熊野大神の正体|徐福の熊野上陸が語る熊野大神降臨の秘話【出雲王家の伝承】
今回の旅では熊野の地をまわり、熊野三山や熊野大神と出雲の関係について調べました。
熊野三山では熊野大神が降臨した地が本宮と新宮の二箇所存在し、それぞれ別の伝承を持っていました。また熊野大神が誰なのかはいくつか説があることも分かりました。
そんな熊野では素戔嗚命や磐座といった出雲の存在がチラホラ見られますが、在地の熊野国造や徐福伝説のような違った要素も混じっています。
驚いたことに出雲王家・向家の伝承では、これらの事象を余すことなく全て語っていました。この内容は多方面から見ないと分からない上に、かなり衝撃的でした。
熊野大神の正体を知るには徐福渡来伝説が不可欠だったのです。
目次
1.熊野大神の降臨にまつわる伝承
a.熊野大神の降臨した本宮と新宮
b.徐福の上陸した新宮
2.徐福の渡来と倭国での名前
3.徐福の子孫・物部氏の東征
4.熊野大神の真の正体
5.熊野連と物部は同祖だった
6.まとめ
1.熊野大神の降臨にまつわる伝承
a.熊野大神の降臨した本宮と新宮
b.徐福の上陸した新宮
2.徐福の渡来と倭国での名前
3.徐福の子孫・物部氏の東征
4.熊野大神の真の正体
5.熊野連と物部は同祖だった
6.まとめ
1.熊野大神の降臨にまつわる伝承
熊野の地にはいくつかの重要な伝承があります。
・本宮に降りた三体の月
・新宮の神倉山に降臨した神々
・徐福の上陸
・神武天皇を案内した八咫烏
まずはこれらについて軽くおさらいします。
※八咫烏については熊野大神降臨の後の話しになるので、ここでは省き別の記事に記します。
a.熊野大神の降臨した本宮と新宮
熊野連は本宮の地(熊野川中洲の大斎原)で櫟の巨木に三体の月が降りてくるのを目にします。月に何者かと問いかけたところ、月は「我は證誠大権現であり、両側の月は両所権現である。社殿を創って齋き祀れ」と答えたといいます。
熊野ではこの三体の月を熊野権現または熊野大神と呼び、それぞれを家津御子大神(素戔嗚命)、熊野夫須美大神、熊野速玉大神として本宮、新宮、那智の三山で祀っています。
一方で新宮でも熊野大神降臨の伝承があります。
新宮市にある神倉山には巨大な磐座・ゴトビキ岩があり、そこに熊野大神がはじめて地上に降臨したとあります。つまり熊野大神の降臨は本宮よりもこちらが先だというのです。
b.徐福の上陸した新宮
新宮市の熊野川河口には徐福が上陸した記念碑があります。また駅前の地名は徐福で徐福公園まである程新宮市で徐福は有名人です。
徐福とは秦の始皇帝から不老長寿の秘薬を探すよう命令を受け、東の果ての蓬莱山(倭国)にまで探しに来た人物です。
中国の歴史書や朝鮮半島にも伝承が残されていることから、紀元前3世紀に渡来してきたことが分かっています。
実はこの徐福渡来伝説こそ熊野大神の正体を明かす最重要な伝承だったのです。
2.徐福の渡来と倭国での名前
ここからは出雲王家の伝承をまとめた内容になります。
徐福は斉国の王族で三度も倭国に渡来していますが、不老長寿の秘薬探しは秦国に渡航資金を援助してもらうための建前で、本当の目的は倭国で王になることでした。
当時は島根出雲の出雲王国が唯一の統一国だったため、権力を握るには出雲王家と婚姻関係を結んで王族になるのが最短手段でした。
徐福は多くの秦国民(ハタ族)を連れて石見に上陸し、自らを倭国名でホアカリと名乗り出雲王家の娘・高照姫を娶り、五十猛が産まれます。
しかし、その後徐福(ホアカリ)は王座の欲しさに早とちりして、出雲の主王と副王を殺してしまいます。これより出雲王家は激怒し、徐福は秦国に逃亡、残された五十猛やホアカリの勢力は丹波へ移住します。
徐福の名は記紀神話では実は素戔嗚命として描かれました。なぜなら徐福やハタ族が出雲でした悪道の数々を出雲の人に思い出させないようにと出雲国造が頼んだようなのです。また徐福集団の渡来は対外国的にもまずかったために隠されたといいます。
その後、徐福が再び渡来したのは北九州でした。今度は軍備を整えて北九州を制圧し、筑紫で徐福は饒速日を名乗ります。
出雲王家の伝承から、徐福は「火明命、饒速日命、素戔嗚命」と同一だと判明しました。これらのワードは熊野を見る上での最重要のキーワードです。
3.徐福の子孫・物部氏の東征
徐福が北九州で饒速日を名乗ってから、その子孫は九州で勢力を拡大させモノノベ王国を築いていました。
饒速日より5~6代目になると、王子の五瀬が大和への遷都を計画し、大和が内乱状態になったのを機に東征を開始します。
