ヘブル語の「国」(マルフート)の秘密
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MDRSH 3. ヘブル語の「国、王国」(マルフート)の秘密
ベレーシート
- 「主の祈り」のミドゥラーシュの第三回目は、「御国が来ますように」です。「御国」とは、正確に言えば、「あなたの国」、つまりここでは天にいます父の国のことを意味します。ヘブル語で「国」は「マルフート」(מַלְכוּת)と言いますが、この「マルフート」は、王を意味する「メレフ」(מֶלֶךְ)と語根を同じくしています。つまり、「国」「御国」とは「王国」を意味し、「統治」や「支配」の概念に近いものです。ギリシア語では「バシレイア」(βασιλεία)、英語では「キングダム」(kingdom)、「ユア・キングダム」(Your kingdom)と訳されます。
- 空知太栄光キリスト教会の礼拝は、神がイスラエルに約束された祝福に私たちがメシア・イェシュアによって接ぎ木されたことを意識するために、以下のように、ヘブル語で歌うことから始まります。
- この歌の中には、「主の祈り」のミドゥラーシュNo.2で取り上げた「シェーム」(名前、御名、שֵׁם)があり、そして今回取り上げる「マルフート」(御国、王国、統治、מַלְכוּת)があります。「マルフート」は、聖書においてきわめて重要な概念であり、そのことを正しく理解することはとても大切です。なぜなら、イェシュアがこの世に来られて語られたこと、また、人々の前でなされた一つひとつのみわざ(奇蹟)は、この「マルフート」(神の統治)と深く関係しているからです。
- ちなみに、「シェマ」の後に続いて歌う歌は、主が全地を統治される方であることを喜びとするものです。歌詞の内容は王の詩篇のひとつである詩篇47篇から取られており、主の統治を喜びをもって賛美する歌です。ハイ・テンポで歌われます。その歌詞の内容は、やがてこの地上に実現する終末論的な主の統治・支配(「マルフート」מַלְכוּת)への希望を預言的完了形で告白しています。
手をたたけ すべての国々の民よ
主に叫べ 歌を歌え 喜びの声上げ
力強い主は われらの中に
栄光ある主は 国々を取り囲む(取り囲む=統べ治める)
- 上記の「シェマ」と「手をたたけ」という歌は、中世のカトリック教会のミサでいうならば、「通常文」に当たる部分で、当教会の礼拝の中では必ず決まって歌われる歌として位置づけられています。つまり、このような形で「主の祈り」の中にある「御国が来ますように」という祈りを実践しているのです。
1. 神が王であるという概念
(1) 「家」から「王国」へ
- ところで、「主の祈り」は「子」が「父」に向かって祈る祈りです。「父」というヘブル語は「アーヴ」(אָב)でした。そのことばに秘められた事柄は、目には見えない本源的・力ある存在である「アーレフ」(א)が、「子」である「べーン」(בֵּן)によって、はじめてその実体を現わされる方であることを学びました。その「息子」(בֵּן)が神と人とが交わる「家」(「ベート」בֵּית)を「建て上げる」(「バーナー」בָּנָה)のです。もともと天にある神の家は、御子によって天と地にまで広げられ、その家に人も招かれるのです。神の家は神と人とが共に親しく住む家です。その「家」が、「王国」という概念でも表わされているのです。
(2) 神が王であるという最初の告白
- 王国には、王がいて、王の民がいます。そして王の民が烏合の衆とならないための王の憲章があります。これは王国であるために必要な三要素と言えます。その王国のモデルが、神とその民であるイスラエル、そしてその憲章である神の教え「トーラー」です。神である王は地上の住まいとしての幕屋を通して、あるいは神殿を通して、やがてはその聖所の本体である御子イェシュアを通して、ご自身の民を統べ治められます。それが「神の王国」です。神と人との交わりが、神である王が民を統べ治められるという形で表されます。王である神は、神の民に対して、生存と防衛のすべての必要を保障し、民はその王である神に従うという形態です。
- 私たち日本人は、主権在民による民主主義国家であるために、神が王として支配(統治)する国というイメージを正しく理解することが困難です。王制のイメージはどうしても専制君主的イメージに結びつきやすいからです。暴君的な王の代表格にエジプトやバビロンの王がいます。エジプトやバビロンの王は絶対的専制君主です。つまり、自分の口から出たことばがそのまま法となります。しかし、ペルシャの時代の王になると法治国家となり、自分が決めたルールに王自身も従わなければならなくなります。いずれにしても、民は、その王がどのような王であるかによって大きく影響されるのです。
- イスラエルの歴史において、神が王として統べ治められるという信仰は、出エジプトの出来事の後に生まれました。出エジプト記15章18節にはこうあります。
יִמְלֹךְ)は「マーラフ」(מָלַךְ)の未完了形です。
「イムローフ」(
- この告白は、イスラエルの民が絶対的専制君主であったエジプトの王の支配から解放され、さらに、荒野においてすべての必要を神に与えられた経験を通して生まれた告白です。「アドナーイ・イムローフ・レオーラーム・ヴァエッド」。英語では The LORD will reign for ever and ever. です。
(3) ヘブル語の統治用語
- 「王となる」「王として支配する、治める」というヘブル語の「統治用語」は、「マーラフ」(מָלַךְ)の他に、「マーシャル」(מָשַׁל)、「シャーラト」(שָׁלַט)、「バーアル」(בָּעַל)などがありますが、神(主)を主語として用いる動詞は、「マーラフ」(מָלַךְ)と「マーシャル」(מָשַׁל)のみです。以下のPDFファイルを参照のこと。
2. 「主の祈り」の「御国」に対する祈り
(1)「御国が統治され続けられますように」という訳ー創造者としての神の統治
