2023年6月21日水曜日

草野津 かやのつ 行橋市=不弥国?



44回邪馬台国は阿波だった!?in九州行橋!!不弥国は行橋市! 

https://youtu.be/vtrj_vlgeJE


魏志倭人伝の不彌国を旅する 

https://youtu.be/Vn3gD8q7-1o


豊前の国 古代港 草野津物語 

https://youtu.be/epZazNiJ51A


豊前の国 古代港 草野津物語  #かやの津直売所令和 

https://youtu.be/o1rr3CJgxwc


卑弥呼は神山に居たのか?邪馬壹国研究会 会長 土佐野治茂氏 2023年6月14日 
44:22~50:20
行橋



魏志倭人伝の不彌国を旅する 

https://youtu.be/Vn3gD8q7-1o


以下スクショ雑多


























草野 

かやのつ

平安時代の法令集「類聚三代格」に瀬戸内海航路の重要な港

であった草野津のことが記されています。 この草野があっ

たと推定される場所が、2007年から行われた延永ヤヨミ園遺

跡の発掘調査によってわかってきました。


河川の堆積作用や埋め立てによって現在は陸地になっていま

すが、 今から1000年ほど前は、 苅田町二崎と行橋市沓尾の間

で海岸線が内陸部に挿入し、大きな入り江になっていました。

ここは入り江の最も奥にあたり、土壌分析の結果もこのあたり

まで海が迫っていたことを示しています。

周辺の地形や延永ヤヨミ園遺跡で出土した港を示す「津」の

文字を記した墨書土器から、草野津は延永小学校の北西一帯

にあったと推定されます。 周辺の台地には、弥生時代から古墳

時代にかけて大規模な集落が営まれ、水の祭祀に用いられた4

世紀頃の導水施設や、古墳時代の船の部材なども出土しまし

た。また墨書土器や木簡 (文字を記した木の札)から、奈良時代

には京都郡の役所がこの港を管理していたことがわかりま

す。 港の施設と考えられる大型の建物や船着場と推定される

遺構も見つかっています。

草野津は古墳時代から平安時代にかけて、九州北東部の物

流や情報の拠点として京都平野の繁栄を支えました。

行橋市教育委員会


卑弥呼は神山に居たのか?邪馬壹国研究会 会長 土佐野治茂氏 2023年6月14日 
44:22~50:20
行橋





~~~

以下は同種の説だが不弥国=大分県中津
行橋は手前の伊都国に比定
行橋に港を想定していない

②邪馬台国 曲解/歪曲 一切無し! ついに行程 完全解明!                                   
阿波から日本が始... 





不弥国

不弥国(ふみこく)は、3世紀日本列島に存在したとされる国のひとつである。日本考古学界では福岡県飯塚市立岩遺跡群を中心地に比定する見解などがある[1][2]

概要

三国志』「書」東夷伝の通称「魏志倭人伝」や『北史倭国伝』によれば、不弥国(不彌國)は、奴国(または伊都国)から東へ百里の位置にあり、長官は多模、副官は卑奴母離と呼ばれ、1000余の家がある。 「東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家」


https://ch-gender.jp>...
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。 東へ100里行くと、不弥国に至る。長官は多模(たも)、副官は卑奴母離(ひなもり)。1000余の家族が有る。]


対馬国から奴国までは、諸説ほとんど大差がないが、九州説と畿内説では投馬国と邪馬台国の位置が大きく異なり、直行説では不弥国はその二国への経路にあたる。そのため不弥国の比定地が九州説と畿内説の分かれ目ともなる。

内陸説
福岡県宇美町飯塚市穂波(論者は菅政友久米邦武など)、大宰府付近(論者は白鳥庫吉宝賀寿男楠原佑介など)とする説がある。考古学界では飯塚市立岩遺跡群を充てる見解がある[1][2]
沿岸説
志賀島(論者は田中卓)、福津市津屋崎(論者は笠井新也)、福岡市東区箱崎北九州市、糟屋郡新宮町行橋市築上郡築上町などの説がある(他にも多くの説がある)。また「陸行水行」の記事が他国への道程記事と異なり異質であること[注釈 1]、現存する最も古い記録の『魏略』の記事において、陸行水行や投馬国の記事が存在しないことから、これらは後世写本した際の混入記事で、実際には不弥国から邪馬台国まで南行するだけであったとする説もある[3]

