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付 録 86
この部で正しい生活法について述べたことは一覧して見通せるようなふうには配列されていない。私は、一を他からより容易に導き出しえたところに従って分散的にこれを証明しているのである。だから私はここでそれを総括して主要項目に還元してみることにした。
第一項 我々のすべての努力ないし欲望は我々の本性の必然性から生ずるのであるが、それは、その最近原因としての我々の本性のみによって理解されるような仕方で生ずるか、それとも我々が他の個体なしに自身だけでは妥当に考えられないような自然の一部分である限りにおいて生ずるか、そのどちらかである。
第二項 我々の本性のみによって理解されるような仕方で我々の本性から生ずる欲望は、妥当な観念から成ると考えられる限りにおける精神に帰せられる欲望である。これに反してその他の欲望は、物を非妥当に考える限りにおける精神にのみ帰せられる。そして後者のような欲望の力および発展は、人間の能力によってではなく、我々の外部にある諸物の力によって規定されなければならぬ。ゆえに前者のごとき欲望は能動と呼ばれ、後者のごとき欲望は受動と呼ばれるべきである。なぜなら、前者は常に我々の能力を表示し、反対に後者は我々の無能力および毀損した認識を表示するからである。
第三項 我々の能動〜〜言いかえれば人間の能力ないし理性によって規定されるような欲望〜〜は、常に善であり、これに反してその他の欲望は、善でも悪でもありうる。
第四項 だから人生において何よりも有益なのは知性ないし理性をできるだけ完成することであり、そしてこの点にのみ人間の最高の幸福すなわち至福は存する。なぜなら、至福とは神の直観的認識から生ずる精神の満足そのものにほかならないのであり、他方、知性を完成するとはこれまた神、神の諸属性、および神の本性の必然性から生ずる諸活動を認識することにほかならないからである。ゆえに理性に導かれる人間の究極目的、言いかえれば、彼が他のすべての欲望を統御するにあたって規準となる最高欲望は、彼自身ならびに彼の認識の対象となりうる一切の物を妥当に理解するように彼を駆る欲望である。 (至福、知性,欲望)
第五項 だから妥当な認識なしには理性的な生活というものはありえない。そして物は、妥当な認識作用を本領とする精神生活を享受することにおいて人間を促進する限り、その限りにおいてのみ善である。これに反して人間が理性を完成して理性的な生活を享受するのに妨げとなるもの、そうしたもののみを我々は悪と呼ぶのである。
第六項 しかし人間自身を起成原因として生ずるすべてのものは必然的に善なのであるから、したがって悪は人間にとってただ外部の原因からのみ起こりうる。すなわち人間が全自然の一部分であってその諸法則に人間本性は服従するように迫られ、ほとんど無限に多くの仕方で人間本性は全自然に順応するように強いられる、ということからのみ悪は人間に起こりうるのである。
第七項 しかも人間が自然の一部分でないということ、また人間が自然の共通の秩序に従わないということは不可能である。だがもし人間が自己自身の本性と一致するような個体の間に生活するなら、まさにそのことによって人間の活動能力は促され、養われるであろう。これに反してもし自己の本性と全然一致しないような個体の間に在るなら、彼は自己自身を大いに変化させることなしには彼らに順応することがほとんど不可能であろう。
第八項 自然の中に存在するもので我々がそれを悪である、あるいは我々の存在ならびに理性的な生活の享受に妨害となりうる、と判断するもの、そうしたすべてのものを我々は最も確実と思える方法で我々から遠ざけてよい。これに反してそれは善である、あるいは我々の有の維持ならびに理性的な生活の享受に有益である、と我々の判断するものが存するなら、我々はそうしたすべてのものを我々の用に供し、あらゆる仕方でこれを利用してよい。一般的に言えば、各人は自己の利益に寄与すると判断する事柄を最高の自然権によって遂行することが許されるのである。
第九項 ある物の本性と最もよく一致しうるものはそれと同じ種類に属する個体である。したがって(第七項により)人間にとってその有の維持ならびに理性的な生活の享受のためには、理性に導かれる人間ほど有益なものはありえない。ところで、個物の中で理性に導かれる人間ほど価値あるものを我々が知らないのであるからには、すべて我々は人々を教育してついに人々を各自の理性の指図に従って生活するようにさせてやることによって、最もよく自分の技倆と才能を証明することができる。
第一〇項 人間は相互に対してねたみあるいは何らかの憎しみの感情に駆られる限りその限りにおいて相互に対立的である。したがってまた、人間は自然の他の個体よりいっそう有能であるだけにそれだけ相互にいっそう恐るべき敵なのである。 (人間、恐るべき敵)
第一一項 しかし人間の心は武器によってでなく愛と寛仁とによって征服される。
第一二項 人間にとっては、たがいに交わりを結び、そして自分たちすべてを一体となすのに最も適するような紐帯によって相互に結束すること、一般的に言えば、友情の強化に役立つような事柄を行なうこと、これが何より有益である。
第一三項 しかしこれをなすには技倆と注意が必要である。なぜなら、人間というものは種々多様であり(理性の指図に従って生活する者は稀であるから)、しかも一般にねたみ深く、同情によりも復讐に傾いている。ゆえに彼らすべての意向に順応し、それでいて彼らの感情の模倣に陥らないように自制するには、特別な精神の能力を要する。一方、人間を非難し、徳を教えるよりは欠点をとがめ、人間の心を強固にするよりはこれを打ち砕くことしか知らない人は、自分でも不快であり他人にも不快を与える。このような次第で多くの人は、過度の性急さと誤った宗教熱とのゆえに、人間の間に生活するよりも野獣の間に生活することを欲した。これは親の叱責を平気で堪えることができない少年もしくは青年が家を捨てて軍隊に走り、家庭の安楽と父の訓戒との代りに戦争の労苦と暴君の命令とを選び、ただ親に復讐しようとするためにありとあらゆる負担を身に引受けるのにも似ている。 (軍隊)