- ところで、多くの聖書はこの箇所を「御国が来ますように」と訳していますが、「主の祈り」をヘブル語に戻してその真の意味を解明しようとしているエルサレム学派の学者たちは、この箇所を「タムリーフ・マルフーテハー」が適切だと提唱しています。「タムリーフ・マルフーテハー」を直訳すれば、「あなたの統治(ご支配、王権)を統治し続けられるように」となります。この表現は、神の永遠の統治(支配)が、天においても地においても、すべての領域において、しかも、時間的制約を越えてそれが保たれることを意味すると同時に、それを実現していく力(あるいはプロセス)に強調点が置かれることになります。「タムリーフ」(תַּמְלִיךְ)は、「マーラフ」(מָלַךְ)の未完了形・使役形・二人称・単数で、統治され続けることを意味します。また、すでに神の統治が始まっているだけでなく、それが漸次的に力をもって広がって行くという含みをも持っているからです。イェシュアの語られた「一粒のからし種」や「パン種」が成長するたとえ話の中にそれが見て取れます。
- 王である神が、全世界(あるいは、天と地とその中にあるすべて)を統治されるだけでなく、その統治にすべてが喜ぶことが預言的に語られています。以下の詩篇96篇は「王の詩篇」の一つです。
●詩篇96篇
10「主は王である。まことに、世界は堅く立てられ、ゆらぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。」
11 天は喜び、地は、こおどりし、海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。12 野とその中にあるものはみな、喜び勇め。そのとき、森の木々もみな、【主】の御前で、喜び歌おう。
(2)「御国が来ますように」という訳ーメシア王国としての統治
- イスラエルの歴史において、王制が導入されたのは、サムエルの時代です。特に、ペリシテの脅威に対抗するためには、他の国と同様に王を立てる必要を民は感じ始めました。そこで彼らはサムエルにそのことを申し立てたのです。神こそ王であるという信仰では足りずに、実際に自分たちの先頭に立って戦ってくれる王を求めたのです。サムエルはこのことを嫌いましたが、神である主はイスラエルの王制の理念がいかなるものであるかを教えた上でそれを許可されました。
- 最初に立てられた王はサウルでした。しかしそのサウルは王として失格でした。イスラエルの王制の理念はあくまでも王は神であり、人間の王はその代理者にすぎないという他の国では考えられない規定がありました。したがって人間の王は、神によって選ばれ、神によって立てられるというのがその規定でした。その規定にサウルは失格し、代わりにダビデが立てられます。神はダビデと契約を交わし、「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも堅く立つ。」と約束されました(Ⅱサムエル7:12)。これが有名なダビデ契約です。そして、このダビデ契約とメシア王国とが密接につながっているのです。
- このダビデ契約に基づいて、王である神(主)は「来られる」とか、王である神に向かってさばきのために「来てください」という祈りが生まれてきます。「メシア的詩篇」と言われる詩篇の中にそうした祈りが見られます。
●詩篇24篇7, 9節
門よ。お前たちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる(「ボー」בּוֹאの未完了)。
●詩篇96篇13節
確かに、主は来られる(「ボー」בּוֹאの分詞)。確かに、地をさばくために来られる。
●詩篇98篇9節
確かに、主は地をさばくために来られる(「ボー」בּוֹאの分詞)。主は義をもって世界をさばき、公正をもって国々の民を、さばかれる。
- ここで「来られる」と預言されているのはダビデの家から生まれるメシア的王です。イェシュアこそ、旧約で預言されていた「メシア的王」です。このイェシュアがこの世に来られ、公生涯の最初に、口から出たことばが「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」でした。御国の到来はメシア的王によって実現するのですが、その実現は「すでに、しかし、未だ」(Already, but not yet)という到来の仕方なのです。この不思議な到来のあり方を、聖書は「近づいた」(「エンギゾー」έγγίζωの現在完了形)ということばで表現しているように思います。つまり、「近づい来て、すでにある」という意味合いです。
- 「近づいた」のヘブル語は「カーラヴ」(קָרַב)で、時間的な意味よりも空間的、物理的な意味での接近を意味しています。たとえば、神の統治(支配)は、悪霊が追い出されたときに、癒しが起こったときにそれが立証されたという意味であり、近いどころか、すでに現われたというニュアンスです。「カーラヴ」は、旧約聖書においては、性的関係を表わす湾曲的表現として用いられるようです。例としてはイザヤ書8章3節、「そののち、私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった。そして男の子を産んだ。」など・・。
- 「天(神)の支配が近づいた」というヘブル語訳は「カールヴァー・マルフート・シャーマイム」(קָרְבָה מַלְכוּת שָׁמַיִם)。これは、まさに神がここに働いているということを意味しています。しかし同時に、神である王(メシア的王)の支配が、この地上において、目に見える形で完全に現わされる時が来ることも真理なのです。それは旧約のさまざまな預言者たちが語ってきたことであり、また、メシアであるイェシュアも、そのために、繰り返して、「見よ。わたしはすぐに来る。」(黙示録22:7, 12)、「しかり、わたしはすぐに来る」(黙示録22:20)と語っているのです。それゆえに、私たちは、「来てください」(黙示録22:17, 17, 20)と繰り返して、祈らなければならないのです。なぜなら、王である神の統治する国こそ、「天の御国」なのですから。
- 「天の御国」とは、キリストの再臨後にこの地上に実現する「千年王国」のことでもあり、また、新しい天と新しい地における「聖なる都、新しいエルサレム」のことでもあります。そのすばらしさ、その祝福については、⇒牧師の書斎の「再臨と終末預言」をご覧ください。
「来てください」=Come !! = בּוֹא
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