邪馬台国P
https://www.j-real.com/ta-san/yamatai/yamap.html
前回迄数回に亙って銅鏡に関するお話をしてきました。邪馬台国問題に関して、魏志倭人伝と考古学を結び付けるテーマとしては、その他に真珠、五尺の刀、金八両等が有ります。しかし特に特徴的な記述もありませんので、前述したごとく副葬品として出土した時、補助的な意味で価値があるものと思われます。残る最後のテーマは地図問題です。
倭国の地図は存在するのか
結論から言えば、中国に当時の倭を表現した地図は現在のところ発見されておりません。しかしながらそれは現時点と言うレベルであって、当然の事ながら、存在しないとは断言は出来ません。たとえば皆さん意外に思われるかもしれませんが、三国時代の魏の皇帝のお墓の存在すら未だ明確になっていないのですから。(2009/12発見のニュースあり) 更に現在の中国では、発掘したものをきちんと保存できる体制が出来るまでは、無理をして急いで発掘をしない方針のようです。- したがって、もし発見されれば、位置論争の決定打になることは間違い有りません。もし邪馬台国が地図で表現されていれば、既に判明している国との対比で邪馬台国を特定できるでしょう。残念ながら未だ発見されていませんし、同時に存在するとは限りませんが・・。
しかしここに参考となる地図が存在しています。 掲載した地図は『混一彊理歴代国都図』(こんいちきょうれきだいこくとのず 、と読む)といわれる地図です。
この地図は今からおよそ600年ほど前の『元の時代の西暦1402年』に朝鮮で作られた古い地図に、日本の行基図という日本最古の地図(西暦805年と言われている)を組み込んだものと言われています。邪馬台国に多少の興味を持っておられる方々にとっては、既にご存知の有名な地図ですが、入門編と言うことで敢えて掲載しました。
この地図を見る限り、右下に表示されている島が日本国であり、しかもそれは九州を北に、南に長く伸びた形をしています。またその位置は丁度、中国の海南島の東に位置し、魏志倭人伝の記述と方向、相対的な位置が不思議なほど一致しています。行基図がある程度正しい方角で表現されてたとすれば、組み込む時、何故このような方角に組み込まれたのか不思議と言えば不思議です。とに角このような地図が存在していることは事実です。
この地図は畿内説の方々にとっては、『15世紀初頭時点ですらこのような智識であったようだとすればそれより1100年も前の時点で、正確な方位を認識しているはずが無い 』として畿内説の有力な証拠として取上げています。すなわち『南邪馬台国』はこの地図のごときイメージで書かれたものであり、実体としては東の方向であったのである、としています。
一方九州説の方々は、『 1100年以上のギャップが有り、この地図によって三世紀の智識を推測することに意味が無い』、『 蒙古の襲来(1274年・1281年)や、それ以前の中国との貿易がこのような地図認識で行われたはずが無い 』等相変わらずの論争をしているようです。只、冷静にみて、確かに畿内説に対して説得力を持つような気もしますが、皆さんいかがでしょうか?。
7世紀以降、遣随使、遣唐使、対宋貿易等沢山の交流があった訳ですから、当時の地図が中国に存在していてもおかしくないと思いますが、それが無いのも不思議です。
結局、考古学上からも、参考になるいくつかの要素は存在しますが、現時点において決定打となっていません。しかし考古学の進歩と相俟って近い将来すばらしい決定打が出るかもしれません。また期待をしているところです。以上で考古学上からの観点に関する入門編を終わります。
さて次回以降は、古事記、日本書紀等で言われている日本の成り立ちと、魏志倭人伝の類似点、相違点から邪馬台国を推測する分野の専門家の考え方をお話します。今宵はこの辺で・・
行基図
行基図(ぎょうきず)とは、古式の日本地図。奈良時代の僧侶・行基が作ったとする説があるが、当時作成されたものは現存しておらず、真偽は不明。但しこの図が後々まで日本地図の原型として用いられ、江戸時代中期に長久保赤水や伊能忠敬が現われる以前の日本地図は、この行基図を元にしていたとされる。こうした日本地図を一括して「行基図」、「行基式日本図」、「行基海道図」と呼ぶ場合がある。