第一四項 このように人間は大抵自己の欲望に従って一切を処理するものであるけれども、人間の共同社会からは損害よりも便利がはるかに多く生ずる。ゆえに彼らの不法を平気で堪え、和合および友情をもたらすのに役立つことに力を至すのがより得策である。
第一五項 この和合を生むものは正義、公平、端正心に属する事柄である。なぜなら人間は不正義なこと、不公平なことばかりでなく非礼と思われること、すなわち国家で認められている風習が何びとかに犯されるようなことも堪えがたく感ずるからである。さらに進んで愛を得るには宗教心および道義心に属することが最も必要である。これらのことについては第四部の定理三七の備考一と二、定理四六の備考および定理七三の備考を見よ。
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備考一 自分の愛するものを他の人々が愛することを、また自分の意向通りに他の人々が生活することを、単に感情に基づいて努める人は、本能的にのみ行動するものであって、そのゆえに人から憎まれる。ことに別の好みを有してそのために同様の努力をなし、やはり自分の意向通りに他の人々を生活させようと等しく本能的に努めるような人々から憎まれる。次に人間が感情によって欲求する最高の善は、しばしば一人だけしか享受しえないような種類のものであるから、この結果、愛する当人はその心中に不安を蔵し、自分の愛するものに対する賞讃を語ることを喜びながらも同時にそれが人から信じられるのを恐れるというようなことになる。
ところが他の人々を理性によって導こうと努める人は本能的に行動するのでなく、友愛的かつ善意的に行動するのであってその心中きわめて確固たるものがある。 (友愛的)
さらに、神の観念を有する限りにおける我々、すなわち神を認識する限りにおける我々から起こるすべての欲望および行動を私は宗教心に帰する。しかし我々が理性の導きに従って生活することから生ずる、善行をなそうとする欲望を私は道義心と呼ぶ。次に理性の導きに従って生活する人間が他の人々と友情を結ぶにあたっての根底となる欲望を私は端正心と呼び、また理性の導きに従って生活する人々が賞讃するようなことを端正と呼び、これに反して友情を結ぶのに妨げとなるようなことを非礼と呼ぶ。このほかに私は国家の基礎の何たるかをも示した。 (国家の基礎)
次に、真の徳と無能力との差別は上に述べたことから容易に知られる。すなわち真の徳とは理性の導きのみに従って生活することにほかならない。したがって無能力とは人間が自己の外部にある事物から受動的に導かれ、かつ外界の一般状態が要求する事柄〜〜それ自身だけで見られた彼の本性そのものが要求する事柄ではなく〜〜をなすように外部の事物から決定されることにのみ存する。 48
さて以上は私がこの部の定理一八の備考において証明を約束した事柄である。これからして動物の屠殺を禁ずるあの掟が健全な理性によりはむしろ虚妄な迷信と女性的同情とに基づいていることが明らかである。我々の利益を求める理性は、人間と結合するようにこそ教えはするが、動物、あるいは人間本性とその本性を異にする物、と結合するようには教えはしない。むしろ理性は、動物が我々に対して有するのと同一の権利を我々が動物に対して有することを教える。否、各自の権利は各自の徳ないし能力によって規定されるのだから、人間は動物が人間に対して有する権利よりはるかに大なる権利を動物に対して有するのである。 (動物)
しかし私は動物が感覚を有することを否定するのではない。ただ、我々がそのため、我々の利益を計ったり、動物を意のままに利用したり、我々に最も都合がいいように彼らを取り扱ったりすることは許されない、ということを私は否定するのである。実に彼らは本性上我々と一致しないし、また彼らの感情は人間の感情と本性上異なるからである(第三部定理五七の備考を見よ)。
なお正義とは何であるか、不正義とは何であるか、罪過とは何であるか、また最後に功績とは何であるかを説明することが残っている。しかしこれについては次の備考を見よ。
備考二 第一部の付録において私は賞讃および非難とは何か、功績および罪過とは何か、正義および不正義とは何かを説明することを約束した。賞讃および非難についてはすでに第三部定理二九の備考において説明した。しかし他の概念について述べるにはここが適当な場所であろう。だがその前に人間の自然状態および国家状態について少しく述べなくてはならぬ。
人はみな最高の自然権によって存在し、したがってまた各人は自己の本性の必然性から生ずることを最高の自然権によってなすのである。それゆえ各人は、最高の自然権によって、何が善であり何が悪であるかを判断し、自己の意のままに自己の利益を計り(この部の定理一九および二〇を見よ)、復讐をなし(第三部定理四〇の系二を見よ)、また自分の愛するものを維持し、自分の憎むものを破壊しようと努める(第三部定理二八を見よ)。
