歌舞伎事典:象引|文化デジタルライブラリー
- 作品名の元となった象を引き合う場面 『象引』2代目尾上松緑の箕田源二猛 17代目市村羽左衛門の大友褐麿 1982年(昭和57年)1月国立劇場(Y_E0100114000038)
歌舞伎十八番【かぶきじゅうはちばん】の一つ。
荒事【あらごと】には力強さを表現するために、二人の人物が物を引っ張り合って力くらべをするという演技があります。『象引』はその一つで、荒事の主人公が敵役【かたきやく】と象を引っ張り合います。写真右の青い隈取をしている人物が敵役です。
初代團十郎【だんじゅうろう】が初演したといわれていますが、詳【くわ】しいことは分かっていません。江戸時代には長い間上演されず、脚本【きゃくほん】が定まっていません。そのため、大正以降さまざまな俳優によって復活されました。最近では1982年(昭和57年)、国立劇場【こくりつげきじょう】で2代目尾上松緑【おのえしょうろく】が新しく復活させました。
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象引
ぞうびき
画題
画像(Open)
解説
東洋画題綜覧
享保年間漢土から象が渡来したので八代将軍の上覧に供したが、これが歌舞伎に取入れられたのが象引で、初演は二代目団十郎であつた、鈴鹿の王子と呼ぶ公卿悪が、宝刀詮議の為め京より下り山上源内左衛門といふ武士と象を引き合ふとだけしか伝はつてゐない、大正三年平木白星が、新に『象引』を書き市川左団次が上演したが、唯絵画に残る象引を写したばかりで、筋は全く関係のないものである。
(『東洋画題綜覧』金井紫雲)
"市川團十郎" 復活の 『象引』 ── あるいは、十八番 (おはこ) の語源について。
『象引』 が歌舞伎の演目としてかかるのは希有なことである。
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↑は、27年前 (昭和57年1月) に、二代目 (先々代) 尾上松緑 (おのえ しょうろく) 丈が主演で、
今回と同じく、国立劇場で復活上演したときのもの。
このときの上演じたいが、昭和33年の
四代目 河原崎長十郎 (かわらさき ちょうじゅうろう) 丈による復活から24年ぶりだった。
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『象引』 という狂言は、「歌舞伎十八番の内」 とは言い条、めったに見られるものではない。
今回の象は、↑のより、はるかに大きいゾウ!
〓4日、東京は三宅坂にございます 「国立劇場」 の 「大劇場」 にて、初春歌舞伎公演を見てまいりました。
〓「国立劇場」 で催される歌舞伎には、他と違う特徴がございます。
入場料が、少々、お安い。
多くは、復活の珍しい 「通し狂言」 がかけられる。
〓入場料が安いのは、国立だからと心得てください。安かろう悪かろうではござらん。むしろ、
国立劇場の舞台は、他のどんな歌舞伎の劇場よりも広くて、大仕掛けの舞台装置が楽しめる
のです。国立劇場の歌舞伎を見慣れてしまうと、他の劇場での歌舞伎が寸詰まりに見えたりします。
〓また、「通し狂言」 が多い、というのも、ツウにはうれしいところです。普通の歌舞伎興行というのは、
有名な演目の、有名な場を、寄せ集めて掛ける
ということが多いのです。つまり、「名場面集」 です。あるいは、お菓子の詰め合わせみたいな感じ。
どんなストーリィなのか、頭からシッポまで見てみたい
というコダワリ派のヒトは少なくない、と思うのです。国立劇場はそれに応える番組を掛けておるのです。
〓ここで、ちょいと 「通し狂言」 というコトバの意味を説明しておきましょか。この "狂言" というのは、「能狂言」 というときの "狭義の狂言" とは意味がちがいます。
〓"狂言" という漢語は、8世紀の 「続日本紀」 の昔より使用例がありますが、そもそもは、
(1) 【 狂言 】 常軌を逸した言動
