2023年6月14日水曜日

【日ユ同祖論③】日ユ同祖論における「ルート」の問題・・具体的にどうやって日本に来たのさ?( ・Д・)【考古学・歴史】 : あるけまや -考古学・歴史ニュース-

【日ユ同祖論③】日ユ同祖論における「ルート」の問題・・具体的にどうやって日本に来たのさ?( ・Д・)【考古学・歴史】 : あるけまや -考古学・歴史ニュース-

【日ユ同祖論③】日ユ同祖論における「ルート」の問題・・具体的にどうやって日本に来たのさ?( ・Д・)【考古学・歴史】

2019ねん 1がつ 16にち(すいよーび、晴れ)


気付いてしまった・・・・・・


長ーく下書きにしておくと、せっかく記事にしても最初に書き始めた時間に従って投稿されてしまい、埋もれてしまう( -д-)ノ


気合入れた記事が読まれづらいのはこのせいか!(ノ◇≦。) ビェーン!!


・・・・・とは限らないけど、それでも投稿した時間にして欲しいものだヽ(TдT)ノ



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日ユ同祖論01

↑現代のユダヤ人と侍並べてほとんど同じってあり得ませんけど、まぁイメージってことで( -д-)ノ(「いらすとや」さんの素材を使用して作成)




【目次】

  1. はじめに
  2. 日本までの距離と移動ルートについて
  3. おわりに 


1.はじめに

バックナンバー紹介しておきます(*^・ェ・)ノ

↓問題のつまらんお話ヽ(TдT)ノ


↓関係する人気記事ヾ(´ω`=´ω`)ノ


↓前回の記事




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さて、前回の整理では「失われた10部族」=指導者層の少なくとも一部(約27000人以下の集団)がアッシリアではなく他の地域に向かったということを明らかにしました。


この指導者層の大量の移動は、紀元前721年の北イスラエル王国の首都、サマリアの陥落に伴って、アッシリアによって「捕囚」されたことを契機としています。




……今回のテーマは「ルート」!


前回の時点でも「日ユ同祖論」における2点の歴史的矛盾点が見つかりましたが、聖書・外典等の史料的価値の検討・史料批判が(私には)困難なため、指摘するに留めました。



本当は今回「時間性」をテーマにしたかったのですが、例によって長くなり過ぎたのでカットしました。重要なテーマは次回以降に持ち越しです( -д-)ノ



まぁしょうがないので今回は「ルート」です!


・・・・・・ではいってみましょー!(・∀・)つ



b008
↑距離は9000km、約地球4分の1周ですね( ・Д・)(「Google」の計算結果より画像を転載)




2.日本までの距離と移動ルートについて

さて、「失われた10部族」が離散する契機となったのが紀元前721年の首都陥落です。

第四エズラ書では「1年半」とか書かれてましたけど、実際にはどれだけの時間でイスラエルあるいはアッシリアの辺りから日本まで来れるのでしょうか?( ・Д・)




上に挙げた図を見て分かるように距離は約9000kmです。スタート地点をサマリアにするのか、アッシュール(当時の新アッシリア時代の首都)にするのかによっても違いますけど、おおよそ9000kmということにします( -д-)ノ


出発年も紀元前721年とすべきかは難しいですが、紀元前721年ということにします( -д-)ノ少なくともそれ以降の近似する年代でしょうからね。



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(1)シルクロードの概要

さて、古代イスラエルの民(北王国の指導者層の一団)が遥か東方へと移動したと仮定した際に、使用したと想定されるルートとしてシルクロードがあります。



シルクロードという呼称は19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、著書である『China(支那)』において使用したのが最初とされています。




この時のシルクロードの意味は古来より中国で「西域」と呼ばれていた東トルキスタン(現在の中国新疆ウイグル自治区)を東西に横断する交易路である「オアシスの道(オアシスロード)」を経由するルートを指していました。