作成年代による違いはあるが、基本的には平安京(京都)のある山城国を中心として、諸国を俵あるいは卵状(主に楕円または円)に表し、これを連ねることで日本列島の大まかな輪郭を形成している。また、平安京から五畿七道の街道が伸ばされて全ての国と繋げられている。地図によっては国の郡の数や田の面積などを記しているものもある。
行基の地図作成伝説
現存する「行基図」には“行基菩薩”作と記されているものが多いが、六国史や仏教史書では行基による地図作成については触れていない。また、最古の「行基図」は、延暦24年(805年)に下鴨神社に納められたものであるとされているが、現存しているものは江戸時代の書写であり、内容も明らかに延暦年間当時の状況の反映でない(延暦期にはなかった加賀国が記載されている)。
そもそも行基が生きていた時代の「行基図」が実在するならば、都は大和国平城京(数年の例外はあっても)にあったのだから、大和国を中心とした地図の筈であるが、こうした地図は見つかってはいない。このため、本当に行基が地図を作ったのかを疑問視し、「後世の人々が作者を行基に仮託したのが伝説化したものではないか」とする見方もある。
なお、中世に成立した『渓嵐拾葉集』に引用された『行基菩薩記』には、「行基が全国を回ったことで諸国の境界が定まって開墾が進み、行基がその結果を図にして日本を独鈷の形で描いたことで仏法が栄えた」とする伝承を載せている[1]。
中世における行基図
前述のように最古の行基図とされているのは、延暦24年作成と伝えられているが、原図は既になく、現在伝わるものは江戸時代の有職故実研究家藤貞幹(藤井・藤原とも、1732年-1797年)の写しのものであり、かつ延暦24年の実情と不一致の加筆が見られる(これが藤貞幹によるものか、それ以前からのものなのかは不詳)。
大治3年(1128年)に三善為康が書いたものを原典として鎌倉時代にまとめられたとされる『二中歴』や南北朝時代に洞院公賢により書かれたとされる『拾芥抄』にも行基図が添付されているが、書かれた当時のものは残っておらず、現存のものは室町時代以後のものである。
現存しかつ最古のものは鎌倉時代の嘉元3年(1305年)の銘がある京都仁和寺所蔵の『日本図』でありこちらは西日本の部分が欠けている[2]。また同時期に他の所有者の地図から転写されたと推定されている称名寺所蔵(神奈川県金沢文庫保管)のものであるがこちらは東日本の部分が欠けている[3][4]。両者は大きく違い別系統に属すると考えられ、前者は典型的な行基図の体裁であるが、後者は元寇以後の軍事的緊迫下にある鎌倉近郊で用いられた事情を反映したものか、日本列島は龍らしき生物に囲まれてその外側に唐土・蒙古などの海外の国々や雁道・羅刹国などの空想上の国々が描かれている。
東日本および西日本が揃っているもので最古のものは14世紀半ば作と見られる『日本扶桑国之図』(にほんふそうこくのず)があり、2018年(平成30年)6月16日に広島県立歴史博物館が公表したものである[4]。
戦国時代の弘治3年(1557年)に描かれたとされる『南贍部洲大日本国正統図』(伝香寺旧蔵、現唐招提寺所蔵)は、日本地図の周辺の外枠に郡名などの情報が記載されている。この図あるいは同一スタイルの地図が江戸時代の行基図の基本となっていく。また、この時代には屏風絵の背景などにも行基図が採用された。安土桃山時代の作とされる福井県小浜市発心寺の屏風絵などがその代表作である。
なお、室町時代以後に行基図が朝鮮半島や中国、遠くヨーロッパまでも伝わって、日本地図を描く時の材料にされたといわれている(『海東諸国記』・『日本一鑑』など)。
江戸時代の行基図
江戸時代に入ると、印刷技術の発達により大量印刷された行基図が登場する。その殆どが『拾芥抄』あるいは『南贍部洲大日本国正統図』の系統をひく地図だが、社会の安定に伴う交通の発達で、より実際の日本地図に近い地形が描かれるようになった。慶安・承応・明暦年間に刊行された行基図が現在も残されている。
だが『正保日本図』刊行以後、交通手段や測量技術の発達などにより、より緻密な日本地図が作成・刊行されるようになり、行基図は実用利用・商業出版の場からは姿を消していった。
もっとも教育・芸術分野では、行基図が後々までに使われてきた。文政年間の九谷焼や天保年間の伊万里焼などに描かれた行基図付の「地図皿」は日本国外にも輸出された。
脚注