という意味でした。それが、ちょうど平安時代から鎌倉時代に移行する 1188年に、
(2) 【 狂言 】 ふざけて、おもしろおかしく言うこと。冗談
という意味にズレていきます。コトバと時代が同時に移り変わる、興味深い例です。
〓これが、いわゆる、
(3) 【 狂言 】 =「能狂言」
の意味で使われるようになるのが 15世紀。
〓そして、
(4) 【 狂言 】 =「歌舞伎狂言」、すなわち 「芝居」
の意味で使われるようになるのが 17世紀後半です。その後、20年もたたないウチに、
(5) 【 狂言 】 人をだますために仕組んだ芝居
という意味の用例が現れます。
〓現代では、(3)、(4)、(5) の意味で使われています。しかし、一般のヒトは (3) の 「能狂言」 の意味をよく心得ており、また、(5) は、TVドラマのミステリーなどで 「狂言強盗」、「狂言自殺」、「狂言をうつ」 などという言い方に親しんでいるものの、(4) は意外に知られていないのですよ。
〓ところが、歌舞伎のほうでは、「一本の芝居」、「ひとつの出し物」 の意味のちょうど手頃なコトバが、あんがい、見当たらず、これにシックリくるのが "狂言" なのです。意味が取りづらいと感じる場合は、"歌舞伎狂言" という言い方に置き換えてみるとよろしい。
「通し狂言」
という言い方は、もっともよく使われます。すなわち、名場面の寄せ集めではなく、もともと、一本の芝居として書かれた演目を、最初から終わりまで演じること、という意味です。
〓あるいは、落語とか映画なんぞを見ていると、歌舞伎の戯作者 (げさくしゃ) や座頭なんぞが、
「こんどの狂言は……」
なんて言う場面にデッ食わすことがあります。すなわち、「こんどの出し物は……」 の意味ですネ。
〓で、この、国立 (国立劇場・国立演芸場の略) の出し物は、ほとんどの場合が 「通し狂言」 なのです。それも、50年ぶり、とか、100年ぶりの復活上演、というのが、しばしばあります。
〓すなわち、江戸時代とか、明治時代なんぞに上演されたのを最後に途絶えていた、という芝居を取り上げ、あらたに台本に手を入れ (=補綴 <ほてい・ほてつ・ほてち・ほとつ・ほせつ>)、当時の錦絵 (浮世絵) なんぞを参考に舞台背景・装置をつくり、昔の歌舞伎がどんなものであったか、今の舞台に甦らせてみる、という趣向なのです。これが、けっこう、ワクワクする。
〓国立だからこそ、できることなのだと思います。だから、これを見ないのは、とても、モッタイナイことなのですよ。
〓残念ながら、国立の歌舞伎興行は、通年、おこなわれているものではありません。
10月・11月・12月・1月
という、年末・新年をはさんだ4ヶ月のみ開催されます。いずれも1ヶ月興業で、年に、4本の狂言がかかることとなります。ときには、3月ころに若手歌舞伎がかかることもあります。
〓とりわけ、1月の初春歌舞伎は、華やかな外連 (けれん) たっぷりの演目が選ばれることが多く、劇場ロビーでは獅子舞があったり、また、NHK BS2 では、例年、1月3日に、この初春歌舞伎の生中継をおこないます。今年も放送されてましたですよ、ハイ。
【 "市川團十郎" 丈の 『象引』 】
〓十二世 市川團十郎 丈 (いちかわ だんじゅうろう じょう) は、
2004年5月、急性骨髄性白血病で入院
※正確に、亜型で言うと 「急性 前骨髄球性 白血病」
し、治療されました。この白血病の亜型は、薬剤による完全寛解 (かんぜん かんかい = 薬が効いた状態で、血液中から白血病細胞が姿を消している状態) が可能なタイプなんだそうです。
〓ただ、完全寛解というのは、とりあえず、白血病細胞が見当たらない、という状態であり、いわゆる、常識で言う 「病気が治った」 というのとは意味がちがいます。
2004年12月、京都南座にて舞台に復帰
〓しかし、
2005年8月に再発
