2023年1月29日日曜日

【小学生でもわかる戦国時代】明智光秀と本能寺の変!信長が無防備だったわけとは!?【日本史】

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[麒麟がくる] 最終回『 本能寺の変①』信長の四国政策・光秀と長宗我部の関係や愛宕百韻について解説!!






本能寺の変Ⅱ 明智光秀謀反の理由 四国政策転換説は成り立つのか 渡邊大門先生の講演後半【相生歴史研究会】
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 戦国時代末期、四国に勢威を振るった武将長宗我部元親の事跡をつづる『元親記』は、天下統一をまさに目前にした織田信長が宿将明智光秀の謀叛で滅ぼされた事変に言及して次のように説く。 〈扨て斎藤内蔵助は四国の儀を気遣に存ずるによつてなり。明智殿謀叛の事いよいよ差し急がれ、既に六月二日に信長卿御腹をめさるゝ〉  また『長宗我部譜』には〈四国違変によりて斎藤殃がその身に及ぶを思ひて、明智をして謀叛せしめんと存ず〉とあって、対長宗我部政策の変更を憂えた斎藤内蔵助が主君の光秀に働きかけ、謀叛の決行を促したと明快に述べている。  斎藤内蔵助、諱を利三――明智光秀の〈二なき者なり〉と評された側近である。天正十年六月二日の謀叛では襲撃部隊の直接の指揮を執り、公家の山科言経はこの時の利三の働きを〈今度謀叛随一也〉と日記に書き留めた。『元親記』『長宗我部譜』の記事からもうかがわれるように斎藤利三と長宗我部一族との縁は深い。利三の兄は幕臣石谷氏の養子に入り、石谷氏の実の娘の嫁いだ相手が長宗我部元親その人なのである。だから、斎藤利三と長宗我部元親は義理の兄弟の間柄ということになる。  一方、明智光秀と長宗我部元親の縁は天正三年までさかのぼる。  この年長宗我部元親は土佐一国を平定すると、余勢を駆って他国へ進攻する傍ら、信長へ誼を通じた。当時、信長は本願寺勢力と交戦中である。本願寺への牽制に元親と同盟を結び、四国平定の承諾を与えた。これに際して、織田、長宗我部両家の取次として尽力したのが光秀である。  以後光秀は長らく両家の取次を一手に引き受け、元親の側室として姪を嫁がせるなど長宗我部家との結びつきを深めていく。元親の義兄斎藤利三を召し抱えたのもちょうどこの時期だ。  ところが、天正八年に信長と本願寺の和解が成立すると、長宗我部元親の利用価値は急落してしまった。もともと信長は元親を評価していない。〈無鳥島の蝙蝠〉――鳥のいない島で威張っている蝙蝠に等しい輩、というのが信長の目から見た元親の人物評である。四国平定を認めた前言を信長は一方的に撤回すると、土佐一国並びに阿波の半国しか領有を許さないと元親へ通告した。すでに四国統一を目前にしていた元親はこれを拒否、光秀、利三の再三の説得も聞き入れることはなかった。  四国政策の転換は親長宗我部派の光秀に大打撃を与え、織田家中における地位を動揺させた。  失地を回復するには光秀自らが遠征軍を従えて渡海し、元親を降伏させることが望ましい。同盟が破れた時、それまでの取次役が攻略の指揮を任されるのは織田軍団の慣行になっている。しかし、この場合に長宗我部家との緊密な関係はかえって足枷となった。  天正十年五月七日、信長は三男神戸信孝に四国出陣を申しつけ、副将に丹羽長秀を任命した。四国出陣から外されたことで、光秀が面目を失い、同時に将来に強い不安を覚えたことは想像に難くない。  宣教師ルイス・フロイスはこの時期の出来事として次の報告を残している。 〈ところで信長は奇妙なばかり親しく彼を用いたが、このたびは、その権力と地位をいっそう誇示すべく、三河の国王(徳川家康)と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことに決め、その盛大な招宴の接待役を彼に下命した。  これらの催し事の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対(意見)を言われることに堪えられない性質であったので、人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上り、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたと言うことである〉  後にこの一件は徳川家康の接待と結びつけられ、左の説が巷間に流布された。  甲州武田家の滅亡後、徳川家康が降将の穴山梅雪を伴って安土へやってきた。この時、光秀は家康と梅雪の饗応役を命じられたが、梅雨の時節でせっかく取り寄せた生魚が腐ってしまった。この不手際を知って信長は激怒した。ちょうど同じ時期、備中高松城を水攻めして毛利勢と対陣中の羽柴秀吉が援軍を求めてきたから、ただちに信長は光秀を饗応役から解任、秀吉救援のため出陣するように申しつけた。光秀はこの処遇に強い恨みを抱いた――  しかしながら、饗宴の準備で相談したというのだから、これは家康が安土に到着した五月十五日以前の出来事と判断していい。中国出陣の準備のため役目を解かれたのは確かだが、実際には十七日までの三日間光秀は饗応役を務めている。  天正十年五月中旬の時点で信長と光秀の間で何らかの意見の対立があり、怒りにまかせて信長が光秀を足蹴にするような事情となると、殊更に勘繰るまでもなく、直前に決定された四国出陣をめぐる軋轢が一番深刻だった。というより、歴史上の事実として疑うべくもなく存在するものとなると他に見当たらない。  神戸信孝の下、四国出陣の準備は着々と進められている。いまさら既定の方針がくつがえるはずもない。

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