もし人間が理性の導きに従って生活するのだとしたら、各人は他人を何ら害することなしに自己のこの権利を享受しえたであろう(この部の定理三五の系一により)。ところが人間は諸感情に隷属しており(この部の定理四の系により)しかもそれらの感情は人間の能力ないし徳をはるかに凌駕するのであるから(この部の定理六により)、そのゆえに彼らはしばしば異なった方向に引きずられ(この部の定理三三により)、また相互扶助を必要とするにもかかわらず(この部の定理三五の備考により)相互に対立的であることになる(この部の定理三四により)。それゆえ人間が和合的に生活しかつ相互に援助をなしうるためには、彼らが自己の自然権を断念して、他人の害悪となりうるような何ごともなさないであろうという保証をたがいに与えることが必要である。しかしこのこと、すなわち諸感情に必然的に隷属し(この部の定理四の系により)かつ不安定で変りやすい(この部の定理三三により)人間が、相互に保証を与え相互に信頼しうるということがいかにして可能であろうかといえば、それはこの部の定理七および第三部の定理三九から明らかである。そこで述べたところによれば、どんな感情も、それより強力でかつそれと反対の感情によってでなくては抑制されえないものであり、また各人は、他人に善悪を加えたくてももしそれによってより大なる害悪が自分に生ずる恐れがあれば、これを思いとどまるものである。そこでこの法則に従って社会は確立されうるのであるが、それには社会自身が各人の有する復讐する権利および善悪を判断する権利を自らに要求し、これによって社会自身が共通の生活様式の規定や法律の制定に対する実権を握るようにし、しかもその法律を、感情を抑制しえない理性(この部の定理一七の備考により)によってではなく、刑罰の威嚇によって確保するようにしなければならぬ。さて法律および自己保存の力によって確立されたこの社会を国家と呼び、国家の権能によって保護される者を国民と名づけるのである。 (相互援助、国家)
これからして、自然状態においては、すべての人の同意に基づいて善あるいは悪であるようないかなることも存在しないことを我々は容易に知りうる。なぜなら、自然状態における各人はもっばら自己の利益のみを計り、自分の意のままにかつ自分の利益のみを考慮して何が善であり何が悪であるかを決定し、またいかなる法律によっても自分以外の他人に服従するように義務づけられないからである。したがってまた自然状態においては罪過というものは考えられない。しかし一般の同意に基づいて何が善であり何が悪であるかが決定されて各人が国家に服従するように義務づけられる国家状態においてはそれが考えられる。すなわち罪過とは不服従にほかならず、それはこのゆえに国家の権能によってのみ罰せられる。これに反して服従は国民の功績とされる。まさにそのことによって国民は国家の諸便益を享受するのに価すると判断されるからである。
次に、自然状態においては、何びとも一般的同意によってある物の所有主であることはない。また自然の中にはこの人に属してかの人に属さないといわれうるような何ものも存しない。むしろすべての物がすべての人のものである。したがって自然状態においては各人に対し各人の物を認めようとかある人からその所有のものを奪おうとかする意志は考えられえない。言いかえれば自然状態においては正義とか不正義といわれうる何ごとも起こらない。しかし一般の同意に基づいて何がこの人のものであり何がかの人のものであるかが決定される国家状態においてはこのことが起こる。以上のことから正義ならびに不正義、罪過および功績は外面的概念であって、精神の本性を説明する属性でないことが判明する。しかしこれらのことについてはこれで十分である。 (自然状態)
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備考 自分の受けた不法を憎み返しによって復讐しようと思う人はたしかに惨めな生活をするものである。これに反して憎しみを愛で克服しようとつとめる人は、実に喜びと確信とをもって戦い、多くの人に対しても一人に対するのと同様にやすやすと対抗し、運命の援助をほとんどまったく要しない。一方、彼に征服された人々は喜んで彼に服従するが、しかもそれは力の欠乏のためではなくて力の増大のためである。これらすべては単に愛および知性の定義のみからきわめて明瞭に帰結されるのであって、これを一々証明することは必要でない。
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備考 このことおよび我々が人間の真の自由について示したこれと類似のことどもは精神の強さに、言いかえれば(第三部定理五九の備考により)勇気と寛仁とに帰せられる。しかし私は精神の強さのすべての特質をここで一々証明することを必要とは思わない。ましてや毅然とした精神の人間が何びとをも憎まず、何びとをも怒らず、ねたまず、憤慨せず、何びとをも軽蔑せずまた決して高慢でないことを証明するのはなおさら必要であるまい。なぜならこのことおよび真の生活や宗教に関するすべてのことは、この部の定理三七および四六から容易に理解されうるからである。すなわち憎しみは愛によって征服されなければならぬということ、および理性に導かれる各人は自分のために欲求する善を他の人々のためにも欲するということから容易に理解されるのである。これに加えて、我々がこの部の定理五〇の備考およびその他の諸個所で注意したことがある。それによれば、毅然とした精神の人間は、一切が神の本性の必然性から生ずることを特に念頭に置き、したがってすべて不快に、邪悪に思われるもの、さらにすべて不敬に、嫌悪的に、不正に、非礼に見えるものは、事物をまったく顛倒し、毀損し、混乱して考えることから起こることを知っている。そこで彼は事物をそのあるがままに把握しようとし、また真の認識の障害になるもの〜〜例えば憎しみ、怒り、ねたみ、嘲笑、高慢その他我々が前に注意したこの種のことども〜〜を除去することに最も努める。それゆえまた彼は、すでに述べたように、できるだけ「正しく行ないて自ら楽しむ」ことに努めるのである。
しかしこれを達成するにあたって人間の徳はどの程度まで及び、そしてまた何をなしうるかは次の部で証明するであろう。