〓つまり、どこかに潜んでいた白血病細胞が、また、暴れ出したということなんでしょう。このときの治療は、抗ガン剤の大量投与をともなう壮絶なものだったそうです。このときは、「自家 末梢血幹細胞 移植」 という治療をおこない、翌 2006年2月に退院されました。
2006年5月、歌舞伎座で舞台に復帰
〓このときは、成田屋 (なりたや=市川團十郎の屋号) のお家芸である 「歌舞伎十八番の内 "外郎売" (ういろううり)」 で復帰しました。
〓2008年、ふたたび入院したというニュースを耳にしましたが、このときは、再発ではなく、7月に、実妹からの提供により、
造血幹細胞移植
をおこなったのだそうです。なんで、今さら?といぶかるヒトもいると思いますが、白血病の治療のために、大量の抗ガン剤の副作用があり、免疫力の低下した状態では、この造血幹細胞移植という治療はおこなえないんだそうです。
〓完全寛解に至ったのち、感染症・合併症の危険度が低くなった状態で、初めて、化学療法の他に、「造血幹細胞移植」 という選択肢がうまれるそうです。
〓かくして、この1月の公演 『象引』 (ぞうひき) は、「造血幹細胞移植」 から半年後の復活公演であり、また、前回の歌舞伎座に続いて、
「歌舞伎十八番の内 (うち) "象引"」 による舞台復帰
となったのです。
〓今月の国立劇場大劇場の番組は、
『象引』 約1時間
『十返りの松』 (とかえりのまつ) 舞踊 約30分
『誧競艶仲町』 (いきじくらべはでななかちょう) 歌舞伎 約2時間半
というものです。成田屋さんは、『象引』 のみの出演です。お医者さんと相談のうえで出演を決めた、ということなので、とりあえず、この1時間ものの狂言でようすを見る、ということなんでしょう。
【 『象引』 のミステリー 】
〓この 『象引』 (ぞうひき) と言う芝居は奇妙な演目です。
「歌舞伎十八番」 (かぶき じゅうはちばん)
と言うは、天保3年 (1832年)、七代目 市川團十郎が選定した、
成田屋 市川家の "お家芸" である十八番 (=18本) の狂言
のことを言います。
〓市川家では、
この十八番の台本を、箱に入れて大事に保管したので、
"十八番" と書いて "おはこ" と読むようになった
という説は、いかにも雑学の虫が好みそうな逸話です。
〓しかし、この俗説には微妙な誤りが含まれているのです。まず、
"おはこ" というコトバの語源は "歌舞伎十八番" ではない
ということです。
"おはこ" を "十八番" と書くようになった起源
が、「歌舞伎十八番」 にあるというのは、おそらく、ホントウでしょう。
〓しかし、"おはこ" というコトバじたいは、"歌舞伎十八番" から出たのではない。
〓「おはこ」 というコトバは、ちょうど、市川家で 「歌舞伎十八番」 が選定されたのと時を同じうして流行り始めたコトバであるようです。
「おはこ」 というコトバの初出年は、七世 團十郎が
「歌舞伎十八番」 を選定する6年前の 1826年 (文政9年)
です。つまり、物理的に 「歌舞伎十八番」 が語源とは成り得ないのです。
〓「おはこ」 の語源は、いわゆる、
「箱書き付き」 (はこがきつき)
ということらしいです。「なんでも鑑定団」 なんぞを見ているヒトは、"箱書き" というのがナンであるか、ご案内でしょう。
書画・陶磁器などを納めた箱に、作者または鑑定家が、
真作であることを保証するため、署名・押印したもの
を言います。
〓日本人は、こういう "保証付き" が好きらしく、
【 お墨付き 】 将軍・大名が、武勲の確認、領地の安堵 (あんど) などをしたためた文書。
下付者 (かふしゃ) の花押 (かおう) があることから 「墨付き」 と言う。
【 太鼓判 】 武田氏の甲斐国 (かいのくに) で鋳造された金貨。
周縁に、太鼓の鋲のごとき小さな点がグルリ並んでいることから、この名がある。
「太鼓判を捺 (お) す」 という奇妙な転用は、昭和に入ってからのもの。
【 極め付け 】 本来は、「きわめつき」 である。「きわめつけ」 は昭和に入ってからの誤音。
