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ドキュメント明暦の大火 幕府を変えた江戸の危機
初回放送日: 2022年11月16日
江戸時代前期の明暦の大火は江戸市中の6割を焼き尽くし10万人以上の命を奪った。幕府への不満が募る中、幕閣・保科正之は武士も町人も驚く復興策を打ち出した。 江戸時代前期の明暦の大火。3日間で江戸市中の6割を焼き尽くし、10万人の命を奪った。将軍のお膝元が火事に無防備なことが露呈し、幕府への不満が高まった。この危機の中で復興にあたったのが幕閣・保科正之。幕府の御金蔵に蓄えられた金を惜しみなく使い被災者の救済に力を注いだ保科だが、焼失した江戸城天守の再建をめぐって選択を迫られた。保科の常識を覆す選択は武力にものをいわせる政治の根幹まで変えていく。
岡田晃のコラム「明暦の大火から江戸を復興させた名君・保科正之~今日の震災復興にも教訓~」 | 講演依頼.com新聞|講演会・セミナーの講師紹介なら講演依頼.com
https://www.kouenirai.com/kakeru/column/seijikeizai/okada_keizai/1167
4代将軍となった家綱の後見人として幕政のナンバーツーとなった保科正之は、大名政策の転換に踏み切った。これまでは跡継ぎがいない大名は取り潰してきたが、末期養子(死の直前に養子を決めること)を認めて大名の取り潰しを減らした。浪人の増加に歯止めをかけ、社会の安定を図ろうというものだった。武断政治から文治政治への転換である。このほか、それまで大名の妻子だけでなくその重臣の妻子も人質として江戸に住まわせていたが、重臣から人質をとることを廃止した。殉死を禁止したのも正之だ。
明暦の大火で江戸城も焼失
正之はこうして徳川幕府最大の危機を乗り切った。これは政治的な危機だったが、次に起きたのが未曾有の災害という危機だった。明暦の大火(振袖火事)だ。1657年(明暦3年)1月18日、本郷から出火し瞬く間に江戸中に広がった火事は二昼夜におよび、江戸の大部分を焼失した。焼失した大名屋敷は500軒、旗本屋敷770軒、町屋400町余りにおよび、死者は10万人以上に達したという。江戸城も天守閣をはじめ本丸、二の丸、三の丸が焼け落ち、無事だったのは西の丸だけだった。将軍も本丸から西の丸に避難を余儀なくされ、一時は城外への避難が検討されたほどだ。
この対応に陣頭指揮を執ったのが正之。西の丸に避難した将軍の前で右往左往する幕閣の中にあって、正之は城外避難との意見をしりぞけ、「西の丸が焼け落ちたら、屋敷の焼け跡に陣屋を立てればよい」として将軍を江戸城にとどまらせた。有事の際にトップがとるべき姿勢を示したと言える。
被災者救援にも力を尽くした。まず粥の炊き出し。江戸の6カ所で、一日千表の炊き出しが7日間行われ、さらに延長された。同時に、家を焼け出された江戸町民に救助金として16万両を支給することにした。幕閣の間からは「それではご金蔵がカラになってしまう」と反対する声が上がったが、正之は「幕府の貯蓄はこういう時に使って民衆を安堵させるためのもの。いま使わなければ、貯蓄がないのと同然だ」と一喝したという。
被災者救援と並行して取り組んだのが、物価の安定だった。江戸中が焼け野原になってモノがない状態では物価が高騰しやすい。特にコメの価格は要注意だ。そこで、正之は米価の上限を決めるとともに、コメの確保を急いだ。さらに正之は一つの”奇策”を打ち出す。参勤交代で江戸にいる諸大名に帰国命令を出し、国許にいる大名には参勤交代で江戸に来る必要なしと通知したのだ。参勤交代で江戸にやってくる各藩の家臣の数を合わせると膨大な人数にのぼる。それを減らすことによって、コメの需給を緩和し値上がりに歯止めをかけようとしたのだった。普通なら、江戸が一大事だから大名がこぞって江戸に駆けつける
ことが幕府への忠義と考えそうなところだが、正之の考えは逆だった。既存の常識にとらわれない柔軟な発想と、幕府の権威よりも被災者と民衆の生活安定を優先させるという明確な理念があったのである。★
保科正之
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 慶長16年5月7日(1611年6月17日) |
死没 | 寛文12年12月18日(1673年2月4日) |
改名 | 幸松(幼名)→正之 |
神号 | 土津霊神 |
