2023年6月24日土曜日

クロード・フルーリ (1640~1723)


寛容の美学
-様式論的思考法の盛衰 -
佐々木健一
文学
1979年1月

79
クロード・フルーリ (1640~1723) は全く無名の存在というわけで
はない。文学史の分野では、既にA・アダンが彼をラモワニョンの
アカデミーの論客として紹介していたし(『十七世紀フランス文学
史』第三巻)、何よりも、二十巻に及ぶ 『教会史』の著者として、
その分野では著名な存在である。僧籍に入り、多くの王子たちの傅
育官をつとめるようになる以前、若くして古典研究に開眼した彼は、
父に倣って法曹界に身を置きながら、『口頭弁論において引用をな
すべきか』 (1664) と題する対話篇を綴り、そこに古典研究に際して
の基本的態度を披瀝している。彼は言う。「古代の作家たちの偉大
名声を知ればこそ、その作品を読んで最初に不快の念を覚えたと
ころで、読書をやめたりはしない。しかし、その名声を知っている
からと言って、次の段階として、この作家たちが本当にこの名声に
値するものであったのかどうかを検討することをやめたりはしな

い。」それは丁度よいことばかりをきかされている人物に対する
場合と同じことであって、「風采に基いてその人について下すかも
しれない判断を悉く停止し、その人相や外観からは芳しからぬ印象
を抱くかもしれないが、そのような印象の一切を投げ捨てて」その
人の真価を問うように、古代の作家をも扱わねばならない。このフ
ルーリの態度には、他人の判断や自分の不確かな印象にさえ抗して、
公正な判断を求める自由な検討の精神が明瞭に示されている。また、
人物評価の例え話の中には、良い一方の評判とみかけの悪さが並べ
て言われており、十七世紀半ば頃のフランスにおいて、古代の作品
が取っ附きのよくないものとして受けとめられていたことが窺われ
ると共に、良い評判のものを検討しなおすという論理から予想され
る帰結が当のものの否定的な評価であるにもかかわらず、 フルーリ
の行う古代作品の検討が「印象の悪さ」を克服することを主眼とし
ていたことが看取される。その具体的実行が翌年に書かれた問題の
ホメロス論であるが、その内容に立ち入る前に、フルーリの研究態
度を概観する意味で、その後の著作の言葉を紹介しておきたい。 彼
の古典研究はホメロスに始まり、ヘロドトス、プラトンをへて聖書
に及び、 「二つの古代」(アンリ・オーゼ=渡辺一夫)に亙って、遂に
は『教会史』に結実したが、聖書研究の一書 『イスラエル人の風
俗』 (1681) の中には、読者への次のような呼びかけがある。
「あらゆる種類の先入見を捨て去り、この風俗をただ良識と廉直
理性とのみを以って判断して下さるよう、私は読者に求めたい。
私の願っているのは、我らの国、我らの時代の特殊な考え方を離れ
て、イスラエル人たちを、彼らが生きていた時代と場所との状況の
中で見つめ、 ・・・・更に彼らの精神と彼らの生活原則の中に入ってゆ
79

くことである。」
P・ラフィットはフルーリの全著作を貫くものとして「歴史的観
「点」を指摘したが、 我々るこれを納得できる。 ホメロス論の中で我
我が出会うのも、同じ精神である。 後に 『教会史叙説』 の中で、理
想の文体として透明な、文章の存在すら忘れさせる文体を語り、そ
の範例としてホメロスを挙げていることからみても、彼のホメロス
への愛が心裏からのものであったことに疑いはない。 その『ホメロ
ス考』 (Claude FLEURY, Remarques sur Homère) は、 一六六五年、
ル・ラブールという詩人のために綴られた小論である。(多くのヴ
アリアントを脚註として記載した現代の版本で(12) A5版の三十
ページに満たない。相手のラブルールは、当時英雄詩と呼ばれて
いた叙事詩の三流詩人であり、 スキュデリ嬢に代表される装飾の美
学に染まった人物であったから、フルーリの論述は、自ら、当時の
文学現象を批判しつつ、ホメロスを擁護することに主眼が置かれる
ことになる。
右にふれておいたように、近代人がホメロスを読んで受ける印象
この大詩人の名声との間の落差から、フルーリは説きはじめる。
即ち、ホメロスの中には、気のきいた比喩表現や、恋愛模様、 主人
公たちの「誇大な英雄的精神 (générosité hyperbolique)」 など今
様なものが見当らないが、 他方では古代においてホメロスが絶大な
名声を博していたという事実がある。 「理のわかる方の人々は、
そこから、古代人たちが我々とは異なる趣味を持っていた、という
ことを推論する。」二つの趣味の対決を通して、現代の趣味を相対
化し、古代の趣味に再び血を通わせることが、彼のホメロス弁護の
中核をなしている。人々がホメロスに向けていた非難に対して、彼


68
2
寛容の美学
-様式論的思考法の盛衰 -
"Quid haec ad Homerum ?"
序 現代の美学的徳目としての寛容
二十世紀も残り四半世紀を切った今、その全体像の決算期がどの
分野においても近づいてきている。 百年後に視点をかまえて二十世
紀を鳥瞰することなど、もとより不可能である。 しかし、今後の歴
史の流れがいかなるものとなるにせよ、もはや取り消しようのない
既往の過去の集積が厳として存在する以上、それに基いて二十世紀
像を語りうることも確かである。芸術思想としての美学に関して、
そのような企てを構想するとき、二十世紀の美学思潮の主たる一面
を代表する思想として、アンドレ・マルローの「イマージュによる
美術館」を挙げることができる。この概念が芸術思想の如何なる動
向を代表し、或いは象徴しているかについては、マルローの言う所
を少し検討してみれば、自ら明らかになる。
「イマージュによる美術館 (le musée imaginaire)」 の 「イマー

健一
ジュ」とは、具体的に言えば図版のことであり、従って「イマージ
による美術館」とは写真製版による画集のことである。 画集を
「美術館」と呼ぶのは、 画集が美術館の機能を補完的に継承してい
る面があると考えるからである。 十八世紀後半に始まった美術館の
発展を支えた第一の理念は、言わば芸術鑑賞の民主化にあった (1)。
しかしその際、母体となったコレクションを公開している間はまだ
しも、成長するにつれて美術館は、多くの作品を一個所に集中する
ことによって、民主化とは別の結果をも伴うことになった。即ち、
「美術館は、芸術作品を他のすべてのものから引き離し、それを対
蹠的な立場にある作品の傍近くに引き寄せてみる。このようにして、
変形同士 métamorphoses (変形と変形) (2) の対決ということが行
なわれるのである。」(マルロー『芸術論』 小松清訳) 絵画やつづれ織
が城館の壁からとりはずされ、仏像は寺院の奥から持ち出され、太
古の王宮の石門さえも運び去られて、都会の美術館の中で一堂に会
する。このことがなかったならば、互いに数千里を隔てて相接する
ことのなかった作品が並べられ、 「対決」することになる。この傾

0 件のコメント:

コメントを投稿