書画・骨董に、確かな筋のものであることを証明する鑑定書、
すなわち、「極め札」 (きわめふだ) が付いていること、また、その付いているもの、を指す。
【 折紙付き 】 本来は、濁らずに 「おりかみつき」 と言った。「折紙」 (おりかみ) は、折り鶴・ヤッコさんというワケではない。
鑑定書、すなわち、「極め札」 と同義語である。つまり、「おりかみつき」 とは、「きわめつき」 の同義語。
というぐあいでござりますよ。どれほど保証が好きなんだ?ってね。「鑑定団」 でご存じのとおり、その保証がアテにならない。
〓というので、つまりは、「芸に箱書きが付いている」 という意味で、"おはこ" という言い方が生まれたようです。日本人は、書画・骨董と芸を同列に語るのが好きだったらしく、「きわめつき」、「おりかみつき」 も芸の形容に使われてきました。
〓もっとも、「折り紙つきの不良」 なんて言い方もありますね。あるいは、「札付きのワル」 などとも言います。この 「札付き」 は、どうやら 「極め札付き」 のことのようです。両者が使われるようになったのが、ちょうど 18世紀の前半で一致しているからです。つまり、
鑑定書つきの不良
ということですね。
〓「おはこ」 のハナシに戻ります。つまり、市川家の 「歌舞伎十八番」 の台本が箱に入っていたから 「おはこ」 なのではなく、
市川家の 「箱書き付き」 の芸が 「十八番」 (18本) あることから、
誰かが、それ以前からあったコトバである 「おはこ」 に 「十八番」 を当てた
というのが真相のようです。
〓ややこしいので図解しますとこうなります。
「箱書き付きの芸」
↓
「おはこ」 というコトバが生まれる。1826年 (文政9年)
↓
市川家で "歌舞伎十八番" が選ばれる。1832年 (天保3年)
↓
「おはこ」 に 「十八番」 が当てられる
〓さらに、意外なことに、「おはこ」 を 「十八番」 と書く習慣は、ずっと新しいもののようなのですよ。「日本国語大辞典」 では、「おはこ」 の用例を7つ挙げています。それを見て驚くなかれ。
「ぐっと一番おはこを出して、わっといはせてかへりやした」
『玉櫛笥』 (たまくしげ) 滑稽本 1826年
「斯う (こう) 見えても佐助は、とんだ機嫌上戸で、大津絵節 (おおつえぶし) の踊が、
大の得意 (オハコ) で御座 (ござ) いますよ」
『清談松の調』 (せいだん まつのしらべ) 人情本 1840~41年
※「機嫌上戸」 (きげんじょうご) は、飲むと陽気になるクセのこと。
「旦那、もう一段お語らせなされて、まあ御寛 (ゆる) りとなされませ。
蘭蝶などは二人の御箱で御座ります」
『忠臣蔵年中行事』 歌舞伎 1877年 (明治10年)
※「蘭蝶」 (らんちょう) は新内 (しんない) の語り物のひとつ。
「柳枝が得意 (オハコ) の鉤客告条 (あとひきこうじょう)」
『当世書生気質』 (とうせい しょせい かたぎ) 坪内逍遙 1885~86年 (明治18~19年)
※「柳枝」 と言うは、落語家の三代目 春風亭柳枝 (しゅんぷうていりゅうし) のこと。
「あとひきこうじょう」 は、「後引き口上」 のこと。すなわち、続き物を、
翌日も聴きに来るように仕向ける巧みな噺の終わり方を言うようだ。
落語は、あまり、数日にわたることがなく、後引き口上を盛んに使ったのは講談のほうであろうと思うが……
「公債を書替へる極 (ごく) 簡略な法、或は誰も知ってゐる銀行の内幕、
またはお得意 (ハコ) の課長の生計の大した事を喋々 (ちょうちょう) と話す」
『浮雲』 二葉亭四迷 1887年~89年 (明治20~22年)
「羽川君の得意 (オハコ) の労働神聖論なぞは有難くないからナ」
『社会百面相』 内田魯庵 1902年 (明治35年)
「立派にやってゆけない時は君の十八番 (オハコ) の家出をしてもらへばいい」
『世間知らず』 武者小路実篤 1912年 (明治45年/大正元年)
