寺には存在しません」と、あっさり断られました。それでもあきらめず問いつめると、「資料室に確認したのですが、確かに以前はあったようですが、現在は見つかりません」という答えが返ってきた。
しかたがないので、ケン・ジョセフ氏の著作から転載させていただくことにした。印刷物からのコピーのうえ、今では使われていないような漢字も交じっており、ずいぶん読みにくいのだが、でもよく見ると、どこかで聞いたようなフレームが並んでいる。例えばこの三行目に注目してみよう。

世尊布施論 部分01「始布施若左手布施勿令右手……」(左の写真)
どこかで聞いたことはないだろうか。
そう、新約聖書マタイ伝「山上の垂訓」に「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」、あの一説だ。
また一八行目の中程には「看飛鳥亦不種不刈亦無倉坑」(右下の写真)とある。まさに『山上の垂訓』にある「空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません」、そのままです。
このほかにも、「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです」のフレーズや、「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい」などのフレーズが見つかるはずだ。
こうしてみていけば、親鸞が学んだという『世尊布施論』という経典、何のことはない『マタイ伝・山上の垂訓』そのままの漢文訳だった。漢文で書かれているため、今まで仏典として、また親鸞が学んだため、西本願寺の宝物として保存されてきたという。
日本在住のアッシリア人で景教(原始キリスト教)の研究家として知られるケン・ジョセフ氏は、この『世尊布施論』との出会いを次のように記している。

私は実際、西本願寺に行って、この『世尊布施論』について聞いたことがあります。寺の人に、「景教の書物がこの寺に保管されていると、本で読んだのですけれども、それはありますか。見せてもらえないでしょうか」と聞きました。しかし、何人かに聞きましたけれども、「いいえ、そういうものはありません」と言う。
世尊布施論 部分02「でも、こうやって写真まで出ているじゃないですか」と、私が持っていた本を見せました。それでも「知らない」と言います。そのうち、私がねばっていると、奥の方から責任者らしいおじいさんが出てきました。
「はい、たしかにあります」
と言ってくれました。「でも、大切にしまわれているものですし、古くて傷みやすい状態なので、普通はお見せしていません」とのことでした。「でも、どうしてもと言われれば、お見せすることもしていますが、それを撮影した写真がありますから、普通はその写真を見ていただいています」と。
それで、写真を見せていただきました。それは私の持っていった本のものと同じでした。こうして、西本願寺に景教の書物があるのは本当だと知ったのです。あの浄土真宗の開祖、親鸞が、これを何時間も読んで学んだということは、私にとっても感慨深いものでした。
(ケン・ジョセフ「〔隠された〕十字架の国・日本」徳間書店)

このことは一体何を意味するのだろうか。
私たちは、日本に初めてキリスト教が入ってきたのは、一五四九年、フランシスコ・ザビエルによってであると教えられてきた。それが親鸞の時代には、すでにキリスト教の教典が入ってきているというのだ。
驚いて調べてみると、高野山にも『景教伝達碑』なるものがあるという。
早速行ってみると、高野山一の橋から奥の院参道に入り、二手に分かれている道を右手にしばらく歩いたところに、それはあった。まず英文で書かれた『安住家』の供養塔が目に入り、その隣に『大秦景教流行中國碑』と頭に大きく三行に彫られた石碑がある。これがお目当ての『景教伝達碑』だという。
しかし『中國碑』とあるように、これはもともと中国は西安にあるもののレプリカ(複製)だという。では、なぜそのレプリカが日本の高野山にあるというのか。
そのことに触れる前に、まずはその本体である中国・西安にある『大秦景教流行中國碑』について、久保有政、ケン・ジョセフ、ラビ・マーヴィン・トケイヤーの三氏の共著になる『日本・ユダヤ封印の古代史-仏教・景教編-』から、その概要を見ておくことにしよう。