第一六項 そのほかに和合はしばしば恐怖から生まれるのが常である。しかしこれは信義の裏づけのない和合である。これに加えて、恐怖は精神の無能力から生ずるものであり、したがって理性にとっては無用である。あたかも憐憫が道義心の外観を帯びているにもかかわらず理性にとって無用であるのと同様に。
第一七項 なおまた人間は施与によっても征服される。特に生活を支える必需品を調達するすべを持たない人々はそうである。しかしすべての困窮者に援助を与えることは一私人の力と利害をはるかに凌駕する。一私人の富はこれをなすのに到底及ばないからである。それにまたただ一人の人間の能力はすべての人と友情を結びうるにはあまりに制限されている。ゆえに貧者に対する配慮は社会全体の義務であり、もっぱら公共の福祉の問題である。 (福祉)
第一八項 親切を受け容れまた感謝を表わすにあたってはこれとまったく異なった配慮がなされなくてはならぬ。これについては第四部定理七〇の備考および定理七一の備考を見よ。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note4p70n
備考 私は「できるだけ」という。なぜなら彼らは無知な人間であってもやはり人間であって危急な場合には、何より貴重な人間的援助をなしうる。このゆえに彼らから親切を受け、したがってまた彼らに対し彼らの意向に従って感謝を示すことの必要な場合がしばしば起こるのである。これに加えて、親切を避けるにあたっても、我々が彼らを軽蔑するかに見えぬように、あるいは我々が貧欲のゆえに報酬を恐れるかに見えぬように、慎重にしなくてはならぬ。すなわち彼らの憎しみを逃れようとしてかえって彼らを憤らせるようなことがあってはならぬ。ゆえに親切を避けるにあたっては、何が利益であるか何が端正であるかを考慮しなければならぬ。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note4p71n
備考 盲目的な欲望に支配される人々が相互に示すような感謝は、多くは感謝というよりもむしろ取引あるいは計略(アウクビウム)である。
次に忘恩は感情でない。しかし忘恩は非礼なことである。なぜなら、それは多くは人間が過度の憎しみ、怒り、高慢、食欲などに据われていることを示すものだからである。というのは愚かであるために贈与に報いることを知らない者は忘恩的と言われない。ましてや情婦の贈物によって彼女の情欲(または色情)に奉仕するように動かされない人、あるいは盗賊の贈物によって盗賊の盗品を隠匿(いんとく)するように動かされない人、その他この種の人間の贈物によって動かされない人はなおさら忘恩的とは言われない。いかなる贈物によっても自己あるいは社会の破滅になるような行ないへ誘惑されない人は、確固たる精神の所有者であることを示しているからである。
第一九項 なおまた肉的愛、言いかえれば外的美から生ずる生殖欲、また一般的には精神の自由以外の他の原因を持つすべての愛は容易に憎しみに移行する(ただしその愛が狂気の一種にまでなっている〜〜これはもっとしまつの悪い場合であるが〜〜ならこの限りでない)。こうした場合には和合よりも不和がいっそう多くはぐくまれる。第三部定理三一の備考を見よ。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3p31n
我ら愛する者はかつ望みかつ恐れようよ、
他人の捨てるものを愛するなんて野暮なことだ、 (オヴィディウス)
備考 自分の愛するものや自分の憎むものを人々に是認させようとするこの努力は実は名誉欲である(この部の定理二九の備考を見よ)。このようにして各人は生来他の人々を自分の意向に従って生活するようにしたがるものであるということが分かる。ところで、このことをすべての人が等しく欲するゆえに、すべての人が等しくたがいに障害になり、またすべての人がすべての人から賞讃されよう愛されようと欲するゆえに、すべての人が相互に憎み合うことになるのである。
第二〇項 結婚に関して一言えば、もし性交への欲望が外的美からのみでなく、子を生んで賢明に教育しようとする愛からも生ずるとしたら、その上もし両者〜〜男と女〜〜の愛が外的美のみでなく特に精神の自由にも基づくとしたら、それは理性と一致することが確実である。 (結婚)
第二一項 阿訣(あゆ)もまた和合を生ずるがそれは醜悪な屈従もしくは背信によってである。だが阿訣に最も多く捉えられるのは、第一人者たらんと欲してそうではない高慢な人間である。
第二二項 自卑には道義心および宗教心という虚偽の外観がつきまとっている。そして、自卑は高慢の反対であるけれども、自卑的な人間は高慢な人間に最も近い。第四部定理五七の備考を見よ。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note4p57n
備考 ここで高慢の弊害のすべてを列挙するとしたらあまりに長くなるであろう。なぜなら高慢な人間はあらゆる感情に支配され、ただ愛および同情の感情から最も縁遠いだけだからである。
しかしここに言わずにいられないのは、他人について正当以下に感ずる者もまた高慢と呼ばれるということである。したがってこの意味において高慢は、人間が自己を他の人々よりすぐれていると思う謬見から生ずる喜びであると定義される。そしてこの高慢の反対である自卑は、人間が自己を他の人々よりも劣ると信ずる謬見から生ずる悲しみとして定義されるであろう。このことが明らかにされた上は、高慢な人間が必然的にねたみ深いこと(第三部定理五五の備考を見よ)、そして彼は、徳について最も多く賞讃されるような人々を最も多く憎み、これらの人々に対する彼の憎しみは愛や親切によって容易に征服されないこと(第三部定理四一の備考を見よ)、また彼の無能な精神に迎合して彼を愚者から狂者たらしめるような人々の現在することのみを彼は喜ぶこと、そうしたことを我々は容易に了解しうるのである。
