絞殺魔
ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
1960年代のボストンで、一人暮らしをする高齢の女性ばかりを狙った連続殺人が発生した。押し入った形跡がなく、被害者の女性たちが何故か犯人を自分の意思で自室に招き入れていること。ロープを外科結びと呼ばれる独特の結び方で被害者の首に巻き付けていること。そして猟奇的な陵辱。そういった特殊な要素からたちまち話題となり、人々に「ボストン絞殺魔」と呼ばれるこの事件の捜査は難航する。
Wikipediaより引用
今回はネタバレありの誉め解説モード。
注意:今回は本作の重大なネタバレをしています。
東京ではリチャード・フライシャー監督の初期作品が公開されているらしいが、地方都市にに住む自分には縁がない話。でも、妙に懐かしくなったので久しぶりにフライシャー監督が撮った本作を観直した。
フライシャー監督と言えば何でも撮った職人監督というイメージであり、自分も知らず知らずに監督作を結構に観ている「あれ、彼だったの⁉」くらいの認識なのだが、濃いファン、いわゆるシネフィル等には初期の犯罪映画作品を中心に高い評価を受けている監督でもある。
そして本作は公開当時画面が分割してシーンが進行するスリットスクリーンという技法が使われて話題となり、これはサスペンスの手法としてしばらくは他の映画作品にも使われていたし、ブライアン・デ・パルマ監督の十八番にもなっている。
また、その評価も監督の犯罪映画についてまわる、ドキュメンタリータッチだとか、ジャーナリスティックとかに収まっている。確かに、誰にも感情移入しない展開、別の言い方をすれば「ある種の素っ気なさ」がそうゆう評価となっているのだろう。
もちろん「ある種の素っ気なさ」は監督のデビュー時がアメリカ製作配給の自主規制コード、いわゆるヘイズコードをすり抜けるために生まれた技であるらしいのも濃い映画ファンなら常識となっている。
ja.wikipedia.orgnone
ヘイズコードは宗教・伝統からの極端な逸脱を避けるため1934年から実施され、名目上は1968年まで存続した映画会社どおしが作った道徳&倫理としてのルールであり、その時代に作られた映画作品はそのほとんどが、その影響を受けていると言ってもよい。
例えばヒッチコック監督『サイコ』(1960) におけるあのシャワーシーン。あれもヘイズコードのためにそうゆう風に撮影されたのは誰でも知っている(画像はIMDb)
直接的に人を刺す描写をせずにショッキングさを演出する一連のシークエンスはヘイズコードが無かったら別の描写になっていた可能性だってあったはずなのだ。
そして本作の公開時も1968年。後期も後期なので、さすがに本作に影響が残っているとは思われないが、ヘイズコードで鍛えられたはずのフライシャー監督が早々にその影響下から抜け出せるとは思えない。
つまり直接でなくて、手の込んだ表現法を仕掛けている。
それを考慮して観ると本作で何をやろうとしたのかが漠然とながらも見えてくる。
さて、それは後回しにして本作を分解してしまえば、物凄く単純な三幕構成の物語。
1幕目:舞台はボストン。女性ばかり襲う連続殺人事件が発生していたが手掛かりは無く、警察は不審者を手当り次第に捕えるが、殺人は続いて犯人は特定できずに捜査は迷走する。この辺りはジョージ・ケネディが演じるディナターレ刑事達が主に描かれる。
2幕目:ヘンリー・フォンダ演じる検事総長補佐のボトムリーとトニー・カーティス演じるデサルボが登場。
3幕目:ボトムリーとデサルボとが対峙するクライマックス。デサルボは一見普通の家庭にいる平凡な夫だが、実は彼がボストン絞殺魔だった。偶然により彼が犯人だと知るボトムリーとディナターレだが、実は彼は二重人格であるために犯行そのものは覚えていないためにボトムリーはデサルボに潜んでいる殺人犯の人格を呼び出す事になる。
さて、1幕目。ここであのスリットスクリーンが頻繁に使われるのだが、これが何をやろうとしているのかと言えば、複数の視点を入れることで混乱しているボストン市民と捜査陣を描くというのをやってのけている。
つまり、サスペンスの手法・技法ではなく、ドラマとして意味がある。
まぁ、当時は誰もがソコをソレを、勘違いして解釈していたって事になる……かな?
次に、2幕目。ここではボトムリーとデサルボが登場するわけだが、1幕目で頻繁に使われていたスリットスクリーンはボトムリーには使われていない。しかしデサルボにはスリットスクリーンが使われている。
ここからいきなり本題に入る。複数の視点、つまりスリットスクリーンをデサルボに使うという事は、すでにデサルボ二つの視点が存在している事となる。
つまりこの段階で人格が二つ存在する。と暗示して描写している事となる。
そして3幕目。ボトムリーは偶然に捕まったデサルボのもう一つの殺人犯としての人格を呼び出して自白を出そうとするシークエンスになるのだが、そこでも複数の視点を示す分割らしきモノが現れるのだが、それはスリットスクリーンではない。
鏡(マジックミラー)で分割する。というよりも一つの肉体から二つの人格を分離するといった方が良いかもしれない。
しかし、そこまで手の込んだやり方をしたのは何故なのか?それは本作を観た者なら直観で感じる、人には法では裁けない領域(公開当時)があるという現実。
そして、善と悪の境界の曖昧さであり、神と悪魔の曖昧さだ。
フライシャーの目論見はそこの辺りだろう。ヘイズコードで鍛えられた監督らしいやり方でもあり、同年にロマン・ポランスキー監督『ローズマリーの赤ちゃん』が公開されて、それが大衆にはショッキングで評価されていた時代の、まだ悪と悪魔の行いに対して感情が容認よりも否定と拒否が強烈だった頃に出来たギリギリだったのかもしれない。その風潮がおさまるのは5年後のウィリアム・フリードキン監督『エクソシスト』(1973) でも、まだソレがショッキングとして見られていたくらいなのだから。それを娯楽として大衆受けするようにするために、こんな変化球的描写になったのかも?
そうゆう意味では本作も結構ギリギリだ。
DVDで鑑賞。
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