中国における景教の様子については、西安(旧・長安)で発見された有名な、「大秦景教流行中国碑」が物語っています。これは七八一年に建立されたものです。しかし、のちの迫害の時代に隠され、一六二五年になってイエズス会士が発見しました。
この景教碑や、中国における景教文書、遺物等の研究者として、佐伯好郎教授は世界的に有名です。景教碑の複製は、弘法大師・空海の開いた高野山と、京都大学文学部陳列館にもあります。
景教碑は、次のような神への賛辞から始まっています。
「大秦景教流行中国碑。中国における景教の普及を記念して。大秦寺僧侶・景浄(シリア名アダム)叙述。……見よ。真実にしで堅固なる御方がおられる。彼は造られず造る御方、万物の起源、私たちの理解を超える見えない御方、奇しくも永遠に至るまで存在し、聖なるものを司る宇宙の主、三位一体の神、神秘にして真実な主なる神である。……」
この「神」は、原文では「阿羅訶」(アロハ)という漢字です。これはシリア語またはヘブル語の「神」を意味するエロハに漢字を当てはめたものでしょう。
景教碑に記されたところによると、唐の皇帝は景教を重んじ、中国の一〇の省すべてに景教の教えを広めました。こうして国は、大いなる平和と、繁栄を楽しんだといいます。また景教の教会は多くの町々につくられ、すべての家庭に福音の喜びがあったと、景教碑は記しています。
王室の儀式、音楽、祭、宗教的慣例なども、ガブリエルという名の景教徒が担当していたと記録にあります。
当時の長安の都は、このように多分に、景教文明によるものでした。たとえば景教徒の自由と人権の思想は、中国社会に強い影響を与えました。唐の文学者・柳宗元(七七三~八一九年)の文学の中に、奴隷解放思想などが現われるのも、この頃です。
唐の時代の中国は、中国史上、文化・文明の上でも最も栄えた時代となりました。佐伯教授は、唐の時代の中国は、景教の強い影響下にあったと述べました。その文化の中枢に、景教徒が入り込んでいたのです。この時代、日本は遣唐使を派遣して、使節を長安の都で学ばせました。つまり、遣唐使が長安で学んできたものの多くは、純粋に中国生まれのものというよりは、多分に景教の影響を受けて発展した中国文化だったと、佐伯教授は述べています。

このように遣唐使や留学生(るがくしょう)が中国からもたらした文化というのは、多分に景教(原始キリスト教)の影響を強く受けたモノらしい。
九世紀に留学生として唐にわたった空海。そのもたらした密教も、どうも景教の影響を強く受けたモノの一つらしいのだ。高野山の僧侶たちは、このことを否定しようとはしない。むしろ「うちは単なるグレた景教にすぎないのです」と冗談めかした話をする。また、密教で結ぶ「引」の中にも、キリスト教徒と同じ「十字」を切るという「引」が存在するというのだ。ケン・ジョセフ氏は更に言う。

空海はどうして、景教にふれるようになったのでしょうか。……。
空海は、唐の時代の中国にわたりました。けれども渡る前に、すでに日本で、古代基督教徒であった秦氏、あるいは景教の人たちと接触していたようです。
空海の出身地、讃岐(香川県)は、じつは秦氏の人々が多く住んでいるところでした。その地には景教徒も多かったでしょう。また、空海の先生であった仏教僧「勤操(ごんぞう)」(七五八~八二七年)も、もとの姓を秦といいました。
空海は彼らのパワーに驚き、基督教、景教のことをもっと勉強しようとして、彼らの紹介で当時アジアの基督教の中心地であった中国の長安に行ったのだ、と述べる人々もいます。
そのとき、のちの天台宗の開祖・最澄も一緒に、唐にわたりました。最澄は日本に帰るとき旧約聖書を持ち帰り、一方、空海は新約聖書を持ち帰ったということです。ところがのちに、空海は最澄とケンカをしてしまいます。つまり二人は、景教徒たちが中国で漢文に訳した聖書を、分けて持ち帰った。じつは天台宗と真言宗の違いはそこにあるのです、と。──これは高野山のお坊さんから聞いた話です。また、岡山県の大学で教授をなさっていた岡本明郎先生も、これについて長年研究して、そうおっしゃっていました。
高野山では、空海の持ち帰った新約聖書が読まれていた、と聞きます。今も某所には、空海の持ち帰った『マタイの福音書』が保管されていると。こういったことを、当時ゴードン女史が熱心に調べて、その結果、今の高野山に景教の碑が立つに至ったわけです。
(ケン・ジョセフ「隠された十字架の国・日本-逆説の古代史-」)