墓所 | 福島県耶麻郡猪苗代町の土津神社 |
官位 | 従五位下・肥後守、従四位下・侍従、左近衛権少将、従四位上、正四位下・左近衛権中将兼肥後守、贈従三位 |
幕府 | 江戸幕府大政参与 |
主君 | 徳川秀忠→家光→家綱 |
藩 | 信濃高遠藩主→出羽山形藩主→陸奥会津藩主 |
氏族 | 徳川将軍家→保科氏(会津松平家) |
父母 | 父:徳川秀忠、母:浄光院 養父:保科正光、養母:見性院 |
兄弟 | 千姫、珠姫、徳川長丸、天崇院、初姫、 徳川家光、徳川忠長、徳川和子、正之 義兄弟:正貞、正重ら |
妻 | 正室:内藤政長娘・菊姫 継室:聖光院 側室:牛田氏、沖氏娘・栄寿院、沢井氏 |
子 | 幸松、正頼、媛姫、中姫、将監、菊姫、 正経、摩須、石姫、風姫、亀姫、正純、 金姫、松平正容、算姫 |
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保科 正之(ほしな まさゆき)は、江戸時代前期の大名。会津松平家初代。信濃国高遠藩主、出羽国山形藩主を経て、陸奥国会津藩初代藩主。江戸幕府初代将軍徳川家康の孫、二代将軍秀忠の子にあたる。3代将軍・徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍・家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。将軍の「ご落胤」でもある。
生涯
生い立ち
慶長16年(1611年)5月7日、2代将軍・徳川秀忠の四男(庶子)として誕生。幼名は幸松。母は静(志津、後の浄光院)で、秀忠の乳母大姥局の侍女で北条氏旧臣・
近世武家社会においては、正室の体面・大奥の秩序維持のため侍妾は正室の許可が必要で、下級女中の場合にはしかるべき家の養女として出自を整える手続きが必要であったと考えられている[1]。また、庶子の出産は同様の事情で江戸城内で行なわれないことが通例であり、幸松の出産は武田信玄の次女である見性院に預け、そこで生まれた幸松は見性院に養育された。見性院は武田家御一門衆で甲斐国河内領主・穴山信君の正室であったが、天正10年(1582年)6月の本能寺の変に際して信君が横死し、さらに天正15年(1587年)に実子で穴山武田家当主となった勝千代が死去する。徳川家康は武田家臣・秋山氏の娘で家康の側室となった於都摩の方(下山殿)を生母とする五男・万千代(武田信吉)に穴山武田家の名跡を継がせると、見性院は万千代の養育にあたった。信吉は常陸国水戸の領主となるが、慶長8年(1603年)に病死し、これにより穴山武田家は断絶する。その後、見性院は家康・秀忠に庇護されて武蔵国足立郡大間木村に500石を拝領し、江戸城田安門内の比丘尼邸に居住していた。見性院は妹の信松尼と共に武蔵八王子で幸松丸の養育にあたる。
正之の出生は秀忠側近の老中・土井利勝や井上正就他、数名のみしか知らぬことであり、異母兄にあたる家光さえも当初は知らなかった[2]。また、「会津松平家譜」では武田氏に預けられたのは慶長18年(1613年頃)としている。また、正之が生まれた場所は静の姉婿に当たる神田白銀町の竹村助兵衛方であったともいわれる[3]。
元和3年(1617年)、見性院の縁で旧武田家臣の信濃国高遠藩主保科正光が預かり、正光の子として養育される。ただしこの時、正之は正光の養子に既に左源太という男子がいる、とお供の女性が茶飲み話していたのを聞いて、母にむかって「肥州(正光)には左源太という子がいるからいかぬ」と駄々をこねて母を困らせ、母の説得でようやく高遠入りしたという(『千登瀬の松』)[3]。正之は高遠城三の丸に新居を建設されて母と共に生活し、正光の家臣が守役となり、正光も在城の際には日に5、6度はご機嫌伺いをしたという[3]。正光は自らの後継者として正之を指名し、養子の左源太にも生活に不自由しないよう加増や金子を与えること、自らの存命中に秀忠と正之を父子対面させたいことを約した遺言を遺している[4]。