不弥国の所在地

帯方郡から不弥国までの行程について、『魏志倭人伝』や『北史倭国伝』には、次のように記述されている。

魏志倭人伝(原文)魏志倭人伝(訳注)[4] 北史倭国伝(原文)[5]
倭人在帯方東南、大海中。倭人は帯方の東南、大海の中にあり。倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里。
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を経て、乍(あるい)は南し、乍(あるい)は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千餘里。計從帶方至倭國、循海水行、歴朝鮮國、乍南乍東、七千餘里。
始度一海、千餘里至對海國。始めて一海を度る千余里。対馬国に至る。始度一海。又南千餘里。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國また南一海を渡る千余里、名づけて瀚海という。一大国に至る。度一海、闊千餘里、名瀚海、至一支國
又渡一海、千餘里至末盧國。また一海を渡る千余里、末盧国に至る。又度一海千餘里、名末盧國。
東南陸行五百里、到伊都國。東南陸行五百里にして伊都国に到る。又東南陸行五百里、至伊都國。
東南至奴國百里。東南奴国に至る百里。又東南百里、至奴國。
東行至不彌國百里。東行不弥国に至る百里。又東行百里、至不彌國。

脚注

  1.  末盧国から伊都国への陸行も混入とされる。
  1. a b 松木 2001, pp. 44–45.
  2. a b 遠賀川古代史事業推進実行委員会 (2017年6月21日). “「不弥国の考古学」古代史連続講座”. 発掘ばい(ほるばい)九州古代ヘリテージ2022年12月5日閲覧。none
  3.  宝賀寿男「邪馬台国論争は必要なかった-邪馬台国所在地問題の解決へのアプローチ-(古樹紀之房間)
  4.  『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1) 石原道博編訳 岩波文庫』P39-54
  5.  北史倭国伝原文

参考文献



ーー

以下はあくまで一般的説

隠伎之三子島(おきのみつごのしま)
https://nihonsinwa.com/page/1784.html

隠伎之三子島

>>隠伎之三子島
漢字・読みオキノミツゴノシマ
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概要

まとめ 
●現在の島根県隠岐島のこと。 
●古事記では正式な手順で生まれた三番目の島。 
●かなり重要視されている。

物語・由来

古事記にて登場します。隠岐島のことです。日本書紀では隠岐洲・億岐三子洲・億岐洲と表記されます。ここでは古事記の記述に限定して書いています。 
かなり重要な土地だった? 
イザナギイザナミが正式な手順で産んだ島の3番目の島です。1番は淡道之穂之狭別島(アワジノホノサワケシマ=淡路島)、2番目が伊予之二名島(イヨノフタナシマ=四国)。淡路島と四国の大きさを考えると隠岐の島という島根の北の小さな島が次に来るのは、妙ではないかと。 

おそらく交易・貿易をする上で大事な土地だったのでしょう。普通ならば「朝鮮半島との貿易」となるのでしょうが、それならば、対馬を優先するのが筋です。わたしは中国東北部と日本の東北・北陸を主な貿易を重要視していないと、隠岐の島を優先することは無いと思います。

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引用

国産み 

次に隠伎之三子島(隠岐の島の三つの島)を生みました。 
別名を天之忍許呂別(アメノオシコロワケ)といいます。 

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>>筑紫島
漢字・読みツクシシマ
別名筑紫嶋・
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概要

物語・由来

