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試験勉強でつかんだマルクスの「本領」:私の謎 柄谷行人回想録⑤
――前回は東大駒場寮時代のお話を伺いました。午前10時まで寝ていたということは、寮では先輩たちと夜中まで議論するような生活ですか?
柄谷 いや、本を読んでいた。誰かと一緒ではない。ひとりですよ。一番よく読んでいたのは、マルクス経済学者の宇野弘蔵です。ブント系は宇野を読むものだと聞いてたからだと思うけど、『経済原論』など、入学して早速買いましたね。マルクス主義について通俗的には知っていたけど、初めてマルクスについて考えた。マルクスの本領は『資本論』なんだと、宇野を通じて知った。
――62年、経済学部に進みます。宇野弘蔵は58年に東大を退官していますが、当時は弟子の鈴木鴻一郎が教えていますね。宇野派の経済学を学ぶのが目的ですか?
柄谷 勉強しないでいいからです(笑)。当時、文科一類からは基本的に法学部と経済学部に進むことになっていました。同学年の文科一類にはたぶん800人以上学生がいて、僕の成績は下から4番目くらいだったと思う。法学部は官僚を目指す人が多くてちゃんと勉強するから、僕の成績だと足りていない。文学部に関心はあったけど、転籍の機会は時期的に逃していた。それで経済学部です。もう選択の余地なし(笑)。
宇野派を通じて読んだ『資本論』
――学部時代はどんな講義が印象に残っていますか。
柄谷 自分の学科の授業にはほとんど出ていませんでしたね。他の学科の授業ばかり、勝手に聞いていた。聴講というか、「盗講」というか(笑)。仏教学の中村元の授業だとか、先生の名は忘れたけども精神医学の授業を受けていましたね。初めて知ることばかりだったから、とても勉強になりましたよ。
それから、大学以外で、アテネ・フランセ(東京・お茶の水の語学専門学校)でフランス語を勉強しました。読み書きはある程度出来るようになったけど、話すのは別ですからね。フランス人の先生に当てられると、なにか言わないといけないんだけど、向こうは日本語が出来ないし、僕のフランス語は通じない。しょうがないから英語で答えていて、おかげで結構英語は上達しました(笑)。いずれにせよ、大学の学部とは関係がない。
ただ、経済学部に進んで、鈴木鴻一郎の試験を受けたのはよかった。彼の場合、授業に出る必要がなかった。彼が編集した『経済学原理論』をもとに、三つの論述問題の一つどれかが出るということになっていた。だから、全部覚えなきゃいけない。上下巻の本ですから、きついですよ。しかし、よくわかった、と思う。
経済学部で先輩だった西部邁に、試験が終わった後で「どうやって覚えた?」って聞いたら、天井にまとめを書いて貼って覚えたと言ってましたね。
――大学時代に宇野派に触れたことは、柄谷さんのマルクス理解に大きな影響があったと言及されています。
柄谷 大きいですね。主流派のマルクス主義は、『資本論』も大事だと言うけども、あくまで〈史的唯物論〉がベースにある。〈史的唯物論〉は、いってみればエンゲルスが後で考えたようなもので、マルクスの思想とはいえない。一方、宇野派は要するに『資本論』なんです。そして、『資本論』にしかない観点が、価値形態論です。いいかえれば、価値を交換様式に見いだす考えです。
商品の価値、貨幣の価値はどこから来るのか。リカードなどの古典派経済学は、商品の価値は労働時間が含まれていることにあると考えた。マルクスも労働価値説を引き継いだ面はありますが、彼の独自性は、商品と商品との交換関係から価値を考えたところにある。宇野や宇野派は、このことを的確につかんでいたと思います。
『経済原論』で宇野が書いているのは、商品交換から貨幣が生まれ、それが資本になるということです。彼は「流通」という言葉を使うけど、これは僕がいまよく使う言葉で言えば「交換」ということです。僕はそれからずっとマルクス、特に『資本論』を読んできたけど、一度も史的唯物論を信じたことはなかった。「交換」には物神(フェティッシュ)の力が関わっている。貨幣として金が使われるけども、本当は金じゃなくてもいいんです。
マルクスの「冗談」に込められた意味
――人々が一度貨幣として価値を見いだすと、金でなくて紙でも成立する、と。
柄谷 紙に物神の力が移れば紙幣になる。物質的に見てもわからない。商品や貨幣の価値は、物神から来るからです。だけど、「物神」と言うと、マルクスの冗談だと受け取られている。マルクス主義者は、黒田寛一、アルチュセールにしても、まともに取り合わない。だけど、僕は宇野の本を読んだときに、物神が大事だと思った。直接的に言及されていたわけではないですよ。それでも、宇野を通じて、マルクスは物神のことを冗談でなく本気で考えたやつだったんだ、と思った。マルクスこそ、交換の謎を見ていた、と。
――多くの人が見落とした観点に着目したわけですね。
柄谷 マルクスが書いているのに、なぜきちんと考えないのか不思議ですけどね。もっとも『資本論』の体系がわかりにくいのには、マルクスにも原因がある。『資本論』は全3部構成で、まず商品の分析から始まりますね。そして、本来なら最後に、資本自体が商品となる株式資本に終わるはずです。『資本論』は、資本主義社会を否定するというよりも、分析した本です。ところが、マルクスが第1巻の終わりに、急に「資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る」(岩波文庫版、向坂逸郎訳)と書いてしまっているんです。あれは、当時のマルクスが第1巻を出版するのを急いでいて、そのために書き直したものと思いますね。
――『資本論』第1巻は、マルクス自身が書いていますが、第2、3巻は、エンゲルスがマルクスの遺稿をもとに苦心して編集したものとされていますね。