ちなみに、長兄の家光が正之という弟の存在を知ったのは、鷹狩りの際に家光がお忍びで5人ほどの供を連れ、目黒の成就院という寺で休憩した時の会話からだという。家光が住職に「こんな片田舎のお寺の客殿に立派な絵を描かれているが、誰の援助か?」と尋ねると、住職は「保科肥後守の母上の御援助」だと答えた。相手が将軍家光とは知らない住職は、さらに「保科肥後守殿は、今の将軍家の正しき御弟だというのに、わずかな領地しかもらえず、貧しい暮らしをしているそうで、おいたわしい。我らのような賤しき者も、兄弟は仲良くするのが人の習いであると知っている。身分の高い人というのは、ずいぶんと情けがないものだ」と話した。こうして思わぬ形で事情を知らされた家光は、後に成就院に寺領を寄進したとされる(『徳川実紀』)[5]。後に新井白石は正之を重用した家光の行為を「善政の一齣」であると記している(『藩翰譜』)。
寛永6年(1629年)6月、正之は兄の3代将軍徳川家光と初対面、また次兄徳川忠長とも対面しており、忠長からは大変気に入られて、祖父・徳川家康の遺品を忠長より与えられたとしている(『会津松平家譜』)。
寛永8年(1631年)11月、幕府より幸松に「月のかわらぬうちに出府せよ」と命令が下り、重臣5名と出府、土井利勝や井上正就同席の上、「幸松儀、肥後守信州高遠藩3万石相続仰せつけられる」と上意があり、秀忠の命で幸松は、保科肥後守正之と名を改め、21歳で世に出た。正光の跡を継ぎ高遠藩3万石の藩主となり[6][注釈 1]、正四位下・左近衛中将兼肥後守に叙任。以後、会津中将と通称される。
会津藩主
秀忠の死後、3代将軍・家光はこの謹直で有能な異母弟をことのほか可愛がった。この頃、幕閣には土井利勝や酒井忠勝・松平信綱・堀田正盛ら人材は揃っていたが、身内の相談役が欲しかったのか、家光は正式に弟を披露することはなかったが、何かの折に別格の扱いをして将軍家の弟と世に知らしめた。寛永9年(1632年)1月24日、秀忠が亡くなるが、家光は正之に「御遺物」として銀500枚を授ける。3月芝増上寺の廟建立の責任者に任命、4月には家康の17回忌のための日光東照宮へ参るのに同行させている。12月には、それまでの従五位下から従四位下に叙せられる。従四位下は10万石以上の大名に与えられるもので、いまだ3万石の大名の正之には破格の待遇だった。その後も、江戸城桜田門外に上屋敷を与え、江戸城に招いて手ずから茶を点てて振る舞う。明正天皇拝謁のため上洛の際には、供奉(ぐぶ)の先発隊に指名、正之別格を示した。正之を肉親として扱い、政務へも参加させるという家光の意思の表明だった。
寛永13年(1636年)には出羽国山形藩20万石を拝領した。この時、高遠の領民の間で「今の高遠で立てられようか、早く最上の肥後様へ」と歌われる。「どうして今の高遠でやって行けよう、早く正之様の最上(山形)藩へ移りたい」という意味で、正之の高遠での善政が忍ばれる。実際に3000人に上る高遠の領民が逃散(農民が家や土地を放棄して逃亡すること)し、正之の後を追って山形に行ってしまう。
寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱に際しては、九州諸侯の統率が取れず苦戦する幕府軍の増援として派遣が検討されたが、結局は出征することはなかった。
寛永10年(1633年)村山郡白岩領主酒井忠重に対して領民が江戸で出訴し、寛永15年(1638年)忠重は改易となる。白岩領は幕府直轄領として代官支配となったが、不満を持った領民が同年に再び一揆を起し、隣領の正之に出訴した(白岩一揆)。正之は山形に出頭した一揆関係者を全て捕縛し処刑した。この一件の始末は、高遠領民らと比べ情け容赦がないと評されるが、これは島原の乱直後に武家諸法度が改定され、一揆には情勢に合わせて越境鎮圧する規定があったことも大きく影響している[7]。
寛永20年(1643年)、陸奥国会津藩23万石と大身の大名に引き立てられる[注釈 2]。以後、正之の子孫の会津松平家が幕末まで会津藩主を務めた。
慶安4年(1651年)、家光の見舞いに来た正之に対して、家光は萌黄色の直垂と鳥帽子を与え「今後保科家は代々萌黄色の着用を許す」と告げる。家光はこの色を大いに好み、大事な儀式に際して着用していたので、他の大名は遠慮して萌黄色は用いて着ていなかった。正之にその衣装を与えることで、将軍と同格であることを周りに知らしめた。家光は死の床にある時、有力大名を呼びだし、大老酒井忠勝が将軍最後の言葉として「新しい将軍の政を身を挺して助けるように」と申し渡したが、その際に家光は寝床に横になったままであった。これに対して正之を枕頭に呼び寄せた際だけ、家光は堀田正盛に抱きかかえられながら起き上がり、自らの口で「肥後よ宗家を頼みおく(=肥後守(正之)よ、我が息子(=家綱)を頼むぞ)」と遺言した。これに感銘した正之は寛文8年(1668年)に「会津家訓十五箇条」を定めた。第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を特に固く守り、佐幕派の中心的存在として最後まで薩長軍を中心とする官軍と戦った。