- 飯田剛彦「古代の地図」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 3 遺跡と技術』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01730-5 P342
- 角田清美 (2006-03-16). “京都仁和寺と輝津館所蔵の「日本図」”. 専修人文論集 78: 227-228. doi:10.34360/00002543.none
- ^ “国内最古級、欠損のない日本地図発見 北海道除く全国描く、室町時代作か”. 産経新聞社 (2018年6月15日). 2018年6月15日閲覧。
- ^ a b “国内最古級、欠損のない日本地図発見 北海道除く全国描く、室町時代作か” (日本語). 産経ニュース (2018年6月15日). 2018年12月18日閲覧。
参考文献[編集]
- 秋岡武次郎『日本地図史』(河出書房、1955年/〔復刻版〕ミュージアム図書、1997年) ISBN 4944113234
- 長久保光明『地図史通論 談義と論評』(暁印書館、1992年) ISBN 487015093X
- 織田武雄「行基図雑考」『古地図の博物誌』古今書院、1999年所収。
外部リンク[編集]
- 行基図 - ジャパンサーチ
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阿蘇谷のベンガラは かつて火口湖の時代に形成された大量に鉄分を含む「阿蘇黄土」とよばれる渇鉄鉱. このベンガラの郷 阿蘇谷に弥生の後期 大量に鉄を集積した集落が ...
2010/11/5 -阿蘇谷のベンガラは かつて火口湖の時代に形成された大量に鉄分を含む「阿蘇黄土」とよばれる渇鉄鉱. このベンガラの郷 阿蘇谷に弥生の後期 大量に鉄 ...
https://infokkkna.com/ironroad/2012htm/iron8/1212asodani.pdf
189頁
ゴッサカイトと同時代
2002/12/10 -阿蘇町の弥生時代遺跡からは、権力の象徴とされる青銅器が出土しており、当時の繁栄はベンガラと鉄によるのではないかと推測されている。
周辺の古墳から大量のベンガラが出土したことから、古代の人々が阿蘇黄土を焼いたベンガラを利用していたと考えられています。また、古い時代にはベンガラを「丹」と ...
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2021/3/18 -古墳時代の4世紀後半から少しずつ造られるようになり、横穴式石室が盛んに ... 例えば、赤色は鉄分を多く含む阿蘇黄土を焼いた“ベンガラ"、黒色は粉末 ...
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翰苑
翰苑(かんえん)とは、唐の時代に張楚金によって書かれた類書。後に雍公叡が注を付けた。現在は日本の太宰府天満宮に第30巻及び叙文のみが残る。
概要
660年以前に対句練習用の幼学書として書かれたとされている。注にはその出典が細かく載せられている。現存の第30巻は蕃夷部であり、匈奴・烏桓・鮮卑・倭国・西域などの15の子目に分けられている。ほとんどが失われてしまったために巻数については諸説あり、『旧唐書』張道源(著者の祖先)伝には30巻、『新唐書』芸文志には7巻と20巻の2説が併記され、『宋史』芸文志には11巻とされているが、内藤湖南によって30巻であることが明らかにされた。
日本では『日本国見在書目録』に30巻とし、また滋野貞主『秘府略』(9世紀)、『香薬抄』(平安末期)などに『翰苑』からの引用が見える。その後は失われていたが、1917年の太宰府天満宮宝物調査の際に黒板勝美によって再発見された[1]。
太宰府天満宮所蔵写本は、内藤湖南の解説をつけて1922年に京都大学から影印出版された[2]。1954年に国宝に指定された。1977年に、菅原道真の1075年忌事業として、竹内理三による釈文・訓読文が付けられて刊行された。
現存の写本は誤字や脱文が非常に多く読みにくいものだが、現存しない文献を多数引用し、また現存する文献であっても本文が異なっていることが多いために貴重である。日本関係では特に魚豢『魏略』を多く引くことで知られる。
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