自卑は高慢の反対であるけれども、自卑的な人間は高慢な人間にもっとも近い。実際彼の悲しみは自己の無能力を他の人々の能力ないし徳に照して判断することから生ずるのであるから、彼の表象力が他人の欠点の観想に専心する時に彼の悲しみは軽減するであろう。言いかえれば彼は喜びを感ずるであろう。「不幸な者にとっては不幸な仲間を持ったことが慰安である」というあの諺はここから来ている。反対に彼は自分が他の人々に劣ると信ずれば信ずるだけますます多く悲しみを感ずるであろう。この結果として、自卑者ほど多くねたみに傾く者はないこと、彼らは是正してやるためによりも、とがめだてをするために熱心に人々の行為を観察することに努めること、最後にまた彼らは自卑のみを賞讃し、己れの目卑を誇り、しかも自卑の外観を失わないようにしてそれをやるということになる。こうしたことどもはこの感情から必然的に起こるのであって、それはあたかも三角形の本性からその三角の和が二直角に等しいということが起こるのと同様である。
私がこれらの感情ならびにこれと類似の諸感情を悪と呼ぶのは、ただ人間の利益を念頭に置く限りにおいてであるということはすでに述べたところである。これに反して自然の諸法則は、人間がその一部分にすぎない自然の共通の秩序に関係している。このことを私はここでついでに注意したいと思う。なぜなら、私はここで人間の欠点や不条理な行為を語ることを欲して、諸物の本性およびその諸特質を証明しようとは欲していなかったなどと人に誤解されないようにである。事実私は、第三部の序言で述べたように、人間の諸感情およびその諸特質をその他の自然物と同様に考察する者である。そしてたしかに人間の諸感情は、人間の能力を表示するものでないにしても、少なくとも自然の能力および技巧を表示するものであって、その点は、我々が驚嘆しかつその観想を楽しむ他の多くのものと何ら異なるところがないのである。
しかし私はひきつづき、諸感情について、いかなる点が人間に利益をもたらし、いかなる点が人間に害悪を与えるかを注意することにする。
第二三項 恥辱もまた和合に寄与するところがある。しかしこれは匿(かく)すことのできぬ事柄についてだけである。それに、恥辱そのものは悲しみの一種だから理性にとっては無用である。
第二四項 他人に対して向けられたその他の悲しみの感情は正義、公平、端正心、道義心および宗教心の正反対である。憤慨のごときは公平の外観を帯びているけれども、もし他人の行為について審判して自己もしくは他人の権利を擁護することが各人に許されるとしたら、人間は無法律で生活することになる。
第二五項 礼譲、言いかえれば人々の気に入ろうとする欲望は、それが理性によって決定される場合は道義心に属し(第四部定理三七の備考一で述べたように)、これに反してそれが感情から生ずる場合は名誉欲、すなわち人間が道義心の仮面のもとにしばしば不和と争闘をひき起こす欲望となる。なぜなら〔理性によって決定される人すなわち〕、他の人々が自分とともに最高の善を享受するように助言ないし実践をもって彼らを助けようと欲する人は、特に彼らの愛をかち得ようとつとめはするであろうが、彼らに驚嘆されて自分の教えが自分の名前によって呼ばれるようにしようとは努めないであろうし、また一般に、ねたみを招くようないかなる機縁をも作らないようにするであろう。また普通の会話においても人の短所を挙げることを慎み、人の無能力についてはわずかしか語らないように注意し、これと反対に、人間の徳ないし能力について、またそれを完成する方法については大いに語るようにするであろう。このようにして彼は、人々が恐怖や嫌悪からでなく、ただ喜びの感情のみに動かされてできるだけ理性の指図による生活をしようと努めるようにさせるであろう。
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備考一 自分の愛するものを他の人々が愛することを、また自分の意向通りに他の人々が生活することを、単に感情に基づいて努める人は、本能的にのみ行動するものであって、そのゆえに人から憎まれる。ことに別の好みを有してそのために同様の努力をなし、やはり自分の意向通りに他の人々を生活させようと等しく本能的に努めるような人々から憎まれる。次に人間が感情によって欲求する最高の善は、しばしば一人だけしか享受しえないような種類のものであるから、この結果、愛する当人はその心中に不安を蔵し、自分の愛するものに対する賞讃を語ることを喜びながらも同時にそれが人から信じられるのを恐れるというようなことになる。
ところが他の人々を理性によって導こうと努める人は本能的に行動するのでなく、友愛的かつ善意的に行動するのであってその心中きわめて確固たるものがある。 (友愛的)
さらに、神の観念を有する限りにおける我々、すなわち神を認識する限りにおける我々から起こるすべての欲望および行動を私は宗教心に帰する。しかし我々が理性の導きに従って生活することから生ずる、善行をなそうとする欲望を私は道義心と呼ぶ。次に理性の導きに従って生活する人間が他の人々と友情を結ぶにあたっての根底となる欲望を私は端正心と呼び、また理性の導きに従って生活する人々が賞讃するようなことを端正と呼び、これに反して友情を結ぶのに妨げとなるようなことを非礼と呼ぶ。このほかに私は国家の基礎の何たるかをも示した。 (国家の基礎)
次に、真の徳と無能力との差別は上に述べたことから容易に知られる。すなわち真の徳とは理性の導きのみに従って生活することにほかならない。したがって無能力とは人間が自己の外部にある事物から受動的に導かれ、かつ外界の一般状態が要求する事柄〜〜それ自身だけで見られた彼の本性そのものが要求する事柄ではなく〜〜をなすように外部の事物から決定されることにのみ存する。 48