寛文9年(1669年)4月27日、嫡男の正経に家督を譲り、隠居した。
寛文12年(1672年)12月18日、江戸三田の藩邸で死去した。享年63(満61歳没)。生前より吉川惟足を師に卜部家神道を学び、神式で葬られた。霊社号は土津(はにつ)霊神。生前の寛文6年(1666年)に神仏習合を排斥して領内の寺社を整理していた。生前に神として祀られる生祠建立の計画があったが、実行される前に没した。墓所は福島県耶麻郡猪苗代町見祢山にある。以後、2代・正経を除き会津藩主は神式で祀られている。延宝3年(1675年)、墓所に隣接して土津神社が建立され祭神として祀られた。
正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義からこれを固辞し、生涯保科姓を通した。松平姓と葵の紋を使用し、親藩に列されるのは、3代・正容になってからであった。
経歴
※日付=旧暦
- 1613年(慶長 18年)3月2日、見性院の下で養育される。
- 1617年(元和3年)11月14日、信濃国高遠藩主保科正光のもとに移り、養育開される。
- 1629年(寛永 6年)9月、兄の駿河府中城主、徳川忠長と初対面。
- 1631年(寛永8年)11月12日、高遠藩主として襲封。11月27日、諱を正之と名乗る。11月28日、従五位下・肥後守に叙任。
- 1632年(寛永9年)12月28日、従四位下に昇叙し、肥後守は兼任留任。
- 1634年(寛永11年)7月16日、兄将軍徳川家光に供奉して上洛し、侍従に任官。肥後守は兼任留任。
- 1636年(寛永13年)7月21日、出羽国山形20万石として移封。
- 1643年(寛永20年)7月4日、陸奥国会津若松23万石として移封。その他、会津南山5.5万石の幕領を預かる。
- 1645年(正保 2年)4月21日、左近衛権少将に転任。肥後守は兼任留任。7月14日、従四位上に昇叙し、左近衛権少将及び肥後守は留任。
- 1651年(慶安 4年)4月20日、家光最期に際し、後継将軍家綱の補佐を厳命される。
- 1653年(承応 2年)10月13日、従三位・左近衛権中将に昇叙転任。ただし、従三位昇叙は固辞。以後、会津中将の称を生じる。12月13日、正四位下に昇叙し、左近衛権中将および肥後守は留任。
- 1668年(寛文 8年)4月11日、会津家訓十五箇条を制定。
- 1669年(寛文9年)4月27日、致仕。
- 1672年(寛文12年)12月18日、卒去。
- 1864年(元治元年)3月4日、下記のような宣命により、従三位の贈位(子孫松平容保が参議任官を固辞し、代わりに先祖正之に従三位贈位を朝廷に願い許される)
- 故保科正之贈従三位宣命(土津霊神社文書)
- 天皇我詔良萬止、故正四位下行左近衞權中將源朝臣正之爾詔倍止聞食止宣布、往昔将家乃輔翼止成利氐、不懈須不愆須、國家乃善政乎遂計行比、其身者遠久罷利去利奴禮止、其名者今爾彌高志、如此餘勲乎續岐繼計爾因氐、苗裔乃世爾及比、守護乃職掌乎毛至忠爾至誠爾奉仕禮留状乃雄雄志岐乎慈給比、今既爾容保爾參議乃冠乎授給牟止所念行爾、曩祖賀遺志爾基計留乎以氐、譲利申岐、古典爾毛云留本根不揺登岐者、枝葉茂栄登者汝乃事爾有倍岐奈利、故是以昔日志毛榮級乎上給比志爾、固久不受志乎歎給比惜給比氐、今更爾從三位乃位爾贈給布、天皇我勅命乎遠聞食止宣
- (訓読文)
天皇 ()が詔 ()らまと、故正四位下行左近衛権中将源朝臣正之に詔 ()りたまへと勅命 ()を聞食 ()さへと宣 ()りたまふ、往昔 ()将家(徳川将軍家)の輔翼と成りて懈 ()らず、愆 ()はず国家 ()の善政 ()を遂げ行ひ、其の身は遠く罷 ()り去りぬれど、其の名は今に弥高 ()し、此 ()如く余す勲 ()を続 ()ぎ継 ()げるに因 ()りて、苗裔 ()の世に及び、守護の職掌 ()をも至忠 ()に至誠 ()に仕へ奉 ()れる状 ()の雄雄 ()しきを慈しみ給ひて、今既に容保に参議の冠 ()を授け給はむと所念行 ()に、曩祖 ()が遺 ()しに基 ()けるを以 ()て譲り申 ()しき、古き典 ()にも云 ()はれる本根 ()揺るがざるときは、枝葉 ()も栄ゆとは、汝 ()の事に有るべきなり、故 ()是 ()以 ()て、昔日しも栄級を上 ()げ給ひしに、固く受けざりしを歎き給ひ惜しみ給ひて、今更に従三位の位を贈り給ふ、天皇 ()が勅命 ()を遠 ()に聞食 ()さへと宣 ()る、元治元年(1864年)3月4日 - ※参考文献「東京大学史料編纂所データベース」、「会津藩家世実紀」吉川弘文館、「内閣文庫藏 諸侯年表」東京堂出版
