2023年6月14日水曜日

高校までは夢のなかにいた:私の謎 柄谷行人回想録③|じんぶん堂

高校までは夢のなかにいた:私の謎 柄谷行人回想録③|じんぶん堂
高校までは夢のなかにいた:私の謎 柄谷行人回想録③|じんぶん堂
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高校までは夢のなかにいた:私の謎 柄谷行人回想録③

高校時代の柄谷行人さん(本人提供)
高校時代の柄谷行人さん(本人提供)

――1954年4月、関西有数の進学校として知られる私立甲陽学院中学(兵庫県西宮市)に入学します。中学受験をされたきっかけは何だったんでしょうか。

柄谷 当時は、甲陽も「関西有数の進学校」ではなかったと思いますよ。灘もそうでしょう。少なくとも僕は、その存在も知らなかった。ところが、小学校のクラス担任の先生に、「灘より甲陽のほうがいいよ」と勧められたんです。どっちも知らないし、別に行きたいと思わなかった。その先生は、旧制の甲陽中学の野球部出身で、以来ずっと少年野球の指導をやっていたから、それで甲陽の野球部に行くことを勧めたんだろうな、くらいに思っていました。だから別に進学校だとも思わず、言われるがままに、何となく受験することになった。

――ご自分の意志とは別のところにきっかけがあったんですね。妻の凜さんからは、柄谷さんの人生には意外にも受け身で進んできた部分があると聞きました。

柄谷 本当に受け身なんですよ。それ以後も同じですね。東大に行ったのも、別に行きたかったからではない。先生に「なんで東大に行かないのか」と聞かれたから、それなら行こうか、という程度の意志です。そのあともずっと、重要な選択に際しても、他の人から誘い水があって、何となくそれに応じて進む道が決まっていったようなところがあります。
僕は、その都度、同意したとは思うんですよ。不本意ではなかったから。ただ、自分が何を考えているのか、何を望んでいるのか、わからなかった。自分にとっても謎で、ちょっと説明できない。もしかすると、子どものころから、両親からのアドバイスや強制が一切なかったせいかもしれない。特に父親は、ただ優しく見守っているだけだったから。そういう場合、子どもには自分の願望というようなものがなくて、自然なのかもしれないね。願望は、親とか世間とか、外からの影響によって出てくるだけで。

――先生は野球部に入れようというつもりだったんですか?

柄谷 今から思うと、そういうわけでもなかった。小学校の同じクラスから一緒に、3人が甲陽中学に入ったのですが、それはめったにないことです。しかし、その中で、野球をやったのは一人だけ。その一人、北川公一は、後に慶応大で活躍してプロ野球の近鉄バファローズに入った。もう一人の雨宮秀樹は、後に文芸春秋社で「文學界」の編集長になりました。ただ、彼は中学で東京の学校に転校してしまったし、ほとんどつきあいはなかった。「文學界」の縁で再会してからは、よく会うようになったけどね。

――多士済々で、名門中高という感じですね。

柄谷 さっきも言ったけど、当時はまだ、名門ではなかったんじゃないかな。少なくとも、僕はぜんぜんわかっていなかった。というか、世間のことを何も知らなかった(笑)。親も何も言わない。ただ、先生から入学試験が難しいと脅されて、しょうがないから、それなりに受験勉強をしたんです。しかし、実際に受けたら首席で合格した。別に一生懸命やらなくてもよかったんですよ。

一番になったばっかりに生まれた問題 乗り越えるための秘策は思わぬ結果に

柄谷さんの近影=篠田英美撮影
柄谷さんの近影=篠田英美撮影

――とはいえ、優秀な成績でよかったんじゃないですか。

柄谷 それが、そうでもなかったんだ。呼び出されて、入学式で新入生代表として話すことになった。型どおりの宣誓文みたいな原稿を渡されて。ところが、入学式でこれを読みあげている間に顔が真っ赤になっちゃったんですよ。それでまた、外部に対しては……。

――またしても外部とのコミュニケーションの問題が出てきた、と。

柄谷 それまで意識していたわけでもなかったのに、一番になったばっかりに、赤面恐怖という形で出てきた。自分でも真っ赤になってるということがわかったし、明らかに周りも気がついていたと思う。そのあと僕は、赤面恐怖症になった。それに対して、どうしたかというと、色が白かったからそれが原因だと思って、日焼けして色を黒くすればいい、と考えた。

――あはは 考えましたね(笑)。

柄谷 日光の当たる場所にいる機会を増やしたわけね。そしたらまずいことに、顔中そばかすになっちゃった(笑)。今度はそばかすに悩まされて、どうしたらいいかを考えて……。まず、屋外スポーツをやめることにした。たとえば、野球はやめた。

――本来、野球をやるべく甲陽に送り込まれたにもかかわらず。

柄谷 そう。残ってるのは、柔道かピンポンかバスケットボールだった。三つともやったけど、高校の時点で、バスケットに専念することにしました。そして、キャプテンになった。

――スポーツは得意だったんですか?