柄谷 そうです。マルクスは『資本論』を書いたときに、自分で冒頭に「ヘーゲルの弟子」だと書いている。それまでは散々ヘーゲルを批判してきたのに、急に弟子を名乗った。多くの人はこれもジョークだと思って、注目しなかったんですよ。しかし、マルクスが『資本論』で描こうとした商品が貨幣となり資本という怪物になっていく過程は、ヘーゲルの『精神現象学』で意識が理性を経て絶対知に至る過程を、ある意味で逆になぞっているんです。その意味で、ヘーゲルの体系を転倒させている。だから、弟子というのは半分冗談、半分本気なんです。
宇野はマルクスによる分析を、ヘーゲルの論理展開に基づいて再構成した。そして、鈴木が編集した『経済学原理論』は、宇野よりもっと見事に「物神の現象学」を作ったと思う。だから、宇野派の理論は、もっと世界的に評価されていいものだと思います。ただ、僕は経済学部に3年いて、経済学で出来ることは十分に経験したから、自分のやりたいことを考えると、これ以上経済学をやってもしかたないと思った。だから、大学院では、文学をやろうと思ったのです。
――学生時代のマルクス体験に関して言えば、柄谷さんは『ブリュメール18日』にも繰り返し言及されてきましたね。
柄谷 そうですね。衝撃を受けた。これはルイ・ボナパルト(ナポレオン3世)が政権を取る様子を描いた政治的なルポです。ルイ・ボナパルトは、ナポレオンの甥ということ以外に取りえのない男で、労働者や貴族など階級や階層の代表というわけでもない。マルクスは、彼が政権を取ったことについて、人柄や人脈で説明することを拒否する。
ルイ・ボナパルトというのは、交換可能でなんにもでもなる。何も代表していないがゆえに、すべてを代表しうるわけだ。いわば、貨幣なんですね。この分析には、マルクスが資本主義を分析して得た価値形態論が生きているし、逆に言えば、マルクスの発想は経済の領域だけにとどまるものではない。僕はマルクスのそういう考え方が好きだった。そして、その考え方を別の領域でやればいいと思った。僕が実際にできたのはずっと後ですけどね。
経済学に対しては、じゃあ、さよならという感じだった。
経済学から文学へ 大きかった吉本隆明の存在
――それで、文学の道に進むことに?
柄谷 文学なら制限はない。そして、僕がやろうと思ったのは批評です。思い返してみれば、大学入学当初に読み出したのは、吉本隆明なんだよ。もちろん、江藤淳も三島由紀夫も大江健三郎もずっと読んではいたけど、吉本の影響は大きかったと思う。
――学生運動のカリスマとされていますが、当時は周囲の人も読んでいましたか?
柄谷 いや、それは68年のときでしょう。60年のときはそこまでじゃなかった。まず読んだのは、政治状況に対する発言ですね。
――「マチウ書試論」や「転向論」が収められた『芸術的抵抗と挫折』は1959年刊行ですね。
柄谷 それから文芸批評を読むようになった。それで、批評というものは、可能性がありうるな、と思った。吉本のマルクス読解には賛成できなかったけどね。
――当時、実際に本人に会いましたか?
柄谷 僕は64年に、田端に引っ越した。開成高校の近くで、そこにすごい坂があるんだけど、そこを下りると風呂屋があった。その風呂屋に毎日行ってたんだけど、その辺りに吉本が住んでたんですよ。それで、彼が出していた同人誌「試行」は直接買いに行っていた。
――吉本さん本人から買うんですか?
柄谷 いや、奥さんだったな。でも、そのうち本人とも話すようになった。まだ何も書く前だけどね。結構気に入られてたと思うよ。
――小説を書こうとは思わなかったんですか。
柄谷 大学生くらいのときには書いたこともあるけど、全然ダメだったね。それくらいのことは自分でわかりますよ(笑)。
――中森明夫さんが、西部邁さんから柄谷さんの書いた小説を読んだことがあると聞いたそうで、内容を尋ねたけれど、教えてくれなかったそうです。
柄谷 そうですか。武士の情けだね(笑)。
――大学院では英文学専攻を選んでいますね。
柄谷 文学部に入り直すのも面倒くさかったら、1年留年して大学院を受けようと思った。アテネ・フランセに通ったりしていたから、最初は仏文も考えていたんです。
――当時は、渡辺一夫が教授で、少し前には大江健三郎も卒業しています。小林秀雄も東大仏文ですね。文学部を目指す人にとっては憧れだったのでは?
柄谷 そういう雰囲気はあったかもしれない。僕も最初は仏文系の授業にも行っていたけど、仏文志望の人たちは、妙に気取ってるんですよ(笑)。僕からすると、渡辺や大江は特殊な人たちで、別に追いかけようと思ったわけでもないけどね。
とにかく、仏文の大学院を受けようかと思って事務局に行ったら、「フランス文学の卒業論文がありますか?」と。学部で仏文をやっていないんだから、卒論なんてあるわけない。それだと大学院を受けられないと言われた。それで、今度はしょうがないから英文の方に聞いてみると、卒論なしで受験できるというんですよ。じゃあ英文にしようと。
――消去法のようなところがあった、と。
柄谷 ただ、本郷でアメリカ文学の大橋健三郎の授業を聞いていたんですね。大橋さんはフォークナーの専門家で、授業はおもしろかった。だから、実は英文学ではなくて、僕はアメリカ文学だったということですね。当時、大橋さんの研究室で、学生は僕一人。だから、よくしてもらいました。
(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。東京大学大学院人文科学研究科英文学専攻課程に進み、批評を書き始めた頃の話。月1回更新予定)
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