政策
幕政
家光の死後、遺命により甥の4代将軍・家綱の輔佐役(大政参与)として幕閣の重きをなし、文治政治を推し進めた。末期養子の禁を緩和して各藩の絶家を減らし、会津藩で既に実施していた先君への殉死の禁止を幕府の制度とし、大名証人制度の廃止を政策として打ち出した。また、玉川上水を開削し、江戸市民の飲用水の安定供給に貢献した。
明暦3年(1657年)の明暦の大火後、焼け出された庶民を救済した。一方、大規模火災対策として主要道の道幅を6間(10.9m)から9間(16.4m)に拡幅した。また、火除け空き地として上野に広小路を設置し、両国橋を新設、芝と浅草に新堀を開削、神田川の拡張などに取り組み、江戸の防災性を向上させた。また、焼け落ちた江戸城天守の再建に際し、天守台は御影石により加賀藩主の前田綱紀(正之の娘婿)によって高さを6間に縮小して速やかに再築されたが、天守構造物については正之は「織田信長が岐阜城に築いたのが始まりであって、城の守りには必要ではない」として、天守は実用的な意味があまりなく単に遠くを見るだけのものであり、無駄な出費は避けるべきと主張した。幕府の金は前述の都市整備に宛がわれ、そのため江戸城天守は再建されず、以後、新井白石らにより再建が計画され図面や模型の作成も行われたこともあるが、江戸城天守台が天守を戴くことはなかった[注釈 3]。
この時代の幕閣(酒井忠勝、松平信綱、阿部忠秋など)たちも、正之の建言を受けて、幕政において400万両超の蓄財を背景にして福祉政策・災害救済対策・都市整備などに注力した。正之の死後には貨幣の改鋳などの経済政策の欠落があり、幕府は財政難へと陥っていった。5代将軍となった綱吉により荻原重秀の登用など財政の再建策が講じられた。
藩政
藩政にも力を注いだ。会津に入った寛永20年の12月、留物令によって、漆・鉛・蝋・熊皮・巣鷹・女・駒・紙の8品目の藩外持ち出しを手形の有無で制限し、一方では許可なくしては伐採できない樹木として漆木を第一に挙げる[8]など、産業の育成と振興に努めた。正保4年(1647年)、諸宿駅を定める。明暦元年(1655年)に飢饉時の貧農・窮民の救済のため社倉制を創設し、一方で産子殺しを禁止した。万治3年(1660年)には、郷頭のそれまで行われていた百姓に対する恣意的な扱いを禁じた。寛文元年(1661年)には相場米買上制を始め、寛文年間には升と秤の統一を行った。藩士に対しては寛文元年、殉死を禁じた。また朱子学を藩学として奨励、好学尚武の藩風を作り上げた。90歳以上の老人には身分を問わず、終生一人扶持(1日あたり玄米5合)を支給し、日本の年金制度の始まりとされる。
稽古堂も設け、藩士の子弟教育に尽力、後の日新館となった。
同時代の水戸藩主徳川光圀、岡山藩主池田光政と並び、江戸初期の三名君と賞されている。
『土津霊神言行録』によれば、正之は蒲生家の時代から会津藩で行われてきた松明焙や牛裂き、釜茹でなどの残酷な極刑を廃止した。正之は「役人に今後はこのような刑を行わないよう命じ、もし火刑を執行する場合は、罪人が即座に死に至るよう強火で焼くよう指示した。罪人を時間をかけて苛み殺す松明焙は嬲り殺しのようなものであり、刑をもてあそぶようなものだ。もちろん、牛裂きや釜茹でのような残虐刑も決して行わないよう命じた」とされる[9]。
一方、『家世実紀』によれば、明暦の大火直後の明暦3年2月23日、「火事の際に拾ったものを着服した者は泥棒と同罪とみなし死罪とし、落とし物を拾っている者を見たら、その場で討ち捨てても構わない。もし放火をする者がいたら、これを松明焙か火焙りにせよ」と命じた。『家世実紀』には「只今之時分に候間加様之咎人は見懲之ため日来より厳誅伐可申付旨被仰出之(今だからこそ、このような罪人は、見せしめのために、いつにもまして厳しく処罰しなければならない)」とある。状況に応じて正之が刑罰を緩和したり、一転して厳罰化を採用したのは、一説に死者十万余という甚大な被害を出した明暦の大火後の不穏な社会情勢下で、放火犯や火事場泥棒を厳罰に処さなければ社会秩序が崩壊し、幕府の統治に重大な困難を来すことを懸念したためとみられる[10]。