さて以上は私がこの部の定理一八の備考において証明を約束した事柄である。これからして動物の屠殺を禁ずるあの掟が健全な理性によりはむしろ虚妄な迷信と女性的同情とに基づいていることが明らかである。我々の利益を求める理性は、人間と結合するようにこそ教えはするが、動物、あるいは人間本性とその本性を異にする物、と結合するようには教えはしない。むしろ理性は、動物が我々に対して有するのと同一の権利を我々が動物に対して有することを教える。否、各自の権利は各自の徳ないし能力によって規定されるのだから、人間は動物が人間に対して有する権利よりはるかに大なる権利を動物に対して有するのである。 (動物)
しかし私は動物が感覚を有することを否定するのではない。ただ、我々がそのため、我々の利益を計ったり、動物を意のままに利用したり、我々に最も都合がいいように彼らを取り扱ったりすることは許されない、ということを私は否定するのである。実に彼らは本性上我々と一致しないし、また彼らの感情は人間の感情と本性上異なるからである(第三部定理五七の備考を見よ)。
なお正義とは何であるか、不正義とは何であるか、罪過とは何であるか、また最後に功績とは何であるかを説明することが残っている。しかしこれについては次の備考を見よ。
第二六項 自然の中で我々は人間のほかに、その物の精神を我々が楽しみうるような、また、我々がその物と友情あるいはその他の種類の交際を結びうるような、そうしたいかなる個物も知らない。ゆえに我々の利益というものを顧慮すれば、人間以外に自然に存するものをすべて保存するようなことは必要でない。むしろそれらをその種々多様な用途に従って保存したり、破壊したり、あるいはあらゆる方法でこれを我々の用に順応させたりするように我々の利益への顧慮は要求するのである。
第二七項 我々が我々以外の物から引き出す利益は、まず我々がそれらの物を観察したり、それらの物の形相をさまざまに変化させたりすることによって得られる経験と認識とであるが、そのほかには何といっても身体の維持ということである。この点から見れば、身体のすべての部分がその機能を正しく果しうるようなふうに身体を養いはぐくみうるものが何より有益である。なぜなら、身体が多くの仕方で刺激されうることに、また多くの仕方で外部の物体を刺激しうることにより適するのに従って、精神は思惟することにそれだけ適するからである(第四部定理三八および三九を見よ)。しかしそうした種類のものは自然の中にきわめてわずかしかないように見える。ゆえに身体を必要なだけ養うためには、本性を異にする多様の養分を取らなければならぬ。実際、人間身体は本性を異にするきわめて多くの部分から組織されていて、これらの部分は、全身がその本性上なしうるすべてのことに対して等しく適するためには、したがってまた精神が多くの事柄を把握することに等しく適するためには、たえず種々の養分を必要とするからである。
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定理三八 人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの、あるいは人間身体をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益である。そしてそれは、身体が多くの仕方で刺激されることおよび他の物体を刺激することにより適するようにさせるに従ってそれだけ有益である。これに反して身体のそうした適性を減少させるものは有害である。
証明 身体がそうしたことにより適するようにされるに従って精神は知覚に対してそれだけ適するようになる(第二部定理一四により)。したがって身体をこのような状態にしてそうしたことに適するようにさせるものは必然的に善すなわち有益である(この部の定理二六および二七により)。そしてそれは身体をそうしたことにより適するようにさせうるに従ってそれだけ有益である。また反対に(第二部の同じ定理一四の裏ならびにこの部の定理二六および二七により)身体のそうした適性を減少させるものは有害である。Q・E・D・ 52
定理三九 人間身体の諸部分における運動および静止の相互の割合が維持されるようにさせるものは善である。これに反して人間身体の諸部分が相互に運動および静止の異なった割合をとるようにさせるものは悪である。
証明 人間身体はその維持のためにきわめて多くの他の物体を要する(第二部要請四により)。しかし人間身体の形相を構成するものは、身体の諸部分がその運動をある一定の割合で相互に伝達することに存する(第二部定理一三のあとの補助定理四の前にある定義により)。ゆえに人間身体の諸部分が相互に有する運動および静止の割合が維持されるようにさせるものは人間身体の形相を維持するものであり、したがってまた(第二部要請三および六により)人間身体が多くの仕方で刺激されうるようにさせ、また人間身体が外部の物体を多くの仕方で刺激しうるようにさせるものである。ゆえにそれは(前定理により)善である。次に人間身体の諸部分が運動および静止の異なった割合を取るようにさせるものは人間身体が異なった形相を取るようにさせるものであり(第二部の同じ定義により)、言いかえれば(それ自体で明らかでありまたこの部の序言の終りに注意したように)人間身体が破壊されるようにさせ、したがってまたそれが多くの仕方で刺激されるのに全然適しないようにさせるものである。ゆえにそれは(前定理により)悪である。Q・E・D・