〓たぶん、アァタも意外に感じたハズですよ。明治時代までは、
「おはこ」、「御箱」、「得意」、「お得意」
という表記しか見えません。なかでも、「得意」 という表記が多かったようです。
〓では、今度は、"得意の芸" という意味で使われてきた 「十八番」 (じゅうはちばん) というコトバの用例を見てみましょ。
「例の十八番を言ってりゃア <略> 唯余所 (よそ) の咄 (はなし) にして仕舞 (しま) ひまはアナ」
『春色江戸紫』 (しゅんしょく えどむらさき) 人情本 1864~68年ごろ
※「仕舞ひまはアナ」 は 「しまいまァわな」 と読むのだろう。
「~してしまいますわな」 の音便形であろう。
「これが此人 (このひと) の十八番とはてもさても情 (なさけ) なし」
『大つごもり』 樋口一葉 1894年 (明治27年)
「親爺の十八番だ」
『何処へ』 正宗白鳥 1908年 (明治41年)
〓つまり、何が言いたいか、というと、江戸から明治にかけて、"得意" とかかれる 「おはこ」 というコトバがあって、いっぽうでは、"十八番" とかかれる 「じゅうはちばん」 というコトバがあって、明治が終わるころに両者が合体した、と、そういうことらしいのですね。
「おはこ」 を 「十八番」 と書くようになったのは最近だ
という意味がガッテンしていただけたでしょうか。
三代目歌川豊国が 『象引』 を描いた図だが、実際の舞台をモチーフに書かれたものではない。
原図は、初代鳥居清倍 (とりいきよます) の描いた丹絵なれども、そのモチーフとなった芝居は、
『象引』 とも 『傾城王昭君』 (けいせい おうしょうくん) とも言われ、判然としていない。
【 「箱」 を開けたら空っぽだった 「お家芸」 】
〓実は、『象引』 (ぞうひき) のフシギと言うは、この点でもないのです。実を言いますと、驚くべきは、
大正時代に復活公演される以前で、最後に 『象引』 が上演されたのは、
象が、日本に三度目に渡来した享保年間 (1716~36) の折りのことで、
演じたのは二代目の團十郎だった
ということなのです。
〓つまり、七代目 市川團十郎が 「歌舞伎十八番」 を選定した時点 (1832年) で、すでに、ほぼ 100年が経っているのです。『象引』 を選定した七代目團十郎も 『象引』 を演じていません。つまり、七代目團十郎は、当時すでにどんなハナシかよく分からなくなっていた 『象引』 を 「十八番」 に数えていたのです。
〓その後、初めて 『象引』 が復活公演されたのは、1913年 (大正2年) のことです。今回の十二代目 團十郎の 『象引』 の公演も、この大正2年の台本が基になっているそうです。
〓1913年の時点で、『象引』 は、
ほぼ、200年の長きにわたり上演されていなかった
ということになります。もちろん、台本もなく、どんな芝居だったか、という資料もなかったらしい。あるのは、浮世絵に描かれた歌舞伎の 『象引』 "らしきもの" だけだった、というのですから、すさまじいハナシです。
〓つまり、
歌舞伎十八番の内 (うち) 『象引』
とは言い条 (じょう)、そのウジ素性は、きわめて怪しいものなのですよ。大正の新作歌舞伎、というのが実状です。
〓しかし、起源がどうあれ、『象引』 という歌舞伎は、なかなか、愉快である。
上方から逃亡したゾウが、関東に逃げ込み、
好き勝手な乱暴狼藉 (ろうぜき) を働き、民百姓を踏み殺すは、
疫病や飢饉をもたらすわ
というヒドイ暴れ方をしている、とう設定なのです。
〓ちょいとした 「ゴジラ」 ですよね。いや、アッシが子どものころにTVで放送していた 「仮面の忍者 赤影」 の世界ですよ。知らん?知らんか…… そうそう、「めちゃイケ」 でやってる 「色とり忍者」 ってえのは、"赤影" がモチーフですがな。
〓まあ、それはええとして……