現在の九州のこと。古事記では他に竹斯、日本書紀では筑紫洲・竹斯・竹紫など。 
筑紫(竺紫)というと福岡県あたりのことを指しているのですが、古事記を読む限り、そもそも筑紫島というのは「九州全体」を指す言葉です。ツクシという言葉の語源はよく分かっていません。「木菟(ミミズク)」に地形が似ているとか、築石(ツクイシ)が語源とか、世界の果てという意味での「尽きし」が語源とも。 

だから、古事記や日本書紀を読み進めていくと「筑紫」という言葉が、一地域を指してい無いことがままあります。

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引用

国産み 
次は筑紫島(ツクシシマ=九州)を生みました。 
この島も体が一つで顔が四つあります。 
それぞれの顔に名前があります。 
筑紫の国を白日別(シラヒワケ)といいます。 
豊の国を豊日別(トヨヒワケ)といいます。 
肥の国を建日向日豊久士比泥別(タケヒムカヒトヨクジヒネワケ)といいます。 
熊曾の国を建日別(タケヒワケ)といいます。 

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中津市 - Wikipedia

中津市

中津市は旧豊前国にあたるため、福岡県の旧豊前国である北九州地区北九州市行橋市豊前市築上郡京都郡など)との結び付きが強く、福岡県からの通勤・通学人口が非常に多い。特に旧上毛郡地域であった豊前市、上毛町吉富町は、古くは旧下毛郡と合わせて三毛郡というひとつのであったため、中津市との関係が深く、経済・文化・生活面で中津市と一体である。そのため、山国川を挟んで隣接する福岡県吉富町・上毛町は、築上郡の中心都市である豊前市との合併を拒否して中津市との越境合併を視野に入れている。経済的に北九州都市圏の中にあり、同都市圏の5パーセント通勤圏であるが、小都市圏である中津都市圏(約217,000人)の中心都市としての役目も担っている。また南部の山国町は、中津市街地よりも日田市の方が距離的に近いため、後者との結びつきが強い。

2004年(平成16年)末に、ダイハツ車体株式会社が中津市昭和新田に本社、工場を移転したため自動車関連工場の集積が進んでいる。2015年(平成27年)3月1日、東九州自動車道中津ICが開設された。また、日田市方面に中津日田道路の建設も予定されている。



7世紀ごろ、アジア大陸からの攻撃を防ぐために御所ヶ岳馬ヶ岳周辺に山城が築かれ、約3kmにかけて城壁が設けられたとされる。現在でも良い状態で城壁は残されており、御所ヶ谷神籠石として国の史跡に指定されている。しかし、学説では多くの議論がなされているが、未だに不明な点が多く残されている。

1889年明治22年)4月1日町村制施行により、京都郡行事村と仲津郡大橋村・宮市村の区域をもって、行橋市の前身である行橋町が発足した。町名の由来は行事村の「行」と大橋村の「橋」の字を合わせて「行橋」と命名したもの。

江戸時代には中津街道(国道10号沿い)の宿場町として発展した。明治時代以降は京築地域の中心都市として現在に至る。筑豊地方にも近いことから、1960年代以前は筑豊炭田から国道201号日本国有鉄道(現・平成筑豊鉄道田川線を利用して石炭が輸送され、行橋市経由で苅田町苅田港に輸送していた。



行橋=不弥国説は糸島=伊都国として従来の九州説に準じて比定している



 ANYA②

行橋邪馬壹国(不弥国)研究会


https://www.facebook.com/groups/275588786176452/?fref=mentions&locale=sv_SE&paipv=0&eav=AfaMmn12aT4282mrLvqOpm1xnTZjzh--QfiX_yy5hUa9GVOYKoBymXGAXh4Wx7EAp_c&_rdr


間違いだらけの魏志倭人伝?

アマチュアを含めた研究者の数だけ、その比定地があると言われている魏志倭人伝。なぜこれほど多くの説があるのだろうか?殆どの説は、まず意中の地を定め、推量により前提を置き、合致しない記述は、記述が間違っている、或いは、産物/風俗/慣習の記述については倭国一般のことを書いた伝聞に過ぎないとしている。数十もの説を併せると間違いだらけの魏志倭人伝ということになる。しかし、真実はひとつだけであるから、間違いだらけなのは「推量による前提」であろう。一部複数の方角に関する記述を90度読み替えても、記述と完全には合致しないのである。