備考 このことが精神にとってどれだけ害になりあるいは益になりうるかは第五部で説明されるであろう。しかしここで注意しなければならぬのは、身体はその諸部分が相互に運動および静止の異なった割合を取るような状態に置かれる場合には死んだものと私は解していることである。つまり、血液の循環その他身体が生きているとされる諸特徴が持続されている場合でも、なお人間身体がその本性とまったく異なる他の本性に変化しうることが不可能でないと私は信ずるのである。なぜなら、人間身体は死骸に変化する場合に限って死んだのだと認めなければならぬいかなる理由も存しないからである。かえって経験そのものは反対のことを教えるように見える。というのは、人間がほとんど同一人であると言えぬほどの大きな変化を受けることがしばしば起こるからである。私はあるスペインの詩人について次のような話を聞いた。彼は病気にかかり、そしてそれは回復したものの、彼は自分の過去の生活をすっかり忘れきって、自分が以前作った物語や悲劇を自分の作と信じなかったというのである。それでもし彼が母国語も忘れたとしたら、彼はたしかに大きな小児と見なされえたであろう。もしこうした話が信じがたいように思えるなら、小児について我々は何と言うべきであろうか。成人となった人間は、他人の例で自分のことを推測するのでなかったならば、自分がかつて小児であったことを信じえないであろうほどに小児の本性が自分の本性と異なることを見ているのである。しかし迷信的な人々に新しい疑問をひき起こすような材料を与えないために、私はむしろこの問題をこのくらいでやめておこうと思う。
第二八項 しかしこれを調達するには、人間が相互に助け合わない限り、個々人の力だけではほとんど十分でないであろう。ところですべての物が簡単に貨幣で代表されるようになった。この結果として通常貨幣の表象像が大衆の精神を最も多く占めるようになっている。人々は、金銭がその原因と見られないような喜びの種類をほとんど表象することができないからである。
第二九項 しかしこうしたことは、欠乏や生活の必要から金銭を求める人々についてではなく、貨殖の術を学んでこれを誇りとするがゆえに金銭を求めるような人々についてのみ非難されるべきである。もともとこうした人々は習慣上身体を養ってはいるが身体の維持についやすものを財産の損失と信ずるがゆえに出し吝(お)しみしながら身体を養っている。これに反して金銭の真の用途を知り富の程度を必要によってのみ量る人々は、わずかなもので満足して生活する。
第三〇項 このように、身体の諸部分をその機能の遂行に関して促進するものが善であり、また喜びは人間の精神的および身体的能力が促進され増大されることに存するのだから、このゆえに、すべて喜びをもたらすものは善である。しかし一方、物は我々を喜びに刺激する目的ではたらいているのでなく、また物の活動能力は我々の利益に従って調整されるものでなく、最後にまた喜びは大抵の場合主として身体の一部分にのみ関係するのであるから、このゆえにおおむね喜びの感情は(もし理性と用心とを欠くならば)過度になり、したがってそれから生ずる欲望もまた過度になる。これに加えて、我々は現在において快適なものを感情に基づいて最も重要なものと思い、そして未来のものを精神の等しい感情をもって評価することができない。第四部定理四四の備考および定理六〇の備考を見よ。
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定理四四 愛および欲望は過度になりうる。
証明 愛は外部の原因の観念を伴った喜びである(感情の定義六により)。ゆえに(第三部定理一一の備考により)外部の原因の観念を伴った快感も愛の一種である。したがって愛は(前定理により)過度になりうる。次に欲望はそれを生ずる感情がより大なるに従ってそれだけ大である(第三部定理三七により)。ゆえに感情が(この部の定理六により)人間のその他の働きを凌駕しうるのと同様に、その感情から生ずる欲望もまたその他の欲望を凌駕しうるのであり、したがってまたそれは前定理において快感について示したのと同様に過度になりうるであろう。Q・E・D・
備考 善であると私の言った快活については単に観察するよりも概念的に考える方がいっそう容易にわかる。すなわち我々が日々捉われる諸感情は、もっぱら身体の何らかの部分がその他の部分以上に刺激されるのに関係するのであり、したがってそうした感情は一般に過度になり、精神をただ一つの対象の考察に引きとどめて精神が他のことについて思惟しえないようにするのである。人間は数多くの感情に従属するものであって、常に同一の感情に捉われている人間は稀にしか見られないけれども、それにしても同一の感情に執拗にまといつかれている人間もないではない。すなわち人間がただ一つの対象から強く刺激されて、その結果それが現在していない場合にもそれを自分の前にあるように信ずるのを我々はしばしば見かける。もしこうしたことが眠っていない人間に起こるならば、この人間を我々は狂っているとか気違い沙汰だとか言うのである。また恋に焦れて夜も昼もただ恋人あるいは情婦のみを夢みる者も同様に気違い沙汰と思われる。こうした者は通常我々の笑いをさそうからである。ところが食欲者が利得や金銭のほか何ものもえない場合、また名誉欲者が名誉のほか何ものも考えない場合などにはそうした人々は狂っているとは信じられない。それは彼らは通常我々の不快の種であり、憎悪に価すると思われるからである。しかし食欲、名誉欲、情欲などは、一般には〔精神〕病に数えられていないにしても、実際はやはり狂気の一種である。
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定理六〇 身体のすべての部分にでなくその一部分あるいは若干部分にのみ関係する喜びあるいは悲しみから生ずる欲望は人間全体の利益を顧慮しない。
