2023年1月21日土曜日

ブログNO.53 豊前は水銀朱の産地でもあった 九州の旅三題話 その3 | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

ブログNO.53 豊前は水銀朱の産地でもあった 九州の旅三題話 その3 | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

ブログNO.53 豊前は水銀朱の産地でもあった 九州の旅三題話 その3

ブログNO.53

豊前は水銀朱の産地でもあった

九州の旅三題話 その3

豊前の国・田川郡に赤村という村がある。なぜ「赤村」というのか疑問に思っていた。中国の史書「『魏志』倭人伝にアカとも読める(諸橋・大漢和辞典)人物「烏越」が記されている」

この「烏越が住んでいた国」が赤村を指しているのかどうかはわからない。が、赤村は古代「我鹿」と書き、安閑天皇が屯倉(みやけ)を置いたところで、この天皇が都を置いていたと思われる香春町勾金(かわらまち・まがりかね)の隣村である(当ブログNO.15参照)。都の南側を流れる御祓川の上流にある。

古代からきわめて重要な地域であったことは間違いないのだが、その重要さは何に由来するものかがよくわからなかった。「赤」とあるから赤色の酸化鉄に覆われた土地で、鉄の生産と関係があるのかな、などとも思っていた。

以前、田川郡の遺跡や神社などを探訪した折、近辺に「丹生津比売神社」?があったのではなかったか、とうろ覚えしていた。「丹生津比売(姫)神社」は全国あちこちに数多く建てられていて、水銀朱(丹)の生産に従事していた人々が建立した神社だ。ひょっとすると鉄ではなく「丹」の生産に関係するのか、とも。

水銀朱は辰砂(しんしゃ)という鉱物(写真:奈良県大宇陀から採掘
53-1 されたもの)から作られる。古代には魔除け、腐
食防止用として古墳の内部に撒かれている。岡山の楯築(たてつき)遺跡など弥生時代の古墳や南九州・熊曾於族の墳墓である地下式横穴墓の中にも大量に撒かれているのが発見されている。また鉄器や銅器を金メッキするための重要なアマルガムとして使われた。古代のハイテクを支えた貴重なものだが、岩石の中からごく微量にしか採取できないケースが多く極めて高価なものだ。一握りの辰砂を得るのに途方もない労力が必要だからである。

だが今回、その神社を確認しようと、地元の人の案内で走り回ったが見つからない。

やっと似たような名前の神社を探し当てたのは西隣の大任町にある「丹波神社」だった。が、記憶にある「丹生津比売神社」とは風景が違うと感じた。「丹波」は京都府の「但馬」と関係のある神社かもしれない。「但馬」は佐賀・武雄市付近に発祥地があるという古代豪族橘(たちばな)氏を通じて九州と極めて深い関係をもつ土地である。神社があったというのは僕の記憶違いで、この神社も「丹=水銀朱」の生産とは関係ないのかもしれない。

しかし、意外なところで貴重な情報を得た。赤村の温泉レジャー施設「源じいの森」で健康管理の飲み物を作ったり、温熱療法?をしている楠本等美さんからである。「赤村の道目木(どうめき)というところで昔、辰砂を掘っていた。今もその採掘穴が残っているらしいですよ」という。治療を受けに来た付近の人に尋ねてわかったらしい。

まったく貴重な情報だった。「道目木」の東側の山奥には大字「赤」もある。大字「赤」は今川をはさんで西側にもある。元来はこの辺り全部を「赤」地区と呼んでいたのであろう。今度九州に行ったとき採掘穴を確認しよう。

安閑天皇の父・継体天皇は鉄や銅、或は錫の採掘、加工で財を成し、力を伸ばしたらしい。子の安閑らはさらに辰砂の採掘、水銀朱の製作を力の源泉にしていたのではないか。そんな道筋が見えてきた。 

であるから「赤村」と言うのであろう。「赤」は辰砂の赤だ。安閑が都を近くに設けた理由のひとつが解けた気がした。あとで調べてみると「道目木」に隣接する大原地区や赤地区宮丸などに「貴船社」が六社も祀られていた。

これらの社の多くが祭神として「ミズハノメ(罔象女・水波女)神」を祀っている。この「ミズ」は金属関係の「業界語」で水銀のことである。「罔象(みずは)」というのは「象(かたち)のない(罔)もの」、すなわちどろどろした形のない水銀を指す言葉である。後世その意味が間違われ、農業に使う水と勘違いされて雨乞いの神とされることもあったが、赤村には貴船神社を祀る人々、すなわち辰砂採掘、水銀加工技術を持っていた工人が数多く住んでいた証拠と言えよう。

53-2 うきは市にも採掘跡

その前日、朝倉市出身の書道家で、古代史家でもある井上悦文氏の案内で、『日本書紀』に記す景行天皇が‶九州巡幸〟のために通った道を検証しようと試みた。

景行は久留米市近辺に都を置いたらしい。それで久留米市 藤山から耳納(美濃)山地の嶺道を通り、うきは市から大分県日田市の久津姫神社までの山道を走破した。

ところが途中で大変な‶遺跡〟にぶつかった。うきは市小塩(小椎尾)という地区だ。山間部の道路わきに巨大な岩が露出(写真)し、その岩に開けられた穴に観音様が祭られている。案内看板によると、鎌倉幕府を開いた源頼朝に丹後局(たんごのつぼね)という愛妃がいた。丹後局は頼朝の死後当地に来た。そしてその岩穴に観音堂を作り、頼朝らの冥福を祈ったという。

その岩穴をみてすぐにピンときた。この穴は元来、鉱物採掘のために掘られた穴ではないか、と。
53-3

ノミの跡も生々しい。岩穴は基部を大きく掘り、その奥をさらに掘り進めている(上写真)。観音様はその奥の岩穴に祀られている。岩穴の周囲

53-4 を探索してみるとやはり岩のあちこちに小さな赤い点が露出している。辰砂だ(左 写真)。岩肌をじっくり見ていた井上さんは「どうやら白銀(錫)もあるようですね」という。

付近を支配していたのは小椎尾氏という一族である。大岩壁の横に小椎尾神社がある。由来を記した石碑によれば、小椎尾氏は「薩州」、すなわち薩摩半島の出身だという。いつごろここに来たかは定かではないが、やはり鉱物資源を求めて「熊曾於族」とか「天(海人)族」が南九州から進出していたことがわかる。

北部九州には中央構造線に続く断層がいくつにも枝分かれて伸びている。昨年、熊本・大分大地震を引き起こした断層だ。断層やその周辺では地下の鉱物資源が露出する。はるか古代に赤村やその周辺でも同じ現象が起きていたのだろう。日本列島は断層だらけの列島で、近代の大掛かりの採掘には採算面での難点があるが、鉄、銅、錫、辰砂、金など資源は豊富なところだ。

『魏志』弁辰伝には「国々は鉄を出す。韓、濊、倭(族)が欲しいままに採っている」と記録されている。朝鮮半島南部にさらなる大鉱脈を求めて列島人が進出していたことがわかる(20173月)

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