正之と朱子学・神道
正之は熱烈な朱子学の徒であり、それに基づく政治を行った。身分制度の固定化を確立し、幕藩体制の維持強化に努めた。山崎闇斎に強く影響を受け、神儒一致を唱えた。正之は卜部神道第55代の伝統者である[11]。
また、朱子学の徒であったがために、正之は他の学問を弾圧した。岡山藩主・池田光政は陽明学者である熊沢蕃山を招聘していたが、藩政への積極的な参画を避けた。加賀藩主・前田綱紀が朱子学以外の書物も収集していたことに苦言を呈していた。また、儒学者の山鹿素行は朱子学を批判したため赤穂藩に配流された。
系譜
- 実祖父:徳川家康
- 実父:徳川秀忠
- 実母:浄光院 - 於静、志津とも、神尾栄嘉の娘
- 養父:保科正光
- 正室:内藤政長の娘・菊姫(1619年 - 1637年)
- 長男:幸松(1634年 - 1638年) - 夭折
- 継室:聖光院(1620年 - 1691年) - 於万、藤木弘之の娘、かつては正之の異母姉・東福門院に仕えていた
- 側室:牛田氏(1623年 - 1651年)
- 三女:菊姫(1645年 - 1647年) - 夭折
- 四女:摩須(1648年 - 1666年) - 松姫、前田綱紀正室
- 側室:沢井氏
- 八女:金姫(1658年 - 1659年) - 夭折
- 側室:栄寿院(1645年 - 1720年) - 沖氏
- 六男:松平正容(1669年 - 1731年)
- 九女:算姫(1673年) - 正之の死後に誕生、夭折
於万の方(聖光院)について
正之の長女・媛姫は上杉家に嫁した後、実母・於万の方による四女・松姫(摩須)[注釈 4]の毒殺未遂事件で誤って毒を飲んで急死した、と伝わる。於万の方は、側室の産んだ摩須が自分の産んだ媛姫の嫁ぎ先より大藩の前田家に嫁ぐのが許せず、暗殺を謀ったらしい、とされる。事件後、媛姫は上杉家菩提所である林泉寺に葬られた。正之は、後の上杉家の綱勝急死の際の末期養子に関して援助している。摩須は無事に前田家に嫁した(しかし18歳で子を死産し、自身も早世した)。
会津家家訓の第4条には、婦女子について記載されているが、この説によれば、以上の事件が背景にあったものとされる。
以上の松姫毒殺未遂および媛姫誤認死亡は、お万の方が首謀者という説が現在定説になっている。その出所は会津藩の正史『会津藩家世実紀』で、本文中に「松姫の婚礼で実家へ里帰りしていた媛姫の具合が悪くなり婚礼の2日後に亡くなった」とある。その後に本文への小文字補填として、「毒が入った松姫の御膳がお付きの者の機転で取り替えられたため、媛姫がその毒入り膳を食べて死んだと伝わっている」とある。事実を述べた本文に対して、100年以上の後の編纂時にこういった噂があるといって付け加えた文が元になっている。正史の事実ではなく、後に加えられた言い伝えなのである。実際、『会津藩家世実紀』ではその後、媛姫は急病死とされ、保科家・上杉家とも一切捜査も処分もされた形跡がない。また、お万の方はその後も正之の正妻として同じ屋敷に住み、上杉、前田、稲葉家と後々まで親しく交際を続けている。正之の死後も2代藩主・正経の生母として絶大な影響力を保った。
明治以降、旧大名家へのタブーがなくなると、江戸研究家の三田村鳶魚がこういったエピソードを取り上げて発刊し、それが次第に知られて小説の元ネタになり広く知られるようになった。ただし、鳶魚は良し悪しいくつかある中、悪いエピソードのみ取り上げ、聖人といわれる保科正之が何でお万の方を寵愛したのかわからない、とお万の方を独断的に悪女と決めつけている。現在のお万の方悪女説は、こういった影響をかなり受けていると思われる。
登場作品
- 漫画
- 小説
- 映画
- テレビドラマ
脚注
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注釈
出典
- 福田千鶴『江の生涯』中公新書、2010年。
- “保科正之は江戸時代初期の会津藩主。…”. 西日本新聞ニュース (2016年4月16日). 2020年10月6日閲覧。none
- ^ a b c 長谷川 2005, p. 19.
- 長谷川 2005, p. 18.
- 長谷川 2005, p. 22.
- 長谷川 2005, p. 20.
