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第44回邪馬台国は阿波だった!?in九州行橋!!不弥国は行橋市!
魏志倭人伝の不彌国を旅する
豊前の国 古代港 草野津物語
豊前の国 古代港 草野津物語 #かやの津直売所令和
草野 津
かやのつ
平安時代の法令集「類聚三代格」に瀬戸内海航路の重要な港
であった草野津のことが記されています。 この草野があっ
たと推定される場所が、2007年から行われた延永ヤヨミ園遺
跡の発掘調査によってわかってきました。
河川の堆積作用や埋め立てによって現在は陸地になっていま
すが、 今から1000年ほど前は、 苅田町二崎と行橋市沓尾の間
で海岸線が内陸部に挿入し、大きな入り江になっていました。
ここは入り江の最も奥にあたり、土壌分析の結果もこのあたり
まで海が迫っていたことを示しています。
周辺の地形や延永ヤヨミ園遺跡で出土した港を示す「津」の
文字を記した墨書土器から、草野津は延永小学校の北西一帯
にあったと推定されます。 周辺の台地には、弥生時代から古墳
時代にかけて大規模な集落が営まれ、水の祭祀に用いられた4
世紀頃の導水施設や、古墳時代の船の部材なども出土しまし
た。また墨書土器や木簡 (文字を記した木の札)から、奈良時代
には京都郡の役所がこの港を管理していたことがわかりま
す。 港の施設と考えられる大型の建物や船着場と推定される
遺構も見つかっています。
草野津は古墳時代から平安時代にかけて、九州北東部の物
流や情報の拠点として京都平野の繁栄を支えました。
行橋市教育委員会
不弥国
不弥国(ふみこく)は、3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつである。日本考古学界では福岡県飯塚市の立岩遺跡群を中心地に比定する見解などがある[1][2]。
概要
『三国志』「魏書」東夷伝の通称「魏志倭人伝」や『北史倭国伝』によれば、不弥国(不彌國)は、奴国(または伊都国)から東へ百里の位置にあり、長官は多模、副官は卑奴母離と呼ばれ、1000余の家がある。 「東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家」
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東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。 東へ100里行くと、不弥国に至る。長官は多模(たも)、副官は卑奴母離(ひなもり)。1000余の家族が有る。]
対馬国から奴国までは、諸説ほとんど大差がないが、九州説と畿内説では投馬国と邪馬台国の位置が大きく異なり、直行説では不弥国はその二国への経路にあたる。そのため不弥国の比定地が九州説と畿内説の分かれ目ともなる。
- 内陸説
- 福岡県宇美町や飯塚市穂波(論者は菅政友、久米邦武など)、大宰府付近(論者は白鳥庫吉、宝賀寿男、楠原佑介など)とする説がある。考古学界では飯塚市立岩遺跡群を充てる見解がある[1][2]。
- 沿岸説
- 志賀島(論者は田中卓)、福津市津屋崎(論者は笠井新也)、福岡市東区箱崎、北九州市、糟屋郡新宮町、行橋市、築上郡築上町などの説がある(他にも多くの説がある)。また「陸行水行」の記事が他国への道程記事と異なり異質であること[注釈 1]、現存する最も古い記録の『魏略』の記事において、陸行水行や投馬国の記事が存在しないことから、これらは後世写本した際の混入記事で、実際には不弥国から邪馬台国まで南行するだけであったとする説もある[3]。
不弥国の所在地
帯方郡から不弥国までの行程について、『魏志倭人伝』や『北史倭国伝』には、次のように記述されている。
魏志倭人伝(原文) | 魏志倭人伝(訳注)[4] | 北史倭国伝(原文)[5] |
---|---|---|
倭人在帯方東南、大海中。 | 倭人は帯方の東南、大海の中にあり。 | 倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里。 |
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。 | 郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を経て、乍(あるい)は南し、乍(あるい)は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千餘里。 | 計從帶方至倭國、循海水行、歴朝鮮國、乍南乍東、七千餘里。 |
始度一海、千餘里至對海國。 | 始めて一海を度る千余里。対馬国に至る。 | 始度一海。又南千餘里。 |
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。 | また南一海を渡る千余里、名づけて瀚海という。一大国に至る。 | 度一海、闊千餘里、名瀚海、至一支國。 |
又渡一海、千餘里至末盧國。 | また一海を渡る千余里、末盧国に至る。 | 又度一海千餘里、名末盧國。 |
東南陸行五百里、到伊都國。 | 東南陸行五百里にして伊都国に到る。 | 又東南陸行五百里、至伊都國。 |
東南至奴國百里。 | 東南奴国に至る百里。 | 又東南百里、至奴國。 |
東行至不彌國百里。 | 東行不弥国に至る百里。 | 又東行百里、至不彌國。 |
脚注
- 末盧国から伊都国への陸行も混入とされる。
- ^ a b 松木 2001, pp. 44–45.
