底本:「太宰治全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年12月1日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月~1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:もりみつじゅんじ
2000年3月27日公開
2004年3月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
誰
イエス
たいへん危いところである。イエスは其の苦悩の果に、自己を見失い、不安のあまり
二十世紀のばかな作家の身の上に於いても、これに似た思い出があるのだ。けれども、結果はまるで違っている。
かれ、秋の一夜、学生たちと
私は学生たちと別れて家に帰り、ひどい事を言いやがる、と心中はなはだ穏かでなかった。けれども私には、かの落第生の恐るべき言葉を全く否定し去る事も出来なかった。その時期に於いて私は、自分を完全に見失っていたのだ。自分が誰だかわからなかった。何が何やら、まるでわからなくなってしまっていたのである。仕事をして、お金がはいると、遊ぶ。お金がなくなると、また仕事をして、すこしお金がはいると、遊ぶ。そんな事を繰り返して一夜ふと考えて、
「ひでえ事を言いやがる。」私は寝ころんで新聞をひろげて見ていたが、どうにも、いまいましいので、隣室で縫物をしている家の者に聞えるようにわざと大きい声で言ってみた。「ひでえ野郎だ。」
「なんですか。」家の者はつられた。「今夜は、お帰りが早いようですね。」
「早いさ。もう、あんな奴らとは附き合う事が出来ねえ。ひでえ事を言いやがる。伊村の奴がね、僕の事をサタンだなんて言いやがるんだ。なんだい、あいつは、もう二年もつづけて落第しているくせに。僕の事なんか言えた義理じゃないんだ。失敬だよ。」よそで殴られて、家へ帰って告げ口している弱虫の子供に似ているところがある。
「あなたが甘やかしてばかりいるからよ。」家の者は、たのしそうな口調で言った。「あなたはいつでも皆さんを甘やかして、いけなくしてしまうのです。」
「そうか。」意外な忠告である。「つまらん事を言ってはいけない。甘やかしているように見えるだろうが、僕には、ちゃんとした考えがあって、やっている事なんだ。そんな意見をお前から聞こうとは思わなかった。お前も、やっぱり僕をサタンだなんて思っているんじゃないのかね。」
「さあ、」ひっそりとなった。まじめに考えているようである。しばらく経って、「あなたはね、」
「ああ言ってくれ。なんでも言ってくれ。考えたとおりを言ってくれ。」私は畳の上に、ほとんど大の字にちかい形で寝ころがっていた。
「不精者よ。それだけは、たしかよ。」
「そうか。」あまり、よくなかった。けれどもサタンよりは、少しましなようである。「サタンでは無いわけだね。」
「でも、不精も程度が過ぎると悪魔みたいに見えて来ますよ。」
或る神学者の説に
サタンは、神と戦っても、なかなか負けぬくらいの剛猛な大魔王である。私がサタンだなんて、伊村君も馬鹿な事を言ったものである。けれども伊村君からそう言われて、それから一箇月間くらいは、やっぱり何だか気になって、私はサタンに
サタンは普通、悪魔と訳されているが、ヘブライ語のサーターン、また、アラミ語のサーターン、サーターナーから起っているのだそうである。私は、ヘブライ語、アラミ語はおろか、英語さえ満足に読めない程の不勉強家であるから、こんな学術的な事を言うのは
