2023年1月29日日曜日

矢野遺跡~八倉比売神社


八百萬神のカグラは、「嘘」と表記、葬儀であることを示している。

銅板葺以前の大屋根瓦は、一対の麓の浮彫が鮮かに踊り、水の女神との習合を示

していた。古代学者折口信夫は天照大神を三種にわけて論じ、 「阿波における天照大

仲」は、「水の女神に属する」として、「もっとも威力ある神霊」を示唆しているが

余りにも知られていない。

当社より下付する神符には、「付せ八倉比賣神宮」と明記。

銀座の年代は、洋かではないが、安永二年三月(一七七三)の古文書の「気延山々頂よ

杉尾山に鎮座してより二千百五年を経ぬ」の記録から逆算すれば、西暦三三

八年となり、四世紀初の古墳発生期にあたる。 しかも、伝承した年代が安永二年より

以前であると仮定すれば、鎮座年代は、さらに古くさかのぼると考えられる。


矢野神山 奉納古歌

矢野の神山ににほひそめたり巻く惜しも

柿本人麿(萬葉集収録)


当社は、 正一位杉尾大明神、天石門別八倉比賣神社等と史書に見えるが、本殿には

出雲宿称千葉の護舎になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の額が秘蔵され、さ

神符と合せて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。

古代阿波の地形を復元すると鳴門市より大きく磯が和田、早渕の辺まで、輪に入り

くんだ湾の奥に当社は位置する。

天照大神のイミナを撞賢木厳御魂天疎日向津比賣と申し上げるのも決して偶然では

なお本殿より西北五丁余に五角の天乃真名井がある。 元文年間(一七三六一四)まで

十二段の神田の泉であった。現在大泉神として祀っている。

当祭神が、日本中の大典であったことは阿波国徴古雑抄の古文書が証する。 延久二

年(一〇七〇) 六月廿八日の太政官符で、八倉比賣神の「祈年月次祭は邦国之大典也。

を怠った阿波国司をきびしく叱っているのを見ても、神威の並々でないこ

され、日本一社矢野神山の実感が迫ってくるのである。


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