≪宍粟市一宮町、千町峠、段ケ峰、御形神社≫ 七三峠: 「兵庫の山を歩く」 #15 眺望を欲しいままにする兵庫の分水嶺
https://freeassociations2020.blogspot.com/2023/01/blog-post_18.html @
http://73toge.blog45.fc2.com/blog-entry-220.html
http://73toge.blog45.fc2.com/blog-entry-220.html
「奈良時代」の里は『播磨国風土記』によるが、ほぼ古墳時代以来の集落を引き継いでいる。 風土記に三方里で「鉄を出す」という記述があり、西側から千種、波賀と続き一宮を含む宍粟北部一帯が千種鉄(宍粟鉄)の産地であった。 また、奈良の平城宮跡から出土した木簡には「播磨国宍粟郡三方里大豆5斗」と記されていて、大豆がこの地の産物であったようだ。
平安時代の荘園は図のとおりであるが、鎌倉時代の終りころ安積氏を下司公文職として安積保と呼ばれる国衙領(私領ではなく公領)が置かれていた。 安積にも平安時代末ころに大規模な製鉄施設があったことを示す遺跡(安積山遺跡)が発見されていて、安積保が置かれた背景には国が鉄資源を管理しようとしていたからではないか。
≪宍粟市一宮町、千町峠、段ケ峰、御形神社≫ |
宍粟市一宮町は90%が山林。 しかも周囲を1千㍍級の山々が囲む。 最高峰は千町ケ峰1141m。 |
遺跡分布図 | 奈良平安時代の地名 | 鎌倉~安土桃山時代の地名 | 江戸時代の村と領地 |
一宮町の歴史 |
「原始・古代・縄文・弥生・古墳各時代」の遺跡は、図のように北と南の2箇所にほぼ大別できる。 「奈良時代」の里は『播磨国風土記』によるが、ほぼ古墳時代以来の集落を引き継いでいる。 風土記に三方里で「鉄を出す」という記述があり、西側から千種、波賀と続き一宮を含む宍粟北部一帯が千種鉄(宍粟鉄)の産地であった。 また、奈良の平城宮跡から出土した木簡には「播磨国宍粟郡三方里大豆5斗」と記されていて、大豆がこの地の産物であったようだ。 平安時代の荘園は図のとおりであるが、鎌倉時代の終りころ安積氏を下司公文職として安積保と呼ばれる国衙領(私領ではなく公領)が置かれていた。 安積にも平安時代末ころに大規模な製鉄施設があったことを示す遺跡(安積山遺跡)が発見されていて、安積保が置かれた背景には国が鉄資源を管理しようとしていたからではないか。 神戸庄は伊和神社に付された封戸が母体で、鎌倉時代には一時京都東福寺の所領であった。 染河内庄は承久の乱ののち、後高倉院法華堂が領有していたが、鎌倉時代末は書写山円教示領となった。 三方庄は、平安時代の終わりに山城国弘誓院領となり、その後、変遷を経て同国随心寺領となる。 中世に入ると庄園は、播磨国守護の赤松氏や守護代で長水城を拠点とする宇野氏の動向に左右された。 中世の山城は小規模で物見をするための砦の域を出ず、交通路を掌握して有事に備えるためのものであった。 いずれの山城も、羽柴秀吉の長水城攻めにより宇野氏が滅亡するとともに落城している。 ・神戸地区: 岡城跡(赤松氏のち岡氏)・古城山城跡(安積氏) ・染河内地区: 明泉山城跡(栗山氏) ・下三方地区: 高取城跡(田路氏) ・三方地区: 御形山城跡(田路氏) ・繁盛地区: 草置城跡(田路氏) 戦国時代の宍粟郡は天正8年(1580)の長水城落城の後、秀吉家臣の神子田半左衛門、次いで黒田孝高、さらに龍野城主の木下勝俊が入封している。 |
山崎城跡(宍粟御陣屋跡) | 江戸時代に入ると; ・慶長5年(1600)播磨52万石の姫路城主となった 池田輝政が宍粟郡も領有 ・慶長18年(1613)池田恒元の備前岡山藩領となる ・元和元年(1615)池田輝澄(慶長14年に松平姓を 賜る)による38千石の宍粟(山崎)藩が成立 ・寛永17年(1640)松井康映が5万石で入封、 ・慶安2年(1649)池田恒元が3万石で入封した時を 最後に、宍粟郡全域の同一領主支配は終り、残り は幕府直轄領となる。 ・さらに延宝7年(1679)に入封した本多忠英の山崎 藩は1万石。 残り全てが幕府直轄領となった。 |
千町峠から段ケ峰へ 段ケ峰は一宮町の東端、朝来市生野町との境界にあるが、生野町側から入るのが一般的。 今回は役場や観光協会の薦めもあり、生野側の町道に残る災害の爪痕を避けて宍粟市一宮町側から廻り込んだ。 山崎ICから国道29号線を北上、安積橋から県道6号養父宍粟線を経由して国道429号線を更に北へ向かうと旧繁盛(ハンセ)村に入る。 百千家満(モチヤマ)、草木(クサギ)、千町の各地区(途中、草置城跡がある)の行きつく先に森林基幹道があり、そこから段ケ峰の西からの登山口となる千町峠は近い。 | 復元された草置城 |
千町峠異聞 天領となった宍粟は生野代官所の支配を受け、鉄資源だけでなく広大な山地に広がる豊富な森林資源(精錬用の炭や資材及び食料)の供給基地となり、生野銀山へ納入するのに越えたのが千町峠であった。 幕末に起きた「生野の変」は、そんな千町峠に歴史の光をあてた。 企てに敗れ落ち延びた一行の足取りをみると、当時の人々の健脚振りに驚かされる。 【生野の変】 (世界大百科事典) 1863年(文久3)10月,尊攘派が但馬生野に挙兵して生野代官所を占拠した事件。前年より但馬地方では,攘夷を名目として北垣晋太郎,中島太郎兵衛ら豪農を中心とする農兵組織計画が進められていた。この動きと,薩摩藩美玉三平,福岡藩平野国臣ら脱藩浪士とが結びつき,しだいに浪士たちが主導権をとって挙兵にもちこんだ。盟主には七卿落ちの一人沢宣嘉(のぶよし)を擁し,長州藩の河上弥市ら奇兵隊士11人も加わり,63年10月12日未明に代官所を占拠した。 江戸末期の生野銀山は産出量が減少、周辺住民は生活に困窮していた。 当時の時代背景もあり、この義挙に約2千名の農民が兵として参集するも、首謀者の破陣に農民は動揺、尊攘派に不信を抱き浪士狩りに転じる。 |
0 件のコメント:
コメントを投稿