〓『象引』 に出てくる張り子のゾウは、中にヒトが2人入った、すこぶるつきに愉快な造形です。鼻がなかなかチャーミングに動く。顔がじゃっかんグロイぶん、かえって面白く、また、悪党の霊力が切れて、おとなしくなったゾウは、寒いときにネコが座るように、前足を正座風に折って座ったりして、なかなか、表情も豊かです。
〓成田屋さんの 「箕田源二猛」 (みたのげんじたける) は、病み上がりであることを少しも感じさせない、堂々たるものでした。「荒事」 (あらごと) の團十郎の面目躍如たり。
〓最後は、幕外 (まくそと) となって、猛 (たける) は、土佐犬のごとく体に注連縄 (しめなわ) を巻かれたゾウを引っぱって花道を引っ込んでいきます。これから、ゾウを飼うんだっていうからケッサクです。
〓正月らしい、にぎやかな狂言であり、ナンか、見て、
非常にトクした気分になる歌舞伎
です。
〓今月27日まで公演があるので、興味のある方にはオススメいたす。『象引』 が見られる機会はそうそうあるものではありません。團十郎丈の復帰を祝ってきてください。
番組名 日本の伝統芸能 市川團十郎の歌舞伎入門(1) 「市川團十郎と荒事~歌舞伎十八番の内"暫"~」
放送日時
アナログ教育 2009年04月07日(火) 午前05:05 〜 午前05:35
内容時間
00:30:00
番組内容
「市川團十郎と荒事~歌舞伎十八番の内"暫"~」
EPG番組内容
「不破」不破伴左衛門…二代目尾上松緑,名古屋山三郎…初代尾上辰之助,「鳴神」鳴神上人…市川團十郎,「象引」箕田源二猛…市川團十郎,「勧進帳」武蔵坊弁慶…市川團十郎,「不動」不動明王…二代目尾上松緑,「助六」花川戸助六…市川團十郎,「外郎売」外郎売実は曽我五郎…市川團十郎,「押戻」大館左馬五郎照綱…市村羽左衛門,「矢の根」曽我五郎…二代目尾上松緑,「景清」悪七兵衛景清…市川團十郎 ほか
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象引 歌舞伎十八番 2009.1.14
14日、国立劇場初春歌舞伎公演を見てきました。
主な配役 | |
箕田源二猛 | 團十郎 |
弥生姫 | 福助 |
愛宕の前 | 家橘 |
葵丸 | 巳之助 |
堀河勘解由 | 市蔵 |
生津我善坊 | 橋之助 |
大伴大臣褐磨 | 三津五郎 |
「象引」のあらすじ
関東守護職を務める豊島(としま)家では、家督相続をひかえた嫡男葵丸が都からの勅使の到着を待っている。しかしその時に必要な「八雲の鏡」が何者かに奪われてしまったが、どうやらそれは帝に献上されたものの逃げ出した象のしわざではないかと人々は噂している。
勅使・大伴大臣褐磨(おおとものおとどかちまろ)は家来を連れてやってきて、危険な象を野放しにしているのは怠慢だと豊島家の人々を責める。そして自分が象を退治してやるから、かわりに当家の弥生姫をよこせと無理難題を持ち出し、弥生姫は泣く泣くこれを承知する。
するとその時「まった」と大きな声が聞こえ、箕田源二猛(たける)という荒武者が登場する。その結果、姫は象を退治したほうへ嫁ぐこととなる。そこへ象が現れたと聞いて人々は立ち去り、一人になった弥生姫は剃髪し尼となって、祈りはじめる。
奥庭では猛と褐磨が力のかぎり象をひっぱっていた。暴れる象を猛が静めようとすると、どこからか八雲の鏡があらわれ、象はおとなしくなる。褐磨は術をもって象を操って八雲の鏡を盗んだのだが、姫の祈祷の力の前に企みは敗れ去ったのだ。
なおも争いを続けようとする二人を葵丸が仲裁し、葵丸には相続を許す綸旨が、猛には豊島家の後見人として象があたえられた。猛は象を連れて、ゆうゆうと引き揚げて行く。
大病から三度復帰した團十郎が、お正月に珍しい歌舞伎十八番の内「象引」を演じるということで、国立劇場は満員に近い盛況で賑わっていました。
「象引」はいわば「暫」のパロディというか、一種のヴァリエーションという感じで、登場人物などの役がらもほとんど同じ。「暫」の武衡にあたるのが大伴褐磨で、王子の鬘に公家悪の隈を取った三津五郎は、台詞も朗々としていて大変りっぱな敵役で、團十郎の猛に対して一歩もひけをとることなく渡りあって、舞台を大きくしていました。