現在では広義には、「シルクロードとは、近代(大航海時代)以前のユーラシア世界の全域に渡って行われた南北の交易路や海上の交易路を含む国際交易のこと」を指します。




(2)シルクロードの種類と時期

シルクロードは大きく分けて3種に分類でき、それぞれを「オアシスの道」、「海の道」、「草原の道」、と呼んでいます。



先にも述べたように、リヒトホーフェンが言及した「オアシスの道」は東トルキスタンを横切って東西を結ぶ隊商路であり、更に三つのルートに分類されます。


それが「西域南道」、「天山南路(西域北道)」、「天山北路」であり、前者2ルートは紀元前2世紀頃の前漢の時代には確立していたとされます。他方で後者の「天山北路」が「オアシスの道」における最古のルートであり、紀元後に確立したと考えられています。


つまり古代イスラエルの民はこの「オアシスの道」は使えなかったと考えるのが妥当でしょう。





次に、「海の道」は中国の福建省泉州市を起点として、東シナ海、南シナ海、インド洋を経てインド、アラビア半島へと至る海路です(逆もまた然りです)。



このルートはプトレマイオス朝の時代(紀元前306年-紀元前30年)からエジプトによってインドとの通商に用いられていました。


また古代ローマ(共和政ローマ; 紀元前509年-紀元前27年)は南インドのサータヴァーハナ朝(紀元前230年-西暦220年)と通商を行い、やがて絹を求めて中国にまで達したことは中国の史書に記録されています。



つまり紀元前721年の離散時期を考慮すると、この「海の道」も使えないルートであると分かります。


そもそも『国を追われた3万人近くの大集団』が当時として最高技術の結晶とも言える船を多量に使った長期の大航海が可能であったとは思えませんよね( ・Д・)




さて、最後が「草原の道」です。


「草原の道」は中国から北上して、モンゴルやカザフスタンの草原(ステップ地帯)を通り、アラル海やカスピ海の北側から黒海に至るルートです(逆もまた然りです)。


このルートがシルクロードにおいて最も古いとみなされている交易路になります。



この地に住むスキタイや匈奴、突厥(とっけつ)といった多くの遊牧民・騎馬民族が、東西の文化交流の役割を担ったとされています。


上記の遊牧民・騎馬民族で最も古い歴史を有するのがスキタイ紀元前8世紀〜紀元前3世紀に現在のウクライナを中心として盛衰した遊牧国家を築きました。





上の図に示したように、ウクライナとイスラエルではかなりの距離がありますね。実際、問題となる時期ではイスラエルを含むウクライナより南方の地域はアッシリアの領域でした。


この「南方の地域」では紀元前609年にはアッシリアが滅亡し、続いて新バビロニアやアケメネス朝ペルシアの隆盛と滅亡の舞台となります。



北イスラエル王国の離散時期である紀元前721年はスキタイの存亡期間とぎりぎり重なりますので、この「草原の道」はルートとして使用できた可能性があります。




ただ問題点としては、重なる期間がスキタイの最初期であるのでルートとしてどの程度確立していたのかが不明です。


使えたとしてもひどく辛い道程だったと思われます。ルートとして最低限確立していたとしても、その最新情報をいかにして得ることができたのでしょうか?



そして「日ユ同祖論」を支持すると、世界で最初にユーラシア大陸を東西に横断した民族大移動を認めることになります。




・・・・・・まぁ本当に様々な問題を内包している「日ユ同祖論」ですが、前回に引き続き、この時点で否定していると先に進まないので、「草原の道」を使ったってことにします( -д-)ノ



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3.おわりに 

この「日ユ同祖論」に関して書いてると毎回長過ぎて短く切ってるから、目次の意味ほとんどない!( ・Д・)


・・・・・・読みづらいと思いますが、お付き合いください( -д-)ノ




さて少しずつ「日ユ同祖論」が成立するための論理を確認していく中で、問題点を敢えて無視しています。詳しく検討することもなく。


一部の方にはもしかしたら「日ユ同祖論」を弱い根拠によって支持しているように感じるかも知れませんが違います。




論理的に、時間的な前後関係に問題ないように成立する道筋を定めることで、それ以外の可能性を全て否定しているのです。


つまり逃げ場を潰してるのですね( -д-)ノ




(ニュートラルな立場のつもりなんだけど、、、基本的に演繹的な考え方をする「癖」があるのでヽ(TдT)ノ)


こういう効果は後々利いてくる・・・・・・はずですので、「そんなもんか~」って感じでふんわりとお付き合いください、今のところは(*・ω・)ノ


↓たまにはぽちっとしてくださいな!ヾ(´ω`=´ω`)ノ↓

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