また、①距離など数値が誇張されている②周辺の位置を特定する基準となる場所である女王國の面積が広大であった③「水行10日陸行一月」を投馬國からではなく、帯方郡からの距離である(放射読み)という解釈も、女王の都の場所、行き方を曖昧にするものであり、多くの説が生まれることとなった。
筆者は世の中に流布している「前提」が成立するものか否か。多くの検証をおこない投稿してきたので、その結果を下記のように要約する。長文なので、添付に要約を記載する。
1) 魏一行は定説のソウルからではなく、平壌から出発した。
(沙里院)の古墳、帯方太守を務めた張撫夷の墓の内部に積んだレンガに役職名が入った 「帯方太守張撫夷」 の文字が発見されている。沙里院は平壌のすぐ南に位置する。また、阿波の萩原1号墓出土、画文帯神獣鏡の同范鏡が平壌大同江区域から出土している。
従来の帯方郡=ソウル説の根拠は「漢書地理志」の註に「含資、帶水西至帶方入海。」とあり、帶水という川が含資県から西向きに帶方へと流れて黄海に注ぎ、その河岸にソウルがあることに拠る。しかし、ソウル付近からは3世紀頃の遺跡は発掘されていない。
魏の出発地が平壌であれば、狗邪韓國までの距離7千余里は、定説の行程距離ではなく直線距離が正しい。
2) 魏(帯方郡官吏)は直線距離を測る技術を有していた。
一寸千里法により、緯度の差分距離を測量する技術が『周髀算経』(BC2世紀の中国算術書)に、またピタゴラスの定理が『九章算術』(BC1~2世紀)に記述されているので、この二つを用いて緯度方向、経度方向および直線距離を測量する技術がわかっていた。この測量では、太陽南中時の日陰長の差分一寸が千里に相当し、一里=約77mに相当することが数学的に証明されている。
魏(帯方郡官吏)の一行が直線距離を測る技術がなかったという説はデマに過ぎない。実際、魏志韓伝では韓国の大きさを方四千里と述べており、①韓国の東西方向の距離単位は、一里=約77mであり、②倭人伝の対馬~壱岐間の距離千里、および③平壌~狗邪韓國の7千里の単位とピタリと一致する。3つの距離単位が一致することは距離の定義が正しく使われていたことを示している。
ただし、この測量法は近似測量であるので、適用範囲は北極や南極等には適さず、洛陽付近の緯度とあまり変わらない緯度に適用されるものである。勿論、地球の裏側まで測量できるものでもない。
また当時の一寸は2cm程度であったので、百里の距離差は2mmにしかならないので測定誤差が大きくなり過ぎる。従って、この方法は数千里を測量する手法であり、数百里の直線距離を測量するものではない。倭人伝で、①千里を刻みとする直線距離、②百里を刻みとする行程距離、③日数表記の距離の3つがあるのは、こういう理由である。②の距離は歩測による行程距離である。前の人が見えないような獣道では現代のような三角測量は使えないので、歩測である。また歩測は曲がりくねった山道等には誤差が大きくなるので、③のような日数表記にしたのである。
3)魏(帯方郡官吏)は方位を測る技術を有していた。
インディアン・サークル法という簡単な方法がある。具体的には日時計のように棒を地面に垂直に建て,その棒の先端の影を描き,午前と午後で同じ長さの影になる点を結べば,東西線が引けるという方法であり,この線を2等分する垂線が南北線となる。
さらに精度の高い方法として中国では春秋時代から極星(北極星等)を用いる方法が採られていた。しかし、古代の北極星は今の位置にはない。竹迫忍氏によると、春秋/漢時代においては、北極星としてHR4927星もしくはHR4852星を使っていたとのことである。暗い星ではあるが、現在の北極星より天極に近いので、かなり精度良く北の方位がわかる。
4)魏志倭人伝は短里表記である。
一里の定義として長里(約434m)と短里(約77m)がある。三国志本文が長里で記述されているので、倭人伝も長里で記述され、記述の数値が誇張されているという説がある。しかし、対馬~壱岐間の距離から倭人伝の記述では一里=約77m(短里)であることは明確である。
短里表記の中国史書としては、三国志の最後に独立した文書として添付されている魏志倭人伝だけである。陳寿は倭人伝の編纂者であり、著者ではない。魏志は異なる原書を寄せ集めたものである。倭人伝は、梯儁と張政の訪倭記録に基づくものであり、参考にした原書が異なり、陳寿は一里の定義長を三国志本文と調整していないのである。