これを読む限り、空海以前、景況は既に日本に定着していたようだ。
聖徳太子が、イエスと同じく厩で生まれたという「厩戸の皇子」伝説も、既にキリスト教が日本に入っていたとなると、「なるほど」と納得できる。
ところで、ゴードン女子のことだが、日本を愛したイギリス人女性エリザベス・A・ゴードンのことである。彼女は、キリスト教と仏教の根本同一を確信し、その研究のため中国・朝鮮を調査し、明治末期にはこの日本を訪れた。そしてまず目を付けたのが真言密教。調べるにつれ、そこに原始キリスト教の影響が深く影を落としていることに確信を持つようになり、その研究の一環として、『大秦景教流行中国碑』のレプリカをこの高野山に建てたのだという。
ちなみにゴードン女子は、残された人生のすべてを、この研究に捧げ、1925年、七十四才でこの世を去ったという。最期の地は京都であった。


2.お盆という行事も景教から

このように、日本人が仏教だと思っているモノの中には、原始キリスト教の影響が色濃く残っていることが浮かび上がってきました。
それは単に思想的な面にとどまるのでなく、行事や風習の中にこそハッキリと刻み込まれています。 次に、我々が今まで仏教的だと思ってきた様々な行事や風習について見ていきたいと思います。

①お盆と先祖供養
仏教にはもともとお盆という風習はありません。お盆は盂蘭盆(ウラボン)の略ですが、これは「死者の霊魂」を意味するペルシャ系のソグド語「ウルバン(URVAN)」からきたというのです(仏教学者・岩本裕博士の説)。
ソグド人には家に祖霊を迎え、供え物を共に楽しむという風習がありました。中国のお盆はこれを取り入れたモノだというのです。
また景教徒にも、「じつは先祖の霊魂の慰安を祈る風習」があったと言います。

ユダヤ人は昔から、死者の慰安のために祈る風習を持っていました。ラビ・トケイヤーにお聞きしたところ、今日でもユダヤ教においては、ユダヤ暦七月一五日の「仮庵の祭」のときをはじめ、年に数回、先祖の霊のために祈る特別なときがあるそうです(イズコル)。
じつは中国には、ソグド人や景教徒がやって来るまで、死者のために祈る盛大な行事としてのお盆の風習は、ありませんでした。意外に思われるかもしれませんが、インド仏教にも中国仏教にも当初、お盆や、死者のための供養の行事はなかったのです。
しかし、中国は祖先というものを大切にする所です。その中国において、景教徒たちは勢心に、神の憐れみに満ちた取り扱いが先祖の霊魂にあるように祈りました。そうやって先祖を大切にする景教徒たちの態度は、中国社会でたいへん歓迎されたのです。そのために景教は、非常な勢いで人々の間に広まりつつありました。
一方、仏教は「先祖や親を大切にしない教え」として、儒教徒などから攻撃を受けていました。仏教は出家王義ですし、もともと、親を捨てないと救われないとする教えです。また先祖に執着心を持っていては修行できないとする考えですから、先祖や親への孝行を説く儒教の人たちから、さんざんに非難を受けていたのです。
それで、仏教でも先祖や親を大切にする態度を見せる必要がありました。中国の仏教僧たちは、景教徒たちに対抗し、「彼らに負けないだけの死者を弔う行事を仏教でも持とう」、と計画しました。そうやって、景教徒が中国へやって来た七世紀頃から、中国や、また日本でも、お盆の風習が始まるようになったのです。
ソグド人とインド人の混血として生まれ、長安の都で景教教会のすぐ近くに住んでいた密教僧・不空金剛(アモガ・ヴァジラ)はまた、西暦七六六年に、仏教徒らを集めて盛大な「死者のための供養祭」を行ないました。七月一五日のことです。これは道教の「中元」の日でもあったからです。
彼らはこうして、様々な宗教概念を仏教的な概念に編成し直し、景教徒への対抗意識から、歴代の中国皇帝の慰霊のために祈りました。このようにして、中国における「お盆」の風習が、仏教行事として定着したのです。この風習は、さらに唐の時代の中国にわたった空海や最澄らを通して、日本にも輸入されました。日本でもこうして、今日見られるような「お盆」の風習が定着したのです。(『日本・ユダヤ封印の古代史2-仏教・景教編』)