大軍を率いて四国南方沖から紀伊に上陸し、紀ノ川を逆上って大和に進出しようとしたモノノベ勢ですが、ヤマト王国軍に敗れ五瀬も亡くなってしまいます。
モノノベ勢は一時退却して体制を立て直し、今度は紀伊半島を回り込んで熊野川から再度入り、東から大和を目指します。
この時の熊野川に上陸したモノノベ勢ですが、後にモノノベの祖先である徐福に変えられて徐福渡来伝説となりました。
またこれら出雲王家の伝承によるモノノベ勢力の東征が、記紀神話では神武天皇の東征として書き換えられたことが分かります。
4.熊野大神の正体
モノノベ勢が上陸した新宮では、祖神の徐福(饒速日)を祀る熊野速玉大社が建てられます。速玉大神は饒速日の変名で、「速」とは饒速日の速から来ていたのです。また夫須美大神はサイノカミの女神だと言います。
熊野大神が最初に降臨した神倉山とは、おそらくモノノベ勢が最初に上陸したという意味だと思います。しかし、向家口伝によると神倉山は以前からこの地に住んでいた出雲族のサイノカミ信仰のものでした。日本最古と言われる花の窟神社も同様で、どちらも出雲族の巨大磐座です。
そして熊野川を逆上ったモノノベ勢は、熊野川の中洲を拠点として住み、そこに五瀬や徐福を祀る社を建てました。これが大斎原に建てられた熊野本宮大社です。
熊野本宮大社が主張する熊野大神=素戔嗚命は、徐福=素戔嗚命だったので正しい伝承だったのです。そして新宮の神倉山が最初の降臨地というのも確認できました。
熊野大神(家津御子神と速玉大神)の正体はまさかの徐福でした。
5.熊野連と物部は同祖だった
熊野大神(モノノベ勢)が降臨したとき、彼らを迎えたのは天火明命の孫の熊野連でした。天火明命は徐福が二度目の渡来で名乗った和名です。つまり、進軍してきたモノノベ勢と熊野連は同じ徐福を同祖とする一族になります。
天火明命の息子の五十猛命は徐福逃亡後、丹波へ移っていたはずです。『日本書紀』による五十猛命が樹木の種を持って紀の国に植林した話しが見られることから、その後五十猛命もしくはその子孫が熊野に移住したと分かります。
故に疲弊したモノノベ勢が熊野に住み着いたのも、同祖の一族がいたからなのでしょう。
初代の熊野国造には高倉下(天火明命の子)の子孫である、大阿斗宿裲(おおあとのすくね)が就任しました(熊野本宮大社)。『先代旧事本紀』では饒速日の子孫の5代目とあるため、この時やってきたモノノベ勢の王が初代熊野国造として就任したことになります。
なぜ先住の高倉下が天火明命を大々的に祀らなかったのか疑問に思っていましたが、熊野大神の正体は素戔嗚命=徐福=饒速日=天火明命だったので、実はちゃんと祖先の天火明命を祀っていることが分かりました。
衝撃的なことに素戔嗚命は出雲の神様ではなかったのです。熊野大神は外からやってきた全然違う神様ではなく、熊野連や高倉下、熊野国造の氏神だったというわけです。確かに物部氏、海部氏、尾張連の祖先は同一でした。この繋がりは面白いですね。
ただ、それでも熊野に出雲の姿が見えるのは、天火明命と出雲王家の后・高照姫の間に生まれた五十猛命とその子孫が、徐福の子孫であると同時に出雲の子孫でもあるからです。それが神倉山や花の窟などに残る磐座を信仰した者たちなのでしょう。
6.まとめ
今回熊野をまわって熊野大神の正体について探りました。熊野大神の正体は諸説ありますが、その答えは熊野本宮大社の伝承にある素戔嗚命に信憑性があると思うものの、今一つ腑に落ちないまま熊野を後にしました。
しかし、後で出雲王家・向家の伝承から素戔嗚命が徐福だと知り、モノノベ勢力の東征などの話しからようやく全てが繋がり理解できました。
これほどの伝承を残しそれを事細かくまとめた『出雲王国とヤマト政権』の本には驚かされました。
ただ、熊野で私は徐福の存在をしりつつも、熊野大神とは関係ないと決めつけて徐福については全く調べることをしませんでした。どこで何が繋がっているのか分からないものですが、やはり各地に伝わる伝承一つ一つには、後世に伝えられるだけの重要な意味があるものだと思い知りました。
新宮市の徐福上陸の地はあの熊野阿須賀神社の横です。徐福の存在は古代の日本においてあまりにも大きいですが、『記紀』では外国の侵略や植民地と思われるのを恐れて、その存在を名前を変えて隠していました。
確かにこれでは外国どころから後世の国民も騙されるはずです。これは『記紀』についても見方を改めた方がよさそうです。
【参考文献・サイト】
・富士林雅樹『出雲王国とヤマト政権』大元出版
・木内武男著『熊野阿須加神社』
・「熊野本宮大社 当社について」
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