柄谷 バスケットはできたと思いますよ。いつも一人で練習していたのが、相手が来ないコーナーのところからのシュート。その成功率が高ければ、無敵なんです。実際、ぼくは毎試合20点以上得点していました。しかし、チームはさほど強くならなかった。阪神地区の大会では優勝したけど、全国大会には行けなかったから。

柄谷さんがプレーしていたのと同時期にあたる1950年代の高校生によるバスケットの試合
柄谷さんがプレーしていたのと同時期にあたる1950年代の高校生によるバスケットの試合

――甲陽はどんな学校でしたか?

柄谷 甲陽の経営母体は、日本酒の「白鹿」で知られる酒造会社なんです。灘のほうも、「白鶴」を作っていた会社が経営していたのですが、よく知りません。甲陽は、学校の横に教師が住む住宅を作って、かなりレベルの高い人材を呼んだんですね。その意味では、いい学校でした。僕のクラスの担任の先生は、京都大学の物理学科出身で、左翼でした。後で知ったことですが、国語の先生に村上春樹のお父さんがいました。僕は、学年が違ったので教わっていないけど。

意見ではなく態度にひかれたソクラテス

――読書のほうはどうでしょう。

柄谷 ドストエフスキーは中学のときにほとんど読みました。トルストイも家にあったから読んだね。カントも居間にあった。居間にいる(イマヌエル)カントだからね(笑)。サルトルやカミュの小説も読んでたと思うけど、それは家にあったものではなかった。中学以後は、図書館で借りたり、古本屋で買ったりするようになりました。阪急電鉄塚口駅前に、いい古本屋があったんですよ。伊丹三樹彦という読売新聞で選評なんかもしていた俳人がやっていた店ですね。後で知ったけど、伊丹市に住んでいた中井久夫(精神科医)もそこに通っていたらしい。
それと、高校のときは、よく神戸に行きましたね。当時神戸では、海外から来た本や雑誌が売られていた。明治以後、誰かが海外にいくとき東京駅で人を送る儀式をやっても、船に乗るのは神戸でした。また、外国人も日本に来るとき、先ず神戸に寄る。その時、上陸しない、すなわち、入国しないケースも多い。たとえば、映画評論家の淀川長治は、チャップリンが戦前に日本に来たとき、神戸港で船の中で会ったと書いています。船で来た人たちが本や雑誌を捨てていくから、古本屋が豪華なんですよ。特に海外の雑誌は手に入れるのが難しかったけど、神戸にはそれがあった。その点で、京都や大阪と違う。阪神間が面白いな、と思うのはそこですね。しかし、そういう神戸は徐々に消えていった。そして、そのことが、阪神大震災によって決定的になったという感じがありますね。

――海外との接点が身近にあったというのは後の柄谷さんに影響している気もしますね。デカルトやソクラテスも好きだった、とか。

柄谷 細かいことは忘れましたが、小学校のころから、哲学書を読んではいた。ただ、僕は哲学史の授業を受けてたわけじゃないから、興味があるものを読んでいただけです。それに、そのことを話す友人もいなかった。

――デカルトは『探究Ⅰ』(1986年)、ソクラテスは『哲学の起源』(2012年)などの柄谷さんの著作でも、重要な役割を持つ思想家です。マルクスもそうですが、後に著作で触れる場合には哲学史的な評価とは別の側面から読んでいらっしゃいますね。

柄谷 全部そうなんですよ。だから、学校で教えるような形にはまとまっていないと思う。そもそも、ソクラテス本人は著作を残さなかった。プラトンやクセノフォンの著作で残っていますが、どこまでが本人の言葉かわからない。僕が面白いと思ったのは、ソクラテスの意見というより、振る舞いみたいなものですね。議会でなにか言うんじゃなくて、広場に行って一人ひとりと話す。次々に議論をしかける。とんでもない振る舞いだから、馬鹿にされたり、殴られたりすることも多かったらしい。そういった態度に、自分に似たものを感じていた気がする。当時の自分は誰かと議論したわけではないんだけどね。

――哲学史に沿った形でなく、自分の興味で読んだからこそ、その後も柄谷さんのなかに残ったのかもしれませんね。

柄谷 そうですね。だから、世の人がいうような哲学じゃないですよ。本や学校で習うような理論じゃなく、行動をぜんぶ含めて、生き方そのもの。ソクラテス、デカルト、ホッブス、マルクスも、変わったやつらだよ。

谷崎、大江、石原 昼休みに出会った同時代の文学

――日本の文学はどうでしょうか。

柄谷 夏目漱石も中学校ぐらいから。好きでしたけど、ぼんやり読んでいただけだから、特別にこれという作品はなかった。それから、谷崎(潤一郎)の『鍵』を読んだのをおぼえています。谷崎は阪神間に住んでいたから、僕にとって、近所にいる変態老人が書いた作品という感じでしたね。

《『鍵』は、「中央公論」で1956年1月号からの連載。老人の性を巡る過激な描写が国会で取り上げられるなど論争になった。谷崎は東京生まれだが、関東大震災後関西に引っ越し、戦前は神戸や芦屋など阪神間に長く暮らした》