②戒名と洗礼名
次に戒名について見てみましょう。佐伯好郎教授によれば、この風習についても、もとは景教のモノだというのです。確かに仏教には、もともと死者に戒名を付けるなどという習慣も教えもありません。本来の意味から言えば、戒名とは、教えに帰依したときに付けられる名前です。キリスト教の洗礼名と非常に似通っています。
現に空海は、中国で密教に帰依したとき、灌頂(かんじょう)の儀式を受けています。この灌頂の儀式というのは、梅の木でつくった棒で人の頭に水滴を三度注ぐ儀式です。
そして、この儀式の後、「遍照金剛(へんじょうこんごう)」という灌頂名を授かっているのです。キリスト教の「洗礼式」と「洗礼名」、それに密教の「灌頂式」と「灌頂名」、非常によく似通っています。これに反し、これに少しでも似たような慣習は仏教にはありません。しかも、灌頂ということ自体、密教以前にはなかったといいます。水滴を三度注ぐというのも、特に理由はなく、父・子・精霊の三位一体の名によって三度水をかける、キリスト教の「滴礼式の洗礼」をまねたモノだろうと佐伯教授は言うのです。
そして戒名を書いた位牌。これについても佐伯教授は、本来景教のモノであると言います。景教徒は、死者を弔う際に、亡くなった日付と洗礼名を書いた二つ折りの位牌を用いたのです。同様にお墓をつくるという慣習も仏教にはなかったモノです。
アジアにある多くの仏教国にはお墓をつくるという習慣がありません。なぜなら人は死ねば、また次の人生を生きるために生まれてくるのです。悟るまでこれを繰り返し続けると言います。死後の世界、死後の生活があって、そこに止まるわけではないのですから、墓も供養も必要ないというわけです。
故人の思い出のために墓をつくるというのは、実は非常にキリスト教的な発想であり習慣であると言えるでしょう。

③数珠と焼香
僧侶の必需品であり、私たち一般の者でも葬式には必ず持参する数珠、これもキリスト教のコンタツ(数珠)が元になっているようです。ケン・ジョセフ氏は「一般に、仏教における数珠の発案者は、中国、随・唐時代の僧、道綽(どうしゃく 五六二~六四五)だったと言われています。しかし、これはちょうど中国に初めて景教が入った時代で、景教徒の風習であった数珠が、仏教にも取り入れられた」のだろうと述べておられます。
この時代、『大秦景教流行中国碑』にあるように、中国において景教が全盛であったことと考えあわせると、なるほどと頷けるモノがあります。
また、焼香という風習についても、仏教には元々なかったモノです。これについても、ケン・ジョセフ氏は、「じつは線香とか焼香の風習は、もともと仏教の風習と思うかもしれませんが、そうではありません。仏教にははじめ、そうした風習はありませんでした。一方、インドや中国、日本にやって来た東方キリスト教徒たちはみな、香炉などによって香をたく風習をはじめから持っていました。ユダヤ人も、礼拝のために香をたく風習を、モーセの「幕屋」(神殿の原型)の時代から持っていました。(中略)また、景教の教会では、ろうそくを立て、あかりを灯しています。祈りたい人はろうそくを買い、それをろうそく立てに立てて祈るのです。これも、仏教の寺院に同じ風習があります」と述べておられます。
このように、葬儀と供養という面から、日本の文化というモノをみてきましたが、仏教とは違う日本の顔が表面に浮かび上がってきました。
生活の面、言葉の面、また神道の世界からアプローチしていけば、我々が思いもつかなかった日本が浮かび上がってくるはずです。


まとめ

今、仏教でいう常識について、ちょっと偏った見方かもしれませんが、一つの観点をあげてきました。こういった作業を敢えておこなったのは、それは仏教がどうとかキリスト教がどうとかいう問題でなく、葬儀が必要なものかどうかという切り口から、自分にとって「死」とは何か、「生」とは何かということを自由に考えてみて欲しかったかからです。今まで纏っていた「宗教」とか「常識」とか「世間」とかいう鎧を脱ぎ捨てて、自由になって、この問題を考えてみて欲しかったからです。
「仏教では」とか、「キリスト教では」とか、「世間では」という発想ではなく、自分はどう思っているか、裸になって考えてみることから本当の答えが出てくるような気がしてならないからです。 

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