彼等はそれをエホバの敵、すなわち、サタンと名づけた。」というのであるが、簡明の説である。そろそろサタンは、剛猛の霊として登場の身仕度をはじめた。そうして新約の時代に到って、サタンは堂々、神と対立し、縦横無尽に荒れ狂うのである。サタンは新約聖書の各頁に於いて、次のような、種々さまざまの名前で呼ばれている。二つ名のある、というのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になっているようだが、サタンは、二つや三つどころではない。デイアボロス、ベリアル、ベルゼブル、悪鬼の
ここに於いて、かの落第生伊村君の説は、
ほっと
「へんな事を言うようですけど、僕が五、六年前に、あなたへ借金申込みの手紙を差し上げた事があった筈ですが、あの手紙いまでもお持ちでしょうか。」
先輩は即座に答えた。
「持っている。」私の顔を、まっすぐに見て、笑った。「そろそろ、あんな手紙が気になって来たらしいね。僕は、君がお金持になったら、あの手紙を君のところへ持って行って
「知っていますよ。そのウソが、どの程度に巧妙なウソか、それを調べてみたくなったのです。ちょっと見せて下さい。ちょっとでいいんです。大丈夫。鬼の腕みたいに持ち逃げしません。ちょっと見たら、すぐ返しますから。」
先輩は笑いながら手文庫を持ち出し、しばらく捜して一通、私に手渡した。
「恐喝は冗談だが。これからは気を附け給え。」
「わかっています。」
以下は、その手紙の全文である。
――○○兄。生涯にいちどのおねがいがございます。八方手をつくしたのですが、よい方法がなく、五六回、巻紙を出したり、ひっこめたりして、やっと書きます。この辺の気持ちお察し下さい。今月末まで必ず必ずお返しできるゆえ、××家あたりから二十円、やむを得ずば十円、借りて下さるまいか? 兄には、決してごめいわくをおかけしません。「太宰がちょっとした失敗をして、困っているから、」と申して借りて下さい。三月末には必ずお返しできます。お金、送るなり、又、兄御自身お遊びがてら御持参くだされたら、よろこび、これに過ぎたるは、ございません。
意外な事には、此の手紙のところどころに、先輩の朱筆の評が書き込まれていた。
――○○兄。生涯にいちどの(人間のいかなる行為も、生涯にいちどきりのもの也)おねがいがございます。八方手をつくしたのですが(まず、三四人にも出したか)よい方法がなく、五六回、巻紙を出したり、ひっこめたりして(この辺は真実ならん)やっと書きます。この辺の気持ちお察し下さい(察しはつくが、すこし変である)今月末までに必ず必ずお返しできるゆえ、××家あたり(あたりとは、おかしき言葉なり)から二十円、やむを得ずば十円、借りて下さるまいか? 兄には、決してごめいわくをおかけしません(この辺は真実ならんも、また、あてにすべからず)「太宰がちょっとした失敗をして、困っているから、」と申して(申してとは、あやしき言葉なり、無礼なり)借りて下さい。三月末には必ずお返しできます。お金、送るなり、又、兄御自身お遊びがてら御持参くだされたら(かれ自身は更に動く気なきものの如し、かさねて無礼なり)よろこび(よろこびとは、真らしきも、かれも落ちたるものなり)これに過ぎたるは、ございません。図々しい、わがままだ、勝手だ、なまいきだ、だらしない、いかなる叱正をも甘受いたす覚悟です(覚悟だけはいい。ちゃんと自分のことは知っている。けれども、知っているだけなり)只今、仕事をして居ります。この仕事ができれば(この辺同情す)お金がはいります。一日早ければ一日早いだけ助かります。二十日に要るのですけれど(日数に於いて
「これはひどいですねえ。」私は思わず嘆声を発した。
「ひどいだろう?