5)一部韓国内陸行説、対馬/壱岐島内陸行説、および行程距離説は成立しない。
魏志倭人伝では、女王國への行き方について、途中の行程は下記のように記載されている
東南陸行 五百里 【到】伊都國------
南至投馬國 水行二十日
南至邪馬壹國 女王之所都 【水行十日陸行一月】
古田武彦氏は、帯方郡から邪馬壹国までの距離「12,000余里」を直線距離ではなく、行程距離の記載であると解釈したが、地図のない時代、魏の一行は【水行十日陸行一月】を実距離に換算することができなかった。そこで、【水行十日陸行一月】の記述を、投馬國からではなく帯方郡からの行程距離であるという解釈を示した。これが「行程距離説」である。また、【至】という字で記述されている奴國、投馬國には実際には行っておらず、実際に行ったという意味が確定している【到】という字がある伊都國からの行き方を、奴國、投馬國に記載したというのが「伊都國放射説」である。
古田氏はこの実距離換算できない陸行一月を一部韓国内と対馬、壱岐島内等を陸行したという説を唱えた。確かに、魏一行がソウルから出発したのであれば、記述にはない一部韓国内を陸行したことはあり得るが、1)項で述べたように魏一行は平壌から出港した。平壌~ソウルの航行距離は400km以上あるので、平壌から北九州まで水行10日では絶対に航海できない。実際、1975年の野生号の実験ではソウルから博多までの海上ルートで47日間も要したのである。
また対馬については、山が険しく道は「鳥や鹿の通る道」と記述されていることから、対馬の島内を思い荷物を担いで陸行したということは考えられない。
「行程距離説」で、【水行十日陸行一月】を帯方郡からの行き方ではなく伊都國からの距離であるという説があるが、水行十日陸行一月を実距離に換算する方法が存在しなかったので、魏一行はトータル12,000里という「行程距離」を算出することはできなかったのである。従って、行程距離説は成立しない。
6)放射読みは成立しない
【至】という字で記述されている奴國、投馬國には実際には行っていないという説が伊都國放射読みの解釈である。陳寿の魏志(AD280~290)が倭人伝以前に邪馬壹国に関する書物が3つある。王沈の魏書、王沈の『魏書』(AD250~266)魚豢の『魏略』(AD265年前後)、郭義恭の『広志』(AD266~280)である。その内、王沈の魏書および、梁書、北史に、下記のように【又】という字で、奴國、投馬國に行ったことが記載されている。
【王沈の魏書】
◆東南陸行五百里到伊都国、官曰爾支、副泄謨觚柄渠觚有千余戸
◆【又】東南至奴国百里、置官曰先馬觚、副曰卑奴母離。有二万余戸
◆【又】東行百里至不彌国、戸千余、置官曰多模、副曰卑奴母離
◆【又】南水行二十曰至於投馬国、戸五万、置官曰彌彌、副曰彌彌那利
◆【又】南水行十日、陸行一月至耶馬臺国、戸七万、女王之所都、其置官曰伊支馬、次曰彌馬
【北史】
計從帶方至倭國、循海水行、歴朝鮮國、乍南乍東、七千餘里、始度一海。又南千餘里、度一海、闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名末盧國。又東南陸行五百里、至伊都國。
【又】東南百里、至奴國。
【又】東行百里、至不彌國。
【又】南水行二十日、至投馬國。
【又】南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國、即倭王所都。
【梁書】
從帶方至倭 循海水行歴韓國乍東乍南七千餘里 始度一海 海闊千餘里名瀚海至一支國 又度一海千餘里名未盧國 又東南陸行五百里至伊都國
【又】東南行百里至奴國
【又】東行百里至不彌國
【又】南水行二十日至投馬國
【又】南水行十日陸行一月日至祁馬臺國 即倭王所居
北史、梁書ともに、到という字と至という字は区別されていない。
また、魏志倭人伝では、実際に奴國、投馬國まで案内した人物が明記されている。卑奴母離(ひなもり)である。卑奴母離は、対海國(対馬)、一大國(壱岐)、奴國、不彌國の副官として紹介されている。即ち、卑奴母離は対馬から、奴國、不彌國、さらに投馬國の副官に引き渡すまで、副官として同行し道案内を務めた人物である。
7)伝聞説は間違いである。
