田川郡赤村赤 八幡神社(我鹿八幡神社:あかはちまんじんじゃ)
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5月26日、田川郡赤村の我鹿八幡神社を訪問しました。「我鹿」で「あか」と読むそうで、村内で最も古い木造建築と案内板に記されています。
また、現在の本殿は18世紀末(1700年代)のものとも案内板に記されており、襖絵の配置など、宇佐神宮との共通性がみられるとのことでした。
石段をあがって社殿を確認させていただくと、御神紋は五三桐紋で、神功皇后がもちいた紋章です。もともと桐紋は、高良玉垂宮神秘書にあるとおり、初代 住吉大明神であった鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)から玉垂命(筑紫君、開化天皇)が譲られた紋章であり、その妃として、神功皇后も使用していました。これだけでも、この神社は、なによりもまず、神功皇后に縁故がある神社であり、後年、宇佐神宮(宇佐八幡宮)の影響をうけたものだとわかります。
ところが、福岡県神社誌を読むと「社伝によれば保食神は安閑天皇の御宇我鹿の屯倉置かせ給う時より」鎮座していたとあります。保食神とは倉稲魂命(うかのみたま)のことであり、豊受大神であり、またの名を天細女(あめのうずめ)。罔象女神(みずはのめ)の娘であり、卑弥呼(天照大神)の最側近だった女性です。
田川市郡で最も位の高い天細女の痕跡は、香春神社です。辛国息長大姫大目命とは、天細女にほかなりません。スサノオと罔象女神(みずはのめ)の間に生まれた彼女は、辛国、つまり朝鮮半島で出生したのかもしれません。
スサノオは天照大神の怒りを買って、新羅の曽志茂利に逃げ、やがて五十猛命(=猿田彦、山幸彦)の手引きにより、牛頭天王として日本に舞い戻ります。天細女が最初、海幸彦(=天之忍穂耳)の妃であり、のちに山幸彦の妃となるのも、このあたりに理由があるようです。
なにはともあれ、香春岳(本物の天香久山)から赤村一帯にかけて、天細女の影響下にあったことが確認できただけでも、収穫でした。
社殿の向かって右脇に、スサノオを祀る須佐神社があります。天細女の父親が、祇園様としてここに祀られているわけです。
そして社殿向かって左脇に天満宮があります。近づくと祠に「天満宮」の扁額があるだけでなく、ひっそりと「天神」と彫られた扁額も置かれていました。これが「水天神」という意味なら、天細女の母、罔象女神ということになります。
五三桐紋の神功皇后を祀る神社としての姿より、さらに古層が残っていました。
ここは天細女(辛国息長大姫大目命)を親御さんと一緒に祀る神社から、神功皇后のお宮、さらに宇佐神宮影響下の八幡宮へとなんども上書きされた神社だったのです。
赤貧がこのことに気づくきっかけは、御神幸祭の起点となる「仮宮」の位置でした。今川沿いの仮宮には、川沿いであるべき理由があるはずです。
そう考えると、ここはたんなる八幡宮ではないことが見えてきます。
最後にひとつ付け加えると、「我鹿の屯倉(あかのみやけ)」が「赤村」の語源ではなく、すでにこの地が「あか:赤:我鹿」と呼ばれていたから、我鹿の屯倉になったことも、見えてくるのです。この「赤」は、水銀(辰砂)の朱であり、金銀銅の精錬に欠かせない重要資源の産地であったことを意味しています。
天細女が別名 倉稲魂命として朱色に塗りたくられたお稲荷さんにお祀りされているのも、それ故なのです。
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福岡県神社誌:下巻177頁
[社名(御祭神)]八幡神社(神功皇后、保食神、応神天皇、姫大神、大山祇命、猿田彦命)
[社格]郷社
[住所]田川郡赤村大字赤字仲山
[境内社(御祭神)]須佐神社、天満宮
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(2020.05.26訪問)
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