猛の團十郎は黄色と若緑の大きな格子模様の衣装、ウエーブがかかった板鬢のように張り出した鬢に源太がかぶるような烏帽子、赤っつらに腹だしというど派手な拵え。「暫く~~」の かわりに「まて~~」と揚幕内から声が掛かって、出てきた猛は花道七三で愉快なつらねを言います。このおおらかさはまさに團十郎ならではのもの。團十郎は声も安定していてとても元気そうでした。
褐磨と象の張り子をひっぱり合ったあと、象の中に人が入って動き出すという今回の演出は愛嬌があって、最後に猛が花道を「やっとことっちゃうんとこな」と言いながら、引っ込む時一緒に引かれて入っていく姿も牧歌的でした。この象の顔はどことなく若冲の絵を思い出させました。
葵丸の巳之助(三津五郎の長男)が、敵であるはずの褐磨に「おとっつぁん、ここは成田屋のおじさんに花をもたせてひくものだ・・」と言ったりするのもお芝居と現実が交差する歌舞伎らしい味わいの一幕でした。
お琴の曲「十返りの松」は芝翫と福助、橋之助、それにいまや少年に成長した橋之助の三人の息子たちで踊られました。芝翫一家の繁栄ぶりがこのおめでたい踊りには似合っていたと思います。
最後は「誧競艶仲町」(いきじくらべはでななかちょう)。
このお芝居は「双蝶々曲輪日記」を元に大南北が書き換えたもので、登場人物はだいたい同じですが、役がらや筋が微妙に違っているのが面白いところです。
―ここは江戸の永代橋のたもと。下総八幡の郷代官・南方与兵衛(なんぽうよへい)の中間・才助は、隣の家の娘・お早からあずかってきた願いの写経と守り袋を、坊さんが善光寺に奉納するという鐘の緒に(一緒に善光寺までもっていってもらえるようにと)結びつける。
そこへ深川仲町の遊女・都が同僚のお照や店のものとやってくる。そのあとを追ってきた姉のお関が都を呼びとめる。強欲なお関は、都を千葉家の家臣・平岡郷左衛門に身請けさせて金をもうけようと企み、都をせっつく。都はお関にいくばくかの金を渡して去らせると、お照が米問屋丸屋の長男だが現在勘当中の恋人・長吉とかえって来る。
そんなところへ郷左衛門が、お照に横恋慕している丸屋の番頭・権九郎とやってきて、金の力で都をものにしようと迫るが、都は深川女郎の意地を見せ啖呵をきってつっぱねる。そこへ登場したのが丸屋出入りの鳶頭・与五郎。与五郎は都との間に子供もいる夫婦同然の仲なのだ。与五郎はこの場を収めて皆を連れて去る。
どうにもおさまらない郷左衛門と権九郎は、米問屋の丸屋が千葉家から預かった重宝、瑠璃雀の香炉を取りだす。この香炉を盗まれたために長吉は勘当されているのだ。
二人はこの香炉を売ってもうけようとたくらんでいるのだ。その時郷左衛門が、さきほど才助が鐘の緒に結びつけた鳥襷模様の守り袋に気がつく。中には丸屋の主人の字で「迷い子はや」と行方不明になった娘の名が記してあったが、実は丸屋の娘・お早と郷左衛門は許婚だった。
その様子を見ていた都の姉・お関が出てきて、都は腹違いの妹で本名をおはやといい、昔のことはまったく覚えていないので、都をその娘に仕立てて名乗り出させれば郷左衛門ははれて都を自分のものにできるではないかとけしかける。
一方吾妻屋の座敷では与兵衛が帰ってこない都をいらいらしながら待っていた。ようやく床がのべられるが、屏風をへだてた向こうには与五郎のための床もひかれている有様。
やっと帰ってきた都に与兵衛は胸のうちを語る。与兵衛は3年前都をみそめ、それを主筋の千葉家の当主に話したところ酔った勢いで「都命」と腕に刺青を入れられてしまった。それが周囲にも知られてしまい与兵衛としてはなんとしても都と添わねば男が立たなくなり、「武士として意地を通すためにせめて3日だけでも女房になってくれ」と頼む。
それを屏風の蔭で聞いていた与五郎は都に願を聞いてやるように言うが、都はいきなり与兵衛の脇差を抜いて死のうとする。都は与五郎との間に子供が生まれてからは、客に肌を許さずにきたのだが、妻にならなければ与兵衛の男がたたないとあれば自分は死ぬしかないという。