魏一行は実際には女王の都には行っておらず、風俗、慣習に関する記述は伊都國滞在中の伝聞によるものという説がある。しかし、
正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬、詣倭國、拜假倭王、并齎詔、賜金帛・錦・刀・鏡・采物。倭王因使上表、答謝詔恩。
(正始元年(240)、(帯方郡)太守、弓遵は建中校尉梯儁等を派遣し、梯儁等は詔書、印綬(=親魏倭王という地位の認証状と印綬)を捧げ持って倭国へ行き、これを倭王に授けた。並びに、詔(=制詔)をもたらし、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を下賜した。倭王は使に因って上表し、その有り難い詔に感謝の意を表して答えた。)
とあり、倭王は謝意を表明したので、梯儁は実際に女王の都に行き、倭王と面会したのである。
また、倭人伝では道にであった時の敬意の様子、ジサイの記述等、実際その場にいなければ記述できない描写をしている。これは倭国に長く滞在した張政によるものであり、伝聞とは考えられない。
8) 漢文の「係り受け」、「係り結び」の原則を考慮しない誤訳
漢文には句読点がないので、文章、文節の区切りがわかりにくく、とんでもない誤訳につながりやすい。しかし、漢文には「係り受け」、「係り結び」の原則があり、文節の冒頭には「係りの言葉」があり、何について記述しているかを述べ、結びの言葉で終わる。各文章は動詞を軸として「係りの言葉」で修飾される。
i) 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
有名な文章であるが、これは「至」、「水行」、「陸行」という3つの文章から成る複文である。「南」という語がこの複文全体に係り、魏一行が【南へ】水行、かつ【陸行】し、太平洋に達したと解釈する人が多いがこれは間違いである。「南」という語は直近の「至」にのみ係る言葉であり、後続する二つの文章には係らないのである。即ち、水行十日陸行一月の方角は記述されていないのである。なお、壱岐から末盧國への方角も記述されていない。
ii) 「其の山、丹あり」
漢文で「其の」という語は、係りの言葉を受ける目的で使われることが多いが、この文節は女王國に関して記述している文節であり、この場合は、「目の当たりに」にある山という意味と解釈できる。「其の山、丹あり」という記述が女王の都に関するものではなく、倭国一般に関する記述であるという説は、「其の」が何を説明しているか説明できていないのである。

 


伊都國の船着き場が、水深が浅い川を遡った所にあったと仮定すると、前述の倭舟のような形の舟ならともかく、魏が保有していた外洋船では座礁する危険性がある。伊都國の舟着き場が古遠賀川を遡った所にあったとすると、魏の一行が、窓口国であった伊都國の港を使わず、水深が深い宗像から上陸した理由が説明できる。
拙稿「魏は宗像上陸後どのように辿ったか?」で、卑弥呼は、魏の一行の安全を確保するため、当時、玄界灘を仕切っていた宗像氏一族に案内を依頼し、宗像から上陸させたと述べたが、宗像の東南500里が田川であり、その港は古遠賀川となる。倭人伝の記述通りであり、倭人伝記載の距離と方位は正確である。


https://ja.wikipedia.org/wiki/九州地方の難読地名一覧

  • 天生田(あもうだ) - 行橋市
  • 長木(おさぎ) - 行橋市
  • 御清水池(おしょうずいけ) - 行橋市
  • 沓尾(くつお) - 行橋市
  • 新田原(しんでんばる) - 行橋市
  • 神田町(じんでんまち) - 行橋市
  • 鋤迫(すきさこ) - 行橋市
  • 千佛(せんぶつ) - 行橋市
  • 高来(たかく) - 行橋市
  • 辰上(たつがみ) - 行橋市
  • 津積(つつみ) - 行橋市
  • 津熊(つのくま) - 行橋市
  • 津留(つる) - 行橋市
  • 寺畔(てらなわて) - 行橋市
  • 中津熊(なかづくま) - 行橋市
  • 長峡(ながお) - 行橋市
  • 入覚(にゅうがく) - 行橋市
  • 延永(のぶなが) - 行橋市
  • 真菰(まこも) - 行橋市
  • 門樋町(もんぴまち) - 行橋市
  • 矢留(やどみ) - 行橋市
  • 流末(りゅうまつ) - 行橋市

  • 合馬(おうま) - 中津市