- 義民のあしあと『白岩義民(間沢村三霊供養碑(東泉寺))』
- 『会津事始』「七木八草四壁竹本御定法事」
- 氏家幹人 『江戸時代の罪と罰』草思社、2015年、73-74頁。none
- ^ 氏家幹人 『江戸時代の罪と罰』草思社、2015年、76-78頁。
- ^ 『図説 福島県史』
伝記文献[編集]
- 相田泰三 『保科正之公傳』 保科正之公三百年祭奉賛会、1972年
- 宮崎十三八編 『保科正之のすべて』 新人物往来社、1992年 ISBN 978-4-404-01974-5
- 中村彰彦 『保科正之 ─徳川将軍家を支えた会津藩主』 中公新書1995年 ISBN 978-4-121-01227-2、中公文庫、2006年 ISBN 978-4-122-04685-6
- 中村彰彦 『保科正之言行録』 中公新書、1997年 ISBN 978-4-121-01344-6、中公文庫、2008年 ISBN 978-4-122-05028-0
- 中村彰彦 『慈悲の名君 保科正之』 角川学芸出版[角川選書]、2010年 ISBN 978-4-047-03458-7
- 中村彰彦 『保科正之 民を救った天下の副将軍』 洋泉社歴史新書、2012年 ISBN 978-4-8003-0034-8
参考文献[編集]
明暦の大火から江戸を復興させた名君・保科正之~今日の震災復興にも教訓~
皆さんは保科正之という大名をご存知だろうか。明暦の大火で江戸の大半が焼け尽くされるという、徳川幕府始まって以来の危機を乗り切ったリーダーだが、そのわりに知名度は低い。だが保科正之の業績は、今日の震災復興のあり方や政治のリーダーシップを考える上で、貴重な教訓を我々に残してくれている。
数奇な運命をたどった将軍の隠し子
まず保科正之という人物について紹介しよう。実に数奇な運命をたどった人である。父親は2代将軍・徳川秀忠。秀忠は大奥に勤めていたお静(お志津とも書く)を気に入り、男の子が生まれた。幸松と名づけられたその子こそ、後の保科正之である。しかしその誕生は公にされず、ひそかに育てられた。なぜそのような扱いになったのかというと、秀忠の正室、今年のNHK大河ドラマの主人公・お江の方の存在だ。お江の方は嫉妬深く、恐妻家だったため、秀忠は生涯にわたって側室を持たなかったといわれるほどだ。そのためお静と幸松の存在は秘密にされ、そのことを知っているのは、秀忠のごくわずかな側近だけだったという。
幸松は生まれてしばらくの間は、お静が江戸・神田の実家で育てていたが、お江の方の詮索から逃れるため、見性院という尼僧に預けられた。この見性院という女性は武田信玄の娘で、信玄のいとこ・穴山梅雪に嫁いでいた人だ。その穴山梅雪は武田家滅亡後、徳川家康に仕え、本能寺の変が起きた時は家康と一緒に堺にいた。家康一行は堺から伊賀を越えて三河に逃げ帰ることが出来たが、その途中の伊賀で梅雪は土民に襲われて命を落としたのだった。こうしたことから家康は、未亡人となった見性院を庇護し、後を継いだ秀忠も見性院を江戸城内に住まわせて生涯大事に扱った。そういう人に幸松を預ければ安心だったのだろう。
見性院の下で幸松はすくすくと育ったが、見性院は幸松の将来のためには、しかるべき大名家に養子に出したほうが良いと判断するようになった。そこで、武勇に優れ人格者として評判の高かった信州高遠2万5千石の藩主、保科正光に白羽の矢を立てたのだった。保科家はもともと武田家の重臣の家柄だったので、見性院にとっては信頼できる相手でもあったのだろう。幸松は7歳のとき、こうして保科家の養子になったのだった。そして保科家で順調に成長し、21歳で高遠藩主に就任し、正之と名乗った。
信州高遠藩主から会津藩主へ、そして幕府のナンバーツーに
だが、それでも実父・秀忠との親子の対面はかなわないまま(将軍と大名としての顔合わせの機会はあったようだが)、秀忠は死去し、家光が3代将軍に就任した。家光から見れば、保科正之は異母弟になるが、最初は異母弟の存在を知らなかった。だがふとしたきっかけでそれを知り、それ以来、家光は正之を大いに信頼し、幕政にも参画させるようになった。そして信州高遠から山形20万石へ、さらに会津23万石へと”出世”させていった。正之が藩主となった会津藩はこの後、幕末まで続くことになる。
家光が正之を厚遇したのは、弟だからというだけではなかった。家光は同母弟の忠長を切腹させており、むしろ弟は警戒すべき存在でもあったのだ。したがってそこは正之の人柄や能力を評価したものと解釈できるだろう。やがて1651年、死の床に伏した家光は正之を枕元に呼び「幼い家綱を頼む」と言い残した。跡継ぎの家綱はまだ11歳。正之をその後見人にして徳川政権の安定を託したのだった。