- ^ a b 遠賀川古代史事業推進実行委員会 (2017年6月21日). “「不弥国の考古学」古代史連続講座”. 発掘ばい(ほるばい)九州古代ヘリテージ. 2022年12月5日閲覧。none
- 宝賀寿男「邪馬台国論争は必要なかった-邪馬台国所在地問題の解決へのアプローチ-(古樹紀之房間)
- 『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1) 石原道博編訳 岩波文庫』P39-54
- 北史倭国伝原文
参考文献
隠伎之三子島
>>隠伎之三子島漢字・読み | オキノミツゴノシマ |
概要
まとめ
●現在の島根県隠岐島のこと。
●古事記では正式な手順で生まれた三番目の島。
●かなり重要視されている。
物語・由来
かなり重要な土地だった?
イザナギとイザナミが正式な手順で産んだ島の3番目の島です。1番は淡道之穂之狭別島(アワジノホノサワケシマ=淡路島)、2番目が伊予之二名島(イヨノフタナシマ=四国)。淡路島と四国の大きさを考えると隠岐の島という島根の北の小さな島が次に来るのは、妙ではないかと。
おそらく交易・貿易をする上で大事な土地だったのでしょう。普通ならば「朝鮮半島との貿易」となるのでしょうが、それならば、対馬を優先するのが筋です。わたしは中国東北部と日本の東北・北陸を主な貿易を重要視していないと、隠岐の島を優先することは無いと思います。
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編集漢字・読み | ツクシシマ |
別名 | 筑紫嶋・ |
概要
物語・由来
筑紫(竺紫)というと福岡県あたりのことを指しているのですが、古事記を読む限り、そもそも筑紫島というのは「九州全体」を指す言葉です。ツクシという言葉の語源はよく分かっていません。「木菟(ミミズク)」に地形が似ているとか、築石(ツクイシ)が語源とか、世界の果てという意味での「尽きし」が語源とも。
だから、古事記や日本書紀を読み進めていくと「筑紫」という言葉が、一地域を指してい無いことがままあります。
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編集中津市
中津市は旧豊前国にあたるため、福岡県の旧豊前国である北九州地区(北九州市、行橋市、豊前市、築上郡、京都郡など)との結び付きが強く、福岡県からの通勤・通学人口が非常に多い。特に旧上毛郡地域であった豊前市、上毛町、吉富町は、古くは旧下毛郡と合わせて三毛郡というひとつの郡であったため、中津市との関係が深く、経済・文化・生活面で中津市と一体である。そのため、山国川を挟んで隣接する福岡県吉富町・上毛町は、築上郡の中心都市である豊前市との合併を拒否して中津市との越境合併を視野に入れている。経済的に北九州都市圏の中にあり、同都市圏の5パーセント通勤圏であるが、小都市圏である中津都市圏(約217,000人)の中心都市としての役目も担っている。また南部の山国町は、中津市街地よりも日田市の方が距離的に近いため、後者との結びつきが強い。
2004年(平成16年)末に、ダイハツ車体株式会社が中津市昭和新田に本社、工場を移転したため自動車関連工場の集積が進んでいる。2015年(平成27年)3月1日、東九州自動車道の中津ICが開設された。また、日田市方面に中津日田道路の建設も予定されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E6%A9%8B%E5%B8%82
7世紀ごろ、アジア大陸からの攻撃を防ぐために御所ヶ岳、馬ヶ岳周辺に山城が築かれ、約3kmにかけて城壁が設けられたとされる。現在でも良い状態で城壁は残されており、御所ヶ谷神籠石として国の史跡に指定されている。しかし、学説では多くの議論がなされているが、未だに不明な点が多く残されている。
1889年(明治22年)4月1日、町村制施行により、京都郡行事村と仲津郡大橋村・宮市村の区域をもって、行橋市の前身である行橋町が発足した。町名の由来は行事村の「行」と大橋村の「橋」の字を合わせて「行橋」と命名したもの。
江戸時代には中津街道(国道10号沿い)の宿場町として発展した。明治時代以降は京築地域の中心都市として現在に至る。筑豊地方にも近いことから、1960年代以前は筑豊炭田から国道201号、日本国有鉄道(現・平成筑豊鉄道)田川線を利用して石炭が輸送され、行橋市経由で苅田町の苅田港に輸送していた。
行橋=不弥国説は糸島=伊都国として従来の九州説に準じて比定している
ANYA②
間違いだらけの魏志倭人伝?
