「シロ(白)と聖書」(白の考察・その1)
幕屋がある場、すなわち、絶対神のすまう場であり、古来から聖なる場所として使われてきたようです。
そして、この「シロ」と日本語の「シロ」は、全然関係ないはずがなく、明らかにつながっています。
なぜなら、神のすまう場所を、日本では、そのものずばり、「ヤシロ」=「社」というからです。
「ヤシロ(社)」とは、「ヤ・シロ」であり、「ヤ」とは、ヘブライ語で「神」の意味。
「ヤハウェ」の「ヤ」です。
「シロ」とは、王宮とか宮殿といった意味合いで、聖なる場所であり、政治的にも宗教的にもイスラエルの中心となったことが、旧約聖書には見られます。
●「シロ」=「城」=「代」=「白」
「代」は「依代(ヨリシロ)」という言葉があるように、神が宿るとされる御神体や柱などをヨリシロと称します。
であれば、同じ音をもつ、「シロ」=「白」も、神に通じる漢字であるとみていいように思います。
白蛇、白馬など、白のつくものは、神の象徴ともされますので、「白」は、神に通じるものであることは、間違いないでしょう。
そして、もっといえば、前回も述べた「白」とは「イエス・キリスト」の象徴であるとみることができます。
そのことを証明するかのように、聖書には「シロ」という言葉が、また別の意味で使われています。
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王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。
ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。(創世記・第49章10節)
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ここはヤコブが臨終の床で12人の子供たちに与えた祝福の言葉ですが、それは同時に12部族の運命をも預言しているといいます。
「シロ」は「平和を来らす者」すなわち「メシヤ」を示す意味にも使われているということになります。
「シロ」=「メシヤ(救世主)」=「イエス・キリスト」=「白」
上記で使われている「シロ」が、果たして、イエス・キリストと言ってしまっていいのかどうかは、正直分かりませんが、「シロ」とは、神聖な言葉であることはみることができます。
白とは、「死」のイメージと書きましたが、「シロ」=「死路」という音に返すが浮かびました。
しかし、それで終わりではなく、同時にまっさら、真っ白にして、また「新たな始まり」をも内包する言葉なのでしょう。
終わりであり始まりである。それは死んで蘇ること。
まさに、「シロ」=「死路」=「始路」
「死」は終わりではなく、始まりであるということ。
また、そのことは、「シロ」=「子路」にも見出すことができます。
十二支の最初になぜ「子(ネ)」=「シ」がくるのか。
それは、「子」=「一」+「了」であり、「一」=「はじめ」であり、「了」は、「完了」「終了」というように、「終わり」を意味します。
つまり、「子」とは、「はじめ」であり「終わり」であるということであり、もっと言えば、私は「アルファ」であり「オメガ」であると言った、「イエス・キリスト」その人です。
十二支も「子」ではじまり、再び、「子」に戻る。
はじめであり、終わりであり、またはじめに戻って巡っていく。
日本は今でこそ少なくなりましたが、女の子の名づけに、「~子」と名づけるのは、何か深い意味があるような気もしないでもないのですが…。
いずれにしても、「白」=「シロ」=「子路」=「死路・始路」とは、まさに、イエス・キリストの象徴だと言えそうです。
神社にある狛犬は、口を開いたのと口を閉じたのが一対鎮座していますが、これこそ、「あ・うん」であり、最初と最後を象徴していて、日本語の五十音の「あ」~「(う)ん」をも象徴していることになります。
日本人は、「死」は、終わりではなく、始まりであるということを、死んで蘇ると言うことを知っていたということなのでしょうか。
さまざまなところに、そのことが暗に示唆されていることが見えてきます。
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