徳川幕藩体制を完成させた家光の死は、実は徳川幕府始まって以来の最大の危機だった。家康、秀忠、家光の3代にわたって多くの大名を取り潰した結果、大量の浪人が発生し社会不安が高まっていた。こうした不満を背景に、家光死去という時期を狙って幕府転覆を図ろうという由井正雪の乱が起きたのだ。幕府はこれを未然に防いだが、事件の背景となった浪人問題の解決が課題に浮上した。4代将軍となった家綱の後見人として幕政のナンバーツーとなった保科正之は、大名政策の転換に踏み切った。これまでは跡継ぎがいない大名は取り潰してきたが、末期養子(死の直前に養子を決めること)を認めて大名の取り潰しを減らした。浪人の増加に歯止めをかけ、社会の安定を図ろうというものだった。武断政治から文治政治への転換である。このほか、それまで大名の妻子だけでなくその重臣の妻子も人質として江戸に住まわせていたが、重臣から人質をとることを廃止した。殉死を禁止したのも正之だ。
明暦の大火で江戸城も焼失
正之はこうして徳川幕府最大の危機を乗り切った。これは政治的な危機だったが、次に起きたのが未曾有の災害という危機だった。明暦の大火(振袖火事)だ。1657年(明暦3年)1月18日、本郷から出火し瞬く間に江戸中に広がった火事は二昼夜におよび、江戸の大部分を焼失した。焼失した大名屋敷は500軒、旗本屋敷770軒、町屋400町余りにおよび、死者は10万人以上に達したという。江戸城も天守閣をはじめ本丸、二の丸、三の丸が焼け落ち、無事だったのは西の丸だけだった。将軍も本丸から西の丸に避難を余儀なくされ、一時は城外への避難が検討されたほどだ。
この対応に陣頭指揮を執ったのが正之。西の丸に避難した将軍の前で右往左往する幕閣の中にあって、正之は城外避難との意見をしりぞけ、「西の丸が焼け落ちたら、屋敷の焼け跡に陣屋を立てればよい」として将軍を江戸城にとどまらせた。有事の際にトップがとるべき姿勢を示したと言える。
被災者救援にも力を尽くした。まず粥の炊き出し。江戸の6カ所で、一日千表の炊き出しが7日間行われ、さらに延長された。同時に、家を焼け出された江戸町民に救助金として16万両を支給することにした。幕閣の間からは「それではご金蔵がカラになってしまう」と反対する声が上がったが、正之は「幕府の貯蓄はこういう時に使って民衆を安堵させるためのもの。いま使わなければ、貯蓄がないのと同然だ」と一喝したという。
被災者救援と並行して取り組んだのが、物価の安定だった。江戸中が焼け野原になってモノがない状態では物価が高騰しやすい。特にコメの価格は要注意だ。そこで、正之は米価の上限を決めるとともに、コメの確保を急いだ。さらに正之は一つの”奇策”を打ち出す。参勤交代で江戸にいる諸大名に帰国命令を出し、国許にいる大名には参勤交代で江戸に来る必要なしと通知したのだ。参勤交代で江戸にやってくる各藩の家臣の数を合わせると膨大な人数にのぼる。それを減らすことによって、コメの需給を緩和し値上がりに歯止めをかけようとしたのだった。普通なら、江戸が一大事だから大名がこぞって江戸に駆けつける
ことが幕府への忠義と考えそうなところだが、正之の考えは逆だった。既存の常識にとらわれない柔軟な発想と、幕府の権威よりも被災者と民衆の生活安定を優先させるという明確な理念があったのである。
防災に強い江戸の町づくり~復興のために優先順位を明確化
そして次の課題が江戸の復興。正之は江戸を防災に強い都市に改造する方針を打ち出した。主要道路の道幅を拡幅するとともに、各地に火除けのための空き地や広小路を作った。今も地名に残る上野広小路は、この時に作られたものだ。神田川を拡幅し、隅田川には初めて両国橋がかけられた。また江戸城内にあった徳川御三家の屋敷を城外に出すとともに、江戸城周辺にあった大名・旗本屋敷をその外側に移転させ、寺社を江戸の郊外に移転させるなどした。これによって江戸の市街地は拡大し、その後の江戸の発展の基礎を作った。
ここで浮上したのが、江戸城の再建問題だ。前述のように、江戸城は西の丸以外はすべて焼失してしまったため、本丸や二の丸、三の丸が再建された。だが天守閣はついに再建されなかった。これは正之が反対したからだ。その理由は、天守閣は城の守りに必要というよりも遠くを見るだけのものなっており、このような時に天守閣の再建にカネを費やすべきでないというものだ。「庶民の迷惑になる」とまで言ったという記録が残っている。江戸城の天守閣は徳川の権力と権威の象徴であり、当時の常識ならその再建は最優先課題だったといってもおかしくない。正之はそれを否定したのである。まさに、国難に直面し、優先順位を明確にして復興に取り組んだのだった。ちなみに、江戸城の天守閣はその後も再建されることはなく、明治維新を迎えることになる。現在の皇居東外苑の一角には天守閣の土台となる天守台が残っている。
こうしてみてくると、保科正之は幕府の権威や既存の常識よりも、江戸の復興と民生の安定を何よりも優先し、そのために限られた財源を効果的に使うことに心を砕いていたことがよく分かる。その方針は常に明確でブレがなく、リーダーシップを発揮して老中など幕閣をまとめている。こうした正之の業績は今日の震災復興においても大いに参考になるし、もっと注目されていいリーダーだと思う。
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