https://ja.wikipedia.org/wiki/九州地方の難読地名一覧
- 天生田(あもうだ) - 行橋市
- 長木(おさぎ) - 行橋市
- 御清水池(おしょうずいけ) - 行橋市
- 沓尾(くつお) - 行橋市
- 新田原(しんでんばる) - 行橋市
- 神田町(じんでんまち) - 行橋市
- 鋤迫(すきさこ) - 行橋市
- 千佛(せんぶつ) - 行橋市
- 高来(たかく) - 行橋市
- 辰上(たつがみ) - 行橋市
- 津積(つつみ) - 行橋市
- 津熊(つのくま) - 行橋市
- 津留(つる) - 行橋市
- 寺畔(てらなわて) - 行橋市
- 中津熊(なかづくま) - 行橋市
- 長峡(ながお) - 行橋市
- 入覚(にゅうがく) - 行橋市
- 延永(のぶなが) - 行橋市
- 真菰(まこも) - 行橋市
- 門樋町(もんぴまち) - 行橋市
- 矢留(やどみ) - 行橋市
- 流末(りゅうまつ) - 行橋市
- 合馬(おうま) - 中津市
- 大石峠(おしがと、おしがとう) - 中津市
- 萱津町(かいづまち) - 中津市
- 蛎瀬(かきぜ) - 中津市
- 水主(かこ) - 中津市
- 冠石野(かぶしの) - 中津市
- 闇無(くらなし) - 中津市
- 定留(さだのみ) - 中津市
- 深水(ふこうず) - 中津市
- 秣(まくさ) - 中津市
https://www.city.yukuhashi.fukuoka.jp/site/bunkazai/1897.html
椿市廃寺跡 (つばきいち はいじ あと)
椿市廃寺跡遠景(東から)
市指定史跡
指定年月日:昭和56年2月2日
所在地:行橋市大字福丸393 ほか
市の北西部、椿市地区の福丸に、真言宗の願光寺があります。この寺の境内や周囲の水田の地下に、古代の寺院が眠っています。これを椿市廃寺跡と呼んでいます。
廃寺とは、長い年月を経て、名前さえわからなくなってしまった寺のことです。しかし昭和52年から4回の発掘調査が行われ、いろいろなことがわかりました。寺は門や講堂、塔などの建物が南北に並んでいたと想定されます。この配置は、6世紀末に聖徳太子が建てた四天王寺と同じ配置です。
大量の瓦も発見され、この寺が7世紀末頃に建立されたこともわかりました。軒先の瓦には型押しの模様がありますが、椿市廃寺跡からは古代朝鮮半島の百済・新羅・高句麗三国の瓦に影響を受けた、多様なデザインのものが出土しています。
中でも注目されるのは、8世紀の瓦です。当時の日本の皇居・中央官庁である平城宮(奈良市)の瓦と同じ型を使って作られた瓦が出土したのです。瓦の材料の土が異なるので、瓦を運んできたのではなく型が運ばれて来て、椿市廃寺の近辺で瓦が製作されたと考えられます。
百済(朝鮮半島南西部)デザイン
高句麗(朝鮮半島北部)デザイン
平城宮の瓦と同じ型の瓦
螺髪(実物は高さ2.6cm)
ほかにも、粘土製の螺髪(らほつ:仏像の髪の毛)や木簡(もっかん:紙のかわりに、文字を記すのに用いた薄い木の板)、釘、8・9世紀の土器多数などが出土しています。10世紀以降の土器はごく少なくなることから、9世紀のうちにこの寺は廃止されたようです。
椿市廃寺は7世紀末頃の京都郡(行橋市西部と苅田町・みやこ町北部)で唯一の初期寺院であり、寺を建てたのは京都郡を代表する豪族だったと思われます。そのような豪族は郡司(郡の上層役人)を務めることが多いのですが、同時代の京都郡郡司を示す資料はありません。
創建から五十年ほど後、天平十二年(741年)には楉田勝(しもとだのすぐり)勢麻呂という人物が京都郡の大領(長官)であった記録があります。寺の創建者は勢麻呂の父祖だったのかもしれません。
一方、椿市廃寺跡の南東約3kmに位置する延永ヤヨミ園遺跡で出土した7世紀末から8世紀頃の土器に、墨で「京郡物太」と書き込まれていました。「京郡」は京都郡、「物太」は物部氏の大領を意味すると考えられます。椿市廃寺の創建者として、物部氏の可能性が浮上してきました。
椿市廃寺が建てられた7世紀末は、全国に多数の古墳が作られた古墳時代が終わり、新しい時代に移り変わった時期です。それまで古墳を作っていた各地の有力者たちが、その権威の象徴を古墳から寺院へと転換していったと考えられています。
日本に仏教が伝わったのは、6世紀前半のこととされています。7世紀前半までは寺院は当時の都があった畿内に集中して築かれ、文献によればその数は、46ヶ所でした。しかし7世紀後半以降は急速に他の地域でも地方豪族たちの手で建てられるようになり、その数は500を超えました。
行橋市のある京都平野は瀬戸内海の西端にあり、畿内の文化が流入する窓口にあたるため、九州の中でも早くから仏教文化が展開したことが知られています。
椿市廃寺はその中でも時期の早いもののひとつであり、この地域が当時の新しい文化を敏感に受け入れ、瓦作りのような新しい技術を朝鮮半島や畿内から取り入れることのできる地域であったことを物語っています。
塔の心柱の礎石
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