都の固い決心を知った与兵衛は都を思い切ったと言って、腕の刺青を自ら刀でえぐり取る。そうして与兵衛は与五郎と都の二人を祝福し、月宮殿摸様の印籠を与える。
米問屋・丸屋では行方不明の娘・お早が十六年ぶりに戻ってきて、許婚と結納をかわすというのでうきたっている。与五郎は、お関にいいくるめられて仕方なくお早として連れてこられた都を見て驚く。一方都は許婚が郷左衛門だと知って愕然とする。
途方にくれる与五郎の前に、一目姉の顔を見ようとしのんできた長吉があらわれ、この機会に勘当をといてくれるように口添えしてほしいと頼む。与五郎はひとまず長吉を地下の穴倉へ隠す。その後から長吉に会いにきたお照は権九郎につかまって同じ穴倉へおしこめられる。与五郎は二人を逃がしてやるが、それを見ていたお関は権九郎に二人の行先を教える。
川岸で権九郎とお関の二人につかまった長吉は、足蹴にされたくやしさから権九郎の脇差で権九郎に切りつける。駆け付けた与五郎は自分が罪をかぶると言って、権九郎にとどめをさしお関を殺す。ここへ身投げしようとやってきた都を止めて、二人は落ち延びていく。
八幡の南方与兵衛の家では、与兵衛の妹お虎が与兵衛をしたっているお早と兄との仲を取り持とうとしている。帰宅した与兵衛にお虎が腕の傷のことを尋ねると、与兵衛は都との一件を語り、自分はこの傷を女房だと思っていると言う。それをかげで聞いていたお早は簪で自らの腕を傷つけ、自分も一生結婚しないと言う。
そんなところへ与五郎と都が逃げてくる。紛失した香炉を探す間、都をかくまってほしいと頼む与五郎に、与兵衛はそれはできないと一度は断る。しかし思い直して引受け、都をかくまうからには決まりをつけるため、自分はお早と祝言を挙げるので客になってくれという。
杯事をする時に与五郎の懐から都が預けた守り袋が落ち、そのためお早こそが本物の丸屋の娘だとわかる。
行徳で郷左衛門を追いつめた与五郎は激しく争うが、与兵衛も駆けつけてとうとう香炉を取り戻す。与五郎の罪も許されることになり皆は喜びあうのだった。―
偶然同じ穴倉へ入れられた恋人たちに、それと知らずにお茶やご飯をドタバタと差し入れたりするところや、遊女屋で同じ部屋に屏風で隔てただけで二人の男のための蒲団がひいてある状況で、この芝居で最も重要な部分が演じられるところなどに、南北らしい雰囲気が濃厚にただよっています。
若干無理な辻褄合わせだと感じるところもありますが、「双蝶々曲輪日記」とはまた違う面白さがあるお芝居でした。
南方与兵衛(双蝶々の方では南与兵衛、代官になると南方十字兵衛)の三津五郎は、人生のほろ苦さを感じさせる男を好演。
与五郎の橋之助は颯爽とした二枚目という役どころがぴったりでした。福助が都とお早二役を演じていましたが、深川の遊女の威勢の良さをだそうとするのか、片足を後ろへ跳ねあげたりするのはあまり感心しません。二役目のお早も都とは違うタイプの女にしようとするわざとらしさが目立っていたのが残念でした。
与兵衛の妹・お虎を芝のぶが演じましたが、もっとこの人は使われて良いのにと思います。郷左衛門は團蔵で安定した敵役。番頭・権九郎の市蔵も軽さが役にとても似あっていました。
会の方が二人見えていて、弥生会の会長さんもいらしていました。最初は大向こうさんだけで過不足なく良い感じでかけられていました。
と思っていたら、團十郎さんが花道から登場する揚幕のチャリンという音が聞こえるやいなや、三階の中央あたりから大向こうさんより早いタイミングで「成田屋!」と気合の入った声が複数掛かり、いかにも復帰を待っていた!という気分が伝わってきました。團十郎さんもきっと嬉しかったことでしょう。
このかたたちは、團十郎さんだけにしか掛けられなかったので、まちがいなく成田屋ファンなんだと思いますが、贔屓にかける掛け声の醍醐味というものを久々に感じた次第です。
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