  • 大石峠(おしがと、おしがとう) - 中津市
  • 萱津町(かいづまち) - 中津市
  • 蛎瀬(かきぜ) - 中津市
  • 水主(かこ) - 中津市
  • 冠石野(かぶしの) - 中津市
  • 闇無(くらなし) - 中津市
  • 定留(さだのみ) - 中津市
  • 深水(ふこうず) - 中津市
  • 秣(まくさ) - 中津市

椿市廃寺跡 (つばきいち はいじ あと) - ゆかし、ゆくはし。 ―行橋市の歴史と文化財― - 行橋市ホームページ
https://www.city.yukuhashi.fukuoka.jp/site/bunkazai/1897.html

椿市廃寺跡 (つばきいち はいじ あと)

椿市廃寺跡 遠景椿市廃寺跡遠景(東から)

市指定史跡
指定年月日:昭和56年2月2日
所在地:行橋市大字福丸393 ほか


 市の北西部、椿市地区の福丸に、真言宗の願光寺があります。この寺の境内や周囲の水田の地下に、古代の寺院が眠っています。これを椿市廃寺跡と呼んでいます。

 廃寺とは、長い年月を経て、名前さえわからなくなってしまった寺のことです。しかし昭和52年から4回の発掘調査が行われ、いろいろなことがわかりました。寺は門や講堂、塔などの建物が南北に並んでいたと想定されます。この配置は、6世紀末に聖徳太子が建てた四天王寺と同じ配置です。

 大量の瓦も発見され、この寺が7世紀末頃に建立されたこともわかりました。軒先の瓦には型押しの模様がありますが、椿市廃寺跡からは古代朝鮮半島の百済・新羅・高句麗三国の瓦に影響を受けた、多様なデザインのものが出土しています。
 中でも注目されるのは、8世紀の瓦です。当時の日本の皇居・中央官庁である平城宮(奈良市)の瓦と同じ型を使って作られた瓦が出土したのです。瓦の材料の土が異なるので、瓦を運んできたのではなく型が運ばれて来て、椿市廃寺の近辺で瓦が製作されたと考えられます。

百済系​百済(朝鮮半島南西部)デザイン

高句麗系​高句麗(朝鮮半島北部)デザイン

平城宮系平城宮の瓦と同じ型の瓦

螺髪螺髪(実物は高さ2.6cm)

 ほかにも、粘土製の螺髪(らほつ:仏像の髪の毛)や木簡(もっかん:紙のかわりに、文字を記すのに用いた薄い木の板)、釘、8・9世紀の土器多数などが出土しています。10世紀以降の土器はごく少なくなることから、9世紀のうちにこの寺は廃止されたようです。


 椿市廃寺は7世紀末頃の京都郡(行橋市西部と苅田町・みやこ町北部)で唯一の初期寺院であり、寺を建てたのは京都郡を代表する豪族だったと思われます。そのような豪族は郡司(郡の上層役人)を務めることが多いのですが、同時代の京都郡郡司を示す資料はありません。
 創建から五十年ほど後、天平十二年(741年)には楉田勝(しもとだのすぐり)勢麻呂という人物が京都郡の大領(長官)であった記録があります。寺の創建者は勢麻呂の父祖だったのかもしれません。
 一方、椿市廃寺跡の南東約3kmに位置する延永ヤヨミ園遺跡で出土した7世紀末から8世紀頃の土器に、墨で「京郡物太」と書き込まれていました。「京郡」は京都郡、「物太」は物部氏の大領を意味すると考えられます。椿市廃寺の創建者として、物部氏の可能性が浮上してきました。


 椿市廃寺が建てられた7世紀末は、全国に多数の古墳が作られた古墳時代が終わり、新しい時代に移り変わった時期です。それまで古墳を作っていた各地の有力者たちが、その権威の象徴を古墳から寺院へと転換していったと考えられています。
 日本に仏教が伝わったのは、6世紀前半のこととされています。7世紀前半までは寺院は当時の都があった畿内に集中して築かれ、文献によればその数は、46ヶ所でした。しかし7世紀後半以降は急速に他の地域でも地方豪族たちの手で建てられるようになり、その数は500を超えました。
 行橋市のある京都平野は瀬戸内海の西端にあり、畿内の文化が流入する窓口にあたるため、九州の中でも早くから仏教文化が展開したことが知られています。
 椿市廃寺はその中でも時期の早いもののひとつであり、この地域が当時の新しい文化を敏感に受け入れ、瓦作りのような新しい技術を朝鮮半島や畿内から取り入れることのできる地域であったことを物語っています。

塔の心柱の礎石の画像塔の心柱の礎石

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