証明 例えば身体のAという部分がある外部の原因の力によって強められて他の諸部分より優勢になると仮定すると(この部の定理六により)、この部分は、それだからといって、身体のその他の部分にその機能を果させるために自分の力を失おうと努めるようなことはしないであろう。なぜなら、そうしたことをするには、その部分は自己の力を失う力ないし能力を持たなければならぬであろうが、そうしたことは(第三部定理六により)不条理だからである。ゆえにその部分、したがって(第三部定理七および一二により)精神もまた、その状態を維持することに努めるであろう。このゆえに、そうした喜びの感情から生ずる欲望は全体を顧慮しない。また反対に、Aという部分の働きが阻害されて他の部分がそれより優勢になる場合を仮定すれば、こういう悲しみから生ずる欲望もまた全体を顧慮しないということが同じ仕方で証明される。Q・E・D・
備考 ところで喜びは大抵身体の一部分のみに関係するのだから(この部の定理四四の備考により)、このゆえに、我々は多くの場合、我々の有の推持を欲しながら全身の健康を顧慮していないことになる。これに加えて我々を最も強く拘束する諸欲望は(この部の定理九の系により)現在のみを顧慮して未来を考慮しないのである。
第三一項 迷信はこれと反対に悲しみをもたらすものを善、喜びをもたらすものを悪と認めているように見える。だが、すでに述べたように(第四部定理四五の備考を見よ)、ねたみ屋以外のいかなる人間も私の無能力や苦悩を喜びはしない。なぜなら、我々はより大なる喜びに刺激されるに従ってそれだけ大なる完全性に移行し、したがってまたそれだけ多く神の本性を分有するからである。その上喜びは、我々の利益への正当な顧慮によって統御される限り、決して悪でありえない。これに反して、恐怖に導かれて悪を避けるために善をなす者は、理性に導かれていないのである。 (四定理45系2備考)
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note4p45c2n
定理四五 憎しみは決して善ではありえない。
証明 我々は我々の憎む相手を滅ぼそうと努める(第三部定理三九により)。言いかえれば我々はそれによって(この部の定理三七により)悪であるようなあることをしようと努める。ゆえに云云。Q・E・D・
備考 私がここならびに以下において、憎しみを人間に対する憎しみとのみ解することに注意されたい。
系一 ねたみ、嘲弄、軽蔑、怒り、復讐その他憎しみに属しあるいは憎しみから生ずる諸感情は、悪である。このことは第三部定理三九およびこの部の定理三七からも明らかである。
系二 我々が憎しみに刺激される結果として欲求するすべてのことは非礼であり、また国家においては不正義である。このことは第三部定理三九からおよび非礼と不正義との定義からも明らかである。この部の定理三七の備考におけるその定義を見よ。 (国家)
備考 嘲弄(系一で言ったようにそれは悪である)と笑いとの間に私は大きな差異を認める。なぜなら、笑いは諧謔と同様に純然たる喜びであり、したがって過度になりさえしなければそれ自体では善である(この部の定理四一により)。実際、楽しむことを禁ずるものは厭世的で悲しげな迷信のみである。いったい憂鬱を追い払うことが何で飢渇をいやすことよりも不適当であろうか。私の原則は次のごとくであって私はこの信念を固くとる者である。すなわちいかなる神霊も、またねたみ屋以外のいかなる人間も、私の無能力や苦悩を喜びはしないし、また落涙、すすり泣き、恐怖、その他精神の無能力の標識であるこの種の事柄を我々の徳に数えはしない。むしろ反対に、我々はより大なる喜びに刺激されるに従ってそれだけ大なる完全性に移行するのである。言いかえれば我々はそれだけ多くの神の本性を必然的に分有するのである。だからもろもろの物を利用してそれをできる限り楽しむ(と言っても飽きるまでではない、なぜなら飽きることは楽しむことでないから)ことは賢者にふさわしい。たしかに、ほどよくとられた味のよい食物および飲料によって、さらにまた芳香、緑なす植物の快い美、装飾、音楽、運動競技、演劇、そのほか他人を害することなしに各人の利用しうるこの種の事柄によって、自らを爽快にし元気づけることは、賢者にふさわしいのである。なぜなら、人間身体は本性を異にするきわめて多くの部分から組織されており、そしてそれらの部分は、全身がその本性から生じうる一切に対して等しく有能であるために、したがってまた精神が多くのものを同時に認識するのに等しく有能であるために、種種の新しい栄養をたえず必要とするからである。こうしてこの生活法は我々の原則とも、また一般の実行ともきわめてよく一致する。ゆえにもし最上の生活法、すべての点において推奨されるべき生活法なるものがあるとすれば、それはまさにこの生活法である。そしてこれについてはこれ以上明瞭にも詳細にも論ずる必要はない。 (食事、美)
第三二項 しかし人間の能力はきわめて制限されていて、外部の原因の力によって無限に凌駕される。したがって我々は、我々の外に在る物を我々の使用に適合させる絶対的な力を持っていない。だがたとえ我々の利益への考慮の要求するものと反するようなできごとに遇っても、我々は自分の義務を果したこと、我々の有する能力はそれを避けうるところまで至りえなかったこと、我々は単に全自然の一部分であってその秩序に従わなければならぬこと、そうしたことを意識する限り、平気でそれに耐えるであろう。もし我々がこのことを明瞭判然と認識するなら、妥当な認識作用を本領とする我々自身のかの部分、すなわち我々自身のよりよき部分はそれにまったく満足し、かつその満足を固執することに努めるであろう。なぜなら、我々は妥当に認識する限りにおいて、必然的なもの以外の何ものも欲求しえず、また一般に、真なるもの以外の何ものにも満足しえないからである。それゆえに、我々がこのことを正しく認識する限り、その限りにおいて、我々自身のよりよき部分の努力〔欲望〕は全自然の秩序と一致する。
第四部 終り
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