1950年代の谷崎潤一郎。当時は京都で暮らしていた
1950年代の谷崎潤一郎。当時は京都で暮らしていた

柄谷 高校生の時は、僕は昼休みになると、教室で昼飯を食べるみんなの前から消えて、「閲覧室」という場所で一人、雑誌を読みながら弁当を食べた。そのとき、石原慎太郎や大江健三郎を読みました。大江さんは、僕が高校生のときにデビュー(1957年)したから、最初から知っていたことになります。

――「奇妙な仕事」「死者の奢り」とか。

柄谷 そうだね。同時代の文学は、そういう形で知ってはいたんです。だけど、文学について、人と話したことがなかったですね。

――学校で同級生と議論するようなことはなかったんですか?

柄谷 全然ない。議論するとすれば、せいぜいバスケットボールのこととか。だから友達は、大勢いるようでもあり、全くいないようでもあった。要するに、僕には、文学や哲学について話す友人がいなかったんですよ。

――50年代後半は、日本共産党が武力革命路線を正式に否定し、新左翼の運動が起こってくる時期ですよね。学校には政治的な運動をする人はいましたか?

柄谷 高校では、そういうことを政治的にやっている連中がいたとは思うんです。だけど全然付き合いがなかった。といっても、僕は、マルクスのことはかなり知ってましたよ。家に本があったから。河上肇、三木清、福本和夫などがごっそりありました。

マルクスも文学も現実感がなかった 言われるがまま東大に

――中高生ぐらいのときにマルクスを読んで、感銘を受けたり、納得したりしたんですか?

柄谷 ある程度わかっていたけど、現実感がなかったですね。大学で実際に学生運動をやってみて、ようやく実感が出てきた。それまでは、文学や哲学に関して、結構読んでいたけど、それについて話す友もいなかったし、友を求めることもなかった。大学に行くころまでは、寝ているような、夢の中にいるような感じでした。現実感が希薄でした。
だから、高校の時も、先生に志望大学を聞かれても、よくわからないんですよ。どこに行きたいとか、思わなかった。一方で、行くのは当然だという気持ちもあった。それなら、近くにある神戸大がいいかなと思って、そう答えたら、「なんで東大に行かないのか」と言われて、「はあ?」という感じです。万事、そんな感じでしたね。

試験が出来てしまうことの危なさと苦手だった実験

柄谷さんが通った甲陽学院の近く、夙川にかかる葭原橋。村上春樹さんのエッセー「ランゲルハンス島の午後」に登場することでも知られる
柄谷さんが通った甲陽学院の近く、夙川にかかる葭原橋。村上春樹さんのエッセー「ランゲルハンス島の午後」に登場することでも知られる

――当時は、将来どんなことをしようとか、何をして生きていこう、といったことはあまり考えなかったんですか?

柄谷 全然考えなかった。ある時期は、そばかすのことばかり気にしていた(笑)。まあ、悩みというほどでもなかったけど。

――柄谷さんにも思春期があったんですね(笑)。大学も言われるがまま東大に。

柄谷 小学校のときと同じですね。中学に入るのに入学試験があるということを教えられて、やってみたら、僕が一番できた。大学入試のときも、それと同じでした。ろくに準備をしなかった。実際、バスケットの最後の大会が8月の末にあったから、夏休みの間も毎日学校で練習した。受験の準備にとりかかったのは、その後です。といっても、甲陽高校では、主要科目が一年生の終りに実質的に終わっていましたから、特にがんばる必要もなかったのですが。

――東大は、当時の文科一類ですね。数学が得意で模試のようなテストで全国1位になったこともあって、理系に進もうかと思っていた、とも。

柄谷 しかし、僕はさほど理系にこだわってなかったですよ。確かに数学が得意でしたが、高校2年ぐらいのとき、数学者は無理だろうと思った。そんな才能がない。試験はなぜかできるんだけど、僕自身はそのことが危ないと思っていた。数学のテストができたからといって、数学者になれるはずはないと思う。もっと別の能力が要るのに、試験でそんなことわかるかよ、と思っていた。文学も同じですよ。 国語の成績がよかったら文学者になれますか。そんなの関係ない。
理科系に行かなかった理由は、もう一つあったんです。実験が苦手だった。例えば、中学校で、化学の実験でも、最初から班長にさせられたわけですね。そのとき、僕の班が一番できると思われたんだけど、実際は、むちゃくちゃになった。そもそも、ガスバーナーに点火することができないから、よその班から新聞紙に火をつけてもってくるみたいなことをする。先生があきれて、不思議がっていました。試験は出来るのに、おかしい、と。しかし、これが僕の正体だよ(笑)。

――いまでも、料理をしようとすると、家が全焼しかねないとか、洪水になりかねないような事態になる、と、妻の凜さんから伺いました(笑)。

柄谷 だから、そんなことでは、とても科学者にはなれませんよ。かといって、文学も得意だと思えなかった。よく読んではいたけど。

(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回は、マルクスと出会い直した大学時代についてのお話です。月1回更新予定)

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