「いいえ、あなたの朱筆のほうがひどいですよ。僕の文章は、思っていた程でも無かった。
「むかしの事だから、どんな文句か忘れてしまった。」と
馬鹿。この言葉に依って私は救われた。私は、サタンではなかった。悪鬼でもなかった。馬鹿であった。バカというものであった。考えてみると、私の悪事は、たいてい片っ端から皆に見破られ、呆れられ笑われて来たようである。どうしても完璧の
「僕はね、或る学生からサタンと言われたんです。」私は少しくつろいで事情を打ち明けた。「いまいましくて仕様が無いから、いろいろ研究しているのですが、いったい、悪魔だの、悪鬼だのというものが此の世の中に居るんでしょうか。僕には、人がみんな善い弱いものに見えるだけです。人のあやまちを非難する事が出来ないのです。無理もないというような気がするのです。しんから悪い人なんて僕は見た事がない。みんな、似たようなものじゃないんですか?」
「君には悪魔の素質があるから、普通の悪には驚かないのさ。」先輩は平気な顔をして言った。「大悪漢から見れば、この世の人たちは、みんな甘くて弱虫だろうよ。」
私は再び
「そうですか。」私は、うらめしかった。「それでは、あなたも、やっぱり私を信用していないのですね。そういうもんかなあ。」
先輩は笑い出した。
「怒るなよ。君は、すぐ怒るからいけない。君がいま人のあやまちを非難する事が出来ないとか何とか、キリストみたいに立派な事を言うもんだから、ちょっと、厭味を言ってみたんだ。しんから悪い人なんて見た事が無いと君は言うけれども、僕は見た事がある。二、三年前に新聞で読んだ事がある。ポストにマッチの火を投げ入れて、ポストの中の郵便物を燃やして喜んでいた男があった。狂人ではない。目的の無い遊戯なんだ。毎日、毎日、あちこちのポストの中の郵便物を焼いて歩いた。」
「それあ、ひどい。」そいつは、悪魔だ。みじんも同情の余地が無い。しんから悪いやつだ。そんな奴を見つけたら、私だって滅茶滅茶にぶん殴ってやる事が出来る。死刑以上の刑罰を与えよ。そいつは、悪魔だ。それに較べたら、私はやっぱり、ただの「馬鹿」であった。もう之で、解決がついた。私は此の世の悪魔を見た。そいつは、私と全然ちがうものであった。私は悪魔でも悪鬼でもない。ああ、先輩はいい事を知らせてくれた。感謝である、とその日から四、五日間は、胸の内もからりとしていたのであるが、また、いけなかった。つい先日、私は、またもや、悪魔! と呼ばれた。一生、私につきまとう思想であろうか。
私の小説には、女の読者が絶無であったのだが、ことしの九月以来、或るひとりの女のひとから、毎日のように手紙をもらうようになった。そのひとは病人である。永く入院している様子である。退屈しのぎに日記でも書くような気持ちで、私へ毎日、手紙を書いているのである。だんだん書く事が無くなったと見えて、こんどは私に逢いたいと言いはじめた。病院へ来て下さいと言うのであるが、私は考えた。私は自分の容貌も身なりも、あまり女のひとに見せたくないのである。軽蔑されるにきまっている。ことに、会話の下手くそは、自分ながら呆れている。逢わないほうがよい。私は返辞を保留して置いた。すると今度は、私の家の者へ手紙を寄こした。相手が病人のせいか、家の者も寛大であった。行っておあげなさい、と言うのである。私は、二日も三日も考えた。その女の人は、きっと綺麗な夢を見ているのに違いない。私の赤黒い変な顔を見ると、あまりの事に
女のひとからは次々と手紙が来る。正直に言えば、私はいつのまにか、その人に愛情を感じていた。とうとう先日、私は一ばんいい着物を着て、病院をおとずれた。死ぬる程の緊張であった。病室の戸口に立って、お大事になさい、と一こと言って、あかるく笑って、そうして直ぐに別れよう。それが一ばん綺麗な印象を与えるだろう。私は、そのとおりに実行した。病室には菊の花が三つ。女のひとは、おやと思うほど美しかった。青いタオルの寝巻に、
「お大事に。」と言って、精一ぱい私も美しく笑ったつもりだ。これでよし、永くまごついていると、相手を
あくる日、手紙が来たのである。
「生れて、二十三年になりますけれども、今日ほどの恥辱を受けた事はございません。私がどんな思いであなたをお待ちしていたか、ご存じでしょうか。あなたは私の顔を見るなり、くるりと背を向けてお帰りになりました。私のまずしい病室と、よごれて醜い病人の姿に幻滅して、閉口してお帰りになりました。あなたは私を
後日談は無い。
0 件のコメント:
コメントを投稿